今の自分と過去の言葉たち(2)
先を急ぐように野田さんが言葉を続けた。きっと、とても優しい表情をしているに違いない。こんなにわからず屋で思い込みが激しい私を決して責めずに、根気よく接してくれる。でも決して、私には心の内を見せてくれない。勝俣さんになら心を開いて話をするんだろうか?気が付けば、私は自嘲気味に言い放っていた。
「勝俣さんになら、話せますか?」
「どうしたの?急に?」
「仲のいい、勝俣さんになら悩んでいることを話すことができますか?」
「だから、何も悩んでいないってば」
野田さんの語気が強くなった。少しだけイライラしているのが雰囲気でわかる。それでも、自分の我儘を止めることができなかった。
気が付くと私は野田さんに飛びついて必死でしがみつき、半分泣いているような声で言った。
「今日、泊めてください」
「は、…はぁ?」
「一緒に居たいんです」
「いや、ちょっと。待って…」
「一人になりたくないんです」
「うん、わかったから。落ち着いて」
「今日だけでもいいから、傍にいてください」
野田さんは何も言わずに私の背中を優しく撫でた。それはさっきよりも、より一層優しく撫でていた。
「京ちゃん…落ち着いて」
野田さんの何度目かのその言葉に私は我に返った。あわてて野田さんから離れると、自分の咄嗟の行動や、思わず言ってしまったことが急に恥ずかしくなった。
「す、すみません。ごめんなさい」
そういうと野田さんの制止を振り切って、階段を猛スピードで駆け下りて、そのまま自分の家まで走り続けた。
自分の部屋の玄関にたどり着いたとき、ちらりと通路から階下を見たが、そこに野田さんはいなかった。もしかしたら追いかけてきてくれたかもしれないと期待したが、そんなものゴールデンタイムや昼間の恋愛ドラマでしかおきないシチュエーションだ。
野田さんは私の我儘でバカな発言に呆れてしまい後を追う気もなくなったんだろう。どうしてあんなことを言ってしまったのか、後悔ばかりが自分の心に蓄積されてしまい、涙がひっきりなしに溢れ出ていく。
折角、優しい良い関係になってきたのに…どうして私は、妙な不安を抱えては一人で暴走して取り返しのつかないことをしてしまうんだろうか。部屋について一息ついた頃、大変なことに気が付いた。野田さんの部屋に携帯電話を忘れて帰ってきてしまったのだ。私の顔は先ほどとはうって変わって真っ青になり、どうやってとりに行こうかと眠れぬ夜を過ごす羽目になった。
結局、全く眠れないまま、いいアイディアも思い浮かばないまま朝を迎えた。
携帯電話がなければ誰にも助けを求めることもできず、誰にも相談できない現代に苛立ちを覚えた。固定電話あれば、誰かに相談していくつかの作戦を練ることができたはずだ。
「固定電話がほしい」
思わず呟いてみたが、今更どうすることもできない。時計を見ると、朝の9時を過ぎた頃だった。野田さんは起きているのだろうか?それとも昼から出勤すると言っていたので、まだ眠っているのだろうか。とりあえず、携帯電話を取りにいかなければ何も始まらないと思い、嫌々ながらも体を起き上がらせた。
「ごめんなさい、携帯を忘れて帰っちゃいました」と明るく言えば何とかなるだろうと思い、朝食の間、鏡を片手に作り笑いを必死で練習した。
それから昨日の恥ずかしいことを聞かれたらすぐさま「私、少し酔っぱらってたみたいなんです。全然覚えてなくて。ごめんなさい」くらいでいいだろうと、これも鏡を見ながら練習した。
いつもより化粧を念入りに済ませて、着替えを済ませて出かけようとしたところにインターホンが鳴った。誰だろうとインターホン越しにカメラを覗くと野田さんがそこに居た。
「え?な、なんで?」と思わず大声が出てしまい、あわてて口をふさいだ。もしかしたら、今の声で外にいる野田さんに気付かれたかもしれない。しばらく外の様子を伺っていると、野田さんは手持ち無沙汰なのか、体をフラフラとさせてもう一度ならそうかどうか迷っているようだった。私はあわてて通話ボタンを押して「今出ます」と言い、あわてて玄関へ向かった。
「あ、おはよう…ございます」
ドアを開けて、野田さんの顔も見ずに挨拶をした。野田さんの顔は確認していないが、ふっと笑ったような気がした。その感覚が更に恥ずかしさを煽った。
「あ、あの…なんでしょうか?」
「携帯電話。昨日、忘れて帰ったでしょう?」
「あ、…ああ、忘れてました」
野田さんは、いまだに顔を俯いたままの私にも確認しやすいように携帯を私の顔の位置に持ってきてくれた。
「ありがとうございます」
そう言って受け取ろうとすると、携帯電話が私の視界から消えた。思わず顔を上げると、ニッコリと笑った野田さんと目があった。
「ようやく目が合った。おはよう」
野田さんはそういうと、今度は私の手を取って携帯を手渡した。私の手が微かに震えていたことに気付いていないことを必死で願った。
「あ、おはようございます」
「休みって聞いたけど。出かけるの?」
野田さんは、私の頭からてっぺんまでの廻し見て聞いた。今から野田さんの家に携帯を取りに行こうとしていたと、恥ずかしくて言えなかった私は「散歩に行こうと思っていた」と言い訳をした。
すると、私の嘘を完全に見破ったようでクスクスと笑って私の頭を優しく撫でた。
「だったら、一緒に散歩してもいいかな?」
「あ、ああ。はい」
私はあわてて鞄をひっつかみ部屋を出た。その間、野田さんはずっと優しい表情で私を見つめていた。
「戸締りはちゃんとした?」
「し、しました。大丈夫です」
「ならよかった。朝ごはんは食べた?」
「はい、ばっちり食べました」
「じゃあ、少しだけ付き合って。俺はまだ食べてないから」
そういうと、野田さんは近くにあった喫茶店に入った。この喫茶店は、私が通勤途中で必ず目の前を通ることがある。朝食セットメニューも日替わりで、いつか食べてみたいと思っていたところだった。
2人用のテーブルに通され、野田さんは早速メニューを開いた。しばらくメニューを見ていたかと思うと、急に私を見てニヤリとした。
「京ちゃんは、本当に食べなくていいの?」
「あ、はい。でもちょっとだけ」
「じゃあ、食べる?」
「はい、ちょっとだけ食べます」
「じゃあ、一緒に食べよう」
野田さんは昨日ことが、一切無かったかのように接してくれている。それはそれで救われる気持ちになったが、それでもやはり嫌だったんだと思うと辛くて仕方がなかった。
「どこまで?」
「え?」
野田さんは幾分か大きな声で私に問いかけていた。どうやら何かを聞いていたようだったが、私は別の事を考えていたので返事はおろか何を聞かれていたのか全く分からなかった。
「どこまで散歩に行くの?」
「あ、ああ。決めていないです」
「決めてないの?」
「はい。駅に着いてから決めます」
「そっか…」
と野田さんはしばらく考えていたが、やがてにこりと笑ってこう言った。
「俺の会社の近くまで散歩しない?」
「え?会社の近くですか?」
「そう。結構見晴らしも良いし、気分転換にもいいかもねぇ」
「でも、…その」
「そのほうが、俺も安心できるから」
野田さんはそういうと、照れ臭そうに笑いそっぽを向いた。本当に野田さんの会社近くまで行ってもいいのだろうか?と首を傾げた。そんな私の考えを悟ったのか、野田さんはもう一度ゆっくり言い直した。
「知らないところに行かれるより、知っているところに居てもらったほうが良いかもって思ったんだけど…駄目かな?」
私は首を何度も左右に振り、「もちろん行ってみたい」と意気込んだ。
「そうか、ならよかった」
と、野田さんは安心したように微笑んだ。
喫茶店を出ると、この前止めたパーキングエリアに停めてある野田さんの車に乗り込んだ。今日は休日出勤で、駐車場も空いているから車で会社までは車で行くそうだ。
「いつもは上司とか、重役たちが駐車場を占拠しててねぇ。俺たち中堅から下は電車通勤なわけよ」
「へぇ、でも電車通勤のほうがエコで良いですよね」
「うん。まあね。考え方によってはエコで良いかもね」
「満員電車が苦手ですか?」
「うん。香水の匂いとか、汗の匂いとか…結構苦手なんだよね」
野田さんはそう言いながら、満員電車内の事を思い出したのか妙に渋い顔になっていた。私はそれを見て思わず笑ってしまった。
「あれ?何か変かな?」
「いえ。そんな事はないです」
休日ということもあり、ビジネス街へ行く経路は、全く混み合うこともなく進んでいくことができた。さすがに御堂筋辺りは休日や平日関係なく混み合っていた。
「さすがですね。御堂筋って空いているときがないですよね」
「うん。でも、たまにあるんやけどね」
「それも、本当に、たまに、ですよね」
「そう。遭遇できたら幸運すぎるなぁ」
何でもない話をしながらのんびりと車で移動していたが、本心はパニック状態で妙な汗が背中や首筋に先ほどから流れ出ている。そういえば、先ほど野田さんが汗の臭いが苦手だと言っていたことを思い出し、汗臭くなっていないかも同時に気になって余計に汗が噴き出してきた。すると、そんなわたしに気が付いたのか、野田さんはくるりと笑い前を見据えながら言った。
「そんなに緊張しなくても、何もしないから安心していいよ」
「あ、は…はい」
私の返事を聞くと野田さんはしばらく無言になり、そして真顔で切り出した。
「昨日の事。よく考えたんやけど、聞いてくれる?」
私は「とうとう来た」と思い、体をビクつかせた。そんな私に気が付いたのか、彼は幾分か優しい表情になり「怖がらないで」と言った。
「大丈夫です。覚悟はできています」
私は気持ちを整えて、深呼吸をしてからそう答えた。
「覚悟って、何?」
「私、すごく悪いことをしたと思っています」
「悪いこと?」
「酔っぱらっていたとはいえ、すごく我儘で迷惑でバカで失礼なことをしてしまいました」
私は震えながら思っていることをすべて話した。野田さんは何も言わず、ただ前を見据えていた。たまりかねた私は、前を向きながらぺこりと頭を下げた。
「昨日はすみませんでした。」
「それだけ?」
赤信号で停車したと同時に、こちらを向いた野田さんと目があった。卑怯にも泣き出しそうになった私は、慌てて目を逸らし必死で涙をこらえた。
「あの、ここまででいいです」
「どうして?会社の近くに行くんじゃないの?」
「もう、迷惑はかけられないんです」
涙声になりかかっているのが、自分自身でもわかる。青信号になり、再び車が動き出した。しばらく無言が続き、耐えられずもう一度声をかけた。
「つ、次で降ります」
「降りなくていいよ」
「お、降ります」
「無理です」
「降ろしてください」
野田さんは無言でチラリとこちらを見た。その眼はそれ以上は何も話さないと宣言したような意志の強い瞳だった。おかげで私はそれ以上、何も言えなかった。
会社に着くと、会社の地下にある日曜図書館へ案内された。
「ここで待ってて。時々様子を見に来るからね」
優しく話してくれたが、その眼は否定を許さない眼をしていた。私は無言で何度も頷き、颯爽と出ていく野田さんを見送った。
気分転換に図書館内を見て回ろうとウロウロとし始めた時、遠くで楽しげな声がした。男性2人が何やら真剣に議論していた。
「違うって、やっぱりさぁ…こうガツンとくるものを看板に掲げないとだなぁ」
「でもそれは突飛すぎて、よほどのマニアじゃないと食いつかないよ?」
「そうかなぁ?俺はそれくらい突飛な企画がないと人の心をつかめないと思うよ?」
「突飛なのはわかるけど、細川の突飛は突飛を通り過ぎて突飛なんだよねぇ」
「そういうけどなぁ…ノッポは安全道路を歩きすぎてて、こう…インパクトが少ないんだよなぁ」
どうやら仕事のことを真剣に話しているようだと察した私は、邪魔にならないようにと近場の本コーナーへ行き、2・3冊手に取り近くの椅子に座り読書を開始した。
おそらく3時間程過ごしていたと思うが、その間も彼ら2人は「ああでもない」「こうでもない」と話をしていた。声の大きさや話口調からすると、喧嘩でもしているのかなと思ったが、時折笑い声がするので喧嘩ではないらしいと分かった。
「とにかく、野田にも話してみろよ」
「うん。他にアイディアがないか聞いてみるよ」
野田さんの名前が出た瞬間、手に持っていた本をずり落としそうになったが必死でこらえた。あの2人は野田さんの同僚なんだろうか。それとも、後輩なんだろうか。でも「野田」と呼び捨てにしていたからには同僚か上司なんだろうと推測した。
思わず声をかけたくなったが、男性は女友達をあまり紹介したがらないと聞いたことがあるので、知らないうちに勝手に野田さんを餌に話しかけるのも良くないだろうと考えて、結局、彼らに話しかけることを諦めた。
15時を過ぎた頃、気持ちいいくらいに室内に日が差し込み、思わず読書の手を止めてウトウトとしかかった時だった。目の前の椅子を引く音がしたので、慌てて顔を上げた。ニッコリと笑った野田さんがそこに居た。
「お昼寝を邪魔しちゃったかなぁ?」
「あ、いえ…そんなことないです」
「小腹空いてない?」
野田さんはそういうと紙袋を私に見せて、その紙袋の中からチョコ入りクロワッサンを取り出した。
「ここの近くの喫茶店で売ってるんやけど、女の子は結構好きだって聞いてさぁ」
「私も、大好きですよ。そのクロワッサン」
「疲れた時にはチョコレートっていいねんなぁ」
「そうですよね。本当においしいですよね」
いつもは飲食禁止の図書館も、今日だけは内緒で食べてもいいと野田さんから許可をもらい、一口つまんだ。すると、ほんのりチョコ味とクロワッサンのサクサク感が見事にマッチしていて、何とも言えない高揚感に襲われた。
「よかった。機嫌が直った?」
「え?なんですか?」
「泣いてたから、どうしようかと思って」
野田さんは嬉しそうにそう言うと、そのままクロワッサンを口に含み「美味い」と口をモゴモゴさせながら言った。
「あの…私」
「俺も話がしたかった」
野田さんは急に真顔になって、声のトーンを少し落とした。しばらく私を見つめていたと思うと、急に目を逸らしてそして顔を真っ赤にしていた。よくみると耳まで真っ赤になっていた。
「あのまま、本当は部屋に連れ込みたいと思ってた」
「…え?」
「でもさ、そんな事したら最低な奴って思われると思って、必死で我慢した」
「が、我慢ですか」
野田さんはしっかりと頷いた。そして本を握っている私の手を取り、ゆっくりとその手を撫でた。
「俺、結構、酔っぱらってたし…酔っぱらった勢いでって、良くないやん?」
「あの…はい」
「それに、京ちゃんから言わせたのってどうかな?って思ってた」
「あ、いや…あの、それは」
私が慌てふためているのを見て、野田さんはクスクスと笑った。
「京ちゃんが、あんまり男に慣れてないっていうのも、なんとなく分かってたし」
「え?え、はい?」
「だから、もっと…ゆっくり、その段階を踏んで行こうって勝手に決めてた」
野田さんの言いたいことがあまり理解できないまま、私はただただ頷くだけになった。
「勝俣といつの間にか仲良くなってたのも、すごく気に入らなくて。勢いで抱きついたら、やっぱり体が強張ってて…ちょっとショックでさ」
「あ、はい。あの、驚きました」
「でも、あのまま一緒に部屋にいたら…どうにかしてしまいそうで、それで早めに送ろうって思ったら、ああなっちゃって」
「…はい。すみません」
私がそう言うと、彼は「謝らないで」と急いで訂正した。野田さんはその後、何を話そうかと迷っているのか空を見つめ、やがて私を見据えた。
「俺、ちゃんと言ってなかったと思って」
「何をですか?」
野田さんは心底驚いたような顔をした。しばらく私をマジマジと見つめ、そして首を傾げた。私も訳が分からず、同じように首を傾げた。
「俺、京ちゃんに…付き合おうとか、言ってないよね?」
「え…?そう、でしたっけ?」
「うん。たぶん、言ってないと思うねん」
私は今までのことを振り返って思い出そうとしたが、正直言うとそこまで詳しい内容を思い返すことができなくて、やっぱり首を傾げるしかできなかった。
そんな私を見た野田さんは、やっぱり優しく笑い、少しだけ腰を浮かしたかと思うとゆっくりと顔を近づけてきた。何をするのかと見つめていると、私の額に向けてフッと息を吹きかけた。私は思わずくすぐったくて目をつぶった瞬間、柔らかいものが唇に触れた。最初は一瞬で、思わず目を開けると野田さんの顔がすぐそばにあった。
もう一度、柔らかいものが唇に触れた。今度は一瞬ではなくて、もう少し長めに触れた。そのままの状態でしばらくいたが、やがて野田さんがゆっくり私から離れた。何が起こったかきちんと理解できない私を見て、野田さんは照れ臭そうに笑い私の手を取って言った。
「俺と付き合ってください」
「はい、もちろんですよ」
私は迷うことなくそう答えていた。野田さんは満足そうに頷いて、私の頭を愛しそうに何度も大きな手で撫でてくれた。
11月の最終週になった頃、毎日のように鈴子が何かの雑誌を見ながら「ああでもない」「こうでもない」と唸っていた。
「何してるの?」と声をかけると、「何でもないよ。心配しないで」と見ている雑誌を隠されてしまい、結局、彼女が悩んでいる原因がわからないままで、2日間が過ぎた頃だった。
伊勢谷が私のところへ珍しく来たと思うと、「聞きたいことがある」と言い、給湯室に呼び出された。妙に深刻な表情をしていたので、仕事の失敗や頼まれている資料つくりがうまくいっていないのかと、色んな場面を想定しながら給湯室へ向かった。
私が給湯室へ行くと、すでに伊勢谷がそこにいたが、鈴子もなぜかその場にいた。
「なんで鈴ちゃんがいるの?」
「いや、2人に聞きたいことがあってん」
伊勢谷は真剣な表情で私たちを交互に見た。そして、給湯室の前の廊下の人の往来を確認したあと、大柄な体格からは想像できないくらいの小声で話し始めた。
「鈴子さんと、京さんが辞めるって噂を聞いてんけど?」
一瞬、伊勢谷の言った言葉が理解できず、私と鈴子は首を傾げた。そして同時に「え?なんて言った?」と聞き返していた。すると伊勢谷は、もう一度だけ今度はゆっくりと「鈴子さんと京さんが11月いっぱいで辞めると聞いた」と説明してくれた。鈴子を見ると、私と同じくらいあきれ顔になっていて「ばかじゃないの?」と思わず独り言を呟いていた。
「それ、誰から聞いたん?」
「敦子さんから。私と一緒に辞めるって吹聴してる」
「ふ、吹聴?」
伊勢谷は「そうだ」と力強く頷き、実際に敦子に呼び止められて自慢げに話されたという。しかも伊勢谷以外でも、目についた同僚たちを呼び止めては同じことを繰り返し言いまわっていたそうだ。
「それを信じてる人っている?」
「いや、みんな面白がって根掘り葉掘り聞いてる」
「ばかばかしい。そもそも、敦子と一緒に仕事を止めるって、あり得へんし」
「うん、そうやと思ったけど。安藤さんや片桐さんが心配してた」
安藤の耳はともかくとして、片桐さんの耳にまで入るということは、かなり広まっているようだ。
「それで、2人は信じてるってわけ?」
「いや、半分冗談で聞いてるけど。半分はマジで聞いてるかも」
「ほんとに?」
「今日の仕事が終わったら、2人を呼び出して真相を聞いているって村岡さんと相談してた」
敦子はすでに11月末で退職することになっている。彼女のことだ、いっそのこと反旗を翻した私と鈴子を道連れにしようと妙な噂を流すという作戦を決行したんだろう。噂と言うのは恐ろしいもので、ただの嘘が気が付けば本当のことになる場合がかなりの確率である。
実際、あの由美がクビになるかもしれないという噂も、最終的には現実のものになったのだ。
「ないない。道連れにしようと必死になってるだけやろうから」
私はそう言って、鈴子の同意を確認するために彼女を見た。すると彼女は、神妙な顔つきをしていて、まるで心当たりがあるように見えた。
「どうしたの?鈴ちゃん?」
鈴子は私と伊勢谷を見て、そして俯いた。これには伊勢谷も私も驚き、「辞める気なの?」と同時に切り出していた。
しかし、鈴子はすぐに首を横に振り、「そうではない」と答えた。
「敦子ちゃんに頼まれて、ここと同じくらいか、もしくはもう少し条件のいい仕事を探してあげてるねんけど…」
「それって、雑誌とか?」
「うん。一人で探すと、考え方が偏るから手伝ってほしいって言われてん」
「じゃあ、その姿を見てる人は…鈴ちゃんが本当に辞めるかも知れへんって思うよね?」
「うん、そうなると思う」
私は彼女の身勝手な頼みや、迷惑極まりない吹聴話に心底腹が立った。そんな私の様子に気が付いたのか、鈴子は「私と敦子ちゃんの問題やから」と伏線を引いた。
「でもさ、私が敦子ちゃんのご機嫌を損ねることをしたのことが原因かもしれへんし」
「ご機嫌を損ねた?」
今まで無言で話を聞いていた伊勢谷が、首を傾げて私に聞いた。私は簡単に伊勢谷に敦子と私の間で起こった出来事を話して聞かせた。
すると伊勢谷は口元に手を当てて、必死で笑いをこらえていた。「そんなに必死になって、いったい何がおかしいの?」と聞くと、とうとう我慢できなくなったのか大声で笑い始めた。伊勢谷の笑いが治まるまで根気よく待って、もう一度同じ質問をした。
「だって、京さんが敦子さんを嫌ってるって…今更のことやのに」
「え?どういうこと?」
「たぶん、敦子さん以外は知ってたよ。しかも京さんの性格を知ってる人ばっかりやから、皆、京さんに陰では同情してた」
「あ、そう。同情してくれてたんや」
「それでも、あんたに固執してるって…ストーカーぽくて怖いな」
「なんかあったら、助けてくれるんやろうね?」
私が嫌味たっぷりに伊勢谷に聞くと、伊勢谷は再び笑い始めて「何かあっても、面白そうだから遠くから見物しておく」と言った。
鈴子を見ると、神妙な面持ちで話しかけられるのを拒否しているように見えた。そのまま3人は何を言うまでもなく解散し、それぞれの仕事に戻って行った。
3人の奇妙なミーティングから3日後、敦子の最終出勤日も終わりを迎えたところで、鈴子が敦子に向かって熱心に何かを話しているのを見かけた。
敦子は少しずつ顔色が青くなっていて、時折、首を横に振ったり両手を口元に当ててショックを隠し切れないという表情をしていた。
しばらくしてから、その時のことを鈴子に聞くことができた。どうやら、敦子の望んでいる仕事を探してやることができなかったということを報告していたところだったらしい。
「敦子ちゃんは?何か見つけてたん?」
すると鈴子はゆっくりと首を左右に振って「見つからなかったみたい」と答えた。
「どうやら、敦子ちゃんよりも私のほうが熱心に探しているみたいやからって、自分では職探しをしてなかったらしいよ」
「何それ?」私はあきれ返り、それ以上の言葉を呟くことができなかった。敦子のために一生懸命になっていた鈴子を見て「自分も頑張ろう」とか「彼女の誠意に報えるようになろう」なんて思わなかったんだ。
鈴子はどことなくショックを受けたような表情をしながら私に言った。
「仕事を探せない無能な奴って言われてん」
「え?ほんまに?」
「うん。路頭に迷うことになったら、私のせいってさ」
私は返す言葉も見つからなくなって、ただ鈴子を見つめた。鈴子は自嘲気味に笑い「あの子はいなくなったし。もういいや」と、ショックを隠すために楽しげに笑った。
私は結局、傷ついている鈴子に何も言えないまま、彼女の肩をポンポンと優しく撫でることしかできなかった。
そのあと彼女は何故か泣き始めた。敦子に言われた言葉に傷ついて、あの瞬間のことを思い出して泣いているのだろうと思ったが、それでも私は何の言葉もかけることができなかった。
結局、私と鈴子が辞めるという噂は12月以降も元気に出勤している私たちを見て、改めて「あの女の法螺話か」ということで片づけられた。
● 2011年:12月
【1】
野田さんとのお付き合いが始まって、もうすぐ2週間を過ぎた頃「12月の休みの予定を教えてほしい」と連絡が入った。そう言えば、あれからメールや電話で話はしているものの、きちんと会って話していないことに気が付いた。
私はあわててシフト表を見返して、毎週月曜日が休みだと返信した。すると「もしかして、クリスマスは仕事かなぁ?」と返信がすぐにやってきた。もう一度、シフト表を見ると、案の定23日から25日までは残業付きの出勤日になっていた。
子供向けの製品や、家族向けのインターネットゲームを提供しているのだからクリスマスシーズンは1年で1番の売り込み時期でもあり、1番問い合わせが殺到する時期でもある。そんな日に休みが入るなんてことは滅多にないのだ。
「ごめんなさい、26日なら休みですがクリスマスは仕事です」と返信する。すると今度は「25日の仕事終わりに会わないか?」というデートの誘いが届いた。もちろん「ぜひ、そうしたい」と送り返すと、「じゃあ、一泊するつもりで着替えとかいろいろ用意しといてね」と返ってきた。
当日のことを考えると、途端に胸が熱くなってきた。
しかし、1年のうちで12月24日や25日が一番大変な時期で、定時で終わるなんてことはまずあり得無い。残業時間も3~4時間なんてものではない。
去年のクリスマス当日は、安藤やその他の上席たちが終電にも間に合わず、仕事も終わりの目処が立たずに会社に泊まったという噂もあったくらいだ。
「今年はなんとか皆で良いクリスマスを迎えよう」と安藤が12月最初のミーティングで言っていたものの、実現するにはまず目の前の資料作成という任務をすべて終わらせる必要があった。
「なんでこんなにやり直しばっかり言われるんやろうね」
「うん。対応フローも何もかも今までの対応内容を総合して、かつ正確に作成してるけどねぇ」
「どこかが、気に入らないってことやんな」
「そういうことやんなぁ」
私と鈴子、それに伊勢谷と村岡がため息交じりに、クライアントから返ってきた評価メッセージを見ていた。それには「全体的には問題ないが、初めて手に取った人間の心が動くようなメッセージ性やインパクトがない」というものだった。
「というかさ、メッセージ性って研修資料とかに必要か?」
「村岡さん、それ言っちゃだめですよ」
「ああ、ごめん」
「インパクトって、街頭に貼るような広告とかじゃないんやし」
「鈴ちゃん、それも言わないほうが良いよ」
「あ、そっか」
「全体的に問題ないっていう言葉にメッセージ性を感じられへんけど」
「伊勢谷、それも…言わないほうが良いよ」
「うん。なんとなくわかってた」
私たち4人のほかには、先ほどから安藤がクライアントと資料の採点内容について確認を取っている最中だった。時折、笑いあっていたり、しばらくすると難しい表所をしたりとかなり話し込んでいる様子だった。
「というかさぁ、評価メッセージの内容自体が、何を言いたいのか分かりにくいし。ある意味では大問題やで」
思わず私がそう呟くと、3人が一斉に私を見て「それは言わないほうがいい」と注意した。
「クライアントと相談したんだけどね」
おもむろに安藤が私たちに話しかけた。いつの間にか電話が終わっていたようで、いつから私たちのボヤキを聞いていたのかが非常に気になるところだった。
「まず、社員研修資料については、要点がまとまっているけれど、細かい指示がところどころ抜けているそうだよ」
「細かいところですか?」
安藤は私をみつめて「そうだ」と言い、あとでその点については2人で相談しようと言った。
「次は、パソコン資料だけどね。これがまた、玄人すぎて初心者では分かりにくい表現や単語があるかもしれないから、それを説明する資料を追加してほしいらしい」
「ああ、なるほど。わかりました」
「これも、あとで話し合おう」
そして、安藤は伊勢谷を見てため息をついた。その反応を見た伊勢谷は、何か良くないことでもなったのかと挙動が不審になったが、安藤がすぐに笑顔になると伊勢谷も安心したようで冷静な顔に戻った。
「トラブル対応の件については、そんなトラブルが起こるなんて考えれないと言われたよ」
「え?何ですって?」
「子供向けの製品で、説明書もしっかりしているし、ホームページも見やすく難しい表現や漢字も使用していないのにってさ」
「あんまり、ユーザーの現状を理解していないってことですか?」
安藤はしばらく考え込んでから「そうかもしれない」と呟いた。そして、ようやく気付いたらしく「藤田と鈴木くんは?」と私たちに聞いた。2人の事情については村岡が説明した。
「2人は、仲良くインフルエンザなんですよ」
「え?何で今の時期に、そんな面倒な病気に2人揃ってかかるの?」
「まぁ、俺たちよりも真面目に必死に資料作成に取り組んでいたので、過労が原因で病気になりやすくなったのかな?なんて思ってます」
安藤は「そうか」と言い、また俯いた。先ほどの伊勢谷とのやり取りと同じように笑顔に戻るかと思ったが、今度は本当に困っているようだ。安藤は、ゆっくりと、そしてはっきりとした口調で言った。
「じつは2人が作っていた資料が一番やり直し依頼が多いんだよね」
「玄人過ぎるってことですか?」
「そこなんだよね」
私はパソコンに詳しくないし、2人が作り上げたのを実際に見せてもらっていたがやはり理解できず、本当にちんぷんかんぷんだった。
「玄人すぎて、素人の疑問点に気付いていないんじゃないかって指摘があった」
「なるほど。2人が当たり前と思っていることは、素人には非常識だってところですね」
「その点を細かく見つけなおして、修正が必要なんだけど…とにかく膨大なんだ」
私は安藤のため息と困った表情で俯いた理由が、今ようやく理解できた。
私たちの資料つくりの過程でアドバイザーになっているのは、実質、安藤だけだ。同じアドバイザーの片桐は、なんとなく「それでいい」という返事と、文章さえ乱暴でなければ問題ないと言うだけでアドバイスも何もくれない。
おかげで全ての負担が安藤に偏っている状態で、しかも2人があと5日間は不在と言う事態はかなり深刻な問題だった。
「片桐さんに半分手伝ってもらうわけにはいきませんか?」
私がそういうと、安藤は「まさか」と驚いた表情で私を見て、完全に否定した。
「彼女にやらせるくらいなら、僕が5日くらい徹夜して作ったほうがまだ良い資料が作れるよ」
家に帰る最中、資料つくりの再構成のことを考えるだけで心が折れそうになった。
仕事の事を野田さんに愚痴ってしまうことが非常に忍ばれるので、どうしたものかと悩んでいると「京ちゃん」と後ろから声をかけられた。振り向くと、野田さんが手を振りながら早足で駆け寄って来てくれていた。
「お疲れ様です」と言うと、「京ちゃんもお疲れ様」と私の頭を優しく撫でた。
「すごいね、帰りにばったり出くわすなんて」
「そうですね。今まで一度もなかったのに」
「これは、ある意味、運命を感じるねぇ」
「ふふ。私もそう思ってました」
私がそういうと、野田さんは嬉しそうに私の背中に腕を回し体を引き寄せた。ちょうど寒さを感じていたところだったので、野田さんの体温がありがたかった。
「こうしてると、ほんとに冬って良いなぁと思うよねぇ」
「夏だと、離れて歩くんですか?」
私がそう聞くと、野田さんは少し考えて「夏になってから考える」と言った。
「仕事で、嫌なことでもあった?」
ふいに野田さんが私にそう聞いてきたので、驚いて野田さんの顔を見ると「眉間の皺が凄いよ」と反対側の手で私の額をそっと撫でた。
私は真っ赤になりながら、今日の出来事を簡単に説明した。野田さんはその間ずっと黙って聞いて、時折、唸るような声を上げた。一通り話し終えたところで私は野田さんには関係のない仕事の事を話してしまって機嫌を損ねていないかと心配になり、野田さんの表情を伺った。
野田さんは難しい表情をしたまま俯いて、何かを考えているようだった。
「あの、つまらない話をしてごめんなさい」
「え?なんで?」
私が謝ると野田さんは心底驚いたようで、大きな目を更に大きくして私を見た。
「私の仕事のことは、野田さんにはあんまり関係ないのに。変な負担をかけてしまった気がしたんです」
私がそういうと、野田さんは笑いながら「気を遣いすぎだ」と言った。
「悩んでいるなら話してくれていい。それで、京ちゃんの気持ちが少しでも宅になるなら、俺は何よりも嬉しいよ」
「ほ、本当ですか?」
「本当に!なんだったら、これから俺の家で一晩中、仕事の悩みを聞いてもいいよ?俺は明日休みだからね」
「うわ。羨ましいです」
「その代り、日曜日に出勤することになったけどね」
「代休ですね」
「そういう事。それでね、今度も仕事場までドライブしたくないかな?って思ってんだけど?どうかな?」
その素敵な誘いの言葉を聞いた私は、つい先ほどまで仕事の事で鬱蒼としていた気持ちが嘘のように消えているのに気が付いた。そして「ドライブが一番好きです」と答えていた。
家まで送ってもらったあと、郵便ポストを見るとダイレクトメール以外に見慣れないピンクの可愛らしい手紙が一緒に入っていた。宛先は私の名前で間違いない。
何気なく差出人を確認すると、母の名前が明記されていた。私は無意識のうちにその手紙を地面に放り投げていた。たまたま傍を通りかかっていた通行人がお揃いた表情で私を見た。私はあわてて手紙を拾い上げて、そのまま部屋へ逃げるように入った。
「名前をみただけで、気分が悪くなるなんて重症やな」と自嘲気味に笑い、玄関の靴箱の上に置いた。とにかく、冷静に一人で開封して読むなんてことはできないので、その日はそのまま玄関に置いたままにした。
翌朝。仕事のことが気になってしまい、いつもより2本早めに電車に飛び乗った。さすがに8時前の電車内はラッシュ時間に比べて圧倒的に人が少なかった。おかげでシートに座ることができたので、ゆっくりと小説をの世界を堪能することができた。
会社について、早速、席に向かうとすでに鈴子や伊勢谷が座って仕事を始めていた。
「おはよう。勤勉やねぇ」
私がのんびりと話しかけると、2人同時に「お前もな」と返事が返ってきた。朝から息ぴったりだと、妙に嬉しくなった。
「とにかく、自分たちのものを早めに仕上げてしまって、鈴木たちの資料の手伝いをしないとって思ってさぁ」
「そうそう。気が付いたら、早めに出勤してた」
2人の言葉に思わず「同じだ」と感じた。敢えてそのことは伏せて、私は2人に向かって無言で頷いた。
「だったら今日中に終わらせて、明日から手伝えるようにせなあかんねぇ」
「それができたら最高やけどな」
「同感。先が長すぎて涙が出そう」
無理だと言いながらも、結局やりのけてしまう2人なんだから大丈夫だ。となんとなく確信していたが、そんなことを口にしたら矢次早に色んな返答が返ってくると思ったので、何も言わずにニッコリと笑った。
すると「何がおかしいの?」と鈴子が不思議そうに私を見た。私は「何でもない」と言い、自分の仕事にとりかかったのだった。
夕方5時を過ぎたごろ、突然、羽野が片桐尾ところへ行き深刻そうな表情で相談をしていた。片桐も難しい表情をしていて何度か羽野に小声で話していたようだが、やがて2人で別室へと消えていった。
しばらくすると2人は戻ってきたが、依然として片桐の表情は冴えないままだった。私が作成している資料の確認は、片桐と安藤が担当しているので片桐が機嫌が悪いような表情をしていても、報告しにいかなければいけなかった。片桐の様子をしばらく伺っていたが、しばらくの間は機嫌が元に戻らないと判断し、意を決して作成している資料の添削部分が仕上がったことを伝えようと私は席を立った。
片桐は私が目の前に立っているのに、まるで気付いていないようなふりをしながら目の前の作業を黙々とこなしている。
「少し、いいですか?」
「5分だけなら」
「昨日、クライアント側から指摘された部分の修正が終わりました」
「だったら、安藤さんに報告して頂戴」
「わかりました」
この間、片桐は一切顔を上げずに私と会話をしていた。私はそっとため息をつき、何気なく後ろを振り向くと心配そうに様子を伺っていた神谷と目があった。
彼女は首を傾げて困ったような表情をしていた。まるで「大丈夫か?」と聞いているように見えたので私は無言で頷いて見せた。すると彼女は、私と同じように何度か頷き自分の仕事へ戻った。
安藤の席を見るとどうやら昼食中のようで、戻りは15時ごろになると休憩プレートに殴り書きがあった。とくに怒りに任せて書いたというわけではなさそうだが、安藤は性格と同じように文字もかなり適当に描く癖がある。
おかげで入社当初は、彼のメッセージを読み解くのにかなりの時間を要したものだった。
安藤が戻り次第、資料をもって報告しようと席に戻り、私もようやく遅めの昼食をとるためにプレートに昼食の文字を書いた。
「お、上手にできたね」
昼食終わりに安藤に早速報告に行くと、上機嫌の安藤が何度もそう言って褒め称えた。
「これならクライアント側も納得するだろう。ありがとう」
「はい、ありがとうございます。これから鈴木君たちの資料の確認をしようと思うんですが、いいでしょうか?」
私がそう言うと、安藤はしばらく私を見つめて、そして「任せる」と力強く言ってくれた。すると、片桐が激しく机を叩いて立ち上がった。何事かと全員が彼女を見る。
片桐の目は怒りに燃えているようだった。でもその怒りが一体、どこに向いているのか全く分からなかった。
安藤も彼女に挑戦するように無言で立ち上がり、片桐を見据えていた。
「穂斗山さん。資料つくりもいいけど、他にも仕事があるんじゃないの?」
どうやら彼女の怒りの矛先は、私の仕事内容に向かっていたようだ。私は一瞬だけ安藤を見て、そして片桐を見返した。
彼女の目は私ではなく、明らかに安藤を見ていた。私の仕事内容に文句があるようなのだが、その仕事を任せている安藤に真の矛先が向けられていたのだと、私はようやく理解できた。
「彼女には、適切な場面で適切な仕事をしてもらっている」
「ええ。でも、彼女ばかりに負担をかけているようじゃ、彼女が退職してしまったら、誰が穴を埋められるのかしら?」
「ばかなことを。穂斗山さんが、辞めるなんて一度だって言ったことがあるか?」
「未来は、誰にも予測できないものですよ?」
「未来?何を子供みたいな言い訳をしてるんだ?」
片桐は無言で、安藤をキッと睨み付けてから私を見た。私は思わず身震いしていた。手も少し震えている。正直、逃げ出したい気持ちでいっぱいだったが、睨まれた鼠のように身動きが取れない状態だった。
「あなた、男性とお付き合いしているのよね?」
「え?は、はい」
「だったら、いつかは結婚とか妊娠で退職する可能性があるってことよね?」
「え?結婚?妊娠?」
「そんな彼女に、ここまで仕事を任せて良いのかしら?」
すると今度は安藤が険しい表情を作り、私と片桐の間に立ちふさがった。そして、とても冷静で低くてしっかりとした声で言った。
「その発言は、セクハラにちかいよ?」
「セクハラ?私は起こりうる未来について話しただけです」
「近頃は、同性同士でも相手が不快に思うことをすればセクハラやパワハラになるんだよね」
「だったら、私のどこがセクハラでパワハラなんですか?」
「彼女に聞けばいい。君の発言に不快な気持ちはないのか?その威圧的な態度に何も言えなくなっているんじゃないのか?って」
安藤はそう言うと、今度は私を見た。険しい表情のままではあったものの、片桐と対峙していた時のような瞳ではなかった。
私は思わず安心感を覚えてしまい「大丈夫。たしかに動揺しましたけど、これくらい平気です」と言い、やはり同じように頷いた。
その様子を見ていた片桐は、何も言わずに部屋を出て行った。その後、その場に残った全員が一斉に安堵のため息をついていた。
安藤は「落ち着いて業務に戻るように」と言って、片桐の後を追うように出て行ってしまった。
それからしばらくして、羽野が妊娠4か月ということを理由に退職することを片桐から聞かされた。新しい人員は年度明け早々に、色んな媒体から募集をするのだという。
12月20日の日付を確認した頃、野田さんからメールが届いた。
「明日、仕事が終わってから、ほんの少しだけ会えないか?」という内容だった。近頃は休日もほとんど会えない状態で、野田さんに聞いてもらいたいことが沢山あったのだ。
「明日は定時刻に終わる予定です」と返信して、明日は何事もなく残業もなく、定時できっちりと終わりますようにと、そっと神様に祈った。
次の日、私の切実な祈りが届いたのか想像以上に仕事が早く終わって定時刻にはロッカールームから荷物を取り出して帰社することができた。
早速「今、駅に向かっています。駅に着いたらまた連絡します」とメールを送ると、すぐに野田さんから着信がはいった。嫌な予感を感じつつも通話ボタンを押す。
「はい。どうかしたんですか?」
『ああ、ごめん。今日は終電になりそうやねん』
「そうですか。残念です」
『ごめんね。こっちから誘ったのに』
「大丈夫です。気にしていません」
すると野田さんはしばらく黙りこみ、そしてため息が微かに聞こえた。私は心配になり「どうかしたんですか?」と聞いた。野田さんは低く唸り、そして言った。
『君は、聞き分けが良すぎて怖いね』
「え?怖いんですか?」
『本当に、俺と一緒に居て楽しい?』
「はい。いつも楽しくて、会える前の日は眠れないくらいです」
『でも、会えなくても気にしない?』
私はようやく野田さんの言いたいことを理解した。私に、少しでもわがままを言ってほしいのだ。いつもいつも聞き分けが良くて、聞き分けが良すぎて不満なのだ。
「本当は、嫌だと文句の一つでも言いたいです」
『だったら、言ってほしいな。一言でもいいから』
「でも、嫌われたくありません」
『嫌わないから言って。不満があるなら言ってよ』
私は辺りに誰もいないことを確認してから、ためらいがちに囁いた。
「寂しくて、会いたいです。今すぐにでも」
すると、野田さんは満足そうに「うん。わかった」と言い、「必ず埋め合わせをする」と付け加えて電話を終わらせた。しばらくすると、野田さんからのメールが届いた。なんだろうと内容を確認すると写真付きで、会社のデスクの中央には、以前私が大好きだと言ったお菓子が置いてあった。本文には「今度会ったときに、1ダース分買ってあげる」とあった。私は思わず噴き出した。
「期待して待っています」と送り返した私は、しばらくの間、そのメールを眺めていた。おかげで何本目かの電車を乗り過ごしてしまった。
12月24日。運命の日がやってきたと、出勤早々に安藤に呼び止められてそう告げられた。
「どういう運命ですか?」
「今日と明日限定のページっていうのが、ホームページ上で見られるらしいよ」
「へぇ、素敵ですね」
私がそういうと、安藤は珍しいものを見るかのような目をして、首をゆっくり左右に振った。ついでに西洋人のように軽く肩をすくめて、両手をお手上げのポーズにして見せた。
しびれを切らした私は「どういうことですか?」と聞くと、安藤は「限定という言葉が問題なんだ」と言った。
「なんでもかんでも、限定だなんていうとさ人が殺到するでしょう?それが問題なんだよ」
「でも、サーバーに負荷がかかるくらい想定内でしょう?」
「いや、あいつらはわかってない。どんな負荷が想定されるかなんて考えもつかない奴らばっかだ」
安藤が珍しく、クライアントに対してきつい言い方をした。たしかに、アクセスが集中すればサーバーに負荷がかかるし、それを見据えての限定ページなんだろうと思っている。
それでも安藤は何かがしっくりこないのか、怪訝そうな表情をしたままだった。
「言っておくけど、ただのサーバー負荷じゃないから」
「そんな大げさですよ」
「いや、マニアってのは限定ページをつぶさに観察するのが生きがいなんだ。そして、一瞬一瞬を見逃さないために常にパソコンの前に座っている」
「まさか、1日中座ってるってことですか?」
それはさすがにないだろうと言ったものの、とあるパソコンマニアの同僚たちは新作ソフトを購入すると、1日でも2日でも飽きずにプレイできると言っていた。
「いいか。万が一でもサーバーに負荷がかかりすぎてダウンしたらどうなると思う?」
「えっと…電話やメールの問い合わせが殺到する?」
「そうだ。しかも、いつもの母親や父親の優しい問い合わせじゃない。マニアたちの嫌がらせのような子供っぽい嫌がらせ電話が殺到する」
「でも、そんなにパソコンが好きな人間なら電話なんてしないでメールで済ませるでしょう?」
私がそういうと、安藤は「そういうところが甘いんだ」と更に力んで言った。
「あいつらは、自分が世界の中心と考えている。親の躾もなにもされていないままに育った、ただの我儘な身体だけがでかい子供なんだ。そのくせ、言い訳と叫ぶのが得意ときたもんだ」
「じゃあ、その人たちからの嫌がらせばかりになると、本当に質問したい人たちと話せなくなりますね」
「そうだよ。そうなると、本当に困るんだ。ユーザーの満足度が下降する原因につながる」
安藤はまだ何かブツブツと呟きたいようだったが、廊下の向こう側から中川が安藤を呼んでいる声がしたので、それ以上は語ることなく去って行った。
午前中は安藤の心配は全く無駄だったような穏やかな時間が過ぎていった。安藤を見ると、いまだに信用していないのか疑わしげな眼で電話やメールの問い合わせ内容を1つずつ丁寧に確認しては、対応した人間を個別に呼び出して「子の問い合わせの内容について、詳しく説明してほしい」と聞いて回っていた。
「あんなに神経質にならなくてもいいのに」
インフルエンザから復帰した鈴木は、資料を作成しながら安藤の行動を横目に見てそんな事を呟いていた。その鈴木の隣に座っている藤田はただ黙々と修正個所の確認と修正に全力を注いでいるようだった。
そして、近頃は影が薄くなってきていた加賀屋は電話対応者たちの相談役としての地位を確保し、彼らが困った表情でいると、すぐさま駆けつけては相談に乗っていた。彼はつくづく面倒見のいい好青年だと思った。
それに比べて村岡と伊勢谷は相変わらず、仕事をしているのか全くしていないのか判別できないくらいの雑談と、突飛な行動をしては周囲を笑わせていた。
そんな彼らを黙認しているのが安藤で、彼らを許せずに敵視しているのが片桐だった。いつの間にかこの2人の派閥というものができあがり、水面下では静かに抗争が始まっていた。
まずは加賀屋と藤田、そして鈴木が片桐派と呼ばれていて、彼らはほとんど安藤には相談せずに片桐に相談や仕事の報告をしていた。そして、安藤が何か発言するたびに、怪訝そうな表情と不快なため息をついている。電話対応者のなかにも片桐派が複数人いて、彼らは片桐が「帰ろう」と言えば、他の誰が残業していようが、何をしていようが本当に帰ってしまうのだ。
安藤は彼らの事を「片桐族」と呼んで、「全く公私の切り分けができない使えない奴ら」と言っていた。
対する安藤派は、村岡や伊勢谷、私と鈴子を筆頭になんとなくボンヤリすることが好きなタイプが集まっているのが、神経質で生真面目な片桐派とは違う緊張感のない緩いグループだった。
そして、西脇の代わりに配属されてきた五木は、可愛そうにも2人の間に挟まれて苦悩の日々を過ごしていた。そんな五木も、すっかりこの部署に慣れたようで、時々村岡や伊勢谷たちと飲みに行くことがあるそうだった。
「穂斗山くん、ちょっと来てくれるかな?」
突然、安藤に呼び出されて現実に引き戻された私は思わず机の角に体をぶつけそうになった。
「はい、なんでしょうか?」
「14時ごろから、同じような問い合わせが集中している」
「同じような問い合わせ?」
「そうだ。全員、特定のページに進めなくなっていると言っている」
「どのページですか?」
「クリスマス限定のギフトアイテムがもらえる場面だ」
私はすぐに検証すると告げて、先ほどからクリスマス気分に浮かれて遊んでいる伊勢谷と村岡、それに鈴子に安藤から聞いたことを報告した。そして、資料つくりに力を注いでいる鈴木と藤田にも報告を済ませて、加賀屋にも注意するようにとお願いした。
「でもこれ、ページの滞在時間ってあるよね?」
「たしかに…だから、一瞬のことで終わりそうな気がする」
「たしか、全部のアニメーションを観終わったら終了だから、5分くらいかな?」
鈴木と藤田が口々に話していた。私はそれを全く無視して、いったい何が起きているのか確認するために急いで問題のページへアクセスした。
「アクセス集中ですね」
私が呟くと、鈴木も藤田も揃ってこちらを見た。まるで「それ見たことか」と言いたげな表情をしている。
「おい待って。おかしいぞ、このページ」
突然、村岡が大きな声で言った。何事だと安藤が駆け寄ってきた。私も気になって村岡の傍に行く、すでに伊勢谷と鈴子も集合していた。
「俺、今で15分間もこのページいるんです」
「どういうことだ?」
「私はアニメが流れた後、すぐに終了ってなりました」
安藤が少しずつ苛立ち始めているのが分かる。伊勢谷も自分のパソコンへ戻り、自分のページはどうなっているのか確認していた。
私は鈴子と同じく、約5分後にはページから放り出されていて、限定アイテムを装備していた。
「俺も、10分くらいこのページに居ます」
「さっきから、何度も同じアニメーションが流れます」
「だから、どうなっているんだ」
安藤が聞いたと同時に、安藤宛に内線電話が入った。安藤が神妙な顔で電話相手と話している。おそらくクライアントからの連絡だと推測している。
電話が終わると同時に、安藤は体をゆっくりと回転させて部屋中の人を隅々まで眺めながら、悔しそうな声で最悪の事を告げた。
「特定のユーザーの場合だけ、半永久的にページを閲覧できるらしい。しかも、アニメーションを見た分だけアイテムを手に入れることができるらしい」
「それってつまり…サーバーダウンとかじゃなくて」
「製作段階でのデータミスらしい」
「今頃わかったんですか?」
「仕方ないと言われたよ」
安藤の最後の言葉を皮切りに、電話の着信数が通常の5倍に膨れ上がり、メールの問い合わせも約2倍に膨れ上がっていた。
安藤の真っ赤な顔と全員の真っ青な表情が何とも言えない思い出になった。
翌25日は、昨日に発生した問題についてのメール問い合わせや電話の対応にも目処が付きひと安心しながら出勤していた。それでも、全員の顔には終電ギリギリまでメール問い合わせの返信や対応に追われていたことが原因の疲労感がにじみ出ていた。
そんな時に突然、片桐が皆に話があると言い全員の仕事の手を止めた。
「私、今月末で異動することになりました」
一番驚いたのは片桐派のメンバーだった。誰一人として、そのことを聞かされていなかったようで「まさか」とか「うそですよね」と口々に言っていた。
「こんな時期に大変申し訳ありませんが、神奈川へ戻ることになりました」
片桐は大変お世話になりましたと最後に締めくくると、何事もなかったようにさっさと仕事に戻ってしまった。
隣でじっと聞いていた安藤は全くの無表情で一切の気持ちが読めないが、何かをじっと耐えているような感じに見えた。
【2】
25日の仕事が無事に終わり、すぐに野田さんにメールをした。時計を見ると午後8時に近い時間だった。「今終わったところです」とメールを送ると、「駅に着く前に連絡を頂戴。迎えに行く」と返ってきた。
岸辺駅の改札口を出て北側にできたバス停近くで待っていると、野田さんの車が目の前で停車した。助手席の窓が開くと、運転席にいる野田さんの顔がはっきりと見えた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
「大丈夫。今、着いたところですから」
「だったら良かった」
そう言って助手席のドアを開けてくれた。私は早速乗り込んでシートベルトをする。どこに行くのか?と聞くと、このまま京都まで行くと言った。
「京都ですか?」
「そう。知り合いに教えてもらった山間の民宿でのんびりしようと思ってさ」
「民宿…」
「そう。いつもは和食なんやけど、この時期はクリスマスケーキも含めて、洋食を用意するみたい」
「そんな場所、すぐに予約が取れたんですか?」
「まぁねぇ…知り合いにどうしてもって頼み込んで、何とか取れた」
「ありがとうございます」
野田さんはニッコリとして「どういたしまして」と言った。そして、着くまでの間、眠っててもいいと言ってくれたが車窓からの景色もとてもきれいだし、何より、野田さんといるときは、1秒の見逃しも悔しいくらいの気持ちになっていたので疲れているからと眠るなんてとてもできなかった。
京都に着いた頃には、夜の9時を過ぎていた。夕食は、野田さんがおおよその時間を宿泊先に伝えてくれていたようで嫌な顔せずに遅めの夕食を部屋に運んでくれた。
「毎年ですけどね。クリスマスの時期は、8時や9時に夕飯をとられる方が多いんですよ」
夕飯を運んでくれた仲居さんがにっこり笑って言った。どうやら私たちのようなカップルが他にも複数いるようだ。私と野田さんは「いただきます」と、早速食事を口にした。
「和食専門でも、洋食なんて簡単に作れるんだなぁ」
「どうでしょう。やっぱり何年も修行をして、やっと表に出せるようになったのかもしれないですよ」
「まぁね。和食と比較されても負けない味を出すのに苦労してんだろうなぁ」
それからも、2人であれこれと話をしながら食事を進めていった。
クリスマスケーキが部屋に届くと、野田さんがふいに立ち上がり部屋の片隅に置いてあったワインクーラーを開けた。私は民宿なのに、なんておしゃれな物を置いているんだろうと思わず感心していると野田さんはそこからシャンパンを取り出した。
「シャンパンって平気?」
「あんまり飲まないですけど、たぶん大丈夫です」
「普段は何を飲むの?」
「大体、日本酒です」
「へぇ…日本酒なんだ」
「今、結構、飲むやつとか思いました?」
私が目を細めて野田さんを問いただすと、「まぁね」と笑って見せた。
「日本酒っていうだけで、お酒が強いって言われますけど。ビールとかそういう類が苦手なんです」
「ま、そういう人もいるよね」
野田さんがそういうと、いつの間にか用意されていたシャンパングラスにゆっくりと注がれていった。
「野田さんは、普段から飲むんですか?」
「付き合い程度かな?」と言いつつも、週に3回は1人で飲みに出ると言った。家で一人で飲むよりも、小さな居酒屋のカウンターで店主と無駄話をしながら飲むのが楽しいという。私は一人で居酒屋に行って店主と話をしながら飲むことをしたことがないので、彼の言う楽しさを理解できなかった。
でも、一人で飲むお酒よりも楽しく飲めるお酒のほうが良いなと思った。
「ケーキはどうしますか?」
私はクリスマス仕様のロールケーキを見て、野田さんに聞いた。私は俗にいう「甘いものは別腹」の性格なので半分は食べられそうだ。でも野田さんは、先ほどからロールケーキを見ながら何か思案顔だった。
「うん。少しなら、食べられそうかな?」
「そうですか。残してしまうのも勿体ないですよね」
「うん、明日の朝食にでもする?」
「それは、遠慮します」
「じゃあ、ぼちぼち食べようか」
時間もたっぷりあるからねと、野田さんは楽しげに言った。彼の顔は先ほどからとても幸せそうな雰囲気を出していた。きっと、本当にこの瞬間を楽しんでいるんだろう。私は野田さんが幸せを感じている瞬間に立ちあえてよかったと心の底から安堵のため息がこぼれた。
「そういえば、酔っぱらってる状態だと温泉って入れないんだっけ?」
「そうですよ。怪我しちゃうかもしれないし、熱気で倒れちゃうって言いますからね」
だからシャンパンはほどほどにしてくださいと私が言うと、野田さんは「怒られちゃった」とおどけて見せた。しかし、本当に飲み過ぎた挙句、脱衣所や温泉で倒れてしまうなんてことになったら大変なことだ。私たちは栓を開けたものの温泉にはいるために栓を戻した。
「お風呂上がりにのんびり飲もう」
「それがいいですね」
温泉といっても、かなり小規模なものでお湯も天然なのか人工なのかわからなかった。実際、私はそんなことはどうでもいいと思っている。今、一緒にいるのが大好きな野田さんで、野田さんと同じ部屋で寝食を共にできることに喜びを感じているのだ。それ以外のことは、全く気にならなかった。
「ねぇ、、まあくん。それくらいで上がってくるの?」
「さぁ、30分ぐらいかなぁ」
「そんなに長く入ってたらのぼせちゃうよ」
浴場の入り口で、若いカップルが手をつなぎながら話をしていた。30分入ったくらいでのぼせてしまうなら、入らなければいいんじゃないか?というか、30分でどうやってのぼせるんだろう?と思わず首をかしげてしまった。
「じゃあ、ゆっくり入っておいで。先に戻ってくれててもいいから」
「わかりました。ゆっくり浸かって、のんびり部屋に戻ります」
そう言って私たちは、そのカップルを避けて脱衣所に入った。カップルの横を通り過ぎる時に「じゃあのぼせたら、里香が面倒見てあげるね」と話しているのが聞こえた。仮に男湯で彼がのぼせて倒れてしまったら、彼女は男湯に迷うことなく果敢に入っていって彼を救い出すんだろうか?だとしたら、ぜひ見たいと思った。
温泉には先に3人の女性が入っていた。たしか、野田さんは今夜は満室だと言っていたはずだ。だとしたら22時の時点で、わずか3人しか入っていないというと、それまでの間にかなりの人数が我先にと入ったのだろうと想像した。そして、小規模な湯船や洗い場を見て「この時間に入りに来て本当に良かった」と心底感じた。
「まぁくぅん!聞こえるー?」
後ろを振り向くと、脱衣所の前でバカ話をしていたカップルの女性がいた。たしか、リカちゃんと言っていたはずだ。男湯があるほうに向かって何度も彼の名前を呼んでいるが、彼からは一向に返事がない。
「まぁくーん。聞こえないのぉ?もしかして、のぼせちゃった?」
周りの人への迷惑や気遣いが微塵も感じられないリカちゃんは、それからしばらくの間、何度も愛しの「まぁくん」の名前を呼んでいた。
私以外にも彼女のその行為を迷惑そうに見ている女性がいて、思わず彼女たちと目を合わせて「どうしようもないね」という合図を無言で送りあった。
そんな中私は、もしかしたら男湯では彼女の可愛い声に悶絶することもなく、ただ恥ずかしくて必死に無視している彼がいるかもしれないと想像した。
そんな彼の事を思うと、本当に気の毒だと思った。そして、このカップルの未来はそれほど長くないだろうと勝手に予想していた。
「あ、やっぱり先に戻ってたんですか?」
私はお風呂から上って、脱衣所の前の休憩室で10分だけ野田さんが上がってくるのを待とうかと考えた。ただ、さすがに1時間近く入っていたこともあるので部屋に戻っているだろうと思い、待つのはやめて部屋に戻った。するとやっぱり野田さんは部屋に戻っていた。
「まさか、本当にのんびり入浴するなんて思ってなかったよ」
「ちょっとだけ、面白いものを見ていたくて。思わず長居しちゃいました」
「それって…まぁくんのこと?」
どうやら男湯には、ちゃんとリカちゃんの可愛い声は届いていたらしい。野田さんも、つい面白くなって例のまぁくんの様子を伺っていたというのだ。
「あの男、無言でさ。途中からめちゃくちゃ機嫌悪くなって、そのまま出て行った」
「じゃあ、今頃喧嘩の真っ最中ですね」
「そうそう。せっかくの聖なる夜に大ゲンカ」
「明日の朝は、別々に帰ってたりして」
私と野田さんは、若いカップルの最後を色々と想像しては笑いあった。あの2人は、自分たちがこんなに話題になっているなんて思っていないだろう。
ケーキも一通り堪能し、シャンパンも一通り堪能した。クリスマス特番を2人で見ながら、あの芸能人は我儘だとかそんな話はありえないなど話して楽しい時間を過ごしていた頃だった。野田さんが、のんびりとした口調で言った。
「さて、俺たちも寝る準備でもする?」
「そうですね。こんな時間なんで寝たほうが美容と健康にいいですね」
私が何も疑うことなくそう答えると野田さんは無言になり、私をじっと見つめた。
「あの、なんですか?」
私がそう聞いても何も答えてくれない。ただ、じっと何かを待っている様子だ。しばらくの間、恋愛ごととは全く感知していなかったので、こういう時には何と答えるべきなのか考えあぐねてしまう。思わず困り果ててしまい、私は首を傾げた。
すると野田さんは諦めたように苦笑して、そして優しく言った。
「一緒に寝たいなって思うんだけど?だめ?」
「え?い、一緒にですか?」
「そういうこと。ついでに、色々してもいい?」
「い、色々…ですか?」
野田さんはゆっくりと頷いて、そして私を真っ直ぐに見た。明らかに動揺している私の顔を見て楽しんでいるのだろうか。それとも呆れているんだろうか。
お互いいい大人なのだし、しかもお互いの事を想いあっている。そんな2人が寝食を共にするということは、どういうことなのかは深く考えなくても理解できる。
私が何も答えずに固まったままでいると、野田さんは諦めたように「やっぱり、できない?」と聞いた。
ここでもし「はいそうです」と答えてしまうと、先ほどのカップルみたいに喧嘩とまではいかないが、明日は別々に帰ることになるかもしれないと思った。
なによりも野田さんと一緒なら、どんな事でもやっていけそうな気がしていた。だから、どんなに怖いと思っていても苦しいと思っていても、乗り越えられると思った。だから、私はまっすぐに野田さんを見つめた。
「ううん。私もそうしたいと思っていました」
「本当に?無理してない?」
「少しだけ…怖いと思うかもしれないですけど、でも、野田さんとなら大丈夫です」
野田さんはしばらく考えた後、テーブル越しに私の手を引いた。思わず私の手は震えて、強張ったがそれでも私は「何でもないです。大丈夫」と答えた。
「やっぱり、やめたほうがイイね」
野田さんはそう言って笑い、そして私を手招きして自分の胸に抱き寄せた。
「あの、大丈夫です」私はなんども野田さんに言って聞かせたが、野田さんは「わかった、わかった」と言い、ただずっと私を子供のように優しく抱きしめていた。
寝室には民宿の気配りというべきなのか、ご丁寧に1組の大きめの布団を用意してくれていた。野田さんと私は、思わず目を合わせて笑いあった。
野田さんは布団に入ると、さきほどのように私を抱き寄せて「抱き枕代わりになってね」と言った。
やがて、ゆっくりとした規則正しい寝息が頭の上から聞こえてきた。野田さんの胸に耳を寄せると心臓が優しくトクトクと鳴っていた。
その優しい音を聞いているうちに、いつの間にか私も夢の世界へ旅立ってしまった。
夢の世界へ落ちていく瞬間、少しだけ野田さんの腕の力が強くなった気がした。
それから、首筋に微かなに柔らかい感触、それから背中に優しいぬくもりが何度か行き来したのを感じた。だが、目を開けて確認することが億劫に感じられて、そのまま深く眠りに落ちた。
朝、目が覚めると隣に野田さんはいなかった。あわてて寝室から出ると、飲んびりと朝の情報番組を見ている野田さんを見つけた。
野田さんは私が慌てて起きてきたのを見て、クスリと笑い「おはよう」と言った。私も「おはようございます」と答えて、慌てて洗面所へ向かった。
「昨日はよく眠れた?」
「はい。とてもゆっくり眠れました」
野田さんは「そうか」と答えて、またのんびりとテレビに目をやった。私への関心がなくなったような雰囲気を出している野田さんにどうしていいのか分からずにいた私は、とりあえず野田さんのとなりに座り一緒にテレビを見ることにした。
「昨日。なかなか寝付けなかった」
ふいに野田さんがそう言ったので、不思議に思い首を傾げた。眠る直前には、たしかに規則正しい吐息と心臓の音を感じていた。それなのに野田さんは寝付けなかったと言っている。
「なにか、考え事ですか?」
「うん。色々考えすぎちゃってねぇ」
私はその言葉をどう受け止めていいのかわからず、ただ「そうですか」とだけ答えた。そのうち野田さんが「朝風呂にいかないか」と提案したので、私は何も言わずに頷いた。
夜とは違った顔を持つ朝の温泉は、入った感覚も全く新鮮で夜のしっとりとした感覚ではなく、朝独特の爽やかな感じがした。昨夜とは違い、すぐに入浴を済ませた私は脱衣所から出て、休憩室で野田さんを待っていた。
10分程度の入浴だったので、野田さんもまさか10分以上も早く済ませていることはないだろうと思った。入浴していなければの話だが。
「あれ?今日は早いね?」
野田さんは、休憩室のマッサージチェアでのんびりとしている私を見て言った。「てっきり昨日と同じくらいの時間は入っているのかと思ったのに」と言い「待たせてごめんね」と私を見つめた。
「大丈夫です。このマッサージチェア、とっても良いですよ」
「そのようだね。でも、朝食の時間が迫ってるよ?」
「あ、はい。わかりました」
私はそう言って、慌ててマッサージチェアの動作を止めた。
「朝食は、和食らしいよ」
野田さんは部屋へ戻る間、朝食の事や情報番組でやっていた面白いニュースについて話して聞かせてくれた。
「どんな料理がでてくるのか楽しみですね」
「うん。和食がメインの民宿だから、それなりに期待してる」
部屋に戻るとすでに布団は片づけられていて、朝食のための準備が始まっていた。
「今日は、川魚の焼き物がメインですよ」
料理をいそいそと運んできた仲居がそう言った。朝から香ばしい焼き物の匂いを感じて、思わずお腹が鳴りそうになった。
「凄いねぇ、美味しそうで涎が出そう」
野田さんはそう言うと私を見た。どうやら私が涎を出していないか確認しているようだった。あいにく、未だにおいしそうな料理を見て涎をだしたことがないので、「大丈夫です」と強気に答えた。
食事の間、テレビは付けずに2人で料理の感想を口々に言い合った。普段の私ならテレビをつけてぼぉっとしながら食事をとっていたと思う。でも今は、人恋しさにテレビから聞こえる声を聴きながら食事をする必要もない。私は思わず表情が綻んでしまった。
「どうしたの?そんなに美味しいの?」
「はい。それに…誰かと朝食をとるのって、何年ぶりかな?って思うと嬉しくて」
「あ、俺もそうだ」
「いつもはテレビを見ながら、ひとりでご飯を食べて仕事に行くので。何だか新鮮で嬉しいです」
「うん。俺もそう思う。京ちゃんがいてくれてよかった」
野田さんの最後の言葉は、半場消え入りそうなくらいに小さな声だった。もしかしたら、言おうかどうか迷っていたのかもしれない。
それでもきちんと私に対して言ってくれたことは非常に嬉しかった。
「私も、野田さんがいてくれてよかったです」
すると野田さんは笑って「ホントに、どこまでも気が合うね」と言った。
「1月は、色々と忙しくてさ、会うのは難しいかもしれない」
「そうですか…初もうでとか、無理ですよね?」
「うぅん。日程の調整ができれば行けるとは思うけど」と野田さんは最後の言葉を濁して「そんなに期待しないで」と言った。
私は心底がっかりして思わず箸を持っている手を止めて、そのままじっと野田さんを見ていた。それに気が付いた野田さんは困った表情をしながら「何とかしたいけど、今の時点じゃなんとも約束ができない」と言う。
「せめて、今みたいに朝食を一緒に食べるだけでも無理ですか?」
すると野田さんは意外そうな表情をして、それから頷いた。
「それならいつでもいいよ」
「ならよかったです」
その会話はいったんは終了して、別の芸能人のゴシップ話や政治についての話題に移った。やがて楽しい朝食時間は終了して、チェックアウトの時間になった。
「お土産、何か買う?」と聞かれたので、少しだけ売店に行くことにした。
名物のお菓子や京都ならではのお土産物が沢山並んでいる中で、お馴染みのアクセサリー類や子供向けのおもちゃ、それから茶道に必要な漆器や道具が並んでいた。
「あ、そういえば京ちゃんっていつも数珠みたいなのつけてるよね?」と野田さんがふいに私に聞いた。
「これは、誠の文字が書いてある数珠です」
「マコト?」
「はい、壬生寺で購入したんです。願掛けしているんです」
「そっか。願掛け守りって感じなんやね?」
野田さんは私の左腕に付けられている数珠をじっと見つめて、やがて「見せてくれてありがとう」と言った。
「じゃあ、別の記念になるものを買おうか?」
「あ、宿泊記念ですね」
「そう。クリスマスっていうのもあるけど」
「じゃあ、私も野田さんにプレゼントしますね」
すると野田さんは、私をじっと見つめて「もうもらったけどなぁ」と小さく呟いた。私は良く聞こえずに思わず「何ですか?」と聞き返すと、「何でもない」と答えて、ごまかす様に数珠や可愛らしい京都の民芸品ショップで作られたトンボ玉のアクセサリーを見ていた。
「こういうのって、結構好きなんじゃないの?」
「そうです。こういう、丸いものが大好きです」
「やっぱりそうか」
彼はそういうと、アクセサリーコーナーに置いてあったトンボ玉のついた簪を手に取った。
「簪ですか?」
「うん。こういうのをつけている人って、古風で良いなぁって思うんだよね」
「じゃあ、私もこれからセミロングくらいにして、簪を毎回付けて会いに行きます」
ショートカットがトレードマークに近かった私は、簪が好きだと言うならせめてセミロングにして、野田さんが手に取った簪をつけてみたいと思った。
「今からのばすなら…半年くらいはかかりそう?」
「そうかもしれないです。でも頑張ります」
野田さんは私の意志の強い目を見て「わかった。じゃあ、これをクリスマスプレゼントの一つであげる」と言ってレジに進んだ。
私は何を買おうかと色々と迷いながら物色していると、買い物を終えた野田さんがやってきて「俺はこれが良い」と黒くてズッシリとしたペンを指さした。
見本品と書いてあるそのペンは、私の小さな手には大きすぎるが野田さんの大きな手が持つとしっくりとして持ち感も心地よさそうだった。
「え?これでいいんですか?」
「うん。書きやすそうだし実用性があるからね。このほうが嬉しい」
彼がそう言うならと私はレジへ進み、野田さんがほしいと言っていたペンの在庫を聞いた。すると最後の1点だと言い、真新しいペンを綺麗な専用の箱に入れてくれた。
民宿を後にして、どこに行こうかと尋ねられた。どうしようか迷っていたが、嵐山を散策したいと申し出た。
「そっか、じゃあ好きなだけ歩き回って、夕飯まで一緒に居ようか?」
と野田さんに言われて、私は嬉しくて何度も頷いた。
渡月橋をのんびり渡って近くの甘味処へ入ると、外国人観光客がかなり目立っていた。さすがに京都だなと思いつつ、席に通されて2人で小さなテーブルを挟んで座った。
「たぶん、年末は早めに帰宅はできるけど、そのまま実家に帰るつもりやねん」
「そうですか」
「京ちゃんは?実家には帰るの?」
私はしばらく考え込んでから、無言で首を横に振った。帰ったところで邪魔者扱いされて、年末は電車が臨時運転しているからと真夜中に帰宅させられるのが常だった。
「そっか。じゃあ、一人で過ごすの?」
「そうです。いつもなので慣れてますよ」
「でも、お互いが歩み寄らないと関係は改善しないよ?」
野田さんは良い家庭に育ったんだろうと思う。だからこそ、そうやって年末に帰ったり、何かあれば駆けつけたり家族の事を大切に思えるんだろう。
でも、私はいくら関係を良くしようと努めても「だったら、毎月仕送りして」とか「家事手伝いして」と言われては、「満足したから必要ないし。もう帰って」と言われて終わるのだ。彼らのために動けば動くほど、彼らを甘やかして我儘な子供にしてしまうということを身に染みて分かっている。
だから私は親類たちと一定の距離を置いて、時々祖母へ連絡するだけに留めている。多くの友人は「もっと仲良くすればいいのに」という。今の野田さんと同じような言葉を発する。
多くの人は人の気持ちもどれだけ傷ついて心に今でも残る闇の部分が払拭できずに悩んでいるか知らないで、自分の経験や意見を押し付けたがる。
やはりこの人もそうなのか…と、妙な寂しさを感じた。私が何も言わないで無言で俯いて真っ青な表情になっていることに気が付いたのか、野田さんは「年末前にでもいいから、元気な顔を見せに行ってあげたら?」と優しく言った。
「年末なんだから、家族と過ごすのが普通じゃない?」
私は家族のことについて訳も何も知らない人に、こうやって押し付けがましい事を言われるのが一番嫌いだった。怒りに震える手と声を抑えながら、ゆっくりと一言一言をつぶやいた。
「あなたに、私の、家族との関係の、何がわかっているんですか?」
「え?何?」
「私の家族と、私のことは、野田さんには、関係がないです」
「うん。でも、心配と言うか何というか」
「もういいです」
私はいつか敦子が繰り広げた異星人トークを思い出していた。
彼女もまた、お節介に家族の事を諭したり「私はね」という自慢話や持論を延々と繰り返し話して聞かせた。
人にはそれぞれに人生があり、それぞれの思いと経験と過去がある。他人の意見や「一般的にはこうだ」なんていうものは参考としては聞くのはいいことだ。
でも他人の人生や関係性を、そのまま全く同じものを当てはめるなんてできないし、参考資料やマニュアルなんてない。
私の中にある時限爆弾スイッチは「家族」というキーワードと、押しつけがましい一般論や持論だ。
私は何も言わず席を立ち、そのまま外に飛び出して先ほど渡ってきた渡月橋を引き返していた。
早歩きで怒りに燃える形相の私は周囲からは、かなり異質に見えていたことだろう。でも一度爆発した爆弾から発せられた炎は、すぐには鎮火しない。
そんな私の後方から野田さんの声がする。何かしきりに私に話しかけているが、全く無視した。
「どうしたの?急に?」
私よりも背が高くて、足も長い。だから私がいくら必死に全速力で早歩きをしていてもすぐに追いつかれてしまう。隣で同じくらいの速度で歩いている野田さんは、さらに「どうしたの?」と聞いた。
今ここで、何か言葉を発言するとすればかなり大きな声で、しかも震えた声で話すことになる。それに、何故だか涙があふれ出そうになっていた。
「ごめん。俺がいう事じゃないんだよね」
野田さんはしきりに何か言っているが、私の耳には全く届かない。
そのまま阪急嵐山駅に到着すると、何も言わずに切符を買って改札口に向かった。
すると野田さんの腕が私の腕をつかみ、改札口からグングンと引き離した。こういうところはさすがに男の人だと思った。全く抵抗できないくらいの力で、嵐山駅前の広場に連れてこられてしまった。
「ごめん。」
野田さんはいつもの優しい目や表情からは想像できないくらいの、とても困惑した目と表情をしていた。私は何も言わずに下を向いた。今、何か話してしまえば大声を上げて泣いてしまいそうで余計に頑なに口を閉ざしていた。
「あんまり言いたくないこととか、言われたくないことってあるよね」と野田さんは言うと、「ごめん」と何度も繰り返しては掴んでいる私の腕をゆっくりと離した。
「傷つけたり、怒らせたんなら本当にごめん」
周囲の人が何事かと好奇の目を向けているのも全く気にせず、ただずっと謝り続けた。私はそんな野田さんを思うと、自分が情けなくて子供過ぎてバカバカしくて気が付けば泣いていた。
「行こう」と野田さんは言って私の肩を抱き、もと来た道を戻って行った。そしてそのまま車へ戻り、京都を離れて吹田まで送ってくれた。
マンションの前で野田さんと別れるとき、野田さんはもう一度だけ「ごめんね」と言った。
【3】
彼女を泣かせてしまった。彼女が突然店を飛び出し、そして駅前で何も言わずに泣いていた光景が昨日からずっと頭から離れない。
彼女にとって家族との話は聞いてほしくない、決して誰にも触れてほしくないことだったのかもしれない。
彼女が「年末は実家に戻らず一人で過ごす」と言った時点で、気が付けばよかったのだ。彼女の実家は吹田から車で1時間ほどのところにある。
それなのに、祖母に連絡する以外はなにも感知せず、滅多に実家に帰らないし、年末にも戻らないということは帰りたくない何か問題があると気付いていればあんなことにはならなかった。
彼女には昨日メールを送った。「気に障ることを言ってしまって、ごめん」と送った。でも、彼女からの返事は未だに届いていない。昨日も帰りの車の中では全く話もしてくれなかった。それどころか、話しかける隙すらくれなかった。
ずっと下を向いたままで何かに耐えるような表情で涙を必死に堪えながら、時折すすり泣く声がしていた。昨日のような日に、彼女の表情を暗くさせてしまうような辛い気持ちにさせてしまった。
「あれ?なんか暗いね?」
外回りから帰ってきた細川が、俺をみて開口一番に言った。俺はなんとも言えず、あいまいに頷いて話題をできるだけ避けようとした。
ところがそんなことをさせてくれないのが細川で、やんちゃそうな顔がにやりと意地悪そうに動いた。
「昨日、例の彼女と1泊したんだよなぁ?喧嘩した?」
「お前に関係ないだろ」
「関係あるだろ。俺が声かけろって言ったのに」
俺が何も言わずにいると「やっぱりそうか」と納得したように何度も頷いた。
俺は観念して、細川に簡単に機能起こった出来事を説明した。話し終わると細川はじっと俺を見つめて言った。
「仲直りするつもりは?」
「何度かメールをしてるけど、反応がない」
俺は嫌われたと思うと、自嘲気味に笑ってみせた。細川は急に真顔になって俺を見ていた。そして、俺の机の端に腰かけて何か考え事を始めた。
考え事をするなら自分の席でやってほしいと思ったが、こいつに言っても意味がないことなので諦めてそのままにさせた。
「今日の帰りに会いに行け」
「は?今日?」
何時に終わるかもわからないくらいの膨大な量の仕事を抱えているのに、何を言っているんだと不審げに細川を見た。
「今日中に仲直りしないと、一生この事を引きずったままになる」
「いや、今日行っても会ってくれないかもしれない」
自分でもかなり弱気な発言だと思ったが、彼女との関係を無理やり繋げようと必死になりたくないのだ。今の状況で彼女に無理やり迫ることのほうが、後々に引きずってしまうかもしれないと考えていた。
すると細川は西洋人のように首を左右に振って、肩をすくめてみせた。そんな仕草をしても様になる容姿だから許されるのだと思う。細川と同じ仕草を俺がしたら、どんなに白い目で見られてしまう事だろうか。
「会ってくれないなら、会ってくれるまで待てばいい」
「おい、無茶なこと言うな。子供じゃないんだから」
「じゃあ、このまま自然消滅になっても後悔しないのか?」
自然消滅と言う言葉を聞いて、俺は背筋に冷たいものが走った。嫌われたかもしれないと思っているが、正直言うと彼女が俺を好きだという自信があった。
その愛情が、ほんの些細な喧嘩でなくなってしまうことはないと思っていた。
「とにかく今日中に会わないと、向こうが気まずくなってくる」
「俺は、そんな事は気にしない」
「お前が、気にしなくても向こうが気にする」
そういうものだと細川は言って、例のクリスマスプレゼントは渡したのか?と聞かれた。そう言えば昨日のうちに渡そうと思っていたプレゼントを渡していなかったことを思い出した。プレゼントはまだ俺の鞄の中に入ったままだ。
「じゃあ、それを渡しに来たとでも何とでも言って、とにかく会いに行くんだよ」
「わかった。仕事が終わればな」
「終われば、じゃない。終わらせるんだ」
何とか夜の8時過ぎに仕事を終わらせた俺は、急いで駅に向かった。いつもならこの徒歩10分が短く感じるのに、今だけは果てしなく長い距離だと感じていた。
京都駅のホームでもう一度彼女宛に「今、仕事中?」とメールを送る。しかし返事はなかった。もしかしたら、仕事中なのかもしれない。年末は忙しいと言っていたし、朝も早めに出勤することがあると言っていた。
半場、諦めて自分の部屋に戻ろうかと思ったが「自然消滅していいのか?」という細川の言葉を思い出した。
やっぱり今日中に行くべきだと思い快速で茨木駅まで行き、そこから普通列車に乗り換えた。
岸辺駅に着いた頃、シトシトと雨が降り始めていた。そう言えば今朝、天気予報士が「夜から雨が降り始める」と言っていた。京都ではまだ降っていなかったのに、と空を見上げてため息をついた。コンビニで傘を買うまでもないと思い、そのまま早足で彼女の家に向かった。
彼女の家に向かうまでの間に徐々に雨の量は増していき、細い生活道路から信号のある国道に出る頃には、スーツが半分濡れて色が変わっていた。
自分の家に引き返して、着替えてから行こうかとも考えた。そうすると、彼女の家に行く時間も遅くなってしまうし、何より決心が鈍ってしまうかもしれない。
そんなことを考えながら、結局、彼女のマンションにたどり着いた。
マンションに着くと急に弱気になってしまい、部屋番号のついているインターホンを見つめてしばらく立ち尽くしていた。
そして彼女の部屋の郵便ポストを見た。もし郵便物が残っているなら、彼女がまだ戻ってきていないという証拠になる。
そうなれば出直しだ。
細川にも言い訳ができる。郵便ポストには、郵便物も広告も何一つ残っていなかった。
意を決してインターホンを押す。そのまましばらく待つが、まったく反応がない。
そう言えばこのインターホンはカメラ付きだと言っていた。もしかしたら、俺が画面に映っているのを確認して、会いたくないからと無視されているのかもしれない。もしくはまだ部屋に戻っていないか、お風呂に入っているかもしれない。やっぱり出直そうと思っていたところで、マンションの入り口の扉が開いた。
「野田さん。どうしたんですか?」
ルームウェアに着替えている彼女がそこに立っていた。手にはタオルを持っている。
どうやらカメラ越しに映った俺の姿を見てびしょ濡れ姿に仰天して、慌てて飛び出してきたようだ。
「大丈夫ですか?風邪ひきますよ」
彼女が心配そうな顔をして、タオルを広げて俺を包んだ。濡れている体をとても優しく包んだタオルと、恐らく風呂上りであろう彼女の濡れた髪の毛からシャンプーの匂いがした。
俺は思わず彼女を抱きしめていて、彼女の体温を感じると思わず涙が流れた。彼女はどうしていいのかわからず、ただ俺の背中を優しく撫でて「大丈夫ですか」と何度も問いかけてくれた。俺は気が付くと、自分でも想像もしていなかった言葉を発していた。
「俺と、結婚してください」
彼女の体が驚きで強張るの感じながらも、感情を抑えることができずにずっと抱きしめていた。
しばらくして彼女が小さく頷いて「よろしくお願いします」と答えてくれた。
それから、少し遅めのクリスマスプレゼントを彼女に渡した。
彼女は嬉しそうにシルバーのネックレスを付けてくれた。照れ臭そうに「似合ってますか?」と俺に聞く。
「うん、とっても似合ってる。」
そして、彼女からも俺に渡しそびれていたプレゼントを受け取った。ブランド品のマフラーと手袋、それにネクタイとネクタイピンだった。
「早速、明日から付けて行くよ」と言うと、彼女は嬉しそうに笑った。そんな彼女が可愛くて、それからしばらく彼女が「いい加減、苦しいです」と言うまで抱きしめ続けていた。




