他人は他人、自分は自分
● 2011年:6月頃(現代)
いつの頃だったか、私は何気なく敦子に普段は他人に話さない先ほどのような小学生時代のことを話したことがあった。
たぶん、彼女なら何も言わずに話を聞いて私の心の黒くて重い感情を少しだけ軽くしてくれるだろうという淡い期待をしてしまった。
しかし、その時の敦子は力強く頷きながら『なんだか私、京ちゃんのお母さんの気持ちが分かる』と言い出したので「淡い期待は、所詮は淡く儚いものだ」と痛感した。そして「何故わかるの?」と尋ねると、彼女は得意満面にこう言った。
「京ちゃんのお父さんって、毎日仕事ばっかりだったんでしょう。遊びたい時期に妊娠して結婚しちゃったお母さんとしては、ちっとも遊んでもくれないってかなり不満があったと思うの。どうせ、Hもしてくれないんじゃなかったの。
そりゃあ、自分に無関心な男と、育ち盛りで我侭な子供たちの相手をする毎日に幸せを見出す人もいるけど、お母さんは根っからの遊び人で家でじっとするのも大嫌いなら、主婦業も子育もそもそも無理だって。
私だって、遊びのない退屈な生活なんて想像したくないし、絶対に考えられないもん。しかもパートまでしなきゃならないって、家事と子育てと仕事で本当に最悪。夫が解消なしって言われても仕方ないよ。そんな暗い結婚生活って、何だか間違ってない?
私なら、さっさと不倫相手と家を出るなぁ。だって、その人のほうが子供受けがいいし、何より自分と遊んでくれるんでしょ?
最初からその人と結婚できれば良かったなぁって思っちゃうよ。そしたら、バツはひとつも付かずにすんだでしょ?
私が京ちゃんのお母さんで子供がいなかったら、即効、離婚するよ。うん、離婚して慰謝料をとって、そのお金で彼と再婚して新しい生活を始めるなぁ。」
「ああ、そうなんや」
「うん。女ってね、恋とか愛に生きる生き物なんだからさ」
「じゃあ、お金は?」
「お金はね、言わなくても前提に含まれてるから大丈夫だよ」
「すごいね。そこまで断言出来るなんて。尊敬しちゃう」
「うふふ。そうでしょ?私って、色々と先を考えて行動してるからねぇ。ある意味、女性代表というか評論家かな?」
彼女の意見が、「先の事を考えて行動」しているとは到底思えない。むしろ、母と同じように「自分さえよければいい。お金をもらえて遊び回れたら最高だ」と言っているようにしか思えない。
私は何処の誰よりも、気持ちが表情に表れやすくて彼女の言葉に対しても、いかに顔色が徐々に変化して真っ赤になっていることが、自分でも手に取るようにわかっていた。それでも彼女は、私の分かりやすい表情の変化に気づかないようだ。
彼女にとっては何とも思わないひと言葉でも、話す相手によっては、とくに私に対しては、どれほど失礼なことか、どれほど私が傷ついたのか気づくこともないんだろう。
だからといって、彼女と口論するつもりは全くない。彼女の感性と私の感性は違うのだから、彼女の感性を真っ向から否定して私の感性を押し付けるつもりは全くない。
そして、そのまましばらくの間は彼女の歴代の彼氏の話を聞く羽目になった。
彼女の歴代の恋人の中には、不倫相手も含まれていた。
だからこそ、母の気持ちがわかるという。なんというか、私のなかでは母も敦子も非常に可哀想な女性だと思った。
男性遍歴が自分の履歴書の大部分を占めていて、その男性の職業や年齢が非常に重要な部分と言っている。そして、それが自分が存在する唯一の証だと自慢げに話している。自分だけで地に足をつけて、一生懸命に活躍している履歴書はないのかと聞きたいがあり得ないことのようだ。
だって彼女にとっては「男性との経験数」が含まれていることこそが、大変大事な履歴書になるのだから。
そんな昔のことを考えながら家に着いた私は、お風呂にゆっくり浸かりながら一日の疲れを取っていた。お湯の温度も丁度良くて、ついウトウトしていたところに幼い私が目の前に現れた。悲観そうな目つき、誰にも何も話したくないと唇は真っ直ぐに結ばれていて心の貧しさが露わになっている。
乏しい知識の中で、必死に自分を守っていた。目の前に現れた私は、小学生の高学年時期の私だと思った。これは白昼夢なんだろうと思い、また、あの頃のことを思い出し始めていた。
● 1993年頃:幼少期の回想
我が家に決定的な亀裂が入ってしまう出来事が起こったのは、私が小学校5年生の頃だった。
その頃になると、母と父は全く会話がなく離婚にむけての話を着々と進めていた頃で、子供を引き取る引き取らないだとか、慰謝料や養育費について話し合いを続けている時期だった。
それに母と父の離婚話に、何故か母の姉も話し合いに参加していて、全くアドバイスにもならないことを母に伝えては混乱を生じさせて、余計に離婚までの手続きが長引いてしまい周囲の人間やたくさんの人に迷惑をこうむることになっていた。
母と母の姉は、姉妹そろって嘘と作り話がうまく、近所の人たちに恥ずかしい身の上話をしては涙を見せて、自分達の味方へつけていこうとしていた。
近所人たちは、母の不倫や性癖が一番悪いと思っているので、2人が泣いて身の上話を聞かせていても「そうですか」と上手に相槌を打っては、彼女たちの気持ちを更に有頂天にさせていた。
ただその話自体が祖父母たちから後から聞いた話でもあるので、本当なのか真意は定かではない。とにかく近所中の大迷惑であったことには変わりないだろう。
そんななかでも、子供たちの親権については、かなり早くから決着がつきそうな様子を見せ始めた。
父は自分に懐いていない子供を引き取るのは当然のように嫌だと主張し、3人の親権は母にいくことになりかかっていた。しかしその決着を、延長戦へ持ち込ませたのは、母や母の姉ではなく祖父母だった。
2人の言い分は『兄は家を継ぐために必要な子やから、あの子だけでもうちに置いといてくれ。2人の姉妹はこの際、どうでもいい』という事を父に告げた。
私と妹は『いずれは家を出て行く子=嫁に行く側』だから、親権の有無はそれほど重要ではない。それに、自分たちの孫であることには変わりないし、子供同士をそれぞれにおいておけば、理由をつけて祖父母宅に呼び出すこともできると考えていたのではないだろうか。
母は泣く泣く了承することにした。兄も学校が変わってしまう事や、友達と会えなくなることが嫌だと母に訴えたようで、結果的に兄の発言が一番効果的だったように考えられる。
一番の焦点である慰謝料については、母の不倫遍歴のすべてが明るみに出されることになった。自業自得なのに、母は度重なる不倫を責め立てられ傷ついていたのだろう。母は父や祖父、そして叔母についての散々な暴言をストレス発散のために私たちの前で平気な顔で言った。
妹はそんな母を見るのが初めてのようで、かなりショックを受けていたようだが、私は妹と違い、幼い頃から暴言を吐く姿や私に暴力を振う姿をすぐ近くで見ていたので何も感じなかった。ただ「ああ、また始まった」とため息をつくしかできなかった。それでも、母がひとしきり悪口を言い終えた後に流した涙をみて動揺してしまった。
そう言えば、あの頃の私はかなりの泣き虫で、ちょっとしたことでも悔しくてすぐに泣いていた。クラス替えで今まで一緒だった友達が一人もいないことにメソメソしたり、自分のことを馬鹿にする男子にむかついて『あんな奴らいなくなればいい』と悔し泣きをする。あげくに成績が悪いのが恥ずかしくて泣いてしまう。とにかく負けず嫌いでプライドの高い子供だった。
離婚の話が進むにつれて徐々に不安が募り自分のことを誰かに話したいが、誰に何をどうやって話せば良いのかわからない。それに離婚の話を相談すれば、近所の人たちのように馬鹿にするだろうと思った。
その頃の「離婚」という言葉は、世間的には今ほど主流ではなかった。万が一「離婚」なんて事態が起きたとすれば、「片親」や「親なし」と苛められる風潮があった。今でこそ離婚歴がある親が多いが、あの頃は「離婚」を選ばずに耐えることが当たり前の時代だった。
そして、母から大阪を離れて滋賀県に住むということを聞くと、もうそれだけで涙が止まらなかった。
とにかく悲しくて辛くて、その気持ちを誰にも言えない自分が情けなくて、泣きながら自宅2階にある座りなれた勉強机に座った。
机に飾られている昔の家族写真を見ていると、どんどんと不安と悲しみに押しつぶされていくような気になってしまう。
だから、カセットデッキを押し入れから取り出して、大好きな歌を聴こうと思った。私は『トム・ソーヤの冒険』のオープニングテーマが大好きだった。
私が生まれる前に放送されていたこのアニメは、他の何事にも興味を持たなかった私が唯一好んで聴いた歌だった。同じ年くらいの少年が冒険に出る。色んなハプニングに果敢に立ち向かう姿が大好きだった。
お前なら いけるさ トム。
誰よりも遠くへ
その歌詞の通り、私もトムと一緒に遠くに行きたいと願った。誰よりも遠くに行って、こんな辛い現実を忘れたいと願った。でも現実にはトムのように背中を預けることができる親友もいないし、困難に立ち向かっていくような大胆な冒険もできない。誰かに助けてと言えない自分が恥ずかしくて、相談できる友達もいないことが情けなくて仕方なかった。
自分をわかってやれるのは自分だけで、自分のことを相談できるのが自分だけなんて何て寂しい奴なんだ。自分で自分を責めることで、現実の自分と妄想の自分を切り離していた。
そうして逃げることで、辛い現実からも逃げ出せると思ったのだ。恐らく、子供なりに考えて出した結果なのだろうと思う。
そうさ 辛いときも 顔を空に向けろ
忘れた夢が 見えるよ
今でもその歌を聴くとあの時の気持ちや情景が浮かび、なんて暗い子供だったなと悔しくて切なくて涙が出てしまう。一度でいいから、自分の帰りを心配そうに待っている両親の姿や、「まじでウザイ」と思うまで誰かと喧嘩をしたかった。
私の転校が決まった後は引越しまでの間、兄は大阪に残るからと飄々としていた。別に友達と離れるわけでもないし、祖父母も傍にいるからと安心しているようだった。それに母は、何かあれば『いつでも来ていいよ』『辛くなったらこっちで一緒に暮らそうね』と兄に言っていた。
「なんか会ったら、お母さんも助けに来てくれるっていうしなぁ」
「そうなんや。お父さんは、私らの事を助けに来てくれへんのかなぁ?」
「さぁ、どうやろうな。でもおじいちゃんとおばあちゃんは、助けに行くと思うで」
祖父母に関しては本当だろうと思っている。ただし、少しだけ大げさで母と同じく演技かかったことをするので「恥ずかしいからやめてほしい。関わりたくない」と思っていた。
兄はつくづく恵まれているなと恨めしく思った。母にも愛されて、祖父母にも愛情を注がれている。きっと妹も同じだろう。だったら私は?私に愛情を注いでくれるのは、どこの誰なんだろう?目の前の人たちは私に愛情を感じて、大切に思ってくれているんだろうか。
徐々に家族への猜疑心が高まり、今まで以上に誰とも話さなくなってしまっていた。
母曰く滋賀県には母方の祖父母がいるから安心していいと言う。しかし、ほとんど会ったことがない相手で、きちんとコミュケーションが取れるのだろうかや、母の両親と言うことならば「母と似たような性格」ではないだろうか。だとしたら、私はやっぱり嫌われる側になるのではないだろうかと不安でいっぱいだった。
そして何より、新しい学校での生活は問題なくきちんとできるのだろうかとあらゆる不安が心の中に溢れ出していた。




