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未来の話

● 2013年:6月


 ある日、鈴子から突然メールが届いた。あの会社を離れて約1年が過ぎていた。その間も鈴子とは何度か夕食や、映画観賞を一緒に楽しんでいた。そう言えば、鈴子と彼はどうなったのだろうと思っていたところだった。

 1年前に会社を辞めてすぐに京都へ引っ越した私は、短時間のパートタイマーの仕事で当初の生活を支えた。以前から働いてみたいと思っていたベーカリーショップのアルバイトで、朝から昼頃まで、ずっと甘い匂いに囲まれて過ごしていた。そのベーカリーショップの仕事帰りだった。 


 『突然ですが、6月15日の大安の日に、入籍いたしました。もちろん、あの彼です。まだまだ未熟な私ですが、彼に支えられながら彼を支えながら夫婦仲良く暮らして行きます。これからもよろしくお願いします。』


 あまりに突然の報告に度肝を抜かれた。3月頃に会ったときは「喧嘩した」と嘆いていたのにと思ったのと、親友からの報告に思わず声をあげて喜んだ。

 鈴子は、いつか『大好きな彼と結婚したい』と言っていた。それは私が鈴子と出会ってからずっと聞いていた願いで、それが成就したことが何よりも嬉しく感じていた。

 『おめでとう』と早速メールを送ると、すぐに鈴子から着信があった。

 帰宅途中だったが立ち止まって近くのベンチに座り、通話ボタンを押した。

 「おめでとう、びっくりしたやん」

 『うん。ほんまに突然決まったことやったから遅くなってごめん』

 「遅くなんてないよ。むしろ、急すぎて心臓止まるかと思った」

 彼女の幸せそうな笑い声がスマートフォン越しに聞こえた。心なしか、彼女が少しだけ泣いているようにも思えた。

 彼女の笑い声に吊られて、私も大声で笑っていた。買い物から帰宅途中の奥様や配達途中のお兄さんたちが驚いて私を見たが気にせず笑った。お互い好きなだけ笑いあい、そして鈴子がポツリと話し始めた。

 『京ちゃんが、あの時大丈夫って絶対上手くいくって言ってくれたから、うちら結婚できてんで』

 「え?そんなこと言ったっけ?」

 すると鈴子は怒ったような声で『忘れっぽいなぁ』と言い、そしてまた笑った。

 『ほら、うちの彼氏と彼氏の友達と4人で京都に遊びに行ったとき』と彼女は言ったが、それでも私は思い出せなかった。

 『あの時、あいつの気持ちが全くわからなくなって凄く悩んでたけどさ。京ちゃんが、大丈夫って、恋愛下手な私でもわかるからって』と、そこまで説明されてようやく気がついた。

 そういえば、本能寺跡や二条城の見学に行った帰りに鈴子からそんな悩みを打ち明けられたことをようやく思い出した。

 『京ちゃんって、言葉の力が凄いあると思うねん』

 「言葉の力?」

 『そうだよ』と彼女は答え、今までも私が『大丈夫』というと、どんなに困った状況でも本当に大丈夫になったというのだ。私は笑って、たまたまだと言うと『ちがう。本当にそうだ』と鈴子はなおも続けた。

 『京ちゃんの、その言葉は誰も持ってない武器やから。だから、その武器を大切に持っていて欲しい』

 「うん。…わかった」

 

 それから鈴子は「今まで言えなかったが、出会ったころの私と今の私は大きく違う」と言った。何のことかと聞き返すと、彼女は「いい意味で聞いてほしい」と言った。

 『京ちゃんは、もう少しだけ気を緩めたら絶対に可愛くなれるし、彼氏くらいすぐにできるって感じてた』

 「気を緩める?」

 『そう!気のきつそうな表情で男っぽくて…初めて会ったとき話しかけにくい人やなぁって思ったよ』 

 もちろん、今はそうでもないが私の「話しにくい雰囲気」が、ただの人見知りだということに気が付くまでに半年はかかったと言うのだ。

 彼女の言葉を受けて、私はしばらく考え込んだ。私は他人を遠ざけすぎていることは自負している。

 『野田さんがいいきっかけになったのも、何となくわかってる』

 「野田さん?」と聞き返すと、私が辞めた後、加賀屋や藤田は「あの穂斗山に彼氏がいる」ということにショックを受けて、しかも同棲するし結婚の予定もあるしということで「失恋の痛みから立ち直るのに時間がかかっていた」という。

 『京ちゃんが、野田さんのことを話し始めた時期からかな?あの2人が京ちゃんを意識し始めてたよ』

 「そうなの?」

 『うん。でも、京ちゃんは絶対に気付いてないんやろうなって思ってた』

 鈴子はそう言って笑うと、今は昼休みでこれから仕事に戻ると言った。どうやら、私と同じようにパートで働きながら彼と家計を支えているそうだ。


 彼女との電話が終わった後、何故だか涙が溢れた。

 『歴史を学ぶことは、未来との対話だ』と、いつかどこかで読み聞いたことがある。私は自分の過去を読み返しては、その過去にすがりついて人を恨み憎んで生きていた。そして何もできず変われない現実の自分と、この先変わらないままかもしれない未来の自分を恐れていた。

 まだ未熟だけど鈍感だけど人の心に無神経だけど、それでも少しずつ色んな人に教えられながら自分を変えていこうと誓った。

 そして、それを一番最初に気づかせてくれた鈴子と、そんな私を受け入れて、「好きだ」と言ってくれた野田さんに一番最初に恩返ししたいと心の底から願った。


 それから1週間後に、妙な不快感と気分の悪さを感じるようになり、パート帰りに病院へ立ち寄った。どうせ風邪の引きはじめだろうと思ったのだ。


 その病院の帰り道、ぼんやりと公園を眺めていた。手に持っているのは、先ほどかかりつけ医からもらったメモで、産婦人科の連絡先と簡単な地図が書かれている。

 野田さんに「少しだけ話がしたい」とメールを送っていた。

 きっともうすぐ野田さんから電話がかかってくるはずだ。そうしたら、私は何と答えたらいいんだろう。「どうやら子供がいるみたいだ」と言えば、通じるんだろうか?それとも、れっきとした証拠を突きつけるべきなのだろうか?

 今の私は、自分の妊娠という事実を野田さんに実感させるには証拠が少ないと感じている。証拠が少ない結果「妙な嘘をつくな」と言われて、呆れて見捨てられたらどうしようと悩んでいた。

 それとも、「じつは妊娠してるみたいで、今から産婦人科に行ってくるね」

と軽く言うだけでいいのかもしれないとも思っていた。

 でも、どちらにせよ野田さんはいつもみたいに「わかった」と言ってくれるに違いない。その確信だけは、どんなものよりも確かにあった。



 ● 2013年:某月


 「なんか、緊張してきた」

 野田さんは気もそぞろで、電車内でそわそわと落ち着かなげに窓の外を見たり、駅に停車するたびに乗降する人たちを見ていた。

 そんな様子が妙に可愛らしくて、思わず苦笑すると「何がおかしいの?」と不満げに私を見た。

 「だって、今日は野田さんのご両親に会いに行くんですよね?」

 「え?そうやけど…?」

 「私の父や祖母に会うのは、来週の水曜日ですよね?」

 「あ、うん。予定が合わんかったし」

 「水曜日のほうが、野田さん的には緊張するもんだと思ってました」

 野田さんは、私の言ったことをしばらく頭の中で考えていた。やがて「それもそうだ」と、さらに緊張した顔をした。

 「どうして、そんなに緊張するんですか?」

 私が不思議に思い、野田さんに質問すると彼は困ったような表情をした。そして、ひょろ長い身長からは想像もできないくらいの小声でこう言った。

 「だって、結婚するうえに孫ができるなんて。報告するにもいろいろ、そのぉ…」

 「ああ」と私は呟き、そして笑った。彼は困ったように首をかしげて「何でそんなに平気なんだ?」と私を問いただした。

 それはつまり、相手が野田さんだからということが一番の理由だった。私は彼になら何でも話せるし誰よりも信頼できる人だと思っているからだ。

 私が初めて出会った心の底から守りたいと思える相手で、万が一、彼に何かあれば真っ先に私が駆け付けて盾でも槍にでもなって彼のために戦ってやろうと心に決めた相手だからだ。

 「大丈夫です。きっとうまくいきますから」

 「そ、そうかなぁ?」

 「大丈夫。野田さんだから、大丈夫です」

 「そうなんかなぁ?」

 「しっかりしてください。来年にはお父さんになるんですよ?」

 そういうと、野田さんはじっと私を見つめて「そっか、お父さんか」と嬉しそうに呟いた。

 気が付けば、私が大嫌いだった母親と父親と同じシチュエーションで結婚することになった。でも、私たちと彼らとは大きな違いがある。

 それは私が良い年齢まで我慢せずに遊び歩いていたことと、野田さんのことを信頼しているというところだ。

 あの2人には、絶対になかったことだ。隣にいる野田さんも、父とは違って私のことを気にして思ってくれている。

 どうしてあの2人はこんな風な関係になれなかったんだろうと、今ではあの2人の不幸な関係に同情すら覚えている。


 ふと風の噂で聞いた何処かの誰かと再婚して、おとなしく生活している母親と母親にべったりの妹の顔が見たいと思った。


 「どうしたの?気分でも悪いの?」

 心配そうに見つめる野田さんが、とても愛しくて仕方なくて思わず泣いてしまった。

 婚姻届を提出したら、私に起こった過去の辛い出来事は市役所のゴミ箱に捨ててしまおうと心に誓った。

 「野田さん、これからもよろしくお願いします」

 野田さんはしばらく私を見つめて、そして、「こちらこそ」と嬉しそうに頷いて私の手を握ってくれた。



● 追記:2013年某月


 電車に揺られながら、ふと、彼女とのことを思い返していた。

 俺が彼女に初めて声をかけた時の事だ。とても怪しげな表情をして、全く親切心の欠片もなかった。こんな女性が俺の彼女なら、間違いなくその場で人目も憚らずに説教をしていただろうとも思っていた。

 それなのに、その彼女が今は俺の隣で楽しげに電車の窓から見える景色を堪能している。そして、そんな彼女をとても愛おしいと感じている。

 「どうかしましたか?」

 ぼぉっと彼女を見つめていた俺に気付いたようで、不思議そうな表情で俺を見た彼女の顔は、少しずつではあるが母親としての自覚を持ち始めているように思えた。と同時に、妻であるという自覚も持ちつつあるように思える。


 「何でもない」と言い、彼女の可愛らしいショートカットの髪をゆっくりと指でなぞる。「本当に、何でもないんですか?」と彼女は笑顔で聞き返す。

 もう一度、今度は自分にも言い聞かせるように「何でもない」と答えた。

 いつまで経っても、どんな関係になろうとも年長者である俺を敬うのが当たり前と言い、馴れ馴れしい言葉で話しかけようとしない彼女の頑固なところや、一生懸命に俺のために生きようとしている一途さを思うと、何としてでも彼女と、彼女と俺の子供を守らなければと思う。

 「もうすぐ、大宮駅ですよ」

 「うん、分かった」

 「そう言えば、名前辞典を買ってくれたってお母様が言ってましたね」

 「まだ性別もわかんないのに…何やってんだか」

 「でも、たくさんある候補の中から一番いいのを選ぶのって案外大変ですよ」

 「そんなに悩む?」

 「だって、私と野田さんの子供だから。たくさん悩みます」

 「そっか…じゃあ、一緒に考えよう」

 「はい、お願いしますね」

 彼女の手を取りゆっくりと立ち上がる。今のこの幸せが永遠に続くことを、ただただ一心に願った。


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