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今の自分と過去の言葉たち

 ● 2010年:7月頃


 「どうしてそうなるんですか?」

 「どうして?それがわかんないなら、仕事やめたらどうかな?」

 朝一番に尾崎と佐倉2人の喧嘩風景は、この部署の恒例になりつつあった。

 私と光井はお互いに顔を見合わせて、怒りの捌け口が自分へ向かないかと内心ヒヤヒヤしていた。

 「じゃあ、尾崎さんならできるんですか?」

 「はぁ?責任転嫁して、私に押し付けたいわけ?」

 「そうではないですけど。被害妄想ですか?」

 「あんたって、ほんとに『ああ言えばこう言う』っていう面倒な女だね」

 「ええ、それが長所ですから」

 そんなやり取りを聞きながらも、松岡だけは平然と仕事をしていた。松岡のそういった性格は見習わなければいけないなと思った。

 光井も同じことを考えていたようで、急に真顔で仕事を再開した。私もそれに習って仕事を再開していた。


 「あの、堂上様からお電話です」

 そんななか中川が尾崎あてに連絡が来ていることを報告した。折り返しましょうか?と尋ねたところ、そのまま無言で尾崎は受話器を取った。

 「お待たせいたしました、尾崎でございます。堂上様、いつもお世話になっております。」

 さきほどまで佐倉と嫌味の言い合いをしていた声とはうって変わって綺麗な余所行きの声になっていた。

 佐倉の顔色を思わず確認すると、やっぱり未だに尾崎をにらみつけており、尾崎が電話最中でも構わずに食って掛かりそうな勢いだった。

 そして私が佐倉の様子を伺っていることに気が付いた中川は「仕事にもどりなさい」と小声で注意した。


 「今回の喧嘩も緊迫感いっぱいやったね」

 「今度の喧嘩は、何がきっかけ?」

 「佐倉さんが、社内メールで緊急連絡を送ったのはいいけど、尾崎さんとしてはメールを送るタイミングが遅すぎるってさ」

 「それで?対応が遅れたってこと?」

 そうではない、と松岡は答えた。緊急メールについては、必要最低限のスタッフ達に口頭で事前に連絡が回っていたという。

 なおかつ、佐倉は掲示板やホワイトボードにも対応の一部が変更になるということを書き込み、電話対応部門にもわざわざ出向いて注意喚起しながら歩いて回っていたという。

 「じゃあ、それのどこが気に入らないわけ?」

 「どうもね、尾崎さんに伝えるのが一番最後になったらしい」

 松岡は、「あらら」という表情をしてみせた。どうやら注意喚起を言って回った時間帯は、尾崎が別のクライアントと会食をしていたところだったらしい。

 佐倉としては会食中に伝えるべきことではないと判断し、尾崎が戻り次第、報告しようと思っていた。

 結局、尾崎はその日の夜遅くに会社へ戻ってきた。佐倉の対応といえば、尾崎に佐倉からの伝言メモと夜勤担当者にも引き継ぎをしてさっさと帰社していた。

 「佐倉さんが先に帰っていたことが気に入らないらしい」

 「ああ、そんなことであんなに怒ったわけね」

 「もともと仲悪いしさ。だから、妙な勘ぐりも入って怒ったわけ」


 そうなると、2人の間に挟まれている中川が一番ストレスが溜まる立場になるし、どちらの見方にも気を配らなければいけなくなる。

 「中川さん、心労で倒れちゃうんじゃないかな?」

 私は優しい性格の中川のことを思い、思わず心配の言葉を口に出してしまった。すると、松岡は「大丈夫だ」と答えた。どうしてか?と聞くと、中川は意外にあの立ち位置を楽しんでいるらしい。

 「ほら、人の不幸ほど蜜の味がして美味しいって言うやん?」

 「それを楽しんでるの?」

 「そういうこと。私も最初は心配してたけど、ある意味、中川さんが一番腹黒いよ」

 そういうものなのか?と思ったが、中川がそうやって楽しみとして割り切っているのなら、私たちがそれほど心配することもないのかな?と感じた。

 

 「なんだか京ちゃんの部署って、大変そうだね」

 帰宅途中に敦子にばったり出くわし、そのまま一緒に駅まで行くことになった。噂と言うものは、瞬間的に広まるので対して驚きもしなかったが、敦子の嬉しそうな表情を見てまともに話すのをあきらめた。彼女は私から新情報が聞き出せないかと思っているようだ。私から聞き出した情報を、他のスタッフに言い触らしたいという算段なんだろう。それならば、絶対に話すつもりはない。

 「京ちゃん、そんな部署で働いて辛くないの?」

 「べつに。みんな仲良いし、前の部署よりも楽しんで仕事をしてるけど」

 「そうなんだ。まぁ、人には向いているところと向いていないところってあるもんね」

 敦子はそう言って、突然、誰かに電話をかけ始めた。

 「あ、もしもし?私だけど、今から会える?」

 どうやら彼氏へ連絡しているらしく、これから食事にでも行くようで「イタリアンが良い」とか「大阪駅で待ち合わせでいいかな?」と、声を弾ませて、まるで私への当て付けのように会話を続けている。

 やがて大阪駅へ到着し、敦子をみるとヒラヒラと私へ手を振り、そのまま何処かへ行ってしまった。さすがだと彼女の後姿を見ながらしみじみ感じていた。


 翌朝、いつも通りに出勤すると佐倉の姿が見当たらなかった。もちろん、尾崎の姿も見当たらない。代わりに安藤がウロウロと暇そうに室内を歩いていた。

 私が入ってきたのを見ると、「やあ、おはよう」と声をかけてきた。私は軽く会釈をして「おはようございます」と返答した。

 「今日は、珍しく室内が静かだなぁと思ってない?」

 「は、はぁ?」

 「あの2人、応接室で話をしてるからしばらく戻ってこないよ」

 「何かあったんですか?」

 「さあね」

 安藤は嬉しそうにそう答えると、中川に出勤次第、自分のところへ来るようにと私に伝言を頼み、部屋から出て行った。心なしかスキップをしているようにも見えた。


 「安藤さんが?私に?」

 安藤が姿を消してから10分後に、中川が出勤してきた。私は挨拶も早々に切り上げて、早速中川に安藤の伝言を伝えた。

 「尾崎さんと佐倉さんが応接室て話をしていることに関係あるんでしょうか?」

 私が心配になって中川にそう言うと、中川はしばらく考えてから「大丈夫だよ」と答えて、安藤のことろへ行ってしまった。

 今日の早番は私と伊藤だけだ。伊藤は私より30分遅れの出勤なので、もうしばらくの間は、私一人で仕事をしなければいけない。

 こんなにも心細くて寂しい職場は初めてのことだった。


 伊藤が出勤してくる頃になってようやく中川が戻ってきた。私が無言で中川を見ていると、何かを察してくれたようで手招きをした。

 「尾崎さんと佐倉さんは、ただの仕事の相談で応接室に籠っているらしいよ」

 「そうなんですか?」

 「うん、だから大丈夫」

 「それならいいんですけど」

 

 この会社では、少しでも就業態度や仕事に支障をきたす態度をとっていると判断されるとすぐに社内会議に掛けられる。そして、社員の場合は他支店へ異動になってしまう場合や、契約スタッフの場合でも他店へ異動して研修からやり直す羽目になる。

 もしかしたら、一連の2人の言い合いが問題になってしまったのかと不安になっていたところだった。

 万が一、2人が異動になってしまうと社員の中川と、チーフスタッフの松岡、それに光井と伊藤、最後に私でこの部署にあるまるメールの処理や社内資料の更新と電話の対応をしなければいけなくなる。

 今でさえ対応が追いつかなくなり残業続きになっているのに、人が2人もいなくなることはかなりの痛手なのだ。


 「とにかく、なにも心配することは一切ないから」

 「わかりました」

 「それから、新しいスタッフを別の部署から引き抜くことになったのよ」

 「え?スタッフを増員するんですか?」

 中川は嬉しそうに「そうだ」と答えた。

 私の所属している部署は、メール処理・電話対応と2部門に仕事を分担して、各部門ごとに専門的な研修を行い、その部門専門のスタッフを育成している。私のように極稀に、他部門から異動になる人間もいるが、ほとんどが1つの部門で専門知識を養い業務へ取り組んでいた。

 「安藤さんと人事部に出向いて相談したんだけど、やっぱりこの部門にはもう少しスタッフが必要と判断されたわけよ」

 「そうですよね、やっぱり残業ばかりで皆疲れ切ってるし」

 「そうなのよ。残業が多すぎるっていう指摘を受けたのもあるのよねぇ」

 「じゃあ、募集をしているんですか?」

 「うん、外部からの募集と電話部門からの引き抜きスタッフも探してる」

 「じゃあ、今以上に明るくなりますね」

 中川は少し考えてから「そうやね」と小さく答えた。思わず「何か気に障ることを言いましたか?」と聞き返したくなったが、そんなことを聞いたところで答えてくれるわけもないし、そんなことを口に出してわざわざ聞くべきではないと判断し、そのまま仕事へ戻った。

 「今日はホントに静かに仕事ができるよねぇ」

 「たしかに、ムードメーカーの2人がいないからねぇ」

 「うん、大人だけで仕事するとこんな感じかな?」

 と、3人でのんびり作業をしていたところに、尾崎と佐倉が帰ってきた。その瞬間、私たち3人の表情が強張り、しんと静まりかえった。「お疲れ様です」と3人揃って言ったところで、2人はそれぞれ無言で頷いたり片手をあげて挨拶を返してくれた。

 「今日は人が少ないんじゃないの?」

 尾崎はわざとらしく中川に言う。中川は「他の子は公休と有給で休みです」と言い、嫌味たっぷりの尾崎の質問にも丁寧に返した。尾崎は中川の冷静な返答が気に入らないようで、「職場を放棄して遊び歩いてるんじゃないのか?」などブツブツと文句を言い始めている。

 一方、佐倉はと言うと、何も言わずにパソコンを立ち上げて仕事を再開していた。

 「大体、ここのトップが安藤さんだから、みんなの仕事に対する態度がいまいち良くないのよ。もっと、気を引き締めて会社に貢献してくれる人材を集めないと、そのうち倒産するわ」

 「そんなことないと思います」

 佐倉がぽつりと呟いた。その瞬間に、私も伊藤も恒例の喧嘩が始めると思い身構えた。

しかし、尾崎は佐倉を睨み付けるだけで口論に発展することはなかった。私は困惑しながら中川を見る。中川も同じように困惑しているようで、私と目が合うと首をかしげた。


 「あれは、絶対に注意されたんやと思うよ」

 昼休みに伊藤と2人で、尾崎と佐倉の様子について話していた。

 「だって、あんな時は絶対に尾崎さんは怒り狂って反論するはずやもん」

 私も伊藤の意見に同意だった。あんな風に何も言わずに睨み付けるだけで終わったことなど、今まで一度もなかった。

 「変な物でも食べて、頭がおかしくなったんかなぁ?」

 「それなら大いに結構。毎日毎日、出勤した時から退勤するときまでの間、ずっと喧嘩を眺めるのもいい加減に飽きたもんね」

 「たしかにね。もうお腹いっぱい」

 「このまま何にもなく静かに仕事をさせてほしいね」

 私は思わず「そうだ」と力強く頷いていた。先ほどのあの2人の雰囲気には多少の違和感があったが、それでも喧嘩にならないだけ気持ちが楽になる。


 次の日、やはり朝から尾崎も佐倉もいなかった。そして、やっぱり安藤がいた。でも今日は安藤の隣に中川がいた。

 「おはようございます。珍しい組み合わせですね」

 私がそういうと、安藤は嬉しそうに「そうだろうとも」と答えた。中川は苦笑いをして「おはよう」とだけ返事をくれた。

 「しばらくの間、あの2人は午前中は応接室で仕事をすることになってるんだ」

 「応接室で?ですか?」

 「そう。大事なクライアントとのミーティングや、他のセンター部署の運営会議に参加してもらうことになったんだ」

 「へぇ、そうですか」


 そういえば昔、中川から聞いたことがある。この会社はあらゆる企業から委託を受けている会社で、大阪だけでも私の所属している所を含めて4か所あり、各センターごとに関係スタッフが勤務している。昨今ではさほど珍しいことではない。

 世界的に有名な大企業では、末端の小さな作業や顧客対応を全て外部委託会社へ任せることが多いのだ。その代り、発売前の商品は実際に使用した感想をユーザー側としてクライアントへ伝える必要があるため、とにかく先取りできるのが嬉しい。

 ふと、この会社の名前の由来について考えた。私の勤めている会社の名前は『SAME・AS・YOU』という意味は『あなたと一緒に』だった気がする。そして、業務サービス内容を考えて「なるほど、そういうことか」と、一人で納得した。


 佐倉が8月末で退職するという噂がたったのは、2人が午前中は応接室で仕事をするという話を聞いてから2週間後のことだった。もうすぐお盆休みというこの時期は、1年のうちで一番忙しくなる。そのためにこの時期だけは、2人ともに朝から退社時間まで、通常通りの業務をしてくれている。

 「やっぱり尾崎さんが原因かなぁ?」

 松岡が不安げな表情で私と光井に呟いた。松岡と佐倉は、立場こそ違えども入社が同時期で、研修時代からずっと会社内外で付き合いがある友人だ。

 2人は大阪でこの会社が企業した当初からのスタッフで、今ではこの2人を除いて安藤と中川くらいしかいないらしい。

 「同期が辞めていくのって、結構つらいねんな」

 「そうやね。仲がいいと余計につらいよねぇ」

 「うん。京ちゃんも同期がほとんど辞めたんやったっけ?」

 「うん。まぁ、ほとんどが学生で短期バイトの子やったし」

 松岡と私は妙な仲間意識を持ち、顔を見合わせてうなづきあった。光井は同期入社の仲間が一人も辞めていないらしく、今でも時々、食事会を開いては近況を報告しあう程仲がいいらしい。

 「佐倉さんに退職するって聞いた?」

 改めて私は松岡に聞いたが、松岡は首を横に振った。「聞くにも聞けないくらいに機嫌が悪い」らしい。

 「それって、いつものことじゃないの?」

 「ううん。最近は、いつにも増して機嫌が悪い」

 「何かあったわけ?」

 「どうせ彼氏と喧嘩したとか、仕事以外のことでイライラすることがあったんやと思うけど」

 「あ、そうなんや」

 松岡は大きなため息をつき「私生活の問題を仕事場まで持ってくるって、どうなんやろうね?」とぼやいた。私は何も言わず、というか佐倉のことを悪く言うと松岡の期限が悪くなるのを知っているので、「さぁ、困ったもんだね」くらいしか言えなかった。

 「とにかく、退職の噂が本当なら、後2・3週間の我慢やね」

 「うん。本当ならねぇ」

 その言葉を最後に、私たちは井戸端会議から目の前の仕事へ戻って行った。


 翌日、業務開始前に佐倉から直々に報告があると話を切り出された。

 「実は、8月末で退職することになりました」

 電話部門から引き抜きされたばかりのマイペースな大井は、佐倉に関する噂を知らなかったようで「え?」と小さな声を上げた。他スタッフはみんな冷静に話を受け止めていた。

 「実は結婚が決まりまして、来月の中旬には大阪から長野へ行くことになっています」

 この報告に関しては全員が驚いた。てっきり、尾崎のせいで仕事への意欲も興味もなくなり退職するものだと誰もが考えていたからだ。

 「急な話になってしまい、大変申し訳ないんですが、引き継ぎは尾崎さんや中川にきっちりするので最後までよろしくお願いします」

 佐倉は最後にこう締めくくって報告を終わらせた。松岡を見ると明らかに動揺しているようで、その動揺を隠そうと必死でパソコン画面を見ていた。

 おそらく、事前に退職することは佐倉から聞かされていたんだろう。でも退職理由は聞かされていなかったような雰囲気だ。

 もしかしたら適当な理由を聞かされていたのかもしれない。とにかく、松岡の表情はみるみるうちに真っ青になり、手もとも僅かに震えていた。

 私は佐倉の小さな裏切りを松岡がどう感じているのか、全く想像がつかなかった。もし、私が松岡の立場なら「裏切られた」と思うのだろうか?それとも、「そんな大事なことを黙っているなんて、野暮だな」と笑っていられるだろうか。

 松岡にとって、佐倉は特別な存在であったことはたしかだった。同期入社で、立場関係なく接してくれた佐倉に、親近感やほかのスタッフには抱かない友情や愛情を感じていたと思う。彼氏に対する不満や、仕事の不満、色んな愚痴を松岡にこぼしていた佐倉。

 そういったプライベートなことを松岡にだけ話していた行為は、一見、お互いを信頼しあっていたように思えるのだが実際はそうではなかった。あくまで、私が感じた2人の距離感だが、その日以降、松岡が仕事以外のことで佐倉に話しかける姿を見ることはなかった。


 佐倉が退職してから2週間後のこと。たまたま中川とエレベーターで2人きりになることがあった。中川は気分転換に外食に行くという。

 「よかったら、京ちゃん一緒にどうかな?」

 断る理由なんて全くないので、私はもちろん「ぜひ一緒に行きたい」と答えた。

 会社のビル前にある洋食レストランへ行くと、スムーズに席へ通された。おしぼりをもらい、両掌を丁寧に拭いて一息つく。それぞれの注文が済むと、中川は「うぅん」と大きな伸びをした。

 「なんか、ようやく肩の荷物が一つ降りたって感じ」

 「そうなんですか?引き継ぎ、大変でした?」

 私の中で「大きな荷物」とは、なんとなく佐倉からの引き継ぎ事項だと思っていたが、中川は首を横に振り「そうじゃない」と言った。そして、小声でこう言った。

 「尾崎さんと佐倉さんの、喧嘩の仲裁」

 「ああ、それですか」

 私はどう反応していいのかわからず、興味なさげに返答すると「ほんと大変だったんだから」と中川は力強く言った。

 「毎日のように、仕事が終わって帰る間際に、飲みに誘われては悪口を聞くのってつらいよ」

 「それは、辛いですね」

 「辛いなんてもんじゃないよ。拷問やった」

 「しかも、社内でも間に挟まれてましたよね?」

 私がそう言うと、中川は大きく何度も頷いた。いかに大変だったことか、その反応を見て理解できた。

 「八つ当たりもいいとこだよ」

 「でも、いつも冷静な感じでしたけどね」

 「そりゃあ、私まで慌てたら業務がまわらないでしょう?」

 たしかに、それはそうだなと納得した。中川は中川で、色々と気持ちが溜まっていたようで思う存分に気持ちを話して聞かせてくれた。

 「佐倉さんが辞めなかったら、私がリタイアしていた気がする」

 「そんなに思い詰めていたんですか?」

 「うん、毎日考えてた」

 中川は、今までのことを振り返っているのか遠い目をしていた。辛いことばかりが脳裏を駆け巡っているのか、暗い表情でしばらく無言状態が続いた。

 やがて頼んでいた料理が到着すると、「じゃあ食べよう」といつもの明るい表情に戻った。

 「もし」と中川が、遠慮がちに呟いた。私は何だろうと、彼女の顔を見る。

 「もし、今の環境が辛いままなら仕事なんてお金を稼ぐだけのものだって割り切って、誰と関わらないでいたかもしれない」

 「誰とも?」

 「でも、あの2人が私は好きだったし尊敬していたから、辞めようと思っても辞めたくないって思ったんやろうなぁ」

 「尊敬ですか」

 「あの2人とできる仕事が楽しくて。だから、別の誰かととって変わってほしいなんて思われへんかったんやろうな」

 中川は「うん。そうだよ」と1人で納得したと思うと食事を再開した。私もこれ以上の話は不要だと食事を再開した。私は食事をしながら仕事はただの仕事であって、楽しいだとか生きがいだと感じたことはないと心の中で呟いていた。

 でも中川は生きがいや楽しみを見出しているようだった。

 どうすればそんな風に感じることができるのか、いつか中川に聞いてみたいと思った。


 ● 2011年:10月下旬


 『そっか、好きな上司たちの仲が悪いと辛いよね』

 電話口では暗い調子で野田さんが呟いた。

 もしかして、野田さんも何かに悩んでいるんではないですか?という言葉がもうすぐで出そうになった。でも、彼は私には絶対に弱音や弱点を見せようとしない。そこを遜って何度も聞こうとすると、少しだけ機嫌の悪い声になったことがあるので、心配ではあるがどうしても切り出せないままでいた。 

 私が彼にしてあげられることは何だろうと考えた。友達としてそして信頼できる相手として彼に何とか元気をつけさせたいと、普段は使わない脳みそをフル回転させた。

 『ところで、次はいつぐらいに会えそう?』

 彼はあまり物欲もないし、それに食事面でもグルメでこだわりがある感じではない。

 『あの、京ちゃん?』

 そういえば、お酒が好きだと言っていた。日本酒が好きで、明日が休日だったら家の近所の小料理屋が閉店するまで一人で飲んでいると言っていた。

 『聞いてる?ねぇ?』

 野田さんが声をかけていることに全く気付かず、さらに私は物思いにふけった。

 たしか・・・なんていう名前だったか。お酒類については、あんまり興味がなかったので「へぇ」と頷いていたものの、話の内容の半分も聞いていなかった。 どうしてあの時、ちゃんと聞かなかったんだろうか?今更になって悔しくなってきた。

 『ねぇ、寝ちゃった?』

 ここでようやく我に返り「え?なんですか?」と聞き返した。すると、野田さんは小さなため息をついて言った。

 『俺と話すよりも、大事な用事が目の前にあるって感じかな?』

 「いや、そうではないです」

 『そう?そうでもないんじゃない?』

 「ちょっと、考え事はしていました」

 『どんな?』

 そう聞かれて、私は思わず首をひねった。野田さんが悩んでいるようなので、元気づけようとあれこれ考えていた。なんて答えたら、何て言われるだろうか?「余計なお世話だ」と言われて怒られてしまったら最悪だ。しばらく無言でいる私に耐えかねたのか、野田さんはさらにため息をついた。

 『俺に言えないこと?』

 「いや、そんな事はないんですけど」と言ったものの、やはり言ってしまえば怒られてしまいそうで怖かった。何とか話題を逸らそうと考えを巡らせたが、これと言った話題を見つけられないでいた。

 『もしかしてさ・・・』 

 「はい?」

 『彼氏でもできた?』

 「は、はぁ?」

 『それとも、俺と話すのが苦痛?』

 「まさか」

 『あとは・・・俺みたいなじじいと話すのは嫌になった?』

 「じ、じじいって。そんな」

 『そういえば、俺が何歳かって言ってなかったよね?』

 「ああ、そういえば私も言ってませんでしたね」

 『俺、こう見えて42歳なんだよね』

 「・・・え?」

 私が驚いて言葉を失ったのを、彼は悲観的に捉えたようで「君の年齢はなんとなくわかる」と言い、私の話を遮った。

 『しばらく忙しいから、落ち着いたら連絡する』

 「あ、はい」

 『その間に、連絡先を変えたければ変えていいよ』

 「え?」

 私が何か言おうとすると、『眠いから』と言いそのまま電話を切られてしまった。

 後になって、私が考え事をしている最中に『いつ会えるの?』と聞かれていたことを思い出した。やっぱり彼は仕事か、もしくは私の知らない何かのことを思い悩んでいるんだろう。だからこそ普段から会話の受け答えがあまり上手ではない私の話の先を、勝手に想像して機嫌を悪くしてしまった。

 普段の野田さんならば根気よく聞いてくれていたはずだ。どうすれば、いつも通りの野田さんに戻ってくれるだろうか?今になって、彼の自宅住所や会社名を知らされていなかったことに腹が立って仕方なかった。

 多少なりとも自分から話題を振って聞いておけばよかったと後悔した。 


 ● 2011年:11月


 野田さんとは、あれからメールでのやり取りしかしてない。勇気を振り絞って、私から電話をしたいと言うと「忙しいからやめてほしい」と断られる。

 いっそのこと、メールすらできないようになってしまえば気が楽になるし、諦めがつくと思っていたのに。野田さんは、定期的にメールをくれる。だから、何となくズルズルと中途半端な関係が続いている。

 「大阪には、もう戻らないんですか?」

 ある日、メールで何となく聞いてみた。すると「人事異動は急にやってくるから、何ともいえない」と返答が返ってきた。

 避けられているのはわかっているし、原因も分かっている。私に非があるならはっきりと言ってほしい。なのにその話題すらも、のらりくらりと交わされてしまう。

 「だったら、もう二度と会えないかもしれないんですよね?」と送り返した。しばらくして返信が返ってきたが内容を確認するのも嫌だったので、それ以降は返信せずにベッドに入った。

 

 翌朝、駅のホームで電車を待っていると、野田さんからの着信があった。私はしばらく考えた末に電話に出ることにした。

 「おはようございます」と開口一番に言うと、野田さんの低い笑い声が聞こえた。

 『今、駅のホーム?』

 「そうです。野田さんもですか?」

 『いや、今日は休みをもらったから家でのんびりしてる』

 「そうですか。羨ましいです」

 『そう?家の掃除やクリーニングに出していたスーツを取りに行かなきゃならないし、親の機嫌を伺うために実家に帰らなきゃならないし…変わってくれる?』

 「それは、無理ですね」

 『やっぱりね』と野田さんは笑った。私もつられて笑った。

 笑いが少しずつ弱まり、落ち着いたところで電車が間もなく到着するというアナウンスがホームに響いた。

 『電車、くるみたいやね?』

 「はい、行ってきますね」

 『うん。いってらっしゃい』

 電話を切った後、何年ぶりに会社関係の人以外に「行ってきます」の挨拶をしたんだろうと思い、なんだか心が宙に浮かんでいるような感覚にとらわれた。  これが、毎日続いてくれたらいいのにと願わずにはいられない。 

 

 会社について、自分の席へ行くと小さなメモが置いていた。「今日は定時で必ず帰るように」とあった。どういう事かと安藤に聞くと、どうやら残業が多すぎると本社から指摘があったようだ。

 「まあ、新設したばかりの部署なんだから、慣れないことばかりやって残業するっていうのは理解できるけど。監査側にばれちゃうとまずいんだってさ」

 「でしょうね。先月の残業時間が30時間超えてましたからね」

 「まぁ、僕もそれなりに残業してるから、強く注意もできないんだよね」

 「安藤さんも、注意されたんですか?」

 もちろんそうだ、と安藤は自慢するところではないはずだが、堂々と言ってくれた。そして「片桐は定時で必ず帰ってるから問題ないらしいよ」と要らぬ情報もくれた。

 「あの人さ、部下に仕事を好きなだけ割り振って、ささっと帰るんだよね」

 安藤の顔色を窺うと、片桐のそのあたりがどうやら気に入らないようだ。小さく舌打ちするを聞いた。

 「でも、片桐さんを見習えってことですよね?」

 「まぁ、そうなんだけどね。でもさ、仕事を押し付けたまま、平気な顔で帰る性格が感心できないんだよなぁ」

 「それは・・・悩みますね」

 「君は?」

 「え?私ですか?」

 「君は、そんなことされて嫌な気分にならない?」

 私はしばらく考えて「たしかにそうだ」と思ったが、それを安藤に率直に伝えるべきではないと思い「時と場合によります」とだけ答えた。

 さらに他のスタッフにも残業時間を超過している人間がいるようで、朝礼や昼礼で安藤が残業せずに必ず退社するようにと注意喚起をした。


 窓口業務が終了して、半数のスタッフが退社した。安藤が「終わったらすぐに帰って」と散々急かしたのも、ある意味では効果があったようだ。窓口スタッフの勤務時間は契約通りの開始時間と終了時間なので、正直、あまり問題がないように思える。

 しかし、安藤としては差別をしたくないという思いから、すべてのスタッフに注意しているのだと思っている。

 それでも、面倒だとかうっとおしいと思うスタッフはいるようで、安藤が気付いていないと思っているのか、嫌そうな目で彼をみている人間がいた。

 安藤は自分を嫌っているものが存在していることを知っている。もし、私が彼の立場なら、ショックで次からむやみに誰かを注意したり声をかけたりすることができないだろう。安藤は、人のうえに立てる人間なのだ。

 その点、私は人の上に立つことができない人間で、立ったとしても全員に良い顔をしてしまう嫌われるタイプだと痛感した。

 そんな事を考えていると、安藤がこちらへやってきて言った。

 「君が、僕のことでスタッフに注意する必要はないから」

 「え?あ、はい」

 「君が嫌われるよりは、僕が嫌われたほうが仕事が回りやすいんだよ」

 「そうなんですか?」

 「そう。今に分かるから」

 安藤は言い終わると、そのまま片桐と村岡のもとへ行った。話が完全に聞こえているわけではないが「彼らも早く帰せ」ということや「仕事を押し付けるな」と注意しているようだ。片桐は何か言いたそうに安藤を睨んでいたが、反論することもなく頷いていた。

 あの光景を見ると、いつかの尾崎と佐倉のやり取りを思い出した。あの2人は、それぞれ理由があって退職している。


 ロッカーで帰り支度をしていると、野田さんからのメールの着信があった。「用事があったので大阪に来ている。よければ家まで送るから、少し話さないか?」という内容だった。もちろん「わかりました。どこで待ち合わせしましょうか」と返信した。返信から数分後に、今度は電話の着信があった。

 『今、車やねんけど。西梅田のほうで良かった?』

 「はい。西梅田のハービス辺りで待ってます」

 『了解。じゃあ後で』

 実に簡潔な電話だった。たまたま一緒に帰ろうと話をしていた鈴子に断りを入れて、先にロッカーを出て行った。背後から鈴子の声で「頑張れ」というエールが聞こえた気がした。鈴子にはすべてを話しているから、私がなぜこんなにも緊張した表情でいるのかという理由を知っていた。


 「お、お待たせ」

 ハービス前で待っていると、目の前にシルバーの乗用車が停まった。助手席の窓が開いて野田さんの顔を確認したところで、ようやく私は車に近づいた。

 「おつかれさまです」

 「いや、あんまり疲れてないかも」

 「あ、そうでしたね」

 自分の顔が赤くなるのを感じた。必死でごまかしながら助手席に乗った。野田さんがこちらを見ているのを感じて、余計に顔が真っ赤になるのと心拍数が上昇しているのを感じた。しばらく私を見つめていた野田さんは、何も言わずに車を走らせた。

 そのまま無言で目の前を見つめながら、時々野田さんの横顔を見ながらを繰り返していると、大きな欠伸がでてしまった。

 「疲れてる?」

 「ああ、少しだけですけど」

 「そうか…誘わないほうがよかった?」

 「そんなことないです。嬉しいです」

 「ほんとに?迷惑じゃない?」

 「迷惑なんて、思ったことないです」

 私がそういうと、野田さんは少しだけ笑い、また無言の時間が続いた。どこに行くんですか?と聞きたかったが、緊張して声がなかなか出なかった。

 「コスモタワーって知ってる?」

 「コスモタワーですか?」

 「そう。住之江にあるんやけど?聞いたことない?」

 私は住之江にも縁がないので、どこかで聞いたことはあるが実際に行ったことはないと答えた。私の返答を聞くと、途端に野田さんの表情が緩んだ。

 「あのねぇ、展望台の夜景がめちゃくちゃ綺麗」

 「へぇ・・・夜景、ですか?」

 「あれ?興味ないの?」

 「いや、そんなことはないですけど」

 「もちろん、カップルばかりのスポットやけどね」

 「ですよね。やっぱり」

 「そういうの嫌い?」

 「嫌いではないです」

 「じゃあ、あんまり気乗りしない?」

 「そうでもないです」

 「じゃあ、なんで嫌そうな声なの?」

 そう言われて初めて自分が嫌そうな声を出していたことに気が付いた。自分では、ぼんやりと外の景色を眺めながら返事をしていただけで、嫌だという気もなにもなかった。

 私は顔を真っ赤にしながら「すみません」と謝り、理由を説明しようと野田さんの顔を見た。

 「夜景を観に行くとか、そういうの。一度もしたことがないんです」

 「一度も?今まで?」

 「はい。だいたい、ご飯を食べるとか買い物に付き合うとか」

 「ドライブもしたことない?」

 「はい、全くないです」

 「なるほど、じゃあ今日は京ちゃんの初めてをかなり網羅しているわけやね?」

 「そうなんです」

 「だから緊張してるわけ?」

 私はかろうじて首を縦に振ることができた。野田さんはクスクスと笑い、リラックスしてほしいと言い、着くまで転寝していてもいいと言ってくれた。

 「でも、折角なので起きています」

 「そう?退屈しない?」

 どうやら野田さんは、運転に集中しているときはいつも以上に無言になるという。しかも、そんな時に話しかけられたら不機嫌な声で返事をしてしまうこともあるようで、今まで付き合った女性に何度も責められたという。

 「私、車の免許を取ったばかりなんです」

 「へぇ?そうなの」

 「だから、運転の仕方をみていたいっていうのもあります」

 「俺の?模範にもならないよ」

 「いえ、十分模範になっています」

 「そっか・・・ならよかった」


 コスモタワーに着くと、早速、展望室へ向かった。

 野田さんが言った通り、カップルばかりの展望室ですっかり気おくれしてしまった。すると野田さんが優しく背中を押してくれて、そのまま北側へ連れて行ってくれた。

 北側は天保山方面の眺めを楽しむことができるようで、天保山のほかにもコスモスクエアも望むことができた。

 「すごい・・・ですね」

 「でしょう?評判を聞いて、どうしても行きたくなってん」

 「それで、誘ってくれたんですか?」

 野田さんは嬉しそうに頷いて、本当は断られてらどうしようとヒヤヒヤしていたと言う。

 「それに、他に連れていく人がいないからねぇ」

 「え?そうなんですか?」

 「うん。他にいると思ってた?」

 「はい。」

 すると野田さんは困ったような顔をして、「勘弁してくれ」と言った。

 「それって、俺が遊んでるってこと?」

 「あの・・・はい」

 「俺、そんな風に見える?」

 「いや、何となくですけど」

 「そっか・・・だから、あんまり愛想も良くなかったわけやね?」

 私は観念して「そうです」と答えた。野田さんは苦笑いをして、また「勘弁してよ」と呟いた。

 続いて南側に向かうと、南港発電所や堺市の夜景を見ることができて、これも北側とは一風変わった美しさがあった。

 「こんな綺麗なものを作った人間ってすごいですね」

 私が思わずそういうと、野田さんやたまたま傍で聞いていたカップルがクスクスと笑った。そんなに笑われるようなことは言っていないと思い不満げな顔をすると、カップルは2人の世界に戻り、野田さんは「ごめん」と謝りこう切り出した。

 「君も、その人間ですけど?」

 「はい。でも、私はその中の小さな一部にもならないと思います」

 「そうかな?十分綺麗な景色の一部になってるけど?」 

 「いえ、私はまだまだ努力も何もしていないんです」

 だから、もっと頑張って野田さんの一番にならないといけないと思わず言いかけたが恥ずかしいので止めた。

 「ところで、カップルシートに座ってみる?」

 野田さんがニヤニヤしながら私に聞いた。その意地悪そうな笑顔と瞳に負けそうになったが、かろうじて「絶対に遠慮する」と言い、コスモタワーを後にした。


 帰り際に、遅めの夕飯を食べようという話になった。吹田市内まで戻り「回転寿司に行きたい」と言うと、野田さんは声をあげて笑い「不思議な子だね」と言った。

 「回転寿司なら、何が好み?」

 「海鮮サラダ巻とか、サーモンが好きです」

 「ほんと、可愛い味覚やね」

 「そうですか?」

 「うん。もっと高いものを言うかと思ったのに」

 「あ、マグロとか?」

 「そうそう。あと、いくらとかうにとかね?」

 「いくらって高いんですか?」

 「どうかな?適当に言ってみた」

 「それもどうかと思います」

 「よかった」

 「何がですか?」

 「元気になって」

 思わず野田さんとみると、心底ほっとした表情をしていた。今までの私はそんなに疲れているように見られていたのだと思うと、恥ずかしくて仕方なかった。正直、必死で疲れを隠しているつもりでいたのに簡単に見破られてしまった。これが大人の余裕なのだろうか?

 私は小さく「すみません」と「ありがとう」と野田さんに言った。野田さんは嬉しそうに「どういたしまして」と答えてくれた。


 「家まで送るから、住所教えてくれる?」

 遅めの夕飯を済ませて、車で家まで送ってくれることになっていた。私は遠慮する理由もないので、素直に甘えることにした。住所と付近の目印になるような建物を教えた。

 「へぇ、案外すぐ傍に住んでるんやねぇ」

 「そうなんですか?」

 「うん、同じ町内で俺は4丁目」

 「うわ、ほんとですね」

 自分でも驚くぐらい、会話が途切れない状態が続いた。野田さんが気を使ってくれているんだろうが、私自身が会話をかなり楽しんでいた。

 今まで出会った男性でも、こんなに長時間楽しく過ごした試しがなかった。この人は、本当に人の扱いが慣れているなぁと感心した。と同時に、ここまで女性の扱いに慣れているということは、それなりに遊んでいるという事なんだろうと小さな猜疑心が心の隅に現れた。

 「いつも一人で家に帰ってるの?」

 「はい、でも慣れましたよ」

 「へぇ。じゃあ、誰かと住むなんて考えられない?」

 どういう意味ですか?と聞こうと野田さんを見ると、妙に緊張した表情をしていた。これは何かを試されているんだろうか?こういう場合は、どう答えたらいいんだろう。この質問についての模範解答は、鈴子からも誰からも教えてもらっていない。どうこたえるべきかと悩んでいると、野田さんがクスリと笑い「ごめん、何でもない」と言って会話を終わらせた。


 家の前まで送ってもらい、断られるかもしれないと思いながら「コーヒーでもどうですか?」と聞くと、野田さんは嬉しそうに頷いて「じゃあ、1杯だけもらう」と言った。

 「あんまり片付いてないですけど」と前置きして、彼を部屋に招き入れた。

 「なんだ、想像以上に片付いてるんだ」

 「想像って・・・どんな想像してたんですか?」

 「まぁ、いろいろとね」

 野田さんはそう言って、意味ありげに笑った。野田さんを一人掛けソファに案内してポットを火にかけた。

 「あ、アナログなんやね」 

 「ええ。コーヒーとか紅茶もそうですが、お湯を沸かして作るっていうのが好きなんです」

 「へぇ。そういうところ、結構好きかも」

 「え?なんですか?」

 野田さんの言葉を、私は聞こえなかったふりをした。男の人に冗談でも「好き」と言われたのは、数年ぶりだったのでどう答えていいのか分からなかったからだ。

 野田さんもその事に気が付いてくれたのか、やっぱりクスリと笑って「何でもない」と言った。それ以上は恥ずかしさのあまり、野田さんのほうを見ることができなくなった。

 それになんとなく、野田さんが私をじっと見ているような気がして、ポットにもコーヒー作りにも集中できなかった。

 「ごちそうさま」

 野田さんはそういうと、明日は早いからと早々に引きあげようとした。私はあわてて何か言おうと玄関まで見送った。

 「外は寒いだろうから、ここまででいいから」 

 「でも、折角なので」

 「じゃあ、1階までにしよう」

 結局、私は車まで彼を見送った。車は道路を挟んで向かい側のコインパーキングに停めてある。

 「今度は、うちにおいでよ」

 「はい。ぜひ遊びに行きます」

 「次は、もっとゆっくり話したいね」

 「はい。私も色んなことを話したいです」

 彼は満足そうに頷いたあと、何を思ったのか私の頭を軽く2回撫でつけた。なんだろうと私は訝しんで彼を見たが、彼の表情からは心の中を読み取ることができなかった。

 「また、連絡する」

 「はい。待ってます」

 その挨拶を最後に、その日は終わりを迎えた。ただ私はなんとなくこれからのことを考えると、色んな不安が押し寄せてきてなかなか寝付けなかった。


 次の日、朝一番に敦子に出会った。

 部署は違うのにロッカールームが統一されてるというのは、本当に不便で不愉快だと痛感した。関わると面倒なことに引き込まれると思たので簡単な挨拶を済ませて立ち去ろうと思ったのに、いつものように彼女に引き留められた。

 「今度の日曜日なんだけど、暇かなぁ?」

 「日曜日?なんで?」

 「うん、皆でご飯を食べてカラオケに行こうと思ってさ」

「よかったら京ちゃんもおいでよ」と、敦子はにこやかに言う。私が彼女のことを徐々に嫌い始めていて、避けていることに気付いてはいないのだろうか。それともそれを十分に理解したうえで、あえて私を誘うことが義務と勝手に思い込み、私を誘っているのだろうか?

 「ごめん、日曜日は無理」

 「じゃあ、いつなら行けそうかな?」

 「何で?」

 「あのね。私の友達に彼女がほしいっていう子がいるんだけど、京ちゃんって彼氏がいないだろうから、紹介してあげようかな?って思うんだけど」

 思わず野田さんのことを話しかけたが、ぐっと堪えた。それに「紹介してあげよう」という厚かましい言い方にカチンときていた。

 「必要ありません」

 「そうなの?でも、彼氏がいたほうが、もっと楽しいよ?」

 「もし必要になったら、敦子ちゃんから紹介された人は絶対に嫌です。別の人に紹介してもらいます」

 嫌味たっぷりに言うと、敦子は面食らったような顔をした。しかしすぐにいつもの恩着せがましい顔に戻った。

 「やだ。私が一番京ちゃんのこと分かっているのに、別の人が紹介する人なんて、全然気が合わないよ。絶対に長続きしないから」

 敦子は少しだけ震えていた。きっと、自分よりも格下と思っていた私に反論されたことに心底イラついているんだろう。

 あまり波風を立てずに徐々に距離を取って縁を切ろうと思っていたのに、不愉快な言動に不快感を隠すことができなくなっていた。気が付けば、私は敦子に淡々とした口調で話していた。

 「いい加減、気付いてほしいんやけど」

 「何に?」

 「私が、敦子ちゃんのことを嫌いだってこと」

 「え?何それ?」

 その言葉を聞いた彼女は、本当に意外そうな顔をした。やはり、敦子は私が自分を嫌っているということに気が付いていなかったのだろうか。

 「嫌いだ」という意思表示さえすれば、彼女の面倒なお願い事や付き合いから解放されると思っていた。でも、私は日ごろの鬱憤が関を切ったように溢れ出し、言葉を止めることができなかった。

 「いつもいつも…恩着せがましい態度とか、何の参考にもならない話を聞くのも、もう限界なんですけど?」

 「何言ってんの?子供みたいに我儘言ってぇ」

 敦子は子供をあやす様に私の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。たしかに、こんなことを言ってしまうことは子供じみた行為で、社会人としては愚かなことだと自覚している。

 それでも我慢の限界を超えている私は、自分で自分自身の制御ができなくなっていた。敦子が私のほうへ伸ばした手を、思い切り払いのけた後、今度は一切の顔色を隠すようなことも我慢することもなく私は更に言葉を続けた。

 「嫌々付き合ってる私の身にもなってくれる?毎回、気分の悪い時間を過ごさなきゃいけない気持ちがわかる?正直、名前も呼んでほしくないんやけど?」

 言い切った後に深呼吸をして、ゆっくりと二度と私に話しかけないでほしいと言った。敦子は何が起こったのか分かっていないのか、ぽかんと私を見つめている。

 「私は、あなたのことを友達とか親友なんて一度も思ったことないから。悪いけど、友達がほしかったら、他の人をあたってくれないかな?」


 これで、彼女との縁は完全に切れた。

 それ以来、敦子が私の前に現れることがなくなった。

 安藤から聞いた話によると、彼女は比較的残業が少ない遅番勤務に変わったようで、出勤時間も退勤時間も完全に私とはかみ合わなくなっているそうだ。

 もちろん鈴子とも時間帯がずれてしまっていて、彼女も「敦子と会わなくなった」と言っていた。

 安藤から聞いた話をそのまま鈴子に聞かせると、納得したようで何度も頷いた。

 そして、私の耳元でこうささやいた。

 「敦子さん、京ちゃんに嫌われてたって、泣きながら電話してきた」

 私も鈴子に倣って、鈴子も耳元で言った。

 「ああ、いい加減にしてほしいって伝えたからね」

 「そうなんや。今、あの部署で敦子ちゃんと仲良くしてる人って、男友達しかいないみたい」 

 「いいんじゃない?男が好きなんやろう?」

 「うん。でも同性からは総スカンみたいやし、マネージャーとか上司からも、素行が悪くなってきたって厳重注意を何回か受けてるみたい」

 「そうなんや」

 「うん。由美ちゃんみたいに最終宣告受けるのも、もうすぐと思うよ」

 安藤もそんな事をいつか言っていた気がする。


 「何であんな子と友達なの?」


 いつか安藤から言われた言葉を思い出していた。今ならちゃんとその質問に答えることができる。

 「私は彼女が一人で寂しそうにしているのを見て不憫に思いました。なので、同情で一緒にいてあげているだけです」

 きっとそんな事を私が言ってしまうと、一気に印象が悪くなってしまうので、結局、心の中にとどめておこうと思った。

 しかし、敦子は自分の取り巻き連中に私のことを如何に悪い女かということを散々、話して回ったそうだ。

 1週間後の朝には安藤の耳に入っており私を見た途端に、嬉しそうな顔で話しかけてきた。

 「あの寺川敦子に、散々ひどい事を言ったらしいじゃん」

 私はてっきり「会社内でもめ事はやめてほしい」と注意されると思っていたので、心底驚いた顔をしていた。

 「でも相手が悪いよ。かなり尾ひれを付けて話してるみたいだよ?」

 「え?そうなんですか?」

 「うん。でも、あの女の言うことだから、誰も信じてないけどね」

 「そうですか」

 「穂斗山さんのほうが人事的には好印象だし、悪印象で最終宣告を受けた人間の遠吠えなんて誰も聞かないからね」

 「え?最終宣告?」

 「うん、まず無断欠勤に休憩時間の超過でしょ?それから社内で常識の範囲を超えた人との付き合いをし過ぎててさ、他のスタッフからクレームが来たみたいだよ」

 「へぇ、そうなんですか」

 「そう。だから、君のストレスがもうすぐクリアになると思うよ」

 安藤はそういうと「じゃあ後で」と言い、早朝会議へと向かった。これは鈴子に話すべきか話さずにいるべきか考えた。たしかに鈴子も敦子を快く思っていないことは知っているが、私ほど嫌っているわけでもなさそうなのだ。

 だから、こんな話を嬉しそうに話して聞かせるわけにはいかないだろう。

 それに敦子のことだから、そのうち鈴子に話すだろう。それも、かなり大げさに尾ひれと背びれをたくさん付けて話すことだろう。


 その日の夕方ごろ、早速鈴子から社内用のメッセージファイルで「敦子が解雇宣言されたらしいよ」と連絡が入った。すでに知っていた情報だが、その事を悟られないように「え?本当に?」と返信を送った。

 しばらくすると「安藤さんに呼び出されたらしくて、無断欠勤と早退も多かったのが、勤務点数にかなりひびいたらしい」とあった。それを見て私は思わずほっとした。どうせまた、ありもしない作り話で鈴子の同情心を煽ろうと思っていたからだ。

 「そういえば、一緒に新しい仕事を探そうって誘われたんだけど?」と、メッセージが飛んできた。「一緒に新しい仕事を探そう?」と、その文字に驚いた私はついに鈴子のほうを見てしまった。

 鈴子も私が自分を見ていることに気が付き、面倒くさそうな表情をして首を横に振っていた。どうやら彼女は敦子に『新しい仕事を探して、こんな会社を辞めよう』と誘われているらしい。

 もちろん、鈴子は「今の職場が気に入っている」と言い、丁寧に断ったそうだ。


 「京ちゃん、ちょっといいかな?」

 ロッカールームでメールのチェックをしていたところに、敦子が声をかけてきた。まるであの時の出来事がなかったかのように振る舞い、にこやかに微笑みながら話しかけている。

 私はある種の気味の悪さを感じながら「何?」と問い返した。

 「私、クビになる前に新しい仕事を探していなくなろうと思うの」

 「あ、そうなんだ」

 私の問いかけの後、敦子はしばらくジッと私を見ていた。私が何か慰めの言葉や応援するような言葉をかけるのを待っているのだろうか。生憎、彼女に何か言葉をかけるつもりはなかった。

 すると敦子はしびれを切らしてこう言った。

 「ねぇ、寂しいとか思わないの?私が辞めるんだよ?」

 「はぁ?」と思わず拍子抜けした声を出した私は、敦子の顔を凝視した。どうやら敦子は本気で私にそう言っているようだった。

 「それ、本気で言ってる?」

 「ちょっと、本気ってどういうこと?」

 「冗談で言ってる?からかってるの?」

 私がそう聞き返すと、今度は敦子が信じられないものを見るような目をした。大げさに首を左右に振って、両手を両頬にあてて「信じられない」と呟いた。

 彼女の計算された仕草を見て、私は気持ちが暗くなるのを感じた。私に対してそこまで演技をして可愛く見せる理由が全く分からなかった。

 私がそのまま押し黙っていると、敦子は今度は地団駄を踏みながら言った。

 「私たちって、親友でしょ?どこまでも一緒にいるのが普通でしょ?」

 「し、親友?」

 「そうよ!私たちは、いっつも、どんなときも一緒にいたでしょう?」

 私はどう返事をしていいのか分からず、その場に立ち尽くしていた。すると、敦子は私の手を取って「親友じゃない?」ともう一度可愛らしく問いかけてきた。その行動に嫌悪感を抱き、吐き気を覚えた。

 やはり彼女は私との間に起きた出来事を全く無視している。それどころか、無かったことのように振る舞い、私の同情心を煽って何かをさせようとしているのだ。私は彼女を手を大きく振り払い、今度は憎しみをこめた眼で彼女を見た。

 「もう二度と、私に話しかけないで。気分が悪い」

 敦子は何か言いかけたが、私はそれを聞かずにロッカールームを後にした。彼女の「待って」という声が聞こえたが、彼女の真似をして何も聞かなかったことにした。

 足早に自分の席に戻ってきた私を見た鈴子は、私の表情が固く凍り付いていることに気付き、「なにがあったの?」とメッセージを送ってきた。

 生憎今は誰とも話す気にはなれなかったので、鈴子には悪いと思いつつもメッセージを無視した。気分が落ち着いたら、鈴子にはすべての出来事を話そうと思っていた。

 ふと、自分の目の前にあるパソコン画面の視界がぼやけていることに気が付いた。どうやら私は泣いているようだった。自分でも何が原因で泣いているのか全く理解できない。たまたま目の前に座っていた片桐は驚いた表所をして首を傾げてみせた。 

 私は「何でもない」という意味で、首をしっかり確実に縦に振り、パソコン画面に視線を戻した。

 きっと自分の情けない感情の爆発を後悔して、そして敦子に言い放った言葉のひとつひとつを思い出しては、反省をしているのが原因なんだろうと思った。

 彼女をここまで嫌いになってしまった原因は、恐らくあの時だと思った。雑務の処理を淡々としながら、私はあの時のことを思い出していた。


 ● 2008年:8月頃


 朝から私は気分が優れず、起き上がるのもやっとだった。仕事は昼勤務の12時から開始だったので、出勤前にかかりつけの病院へ向かった。

 「風邪ぽいねぇ」

 おじいさん先生は、相変わらず病弱な私を見るなりそう言った。このおじいさん先生とは、もう5年以上の付き合いだ。私の普段の食生活や労働時間、休日については家族よりも熟知している。

 「熱はないし、出勤するなら点滴でもしていく?」

 仕事を休むつもりのない私のことを知っているこの人は、いつも点滴や注射で何とか私の体力や精神力が持つように願掛けしてくれている。

 「そうですね。お願いします」

 「でも、あんまり無理したらあかんよ?」

 「はい。大丈夫です。ありがとうございます」 

 おじいさん先生は、それでも心配そうに私を見つめる。初めておじいさん先生の診察を受けたのは20歳の頃だった。その時も極限まで体調不良を我慢して仕事をしていた。

 ある日、職場で気を失ったところを近隣のこの診療所に運ばれたのがきっかけだった。

 「そんなに忙しい仕事なんか?」

 おじいさん先生は、薬の指示を出しながら私に聞いた。寡黙な先生が心配そうに話しかけてくるということは、よほど私の顔色が良くないんだろう。私は何とか「大丈夫です」と笑顔を向けることで、先生を納得させようと努力をした。

 「てんかんの疑いも消えたわけじゃないんやし、体調だけは気を付けてなぁ」

 おじいさん先生はそう言うと、次の患者を迎える準備を始めた。


 看護師に点滴用のベッドに案内されてベッドに横になる。真っ白な天井を見つめていると、仕事ばかりの毎日を本当に満足して生きているのだろうかと自問自答し始めていた。

 今の仕事は嫌いではないし、趣味の時間もそれなりにある。正直いって、この生活に満足感をそれなりに持っているつもりだ。なのに、時々ふと「このままでいいのだろうか」と考え込んでしまうことがあるのも事実だった。

 「このままでいいのか」という気持ちは、おそらく永遠に自分の人生について回る感覚だろう。幼いころに掲げていた目標は、何一つ成就していない。そして、想像していたような大人にはなっていない。恐らく、幼いころの自分のキラキラと輝いた瞳と思いに罪悪感を感じているのかもしれない。

 「点滴、終わりましたよ」

 年配の看護師さんが点滴の針を抜きながら、声をかけてくれた。看護師の声に現実に引き戻された私は「ありがとう」とお礼を言ってそのまま駅へ向かった。


 昼出勤の場合、昼礼が就業開始の5分前から始まる。それから、各配属先の午前中の仕事の内容や引き継ぎ事項などを聞いて仕事を始めることになる。

 朝勤務とは違い、かなりのんびり仕事を開始することになるので、体調の悪い私には丁度良かったと安堵した。休憩室に行くと、私と同じ昼出勤の光井がソファにのんびりと座っていた。私がいることに気が付くと、にこりと笑って手を振ってくれた。

 「京ちゃん、おはよう。顔色悪いね」

 開口一番に光井はそう言い、笑顔を曇らせた。私はあわてて「大事ではない」と断りを入れて、病院で診察をうけてきたことも説明した。それでも光井は心配そうな表情を崩さず「辛いなら早退するべきだ」と注意してくれた。

 「京ちゃんは、ちょっと一人で頑張りすぎるところがあるから気を付けないと過労で死んじゃうよ?」

 「大丈夫。そうならないように、十分気を付けてるから」

 「ならいいけどねぇ」

 私はもう一度、「大丈夫」と光井に言い聞かせて昼礼に行こうと立ち上がった。立ち上がった時に少しだけ目の前が暗くなったが、たんなる立ちくらみだろうと必死に言い聞かせた。

 「今日は松岡が休みだから、午前中の仕事が少しだけ残っているのよ」

 開口一番、中川が言う。

 1週間ほど前から、いつもの職場である総合受付センター業務から、テクニカル相談センターのメール部門へ期間限定で参加することになっていた私たち2人は、研修担当者の松岡が3日間だけ休暇を取ることになったということを知らされて驚きを隠せないでいた。

 仕事のスピードや量が誰よりも上をいき、なおかつ皆勤賞で有名な松岡が仕事を休んでしまうなんて、一体何事かと驚いてしまったのだ。光井は思わず「入院とか、重い病気なんですか?」と中川に聞いていた。

 すると、中川は私たちの様子を見て、クスクスと笑いながら答えた。

 「ううん。ただの風邪みたい。それと、生理痛も重なったみたい」

 「ああ、そうなんですか」

 光井は心底安心したようで、何度も頷いていた。私も大したことが無くて本当に良かったと内心ほっとしていた。


 「それで、2人にはもしかしたら、1時間だけ残業してもらうかもしれない」 

 「それは問題ないですよ」

 「私も大丈夫です」

 中川に元気よく返事したつもりが、そうではなかったようだ。中川も安藤も驚いた表情をしている。何か良くなかったのか?と思い返したが、とくに身に覚えがない。

 「その声、ひどいね」

 「え?声、ですか?」

 「うん。なんか、妙な声になってるよ」

 光井も2人と同じ気持ちで何度も頷いていた。病院で診察を受けていた時、それからロッカールームや休憩室で光井と話をしていた時も、声がおかしいという指摘を受けなかった。

 「もしかして、君も風邪ひいた?」

 「風邪っぽいとは言われましたが、診察も受けてきましたし薬ももらっています」

 私は安藤と中川にそう言って、仕事は問題なくできると言った。2人ともしばらく私を見て、そして「無理のないように」と言い、光井と私に今日やるべき仕事の束を手渡した。


 「もしかしたら、本格的にこの部署に異動になるかもしれないって」

 午後休憩の時間、光井が周りの目を気にしながら教えてくれた。もちろん私は初耳だと驚いた。

 「引き抜きってこと?」

 私の問いに光井は真顔で頷いて、そして「他にも候補がいるらしい」と伝えた。

 「何が基準っていうのは、あんまりわかんないけど。中川さんと安藤さんが選んでいるらしいってさ」

 「へぇ…」とだけ私は答えて、1週間前に安藤に個別に呼び出された時のことを思い出していた。


 たしか「人手が足りなくて、短期間なんだけど手伝ってほしい仕事がある」という相談を安藤から持ち掛けられた。たとえどんな相手でも、困っている人のお願いを断ることが苦手な私は「新しいことを覚えるのは好きです」と明るく答えて、それ以上のことは考えずに今に至っていた。

 引き抜きが決まったのはいつなんだろう?と特に意味の内容な疑問を持った私は光井に聞いた。

 「光井さんって、そんな情報をどこで聞いたわけ?」

 「うん、安藤さんに呼び出されたときに聞いたよ」

 「え?そうなん?」 

 光井は「うん」と答えた。あの時から安藤は、私たちをテクニカル側へ引き抜こうと考えていたと思うと、騙されたような気分と後先考えない自分の浅はかさに情けなさを感じた。


 「でもね、意外に好きなんだ。この部門って」

 光井は喜ぶべきか、悲しむべきかという複雑な表情をしている。テクニカル部門と言えば、総合相談部門から枝分かれした特殊な部門と言われている。というのも、この責任者が中川と言うパソコンやTVゲームマニアで、総責任者もTVゲームマニアであらゆる奇妙な趣味を持っている安藤だからだ。総合相談部門の責任者は、堀田と浅田という人物で人当たりも良くてスタッフからの人気が非常に高い2人だった。そして、その2人の手におえない人物たちがこのテクニカル業務部門へ左遷されてるという噂がいつしか立つようになった。


 おそらく全くのデタラメとは思うのだが、それでも一度定着した噂はなかなか消えずにズルズルと残り続けてしまう。しかも、総合部門で目立った成績もなかった中川が責任者に抜擢され、なおかつ、東京から正体不明の安藤という男が統括責任者になったという事実が、この噂にますます真実味を増した原因と思われている。そして、極め付けが尾崎と佐倉という喧嘩が絶えず、成績も芳しくない2人の統括補佐も決定的な証拠になっていた。

 「いよいよ、左遷組ってことやんな?」

 光井は半分諦めたような表情をしていた。私はと言えば、どういう感想を持てばいいのかわからずにただ困惑していた。

 「でも、私は・・・・ここが嫌いじゃない」

 ようやく苦し紛れに絞り出した私の言葉に光井は安心したような、そしてどこか納得したように頷いた。

 「私も嫌いじゃない。意外に居心地がいいんだよねぇ、ここってさ」

 その光井の力強い返事に、私の心はいくらか救われた気がした。


 昼休憩が終わるころ、化粧直しをするべきかとパウダールームに光井と一緒に引きこもっていた時の事だった。

 大きな曇りガラス1枚を壁にして女子トイレとつながっているパウダールームでは、女子トイレでの会話が筒抜け状態になっている。その女子トイレ側から敦子の笑い声が聞こえた。そういえば、敦子も昼勤務だったようで『夜は一緒に帰ろうね』とメールが来ていたことを思い出した。残業があるだろうからと断るために彼女を呼ぼうとした時だった。

 「そうなの、京ちゃんってさ左遷だよ、さ・せ・ん」

 「へぇ、あの部署に行くことになるんだったらもう終わりって噂やんな」

 敦子と話しているのは、由美だと気が付いた。2人とも楽しそうに私の話をしている。でも内容は決して褒められるものではないと悟った。光井もそれに気が付き、私の服の袖を引っ張った。

 私は光井のその行為を無視して、2人の会話をすべて聞くつもりでその場に仁王立ちした。

 「でもさ、仕方ないよね。だって、京ちゃんって落ちこぼれなんだしさ」

 「かわいそうにね。愛想が良いし付き合いやすいから適当に遊んでたけど、同じにされたくないからねぇ」

 敦子が嬉しそうに笑った。その笑い声は、決して気持ちのいい笑い声ではなかった。隣にいる光井は、いよいよ本格的に力を入れて私をその場から連れて行こうとしている。私は頑なにそれを拒んだ。2人の会話はまだ続いていた。

 「というか、安藤さんに気に入られること自体が、おかしいよね?」

 「バカだから扱いやすいし、必要なければ戦力にもならないから捨てやすいんじゃない?」

 「あはは、じゃあ私たちと同じこと考えてるんだね」

 「そうそう。そういう意味では、安藤さんと私たちって気が合うんじゃない?」

 そのまま2人は私たちに気が付かずに女子トイレから出て行った。

 残された私と光井は無言のまま、その場に立ち尽くしていた。すると、鈴子が入れ替わりに入ってきて私たちを見つけた。

 「あれ2人で何してるの?今から休憩?」

 その優しい鈴子の声がスイッチになったようで、私の両目から止めどなく涙が流れた。鈴子は驚いて慌てふためいて「何があったの?」と光井に聞いたが、光井は何も答えず、ただ首を横に振るだけだった。

 それと同時に朝から続いている気分の悪さが最高潮に達した私は、その場に崩れ落ちた。おかげでしばらくの間、休憩室で休むことになった。

 「気分が落ち着いたら早退してもいいし、できそうなら仕事をしてもいいけど」

 どうしても仕事がしたいと言った私に中川は心配そうにそう答えた。仕事熱心なのは良いと思うが、自分の体を労わってほしいとも言われた。


 気持ちが落ち着いた頃、光井が休憩室まで様子を見に来てくれた。そして、そっと私に言ってくれた。

 「さっきのことは…きっと、悪い夢だったんだよ」

 だから全部忘れようねと言ってくれた。一度は光井の言葉を信じて忘れようと思ったが、結局、それからの2人の態度や言葉が、すべてあの瞬間にリンクしてしまい、どうしても彼女たちを許すことができなくなっていた。


 ● 2011年:11月

 【1】

 彼女から連絡が入った。『仕事が思ったより早くに終わった』という。企画部に所属している自分では考えられないことだと思った。

 予定よりも早く終わるなんてことはありえないのが、この広告会社の仕事であり、恐らく他の会社でも同じだろうと思う。

 『こっちも早く終われたらいいけど、たぶん無理っぽいんだ』と返信して携帯を鞄にしまい込んだ。すでに退社時刻は過ぎている。本当のことを言うと、帰宅しようと思えば帰宅することはできる。

 しかし、自分を含めた誰も未だに決められた時間に帰社したことがなかった。そんなことをすれば「仕事をなんだと思っているんだ」と責められるのが目に見えている。

 この会社の重役は「残業時間が会社員の誇り」と思っているんだろう。残業時間の少ない社員は、ただの金食い虫だと意地の悪い嫌がらせをするのだ。つい最近も嫌がらせを受けた新入社員が退職した。

 定年退職を目前にしている人間ばかりがこの会社に残っていく様子をみて、思わず深いため息が出た。

 この会社は、近々、潰れてしまうだろう。それは、この会社の未来を支えるであろう新人類を退職させているところが原因だ。そして、そのことに気が付いていない人間がこの会社を経営している。

 「なぁ野田」

 同僚の細川が小声で囁く。こいつは会社の経営方針に文句を言いながらも、結局はこの会社とここの経営者に雇われなければ生活ができないという俺と同族だ。

 「次は、あのノッポが苛められてるって噂があるねんけど」

 「ノッポが?」

 ノッポと言えば、俺たちと同期入社で今まで一緒にこの会社の経営を支えてきた仲間だった。なにより、俺たち2人よりも口数が少ないし文句も言わないほうだ。なのに何故、彼がクビの候補者に選ばれたんだろうか?

 「この前の広告企画、ノッポの企画が通ったのが気に入らないらしい」

 「ただの嫉妬か?」

 「そう。でも、その企画自体をノッポから奪って辞めさせようっていう魂胆みたいやなぁ」

 「あいつは?何か言ってるのか?」

 すると細川は首を横に振り、「いつも通りに、黙々と仕事をこなしている」と教えてくれた。

 「今日、ノッポと夕飯でも食べに行こうって話をしてるんやけど。お前もどうかな?」

 「そうやな。久しぶりに3人で飲みに行くか」

 細川のとの雑談が終わると、先ほど鞄にしまい込んでしまった携帯を再び取り出した。連絡相手は彼女で『久しぶりに友達と飲みに行ってくる』と簡単な報告だけを本文に添えて送信した。

 すると、さすがに仕事が終わって帰宅途中の事だけはある。彼女からすぐに返事が返ってきた。

 『いいですね。せっかくの機会なので存分に楽しんでください。それから、あまり飲み過ぎないでくださいね』

 その内容を確認して、思わずハッとした。やっぱり彼女は今までの女性とはどこか違うと思った。

 今まで出会った女性だったら、こんな時『私も一緒に飲みたい』だとか『私は誘ってくれないの?』『友達のほうが大切なんだ』とか、とにかく自分中心で話を振ってくる。

 そして、最終的に思い通りに行かないと分かると気が狂ったように怒り『私と仕事、どっちがいいの?』とか『友達がいいなら、友達と付き合えば?』なんてバカなことを言ったものだ。

 あの時、駅のホームで細川に「あんな素朴な女に声もかけられないんなら結婚なんて一生無理だぞ」なんて嗾けられて、半場やけくそで彼女に声をかけたことを思い出した。

 たまたま前日に細川が俺の家に泊まりに来ていなかったら、少し早目に家を出ていなければと思うと、あの偶然の重なりに運命を感じて、そしてその運命に感謝せずにはいられなかった。

 『何か面白い話を聞けたら、今度会ったときに教えるから』と返信したあと、仕事に戻った。


 3人でいつものお好み焼屋へ行った。いつも通り、焼酎とビールと日本酒を頼む。これは気の置ける3人で飲むからこその注文になった。

 「で?最近はどうなの?2人とも」

 話を切り出したのは、3人の中でも一番話し好きの細川だった。ノッポは苦笑いをしたきり、何を話すべきか悩んでいるようで「そうやなぁ」と小さくつぶやいた。

 「そういえば、野田は?あの女の子とどうなったわけ?」

 彼女の話を振られ、思わずむせ返りそうになったのを必死でこらえた。

 「お、その反応はいい感じってこと?」

 細川は嬉しそうにそう言った。何せ、自分が背中を押したと言うだけあるのだから当然と言えば当然の反応なんだろう。

 「まぁ、何とかうまくやってる」

 「なになに?僕だけ何にも聞いてないけど?」

 「ああ、お前は短期出張してたやろう?その間に、結構いいことがあったわけよ」

 注文した品物がすべて揃うまでの間、細川は自慢げに俺と彼女との出会いの出来事や経緯を事細かに説明した。

 ノッポは一通り話を聞き終えると、満足そうに頷いて俺を見る。

 「お前がそれなりに本気になる相手って、ほんまに珍しいなぁ」

 「そうか?」

 「そうだよ。だって、いっつも途中で面倒だとか、うっとおしいってイライラしてんじゃん」

 ノッポの指摘には全く反論ができなかった。たしかに、今まで出会った女性だと、すぐに『面倒だ』とか『重い』と言って別れを切り出したり、自然消滅を狙って別れることが多かった。

 「彼女については、何か別の感情が芽生えたってわけですな?」

 「それは、よくわからんなぁ」

 「でも、さっさと別れる気もしばらくはないんやろう?」

 ノッポにそう言われて、ぼんやりと彼女と別れるということについて考えた。恐らくは今のところないと思う。それはなんとなく断言できた。

 俺がどう答えようか考えあぐねていると細川がニヤリとして言った。

 「どうやら、今回は本気みたいだなぁ」

 「うん。そうみたいだ」

 「そ、そうかな?」

 「そう。自分ではまだ気づいていないけど、答えにくいってことはそういう事だ」

 細川は飲みかけの焼酎をカチンと俺のグラスに当てて「おめでとう」と言った。ノッポを同じような仕草をしながらニヤリと笑った。

 「そのうち、めでたい話が聞けそうかな?」

 「そうやな、俺たちの中でお前だけが唯一売れ残ってるしなぁ」

 その『売れ残っている』という表現がいまいち気に入らないが、突っかかるのも大人げないので気にしないことにした。そして、『めでたい話』については「さぁな」と答えて白を切ることにした。


 【2】

 野田さんが男友達と飲みに行っているというメールを確認した丁度その頃、なぜか敦子からメールが届いた。嫌々ながらも確認すると『どうしても会って話がしたい』という。

 幸運なことに京都行の各駅電車に乗っていた私は『無理だ』と返信して携帯電話を鞄にしまい込み小説を手に取った。野田さんに勧められた小説家で、かなり内容が深く濃く、登場人物たち其々の心理描写もすべて繊細で読み物としては何度読んでも引き込まれるものだった。

 この本が一番好きで幾度となく読んでいるなんて、よっぽど本が好きなのかこだわりが強いのか。でも、自分にはとても良い刺激をくれる人だと改めて感じた。

 新しいページを開いたところで、もう一度敦子からメールが届いた。今度は『引き返してきてほしい。どうせ明日は休みなんだろう』といつもの身勝手な文章で、最寄り駅に到着したので返信せずに下車することにした。

 改札に向かって歩いている途中、肩をポンポンと叩かれた。振り向くと、野田さんの同僚である勝俣さんだった。

 「やっぱり。野田くんの彼女やんね?」

 人懐っこそうな彼女は、以前からの知り合いのような感覚で「こんばんは」と話しかけてきた。

 「こんばんは。勝俣さんも…今、帰りですか?」

 私がそう聞くと「そうだよ」と言った。そして、私を不思議そうに見つめていたかと思うと「何かあった?」と聞いた。どうやら私はかなり深刻な表情で歩いていたようで、私の顔はみるみる赤くなりモゴモゴと説明をし始めた。

 「ちょっと、会社の子とトラブルがあって…」

 「ええ、その子から妙なメールでも来たわけ?」

 「はい、いつものことなんですけど」

 彼女はしばらく考えて私にこう言った。

 「何の解決にもならないかもしれないけど、私に話してみない?第三者に話したほうが良い時もあるよ?」

 彼女の好意をどこまで受けて良いものか考え込んでいると、彼女はまた笑顔になって言った。

 「無理にとは言わない。それに、野田くんにも何も言わない」

 彼女の目をみると、特に面白半分で話しかけているという風でもなかった。迷った挙句、私は敦子について話すことにした。駅のホームでは話しにくいので、駅の近くにあるレストランで軽い食事をとりながら話すことにした。

 私と彼女は早々に注文を頼み、早速本題に入った。

 「普段はとても仕事ができて優しい子なんです」と前ふりを入れて、簡単にこれまでのことを話した。敦子とどんな風に出会い、どんな付き合いをしてきたのか、そしてどんな我儘やお願いをされてきたのか。彼女が影では私をどんな風に感じていたのか。ごく簡単に説明した。

 彼女は話を聞き終わると、腕を組んで考え込んで小さく唸った。

 「とっても難しい彼女ね」

 「はい、私もそう思います」

 「第一にまずは、あなたもいい人過ぎたわよね」

 「良い人ですか?」

 そんなことを言われたことがない私は思わず大きな声で聞き返した。すぐ後ろで食事をしていたカップルが何事かと振り向いた。そんなことは全く気にしていない勝俣は、私に向かってさらに続けた。

 「まず、あなたが彼女を甘やかし過ぎたところが悪い」

 「甘やかす?ですか」

 「他の人のように、仕事上での付き合いだけに留めておけば良かったのに、仕事以外でも面倒を見てるじゃない?そもそも良くないのよね」

 「でも、ほおっておけなくて」

 私が困ったようにそう言い返すと「そこが駄目だ」と言った。後ろのカップルのとくに男性が、何度も様子を伺っているのが気になったが勝俣の可愛らしいへの字口はもっと気になった。

 「嫌だ嫌だって言いながら、付き合うのって自分自身のストレスにもなるでしょ。八方美人すぎるわよ」

 「それは分かります」

 「今更、あなたが嫌いだって言ったところで、彼女はお人好しで自分の思い通りに動いてくれる人間を手放さないわよ」

 「そうですよね…」

 「自分のまいた種っていう結果でも、それはいつかいい方向に自分に返ってくると思うの」

 私は彼女の言い分が全く理解できず、ただただ頷いた。ちょうどいいタイミングで料理が運ばれてきた。

 「いつか彼女が自分の身勝手さを悔いて反省するときが来たら、真っ先にあなたにお礼や謝罪をしたいと思うよ」

 「そうでしょうか?」

 「きっとそうよ。だって最初は、仕事のことで落ち込んでいたあなたを励ました人なんでしょう?」

 「そうですね」

 「大丈夫。今は彼女も自分のことで何もかも必死なんだろうけど、いつか分かってくれるから」

 「いつになるんでしょうね」

 「そうねぇ…そのいつかが来てくれないと、あなたの心労が積もるばかりだもんね?」

 結局メールを返信しなかったことを思うとため息がこぼれてしまい、彼女に話してよかったのかと後悔し始めた頃、今度は電話の着信が入った。

 着信先を確認すると野田さんだった。私は彼女に断りを入れて通話ボタンを押した。

 『ごめん、今、家にいる?』

 少しだけ酔っぱらっているような軽い口調の野田さんが電話の向こうにいた。周りがガヤガヤと騒がしいのは、未だに飲み屋にいるからだろうか?

 「いえ、夕飯を外で食べているところです」

 『へぇ、どこで食べてるの?』

 レストランの名前を言って、勝俣さんと食べていると伝えると本当に驚いた声を上げた。

 『いつの間に仲良くなったの?』

 驚くのも当たり前だと思った。私も彼女とこうやって夕飯をともにするなんていう事は、一生涯かけても考えていなかったことだ。彼女のほうを見ると、ニコニコと笑いながら小声で「野田くん?」と聞いてきた。私は首を縦に振り、野田さんと話を続けた。

 「駅でたまたま出会って、そのまま夕飯を食べようということになりました」

 『そっか、…まだそこにいるの?』

 「そうですね。もう少しだけいるつもりです」

 『じゃあ、送るから合流してもいい?』

 「はい、大丈夫ですよ」

 電話を切ると、彼女が意味ありげに私を見た。なんとなく私たちの話の内容を推測していたようで「幸せそうで良かった」と言った。

 「私はいても大丈夫かな?」

 彼女は楽しそうに私に聞いた。恋愛話が大好きなんだろう。

 「もちろんです。いてください」

 「へぇ、いい心がけですね」

 彼女はケラケラと笑い、そしてすぐに真顔になった。

 「野田くんには、私からはさっきの話は絶対にしないから」

 「はい。ありがとうございます」

 「本当に困って、どうしようもなくなったら必ず野田くんに相談するように」

 彼女の力強い言葉に私もしっかりと頷いた。


 野田さんが合流すると、勝俣さんから野田さんへ矢継ぎ早に質問が続き、酔っ払い気味の野田さんは切り返しがうまくいかずに、しどろもどろの返答しかできない状態だった。こんな風に仲のいい2人がどうして恋人同士にはならなかったんだろうと、ふと妙な不安と疑問が胸をかすめた。

 「で?2人はもう一緒に暮らしてるわけ?」

 「は、はぁ?それはないから」

 「それはないって、それは彼女に悪いなぁ」

 「え、そんな事…ないよな?」

 2人が私に注目したことも気付かず、悶々と色々な考えを巡らせていた。すると、野田さんは私の顔を覗き込み心配そうな瞳を私に見せた。あわてて私は「何でもない」と答え、質問の内容を聞き返した。

 そのうち、3人とも明日が早いからと食事会がお開きになった。野田さんは勝俣さんも一緒に送ると言ったが「彼女に悪い」と言いタクシーを拾って帰ってしまった。

 2人で帰り道を歩きながら、最近のドラマの話に華を咲かせていた。一通りの話が終わり沈黙に包まれた。

 すると突然、野田さんが立ち止まり私のほうへ向きなおった。何事かと首をかしげると、突然私の腕を引っ張り抱き寄せた。

 どうするべきか悩んでいると、何も言わずに私の背中を優しく撫でた。息が苦しくなった私は顔を横に向けると耳が野田さんの心臓の部分に丁度あたり、ドキドキと早鐘を打っているのがわかる。

 「あ、あのぉ…」

 「ちょっとだけ、このままでいいかな?」

 「は、はい」

 今まで何度かデートを繰り返した来たけれど、直接、彼の体に触れたり匂いをこんなに近くで感じたことがなかったのと、どんな体制でいるべきかと考えてしまった。しかも冷静に周りを観察すると、何処かのマンションの駐車場の脇道で、誰かに見つかったらどんな風に冷やかされるのか。

 しばらくすると、我に返ったように私を自分の体から引きはがした。

 「ご…ごめんね」

 「え?ああ、大丈夫です」

 暗闇でも野田さんが真っ赤になっているのがわかった。おそらく私の顔も真っ赤になっているだろう。それよりなにより、野田さんが真っ赤になっているということが驚きと新鮮でならなかった。年齢的には私よりも10歳上だと聞いているが、こんなに初心な反応を見せるのは決して演技ではないと私でもわかる。

 そして、彼はすぐそばのマンションを指さして照れ臭そうに言った。

 「あ、ここ…俺のマンション。ちょっと寄っていく?」

 「ええ、いいですよ」

 ぎこちない彼のエスコートを受けて、彼の部屋に入った。予想以上にさっぱりとしている彼の部屋に私は少しばかり気おくれした。

 「あ、もっと散らかってるとか思ったやろう?」

 「いえ、…すっきりした部屋だなぁと思って」

 「スッキリ?生活感がないってこと?」

 「いや、そういうわけではないです」

 「まあ、必要最低限の物しか置いてないからなぁ」

 そう言いながら、彼はコーヒーを淹れてくれた。

 「明日、休みやったっけ?」

 「ああ、そうですよ。よく覚えてますね?」

 「こう見えて、記憶力はイイほうやからね」

 「野田さんは、もしかしてお仕事ですか?」

 「そういうこと」 

 それでも昼から出勤で夕方には終わるという簡単な事務整理らしく、遅くとも17時には帰宅できるそうだ。

 「そんなに働いて、倒れたりしないんですか?」

 「それなりに休憩も取るし、もう何十年もやってるから慣れたかなぁ?」

 「そうですか。慣れって怖いですね」

 「うん。そうかもね」

 私たちは無言になり、次に何を話すべきか頭の中をフル回転させた。すると、野田さんが無言で私に手招きした。悩んだ挙句、手招きを受け入れることにした。野田さんの隣にぴったりと付くと、自分の心臓の音が聞こえてしまわないかと更にドキドキした。

 「今日、何の話してたの?」

 「え?何がですか?」

 「勝俣と。何の話してた?」

 「えっと、女の子らしい話です」

 「女の子らしい話?」

 「はい。女友達のこととか、仕事のこととか」

 「他には?」 

 「ほ、他は…特に話していないです」

 そうか、と野田さんは安心したようにため息をついてコーヒーを啜った。いったい、何に安心したのか気になり野田さんを見た。

 思った以上に至近距離で野田さんを見たので、私の顔が赤くなっていくのを感じた。野田さんはニッコリと笑ったまま、更に顔を近づけてきたので、思わず目をつぶるとクスクスと笑う声がした。額に何かが軽く当たるのを感じて、目を開けると野田さんの額が私の額に当てがわれていた。

 「あんまり、急に迫りたくないから。我慢してたけど…」

 「が、我慢。ですか?」

 野田さんはそれ以上は何も言わずに、しばらくずっとその状態でいた。私も何も言わずそれに倣った。しばらくすると、野田さんが独り言のように「ごめんね」と呟いた。

 「かなり遅くなったねぇ。ごめん、今から送るよ」

 野田さんは何事もなかったようにそう言って立ち上がった。私はどう反応すればいいのか分からず無言で頷いた。今日の野田さんは様子がおかしいけれど、何かあったの?と聞く勇気のない自分が悔しかった。玄関まで行くと、野田さんはまた私を無言でしばらく見つめ、そして玄関のチェーンロックを外した。

 「行こう」と言って、私を外へ出るように促して玄関のカギを閉める。その仕草がどう見てもいつもやっている仕草とは思えないくらいぎこちないものだった。やっぱり何かあったんだと思い、思い切って切り出した。

 「何か、あったんですか?」

 私がそう聞くと野田さんは驚いたように私を見た。私が一体何を言ったのか、全く理解できないような表情をしている。やがて、野田さんはいつもの優しい笑顔になり「何もない」と答えた。その笑顔に陰りを感じ、私はますます怪訝そうな表情をしたのだろう。野田さんは更に笑ってこう言った。

 「本当に何もないよ。大丈夫だから」

 「でも、いつもと何かが違うように思ったんです」

 「ホント?でも、考え過ぎじゃないかな?」

 彼の表情が一瞬、私を拒んだような気がした。私は俯き、次に掛けるべき言葉を探したが結局、見つからなかった。

 「行こう。遅くなるから」


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