31 海底温泉
春の陽だまりの中で昼寝をしているような夢心地だった。見渡す限りが草原で春を彩る花々が咲いている。そしてその草原の真ん中には1本の木が生えていて、俺はその木の木陰で、両手を枕にして昼寝をしている。優しく風が吹き、葉の掠れる音や花が揺れる音がまるで子守歌のようだ。そして、遙か遠くの方には、うっすらと見える塔。あぁ……。あそこに俺を呼んでいる人がいるのだろう。
その塔から、微かにだがはっきりとした声が風に乗って俺の所まで運ばれてくる。
「目覚めて…… お願い……」祈るような声だ。切実な声だ。
呼ばれている…… 起きなきゃ……。俺は、重たい瞼を開けた。
ん? ここは何処だ? 白い湯気に覆われた世界だった。
中々合わない目の焦点に戸惑っていると、俺の右肩に何かが飛び込んできた。
「デジレさん! デジレさん! 目覚めてくれてありがとうございます!」
この声は、エインセールの声だ。そして、目の焦点が合い、周りの景色が見え始める。俺の右肩で泣いているのは間違い無くエインセールだ。鳴き声が右耳から頭に響く……。
「エインセール。ここは? あっ! あの化け物はどうなった?」と、俺はフラッシュバックするように戻って来た記憶とともに体を起こした。
「ここは安全よ。落ち着いて。まだ、体は完治していないわ。それに、あなたは三日三晩、意識がなかったのよ」という声が白い靄の中から聞こえる。
目を凝らすと、そこにいたのはベアトリクスさんだった。
「ひとまずは、危機を乗り越えたということは言えると思うの……。まずは、情報を擦り合わせましょう。ルーティアを呼ぶわ」と、ベアトリクスさんは言って、側で控えていた人魚に指示を出した。
俺の記憶では、あの化け物を倒したという記憶は無い。むしろ、殺される寸前だったはずだ……。どうして俺は助かったのだろうか……。シーラカンスさんが傷を負ったベアトリクスさんとエインセールを連れて逃げて……
「あ! ベアトリクスさん! 背中の怪我は大丈夫ですか?」と、俺は思い出して慌てて言う。
「私は大分回復したわ。どちらかと言うと、デジレさんの方が重傷だったのだけど……」とベアトリクスさんは心配そうに言う。
「俺も何とか大丈夫です」と、俺は自分が回復していることを証明するために立ち上がろうとする。まだ、体の節々が痛いし、体が鈍ったような感じであるがなんとか立ち上がることが出来た。
「……」
「……」
立ち上がった俺を見て、なぜか氷のように固まるベアトリクスさんとエインセール……。
二人の視線の先を追って、俺は自分のヘソの少し下を眺め…… 俺は慌てて膝を折ってしゃがんだ。
「ご、ごめんなさい。たぶん、寝起きだったからなんです!」と俺は訳の分からない説明が口から出る。
「あ、いえ。ごめんなさい。えっと、説明をするとね。ここは、海に住む者達が傷を負った際に癒やしにくる海底の温泉で……。その、デジレさんも傷を負っていたから、ここに運ばれて……。それで、私も傷を負っているから、一緒に入っていたの……。と、とにかく、元気そうでよかったわ!」とベアトリクスさんは斜め上の方向に視線をやりながらそう言った。
「し、失礼しました……」と俺も言う。
そして沈黙が周りを支配する。俺を含めて、エインセールも、ベアトリクスさんも気まずそうだった。
冷静に当たりを見回してみると、自分の胸から下の水は白く濁っていて、周りの海水とは違った水質のように思える。これが、ベアトリクスさんの言う温泉なのだろう。そう考えて見ると、その白く濁った水は海水よりも温かいように思える。海の中で、別の水に入っているというのも変な感じはするが、明らかに水質や温度が違うし、そういうものなのだと思う。
エインセールは、俺の右肩で、宙を見ながら独り言をずっと繰り返している。
「オズヴァルトさんは、世界の始まりを教えてくれました。世界で最初の女はその夫に言いました。『私の体は良く出来ているが、足りない所が一所あります』と。すると、世界で最初の男は女に尋ねました『私の体も良く出来ているが、余ったところが一所ある。それでは、私の体の余った所をお前の体の足りないところに刺し入れ、塞いで、国を生みたいと思う。どうだろうか』と。女は『それがいいわ』と答えました…………」
どうやらエインセールはこの世界の始まりのおとぎ話でも思い出しているのだろう。俺が聞いたことがない話だった。
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暫くした後、ルーティアさんが慌ててやって来た。
「意識を取り戻してくれてよかった……。私…… 心配で泡になりそうだった……」と。
「ルーティア。感傷はひとまず置いておいて、まずは情報の整理が先決よ。あなたも三日三晩、働き詰めで疲れたでしょ? あなたも温泉に入りながら、情報交換をして今後の対策をしましょう」とベアトリクスさんが、涙を溜めているルーティアさんに言う。
しっかりした姉であるベアトリクスさんが、妹とであり姫であるルーティアを常日頃から献身的に支えているということが分かるやり取りのように俺は思った。
「そうね……。わかったわ。姉さん」と、ルーティアさんは俺に背中を向けた。そして、自らの後ろに手を回し、胸当てが結ばれていた紐を解く。そして、さらりと胸当てが重力にしたがって下へと落ちていく。ルーティアさんは、温泉に浸かろうとして、体の正面を温泉の方向へ、即ち、俺の視界の中に体の正面を向けるべく彼女の肩が回っていく……。俺は、目を閉じて見るべきではないと分かっていながら、戦いの疲れのせいか目蓋が思ったように動かないで、見開いた両目を閉じることができない……
「何を凝視しているんですか?」と言いながら、エインセールが俺を目隠した。
エインセールの目隠しが解かれると、しっかりと温泉に浸かったルーティアさんの姿があった。
「では、はじめましょう。まず、デジレさんから状況を話して貰えませんか?」と、ベアトリクスさん言う。
「そ、そうですね。えっと、今、俺の前には、豊穣の村ルチコル村で収穫されたような大きなメロンが4つ、目の前に浮いています」と俺は今の状況を出来るだけ正確に報告した。
「えっと……? あの、今の状況じゃなくて……。ごめんなさい。言葉足らずだったわ……。シーラカンスが、エインセールちゃんや意識のない私をヴァングロットの穴から救出した後の状況を話して貰えるとありがたいわ」と、ベアトリクスさんが言う。エインセールは、完全に不機嫌そうな顔をしていた。
「あ、そうですね。失礼しました。えっと……」と、俺は、ヴァングロットの穴での出来事を出来るだけ憶えている限り、正確に話をした。
話中のエインセールの独り言は『古事記』からの出典です。




