子の心を知らない親もいる
● 2002年(20代前半)
その頃の私は、仕事もうまくいっていなかったし、家では相変わらず母親との険悪な関係のおかげでストレス過多になっていた。そんな母はストレスのおかげで寝込んでしまうことが多くなった私を疎ましく思っていた。
私がおう吐を繰り返し寝込んでいようが、高熱を出して苦しんでいようが、テーブルに5000円を置いて「これでなんとかしろ」と言い捨てては男の家に遊びに行っていた。
ある日、母の新しい男に用事ができてしまい、おかげで楽しみにしていたデートがなくなったと、今まで以上に不機嫌になっていた。そして、その日は運悪く体調を崩して寝込んでいた私が部屋にいることに気付き、余計に苛立ちを募らせることになってしまっていた。私は私で、こんなことなら職場で倒れてやればよかったと後悔していた。
母はどんどんと音を鳴らして部屋の前に来た。大きな音を立てて部屋のドアを開けると、やっぱり大きな声で不機嫌な表情をしながら言った。
「寝るぐらいで治るんやったら病院なんていらんのちゃうの?」
「動けるなら病院に行くよ」
「しんどい顔されて迷惑なのわかってる?」
「気分が良くなったら病院に行くから、そっとしといてよ」
「お前、それが今までお前に金かけて育てた親に対する言い方か?」
「とにかく、話すのも辛いからそっとしといてほしいねんけど」
母はそれでも執拗に「生意気だ」とか「お前に掛けた今までの養育費を返せ」だとか「恥さらし」と罵った。
いったん気が済んだようで、部屋のドアを閉めて居間に戻っていたが、その後も時間を空けては、私の部屋の前に来てはドタドタと足踏みをして、私の睡眠を妨げたり、部屋の前でわざわざ自分の友達や男に電話を架けては大声で笑うなど、とにかく自分のストレスを弱っている私をいじめることで解消させていった。
とうとう我慢できなくなった私は、吐き気やめまいを我慢しながら、ふらふらと歩いては休み、歩いてはまた休みを繰り返して近所の病院へ向かった。家を出るとき、母が私の背中に向かって『丸山医院に行っておいで』と言ったのをかすかに記憶している。
丸山医院は母のかかりつけの病院で、50代の院長一人で診察や往診を行っている。もちろん、母の好きそうな男性タイプで、母が必死になり何とか取り入ろうと苦労しているところをめにしたことがあった。
結局は、母の思惑通りに事が運ばず、全ての計画が失敗に終わったようだ。しかし負けず嫌いな母は、自分に関心がない男の存在が気に入らないようで、聞いてもいないのに「あの人は見る目がない」と院長の奥さんを見かけては私たち姉妹に「男を見る目を養え」と言い聞かせていた。
「あなたの見る目はどうなの?」と言いたい気持ちがあったが、妹に右腕をさっとつかまれたのを覚えている。どうやら私の顔が不満げだったようで、母に見つかると良くないと後で注意された。
そんな事を考えながら、ふらふらと倒れそうになりつつ、ようやくたどり着いたが、丸山医院は休診日だった。ガラスの扉は固く閉じられており、院内も真っ暗で誰も居ないようだ。
仕方なくその先にある総合病院へ行くことにした。もう少し歩かなければいけないと思うと、先ほどよりも病状が悪くなった気がしていた。
たどり着いた病院の受付では、保険証を財布から取り出すのも、症状を伝えることも難しい私を見かねたスタッフがベッドへ運んでくれた。点滴をうち、薬を処方してもらい2日後に回復した私は、とあるコミュニティサイトで知り合った男性に、母と自分の関係や母の嫌がらせについて話した。
いつもの私ならコミュニティサイトを全く利用することはないし、知らない誰かに自分の家庭の話をするなんてことはなかった。
今回だけは、とにかく誰でもいいから話を聞いてほしかったという気持ちが勝った。恐らく今までの鬱憤が爆発寸前になっていたのだろう。爆発する前に何とか解消しようと爆発処理をしたのだろう。
話をするにつれて、相手は男性だと判明した。冷静に話を聞いてくれる彼と話すのが徐々に楽しくなり、いつの間にか彼と話す時間を待ち遠しいと思うようになっていた。だが、彼とはサイト内のメッセージでのやり取り以外は何もしたことがない。
ある日、彼が「関西に行く用事がある。休日もあるから、一度会って話さないか」と提案してきた。私は「会う」ということに非常に抵抗感があった。
家族の話や仕事の話をするうちに、彼には親近感を持ち始めていたので、コミュニティサイトの顔も見えない不審人物であるということをウッカリ忘れていた。
しばらく考えた後、私は「会って話すだけなら、とくに問題はないか」と思い、彼の提案をとうとう承諾してしまった。
それでも私の心の何処かが、軽々しい誘いに乗るべきではないと危険信号を鳴らし始めた。私はその信号を感じ取りながらも、この彼を理由に家から脱出できないだろうかと考え始めていた。
そんな彼との待ち合わせは、非常にわかりやすいということで大阪駅の中央改札口前だった。事前に彼から写メールが届き、どんな外見かは頭に入っていたが、さすがに人が多い中央改札口では、すぐに彼を探し出すことができなかった。それでも彼のほうはすぐに私を見つけて『京ちゃん、会えてよかった』と笑顔を見せてくれた。
「はじめまして」と言葉をかけられると、妙に照れくさくなった。コミュニティサイトではあんなに積極的に話をすることができた私は、実際の彼と対面すると何一つ積極的に話すことができなかった。
すると、彼からどこかでお昼ご飯を食べようと提案されたので、阪急のレストラン街でランチメニューを用意している和食店へ入ることにした。
私はレディースセットを頼み、彼はBランチを頼む。何から話せばいいのかまったく分からず、とにかく彼を観察した。
長身で痩せ型というわけでもなく、といっても肥満型でもない。正真正銘の中肉中背タイプ。30代前半で髪の毛はてっぺんが少し寂しく、顔はそれほど良いとは言えないが笑顔が優しかった。目が大きく印象的で、目じりの皺が年齢の差を感じさせた。指が細長くてゆったりとテーブルのうえに置かれた手が何より綺麗だと感じた。
「どうしたの?」
「いや、べつに・・・なんでもないです」
「何か、イメージと違うね」
そりゃあそうだ。実は私は10代の頃は全く男性と接触したことがない。一度だけ、高校の1学年上の先輩に付き合おうと言われて1週間だけ付き合ったが、それも友人に頼まれて付き合っただけで、正直、地獄のような1週間だった。
それ以来、男性と話すことがほとんどなかったので、メールやネットでの会話のように考えながら話すということができない。たぶん、かなり緊張していたのだと思う。
彼もそれを察してなのか、にっこり笑って『おみやげがあるんだ』と小さな包みを取り出した。何だと思い開けてみると、チョコレートが入っていた。彼の顔を見ると、嬉しそうに私の喜んだ顔を待っていた。あいにく、チョコレートが大嫌いな私はどうしていいかわからず、でも落ち込ませたくない一心から「美味しそうですね。嬉しい、ありがとう」と言うと、私はさっさと鞄の中にプレゼントを片付けた。
彼はその言葉を待っていたようで、意気揚々とこのチョコレートを選んだ理由を長々と話し始めた。
「これね、大阪に来る前に買ったんだけど、九州限定なんだよ」
「へぇ、材料が九州ならではってことですか?」
「うん、何かね。このゴダイバっていうチョコレートメーカーは・・・・」
と、チョコレートに詳しいような顔をしていたが、プレゼントが入っていたペーパーバッグを見ると『GODIVA』と書いてあり、明らかに『ゴディバ』である。
しかし、自称チョコレートに詳しいという雰囲気を出している彼は、先ほどからずっと自慢げに大声で『ゴダイバ』と熱弁しては、メーカー名を誤っているのだった。
ここからは全く私の憶測の中での話しになるが、彼としては有名なチョコレートのお店ということで店内へふらりと入り、恐らく女性店員につかまったのだろう。そして、買うつもりもないのに、一生懸命な店員を見ているうちに気の毒になり、手ごろな値段の商品を購入したのだろう。
なおかつ、彼のこの自慢げな表情から考えると、女性店員にも知人にも店名の読み方が分からないなんて言えるはずもなく『これたぶん、海外のメーカーだよな』くらいに思い、読み方を色々模索したのだと思う。『GODIVA』は書いてある表記そのままの発音でシンプルなのみも関わらず、右往左往した結果、『DI:ディ』の発音を、『DI:ダイ』と読み違えた。結果、今ここで大声で『ゴダイバのチョコレート』と紹介している経緯にたどり着いた。
ちなみに彼は生粋のアメリカ人で、英語の教師をしているそうだ。
私の始まりつつあった恋心はこの面倒な読み違いと、外国人は日本人女性にモテるというジンクスを信じて疑わないドヤ顔によって終了した。
でも考えたら、私はその男が人生で初めての男だった。我ながら若くて軽すぎる行為だったと反省している。
食事が終わると、彼は何とかホテルへ直行したいという顔をしていた。私は徐々に彼に会ったことを後悔していたために、しばらくは喫茶店で話をして時間を潰し何もせずに帰ろうと思っていたが、結局のところ根負けした。
彼に言われるがままホテルへ行って、何やらかんやらと言いくるめられて、そのままヤッてしまった。
「大丈夫。ぼくは大人だから。優しいやり方をしってるから」
「はぁ…そう、ですか」
「はじめてで緊張するのはわかる。でも、ぼくなら大丈夫」
彼の自信満々の顔と興奮気味の心とは正反対に、私の気持ちは徐々に凍り付き、彼に対して同情心さえ出てきた。
しばらくは私の体を優しく撫でまわしていたが、やがて彼の顔が近づいてきた。仕方なく目をつぶり身構えたところに彼にキスされた。
彼の唇は冷たくてヌルヌルしていた。物凄く気分が悪くて吐きそうになったのを覚えている。
そのうちに、私の口の中に気持ち悪いものが入ってきたのを感じ、それが舌だと判断するのに少々時間がかかった。彼は気持ちがいいのだろうか?と、彼の様子を見るために目を開けると、先ほどと同様に自分の行為に自信満々の表情で酔いしれていた。そして私の気持ちとはやっぱり正反対で、とても気持ちよさげな表情だった。おそらくこれが人生初めてみる「自己陶酔している表情」だったと思う。
こんな行為、早く終わればいいのに。気持ち悪い、やばい吐きそう。
だからといって、途中で止まることもできず彼をとめることもできず、とりあえず気持ちがいいフリをすることにした。
漫画やアニメで少しだけ見たり聞いたようなあえぎ声を出せば、こいつも気が済むんだろうと思った。
彼の自己満足な行為が終わるまでの長い時間、ずっとタイミングを見計らっては適当にあえいでいた。そんな中、私は初めてセックスしているのに、こんなに冷静に状況を判断して適当に演技したり、こいつの自己陶酔している顔が笑えるとか思っている自分がいることに驚愕していた。
それから、こんな行為が本当に気持ち悪いと思いながらもズルズル流されてしまった自分が一番最低だと、誰よりも自分を毛嫌いする原因を作ってしまったのだった。
その彼とは1回だけヤッて終わりと思っていたが、3日後にもう一度会いたいとメールが来た。「二度とやりたくない」と言い張り、昼ごはんを一緒に食べるだけにして帰った。彼のあの残念そうな情けない表情が今でも忘れられない。自分とやらない女は初めてだったのだろうか。それとも、ホテルに行かないなら帰りたいと思っていたのだろうか。
どちらにせよ、今となっては彼の顔も声も何もかもはっきりと思出だすことができない。それぐらい、黒い記憶の中に沈みこませて「あの時の事はなかったことにしよう」と暗示をかけていたんだろうと思える。




