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新しい生活と過去の失敗

 ● 2011年:9月頃(現代)


 新しい部署の研修が本格的に始まったのは、暦が9月に変わってすぐの頃だった。

 「今から、研修内容を説明していきます」

 安藤から事前にもらった資料を手に集まった6人は、安藤と助手の片桐の進行で資料の再確認とこれからのスケジュールの展開を聞いていた。

 「正式な事業開始は10月中旬になると思う」

 「それまでは、みっちり研修ですね」

 「それもあるけど、新規スタッフを研修するための資料が十分にそろっていないから、それの作成も一緒にしてもらいつつ、本格始動まで勤務してもらうことになるの」

 片桐は東京本社から急きょ抜擢された、文字通りのキャリア・ウーマンだった。高身長にスリムな体、シャープな顔立ちは田舎者の私とは大違いに洗練されていた。


 「まずは、完璧に資料を読み込む必要がありますね」

 「内容はどことなく掴んでいるけども、やっぱりしっくりこないところが多々あるねんなぁ」

 みんなのボヤキを聞きながら、ついつい「そうそう」と頷いてしまった。

 「具体的に分かりにくかったところや、追加してほしい資料があったら教えてほしい」

 安藤がみんなの話を遮るように言った。安藤自身もこれまでの間、今までの部署の責任者をやりつつ新事業の立ち上げに参加するのだから、かなり疲れているだろうと少し心配になっていた。ところが本人は私が想像している以上にケロリとした表情でいつも通りに話を進めている。

 「…というところが、当面の一番大切なルールの基礎になるんだよね」

 「同じ系列だからって、同じルールってわけではないんですね」

 「まあね。もともとは子会社だったけど、独立してからは妙にライバル心をむき出しにしてるところがあるからね。その点で言えば、何とも言いにくいね」

 さすがの安藤もクライアントに対しては、それ以上の毒を吐くことができないのか、言葉を濁して愛想笑いをしてみせた。

 「じゃあ、続きは休憩以降に再開するから、一度解散ってことにしよう」

 安藤の号令で、何より楽しみだった昼休憩となった。男性スタッフたちはあっという間にエレベーターに乗り込み、階下にあるコンビニへ昼食を買いに行ってしまった。

 私と鈴子は休憩室に向かい、携帯電話と財布、それから化粧ポーチを鞄に詰め込んで、持参したお弁当を持ち寄り中庭でピクニック気分を味わうことにした。

 「まぁ、梅田のど真ん中でピクニック気分はないけどね」

 「たしかに、おいしい空気ってわけちゃうもんね」


 昼食も一通り済ませた後、ふとあたりを見渡すと加賀屋くんが一人で昼食をとっている姿が見えた。遠目からでもわかるくらいに小難しい表情をしながら携帯電話を操作して、なおかつコンビニで買ったお弁当のおかずを口に運んでいた。

 「一人で食べてるんや」

 「前からみたいよ」

 「え?」

 「前から、なんでも一人でするのが好きみたいで飲み会に誘っても断られてばっかりみたいやで」

 一人好きというのか、それとも人とのコミュニケーションをとることが苦手というのか、とにかく付き合いにくい相手なんだと認識した。

 「そういえば、前に京ちゃんが言ってた男の人ってどうなったん?」

 鈴子の突然の質問に、思い切りフイを付かれてしまい、飲んでいるコーヒーを吹き出しそうになった。

 ああ、と短く返事をしてなんと答えようか迷っていると「あんまり、話したくないみたいやね」と申し訳なさそうに言われた。

 気が付けば私は、かぶりを振って「話を聞いてほしい」と鈴子にお願いしていた。

 たどたどしい私の話し方では、どこまで通じるのかわからないが解決の糸口になるのなら、ぜひ彼女に聞いてほしいと思った。常に冷静で周りの人への配慮が行き届いている彼女なら、何らかの解決策を教えてくれるかもしれない。

 私は野田さんとの出会いから、衝撃的な出来事までのことを出来るだけわかりやすく、簡単に説明した。

 鈴子はしばらく考えてから、「難しいなぁ」と言った。なにが?と問うと、「私の心が難しい」という。意味が分からず首をかしげると、鈴子は笑ってこう言った。

 「京ちゃんは、相手に嫌われたくないっていうのが大前提で動いてるよね?」

 「うん。そうかもしれへん」

 「だから、嫌われてもいいっていう気持ちを持つことも時には必要になるねんけどね」

 ずいぶん難しいことを言うんだなと思いながら、私は必死で鈴子の話を聞いた。

 たしかに、松岡や光井や伊藤にも同じようなことを言われた。その度に改善してるつもりではあったが、やはり性格なんて簡単には改善することができないのだ。

 だから、いつも同じところで停車して本当は進める道なのにUターンして引き返してしまう。いつものY字の交差点へ引き戻っては同じ道に進み、そしてまた戻る。それでは自分自身の成長なんていつまで経ってもない状態だ。

 それはわかっているものの、先の辛い現実を見ることが何よりも怖い。

 だから、怖くないような現実を見せてほしいといのが正直な気持ち。怖くないというのは「あれは野田さんではなかった。彼女なんていないし、妻もいない」という正確な答えが先にほしいという気持ちだ。

 「京ちゃんって、アクション映画とかホラー映画とか・・・何でもいいけど、結果を先に見てから安心して本編を見るタイプ?」

 「うん、まさしくそうやね。結果が分かったうえで、ハラハラせずに安心して映画を見たい」

 なるほどねぇと彼女は呟き、そして最後に電話やメールで野田さんが私に何を伝えたいのか、どうして話したいのかをもう少し考えるべきだと忠告した。


 午後からは、片桐一人が講師として私たちとの意見交換や事業説明を進めてくれた。

 今回のプロジェクトでは片桐が大筋のトップとなるため、今後は安藤はあまり研修にも参加しないだろうと言われた。

 「彼はたしかに仕事ができるブレーンではあるけれど、そのおかげで若手が伸び悩んでいるのは確かなのよね」

 「あ、何となくわかります。あの人、一人で何でもやりこなすし、オールマイティやから結局、最後は安藤さん頼みになっちゃうところがあるよなぁ」

 「そうなのよ。そこを改善したくて、この事業の責任者に志願したの」

 片桐の突然の告白に一同は驚き、そして真っ直ぐな瞳に完全に飲まれてしまっていた。

 「彼のことは尊敬しているけど、ここは私ができる限りやっていきたいの」

そういって、本社からもう2人ほど社員が派遣されてくるということを聞かされた。これは中堅世代の人間である程度の経験を積んでいる人間だから、私たちの力になることは間違いないと言い切った。

 「そんな風に言い切られると、期待しちゃいますよ?」

一人の男性スタッフが意味ありげに片桐に言うと、片桐は臆した様子もなく「大丈夫、とってもやる気がある2人だから」と言った。

 

 「あ、京ちゃん」と帰り際に嬉しそうな声で私の名前を呼ぶ、松岡を発見した。何事かと聞けば、以前に相談していた食事会の日程が決まったという報告だった。

 「再来週の木曜日、19時から曾根崎商店街の焼肉店で開催決定したからね」

 「楽しみやなぁ」

 詳しい店名や地図、当日の予約者名などを聞き終わり「じゃあ当日に」と言い残し、松岡は帰って行った。

 「一緒に帰らんでよかったん?」と隣にいた鈴子が私に聞いた。とくに毎日一緒に帰宅していたわけではないので問題はないと説明し、鈴子が心配しているような部署が変わってから態度が変わったというわけではないと付け加えた。


 今日は新しい部署で一緒に働くのだからと、男性スタッフや安藤、片桐たちと小さな食事会をすることになっていた。本当に急な話だったので、参加できない場合は仕方ないと言われていたが、折角なので参加することにしていた。

 それに、みんなが驚いたのは加賀屋くんが参加すると言ったことだった。

 「あいつ、片桐さんに惚れてんじゃない?」

 「あ、なるほどな。だから、お近づきになりたくて、苦手な飲み会に参加するって言ったのか?」

 「それもあるけど、ほんまに仲良くやっていこうって思ったんちゃう?」

 「もしくは、大人の付き合いっていうのをようやく勉強しようと思ったとか?」

全員そろって、失礼なことばかりを口にしている。彼らのほうがよっぽど大人の礼儀を学ぶべきじゃないかなぁ?と心の中でぼやいた。


 全く興味のない人物の名前を覚える気にない私が、ようやく男性スタッフたち全員の名前を覚えることができたのは、この食事会がきっかけだった。

 影が薄いのに妙にインパクトが強い加賀屋くんを筆頭に、声も体も小さな藤田くん。藤田くんと一緒にいることが多い無口な鈴木くんに、いつも一言多すぎる伊勢谷くん。食事をして感じたことは加賀屋くんをはじめ、私は馴染めない性格ばかりで苦手なタイプだということだ。

 伊勢谷くんはとにかくいちいち言葉がすぎる節があるので、話していると段々とストレスが溜まっていく。藤田くんはマイペースで会話がかみ合っている気がしないので、これもまたストレスが溜まってしまう。

 鈴木くんはといえば、無口だと思っていたが酒がはいると饒舌になり、過去の自慢話や学歴などをペラペラと話す。とくに害はないのだが、どことなく敬遠したいタイプだった。

 それに比べると、お酒が入ってもあまり変化はなく、黙々と安藤や片桐の話を聞いている加賀屋くんは安心できるタイプだ。安心と言っても好感が持てるというわけではなく、この中では今のところストレスを感じないタイプ、というだけの存在だ。これが場慣れしていくにつれてどんな性格が露わになるのか不安で仕方ない。


 「君らはさっきから2人でこそこそと話してばっかりじゃないか?」

 私と鈴子は少し酔い気味の安藤に突然絡まれて思わず「あ、はい」と恐縮した声で返事をしてしまった。「なんだ、妙におとなしいなぁ」と気味悪いものを見るような目で私と鈴子を交互に見る。

 「お酒は控えてるんです。」

 「そうそう、そのかわりに料理は目いっぱい食べてますけどね」

 私たちがそう言うと、安藤は「そうかそうか、たくさん食べろ」と言い、再び男性陣たちとの話に戻った。片桐も同じく彼らとの会話に華を咲かせている。

 「結構、仲良くなってるねぇ、みんな」

 「うん。何とかうまくやっていけそう」

 「ここで、妙な空気になってたら、最悪やもんね」 

 そんなことを話していると、鈴子の携帯に着信があったようで「失礼します」と断りをいれ電話にでた。どうやら彼氏からの電話のようで「今、会社の人たちとご飯食べてる」とか「日曜なら大丈夫、遊びにいけるけど?」とデートの約束をしているようだった。

 そういえば、私はそんな可愛らしい会話をここ数年はしたことがないなぁと、しみじみ感じていた。そして妙に視線を感じると思って視線の先をみると、加賀屋がじっとこちらを見ていた。少し酔いが回っているのか、うつろな目をしていて不気味に感じた。

 視線の先には鈴子がいるようなので、もしかしたら片桐ではなくて鈴子がお目当てではないだろうかと推測していた。

 「ごめん、ごめん。日曜の予定の確認しててん」

 「ううん。楽しそうでええなぁって見てた」

 「どっちのことを?」

 どっち?というのは、先ほどからバカ話に華を咲かせている男性たちと、自分たちとどちらなのか?という事だろう。

 もちろん、両方ともに見ていて楽しいと答えた。

 「京ちゃんもさ、いっそのこと連絡してみたら?」

 え?と聞き返すのと、加賀屋が立ち上がるのが重なった。何事かと皆が加賀屋をみる。酔いのまわった瞳はぼぉっとしていて、不気味さが更に増していた。


 「あ、あの穂斗山さん」

 「は、はい?」

 「一緒に飲みませんか?」

 「は、はぁ」

 私が返事をするのを待たずに加賀屋は私の隣に座った。しかも、かなり密着している。驚いて鈴子を見ると、鈴子も訳が分からないと首を横に振っている。他の皆をみても、呆然と加賀屋を見ているだけで誰も何も言わない。

 「あの、なんですか?」

 とりあえず、どういう意図があって隣に座ろうと思ったのかを質問すると、加賀屋は持っていたビールを一気に飲み干して大声で言った。

 「ま、前から可愛いなって思ってたんです」

 「は?誰が?」

 「穂斗山さんのことです」

 ああなるほど、と遅いながらも理解しができた。決死の覚悟で私の隣に座って、お近づきになりたいということか。鈴子をもう一度見ると、何とも言えない目つきで加賀屋を見ている。もちろん、ほかのメンバーも同じような目をしている。

 「か、加賀屋くん。ちょっと飲みすぎじゃないかな?」

片桐が困り果てている私を見て、助け舟を出してくれたが加賀屋は「大丈夫です」と元気よく答えて、片桐に軽く会釈して私のほうへ体を向けた。

 しかしかなり飲んでいるようで、アルコールの臭いが体中からプンプンする。私はそれだけで気分が悪くなり始めた。

 「あの、僕じゃだめですか?」

 どういう意味での「だめですか」なのかを追求したかったが、それ以上に私の嫌悪感が優ってしまった。

 「あなたじゃ、駄目ですね」

 「え?だめですか?」

 「はい、無理です」

 「年下とか、駄目ですか?」

 「はい、駄目です」


 そのあとの空気の悪さには何とも言い難いものがあった。

飲み会でのあの出来事は、私の知らないところでかなりのハイスピードで会社中に広まり、なおかつ断り方があまりにも非情だったために「ブラックさん」というあだ名をつけられて、そのあだ名で呼ばれることになった。


 翌土曜日の朝、のんびりといつもより2時間遅くベッドから起き上がった。

携帯を確認すると、鈴子からのメールと安藤からのメールを受信していた。内容を確認すると、やはり昨晩の加賀屋と私のやり取りについて「びっくりしたけど、面白かった」という内容だった。2人に早速返信をして、昨晩の非礼をお詫びした後にあまり大きく話を広げないでほしいと釘をさした。


 朝食をとりながら野田さんのメールを見直す。

『あの時のことを怒っている』『話がしたい。連絡をください』

 そして、鈴子に言われたことを思い出す。「何を伝えたいのか、何を話したいのか」同じように聞こえて少し違う言葉。

 しばらく考えてから、返信ボタンを押した。5分ほど考えてようやく文章が完成した。

 『会社内で異動が決まり研修中なんです。落ち着いたらもう一度メールをします』

 「これじゃあだめだ」と、何度も文章を消しては書き直して、もう一度見直す。これじゃあ、ただのいいわけじゃないか?いや、少し時間がほしいということは伝わるはずだ。うん、きっとそうだ。

 深呼吸してから、送信ボタンを押す。「送信中」という表示がしばらく点滅して、やがて「送信完了」とメッセージが表示された。それを見届けてすぐに電源をオフにした。やっぱり反応が返ってくるのが怖かった。

 メールの返事が返ってきても、電話の着信が入っても対応するには勇気が必要だ。今の私には、彼とちゃんと話すという勇気がない。恋愛慣れしている人なら、こんなことはすぐにできてしまうんだろうけど弱気で臆病な私には到底できっこない。


 気晴らしに散歩に出かけようと思ったら、突然インターホンが鳴った。カメラ越しに誰が来たのかとみると、高校時代からの友人である池上と大神が見えた。「今から万博公園にピクニックがてら遊びに行くが一緒にいかないか?」というお誘いだったので、もちろん一緒に行くと言い、急いで用意をした。


 「久しぶりの、のんびりな時間やなぁ」

 万博公園につくと、近くの駐輪場にそれぞれの自転車を止めてピクニックシートを広げて3人で空を見上げた。ありがたいことに真っ青な青空で、ところどころに点在する雲が秋を予感させる趣があった。

 こんなに静かで温かい日は休日にしか味わえないということを理解している。だから今日は思う存分のんびりしようと、転寝を始めたころに昔からおしゃべり好きの池上がペラペラと仕事のことや、家族のことを話し始めた。私と大神は「うんうん」と適当に相槌を打ちながら、秋を感じようと目を閉じた。


 「そういえば、仕事はどうなん?」

 唐突に池上が私に話題を振った。ほとんど虚ろな状態で話を聞いていたので、最初は何の質問をされたのか理解できなかった。思考回路が少しずつ動き始めて、ようやく質問の内容を理解できた。

 「ああ、異動することになってん」

 「異動?転職ってこと?退職するの?」

 転職ではない、同じ会社内で今のことろから別のところへ移ることだと説明すると、ようやく理解してくれた。相変わらず、箱入り娘であまり世間のことをわかっていないとため息がこぼれそうになった。

 彼女は昔から、自分の意見が一番でそれ以外は知らないことだからどうでもいいと思っている。敦子とはまた違ったタイプではあるが、苦手なタイプだ。私は昔からこういう特異な人間に好かれる。どうにかして、苦手なタイプとは一定の距離を保ちつつ付き合うか、最悪の場合は縁を切りたいと思っている。

 「2人は相変わらずなん?」

 「まあね」

 「うん、ボチボチやってるよ」

 2人は数年前から路上ライブを趣味の一環として始めている。その甲斐あってか、無償ではあるが近所の盆踊り大会の隅で歌を披露することもあると自慢げに話していた。何度かライブの様子を見に行ったことはあるが、決して上手であるとか光るものがあるとか才能があるとは言えない。

 音楽鑑賞が趣味なだけの批評家でもない私でもわかるくらい、ごく普通のどこにでもいる歌唱力だ。私よりも歌がうまいということを自慢げに話している池上が中心になって活動しているのだから、いつまで経っても成長しない。

 まあ、いつまでも過去の盆踊り大会で歌ったという実績を自慢するということを止めてしまえば、少しは成長するかもしれないが。

 「京ちゃんて、彼氏とかいるの?」

 「なんでそんなこと聞くん?」

 珍しく2人揃って、私の色恋沙汰に興味を抱くなんて裏があるとしか思えない。そうでなければ、この2人は私の「何か」に興味を持つはずがないのだ。


 私はいつだって、話の聞き役で自分から情報を発信することはない。それが高校時代からの私の立ち位置なんだと理解している。2人は顔を見合わせたままで何も語らず沈黙が続いた。やがて大神が「何となく聞きたかっただけ」と言い、その話は終了した。それ以降は、まったく関係のない高校時代の話や、池上がニートで1年間過ごした後、兵庫県のとある芸術系の短大へ入学した話しや、大神の祖母や母のおちゃめな話を聞いていた。

 もしかしたら、私が2人に対して未だに猜疑心を持っていることに気付いていて、2人としてはそれを何とか払拭したいと思ったのかもしれない。だから、今より少しでも友達として一歩先に踏み出せたらと、妙な質問をしたのかもしれない。

 「次は花見の季節に来たいなぁ」

 池上は秋らしくなってきた空を見上げてしみじみと呟いた。私も大神も同じ意見だったが、それまでにこの2人をもっと信用しなくてはいけないなと痛感した。2人に気を遣わせてしまったことに、今更ながら後悔した。それでもすぐには彼女たちのことを友人以上に思うことはできない。


 そのまま2人とは別れて家に帰る。うっかり忘れていた携帯電話を取り出して電源を入れると、メールが2件届いていた。1通目は鈴子からで、『この前言っていた本が梅田駅の紀伊国屋で見つけた』というもので、私が4軒ほど本屋を梯子して散々探し回ったということを愚痴っていたことを思い出した。『明日くらいにチェックしに行く。ありがとう』とメールを返信して、2通目を見ると野田さんからだった。

 『わかりました。いろいろと大変な時期に焦って連絡してしまってごめん』という内容だった。優しい言葉に心臓あたりに妙なざわつきが起きたが、やがてすぐに消えた。

 どう返信しようかと悩んでいるところに、もう1通、野田さんから届いた。内容を見ると『それでも時々はメールを送りたい』という内容だった。私はしばらく考えたのち『それは私もです。いつもで待っています』と返信した。

 送った後で、とあるサイトで知り合った顔も声も名前も性別も正確には不明だった人物のことを思い出して身震いをしていた。あの人物は、毎日毎時間どんな時でもメールを送ってくる人物で気味が悪くて仕方なかったことを思い出していた。


 ● 2006年:1月頃


 インターネット交流サイトをぼんやり見ていたときのことだった。突然、知らない誰かからメッセージが届いた。内容を見ると『同じような趣味をしているようなので思わずメッセージを送ってしまいました。大阪に住んでいるんですね、僕は北海道で教師をしています』とあった。とくに、女生徒の出会いを求めているんだとか、嫌がらせのような雰囲気はなかったので『そうですか、趣味ってなんですか?』と返信した。

 利用しているサイトはコミュニケーションサイトとしては非常に有名で、私の周りの友人知人が多く利用している。だから、悪質な相手なんているわけないだろう、ましてや私が引っかかるわけがないだろうと高を括っていた。


 するとすぐに返信が返ってきた。教師ってそんなに暇なの?と時間をみると午前11時。もしかしたら、自分の受け持っている授業がなく暇のかもしれないと、それ以上は深く考えることはなかった。

 しばらくメッセージのやり取りをしていると『そういえば最近は、こういうところ出会いを求めてる奴がいるみたいだから、気を付けたほうが良いよ』と注意された。たしかに、気軽に返信してしまったという事に関しては反省すべきだと思い、相手の話に何の違和感も感じず素直に『そうですね、次回からは気を付けます』と返信した。すると他にもコミュニティサイトを利用しているか?と質問が来た。もちろん、珍しもの好きの私は一度は登録して試してみるというのが常なので、頻繁には利用していないが持っていると答えると『そのIDを教えてほしい』と言ってきた。

 しばらくの間、返信をためらっていると『べつに出会いとかではなくて、単純に楽しく話せる相手がほしいだけだ』と続けざまに何度も返信が来た。それでも、安易にIDを教えるのはさすがに問題があるのではないだろうか?と考えていると、『もし疑うならそれは残念だが仕方ない。顔も見えない相手なのだから信じてほしいとか言えるほどの立場ではないので、これ以上は話すのを止めよう』と提案してきた。

 彼の言い分はもっともだし私も安易に人を信用するのは良くないと、彼の意見に同意してこの人間とのやり取りは終わった。


 朝5時半ごろだった。突然携帯のメール着信音が鳴った。何事かと思いメールを確認すると『おはよう』という内容が送られてきた。アドレスをみると、昨日にメッセージのやり取りをしていた相手からだった。こんな朝早くに何を考えているんだろうか?と返信もせずに携帯を閉じた。

 するとまた、着信音が鳴り響いた。メールを確認すると『昨日1日考えたんだけど、挨拶から初めて信頼を持ってもらえたら連絡先を交換できるかな?と思ったんだけど?どうですか?』という内容だった。朝が弱い私はもちろん返信などせずに、起床時間までもう一度寝なおした。


 その日の昼休憩時間に携帯を見ると、気味の悪いくらいのメールの着信があった。もちろんすべてが昨日の話し相手からだった。さすがに気味が悪いと思ったのですぐにブロックをしてメッセージの受信もできないようにした。

 「なんか、面倒な奴に引っかかるタイプやんな?」

 「うん、つくづく無防備って反省してる」

 当時の仕事仲間に昨日から今までの経緯を説明して、困り果てていることをすべて話した。すると「警戒心がない」だとか「もっと注意するべきだ」と説教をされる羽目になった。

 「とにかく、しばらくそれで様子を見たほうがいいよ」

 「でも、もうこないでしょ?」

と、私がそう言うと「だから甘いんだ」と再び怒られた。彼女たち曰く、インターネット上のハンドルネームが分かっている以上、別のアカウントで検索すればすぐにばれてしまうというのだった。

 「そうか、じゃあ…どうしよう?」

 「あんまり執拗な状態でストレスを感じるなら、今のアカウントを削除してやり直すしかないね」

 「もしくは、迷惑行為として通報するとかね」

 私はなるほどと感心して彼女らに礼を言った。


 するとやはり、2日後に同様の人間を思われる相手からメッセージが来た。別人を装っているのか『初めまして』から白々しくも本文が始まっている。私はいったんメッセージを返信せずに、すべての内容を無視してこの後の出方を伺った。すると、やはり早朝には『おはよう』のメッセージが届いた。

 昼頃には『こんにちは、今はお昼御飯ですか?』という内容まで丁寧に届けてくれた。

 私はしばらく考えたのち、『申し訳ないが、誰だかわからない相手と連絡を取るつもりはない。失礼だと思うが、気味が悪いので連絡をよこさないでほしい』と返信した。

 するとすぐに返信があり、『僕は北海道に住む田中と言います。教師をしています。妻がいますが、今は単身で北海道に住んでいます。これでいいですか?』とあった。

 思わず「そういう意味ではない」と突っ込みを入れた。それから何度も『あとは何を教えれば話をしてくれますか?』や『べつに今すぐに会いたいとか思ってません』や『文章を見ていると、あなたのことを誠実できれいな人だと思っています』やら次々とメッセージが届いた。

 相手の事も知らないのにどうしてこんなにも必死になれるんだろうと、気味が悪いを通り越して同情してしまう程だった。きっと彼の経歴は相手を安心させるためのもので、職業や出身地も含めてすべてが嘘なのかもしれないと思った。


 結局私は、一旦コミュニティサイトを退会して新しくアカウントを作った。グループを作っていた友人たちには事情を説明し新しいアカウントを知らせた。


 時代は移り変わり、コミュニティサイト以外にも色んな呟きだけをネット上に公開するサービスが開始された。興味津々の私は早速登録したが、安易に検索できないようにロックをかけ、呟きの内容も知り合い以外には見えないようにと若いころを楽観的な態度をとらないように徹底した。


 ● 2011年:9月頃(現代)


 9月も半場が過ぎてようやく涼しさを実感し始めたころ、珍しく敦子から連絡があった。何事かとメールをみると『新しい男ができた』という興味のない報告だった。私は今は仕事中だし、研修に集中したいのもある。なおかつ特別返す言葉が見当たらないので返信は後回しにしようと思った。

 「そういえば、敦子さんがね」と、かなりいいタイミングで鈴子から話題を振られて驚いた。どうやら彼女のところにもメールで報告があったらしい。新しい男というのは、同じ社内の7歳年下の男の子だという。「短大生だって」という鈴子の言葉に冷ややかな感情が見受けられたが気付かないふりをした。

 「へぇ、そんなに年下で話題とかあうのかな?」

 「どうかな?敦子ちゃんが、もともと一人っ子で我儘な子供タイプやから丁度いいのかもね」

 「ああ、なるほどね」

 意外に鈴子も毒舌なんだと実感したが、まだ何か言いたげな様子だった。そういえば、つい最近まで松岡が「敦子が庶務の女の子の彼氏にちょっかいをかけたらしい」という話をしていたことを思い出した。そして、買い物途中でばったり出くわした時のことを思い出した。私は気になりだすと頬化の事が手に着かなくなる性分なので、ついに鈴子に小声で聞いた。

 「それって、あの庶務の子の彼氏ってこと?」

 「いや、その子は結局、3か月で飽きたみたいやで」

 「あ、飽きた?」

 「うん。趣味が合うって言って、付き合ったけど飽きたらしい」

 思わず私は「すごいね」と言ってしまった。もうそれ以上の感想が思い浮かばなかった。

 鈴子は実際、少し怒りを感じているようだった。私という他人から見ると、敦子と鈴子は趣味も合うし色んな面で意気投合していることが多かった。それだけに今回のように敦子の行動に怒りを覚えているのは、少々意外な展開だった。

 「とにかく、少し遊びすぎかな?って思うねん」

 「まぁ、あれが性格っていうか男がおらんと何にもできへんって子やろ?」

 「うん、でもな。社内で数か月おきに男を変えるって節操なしもエエとこやわ」

 「せやなぁ。少しは考えたほうがええよな」


 どうやら私の知らないところで、敦子から色んな恋愛話や厄介ごとの相談や仲介を頼まれていたようで、さすがの鈴子も限界を感じているようだ。「次に何かあっても助けられへんからって釘は刺しておいた」と私に告げて、万が一でも私に相談事をしてきても、彼女自身で巻いた種を私たちが毎回処理してあげなくていいし手助けなんて甘いことを考えるとドツボにはまると言われた。

 私と言えば、鈴子に言われなくて少しずつ彼女との距離を空けていき、最終的には真っ赤な他人へ戻ろうと思っている。

 「私は鈴子と違って、恋愛ごとの相談をされても何にもできへんからなぁ」

 「そんなこと言いながら、毎回、最終的には助けてあげてるやん」

 「仏の顔も3度まで。ってやつ?さすがに4度目はないよ」


 午後からの仕事は、新規スタッフとの顔合わせから始まった。20代前半から30代・40代の主婦層まで、幅広く今回は採用したようでそれぞれの配属先や研修担当者の紹介を片桐が丁寧に説明している。

 そのすぐそばにいる2人の社員が片桐の言っていた「やる気に満ち溢れている2人」のようだが、女性のほうは陰気な表情で今にも倒れてしまいそうな雰囲気だ。片桐よりは年上だろうと思われるその女性は、時折片桐の説明に深く頷いたり、小さなうなり声をあげて考え込むことがあった。

 もう一人はひょろ長い男性で、こちらもやる気があるようには到底見えない。資料を広げてみているが、まったく説明が耳に入っていないという表情だ。はたして、本当にこの2人は大丈夫なんだろうか?と心配になり安藤をみると、安藤は資料と新規スタッフたちばかりに気を取られているのか、2人の様子に全く無関心のようだった。

 いや、もしかしたら今の様子は仮の姿で、仕事が始まればバリバリと働き始めるのかもしれないと思い、彼らの事を信じる方向へ自分の思考回路を運んで行く努力をした。

 

 説明が一通り終了し、小休憩が入る。トイレに行くと、鈴子が鏡の前に立ち緩んだポニーテールを直しているところだった。入ってきた私を見つけて開口一番に彼女はこう言った。

 「あの2人、絶対にやる気ないよね」

 私ももちろんそう思っていたので、大きく頷いて2人で大笑いした。でも、あの2人はこれから私たちの上司になるんだから、何とかして仕事にやる気を出してもらわないと困る。不安はたくさんあるが、ひとつひとつ処理していこうと2人で誓った。


 仕事が終わり、ロッカールームで携帯を開くと『終わったらメールして』と光井からメールが届いていた。恐らく今夜の食事会のことなんだろうと思い、『今終わったから、これから会場に向かう』と返信して身支度を始めた。

 すると、今度は電話の着信がはいり通話ボタンを押すと中川がどうやら長引いているようで、いったん休憩室で待つことになっているそうだった。それなら私もと休憩室へ向かい、久しぶりのメンバーたちと近況報告をしあうことになった。

 

 「新しいところって、どんなかんじなん?」

 「仕事の内容とか、やっぱり難しい?」

 「新規スタッフって何人くらいおるん?」

 などなど、とにかく矢次早に方々から質問をされたので、一つ一つ処理をするのにかなり苦労した。

 「あ、そっか。まだ事業開始はしてないもんね」

 「じゃあ、これから新規スタッフの研修?」

 「うん、そういうことになるねん」

 「見知らぬ社員が何人かいるねんけど?」

 「うん、東京から来てくれたらしいよ」

 「へぇ?わざわざ東京から?大阪に?」

 「物好きもいるもんやなぁ」

 物好き、という表現に思わず吹きそうになった。たしかに大阪出身の人間からすれば東京からわざわざ大阪へ来るなんて不思議に思ってしまうだろう。

 でも、新事業の立ち上げということもあるのだから、東京本社の人間が出向いてくるということも考えられる。安藤や片桐のあの力の入れようや、熱の籠った話ぶりを聞いていたあとでは「わざわざ大阪に」なんて言えない。私は「そうやねぇ」とだけ答えて、それ以降はみんなの話の聞き役に徹した。


 「とりあえず、定番コースを8人前でお願います」

 「飲み物は、ビールを8個でいいかな?」

 中川も揃ったところで、目的地の居酒屋に着くと、早速武藤が注文係を請負い、みんなは思い思いの席に座った。酔えばトイレがちかくなる者は通路側に座り、ゆっくり酔いたい人間は奥の席に座るなど指示を出しているところ見ると、本当に世話好きなんだなぁと感心した。

 「じゃあ、遅くなりましたが大井君の歓迎会と京ちゃんの異動祝いを兼ねて乾杯しましょう!」

 武藤がそういって私と大井を交互に見た。どちらかが乾杯の挨拶をしなければいけないようだ。もちろん、一番の主役になっている大井に乾杯前の挨拶を任せることにした。彼は私よりも年上で、物静かだがこういう席での挨拶は前の会社でも経験があるようで、とてもわかりやすくて長くない丁寧で綺麗な挨拶をしてくれた。

 「こうやって皆でご飯を食べるって普段は滅多にないから新鮮でいいよねぇ」

 「うん、たしかに。会社内では顔を合わせてるけど、昼食時間はバラバラやもんね」

 「これは定期的に行うべきやね」

 「そうそう、ということで食事会の名前を付けようかと思うねんけど?」

 「名前?」

 みんなが不思議そうに武藤へ視線を向ける。武藤は嬉しそうにニコニコして、その名前を昨日一晩かけて考えたと言った。「じゃあ、発表します」という言葉に全員が息をのんだ。正直、ここまで全員が緊張するほどのことでもないんだろうが、なんだかとても大切なものの気がしてならなかった。

 「TSKってどうかな?」

 『TSK?』と口をそろえて問い返した。いったいどういう意味なのか?と聞くと、武藤は胸を張って「チーム・食事会」の頭文字をとったと言った。一瞬、みんなが静まり返って顔を見合わせて、やがて徐々に笑い声が広がっていった。 「ちょっと、どうして笑うん?」と武藤は不満顔で皆を見廻す。一晩かけて考えたにしては、案外簡単で何とも武藤らしいと思ったから、みんなは拍子抜けして笑ったのだということを説明するのは誰にしようかと目配せしあった。

 「そういえば、敦子ちゃん。安藤さんに呼ばれてたね」

 中川が唐突に言いだした。中川の顔をみると、少し赤くなっているのがわかる。彼女は意外にお酒に弱いのだ。松岡や光井はすでに知っていたようで、「たぶんあのことで注意されたんだと思うよ」と答えた。

 「まぁ、プライベートなことまで注意する必要はないと思うけど、あのせいでかなり社内の雰囲気が悪くなってるからねぇ」

 「雰囲気ですか?」

 「そう、誰とでも寝る女だって評判が広まってね。その噂話をたまたまクライアント側が耳にしたみたいで」

 「ああ、なるほど」

 「妙な問題を抱えているのか?評判が悪くなるなら改善してくれないかって指摘されたみたい」

 「今後は社内恋愛に対しては、厳しく取り締まるつもりらしいよ」

 「まさかそこまで徹底しなくても健全に付き合っている人もいるはずなのに」と思ったが、クライアントに対してもっとも誠実なイメージを保ちたいという保守な気持ちはわかる。それでも禁止は酷ではないか?と思った。

 「というか、敦子さんだけじゃないんよ」

 「そう。スタッフ・リーダーも遊びすぎて噂が広まりすぎてるというか」

 「チーフですか?」

 「そうそう、あの沢口さんのこと」

 「ああ、妙に女の子にモテるあの人ですか?」

 「今回で、5人目らしいよ」

 沢口という男性は、仕事はかなりできる人間でバイトで入社して半年後に契約社員に昇格した。その後、年数を経てスタッフ・チーフの責任者にまで昇進している。バイトたちの間ではかなり注目されている憧れの存在だ。

 容姿も社内では中の上というところで、物好きな女性なら一目ぼれするだろうとも思える。が、実はかなり人見知りをするタイプで、私が入社当初に質問に行っても「あ、それならこれでいいんじゃない」とか「俺よりあの人に聞いて」と目も合わせずに追い返されたことが多々あった。おかげで私は彼とはできるだけ関わりを持たずに過ごしていた。

 他人からの第一印象と言うのは、本当に大事なものだと非常に勉強になり痛感した瞬間だった。

 「まぁ、バイトの子の問題なら注意で済むけどね」と中川がぼやいた。表情は少しだけイラついているように思える。どういう経緯で中川がこんな話をし始めたのかと思案している私に光井が耳打ちしてくれた。

 「中川さん、昼間に別室に呼ばれて社内で恋愛していないかとか散々質問されたらしいよ」 

 「え?とばっちり?」

 そういうこと。と光井が言うと、中川は私たちの会話が聞こえたようで、その後も散々愚痴をこぼしていた。

 「とにかく。あんな奴を安易に責任者にするから、こんなことになるねん」

 「ま、まぁ。最初はそうでもなかったんじゃないですか?」

 「でも、研修当初から、同期の子と付き合っては別れて、、、っていうのを繰り返してるんやからねぇ」

 「しかも、別れた女の子は必ず会社を辞めるねん」

 「まぁ責任者の力で仕事の量を減らしたりとか、新しい彼女と一緒にいるところを見るのは辛いやろうからなぁ」

 それなら注意をされても仕方ないなと感じた。会社に対して何らかの影響を与えているのなら、なおのこと注意を受けるべきだと、私には全く関係のない話なのに中川と同じように苛立ちを覚えた。

 どうやら私も酔っぱらっているようだ。

 「じゃあ、二次会にカラオケとかどうかな?」と武藤が言うと、伊藤は夫がすでに家に帰っているそうで、これ以上は付き合えないと言う。光井や松岡は明日が早いので帰ると言った。もちろん、中川も朝が早いという事と悪酔いしているという自己申告があり、帰宅することになった。

 唯一の男性である大井は「カラオケは苦手だ」という理由で辞退し、池田も母親に遅くなるなと釘を刺されたらしい。

 結局、私と武藤と2人でカラオケに行くことになった。武藤とはカラオケ仲間で、暇さえあれば仕事帰りにカラオケ2時間を2人で過ごすことが多かった。

 「今回も、そんなノリでいこう」と武藤は私の肩を抱き、商店街のなかで比較的安価ですぐに入ることができるカラオケボックスを探した。

 途中、同じ部署ではないが休憩室で何度か顔を合わせては世間話をしている斉木と吉田を見かけた。武藤もすぐに2人に気付き、大声で2人の名前を呼んだ。2人も商店街で飲んでいたようで顔が赤くなっていた。カラオケに行かないか?と武藤が誘うと、2人は「丁度行きたいと思っていた」と、すんなり乗ってくれた。


 武藤が見つけたカラオケボックスは、チェーン店ではなく、昔からひっそりと経営している雰囲気の味のある店だった。大型チェーン店のようなエレベーターやドリンクコーナーなどはなく、3時間で一人1ドリンク制だ。しかも、ドリンク代が他店舗に比べて高いと感じたが、カラオケ自体の値段は格段に安かった。

 「たぶん、ドリンク代で元を取ってるんやと思うよ」

 「せやな。どうみてもそんな感じやな」

と武藤と斉木が話をしており、私もドリンクの大きさや味が非常に気になった。以前、他の店舗でドリンクを頼んだ時に値段が高い割に味がしないだとか、無性に「ただの水」が恋しくなるようなときがあったからだ。

 「おまたせしました」と男性店員が運んできたドリンクは、どれも想像以上の色だったが、とくに不思議な臭いも何もなかった。武藤が勢いをつけて飲んでみると、意外にも満足のいく味で思わず「値段が他よりも高いだけあるわ」と叫び、ガハガハと大声で笑った。私たち3人もそれに続いてドリンクを一口味わった。本当に美味しいドリンクだっただ、結局、「何味」なのかは不明で終わってしまった。


 翌日、いつもどおり出勤すると片桐と女性社員が何やらひそひそと話をしていた。話の内容は全部を聞くことはできないが、明らかに言い争っているような内容だった。

 「こんな無理な話をすんなりOKするなんて」だとか、「何とかできないと、責められるのは誰なの?」と言いあっている。女性社員の名前はたしか「西脇」と言ったはず。

 彼女の顔はいつも以上に青くて、唇も真っ青だった。そして唇に至っては遠目でもわかるくらいにかさついて荒れている。ここ数日間、西脇さんは片桐のスタッフ研修に参加しているほかにも、パソコンに向かって黙々と資料作成しているようで、昼休憩すら言っていないように思える。

 仕事に没頭すると、時間も空腹さえも忘れてしまう。一つのことを始めると、ほかに気が向かない不器用な人なんだろうなと勝手に推測していた。

 もう一人の社員である村岡はその点については、かなり器用に動き回っているようだ。仕事も午前と午後とできっちりと切り分けができて、リフレッシュもそれなりにしている。スタッフたちとも積極的にコミュニケーションをとっているし、片桐や安藤からも信頼を勝ち取っている。まさに2人は光と影になりつつある。

 「とにかく、自分でしてしまったことに対しては、きちんと責任をもって最後までやってちょうだい」

 「でも、もう限界です」

 「今の時点で限界なんて言ってたら、業務が本格的に開始されたらあなたはどうなるの?」

 「無理です」

 その日に私が西脇をみたのは、片桐との言い合いのときだけだった。そして、翌日以降に西脇が出社することはなかった。片桐は簡単に「体調不良で仕事を続けることができなくなった」と説明してくれた。一部では、西脇が調子よくクライアントの我儘を何でもかんでも引き受けた結果、彼女の抱える仕事が膨大な量になり収拾がつかなくなったという。

 もちろん締切を守ることができず、クライアントからも片桐や安藤からも責められることになる。その結果、彼女の出社拒否につながった。自業自得言えばそうなのだが、それでも事前に誰かに相談したり、誰かが彼女の異変に気づいてあげることはできなかったのだろうかと心底同情してしまった。

 「あの人、めっちゃ不器用な人っぽかったもんなぁ」と鈴子が昼食中に呟いた。ロッカールームや地下にあるコンビニで鉢合わせすると、世間話に華を咲かせていたという鈴子と西脇。日が経つにつれてため息や目の下のクマが酷くなっていくのを感じていたという。

 鈴子も彼女に対してそんなイメージを抱いていた。そして、ひそかに彼女の身を案じていたのだ。そんな彼女の言葉に私は何も言い返すことも返事をすることもできず、ただ無言で頷いた。

 「とにかく、西脇さんの戦線離脱をきっかけで退職者がでえへんようにだけ気をつけなあかんよなぁ」

 「せやなぁ。昨日の朝の言い合いを聞いてた子らが、どこまで事情を知っててどう動くかが怖いよな」

 と、鈴子と話をしていた矢先のことだった。新規スタッフから女性2人が家庭の事情を理由に同日付で退職を申し出た。彼女たちは私と同じように、片桐と西脇の言い合いを目撃しており、なおかつ、片桐や安藤が西脇を裏切っただとかクライアントへの「生贄=ストレスの捌け口」にして出社拒否に追い込んだなどという噂が広まったのも原因のひとつだと考えられた。

 安藤も片桐も、西脇が出社拒否することになるまでの間に彼女の異変に気づいて何らかの援護をするべきだったかもしれない。それは大いに反省するべき点だと思ったが、生贄という表現はおかしいのではないか?と、鈴子や他のみんなと話していた。

 鈴子も「生贄はこちら側もクライアント側へも聞こえが悪いなぁ」とぼやいた。しかし伊勢谷は「意外にぴったりな表現かもしれない」と言う。何か知っているのか?と聞くと、伊勢谷は得意げに知っていることを説明してくれた。

 「まず、西脇さんって東京でも全く仕事ができへんって評判やったらしい」

 「でも、片桐さんは優秀って言ってたやん」

 「それが西脇さんを面接して採用したのが片桐さんやから、自分が採用したって責任を感じて大阪に呼んだらしいで」

 「よくまあ知ってるなぁ」と私が感心しながら言うと、伊勢谷は「安藤さんと飲みに行く機会があって、その時にそんな愚痴をこぼしていた」という。

 「じゃあ、安藤さんはあんまりよく思ってなかったんやね?」

 「そうみたいやで。西脇さんを呼んでも、ただ足を引っ張られるだけやからやめろって言ってたらしい」

 「でも、変わりがいないから西脇さんを呼ぶことにしたんや」

 「そうでもないらしいわ」

 伊勢谷の言う「そうでもない」という話は、午後の周知で別の社員が週明けに来ることになったという話しで納得した。


 9月下旬。とうとう業務開始当日を迎えることになった。前日に片桐から呼び出された私たち6人は、通常の出勤時間より2時間早くきてほしいと言われていた。早朝はビル自体の警備も深夜形態になるため正面玄関は、シャッターが下ろされており、別の専用通路から入ることになるらしい。

 専用通路とはビルの裏口にあり、正面玄関からすぐ横にある地下へ通じる階段を降りたところにある。警備員が常に4人ほど常駐しており、交代で正面入り口と裏側の通り口の警備、時には建物内で起こった喧嘩の仲裁や消防訓練の引率をしている。

 私は朝が弱いのでどうしても気分が低いままで出勤してしまうことが多い。だから「おはようございます」という声も、お化け屋敷に響き渡る女のうめき声のように聞こえる。

 それでも彼らは「はい、おはよう。今日も早いねぇ」とにこやかに挨拶してくれる。時には「今夜は冷えるから気を付けるんだよ」と遠くからでも声をかけてくれる。

 しかし、今日だけは私の声もいつもと違った。「おはようございます」という声はかなり緊張の色を露わにしていたようで、警備員も「おはよう。いつもと違うね」と声をかけてくれた。

 「はい、今日から新しい事業が始めるんです」

 「そうなんかぁ。そりゃあ緊張するなぁ」

 「はい、どんな風に始めるのか、資料に対応の正確なスタートなんて載ってないですから」

 「せやなぁ。まぁ、あんまり気ぃ張りすぎんといつも通りやりや」

 「はい。ありがとうございます」

 「はい、いってらっしゃい」

 一人暮らしの私へ「いってらっしゃい」と言ってくれるのは、寂しいけれど彼らだけだ。

 だからこそ、余計にその「いってらっしゃい」を大切にしたいと思った。もちろん、今日以外の毎日もらう「いってらっしゃい」も含めてだ。

 エレベーターホールに着くと、伊勢谷がエレベーターを待っていた。「おはよう」というと、眠そうな「おはよう」が返ってきた。

 「1時間早く出勤は、かなり応えるなぁ」

 「うん、結構、眠いわ」

 「この朝の1時間って、意外に大事な2時間やからなぁ。辛いわ」

 「ほんまに、朝が弱い俺らには辛いな」

 「全く、朝が弱い人間のことを考えて出勤時間とか、就業時間を考えてほしいよなぁ」

 「まぁ、そこを考えたら仕事にならんかもなぁ」

 「ちょっと、早速裏切る気か?」

 「当たり前やん。あんまり同意しすぎたら、裏切りが待ってるからなぁ」

 「どんだけ信用してへんねん」

 「しゃあない。あんたはそんなタイプや」

 「うるさい」

 と、時間が経つにつれて脳内がはっきりし始めたところで、背後から「朝から元気だね」という声がした。2人して振り向くと、ニッコリ笑った片桐がいた。

 私たちは姿勢を正して挨拶をした。それからエレベーターに乗る間、仕事とは全く関係の話をしていたが、おそらく伊勢谷も「どこから聞いていたんだろう?」と気が気でないだろうなと感じていた。

 「じゃあ、また後で会いましょう」

 片桐は最後まで微笑みを絶やさずに足早に去って行った。

 「あの人、心臓に悪いな」

 「うん。私、心臓が割と強くてよかったわ」

 「うん、俺も」


 ロッカールームに行くと、まだ私たち以外は出勤していないようで、いつもの活気も人がいる安心感も何もない空間が広がっていた。まだ部屋に行くには時間が早すぎる。自動販売機でコーヒー牛乳を買って、窓際の席に座った。

 こんな時、愛煙家だったら1・2本吸って気分転換を図るんだろう。残念ながら私は愛煙家ではない。そもそも去年の健康診断の結果が悪くてタバコを止めるように勧められたのに、今更手持無沙汰だからとタバコを吸うわけにはいかなかった。禁煙生活は約1年も成功している。このままいけば、完全にタバコの呪縛から解き放たれるはずだと信じたい。

 「おはよう、早いねぇ」

 振り向くと鈴子がのんびり歩きつつ、手元で携帯をいじりながらやってきた。携帯をいじりながらなのに、あんなに真っ直ぐ歩けるなんてすごいなぁと感心しつつ、外でやってると危ないよなと思った。

 「うん、電車を調べたらちょっと早くに着く時間帯しかなかってん」

 「あ、そうなんや。うちも今日乗った1本を逃したら遅刻するかもって感じやった」

 「やっぱり1時間違うと、ちょっとダイヤも変わってくるね」

 「うん、なんせ早朝やし。これがラッシュ時間やったら対外同じ時間帯やけどね」

 「ああ、そうやんな。大体同じ間隔で電車が来ては出発してる」

 「そのおかげで1本でも遅れると、ほんまに遅延に泣かされるねん」

 「あれは辛いなぁ」

 「乗り換え案内とかあるけど、実際はホームから出るってことが難しい時もあるしね」

 「うん。ラッシュ時間の遅延は勘弁してほしいな」

 など2人で話していると、ほかのメンバーも次々に出勤してきて、いつの間にか6人仲良く座っていた。それぞれ思い思いの感情があるようで、緊張をほぐそうと藤田は必死に携帯ゲームをプレイしているし、加賀屋は貧乏ゆすりをしながら上を向いたり下を向いたりと忙しそうだ。伊勢谷と鈴木は愛煙家なので、そのうち喫煙ルームへ消えていった。

 「これからどんな仕事ができていくんやろう?」

 「まぁ、始まってから色んな問題が出てくるんやろうな」

 「それを解消していくのって、どれくらいかかるんやろう?」

 「どうかな?色んなことが初めてやから何とも言いにくいよな」

 「それにしても、新しい社員って、今日からくるんやろう?」

 「そうそう。かわいそうに、恐らく一番大変で忙しい日が初日になるんやなぁ」

 その社員が「それくらい持ってくれるんだろう」というのが、全員の本音でドミノ倒しのように新しく入ってきては退職や体調不良を訴えるような曰く付きの部署にだけはなってほしくないと願っていた。


 「今から1時間くらいかな?私たちが運営を任されることになったホームページがプレオープンします」

 と、片桐が朝の挨拶を早々に切り上げて本題に入った。隣でパソコンを見ながらニヤニヤしている安藤は、すでにその画面を見ている最中なんだろうと推測した。

 私たちは、片桐に誘導されるがままにパソコンのトップ画面の左上にあるフォルダを開ける。次にそこにある「試運転用」というアイコンをクリックする。しばらくすると、更新中のマークが表示されて可愛らしいキャラクターが姿を現した。

 その場にいたスタッフ全員で思わず「おお」と歓声を上げた。しばらくすると、その可愛らしいウサギのようなキャラクターが大きな木の傍に行き、その木の幹にある小さな扉を開ける。そこで「クリック」という文字が表示される。そこをポインターでクリックすると、ホームページに入ることができる。

 「これ、めっちゃ可愛いですね」

 「新作ソフトのメインキャラクターがこのウサギちゃんらしいの」

 「ああ、なるほど。だからこの子を前面に押して宣伝していくんですね」

 「そう。しばらくそのまま遊んでいて大丈夫よ」

 片桐は最後に、時間が来たら一度ホームページを閉じてもらうと言った。

 私も鈴子も一心不乱にホームページのキャラクター達に夢中になっているところへ安藤が嬉しそうにやってきた。

 「どう?おもしろいだろう?」

 「はい、これはもう・・・子供が大喜びですね」

 「まぁ、子供が一人でパソコンを使うってことはないだろうから、大半の問い合わせは両親からだろうね」

 「そうですね。しかも、あまりパソコン操作に慣れていない親からですね」

 「そういうこと。君ら2人は、ほかの誰よりも簡単に説明するということが得意な人間だからきっと大丈夫だよ」

 「はい、ありがとうございます」

 安藤は私たちの返事を聞いて満足そうに頷き、ほかのメンバーのところへ向かった。ちらりと安藤の通ってきた道を目で追うとその先に片桐がいた。それも安藤をじっと見ているようだ。ただ見つめているのではなく、憎しみの籠ったような目をしていた。

 私は「もうひと波乱くらいはありそうだな」と思いつつ、内心では絶対に関わりたくないと思ったので、片桐の表情も何もかもを忘れることにした。


 続々とスタッフが出勤し、いよいよ業務開始の時間がやってきた。

 「うわ。思ってた以上に可愛いんやけど?」

 「うん、デザイン画と実際に動いているのとでは大違いやなぁ」

 ホームページを見ながらスタッフたちが口々に感想を述べている。そのなかでも一際目立って話しているのが、今日から配属されることになった五木という女性社員。

 マイペースなのか、それとも皆と仲良くなるための作戦なのか。とにかくオーバーな声とリアクションで周りを巻き込みながら、ホームページを観察していた。

 そんな五木の様子を見て、安藤はニッコリ笑っているが片桐は無駄な話が多いだとかリアクションが大げさすぎると思っているのか、やや面白くない表情で彼女を見ていた。やがて、彼女の手を止めた片桐は別室で彼女の研修を大急ぎでやると言い、部屋を出て行った。

 すれ違いざまに五木と目が合った。小柄で恐らく20代前半。入社して間もないのか、片桐や安藤それから出社拒否の果てに退職した西脇たちと違ってスーツを着こなせていない印象を受ける。

 ニコニコと笑う姿は、男性陣に大いに受け入れられた。彼女とは正反対の不愛想な私は、伊勢谷から「京さんも、あれぐらい愛想をよくしたら?」と釘を刺されたところだ。

 「私の役目じゃない」

 「愛想に役目も何もないでしょ?」

 「いや、不器用な人間があんな風に笑顔で色んな人間と触れ合うなんてない」

 「あ、そういうことね」

 「ちょっと、伊勢谷さん。納得してる?」

 「え。いや、同情してるだけ」

 「一言多くない?」

 「大丈夫。一言以上やから」

 思わ手が出そうになるのを堪えて、「仕事に戻ったら?」とできる限り笑顔で伊勢谷に言うと「うへぇ、まじで怖っ」と言われた。

 

 業務開始の合図が安藤から下された。新規スタッフたちがまずは電話の対応をする。そこから私たち既存スタッフの対応が必要な場合は、私たちへつながることになっている。

 ほとんどの案件が新規スタッフたちだけで賄える対応というのが、クライアントや安藤たちの見解だ。私たち既存スタッフは、温度が高い相手との会話になる。なので常に安藤や片桐、そして村岡たちに会話の一言一言を聞かれている。

 「これって、非常に緊張する立場やんな」

 「まぁ、それでもやるしかないってことやもんな」

 藤田や鈴木がコソコソとそんな話をしているのが耳に入った。今更じゃないの?と言いたくなったが堪えた。私には目の前にある仕事が優先順位の先頭に立っている。

 私の目の前に広がっている画面は、みんなが感激しているホームページではない。西脇が残していった宿題だった。もちろん、鈴子も伊勢谷も同じように割り振られて、何とか監視させようと奮闘している。

 「よくもなぁ、こんなに一人でできますって言い切ったよなぁ」

 「うん。どうにかなるってレベルじゃないよな」

 「西脇さん、そんなに媚売っ・・・頑張って尊敬とか、関心されたかったんかな」

 「それもあるやろうな」

 彼女は、東京本社にいる頃から厄介者扱いを受けていたんだ。ここへきて「やってやろうじゃないか」と鼻息荒く奮闘したいという決意があったんだろう。

 「でも、これは良くない」と鈴子が呟き、伊勢谷も私もそれから他のみんなも頷いた。

 西脇は膨大な資料をゼロから独りで簡単に作れると約束していたそうだ。社員・スタッフの研修資料に、ユーザーとのトラブル対応方法の関連資料、パソコン初心者のための研修資料、ホームページを運営するための操作資料に障害発生時の対応資料。数え上げてもきりがない。

 とにかく、私は社員・スタッフの研修資料を任されることになった。鈴子はパソコンに詳しいためにパソコンの操作資料、鈴木はパソコンオタクで操作なんて造作ないし、なおかつ、個人的にもホームページを作って運営しているらしいので、運営資料と障害発生時の対応資料を藤田と作成している。伊勢谷と加賀屋はユーザーとのトラブル対応の関連資料だった。


 「クライアント側としては、それだけの物をすぐに作成できないと踏んでいたそうだよ」

 安藤が担当を割り振った際に、私たちにそう告げた。

 「だから、年明けの半年後に第1回目の提出期限を引き延ばしてもらったんだ」

 「あ、そうなんですか?」

 「でも、条件がある」

 「条件ですか?」

 「毎日、発生するユーザーからの問い合わせは逐一報告すること」

 ユーザーからの報告関連は片桐が専用のページを作り、そこに全員で入力するということになった。この報告書については、新規スタッフも含めて全員が仕事終わりに片桐に提出する。そして、片桐がそれを整理してクライアントへ報告する。もちろん、緊急の報告は随時行うことになっている。

 1本目の電話が鳴ったのは、業務開始時間から10分後のことだった。新規スタッフの神谷がしばらく対応したが、やがて内線電話が私に入った。

 「女性の方ですが、説明が分かりにくいとお怒りなんです」

 そういえば彼女は研修中も説明が苦手なようで、しどろもどろで何を話しているのかわからなくなる時があった。私は「早速来たな」と思い、大きく深呼吸した。

 「どこまで話をしましたか?」

 「ホームページの遷移と、推奨環境です。」

 「どんなトラブルですか?」

 「はい、えっと・・・」

 ここで彼女が言葉に詰まったので、これ以上は無駄な会話になると思い、神谷には「そのままつないでほしい」と言った。鈴子が横目でちらりと私を見た。

 「お電話変わりました・・・・」

 頑固で不愛想な私と、神経質そうなキンキン声の女性との戦いが始まった。


 私と女性との戦いは15分ほどで終了した。結局は、パソコンの操作に慣れていない女性の操作ミスを確認し正しい方法を教えたところで完了した。女性は「あら見れるじゃない」と言い、そのまま愛想なく電話を一方的に切った。ため息をついてデスクに突っ伏した私を見て安藤の笑い声が聞こえた。どうやら私の対応を聞いていたようだ。

 「自己中って、こういう女のことを言うんだよね」

 痛烈に批判する安藤が恐ろしくも頼もしくも見えた。そして片桐がこの場にいなかったことに感謝した。彼女がいた場合、安藤の発言に猛烈に怒りを覚えただろうと思うのだ。

 「すみませんでした」

 声のほうをみると、神谷が申し訳なさそうに立っている。

 「別に、大丈夫ですから。気にしないでくださいね」

 もともとこういう役目を担っているから気にするなと言うものの、もう少し丁寧に説明すればこの女性もキンキン声で叫ばずに済んだかもしれないと思った。

 「私、この仕事に向いてないんでしょうか?」

 神谷は不安げに私をみている。私はなんと声をかけていいのか分からず、しばらく彼女を見たまま黙っていた。彼女の背後に安藤がいた。彼は私たちのやり取りを観察しているだけで、助け舟を出そうとは思わないようだ。

 「向いていないかどうかは、たった1回の対応で決まるもんじゃないと思うけどね」 

 「そうでしょうか」

 「私は、あなたじゃないし、人を見て判断するほど人間ができていなから、神谷さんが何に向いているとか向いてないとか、よくわかんないです」

 それは正直な気持ちだった。神谷は困った表情をして、次の言葉を探している。彼女はこの会社をなんとか理由をつけて辞めようと思っているのではないだろうか。ふと、そんな考えがよぎった。彼女の言葉を待つ前に、私が言葉をつづけた。

 「しばらくやってみて、無理なら早めに片桐さんや安藤さんに相談すればいいと思うよ。無理に続けろとは言えないし、じゃあ辞めろなんて私が言うもんじゃない」

 彼女の進退を私一人に押し付けて任せようとする彼女も、それを見守る誰もが敵に見えた。

 「わかりました。ありがとうございます」

 彼女がそう言って席に戻る。はたして本当にわかったのだろうか?話をしていた私さえもわかっていないのに。


 ● 2011年:10月頃(現代) 


 とうとう年貢の納め時がきた。


 業務開始から2週間が過ぎた頃、いつも通りぼんやりと朝のホームで電車を待っていた時のことだった。前日までの計5日間続いた12時間労働で疲れ果ててヘロヘロ状態の私は、本当に駅のホームのベンチでウトウトとしていた。

 「京ちゃん?」と誰かが私を呼ぶ声がした。夢のなかの住人が話しかけているんだろうと思い、答えることもなくぼんやりと空を見ていた。すると、視界の中に見慣れた男性の顔がひょっこりと現れた。

 「やっぱり、京ちゃんや。見覚えのある座り方やって思ってん」

 「あ、え・・・っと野田さん?」

 「えれ?もしかして、俺のこと忘れた?」

 弱ったなぁと野田さんは首をかしげて「もう一度、自己紹介しようか?」と私に聞いた。徐々に頭のなかが目覚めると同時に、私は立ち上がり「おはようございます」とすっとんきょうな返答をしていた。野田さんはクスクスと笑い、「おはよう。元気そうやね」と答えてくれた。

 「全然、連絡くれへんから嫌われたのかと思ってた」

 「え、そんなわけないです」

 「ほんまに?」

 「はい。でも、野田さんもあまり朝とか会わなくなったから」

 すると野田は「ああ」と納得顔になり「臨時でしばらくの間は京都支店に行っているねん」と説明してくれた。だから、少し早目の京都方面の電車に乗って出勤しているといった。

 「きょ、京都支店?」

 「そう、だからしばらくはホームで会話とかできへんけど、見かけたら遠慮なく声かけるからね」

 「わかりました。安心しました」

 私の言葉を聞き、野田さんは「え?」と首をかしげた。私も自分が呟いた言葉を思い返し真っ赤になって「気にしないでください」と弁明した。

 自分でもなぜ「安心した」と言ったのか、まったく理解できなかった。

 野田さんはしばらく私を見て、ニッコリ笑うとなぜか私の頭をゆっくりと撫でた。そして「じゃあ、行ってきます」と言い、電車の時間が近づいているからとその場を後にした。しばらくすると、反対側のホームに彼が現れて私に向かって手を振ってくれた。私も思わず彼に手を振り返していた。


「その人と、一度ゆっくり話してみたら?」

その日の休憩中、鈴子に今朝の出来事を話していた。彼とホームで会わなくなった理由も含めて話すと「たぶん、京ちゃんは色んなことを勘違いしている気がする」と言った。

 「そんな気もしないでもないけど」

 「臆病風に任せてばっかりいると、何にもできへんよ?」

 「うん。わかってるけどね」

 「なんやったら、うちがメールの本文考えて代わりに送ろうか?」

 鈴子がにやりとしながら私に提案する。一瞬迷った私も私だが「もちろん、自分で送ります」と強気に答えた。善は急げと鈴子に急かされて、私は早速野田さんへのメールを作成し始めた。

 「まず、今日の朝のこととか含めてぇ…」

 「遠まわしにしなくていいよ」

 「それから、最近の仕事のことと」

 「うん、わりと簡単でいいんちゃうかな?」

 「それから…京都の話とか」

 「簡単にさ、いつなら会えますとかでええよ」

 「あと、あ、新しい部署に異動になったとか」

 「うん、うちが代筆したほうがええ感じやな」

 「え?なに?」

 鈴子はとなりで相槌を打ちながら、どうやらいい加減イライラしてきていたようで、若干声が大きくなっていた。

 「あれ?変かなぁ?」

 「うん、変やし回りくどいし長いのよ。本題までの内容が」

 「あ、そうなのね?」

 私はなぜか照れ笑いし、どの部分が必要ないかを結局は鈴子に確認してもらうことにした。「はい、完成した」と手渡されたメールの本文はかなり凝縮されていて、文字通り「シンプル」なものだった。

 「これで、ちゃんと伝わるかなぁ?」

 「伝わるやろ?」

 「もうちょっと言葉を足したほうが」

 「いらん。それ以上は、一切いらん」

 私は鈴子の力強い言葉に思わず「あ、はい」と答え、そのまま送信ボタンを押した。


 『今朝は突然でびっくりししました。ところで、今度の日曜日ですが予定はありますか?もしよかったら、電話でも良いし会ってでもいいので話がしたいです』という内容で送信したのだが、短すぎないか?とか内容が薄くないかな?と心配で仕方なかった。


 10分ほど後に返ってきたメールを見て「しっかり伝わってる」と納得できた。

 「彼、なんて言ってきた?」

 「日曜ならいつでも大丈夫ですって。それから、できたら会いたいって」

 「それでええやん。会えば?」

 「うん、でも・・・」

 「え、さっそく臆病風が吹いてきたねぇ」

 そんなことないと私は鈴子に言い放ち、そのままの勢いで「朝は弱いので、午後でもいいですか?」と返信していた。

 そんな様子をみていた鈴子は「やればできるやん」と言い、休憩室の自動販売機でオレンジジュースとコーヒー牛乳を買ってきた。一気に2本も飲むのか?と驚いていると、コーヒー牛乳を私に手渡して満面の笑みを浮かべながら「お祝い」と言った。

 不服ながらもコーヒー牛乳は大好きなので「ありがとう」と素直に受け取った。


 日曜日の朝。メールの着信があったのであわてて確認すると、鈴子からだった。『今日だっけ?例の人と会うの?頑張ってね』という内容だった。

 『はい、精いっぱい頑張ります』とメールを返信して、まだ午前9時というのに、待ち合わせまで4時間の猶予があるのに着ていく洋服選びにとりかかった。

 

 洋服選びは思った以上に難航していた。男性とのデートなんて何年振りだろうか?すかも、相手に対して私は好意を持っている。だから、どうしても失敗したくないと弱気になり始めていた。

 「でも、早くしないと遅れてしまう」

 時計を見ると、すでに11時を回っていた。

 9時に起床してから、食事を済ませて洗濯物を片づけていた。その間、ずっとインナーやパンツにするか、スカートにするのかで悩みに悩んでいた。

 「気合を入れすぎても笑われるし、気合がなさ過ぎても引かれてしまうんやろうな」

 そんなことを考えていると携帯の着信音が鳴り響いた。鈴子かもしれないと思い、急いで相手を確認すると野田さんからだった。なんだろうと本文を開くと

 『おはよう、今日のことやけど。実家から連絡があったんでいとど実家に行ってからになるから、少し遅れそう』とあった。

 そうか。彼は実家暮らしではなくて、一人暮らしか誰かと住んでいるのか。そうなるとますます彼女の影が濃厚になってくる。

 『わかりました。会えそうな時間になったら事前に連絡ください。その時間に合わせて待ち合わせ場所に行きます』


 午後1時過ぎ。野田さんからメールが来た。

 『今から大阪に戻ります。京ちゃんなら、何時ごろに大阪駅に着ける?』とあったので、『今からだと2時前になりそうです』と返信して、用意しておいたミュールを慌てて履いた。すぐに返信があり『それなら大丈夫。俺も2時頃になりそう』とあった。

 履きなれないミュールで必死に岸辺駅まで歩く姿は、ほかの人が見ると何とも滑稽な姿なんだろうなぁと恥ずかしくなった。ミュールもそうだが、決して着ることがないのに無理やり買ったレース付きの可愛らしいブラウンのワンピースに、グレーのタイツ。

 でも、気合を入れすぎているという感じを出したくないので、上にストールを巻いてごまかしたりもしている。

 「これで、絶対に大丈夫」

 うん、地味ではあるが我ながら悪くないと思う。自分で言うのもおかしいが、意外に体の線は細いので着なれないものでも何とか様になるのだ。


 岸辺駅に着くと子供連れが多くて、いつもの駅のホームに比べてにぎやかだった。さすがに日曜なだけはあるなと思い、なるべく目立たないように電車の最後尾あたりまで移動した。

 最後尾は電車オタクが多く、カメラを構えて電車を待ち構えている人が3・4人溜まっていた。電車オタク以外だと、高齢者集団や私のように一人で電車を待っている人がいた。

 電車待ちのなかでも、ひと際目立つ女性がいた。スラリとモデルのような出で立ちに顔もかなり整っている。岸辺駅には合わない都会派の女性だ。これからデートなんだろう。

 私とは違い有名ブランドのツーピースを着こなし、すっきりとした化粧で女性でも思わず見惚れてしまう。

 これ以上見続けてしまうと、自分の情けなさに拍車がかかってしまうので電車が到着すると女性を避けようと一番端のドアの傍に立ったが窓ガラスに映る自分の姿を見て、やっぱり情けなくて仕方なかった。


 大阪駅へ着くと、待ち合わせ場所へ急いで歩いた。できるだけ情けない姿を見られないように細心の注意を払った。万が一でも、伊勢谷や別の誰かに出くわした場合には最悪の状況すぎる。 

 待ち合わせ場所にはすでに野田さんがいた。

 「野田さん」と声をかけると、彼がこちらを向きニッコリと微笑んだ。しかしその眼は私の後方へ向けられた。どうしたのかと振り向くと、先ほどの美人が後ろを歩いていた。やっぱり美人は人目をひくもんだなと感心していると、その美人も彼に視線に気づき、驚いた表情を見せた。

 「あれ、野田君?」

 「やっぱり、勝俣さん?」

 「し、知り合いですか?」

 と思わず私も声を上げた。すると2人は私の存在を忘れていたのか、はっとして私を見る。しばらくして野田さんが慌てて私を彼女に紹介した。

 彼女は最高に素敵な笑みを浮かべて私を見た。きっと「なんて地味でダサい女なんだ」と笑いたくて仕方がないんだろう。

 「はじめまして、勝俣と言います」

 「どうも、初めまして。穂斗山です」

 「野田さんにはいつもお世話になっています」

 どんな世話になっているんですか?と聞きたかったが、そこまで突っ込んで話すほどの間柄でもないので「そうですか」と答えた。

 「何だかお邪魔みたいやし、私も待ち合わせしてるから」

 「あ、そうなんや。じゃあまた会社で」

 野田さんの表情を伺うと、心なしか名残惜しそうに見えた。そして「ごめん、びっくりした?」と気を遣うように私に聞いた。

 「大丈夫です」

 「あの子、岸辺に住んでて、同じ京都支店に勤務してるねん」

 「そうなんですか?」

 「そう。異動になった時に彼女にいろいろ教えてもらってた」

 「もう教わってないんですか?」

 「うん。彼女は近々退職するからなぁ」

 「へぇ、そうなんですか」

 「結婚するらしいよ」

  そうですか、と答えて野田さんの表情を伺う。彼は何とも言えない表情で、何を考えているのか全く想像できなかった。

 「で、どこかでお茶しましょうか?」

 「そうですね。梅田駅のほうに喫茶店が何店舗かあります」

 「じゃあ、案内してよ」

 わかりましたと答えて、野田さんを案内し横に並んだ。その勢いで彼を見返すと、勝俣さんが歩いて行ったほうを向いていた。やはり、彼女のことが気になるんだろう。あんなに美人な女性を気にしない男がいるわけがない。

 しばらく一緒に歩いて移動していたが、どうしても我慢できなくてその場で立ち止まった。「どうしたの?」と野田さんが私に聞く。なんと答えるべきか、考えていると「道に迷っちゃった?」とさらに聞いた。

 「違います」と私は答えて、野田さんを見た。ゆっくり深呼吸をして声の震えがばれないように、ゆっくり一言一言に力を入れて話した。

 「野田さん、あの人のこと気になってませんか?」

 「え?え?誰のこと?」

 「勝俣さんのことです」

 「ああ、旦那さんと会うのかな?って」

 「それだけですか?」

 「え?うん」

 「そんな風には、見えないんですけど」

 「あの、何が言いたいの?」

 「話がしたいなら行ってください」

 野田さんは目を見開いて私を見つめた。急な話で驚いたようで、何か話そうとしているが、言葉に迷っているのか口をパクパクしている。やがて深呼吸して、私の腕をとって道の端に引き寄せた。

 「何で、そんなことを言うの?」

 とても冷静に、でも反論ができないような威圧感がある。目は怒っていないが腕を持っている力が強くなったり緩くなったりと、必死で何かを堪えているように思えた。私もできるだけ動揺せずに、ゆっくりと言葉をつづけた。

 「あの人を見つけた時の、野田さんの目が私を見る目とは違うんです」

 「どういう意味?」

 「探していたものを見つけたっていうか、何というか・・・」

 「それは、どういう事なの?」

 「だから・・・」

 「あの子は、同僚でお世話になった人だから。それ以上も何も思ってない」

 「すみません」

 私が謝ると、野田さんはしばらく目を閉じて何かを堪えていた。たぶん色々と言いたいことがあるんだ思う。ほとんど話すことも会うこともない人間に、ここまでズケズケと言われたんだから仕方がないことだ。

 黙って野田さんの様子を伺っていると、そのまま私の顔を見ずに「行きましょう」と言った。


 喫茶店につくと、2階の窓際のテーブル席に通された。私はホットコーヒーを頼み、野田さんも同じものを頼んだ。それからしばらく沈黙が続き、やがて野田さんが口を開いた。

 「俺のこと、あんまり良いように思ってないよね?」

 「そんなこと、ないです」

 「でも、妙な印象は持ってるよね」

 「わかりません」

 「わかんないの?」

 野田さんは明らかに苛立っているようで、大げさにため息をついたあと、窓の外を見たまま何も話さなくなった。私もどうしていいのか分からず同じように空を見た。

 真っ青な空で、所々に雲が点在している。太陽は反対側にあるようで眩しさは感じられない。しばらくすると、店員がコーヒーを運んできた。

 ぎこちない雰囲気に気が付いたのか、少し怪訝そうな表情をしていた。

 「お待たせしました。ごゆっくりどうぞ」と言い残して、さっさと立ち去った。おそらくキッチンへ戻って、他の店員に「窓際の2人の様子が変だ」と噂話に華を咲かせるんだろうと思うと、情けなさが更に増してきた。

 「そういえば、仕事のほうはどうですか?」

 先に痺れを切らしたのは、野田さんのほうだった。そういえばメールで新しい業務に着くということを報告していたんだった。

 「何とか、そのぉ軌道に乗せようと必死で頑張っている最中です」

 「残業続きなんじゃないですか?」

 「はい、でも・・・慣れました」

 「残業に慣れるのは良くないよ」

 「そうですね。休めるときには、しっかり休みます」

 「今日は、もしかして無理して来てくれた?」

 野田さんは探るような目で私を見ている。私の様子がいつもと違うのは仕事のせいなのか、それとも勝俣のせいなのか探っているんだろうか。

 「そんなことはないです」

 「だったらええねんけど。辛いなら早めに言ってね?」

 「わかりました」

 そのあとも何とか会話を広げようと頑張ってみるが、全く続かず沈黙が徐々に多くなってきた。

 やがて「もう出ようか」と野田さんが言い、私の返事を待たずに席を立った。完全に怒っていると思い、とにかく謝るべきと店を出たところで呼び止めた。自分で思っている以上に大きな声で呼び止めたようで、振り向いた野田さんの表情は何事かと家怪訝そうだった。

 「あの、変なことを聞いてしまって本当にすみませんでした」

 「え?何が?」

 「いや、あの・・・さっきのことです」

 「さっきのこと?」

 野田さんは本当に身に覚えがないのか、それともわざと言っているのか推測しにくい表情だ。しばらく考えた後にようやく「ああ、さっきのことか」と呟いた。

 「あの、怒っているのは当たり前だと思います」

 私は言葉を続けて何とか機嫌を直してほしいのと、私を嫌いにならないでほしいという気持ちでいっぱいになった。

 すると、彼は右手のひらを左右に軽く振って「怒っていない」と笑った。

 「それに、俺のほうが謝らないとって思ってたのに」

 「どうしてですか?」

 「だって君への紹介が遅くなったし、君がいるのに他の女をみてるって不安にさせたから」

 野田さんは急に真顔になって「本当に申し訳なかった」と言った。私は怒っていないという言葉と、彼の笑顔に心を救われて思わず涙がこぼれそうになった。

 「俺、なんていうか・・・話下手っていうかなんて言うか」

 「そうなんですか?」

 「うん。緊張すると、何を話していいのかわかんなくなるねん」

 「緊張してたんですか?」

 「そうみたい。話す内容とか、全く思いつかんかった。めっちゃ愛想ないなぁって落ち込んでた」

 「ほんとに?」

 「うん。ほんまに」

 「そっかぁ、じゃあ同じですね」

 「うん。同じやね」

 私と野田さんは、改めて向き合って「これからどこに行こうか」と話をした。その時私は今日一日かけて、この人のことをたくさん知ろうと決めた。好きな食べ物や趣味、洋服の好みや、簡単にしか聞いていない会社のことも聞いてみようと思った。


 家に帰ると早速、野田さんからメールが届いた。

 『今日は楽しかった。また遊ぼうね』とシンプルな内容だった。それでも私は嬉しくて、思わず飛び上がりそうになったが必死で堪えた。

 すると、何処からともなく例の少女の声がした。

 「楽しそうにしてるね」

 「うん。とても楽しかった」

 「悲しい顔ばかりしてると、良いことないよ」

 気が付くと私のすぐそばに少女はいた。少女の顔をはっきりと見たのは、今日が初めてだった。愛くるしい瞳に、おかっぱ頭で青色のワンピースを着ている。

 「うん。そうだね」と私は答えると、今までずっと愛犬のいない部屋に帰ることが辛くて、何度も会いたいと泣いていた自分を思い返していた。

 何年経っても、何時間経とうが、愛犬が死んでいく姿が目の前に残像として泡られる。そのたびに、自分の不甲斐なさを責めた。

 「もう、あんまり自分を責めないでね」

 少女はそう言うと、足元から徐々に消えていった。不思議と気味悪さは感じなかった。いや、今までもあの少女に気味悪さを感じたことはなかった。

 ただ、図星を付かれるという苛立たしさを感じていただけで、親近感さえ感じていたほどだった。


 「おはようございます」

 いつもより遅めの出勤で残業確実なのに私の気分が晴れやかなのは、昨日、野田さんに会ったおかげだろう。

 鈴子もその辺を理解してくれたようで、出勤してきたばかりの私に「その幸せ分けてほしいわ」と言った。

 「変わったことは?」

 「おおあり」

 「え?何かあったん?」

 「そう。大いにあったんよ」

 まさかと思い部署に顔を出すと一同の顔が曇っているのを確認した。安藤を見ると何やら難しい表情で電話をしているし、その隣にいる片桐も怖い顔でパソコンとにらめっこしていた。

 私と同じく、遅めの出勤だった加賀屋くんも「入りづらくない?」と困った顔をしていた。

 「何があったか知ってる?」

 「ああ、クレームが更にクレームになったらしいよ」

 「え?電話で?」

 「うん、そうみたいやで」

 「その一次対応って誰?」

 「名前、聞かんでもわからへん?」

 「か、神谷さん?」

 加賀屋は無言で頷いた。もう一度辺りをみると、いつもの席に神谷は座っていない。片桐の横に小さくなって座っていた。時々、片桐に何かを聞かれては答えて、そして俯くというのを繰り返している。

 「あれは、そうとう絞られたな」

 「何でそうなったん?」

 「客がホームページのキャラクターに難癖つけて文句言ったらしい」

 「それだけで、クレームになるん?」

 「そのあとに、あの子が『私が作ったわけじゃない』って言い訳したらしいで」

 「それ、ほんまに?」

 私が聞き返すと、加賀屋は「そうだ」と力強く答えた。その言葉をきっかけに、すべての会話の揚げ足を取られてしまい、神谷では対応不可と片桐が判断した。そして二次対応を安藤が行っている最中だという。

 「報告書、片桐さんが急ぎで上げてるらしいわ」

 「神谷さん、大丈夫かな?」

 「まあ、メンタルが弱ってない限りは乗り越えてくれるやろう?」

 「そうかな?」

 「そうかな?って、何か心当たりでもある?」

 「おおいにある」

 加賀屋は首をかしげて、なおも私に何か聞きた気だったが、これ以上は話をするのが急に億劫になったのでそのまま室内へ入った。

 「おはようございます」

 ドアの開く音と同時に、全員が私を見た。「おはよう」と言うと、声を出してはいけないとでも言われたのか黙って会釈をするだけだった。すると、村岡が私を手招きして「話がある」と言い別に部屋にいるように指定された。


 「神谷さんのことやけど」

 開口一番に村岡が神谷について質問をしてきた。どうやら本日2回もクレーム対応を引き継いだらしい。しかも、引き継ぎがまるでできていないということだ。

 「研修中って、どんな感じやったかなぁ?」

 「とくに変わって点はありませんでした」

 「他の人よりも理解が遅いとか、言葉使いが悪いとか」

 「ないですね。むしろ、言葉使いが丁寧で話すペースもちょうど良いと感じていました」

 「それがねぇ、そうでもないんよ」

 「何があったんですか?」

 私は加賀屋に質問したことをもう一度村岡に聞いた。ほとんどが同じ内容だったが、引き継ぎの時点ですでに会話ができない状態だったという。

 「会話ができない?」

 「そう。お客さんとも俺らとも、会話が成立しないっていうんかな?」

 「コミュニケーション能力が乏しいということですか?」

 「大げさに言うと、そういうことになるなぁ」

 「これから、どうなんでしょうか?」

 「会社のこと?それとも神谷さん?」

 私は両方ですと答えた。村岡はしばらく考え込み、「神谷さんには、今後のことを話し合うつもりだ」と答えてくれた。部署の存続については「何も問題ない」らしい。

 「安藤さんが対応してるお客さん、前からちょくちょく嫌がらせの電話をしてきてたらしい」

 「そうなんですか?」

 「そうみたいやわ。過去対応の内容がねぇ、・・・・これがまた嫌がらせの度合いを超えてたからなぁ」

 「それを、たまたま神谷さんが引いてしまった」

 「そういうこと。しかも立て続けに取ったから、かなりメンタルやられた状態やったみたいやし」

 「何とかできないですか?」

 「うん。俺も何とか働きかけてはみるけど」

 どうやら村岡は、他のメンバーにも神谷さんの印象を同じように聞いたらしいが、全員が揃って「あんまり何か良い・悪いの印象を持ってはいない」と答えたそうで、そんな内容でどうやって彼女の処分を軽減できないかと悩んでいるそうだ。

 「じゃあ、片桐さんは・・・・?」

 「おおかた、辞めてもらう方向に持っていくみたいやけどな」

 「1回のミスで?それは酷すぎます」

 「まあ、俺もそう思うけど」

 それでも村岡の立場では片桐に逆らうことができないので、最終的に片桐と安藤が「辞めろ」と言えば、辞めざるおえないという。

 「電話受付時間が終わったら、とりあえずミーティングになると思う」

 「そうですね。残業どころじゃすまないですね」

 「まあ、残業が好きな会社やからな」

 「しゃあないですね」

 「しゃあないですな」

 そう言って村岡と私は業務へ戻った。相変わらず、安藤は電話の対応中で室内の雰囲気もドンヨリと暗い状態のままだった。


 「とにかく、経緯報告書を簡単でいいから作ってちょうだい」

 「は、はい」

 「13時までに仕上げてね。14時までに鯨夢堂様へ報告しなきゃならないのよ」

 鯨夢堂ゲイムドウは、私たちのクライアントの会社名だ。ゲーム好きの人間なら一度は憧れる会社で、子供からの問い合わせでは『どうやったら会社に入れますか?』という質問を受けるときもある。

 「今までの経緯があるから、何とかカバーできそうなところもあるけど。場合によっては、心の準備が必要になるかもしれないからね」

 「はい、すみません」

 「謝罪は一回でいいから、気を取り直してやってちょうだい」

 片桐を見ると、先ほどまでの怖い表情ではなかった。神谷も十分に反省していると感じてくれたんだろうか。それとも、彼女にこれ以上話をしても無駄だと判断したのだろうか。

 安藤の対応もようやく終結し、今は安藤が電話でクライアント先へ報告している最中だった。安藤がクライアントと話している様子から、それほど大事になったわけではないことを現していた。

 「ええ、怒っているわけではなく、揚げ足をとってオペレーターが困るのを楽しんでるようでしたよ」

 安藤はクライアントと話をしながら、片桐に筆談で何かを伝えている。片桐はそのメモを読み、そしてパソコンで何かを表示させて安藤に見せていた。

 「ええ、恐らくこれからも架けてくることは予想できます。はい、・・・そうです。すぐに私に転送するように伝えます。その場合は、代わりの人間を・・・はい、そうです」

 ふと、顔を上げると安藤と目が合った。何か用でもあるのか?と思い、首をかしげると安藤がニッコリと微笑んだ。

 「ええ、またその件については報告します」

 そのあとすぐに村岡と私、それから伊勢谷が呼ばれた。どうやら先ほどのクレーマーの対策本部の一員に選ばれたようだ。伊勢谷と顔を見合わせて「また仕事が増えたな」と大きなため息をついた。


 18時で電話対応業務の終了とともに、スタッフたちは其々のデスク周りを整理して帰社していく。私は全員がきちんと退社したのを確認してから、18時以降の報告書作成と研修資料の作成にあたることにしている。

 その前に休憩に行こうと立ち上がると、神谷がまだデスクに座り、ぼんやりと自分の手のひらを見つめているのを発見した。何かあったのかと彼女のところへ行くと、ようやく業務が終わっているということに気付いたようで、あわてて帰り支度を始めた。

 「何か考え事でもしてたん?」

 「はい、少しだけですけど」

 「私に話せること?」

 「よく・・・わかりません」

 そこまでを言い終わると、神谷はまた俯いた。おそらく、クレームのことで悩んでいるんだろう。あれから心配になって神谷の様子を気にしていたが、とくに片桐から呼び出されるということもなかったし、安藤からお叱りを受けるということもなかったようだ。

 いったい、何を悩んでいるんだろうか?と思っていると、ふいに彼女が私を真っ直ぐに見つめて言った。

 「私、足手まといではないですか?」

 「どうしたん?急に?」

 「クレームばっかりで、何にも役に立てていない気がするんです」

 「クレームは足手まとい?」

 「はい、そうだと思います」

 「それは、誰かがそう言ったんかな?」

 神谷はしばらく黙って考え、そして首を横に振った。私は神谷が否定したのを確認して頷いた。誰だってクレームと聞くだけで「連絡を受けた自分が悪者」だと決めてしまいがちだとは思う。電話の応対クレームならまだしも、商品のことでクレームに発展するには、それなりの経過があってのこと。

 この電話業務は、その経過のゴール地点でもあるしスタート地点でもある。何と伝えたら、彼女は分かってくれるのかと考えた末「綺麗ごとを言ってもいいかな?」と前置きをして彼女の隣に座った。

 「クレームって、単に『めちゃくちゃ怒ってる』っていうイメージだけが先行して、悪い方向にしか受け止められない場合が多いけど。私は、『ここが悪い』とか『サービスがなってない』って言う言葉を聞くと、『もし改善してくれるなら今後も使いたい』っていう気持ちの表れかな?って思う。だから、クレームを受けた時は、第3者のこの人の話を聞くことで、気付かなかった業務サービスの質を良くすることができるかもって思いながら対応してるねん」

 「うわ。ほんとに綺麗ごとですね」

 彼女はそういうと、少し笑った。私も同じように笑った。

 「私やったら、電話してまでひとつの商品に対する文句を言うことはないねん。むしろ、他社の同じような製品に乗り換えるねん」

 「ああ、それはわかります」

 「でも、電話をくれる人は『ここを改善したらもっと好きになる』っていう意思表示をくれてるわけやん?それって、会社にとっては利益の一部かな?って思う」

 神谷は少し考えて、やがて「やっぱり綺麗ごとですよ」と笑った。でも、先ほどのように暗い表情ではなかった。私も「あんまりこんな話をしたくないねん」と言い、他の人には言わないでほしいとお願いした。

 「でも、今回の件は私の話し方も悪い部分があったと思います」 

 「自分の対応や行動に反省点を見つけられているんなら、本当に大丈夫じゃないかな?」

 私はそう言い、できる限りの言葉で彼女を励ました。彼女がこれ以上、この仕事を続けることができないと思えば、今の時点で退職を申し出ているはず。

 そんなこともせずに、自分の何が悪いのかを自分で発見してきちんと確認できることは彼女にとって大きな一歩だと、やはり「綺麗ごと」を心の中で呟いた。

 「もう少しだけ、自分の話し方を見直してみます」

 「うん、一人でわからんかったら私も手伝うから」

 「ありがとうございます」

 彼女は元気よく帰って行った。私もそのあとすぐに休憩のためにロッカールームへ行った。


 休憩が終わって席に戻ると、黄色の付箋に「戻り次第、隣の部屋に来るように」と片桐の字で書かれていた。急いで部屋に行くと村岡と安藤、それから伊勢谷と加賀屋もいる。

 「お疲れ様、ちょうど今から始めようと思ってたのよ」

 片桐はニッコリ笑い、私に開いている席へ座るように指示を出した。全員が揃ったのを改めて確認すると、すぐに本題に入った。

 「今日のクレームのことについて、大方知っていると思うけど。改めてクライアントからも過去の情報をもらいました」

 「クライアント側からは、早い段階で相手の存在を確認できたことは、今後の対策を練ることができて良かったと言われた」

 「その、クレームをつける人は・・・昔からですか?」

 村岡が恐る恐るという感じで、2人の話の間に割って入った。この2人は話のタイミングを間違ってしまうと、かなり機嫌を損ねるタイプなのだ。

 「そうだ、しかも常にできないことを言ってくる」

 「そうですか」

 「解決できそうなんですか?」

 「何とも言えない。できないと断っても引き下がらないんでどうしようもないと、前は困っていたそうだよ」

 引き継ぎファイルという資料に目を落とすと、『レベル:S・クレーマー(男)、名前は複数あり。その都度変えて話を一方的に続ける。泥酔状態で連絡をすることもある。職業も弁護士、法律家、大企業の社長、政治家、株主と名乗る。その他:訴えるや弁護士を呼ぶなどと言う。話を続けることができない場合は切電も対応』と書いてあった。

 なるほど、クレーマーによくあるタイプだ。本名ではなく複数の偽名を使って電話をしては、相手を困らせてストレスを発散させている性癖を持つ、かなり面倒な人間だ。

 「この人は会社のサービスへのクレームから始まって、社会的にはどう思うのかだとか、政治的にはどうだとか、とにかく話が色んな方向に飛んで不慣れなオペレーターは誘導に引っかかってしまうみたいなのよ」

 「まあ、僕くらいの人間になれば打ち負かせるけどね」

 「打ち負かさなくてもいいんです」

 「あ、そうなの?」

 相変わらず、妙なコンビの片桐と安藤の説明を受けながら、経験の浅い私がどうやってこんな面倒な相手に立ち向かっていけるんだろうと頭を捻った。

 「とにかく、皆には彼からの連絡があった場合に備えて準備をしてほしい」

 「トークスキルは、オペレーターの子たちよりも遥かに高いことは知ってるから大丈夫として、どこまで言い切ることができるかが問題なのよ」

 「言い切り方とタイミングですね」

 と村岡は難しい表情で呟いた。彼の電話対応を私は聞いたことがないが、伊勢谷曰く「かなり高度な技術を持っている」らしいのだ。その高度な技術だか話術を、いつ聞かせてくれるのか楽しみで仕方がなかった。

 「とにかく、今までの経緯をこれから説明するから、そのあとに対策を考えていきましょう」

 片桐がそういうと、みんなの表情には明らかに「終電ギリギリになりそうだな」という感想を抱いたのは、私の思い違いではないと感じた。


 ● 2011年:10月下旬


 『へぇ、そんなお客がいるんや』

 「そう。とにかく、長々と愚痴や興味のない実体験を聞かされてもねぇ」

 『トイレにも行きたいし?』

 「そうそうトイレにも行きたいよ」

 『ご飯も食べたいし?』

 「そうそう!お昼ご飯は大事ですね」

 『俺にも電話したいし?』

 「そうそ・・・それは無理」

 『ちょっと。引っかかってよ』

 大阪駅で待ち合わせした一件以来、野田さんとは時々電話で話をしたりメールをしたりと、少しずつではあるものの心の距離を縮めていっていた。

 そして、こうやって仕事の話をするときもあれば映画や気になる小説の話をする。

 もうずっと前から感じていたことだが、彼と話をしているととても安心する。安心もするし、心が癒されていくような気がしている。

 『とにかく、無理な時は自分一人で処理せんと。誰かに相談しないとな』

 「うん。相談できる相手もいれば、バカなことを話して笑いあう相手もいるし。安心して仕事ができますね」

 『それは良かった』

 「野田さんは?」

 『俺?』

 「野田さんには、仕事関係でそうやって話せる相手とかいるんですか?」

 『ああ、俺は・・・それとなくやってるから』

 野田さんは自分の会社の話になると、途端に口が重くなる。たしかに、業種によっては口外厳禁というところもある。それにしても、途端に歯切れが悪くなるのが非常に気になる。何か嫌な思いをしているのだろうかとさえ、思わず勘ぐってしまう。


 そんなクレーマー騒動が起きてから1週間経ったある日のこと。

 鈴子がぼぉっと休憩室で飲むヨーグルトを飲んでいた。いつもと様子が違うので、何かあったのかと心配になったが、あいにく気配りが下手な私は綺麗な言葉で彼女の悩みを伺うことができない。だからいつも通りに「おはよう」という挨拶しかできなかった。

 「今日は曇りやねぇ」

 「うん。気温もそれなりに秋らしくなってきたねぇ」

 「今年の冬は寒いらしいね」

 「うん。でも、いつも言ってますよ。今年は例年より寒いですって」

 「せやなぁ。それで毎年、寒くて凍え死んでしまいそうって思うねん」

 「そうそう。カイロを何枚も体に貼って外出するねん」

 「ほんまに。生活費まで青くなるから大変やわ」

 「うふふ。ほんまにそうやね」

 よかった、普通に会話ができていると安心したところで、急に鈴子の顔色が悪くなった。何か踏み込んではいけない言葉があったのだろうか?とヒヤリとしたが、やがて何事もなかったように家族や仕事の話をし始めた。

 「それにしても、弟はいつもながら遅刻寸前でないと出勤せえへんねんから」

 「そうなん?でも、遅刻はせえへんし。会社的には問題ないんちゃう?」

 「うん。仕事は好きみたいやから、真面目に出勤して頑張ってるけど」

 「鈴子ちゃんは優しいからなぁ」

 「・・・え?」

 「ほら、私ってあんまり人のことを気にする余裕がないというか、自分で精いっぱいやから。誰かが頑張ってるとか、あんまり周りを見てないところがあるねん」

 「そうかな?」

 「そうやで。でも、鈴子ちゃんは、人のことをちゃんと見て心配したり、助言してくれたり。周りの人の気持ちを察して行動するところが羨ましいと思うよ」

 鈴子はしばらくの間、私を見つめていた。やがて俯いたかと思うと「ごめん」と一言言い、ロッカールームへ消えていった。何事かと鈴子の姿を追うと、ひっそりと泣いているようだ。

 やはり、私の言い方が悪かったのかもしれない。気に障る言い方だったかもしれないと思い、あわてて彼女を追いかけて「ごめん、大丈夫?」と聞いた。すると、彼女は「京ちゃんが悪いんじゃない」と泣きながら言った。

 私はわけが分からずに、ただただ彼女の背中をさすった。泣き止むのを辛抱強く待ち、彼女が何か話してくれるのを待ち続けた。

 すると、彼女は振り向きもう一度「ごめん」と言った。私はわけが分からずに謝ってもらう覚えがないと首をかしげた。

 「実は・・・昨日、彼と別れてん」

 「え?わ、別れた?」

 そう、と彼女は言った。泣き出すかもしれないと思ったが、気持ちの整理ができたのか冷静に話してくれた。


 以前から鈴子の彼には、同じ会社の後輩のなかに、仲のいい女性がいるということを噂で聞いていたそうだ。でも、休みの日には待ち合わせをしてデートもするし、会いたいときはわざわざ会いに来てくれる。電話だって、長話に付き合ってくれる。鈴子には彼に愛されているという自信があった。なのに、突然彼が「別れてほしい」と言いだしたのが、昨日の夜だった。

 理由は「ある女性を好きになった」ということらしい。どうやら、鈴子の気持ちを重いと感じていた彼は、後輩の女性に何度か相談をしているうちに気持ちが徐々に彼女へ向いて行ってしまったそうだ。

 「鈴子のことは、とても可愛い素敵な子だと思ってる」

 でも、これ以上は一緒にいることができないと一方的に言われ、反論する余地もなく電話を切られたという。すぐに折り返し電話をしたが、呼び出し音が続くままで彼につながることはなかったという。


 「うち、京ちゃんが言うほど、人の気持ちを察する人間ちゃうよ」

 「そうかな・・・」

 「うん。うちは、好きな人の気持ちに一切気付くことがでけへんかった」

 彼の辛い気持ちに気付いてやれなかったことは、相手にとってとても残酷で冷たい仕打ちだったに違いないと、鈴子は遠くを見つめながら話してくれた。

 私はそんな鈴子に掛けるべき言葉が見つからず、ただ背中を優しく撫でるしかなかった。


 業務開始から数週間経った頃、片桐と安藤の仲が少しずつおかしくなっていくのを感じた。とくに、これと言った言い合いや意見の相違の瞬間を目の当たりにしたということではない。それでも、2人の間に妙な壁が出来上がっていて、資料作りの相談で話しかけるのに気を遣うことが多くなった。

 「それなら、安藤さんのほうがよく知っていると思うわよ」

 「あ、そうですか?」

 「ええ。安藤さんは、何て言ってたの?」

 「はい、片桐さんに聞いてみてくれって。片桐さんのほうが詳しいだろうからって」

 「へぇ。自分が面倒だって思うことは、すぐ人に押し付けるのは得意ですからね」

 「は、はあ。」

 「じゃあ、この報告書が終わってから、穂斗山さんの席に行きます」

 「はい、お願いします」

 そう言って席に戻ると、好奇心旺盛な伊勢谷がニヤニヤしながら私を見ていた。おそらく私と片桐さんのやり取りをずっと見ていたのだろう。そして、私が心底震えあがっているを見て、楽しんでいたに違いない。そう思うと、沸々と怒りが込み上げてきた。

 こんな時、あの中川ならどんな風に立ち振る舞うんだろう。私が中川たちのいた部署へ配属されたときにいた、尾崎や佐倉とはどうやって付き合っていたんだろう。

 おそらく、今の安藤や片桐に挟まれて困っている私と同じ気持ちだったはずだ。

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