25 ヴァングロットの穴
「この大穴がヴァングロットの穴よ」と、巨大な円形な縦穴の崖淵でベアトリクスさんが言う。陸地で考えられないような地形だった。海溝のように断絶した溝が有るというわけではなく、真円に近い大穴が海にぽっかりと空いている。想像を絶するような巨人が、ドリルか何かで海底を掘り進めたように思える。ぼんやりと見える反対側まで、どれほどの距離があるのだろうか。陸の遠近感と海の中での遠近感では違いがずいぶんとあるからはっきりとしたことは言えないけれど、ずいぶんと距離があるように思える。
「さあ、降りていきましょう」とベアトリクスさんが言う。穴の底は、海に降り注ぐ太陽すらも届かないほど深い穴なのだろう。この世界でもっとも太陽から遠い場所にあるのかも知れない。地上の暗闇よりも遙かに深い闇があるような気がする。そして、ヴァングロットの穴から吹き出る冷たい海流は、異常なほど冷たかった。
俺達は、ヴァングロットの穴を、魔物を倒しながら下へ下へと降りていく。降りた分だけ、また登らなきゃならないと思うと、気が滅入るがかまわずに俺達は穴の底へと降りていく。
「こんな魔物は見たことないわ。それにこの量。本当に何かがおかしいわ」と、ベアトリクスさんが魔物との戦闘後に口を開いた。
「そうなのですか……。俺は、海の奥底に生息する魔物なんて見たことがないので……。正直、どれも奇妙な姿形をしているように思えます」と俺は答えた。
普段目にするような魔物とはまったく異なった形をした異形。昼においても日が差さないこのヴァングロットの穴で生活しているためか、その生き物の瞳は白く濁っている。恐らく、光が無い世界で長く生きすぎたため、目の機能が失われたのかもしれない。陸でも、洞窟の中を流れる川に生息している魚なんかは、目が退化していた。
「私達を襲ってこない動物は魔物ではなくて、もともとこのヴァングロットの穴に生息していた生物よ。深海の水圧に耐えることができるほど丈夫なのよ。逆に、水圧が低いところでは生きられないから、穴の外へと逃げ出せないの。寒さを我慢しながら生活していて可哀そう……。それに、話をすると、暗い海の底にいるとは思えないほど面白い奴らなのよ?」とベアトリクスさんが言う。
熱帯魚と戯れるベアトリクスさんはとても幻想的なように思えるけど、白目を剥いた尾ひれが複数あるような奇妙な魚と戯れているのは悪夢を見ているような感じだ。
「おい、俺はシーラカンスってんだ。お前は、ベアトリクス嬢の何なんだ?」と、ベアトリクスの周りに集まっていた魚たちの一匹が声をかけてきた。
「あわわわわ!」と、エインセールは魚の姿形に驚いて俺の背中に隠れた。
「俺は…… デジレ。この穴を調査しに来たんだ」と俺は答える。濁っていて、見えているか見えていないのか分からない目で、凄まれるとなんとなく迫力があるように感じる。
「そうだったのか。最近はこの海、寒くてかなわん。それに、海水の温度変化のせいでこの周辺の海流にも変化が起きている。しっかり調査を頼むぜ……。それに…… これだけは言っておくが、ベアトリクスちゃんは俺たち深海魚の太陽だ。手を出すんじゃねぇぞ。じゃあな」と、シーラカンスさんは言うだけ言って、穴の反対側へと泳いでいった。
「なんかシーラカンスがごめんね。良い奴なんだけどね……。最近、ハードボイルドな深海魚を目指してみるみたいなの」とベアトリクスさんが気まずそうに言う。
なるほど……。だから、魚のくせにしわくちゃになったタバコを口に咥えていたのか……。変った魚だ……。
・
魔物と何度も遭遇しながらも、俺たちは、何とか穴の底が見える場所までたどり着いた。
「あ、あそこに大きな氷の塊があります!」とエインセールが指差した。その先には、丘ほどの大きさの氷の塊が穴の底に聳え立っていた。
「氷が沈んでいる? きっと原因はあれだ。行こう!」
俺たちは、ヴァングロットの穴の底を、氷塊に向かって走り出した。




