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未来の自分へ向けて

 ● 2012年:1月


 【1】

 新年早々、祖母に連絡すると「ちょっとでもいいから顔を見せに来て頂戴」と言われたので、早速祖母に会いに実家へ帰った。野田さんから「結婚しよう」と言われたことは、まだ誰にも言っていない。

 鈴子や祖母に言うべきなのかどうか、あれからずっと迷っている。 

 「あんた、正月はいつまで休みなんや?」

 「明後日までやな」

 「あさって…3日までか。短いなぁ」

 「でも30日から休みやったし、丁度いいよ」

 祖母はそうなんかぁと呟くと、お鍋でゆっくりと温めていたしるこを出してくれた。

 これだけは、いつまで経っても祖母の役目になっている。祖母独特の味付けが大好きで一度だけ作り方を習ったが、結局は祖母に任せるほうが正確で美味しい味が出せると分かった。

 「初もうでに行きたかったやろうに堪忍してや」

 祖母は珍しく弱気になっていた。正月早々に体調を崩してしまい、毎年、元旦には家族そろって初もうでに行っていたのに、今年は祖母のお守りのために留守番することになった。

 祖母を見習って「残念やね」と言ったものの、実は野田さんと「初もうでのピークを避けて、ゆっくり初もうでに行こう」と約束していたのだ。

 だから、元旦に初もうでに行けないことを残念だとかつまらないなんて思っていない。

 「でも、元旦にゆっくりテレビを見るのも悪くないで」

 「せやなぁ…テレビもたまには面白いなぁ」

 2人で元旦特別番組を見ながら、時々「この芸風は飽きた」とか「もうひと笑いほしい」なんて言いながら、みんなが帰宅するのを待った。

 みんなが帰宅して勢ぞろいすると、今度は夕飯の支度にとりかかった。兄夫婦は、明日は香美さんの実家へ行くのだという。

 「今日はこっちですき焼きやろ?明日は、向こうでなんのご馳走やろうなぁ?」

 「ちょっと。食い意地張り過ぎやで」と香美さんに咎められた兄は、「仕方ないやん」と言い、典子の相手をするためにそそくさとキッチンからいなくなった。


 「ところで、京はエエ人できたんか?」

 ほらきた、と私は思った。祖母は興味津々で私を見ているし、兄夫婦や叔母は「またいつもの話が始まった」という表情をした。私がこのまま反論すれば楽しい団欒が、一気に興ざめしてしまうのだ。

 やれ「お前の両親はこうだった」とか「私のときはああだった」と、とにかく2時間以上は男の人との付き合い方や結婚についての話をされる。そして叔母までその会話に引き込まれて、更に延々と話が続くのだ。

 「さぁ、どうやろうね」

 「もうそろそろ、良い話を聞きたいわぁ」

 「そのうちな」

 「そのうちっていつ来るんや」

 「尋問みたいにせんといて。刑事みたいやな」

 「そんなつもりないわ」

 私はそれ以上は何も語らずに淡々と食事を済ませると、頃合いを見計らって、「帰る」言い実家を出た。時刻は夜の8時頃だった。

 そういえば野田さんは今頃、京都の実家で楽しいお正月を過ごしているのだろうか。野田さんの家族だったら、とても優しくて笑顔がステキで正月早々に癪に障るようなことなんて絶対に言わない人たちなんだろうなと勝手に想像した。

 そんなことを考えると私は自分の家族と本当に気が合わず、会えば言い合いやストレスになるようなことしかできない不完全過ぎる家族だと悲しくなった。

 でも、そんなことを考えているのは私だけなのかもしれない。それでも、叔母以外に私の話を理解してくれる人がいないことが悲しくて仕方なかった。


 【2】

 新しい年を迎え、仕事はじめの初日は安藤と村岡に五木、それから新設部署立ち上げ時の初期スタッフである私を含めた6人だけだった。

 何しろ電話対応は来週の月曜日からなので、彼らが出勤したところで何もすることがない。それに当初の予想を見事に裏切ってくれて、メールでの問い合わせはごく少量だった。少量と言っても3桁近くにはなっているが、この人数でやれば2日もかからずに終わるだろうという計算だった。

 「あとの日数は、半日終了で帰宅するから、今日1日だけ、目いっぱい頑張ろう」

 安藤のその号令とともに、私たちはメール処理へとりかかった。

 今年からは片桐がいない。片桐の代わりに村岡が安藤の右腕となり、そしてその隣に五木が座っている。来週早々には、新しい社員が和歌山支店からやってくると聞いている。

 当初は片桐派だったスタッフたちが一斉に退職することが予想されたが、片桐が辞めた途端に、夢から覚めたように安藤や村岡たちと仲良く談笑していた。まるで、今までのことが嘘のような光景だった。

 安藤曰く「片桐が妙なことを吹き込んでいたのが原因」と言っていた。たしかに鈴木は「片桐さんはいつも正しい」と病的なまでに言い続けていた。

 彼女は決して綺麗なタイプではないが、男性を惑わせるような仕草や言葉を紡いでいた。

 「ああいうタイプが、男にモテる女性なんだよ」と鈴子や、伊勢谷が言っていた。

 いつだったか伊勢谷に「片桐は好きか?」と聞いたことがあるが、伊勢谷は開口一番に「ありえない。あんな不細工」と即答されたことがある。

 「あのタイプは、好き嫌いがはっきり分かれるんだ。俺は嫌いなタイプ」

 「そっか」と私は言い、それきり話はしなくなったが、ついその時のことを思い出していた。

 「穂斗山くん、ぼけっとしないで真面目に仕事しなさい」

 ボンヤリとしていた私は、まんまと安藤に見つかってしまい、お叱りをうけることになった。


 『じゃあ…1月は、仕事終わりの夜くらいしか会えなさそうやね』

 野田さんが残念そうに電話越しに呟いた。私と野田さんの1月中のスケジュールを照らし合わせると、一切、休日が一致しないという奇跡のような偶然が重なった。

 「しばらく電話とか、夜に数時間だけ会うしかできないんですね」

 『うん、でも…うちに泊まりに来るっていうのもあるよ?』

 「え?泊まっていいんですか?」

 私が嬉しそうに言うと、野田さんは「いつでもいいよ」と言ってくれた。私は早速、自分の休みの前日に泊まりに行きたいと、数パターンをピックアップして野田さんに告げた。

 『分かった。じゃあ、その3日間全部、泊りにおいで』

 「ほんとですか?楽しみです」

 野田さんはしばらく黙ったまま、私の様子を伺っているようだった。何かおかしなことを言ってしまったのだろうかと勘ぐってしまい、私も言葉を失った。

 「あ、あの…」

 『俺の家に泊まりに来るなら、それなりに気持ちは整えていてほしいな』

 「気持ち、ですか?」

 そうだと野田さんは言い、私の次の言葉を待った。何となく、私も「気持ちを整える」ということの意味が理解できていた。

 どう伝えるべきかを考えた末、私は「わかりました」と答えた。

 「ほら、やっぱり固まる」と野田さんは言い、大声で笑った。やっぱり、野田さんはどこまでも優しくて我慢強い人だと思った。そんな優しい彼の思いに何としても答えたいと私は強く誓った。


 野田さんの家に泊りに行くと約束した1日目。

 私はあろう事か、野田さんの部屋の前でインターホンを押すべきか否か迷っていた。「もう家にはいる」というメールはもらっていたので、部屋にいることは知っていた。だから余計に緊張して押せないでいた。

 すると突然、ドアが開いた。野田さんがニッコリ笑って「やっぱり」と言って部屋に入るように私を促した。

 「君がいるような気がして、何となく開けてみたんだよね」

 「あ、そうなんですか?」

 「ゆっくりしていいよ」

 野田さんはそう言って、コーヒーを淹れるとキッチンへ行った。部屋を何気なく見渡すと、グレーとブラック、それにところどころにブルーが配色されたインテリアがとても魅力的でセンスの良さがうかがえた。

 キョロキョロと落ち着かなさげにしている私を見て野田さんは笑った。

 「この前来た時と様子が違う?」

 「はい、前よりも綺麗に整頓されてるなぁって思って」

 「そうかな?全部、店員さんに勧められて買っただけやねんけどね」

 「でも、野田さんらしいなって思います」

 野田さんは「ありがとう」と言い、そして私をじっと見つめた。私はその視線をどう受け止めればいいのかわからず、ただ、同じように見返すだけだった。

 コーヒーの湯気が立ち上り、良い香りが鼻の中に入り込んできた。

 「冷めると美味しくなくなるから」と野田さんは乾杯するような仕草を私にむけた。私も笑顔でそれに答えた。


 軽い談笑をしながらテレビを見て、しばらくたった時だった。

 「今日は、怖いって顔しないね?」

 「え?」というと、「この前はとても怯えた目で俺を見た」と言った。

 「今日は…大丈夫ってこと?」と野田さんが私に言う。私は震える手を必死に抑えながら「はい」と答えた。

 「怖くなったら、途中で言ってね。すぐに止めるから」

 野田さんは私を引き寄せて、ゆっくりキスをした。それから優しく背中を撫で上げて、額や頬、首筋にたくさんキスをしてくれた。

 「あ、あの…」と必死に何かを訴えようとするけれど、うまく声が出なかった。

 何度も同じ行為が繰り返されて、徐々に頭の中がぼぉっとしていった。気が付けば電気が消されていて、柔らかいベッドの上に眠っていた。

 「俺が、怖い?」

 耳元で野田さんが優しく語りかける。私は怖いのと、嬉しいのとで押しつぶされそうになりながら「嬉しい」とだけ答えた。 

 長い指が私の体をゆっくり撫でていくのを感じた。首筋から肩に、そして腕や背中をゆっくりとなぞっていく。腹部の辺りに指が触れた時には思わず声を上げた。

 「ごめんなさい」と言うと、彼は笑って私の額にキスをした。

 ゆっくりと確実に私の体中は敏感になり、彼の指や唇が少し触れただけで体がビクついた。そして、いつもの自分では考えられないような声が漏れ、恥ずかしさでいっぱいになった。真っ赤な顔をしている私を見透かしたように、野田さんは「とっても可愛い声だ」と言った。その言葉に涙があふれた。野田さんの体に必死にしがみついた私はこの人の傍に出来るだけ長い時間いさせてもらいたいという事、それからこの人の望むすべてを叶えてあげたいと思った。


 目が覚めると、いまだに身体のあちこちが火照ったままで、まるで自分の身体ではないような気がしてならなかった。ベッドから起き上がるのが億劫だが、とにかく脱ぎ捨ててある下着や上着を引き寄せて、のそのそと着込んでいると野田さんが寝室へ入ってきた。

 「おはよう。疲れてない?」

 「お、おはようございます」

 照れ臭さを必死に隠すためにできる限り平静を保っていたはずが、やはり年の功には適わない。野田さんはクスクスと笑いながら「今日は遅めの出勤だから、ぎりぎりまで一緒にいるよ」と言った。そして「自分一人で立てる?」と意地悪そうに言った。

 「だ、大丈夫です。立てます」と強がりを言ってみたものの、下半身に気怠さと未だに野田さんの体の一部が入っていた感覚が残っていた。おかげで、歩き方が非常にぎこちなかった。

 「どうせなら、今日1日、ゆっくり休んでいてもいいよ?」

 「でも、一人でいるのはちょっと…」

 「寂しいの?」と野田さんは意地悪そうな笑みを浮かべて私に聞いた。思わず、そんなことないです。と言ったものの、表情は反対のことを言っていたようで、「一人にしてごめんね」と私を抱き寄せて、何度も額や頬にキスをした。

 「初もうでなんだけど…俺、まだ行ってないんだよね」

 その言葉を聞いて思わず「私も行っていません」と答えた。すると、野田さんは2月に有給消化のために連休を取るから、その時に神社やお寺、それに美味しいお団子や料理を堪能しようと約束してくれた。

 そして、野田さんは少しだけ私を体から引き離すと、真剣な表情でこう言った。

 「俺さ、まだ親に君の事を伝えてない」

 「私も言ってないです」

 「別に軽んじてるわけじゃないし、勢いで言ったわけじゃないんだけど」

 野田さんはその後の言葉を、どう表現するべきか悩んでいるようだった。次は私が野田さんのために何か言う番だと肌で感じていた。

 「時期が来たら、私は家族に伝えるつもりです」

 いいですよね?と私が聞くと、野田さんは驚いたような表情をして私を見つめた。言い方を間違ってしまっただろうかと、背中にひんやりをした汗が流れた。

 やがて野田さんは「わかった。その時は一緒に言いに行こう」と私をしっかりと抱きしめてくれた。 

 こんなに幸せな瞬間が、今までの人生を振り返っても一度もなかったと思った。そして、永遠に幸せという言葉の意味を現実で味わう事なんてないものだと思っていた。私は必死で涙をこらえていた。


 ● 2012年:2月


 【1】

 野田さんの家へ泊りに行って以来、再び顔を合わせることができたのは2月中旬だった。そしてかなり遅めの初もうでに行くことになっていた。

 部屋まで迎えに行こうかと聞かれたが、一度やってみたいと思っていた駅のホームでの待ち合わせにしたいと申し出た。

 その結果、阪急正雀駅のホームで待ち合わせをすることになった。阪急駅の時刻表を熟知していないため、私は待ち合わせ時間の20分前にホーム行き、京都行きの電車の時刻表を見ていた。

 時刻表を見ると、待ち合わせ時間のちょうど10分後に京都行の普通電車が到着することになっている。この電車で茨木駅まで行き、そこから特急に乗り換えて河原町まで行く。

 茨木駅で多少は電車を待つことになるだろうが、野田さんという相手がいるのだから、待ち時間なんて全く気ならないだろうと思った。

 そう言えば今まで何でも一人で行動していたので、待ち時間や空き時間が退屈で仕方なかった。それが野田さんが私の人生に登場して以来、何もしない待つだけの時間が楽しいと思える自分がいつの間にか存在していた。これが鈴子の言う「相手がいてこそ感じる幸せ」というものだろうか。


 「あれ?もう着いてた?」

 振り向くと、野田さんがのんびりとした足取りで駅のホームを歩いていた。カジュアルな服装で、大きなブーツを履いていた。かなり履きならしているようで、所々にあるブーツの傷でどれだけ愛用しているのかがうかがえた。

 「時刻表を確認していなかったから、ちょっと気になってたんです」

 「ああ、なるほどねぇ」

 と野田さんは呟き、私の隣に並んで時刻表を見た。しばらく見つめて「10分後の電車に乗って、茨木で特急に乗り換える?」と聞いた。ちょうど同じことを考えていたので思わず噴き出した。そして野田さんに同じことを考えていたと言うと「息ぴったりやね」と笑い返してくれた。

 「でもさ、どうせならのんびり景色を眺めながら普通で行くっていうのも良くない?」

 野田さんの提案には私も大いに賛成した。たしかに今日は時間に追われているわけではないので、ゆっくりと電車からの景色を眺めて話をするのも悪くないと思った。それに、今日は昨日までとは違いとても天気がいい。

 青い空を眺めながらでも外の街並みを眺めながらでも、どんなものを見ていても、きっと野田さんといるなら充実することだろうと心から感じていた。

 「俺さ、大阪のゴチャゴチャした景色から北摂の山の景色に変わって、それから京都の街並みに変わるのを見るのって結構好き」

 「わかります。私も一人で京都に行くときは、普通電車でゆっくり移動します」

 「色んな駅で降りる人の顔とか乗ってくる人の顔とかで、これから仕事なんか遊びに行くのかを想像するのも結構楽しかったりするしなぁ」

 「ああよくわかる。仕事っぽい人を見ると、自分が休みでこれから散歩に行くっていう小さな優越感が湧いてくるんですよね」

 「うんうん。俺は休み、でも君は仕事なんやぁってね」

 そんなことを言いながらお互いを見合って笑い合い、10分後に到着予定の電車の到着を待った。 


 河原町駅に到着すると、まず改札口の傍にある周辺地図を見た。最初の目的地は八坂神社で、そのあとは下鴨神社に行こうと話した。それぞれを回ったところでちょうどいい時間になるだろうから、昼食にしようと話した。昼食後は、散策がてら歩きながら思い思いの場所へ行こうと言いあった。

 「まぁ、全部に必ず行かなくてもいいし。ゆっくり行こうや」

 「そうですね。あ、お昼はそばが食べたいです」

 「うんわかった。ちょっと探してみるわ」

 野田さんは実家が京都で、実家に帰った時にはよく行く蕎麦屋が下鴨神社に行くまでの道沿いにあると教えてくれた。それならば、お昼はそこに行ってみたいとお願いした。野田さんはしばらく考えてから「距離としては、大回りになるし、かなり歩くから疲れるかもね」とこぼした。

 「蕎麦以外にも、おいしい店があるから今日はそこに行こう。また次の休日にでも散策しながら蕎麦屋は紹介する」

 野田さんは「ただし、蕎麦屋は俺好みの味やけど」と付け加えて嬉しそうに笑った。私も一緒になって笑った。

 ふいに、自分が友達と話をしながらするいつもの笑顔とは違う事に気が付いた。自分ではなく人が幸せそうに笑っているのを見て嬉しくて、自然と笑顔こぼれている。 

 そんな自分の心の変化が急に怖くなって、またいつもの臆病風が心の中で激しく吹き荒れ始めた。

 野田さんは、そんな私に気付いたようで「大丈夫?休もうか?」と聞いてきた。私はとにかく笑顔を作って「大丈夫、緊張しているだけです」と答えた。


 八坂神社は相変わらずの観光客の群れで賑わっていた。手水舎で清めるのにも並ぶのが当たり前。そこから本殿まで行くにも、観光客の群れを避けながら歩く。

 「ほんまに、さすが観光地ってやつやね」

 「はい。パワースポットっていう名目で、近頃は環境客よりも女性客で賑わっていますよね」

 「ふぅん。なるほどねぇ」

 野田さんは興味があるのか無いのかわからない返事をして、観光客や女性グループをぼぉっと眺めていた。人ごみが嫌いなのかな?と思い、「一度出ますか?」と尋ねると「どうして?」と首をかしげた。

 「人ごみが苦手なのかな?って思って」

 「いや、そんなことないよ。京都生まれやし、観光客とか人ごみは慣れてる」

 私が「でも」と口ごもると「言いたいことがあるなら言ってみて」と促されたので退屈そうな顔をしていると言うと、野田さんはしばらく考えて「ごめん」と言った。

 「観光客相手の手伝いが嫌で実家を飛び出したのに、今は実家を継ぐために京都に戻ろうとしてる自分に戸惑ってるからかなぁ」

 「実家はお店でしたっけ?」

 「そう、和紙とか扇子とか土産物を作って売ってるねん」

 「じゃあ、野田さんも扇子とか作れるんですか?」

 「まぁ、作れないわけでもないけど。不器用やからなぁ」

 「今度、作って見せてくださいね」

 私がそういうと野田さんはしばらく考えてから、「分かった。可愛いのを作ってあげる」と言った。そして「あまりに下手過ぎて、すぐに捨てるとかやめてな」とも言った。

 もし野田さんが家業を継ぐために京都に戻ったとすると、こうやって遊ぶこともなくなるかもしれない。それに以前「俺で4代目」と言っていたところから察すると、老舗の店であることは確かだろう。老舗というだけで、勝手に想像してしまうのが許嫁と言う存在だ。

 あの時、野田さんはほとんど勢いで私に「結婚してください」と言ったが、あれ以来そんな話は一言も出ない。それはつまり、結婚は少し先延ばしにして様子を見ようということだろう。私のなかで徐々に不安が押し寄せてきた。

 もしかしたら野田さんと一緒にいる幸せは、近々消えてしまう可能性があるかもしれない。

 そうなったとき、私は以前の自分に戻ることができるのだろうか。おそらく、もう以前の自分には戻れない。きっと、惨めに泣き崩れながら懇願するだろう。「どうか嫌いにならないでほしい」とか「見捨てないでほしい」とか、以前の自分が最も嫌悪していた女々しい言葉を発するかもしれない。

 野田さんは「顔色が青いよ?」と心配そうに私を見つめた。大丈夫だと何度も言って「人ごみに負けて酔ったのかもしれない」と告げた。

 「そうか。大阪とは違う独特の人ごみやもんなぁ」と野田さんは言い、これかrなお時間帯が一番参拝客が増えるからと、早々にお参りを済ませて八坂神社を後にした。

 

 次の目的地に向かっている途中で、野田さんが私の顔色をうかがいながら聞いた。

「さっき、すごく熱心にお願いしてなかった?」

 どんなお願い事をしたの?と聞かれたが、野田さんには到底言えない願い事なので「健康と仕事について平穏無事にとお願いしました」と答えた。まさか「どうか、野田さんが私以外の誰かを好きになりませんように」なんてお願いしたとは言えなかった。それにくらべて、野田さんは「もちろん健康と、仕事の成功。それから家業の安泰かなぁ?」とのんびり答えた。

 隣にいるカップルが「もっと仲良くなれますようにってお願いしたよ」とお互い報告しあっているのを見て心底うらやましいと感じ、自分の願い事がどれほど卑しいものかと情けなさでいっぱいになった。


 「ね?やっぱり早めにきて正解やったやろう?」

 八坂神社へお参りした後、ちょうど11時半を過ぎたところだったので、長時間並ぶ羽目になる前に早めに昼食をとろうとお店に行くことにした。

 野田さんが紹介してくれた丼屋に行くと、案の定すぐ席へ案内してくれた。優しそうな年配の女性が出迎えてくれて「あらぁ、秀夫くんやないの」と懐かしさでいっぱいの声で野田さんに声をかけた。

 彼も「どうも、ご無沙汰しています」と丁寧に答え、隣にいる私を紹介してくれた。

 「あらぁ、可愛らしいお嬢さんで。新しい彼女?」

 「あ、いや…その」と野田は口ごもり、私と女性を交互に見る。私はニコニコと笑い「可愛いなんて大袈裟です」と女性に返した。

 「そんな謙遜して。前の彼女なんて化粧の濃いだけの子やったし」

 「そ、そんな昔のこと。」

 「あらぁ、嫌やわ。昔ってつい最近のことちゃうかった?」

 「きょ、去年のことは、もう随分昔になるんやって」

 「あらそうなんか?えらい堪忍してね」

 「お、おばさん。それより、注文!とにかく早く注文ええかな?」

 野田さんはあわてて話を逸らした。女性も野田さんの焦りに気付いたのか、今度は私に向かって「えらいすんません。しゃべりすぎたわ」と謝罪し、私たちの注文を聞いた。私たちは揃って、野田さんがお勧めしてくれたマグロ丼を頼んだ。

 女性がいなくなると、急に周りが静かになった。野田さんは先ほどの女性の話を未だに引きずっているようで明らかに目が泳ぎ、手も所在なさげにウロウロとテーブルの上を彷徨っていた。

 何か別の話をしようと頭をフル回転させているようだが、何も思い浮かばないようで不自然な咳ばらいが2度ほど続いた。

 私はそんな野田さんが気の毒で我慢できず、何度かこの丼屋について色々と話を振ってみたが、それでも彼の動揺は収まらないようだった。

 これでは楽しい昼食がぎこちなく終わってしまうと思い、「気にしてませんよ」と野田さんに伝えた。

 「私も大人なんですから、いい年してヤキモチとか。そんなのないです」

 私はむしろ私の知らない野田さんを知っているあの女性が羨ましくて、前の彼女とは一体どんな風にこの店に来たのだろうと興味津々だった。

 でもそれが俗世間で言う「嫉妬」と思われてしまうのなら、色々と話を聞きたくても「気にしていない」以上のことは何も言わないほうがいい。

 かわりにお品書きにある料理について、あれこれと野田さんに質問をすることにした。野田さんはしばらくの間、私を見つめていたがやがて「そうか」とだけ言い、私の料理に関する質問にひとつひとつ丁寧に答えてくれた。


 下鴨神社へ着いた頃には、ちょうど14時をまわったところだった。縁結びのお社は時間的にも大勢のカップルで賑わっていた。

 「さすが、縁結びのパワースポットなだけあるね」

 「そうですよね。絵馬とかおみくじとか可愛いし。カップルたちを見ていると楽しそうで良いですね」

 「やってみる?絵馬の願掛け?」

 野田さんは穏やか表情で私に促した。先ほどの丼屋で見せていた、あの焦った表情とは正反対の表情だ。実は丼やからここまでくる間、時間がたつにつれて徐々に「化粧の濃いだけの女性」の事が気になり始めていた。

 「もしかして、勝俣さんじゃないですか?」とか「それとも婚約者ですか?」などなど、とにかく聞きたくてウズウズしていたが、私自身が元々気が弱いので「ちょっといい?」なんて聞けるわけはなかった。

 彼は授与所に陳列さえている絵馬を手に取り、「どう?」となおも願掛けを進めてくる。じゃあやってみようと、野田さんから絵馬を受け取った。そのまま会計まで進み、会計場所からすぐの場所に設置されている机に座った。備え付けのペンを取り、どんなお願い事を書こうか考え始めた。

 そう言えば縁結びというのは恋愛でなくても仕事や色んな方面での縁結びでも良いのだろうかと考えた。それならば、今の私が一番良縁でありたいものは何かと思考をかなり使い考え込んだ。迷いに迷った挙句、シンプルに恋愛の縁について願掛けすることにした。

 『野田さんと良い縁で結ばれますように』と書いたものの、恥ずかしくなって急いで目隠しシールを貼った。

 すると、ちょうどいいタイミングで野田さんが「できた?」と聞きながら覗き込んできた。私は慌てて「今からお参りしようと思ってました」と答えた。


 まずはお社に立って、そこから反時計周りに2周する。3週目で絵馬を絵馬掛けにかける。絵馬をかけ終わり、お社に参拝して連理の賢木の鈴を鳴らして終了した。

 野田さんはどこにいるんだろう?と思い、あたりを見廻すと何かを買っていたようで授与所から出てきたところだった。

 「もしかして、今終わった?やっぱりタイミングがぴったりやね」

 「待つっていうことがなくて、ほんとにいい感じですね」

 「じゃあ、これ。あげる」

 と言って野田さんが差し出したのは、縁結びのお守りだった。「お互いの良縁を願ってってことで」と言い、自分は財布にしまった。私は迷った挙句、携帯のストラップに付け加えた。私の携帯を見て野田さんは「意外やね」と呟いた。

 なにが?と聞くと、女性はストラップをたくさんつけているイメージがあるが、私の場合は黒い小さなストラップだけだから親近感が湧いたという。

 「それは何かのお守り?」

 「いえ、趣味で買ったストラップです」

 趣味で?と野田さんが興味津々にしていたので、そのまま携帯を手渡した。野田さんはそのまましばらくストラップを見て、そして「なるほど」と笑った。ストラップは以前に京都に一人で散策した際、あるお寺で購入した歴史上の人物名と家紋が彫られたストラップだった。

 「結構、歴史が好きなの?」

 「歴史というよりもこの人物が好きなんです」

 「生き方がってこと?」

 「そうです。志を曲げずに最後の最後まで戦い続けた信念に心を打たれたというか」

 そして思わず、日本史に初めて出会った幼少期のことや、自分で調べ回っては京都へ再三出向いては足跡をたどり、悲しい最期に胸を痛めたことかと語った。話し終えたところで「しまった」と思い野田さんを見ると、意外にも笑顔で私を見ていた。

 「京ちゃんって、意外に男っぽいんやね」

 「そうですか?」

 「近頃の歴史ブームって、アイドル化されてるから単純に好きって言うかと思った」

 「まぁ、一人の人物の生き方に共感するのもありだと思いますけど」

 もしかしたら私もアイドル好きの一人かもしれないですよ。と言うと、野田さんは「君はそんなタイプじゃないよ」と言い切った。なぜ?と聞き返したかったが、あまりに真剣な表情なので何も聞き返すことができなかった。


 次に訪れたのは下鴨神社内の河合神社だった。ここには手鏡の形をした可愛らしい絵馬があり、そして鴨長明が過ごした方丈の庵というものがある。

 「こんなところに住んでいて、夏は暑くなかったんでしょうか?」

 「昔と今とじゃあ、厚さが違うっていうからねぇ」

 「そっかぁ、それもそうですね。昔は今のように蒸し暑くなかったんですよね」

 夏の暑さが苦手は私は思わず「羨ましい。今の暑さを知らないなんて、なんてせこいんだ」と呟くと、野田さんは「そういうところが変わってる」と笑った。

 「普通さ羨ましいとはいっても、せこいって言わないよねぇ」

 「そうですか?」

 「だって、結局は現代の便利さに慣れてるから、携帯もないテレビもない電気もない。移動手段は徒歩だけっていうのを考えると、暑くても今で良いって考えるんじゃない?」

 「そういうものでしょうか?」

 「そういうもんですよ」と野田さんは言う。そして「君といると、とても楽しい」と言ってくれた。それを聞いた瞬間、絵馬の効果が現れたと期待したが、すぐに野田さんが家業を継ぐ日のことを思うとこのままの関係で付き合うことが一番傷つかなくて済むだろうと考えた。

 だから絶対にこの人のことを本気で好きになることは避けなければいけないのに、先ほどの絵馬に「良いご縁が…」なんて書いたんだろうと、思わず自分で自分に突っ込みを入れずにはいられなかった。

 それにすでに私は野田さんの事を、好きで好きでどうしようもなくなっている自分に気が付いていた。


 「さて、どうしますか?」と、野田さんは下鴨神社をでたところで私に問う。

 時計を見るともうすぐ16時。このままのんびりと鴨川沿いを歩きながら河原町まで歩くのも悪くないなと思ったが、彼がそれに賛成してくれるかどうか不安だった。どうしようか?と考えている私の顔を、野田さんが不思議そうに覗き込んだ。

 「もしかして、何かしたいことがあるんやないの?」

 「あの…無理なら無理でいいんですけど」

 「何?言うてみて?」

 恐る恐る野田さんに鴨川沿いをのんびり歩きながら河原町まで行ってみたいと告げた。行きも歩いてここまで来たのに、帰りも歩きで帰ろうなんて馬鹿じゃないの?と言われるのが関の山だと思っていたが、意外にも「いいね、ブラブラしながら帰ろう」と賛成してくれた。

 「野田さんも変わってますよね」

 「え?そうかなぁ?」

 私が出会った人の中で、この提案にOKを出す人は男でも女でもいなかった。

 大体は「え?バスで帰ろうよ」とか「電車でいいじゃん。足が疲れる」などと不平を言われて断念していた。それを「いいねぇ」という人は、よほど変わっているか疲れ知らずだと思う。が、それを提案する私はもっと変人なんだと思った。


 「鴨川沿いって、歩いてると色んな景色が見られるよなぁ」

 「そうですよね。鴨たちが休んでる姿とか、学生たちがのんびり休んでる姿とか」

 「そうそう、川遊びに必死になってる子供とかね」

 「そうなんです。それからカップルの並んで座る姿」

 「ああ、あれは名物やなぁ」

 そのカップルの仲間になりたいと思わないが、昔は羨ましいと思っていた。寄り添うように座り、川を見ながら2人の世界で語り合う後姿は本当に幸せそうに見えていた。いつかは私も並ぶカップルの一員になりたいと、高校時代に夢見たことはあるが今はそんなことをしたいなんて一切思わない。


 「あのカップルに混ざりたいとか、思ったことある?」

 ふいに野田さんに質問され、あわてて「ないです」と否定した。しかし、まんまと図星を差されたことがばれてしまい「やってみる?」と帰り道に何度も誘われる羽目になった。

 「まぁ、学生時代に何度かしたことあるけど、結構、恥ずかしいよ」

 「そうなんですか?茶化されるとか?」 

 「そうそう。地元の友達が通りがかったら最悪やし」

 「それは、最悪ですね」

 「あれ以降は、絶対に頼まれてもせえへんかったなぁ」

 「それは、まさしく大正解ですね」

 そうやろう?と野田さんは昔を懐かしむように、鴨川を見つめていた。きっと、学生時代は色んな出会いや別れがあって、そしてその時に付き合っていた彼女はとても素敵な人だったんだろうと思う。そうでなければ、今でもその時のことを思い出して懐かしむことはしないだろう。

 「いいですね。昔の懐かしい思い出があって」

 嫌味のつもりではなかった。本当に羨ましくて呟いたのに、彼は困った顔をして「あんまり聞かせる話じゃなかったね」と謝った。そんなことはないと言いたかったが、引き続き楽しかった思い出の話をされると徐々に嫉妬するかもしれない。私は何も言わずに頷いた。


 鴨川沿いをしばらく歩いていると、川の中に反対側へ移動するための飛び石が点々と置かれていた。「不思議な形をしてますね」と言うと、「ああ、あれは亀の形かな?」と野田さんが説明した。

 他にも船や様々な形の岩が点在しているという。一人で歩いていた時には気付かずに通り過ぎていたことも、2人でいると4つの目が色んなものを見つけてくれて話が尽きることはなかった。

 それでも私のなかでは未だに丼屋の女性の話や、いつか継ぎたいと言っていた家業について聞きたくてウズウズしていた。

 もし野田さんに許嫁がいるのなら、私とこうやって会ってくれるのはあと何回くらいなんだろう。もしくは、これが最後になるのだろうか?そうなれば縁結びにもっと必死に願掛けすればよかったと後悔した。

 そんな暗い考えばかりをしている私に気付いているのか、先ほどから野田さんも無口になっていた。そのまま20分ほど2人とも一切話すこともなく、ただ真っ直ぐに河原町に向かって歩いていた。


 「このあと、帰りはどうするん?」

 「帰りですか?」

 このまま帰るのではないのか?と思ったが、どうやら夕飯はどうするのかと聞いているようだった。私は「とくに決めていない」と答えた。

 「じゃあ、河原町の近くで夕食でもどうですか?」

 「はい、おすすめのお店でお願いします」

 私がそう言うと、野田さんは「まいったなぁ。すごいプレッシャーやん」とぼやき、頭をポリポリと掻いた。その仕草が可愛くて思わず噴き出した。

 「あ、ようやく笑ってくれた」

 野田さんは安心したように私を見た。どうやら私はしばらくの間、ずっと落ち込んでいるような表情をしていたようだ。きっかけは野田さんの昔話?いや、そうではない。私の独りよがりの独白で、勝手に落ち込んでいただけだ。「気を遣わせてごめんなさい」と言うと、「そんなことない」と野田さんは明るく答えた。

 「少し歩いた先に、小さな居酒屋があるんやけど。どうかな?」

 「そこがいいです」

 「そういうと思ってた」

 気が付けばすでに18時を過ぎていた。もしかしたら夕飯時なので、少し待つかもしれないと言われたが構わなかった。今日はなんだか心も体もとても良好で何よりも幸せだった。


 こじんまりとした居酒屋は、長身の野田さんが入ると余計に小さく見えた。ここにもよく通っているのか、主人らしき人が野田さんの顔を見ると「いやぁ、どうもどうも」と声をかけてきた。

 そしてすぐ後ろにいる私を見て「あら、可愛らしいお嬢さんやねぇ」とニヤニヤしながら野田さんに言った。

 「冷やかしはやめてくださいよ」

 「いやいや、ようやく彼女を紹介してくれる気になったんですか?」

 「何を突然言うんですか」

 野田さんは、店主に「とりあえずビールを2つ」と頼み、店主も「はいはい」と楽しげに返事をした。

 「でも、ほんまに珍しいねぇ」

 「何がですか?」

 「野田さんが、男友達以外に女の子を連れてくるなんて一度もなかったから」

 「まぁまぁ、その話はもうエエですから」

 「なんや、おもろないなぁ」と店主は、なおも楽しそうに私に向かって目配せした。

 野田さんと店主は丼屋の女性よりも親しげで、私の目の前で2人の会話がポンポンと飛び交っていた。

 「お嬢さんは、名前はなんて言いますの?」

 「はい、穂斗山京と言います」

 「へぇ、珍しい名前やねぇ」

 「はい、よく言われます。漢字で書くとどうやって読むの?とか」

 「どんな漢字を書くんかなぁ?」

 「稲穂の穂に、北斗七星の斗、それから山谷の山に、京都の京で『ホトヤマ・ケイ』と言います」

 「はぁ、なんか自然に優しい名前やねぇ」

 「そうなんです。自分で言うのもなんですが、結構気に入っています」

 店主は満面の笑みで「自分の名前が好きやんて、誇らしいことやないか。胸張って言うてええよ」と言った。私は嬉しくて「ありがとうございます」と答えた。

 居酒屋ではその後も店主と野田さんと私とで話が盛り上がり、気が付けば2時間半も経っていた。あわてて会計を済ませて店を出た。帰り間際店主から「次に来た時はめでたい報告してくれや」と野田さんに言った。野田さんは「勘弁してください」と半分嬉しそうに、半分困った様子で返答していた。


 最寄り駅の正雀駅に着いた頃、野田さんに家まで送ると言われたが丁寧にお断りした。今日はたくさん楽しませてもらったのに、これ以上はお世話になるわけにはいかないと言った。すると野田さんは「好きな子を部屋まで送るのが、デートの醍醐味」と言い、結局、部屋の前まで送ってもらうことにした。

 「あの、帰りが遅くなりませんか?」

 「それでも一人で帰らせるわけにはいかないでしょう?」

 「ありがとうございます」


 アパートの前まで行くと「折角だから、コーヒーでも飲みます?」と誘ってみた。すると彼は「いや、今日は遠慮しておきます」と言った。そして「次は部屋のなかまでお邪魔します」と言った。

 「どうせなら、お泊りしてもいいですよ」と言うと、野田さんは笑いながら「どうしょうかなぁ」と笑った。私がマンション入り口のオートロックを開錠して階段を上がり、姿が見えなくなるまで見送っていた。


 【2】

 朝早くに職場に着くと、突然ノッポに呼び出された。

 「どうした?深刻そうな顔をしてるなぁ」

 俺がそう聞いてもノッポはただ小さく唸っただけで、それ以上は何も言わなかった。そして、そのまま喫煙室へ連れていかれた。喫煙室には珍しく俺とノッポしか行かなかった。

 「実は、仕事を止めようと思うんだ」

 「辞める?いつだよ?」

 俺が聞くと、早くて今月もしくは来月には辞めると言った。理由を聞くと、ノッポはしばらく俺を見つめて、やがてこう言った。

 「起業しようと思っているんだ」

 「起業か…いいな」

 「今の取引先の相手と、実は内々で起業して新し事業を始めるという話を進めていた」

 それはノッポは今の取引先の相手と共同経営で会社を興すという事だろうか?俺はノッポの次の言葉を待った。

 「細川には、一緒に来てほしいと頼んだ」

 「そうか」と俺は頷き、ノッポの固い決意が宿った目を見て確信した。俺がどういっても、彼はもう少し留まってこの会社に雇われる気持ちはないようだ。

 「それから、お前にも一緒に来てほしいと思っている」

 「俺?」

 「そうだ」とノッポは力強く頷いて俺を見つめた。どうやら本気で言っているようで、どこか断ることができない雰囲気を出していた。

 「お前が、将来的には家業を継ぐのは知っている。それを知ったうえで一緒に来てほしい」

 ノッポはそれだけ言うと「返事はまた今度聞きに来る」と、俺の返事を待たずに喫煙室を出て行った。入れ替わりに別の部署の男性2人が入ってきた。

 俺は簡単に挨拶をしてその場を後にした。奴の決心は本物で、その決心を覆すことはできない。会社への恩義と友との友情。どちらを取るべきなのか、俺はしばらくの間、考えることとなってしまった。


 ● 2012年:2月下旬


 野田さんから「今から会えないか?」というメールが届いた。いつもの野田さんらしくない、半分強制的な雰囲気があった。何かあったのだろうかと瞬間的に感じ「もうすぐ仕事が終わります。7時ごろなら部屋に行けます」と返信すると「車で会社前まで迎えに行く」とだけ返ってきた。

 以前、待ち合わせの場所で指定されたハービス側のバス停留所近くに行くと、すでに野田さんの車が停まっていた。

 「すみません、お待たせしました」と言って助手席に乗る。野田さんは「お疲れ様」と言ってくれたものの表情は硬いままだった。やはり何かあったんだと感じた。もしかしたら別れを切り出されるのかもしれないと、ふいに恐怖を感じ始めた。

 「少しだけ、ドライブしてもいい?」

 野田さんの声は、とても低くて暗いものだった。「もちろんです」と答えると返事もなく車が発進した。御堂筋の渋滞の群れの一員となり、その間もお互い無言のままで私は何とか空気を変えようと思考をフルに使ったが、結局は楽しい話も何も考えることができなかった。

 「ごめん、急に呼び出して」

 野田さんはそう言うと、私の右手をぎゅっと握った。その手は少し震えている。

 「どうしたんですか?」と聞くと「会社の話なんだ」とだけ答え、それ以上の事を話してくれることはなかった。

 気が付くと天保山に到着していた。車はそのまま道路沿いに停車して、とくに車外に出るような気配はなかった。遠くを見ると、夜の闇にぽっかりと浮かぶ海遊館がとても綺麗でとても儚く見えた。

 「ノッポが…親友が退職届を出したんだ」

 急に野田さんが話し始めた。私は何も言わずに、野田さんを見た。こんな時はどんな言葉をかけていいのか分からない。

 「あいつ、第一線でずっと頑張ってた。でもあいつの才能が憎らしい部長がいっつもあいつをバカにして…嫌味ばっかり言ってた」

 野田さんは深呼吸をして、次の言葉を懸命に探している。気が付くと、野田さんの手を握り返していた。野田さんははっとしたような表情になり、私の顔を見た。それから「あいつに一緒に会社を興そうと誘われた」と言った。

 「あいつ、ずっと起業することを考えてた。もう一人の友達もあいつと一緒に自分たちらしい会社を作り上げるって俺に言った。俺も一緒に来いってさ」

 どうやら野田さんは、その友人たちの期待に気持ちに添えるような働きを自分ができるのだろうかと考えているようだった。

 そして、野田さんなりの今の会社への恩義と、彼らとの友情の狭間で揺れているのだ。

 「あいつらと作ってきた仕事は、何よりも楽しかった。でも俺は家業を継ぐことを考えている。2人はそれでも良いって言ってくれた」

 いつか辞めてしまうかもしれない野田さんを引き抜いて、それでも一緒に会社を興したいと言っているんだから、私なら間違いなく友達と最初は苦しいけれど自分たちで作り上げていく会社を選ぶだろう。なら、野田さんはどこにひっかかりを感じて悩んでしまうのだろう。

 「野田さんは、その2人が好きですか?」

 私が聞くと、野田さんは驚いた表情をして「好きだ」と答えた。そして「この仕事も好きだ」と付け加えた。

 「野田さんは欲張りですよ」と言うと、思った通りにむっとした表情で「どこが?」と私に聞いた。

 「2股はこっそりやれば可能ですけど、日本で結婚するなら1人としかできません。それと同じです」

 「どういう意味?」

 「どっちも欲しいというのは、ただの欲張りです。」

 「だから何なの?」

 「いつか辞めてしまうことを知っているのに、一緒に会社を運営しようと言うのは、野田さんにはそれだけの魅力があるからです」

 野田さんは黙って私の話を聞いている。その表情は怪訝そうで、いつもの優しい面影は一切なかった。それでも私は話を続けた。

 「いつか別れてしまう相手を変わらず好きでいてくれて、この先も仲間として信頼してくれるのは苦楽を共にした2人だと思います」

 「それって、今の会社を辞めろってこと?」とやはり怪訝そうな表情で私に聞いた。私は「どちらとも言えない」ことを告げて、「悩むということは、どちらをとっても正しいことだ」と伝えた。

 「それぞれに、それなりに魅力があるんだから悩むんです。今の会社も野田さんにはとても魅力的な場所だし、2人の誘いも魅力的だから悩むんです」

 「だったら、どうすればいい?」という野田さんの目には、先ほどまでの怪訝な雰囲気はなくなっていた。本当の迷いだけが現れていた。

 「悩んでください。私はその間も、ずっとそばにいます。それに、どちらを選んでも2人は野田さんの友人に変わりはないです」 

 野田さんは私をずっと見つめたままで何も話さずに、そっと私の頬を撫でた。そのまま顔をゆっくりと近づけて、軽くキスをした。そのまま何度も繰り返し、頬や唇、額や首筋にキスを繰り返して、やがていつも通りニッコリと笑った。

 「わかった。一生懸命悩んでみる」

 「そうしてください。私も野田さんの悩みが解決するまで、ずっと一緒に居ます」

 「じゃあ、今夜はうちに泊まる?」

 「もちろん。でも、着替えと化粧品を取りに行きたいです」

 「わかった」と野田さんは言うと、そのまま車を発進させて海遊館の傍をゆっくりと回って吹田まで車を走らせた。


 1週間後、野田さんから「あいつらと呑気でバカみたいな会社を作ろうと思う」という連絡が入った。私は「じゃあ、お祝いにご馳走を作りましょうか?」と言った。

 「うん、とびきり美味しい手料理をお願いします」

 野田さんの声は、あの時のような暗くて震えるような声ではなかった。どこか軽快で、吹っ切れたような声だった。


 ● 2012年:3月


 3月になると、正月から続いていた問い合わせ地獄がひと段落していた。おかげで今まで溜まっていた有給を使うことができたり、春休みに似た長期の連休を週替わりでもらうことができるようになっていた。

 「穂斗山くんは、来週から春休みだよね?」

 先週、春休みを早々にもらっていた安藤が私の席にきてそう聞いた。私はカレンダーをチェックして「そうです」と答えた。

 「それまでに必要なら引き継ぎをやっていてほしいけど、何か溜まっている仕事ってあるかな?」

 私は手もとのワークスケジュールを見直した。去年まで必死で作成していた資料はすでに完成しているし、片桐がいなくなった後に引き継いでいる。

 電話応対の品質チェックも、私のほかに新しく入った品質専門の社員の梅垣さんと無理のない程度に手分けをしながら進めているので、何ら他のスタッフに私のいない間にやってもらわなければいけない仕事はなかった。あるとしたら、日々の報告書くらいだ。

 私はそのことを安藤に告げると、満足そうに頷かれ「わかった」という言葉をもらった。

 近頃の安藤は毒が抜けたように穏やかで優しさにあふれていた。スタッフたちへの気遣いも完璧で、誰も彼を悪く言う人間がいなかった。

 鈴子曰く「女ができた」というが、毎朝8時半から夜9時まで仕事をしていて、一体、いつ女性と付き合うようなきっかけを作ることができるのだろうと疑問を感じた。

 「もしくは休み中に女ができたんちゃうかな?」

 「正月休みとか、春休み中に?」

 鈴子はそうだと言って、恐らく社内の人間と付き合っているのではないだろうかと推測していた。そうしてそこまで断定的に話ができるのだろうかと思ったものの、たしかに安藤のような変わり者ならば社内の人間で、余程、彼の行動や性格に理解のある人物でないと彼女なんて務まらないだろう。

 「いつもは自分が恋愛話の情報発信基地なのに、近頃はそんな話を一切しないところも怪しいんだよね」

 鈴子の観察力はさすがだと思った。ということは、私の心境の変化もすでに見抜いていることだろう。私は私であまり突っ込んで話をされたくないと思ったので、この話はここまでで終了することにした。

 「ところで、鈴ちゃんは連休中に何処かに行く予定あるの?」と話題をふると、鈴子は嬉しそうに「新しい彼と岡山に行く」と言った。

 「前から蒜山の辺りかな、あとは美作三湯とかね。観光スポットを毎日歩き回ろうって話をしてる」


 鈴子の春休みは再来週だが、今にも新幹線や夜行バスに乗って岡山に行ってしまいそうな勢いで話してくれた。

 私はと言うと野田さんの部屋に数日間、お世話になる予定になっていた。野田さんに連休の事を話すと、早速、私の休みに合わせて4日間の有給休暇をとってくれた。どうやら「退職予定者は、好きなだけ有給を使っても問題ない」そうだ。

 おかげで鈴子のような観光地巡りとまではいかないが、三重県に日帰りでもいいから遊びに行こうと話をしていた。

 鈴子は、ぼぉっと物思いにふけっている私を見てニヤリと笑い「お互い楽しもうね」と言った。どうやら、完全に見透かされていたようだ。


 「その彼女って、もうそろそろ君の心の中まで読めるようになってんじゃない」

 「それは、あり得るかもしれないです」

 連休初日、野田さんと早速、三重県の伊勢神宮に行くために車を走らせていた。今回は少し遠出になるので、大阪府内は野田さんが運転をして、大阪を過ぎたら私が運転する予定になっている。私はのんびりと助手席に座りながら、三重県内の道路や伊勢神宮までの道のりをチェックしていた。

 「彼女に色々と話を聞きたいなぁ」と突然、野田さんが言いだしたので「どうして?」と聞くと、野田さんは何となくそう感じたとだけ答えた。

 「京ちゃんが、今、何を考えて俺といるのかとか。色々透視してほしいって思ってね」

 「わ、私ですか?」

 野田さんの言葉を聞いて、私は思わず声が裏返ってしまった。正直に言えば、野田さんといるときは本当に何も考えていない。何も考えずにリラックスした状態で傍にいるので、何も考えていないということになる。それに、誰かが傍にいてリラックスできる状態が今までなかったので、できる事なら永遠に今の時間が続けばいいと心の中で念じている。

 私は「だったら、野田さんの事も透視してほしい」と切りだしていた。実際、いつまで一緒にいることができるのだろうかと、毎日のように悩んでいた。こうやって一緒に出掛けるのも、家業をつぐまでの期間限定なのかもしれないと思うと胸がつぶれそうになった。

 「とりあえず、伊勢神宮についたら、色々話そうね」と野田さんは言って、そのまま車を走らせた。

 三重県に着くと先ほどの車内での話など全く忘れてしまい、伊勢神宮や二見シーパラダイス、それに夫婦岩と大忙しで車を走らせては観光スポットを楽しんでいた。

 「次に来るときは、宿泊予定にしてもっとゆっくり回りたいね」とお互い話をしながら、三重県から大阪へ帰って行った。帰り際に、私は窓から見えるホテルや旅館の名前を思わずメモに書いていた。「何をしているの?」と聞かれたので「次に来る時に泊まるホテルや旅館を今から考えている」と答えた。

 するとやっぱり野田さんは、「そういうところがいいよねぇ」と言って笑った。


 ● 2012年:5月


 【1】

 野田さんたち3人が会社を興すと言って退職してから1か月が経過した。

 毎日とまではいかないが、それなりに電話やメールで連絡は取り合っているが、何となく疎遠になり始めているように感じていた。

 「会社のほうはどうですか?」と聞いても「何とかやってる」とだけ答えて、それ以上は何も話してくれない。それに得意先を増やすためだと言って、週3回くらいは飲みに行っているという。

 「お酒は好きだし、無理に飲むことはないよ」と心配する私を優しく諭してくれた。

 それでも心配している気持ちを拭い去ることはできなかった。

 3人の会社は京都に近くてテナント料も安価な場所だという。「とにかくしばらくの間は、休みらしい休みは無しで仕事をすることになる」と言っていたが、本当に、毎日毎日、電車や車で仕事に奔走していた。

 一度だけ、駅のホームで鉢合わせしたことがあった。その時の野田さんの顔は、以前の時よりも充実感に満ち溢れているように見えた。とにかく、仕事について全般的に応援しているが、少しは休んでほしいとも思っていた。


 ゴールデンウィークも最終日を迎えただった。私は久しぶりに光井や池田と買い物を楽しんでいた。お互いの近況報告や、仕事の悩みを存分に聞いてもらい、気持ちも顔色もすっきりしたところで、大阪駅に向かって歩いていた。光井も池田も阪急電車を利用しているので、阪急百貨店前の連絡通路で立ち話をしていた時だった。

 阪急電車側から阪急うめだ店へ向かって歩いてくる人並みの中に、見慣れた姿があった。野田さんと他に数人いる。男性と女性で恐らく合計6程度だと推測した。

 会社関係の人間といるなら、話しかけるのはまずいと思って気付かぬふりをすることにした。それでも、これからどこに行くのかと気になっていたので、横目で野田さんの姿を追いかけていた。

 すると野田さんの体が一瞬だけ、横に揺れた気がした。体調が悪いのだろうかと、思わず視線を向けると野田さんの腕に女性がしがみついていた。女性が転んだのかと思ったがそうではない様子だ。

 女性は野田さんの耳元に手を当てて何か話をしている。すると野田さんは嬉しそうに笑い女性の頭を撫でた。それを見ていた仲間たちが2人を冷やかしている。

 女性はなおも野田さんの腰に手をまわして、可愛らしい顔を野田さんの胸において、上目づかいに彼を見ていた。彼もまんざらでもない顔をして、彼女を親しげに見つめている。

 「どうしたん、京ちゃん?顔色悪いで?」と池田が話しかけているのすら気が付かなかった。光井も私に何か話しかけているようだが、私の耳には何も入ってこなかった。

 「ごめんね、先に帰る」とだけ言って、私は歩き出した。目線は野田さんに向いたままだった。池田と光井は不審に思い、私が見つめている先を見た。彼女たちは野田さんの外見を知らないので、結局、私が何を見ているのか分からないでいた。

 私の視線に気が付いたのか、野田さんが何気なくこちらを見た。きっと彼も私に気が付いたのかもしれないので、私は慌てて視線を逸らした。

 彼の顔が真っ青になっているように思えた。そして、彼に執拗に絡みついている女性をはねのけようとしているようだ。私はそのまま百貨店の入口に向かい、女性用トイレへ入った。私は個室へ入り、携帯の電源を切った。それから、水音再生ボタンを押しながら声を押し殺しながら泣いた。10分以上、個室を占領した後、目の周りを真っ赤に腫らしながら電車に乗って帰った。


 そうか、新しい女性が見つかったから「仕事で忙しい」とか色んな言い訳を作って会わなかったんだ。野田さんに、とうとう新しい彼女ができた。

 仕事のことも何でも相談できる可愛い彼女と、変わり者で仕事のことをわかってやれない私を天秤にかけたら、間違いなく彼女のほうが重いに決まっている。

 一緒にいた彼女、スレンダーで長身でメイクもばっちりでとてもきれいな人だった。

 家に帰るとさっさとシャワーを浴びにお風呂場へ直行した。入浴中にインターホンが何度か鳴った気がしたが気のせいだと思うことにした。それからすぐに、テーブルの上に置いている携帯電話の電源が切れたままになっていることに気が付いた。

 もしかしたら、家族から突然の電話や古い友人から連絡が入るかもしれないが、しばらくの間は携帯電話の電源を切ったままでいようと思った。誰からも電話やメールを受け取りたくなかったし話もしたくなかった。

 次の日、原因不明の高熱と目の痛みのおかげで、初めて当日欠勤の連絡をすることになってしまった。


 鈴子に会ったら、まず一言だけ言いたいと思っていた。

「ドラマみたいなシチュエーションって現実でも時々起りうるんだよ。鈴子も気を付けてね」。でも、そんなことを言っても鈴子は「何を言ってるの。気のせい、気のせい」と笑い飛ばすんだろう。

 彼女のような性格の持ち主に生まれたかったと自分の性格と、今までの人生を呪いに呪った。そして客観的に、ストーカーってこういう気持ちが生まれた瞬間に誕生するんじゃないだろうか。とも思った。


 【2】

 阪急梅田駅から阪神電車まで、細川やノッポたちと一緒に得意先の役員たちを見送るためにのんびりと歩いていた。

 「野田さんが結婚してないって変な話ですね」

 役員の女性が酔っぱらった口調で話を切り出した。商談中も何かと俺を見てはニッコリと微笑んだり、ベタベタと腕に触れたりしてくるので、正直うっとおしくて仕方がなかった。

 社長からは「最近、男と別れて寂しいらしい」と耳打ちされ、適当に相手をしておいてほしいと頼まれた。

 「ねぇ、これから飲みに行きませんか?」と彼女は、俺にダイブするように飛びついてきた。おかげでもう少しで転びそうになった。

 「お、仲良いねぇ」とノッポや細川は冷やかしている。俺は邪険にすることもできずに「酔いすぎですよ」と頭を撫でながら、彼女の体を引き離そうと腕と撫でている手に力を込めた。しかし、酔っ払いの力は女性でも侮れないものだ。

まったく腕から離れる気配もなく腰に手をまわして体を密着させてきた。

 いい加減にしてほしいと叫びたくなり、細川達に目を向けたが彼らは「我慢しろ」というように目配せをしている。相手先の社長も「離れるんだ。恥ずかしい」と女性に声をかけているものの、本気で引き離そうとはしていない。


 ふいに別の方向を見ると、彼女の姿らしきものを見た気がした。もう一度、目を凝らしてみると、やはり彼女の後姿のようで百貨店へ入っていくのを見た。

 「ちょっと…本当にごめんなさい。離れてください」と女性を無理やり引き離した。

 細川のどうしたんだ?という制止を振り切って、百貨店へ猛ダッシュした。中へ入ると、想像以上の人波で歩くスペースを確保することすら難しい状態だ。結局、3階フロアまでくまなく探したが、彼女らしい姿を見つけることができなかった。念のため携帯電話に電話をしてみると、圏外アナウンスが流れた。

 メールを送ってしばらく様子を見ようと思った。以前も、同じようなことが起きた気がするが、その時も何とか誤解やすれ違いの気持ちが解かれて関係を壊すことなく持ち直せたんだ。今回だって、きっと大丈夫だ。彼女は、俺の事を分かってくれているし、仕事の事だってちゃんと理解してくれている。でも、このところ彼女は自分の事を話してくれない。ドラマの話や音楽の話、最近見た映画の話題が中心のような気がした。

 やっぱり彼女は、不満な気持ちを一人で我慢しているのかもしれない。彼女が自分の話をしなくなる時が一番危険な兆候だと、何となく理解している。嘘をついているときや泣きたいときがそうだ。


 細川達と合流し制止を振り切って走って行ったことを謝罪した。社長は「なかなか会えない知り合いがいると、思わずそうしたくなるよなぁ」と、社交辞令でも理解を示してくれたが、彼の隣には不満げな女性が立っていた。

 「それって、もしかして…彼女ですか?」と不機嫌を隠そうともせずに聞いてきた。

 社長は「いい加減にしなさい」と、今度こそは彼女の腕を掴んで制止させて、俺への一連の無礼を詫びた。だが当の彼女は悪いとも感じていない様子で、なおも「誰だったの?」と聞いていた。俺は何も言わずに、社長へ「こちらこそ、申し訳ない」と詫びた。


 「商談は成立だけど…なんで急に走り出したんだ?」

 帰り際に細川とノッポから、案の定、詰め寄られる羽目になった。たしかに俺の行為のせいで社長の機嫌が悪くなってしまったら、今日1日の努力が無駄になるところだったんだから、当たり前のことだ。俺は2人に精いっぱいの謝罪をすると、最後の最後まで「何でもない」と繰り返した。

 きっと察しのいい細川は気付いているかもしれない。嘘つきだと思われても本当の事を話す気にはなれなかった。


 夜9時ごろ、心配になって彼女の部屋を訪ねたがインターホンを鳴らしても反応がない。携帯電話へは何度かけても圏外アナウンスになるし、メールを送っても返事はなかった。明日にしよう。そう思って自分の部屋へ戻った。

 明日になれば、彼女から何事もなかったように連絡が入るはずだ。いつもみたいに「返信が遅くなりました。元気ですよ」と返してくれるはずだ。

 しかし、1週間たっても彼女からの返信も連絡もなかった。携帯電話は相変わらずの圏外アナウンスだった。


 【3】

 引っ越しを考えている。と鈴子に話すと、「どうしたの?急に」と驚いた表情で聞き返された。たしかに、突然言う話ではないのはわかっている。突拍子もない話だということも分かっている。

 「ねぇ、前から気になっていたけど。最近、野田さんって人とはどうなってるの?」

 鈴子は私のなかにある何かに気が付いたようで話を切り出した。「なんでもない」と言いたかったが、何でもない行動と表情なのは重々承知なので、鈴子に一連の話をすることにした。

 鈴子は黙って最後まで話を聞くと、そのまま小さく唸って目をつぶった。何かを考えている証拠だ。こういう時は、あまり話しかけないほうがいいと私は知っている。

 私も黙ったまま鈴子を見て、彼女の言葉を待っていた。すると彼女が突然、目を開けて私に言った。

 「それって、ちゃんと確かめたほうがイイよ」

 「でも、別れようとか言われたくない」

 「その臆病風。ただの気苦労だと思うよ」

 鈴子にそう言われると、私も何となく「そうかも」と思えるが、それでもあの時の楽しげな光景が目の裏に焼き付いて離れない。

 「一週間も何もせずに放置してるほうが危ないよ。相手の思う壺やん」

 「でも、怖いし」

 「だったら、私も一緒に話を聞こうか?」という鈴子に甘えたくなったが、これは自分一人の問題で、解決するのも自分の力でないと何も成長しないと思った。だから「それは遠慮する」とだけ答えて、とにかく考えてから彼と連絡を取ってみると話した。鈴子は「できれば今日中に連絡するように」と忠告を受けた。

 その日の夜、携帯電話の電源を久しぶりに入れると着信数は一日に4回、メールは1日に約1通ずつの受信が確認できた。相手は高校時代の友人の名前もあったが大部分が野田さんだった。

 「連絡がほしい。会える時間があるなら話がしたい」と、毎日、同じような内容のメールが届いていた。やっぱりあの時、彼も私の存在に気が付いていたようだ。だから、弁解するために連絡を毎日のようにくれていたんだ。そうでなければ、いつものように2日や3日空けて連絡をくれているはずだった。


 どんな風に返信しようかと考えている最中に、野田さんからの着信が入った。私は思わず通話のボタンを押していた。「もしもし?」という懐かしい声が受話器越しに聞こえた。本当は着信を無視して、メールを送ろうと思っていたのに、なんと声をかけていいのかわからないでいた。

 『今、どこにいるの?部屋にいる?』

 少し慌てた様子の声が聞こえた。歩いている途中なのだろうか。時折、車の走る音や自転車の通り過ぎる音、それに踏切の警告音が聞こえた。

 『あのさ。この前、阪急百貨店の前にいたよね?』と野田さんが問いかけているものの、私は何と答えるべきなのか分からずに無言のままだった。

 『あの、会社の取引先と飲んでて…その、あの女の人に妙に懐かれたんだ』と言い難そうに話し始めた。私は何も言わずに、野田さんの話に耳を傾けた。

 『あの後、追いかけたけど…途中で見失って。部屋まで行っても居ないみたいだったし』と言い、インターホンを何度か鳴らしたことを話してくれた。

 「あの、聞いてもいいですか?」と私が言うと、野田さんは『何でもいいから、話して』と答えた。私はいつの間には泣いていて、声もなかなか綺麗に出せず、とぎれとぎれの声で話していた。

 「あの人の事、すき、でう、か?」

 『どうして、そう思うの?』

 「と、とて、も。楽しそう、で。しあわ、ぜ、そうに…みえた、から」

 『気のせいじゃないかな』

 野田さんは、あくまでも優しく丁寧に答えてくれた。聞き取りにくい涙声で必死に話す私の声を、辛抱強く聴いていた。その優しさに耐えられず、もう少しで大声で泣きそうになるのを必死でこらえて言った。

 「のだ、さんは。好きな、人と、じ、幸せに、なってく、ださい」

 『何を言ってるの?』

 「しあわせ、に、なってください」

 『…わかった』  

 野田さんがそう言うと電話が突然切れた。温厚で優しい野田さんが怒った証拠だと思った。いい加減、面倒で頭の悪い女とは付き合いきれないと思ったんだろう。どうしようもなく苦しくて鈴子に電話でもしようかと思ったが、今、電話をしたところで話なんか通じないほど言葉が不自由になっていた。

 30分ほどすると、インターホンがなったのでインターホンの画面をのぞいた。すると野田さんがそこに居て、ついでに言えばどこかに電話をかけている最中だった。誰と話しているんだろうと思った瞬間、私の電話に野田さんからの着信が入った。急いでとると『ここを開けて』と今まで聞いたこともないくらいの強い口調が聞こえた。抵抗することもできずにドアの開錠ボタンを押すと、画面から野田さんが消えた。そしてすぐに部屋のドアをノックする音が響いた。ドアスコープから外の様子を見ると、案の定、野田さんが立っていた。耳元にはまだ私とつながっている携帯電話を当てている。

 何も答えずにドアをゆっくり開けると、思った以上の速さでドアが開いた。野田さんが途中から力を加えたんだ。そのまま私の体は前に傾いて倒れそうになったところを野田さんに支えられた。そのまま部屋の中まで入ってくると、ドアに鍵をかけて、野田さんが言った。

 「幸せになりにきた」

 「あの、わ、わたし」

 「俺と、結婚してください」

 野田さんはそう言って、手に持っていた何かを私に手渡した。何を渡されたのか確認できず抵抗もできないで、ぎゅっと抱きしめられた。

 「時間がなくてごめん」と何度も呟き、「気付けなくてごめん」とずっと謝り続けた。


 私の気分が落ち着いた頃、野田さんは照れ臭そうに言った。

 「今度、引っ越そうと思ってる」

 「会社の近く、ですか?」

 野田さんは、会社の近くではなく京都に引っ越すつもりだと言った。いよいよ家業を継ぐ準備を進めると言う事だろうか。私は思わず身構えた。すると、野田さんの目は動揺しているようにきょろきょろと忙しなく動き、そして緊張感さえ漂わせていた。

 「京ちゃんの仕事って、時間を短時間に変更できたりは無理かな?」

 「あの。どういう意味ですか?」

 「仕事が好きだって言うなら、何も言わないけど…家にいる時間を多くしてほしいんだけど」

 「今の仕事では、難しいと思いますけど。なんでしょうか?」

 野田さんは、しばらく私を黙ったまま見つめた。察しのいい人間なら…例えば、鈴子なら野田さんが何を言いたいのか分かってしまうんだろうか。野田さんは、諦めたようにため息をついて、そして私の手を取って言った。

 「一緒に暮らそう。それから、結婚してください」

 自分の手が震えているのが分かる。それから、野田さんの手も震えている。じっと見つめる瞳も不安げに震えていた。私は未だに彼の言葉を信じることができないでいる。今の言葉はただのカモフラージュで、きっと数か月先、数週間先になって用が済んだら、生ごみを捨てるように臭そうに鼻をつまんで追い出される自分を想像した。

 「俺は…だめ、かな?」

 野田さんが駄目だということは微塵もなかった。むしろ、大歓迎と言えるべき存在だ。どうして不幸な出来事しか想像できないんだろう。どうして、幸せな光景を思い浮かべることができないんだろう。私は首を左右に振り「そうじゃない」と言った。

 「私は、怖い女です。一人で思って、泣いて、悪いことばかりを考えて」

 「知ってる。全部、知ってるから」

 「きっと、いつか…私が足枷になるときが来るかもしれないです」

 「どうして?」

 「あ、あなたが、す、好きだから」

 「わかった。足枷でも何でも、色んなもので括り付けてもいいよ。君を養う権利をくれるならね」

 野田さんはその日、初めて私の部屋に泊まってくれた。次の日の朝、同じ駅のホームで電車を待ちながら、昨日と同じスーツで出勤したら「変に勘ぐられるかも」と言って笑った。


 引っ越しが決まったのは5月末頃で、私はその連絡を待って6月末で会社を辞めると安藤に伝えた。

 安藤は最初「ウソだろ?仕事の虫の君が、会社を辞めるって自殺行為じゃん」と言っていたが、事情を説明すると納得したように頷いた。そして、「大いに噂を広げて、盛大に門出を祝ってあげるよ」と言ってくれた。


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