29 世界の底とハードボイルド・シーラカンス
「どうやらお困りのようだな」と先ほど会ったシーラカンスが言う。口に咥えている煙草は、どういう仕組みか知らないけれど、火が付いていて煙りが棚引いている。俺は、戦いの最中だというのに、シーラカンスの仏頂面に一瞬思考が停止してしまった。
「ピンチの時に麗しき乙女を助けるのがハードボイルドの神髄だ。デジレとか言ったな。ベアトリクスさんは俺が助け出すぜ?」とシーラカンスが言う。
「頼む!」とだけ言って、俺は足を前に踏み出す。化け物との間合いを詰めて、化け物を接近戦に持ち込む。
「ベアトリクス嬢を宮殿に運ぶ。そして、ルーティア様に事情を話し、援軍を俺は呼んでくるぜ。残念ながら、お前も一緒に運ぶのは無理だ。悪いな、レディーファーストだ」とシーラカンスは言う。
「彼女は背中に怪我をしている。早く治療してやってくれ」と、化け物の攻撃をギリギリで躱しながら俺は言う。反撃として剣で化け物の手を攻撃するが、やはりかすり傷1つ付けることができない。むしろ、剣にヌルヌルが付着して、切れ味がどんどん悪くなっていっているような気さえする。
「デジレさん、私は残ります!」とエインセールは言うが、「ダメだ。シーラカンスさん、エインセールもお願いします」と俺は強い口調で言う。はっきり言って、エインセールが太刀打ちできる相手ではない。もちろん、俺が太刀打ちできる相手でもないことは明白なのだけど……。
「麗しき姫様を助けるのがハードボイルドだ。最初からそのつもりだ」とシーラカンスは言って、煙草を吐き捨て、代わりにエインセールを口で挟む。そして、器用にベアトリクスさんを背中に乗せた。
「デジレさん、死なないでください! サンクチュアリ!」とエインセールは俺に、自動回復の魔法を掛けてくれた。ありがたい!
「それじゃあな。援軍を連れて戻ってくる。だが、時間はかかる。それまで死ぬなよ。また会おう」とシーラカンスは言って、ヴァングロットの穴の垂直な岩壁を平行移動するように穴の出口へと高速で向かって行った。
逃がすまいと手を4本伸ばした怪物の手を上手くすり抜け、シーラカンスはどんどん上昇していく。無事に逃げることができただろう。
俺は、「アビューズ」のスキルを唱えて、化け物の注意が俺に向くようにした。俺の頭に、親父の言葉が思い起こされた。『良い兵士というのは、敵を沢山殺す兵士のことじゃない。どんな状況でも生き残ることが出来る兵士が良い兵士なんだ』と。
俺には、会わなきゃならない人がいる。それは、俺を呼んでくれている人だ。その人に会うまで、俺は死ぬわけには行かない。いや、俺は死にたくない。
そして、俺は、言葉が分かるはずも無い化け物に、剣先を向けて言った。
「お前は、鬼ごっこを知っているか?」と。
当然、俺の問いの答えなど返ってはこない。化け物は、俺に向かって8本の手を四方八方から鞭のように俺に向かって振りかざそうとしている。
俺は、剣を鞘に収め、回避に徹する。鬼ごっこの範囲は、このヴァングロットの穴の底。遊び場としては上等だ。俺と、暴君グラゴーネとの鬼ごっこが始まった。




