少しの進展と恐怖。大切な思い出
● 2011年:8月頃(現在)
「おはようございます」
朝のホームでぼぉっとしていた私に、例のスーツ男である野田さんが声をかけて、そして当たり前のように私の横に立った。
いつの間に来たんだろう?と聞く前に「あの高校生がそこにいた」と小声で教えてくれた。どうやら例の2人が、私に向かって歩いてくるところを見かけて、急いで駆け付けてくれたのだという。
「ところで、いつがいいですか?」
「いつ?といいますと?」
「やだなぁ」と野田は嬉しそうに笑い、デートする日に決まっていると答えた。そういえば、連絡先を交換したものの私からは一度もメールも電話もしていない。
もちろん、彼からの執拗なメールや電話もない。簡単な挨拶程度のメールのやり取りを1度だけしたきり全く連絡を取っていない。
こういう時は、どちらかが毎日のようにメールをするという話を何かの本で読んだことがあるが、どうせ私とは駅のホームで会うだろうから頻繁に連絡する必要がないという意味だろうか?と自問自答しているところへホームに電車が到着した。
「あの高校生、すごく大人びてますよねぇ」と唐突に野田さんは呟いた。
「大人びている?」と聞き返すと、自分より年上の女性に堂々と声をかけるなんて考えられないと言う。
そういうあなたも、私に声をかけてきた一人なんですけど?と言いたかった。
年齢なんて関係なく、他人に声をかける時点でかなりの勇気と度胸が必要なんだから、結局は彼らも野田さんも同類じゃないか?と妙な屁理屈を考えてしまった。
そんな事を悶々と考えている最中、「どうかしましたか?」と野田さんは心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「いや、つまらないことを考えていただけなんです」と手短に答えて、追及される前に「気にしないでほしい」と釘を刺した。
「じゃあ、今日の昼ごろにメールします」
野田さんは大阪駅から環状線に乗り換えるそうなので駅のホームで別れた。なんとなく彼の後姿が名残惜しく思えてしまい、彼の姿が見えなくなるまで見送ってしまった。
野田さんもそんな私に気が付いたのか、環状線のホームに消える直前に一度だけ振替って、私を見つけると嬉しそうに手を振ってくれた。それだけで、心がドキドキと震えた。
「でましたね。それが、恋のはじまりってやつですよ」
嬉しそうに光井が私の肩をポンポンと叩きながら言った。松岡も仕事をこなしつつも、ニヤニヤと私と光井の話を聞いていた。
「それで?デートは、いつにするの?」
ひと段落おえた松岡が唐突に話を切り出した。私は「まだ決まっていない」と素っ気なく答えて話題を変えようと、面白い話はないかと頭の中であらゆる言葉を検索したが全く思いつかなかった。
結局、観念した私は「彼とは緊張して話を盛り上げることができない」という悩みを打ち明けた。
正直、大体「へぇ」とか「そうなんですか」くらいの相槌しかできなくて、話も一方通行のような気がするのだ。
「それは、恋愛経験が少ないからじゃないの?男の人とのコミュニケーションに慣れてないんだよ」と光井は言う。彼と一緒にいる機会が増えれば自然と相槌もうまくなるし、話もすんなりとできるようになると言う。
「そんなものかなぁ?」というと2人揃って「そんなもんだ」と力説してくれた。
2人がそこまで言うならと納得しかかった矢先、野田さんからメールが届いた。
『土曜や日曜が休みなんですか?』という内容で、野田さんは基本的にカレンダー通りの休みなのだそうだ。
「な、な、なんて返事しよう?」
私の声は私が思っている以上に腑抜けた声だったようで、2人は一瞬だけ驚いた表情で私を見た後、互いに顔を見合わせてやがて大声で笑い始めた。
「ちょ、ちょっと!真剣に聞いてるのにぃ」
「ご、ご、ごめん。だって質問もそうやけど、あんまり拍子抜けした声出すから」
2人は肩で息をしながら私に謝罪した。
「でも、京ちゃんも基本的に土曜と日曜が休みやん?」
「うん、じゃあそのまま返す」
言われたままに『土曜と日曜は私も休みです』という内容だけ返信しようと思ったが、激しく制止されてしまった。
どうやら絵文字やらアスキーアートをつけたほうがより効果的で相手の印象が良いという。
そんな面倒なことに何の効果があるのか?なんて聞く気にもなれない(どうせバカにされてしまう)から、2人に言われたまま絵文字とかアスキーをつけて返信した。
昼休憩が終わる直前、もう一度だけ野田さんからメールが来た。
『わかった。どっちかで調整して遊びに行きましょう』とあった。そして最後のほうに『怒るかもしれませんが、意外に可愛いメールを送るんですね』と書いてあった。まさか友人2人との創作だとか言えないので、『そうですか?普通ですよ』と返信した。私ってば相変わらず素直じゃないなと我ながら思うのだった。
翌朝、いつも通りの時間帯に駅のホームに着き、電車が来るまでの間に本でも読もうと鞄を探った。ところがいつも入れているはずの小説を今日はうっかり入れ忘れてしまっていたようだ。
そういえば、昨日まで持ち歩いていた本は読み終わったので新しい本にしようと考えていたところで眠ったのを思い出した。
「しまった。最悪」と呟き、ため息をついて手持無沙汰を解消するために携帯画面を見た。まだ電車が来るまで5分ほどある。どうしたものかと思っていたら、男子高校生らしき声がしたのであわてて周囲を見まわした。
あの2人組だったらどうしようとドキドキしていたが、高校生の声が私の背後を通り過ぎるのを確認すると、ようやく安心した。少し自意識過剰なのかもしれない。
それにしても一体全体、野田さんは私のどこを気に入ったのだろう?と思い、こんな臆病な私を見て、もしくはデートが原因で野田さんに嫌われたらどうしよう?と途方もない悩みを持っていることに気が付いた。
そんな考えも虚しく、しばらくの間は野田さんと駅のホームで会うことがなくなった。
常々マイナス思考な私は「やっぱり他に綺麗で若くていい女の子がみつかったんだ」と解釈して、野田さんが別の誰かと仲良くデートしているところを想像して悔しくなった。松岡や光井はそんな私を見ても何も言わず、黙って見守っていた。
きっと2人は「彼にメールしてる?」とか「心配なら電話すればいいじゃん」と言いたいところなんだろうが、臆病な私がそんなことするわけもないし、色々と言い訳を考えた挙句、逆切れして何もかもをぶち壊しにするかもしれないと思ったのかもしれない。
「あれ?京ちゃんじゃない」
その日の帰り道、珍しく鈴子に出会った。彼女は夜型のシフトで仕事をしているので、朝方勤務の私とは帰り道で出くわすということが本当に珍しい。
こんな時間に珍しいねと言うと、今日は早退したいと会社に事前に申請していたそうだ。
「顔が暗くない?というか青いね」と鈴子にすぐに見破られてしまい、悔し紛れに野田さんとの経緯を簡単に説明した。すると、鈴子はしばらく考えてから「メールは?」と聞いた。
「でもさ、今更『今日はいませんでしたね』とか、面倒だし妙に女々しくない?」と私が聞くと、彼女は「そんなことない」と言った。
「そうやって、心配しているということを知らせることで相手に好印象を与えることもあるんやし」と言った後に「やりすぎはよくないけどね」と付け加えた。
「でも、知り合ってまだ日も経ってないのに」
「日数なんて気にしてたら、何にもはじまんないから」
鈴子も松岡や光井と同じような言葉を繰り返した。やはり私は妙な偏見や思い込みに支配されすぎているのかもしれないと思った。
「とにかく、今日は仕事ですか?とか当たり障りのないことを聞いてから、本題に入ってみたらいいかも知れへんねぇ」
「うん、何とか頑張ってみる」
そう言い終わると同時に大阪駅についたので、鈴子とは大阪駅の改札口で別れた。大阪駅から岸辺駅までの15分間、メール本文の書いては決してを繰り返してしまい、結局、メールは後回しにしようと思った。
もちろん、その日も次の日も彼からの連絡はなかった。実は彼からメールが来るのではないだろうかと期待していた。彼も私と同じようにメールを送ることを躊躇っているのだろうか。それとも、ただ単に仕事が忙しいから私の存在を忘れてしまっているのかもしれないと想像した。
翌朝、少しだけ早めに家を出ていつもより10分速く駅のホームへ着いた。たった10分の差なのに、いつもと違って人も少なく風も気持ちがいいと感じた。私はいつも通りに小説を鞄から取り出してベンチに座った。
ふと、向かい側のホームをみると見慣れた人がそこにいた。野田さんだった。
携帯に集中しながら階段をおりてきている。危ないなぁ、集中しすぎて降りるホームを間違えたのかな?と首をかしげたが、すぐにそれは間違いではないと悟った。
電車待ちをしている彼の隣に当たり前のように女性が立った。野田さんは携帯から目を離して横にいる彼女を見た。遠目からでもわかるくらいに、優しい笑顔で挨拶をしている。隣にいる女性は長身で、並んで立っていると羨ましいと思うくらいにお似合いに見えた。
それからまた野田さんは携帯へと視線を落とした。やっぱり新しい彼女ができたから、私のことはあっさりと捨てたんだ。
ずんぐりむっくりで小柄な私なんて、本当は興味なかったんだろう。暇つぶしに話しかけただけなんだ。
でも、なんで反対側のホームにいるんだろう?私に声をかけるために、今までわざわざ嘘までついて反対側のホームに来ていたのだろうか?たしかに彼の言葉使いは何処か京都弁に近いと薄々感じていた。
そして昨日はメールを送らなくて本当に良かったと思った。でなければ今頃はあの2人に私のバカみたいなメールを見られて大笑いされていたに違いない。
いつもよりかなり早い時間帯ではあるものの、いつも通りの電車を待つのが辛すぎたので私はタイミングよく到着した電車に飛び乗った。
思わずいつものように乗車口とは反対側の扉の前に立ってしまい、何気なくこちらを見た野田さんと目が合った。
案の定、彼は驚いた表情をしてこちらを見ている。私はまったく気付いていないふりを決め込もうと目線をそらした。彼が私に向かって手を振っているのが視界の端に見えたが、絶対にそちら側を向かないように小説を開いてそのまま電車が発車するのを待った。
東淀川あたりで携帯が何度か震えるのを感じた。メールの着信に気付いたものの一人で見るのは勇気がいるので絶対に見ないようにした。
でも、いくら松岡や光井が一緒だからって見る気にはなれないだろうと思った。
ロッカールームにつくと、メールの着信が野田さんであると確認して本文は一切見ずに消去した。どうせ「ごめん、好きな子ができたんだ」とか「悪いけど、もう連絡しないでほしい」とか何とか言い訳を送ってきたのだろうと推測した。
そのあとは、すぐに彼の電話番号を着信拒否に登録して、念には念を入れてメールも届かないように設定した。
人を信用しようとするといつもこんな風にバカにされて終わることが多い。女友達でも男友達でも関係なく、もれなく「お人好しバカ野郎」と言われる。敦子や由美のように、自分に都合のいい時にだけ友達として扱われて、必要ない時は赤の他人のように会話の中に割り込ませないように避けられる。
人を信用することは本当に危険で、恐ろしいことだと改めて痛感した。
そういえば、私が今までの人生で一番信用していたのは愛犬だけだった。
目が合うといつも嬉しそうに目を輝かせて尻尾を振るしぐさや、名前を呼ぶと嬉しそうに近づいて膝の上に飛び乗って必死に何かを訴えてくる。
私が料理するときもお風呂に入るときも、洗濯物を干すときも、どんな時も私の傍にいてくれた唯一無二の親友。辛い時や、悲しい時はいつもあの子のことを思い出す。今でも、彼女の最後が瞼の裏に焼き付いて残っている。
● 2007年:1月
「長くても、…3か月ですね」
家の近くの獣医師が、愛犬ビスの容体を見てそう告げた。私は床が一気に崩れ落ちて、奈落の底に突き落とされる気分というのはこういう事なんだと理解した。
「あの、手術しても無駄ですか?」
「そうですね。心臓のほかに子宮辺りに大きな腫瘍もあります。手術と言っても小柄なので体力も持たないだろうし長時間の麻酔もかなり危険ですね」
私は獣医の言葉を聞いて途方に暮れ、ただただ意味もわからずに嬉しそうに私に飛びついて尻尾をふる愛犬の背中を優しく撫でてやるしかできなかった。
たしかにビスは他の同犬種に比べてかなり小柄だった。
それでも他の犬とは違って目はぱっちりと大きくて、耳や身体と尻尾の毛はふさふさと優雅なウェーブが優しくてふんわりと良い触り心地だった。
獣医から聞いた彼女の病気は後天性の心臓肥大。そして、いつのまにか出現していた下腹部にある腫瘍。まだ7歳という若さで何故こんなに重い病気にかかったのか悔しくて仕方なかった。
獣医師は「心臓肥大は先天性の可能性が捨てきれない」と言ったが、私自身は今更「じゃあ、どうしようもないですね」と割り切って支えてやる気にはなれなかった。それに、腫瘍がこんなに大きくなるまで気が付いてやれなかったのかと自分を責めるしかできなかった。
家に帰ると、病院から解放された嬉しさで部屋中をピョンピョンと飛び跳ねるビスが可愛らしくて仕方なかった。
そんな彼女に「ビス、これからどうする?」と話しかけてみたが、答えが返ってくることはない。ただ、嬉しそうに尻尾を振って一生懸命に私を見つめるだけだ。
途方に暮れている私に獣医師は「このまま手術せずに発作を抑える薬を与えて、最後まで一緒に過ごしてはどうですか?」と提案してくれた。
発作を抑える薬と定期的に病院に通って、まさかの時には最後の場所として一緒に見届けていくれるとくれると言ってくれた。
愛犬の目を見ながら、どうしてそんな重い運命がこんな小さな体に与えられたのだろうかと、私の心には後悔という言葉しかなかった。
「ビス、おいしいお菓子買ったけど…食べる?」
私がそういうと、言葉も通じないはずなのに嬉しそうに私の顔を見ていつも以上に尻尾を振ってくれた。
「え?じゃあ、もう長くないんや。若いのに死んじゃうんやね」
当時働いていた家具販売店の先輩にビスのことを話すと、あっさりと現実を突きつけてくれた。あまりの気遣いのない言葉にむっとした私は「そうですね」とだけ答えて、それ以上は話すことを止めようと仕事に集中することにした。
そして、同じことを母親や妹そして祖母に話してみたが、結局は会社の先輩と同じような返答だった。
「そうなんや、まぁ犬やから短命なんやろうなぁ」
「なんでそんなになるまで気付けへんかったん?」
「病気なんて、ある日突然出てくるもんやし。諦めるしかいな」
3人は、それぞれ言いたいことだけ言うと、そのあと数十分は自分の仕事の愚痴や近所の人の悪口を言い始める始末で、誰もビスの病気のことや長くないという現実を一緒に悲しんでくれることはなかった。
「お前のことは、最後まで私が面倒見るし傍におるからな」
電話を終えた私はビスに繰り返しそう言った。その言葉はビスに言い聞かせているのではなくて、私自身に言い聞かせているようだった。
後日、念のためにセカンドオピニオンを受けてみないか?と、友人からの提案で別の病院で検査を受けることになった。
あいにく、平日に休みを取ることはできないので検査は友人が代理で連れて行ってくれることになった。
「お利口な子やし、京ちゃんがおらんでも寂しくないやろ?」と、友人が人間の子供に話しかけるようにビスに話しかけているのを見た。
10日後の検査結果はかかりつけ獣医の見解と同様のもので、その獣医からは「安楽死」と勧められたそうだ。私は友人に丁寧にお礼を言って、このまま2人で最後までいよう、今まで以上に彼女の好きなようにさせて、たくさん甘えさせようと思った。
そんな私の気持ちに気が付いたのか、友人も「私も時々、この子に会いに行っていいかな?」と言ってくれた。その気持ちがとても嬉しかった。私は「もちろん、いつでも会いに来てほしい」と告げた。
「こら、薬を飲まないと苦しいだけやで」
それから毎日のように、私はビスの餌にわからないように薬を混ぜて与えている。それでも犬の嗅覚と言うか、いつもは鈍感な表所をしているのにこういった時だけは妙に勘が鋭いようで薬だけを残すという高度な技を披露してくれていた。
錠剤で「においはないので大丈夫」と獣医からもお墨付きだったのだが、どうやら臭い以外の何かを察知しているようだ。
結局最後にはビスの体を無理やり抱きこんで、口を無理やり広げて錠剤を放り込むという荒業をすることになるのだ。
そのたびにビスは不機嫌な表情をして部屋の隅っこに座り込み、じっとこちらを睨み付ける。あんなに表情豊かな犬なんて他にはいない、というほど多彩な表情を見せてくれた。
● 2007年:5月某日
「さあ、今日も元気に散歩に行こうね」
その日もいつもと同じようにビスへ挨拶を済ませて朝の散歩に出かけた。愛犬の病気の告知をされてからというもの、毎朝のご機嫌伺いと1時間程度の散歩と、体力作りのための軽い運動が日課になっていた。
なおかつその日は、低時給の家具店ではビスの病院代と私の生活が賄えないと判断した結果、新しい仕事のための準備にとりかかる予定もあった。
マンションの裏側にある畑のそばで2人でゆっくりと朝日を見上げた。周りには、有名なチェーンレストランや高層マンション、そして駅前にある大学のラグビー専用グラウンドがある。決して空を見上げるには絶好の場所ということではないが、それでも私とビスの憩いの場所になっていた。
「今日も、ビスを生かしてくれてありがとうございます。明日も一緒に朝日を見ることができますように」
私は何回も心の中で呟いた。隣ではウロウロと暇そうに歩いているビスがいて、とても重い病気を抱えているようには見えなかった。何もかもいつも通りで普通すぎるくらい普通だった。
無事に面接をクリアして研修担当者から電話をもらっている間、ビスは呑気に欠伸をして私を見ていた。
「では、来週から早速研修にはいります」と研修担当者が言う。
「明日の午後にもう一度来てください。社員証を作成します」と採用担当者からの有難い言葉を貰って電話を切った。
嬉しくてそのままビスを連れて外出した。近所のスーパーではなく、少し離れたスーパーに寄り、自分の夕飯とビスのお菓子やおもちゃを買った。
来週からは今までの仕事とは違い、必ず定時刻で出社し定時で帰社できる会社で働くことになった。
もう長時間もビスを一人きりにさせることはない。前の会社のように、バカみたいに残業ばかりさせられることはない。
独り言のように呟いた言葉を理解してくれたのか、いつも以上に尻尾を振り乱し、その揺れがあまりにも激しいので体の半分が左右に激しく揺れてしまう。
おかげで重心をまっすぐに保つことができないようで、足元がおぼつかずにふらふらと揺れていた。嬉しそうな表情で私を必死に見つめる。
そんなビスを抱き上げて頭から体までゆっくり撫でてやると、とても気持ちよさそうにうっとりする表情が何とも言えない。
夕飯がすむと、ビスは欠伸をしてベランダのほうへ向かった。外に出たいのかな?と網戸を開けるが、ビスは一向にベランダへ出ようとしない。どうしたの?気分が悪いの?と心配になり、体を撫でてやると相変わらず嬉しそうに尻尾を振って笑顔のような表情を作る。
明日に備えて、早めに就寝しようと浴室へ行った。入浴後にビスの様子を見に行くと、相変わらずベランダの傍に座っていた。しかも今度はのんびり鼾をかいていた。
私の心配なんてどこ吹く風というのは、まさにこういうことなんだなと呆れてため息が出た。涼むために私もベランダのビスの隣に座ってぼんやりと外を眺めた。
「明日も畑まで行こうな」と言うと、何を言っているのか理解してくれたのか尻尾をゆっくりと振って返事をくれた。
深夜2時半。何度も誰かに呼ばれる夢を見た。妙な夢だなと思いながらも、目を開けることもできないくらい深い夢の世界と浅い夢の世界を行ったり来たりを繰り返していた。
すると、今度は悲痛な鳴き声が聞こえた。こんな夜中に誰だ?と思ったが、瞼が重くてなかなか開けることができない。もう一度、今度はすぐそばで大きな鳴き声が聞こえた。
この鳴き声は愛犬の声だと気付くのに、少し時間がかかった。普段は鳴くこともなく、大人しくしているビスが鳴き声を上げていることに驚いて、一気に目が覚めた。
私は上体を起こして、ベッドのそばを見渡してもビスはいない。いつもなら布団の上、もしくは枕元で眠っているはずのビスがいない。
何度もビスの名前を呼ぶと暗闇のなかで、弱弱しい鳴き声が聞こえた。ベッドとは反対側にあるテレビ側から鳴き声がした。暗くて見えにくかったが、横向きにぐったりした様子で倒れていた。発作が起きたのか、絨毯が少しだけ乱れていた。電気をつけずにあわてて駆け寄ったので、テーブルで足を思い切りぶつけてしまう。
「ビス?ビス?大丈夫?」
ビスは何度か悲鳴に近い鳴き声を上げて、それでも尻尾をいつものように振っていた。発作がひどくて苦しいんだ、と思った。ビスの病気は、薬ではもう抑えきれないほどに悪化しているようだ。
私は薬を飲ませる手もおぼつかずに、ただ動揺するばかりで必死で名前を呼び続けた。
明日も散歩に行こうと約束したのに、今度の仕事は給料が良いし、就業時間もきちんとしているから今まで以上に一緒にいることができると喜んでいた矢先の出来事だった。いろんな思いが溢れ出して、それを言葉に表現できず名前を呼び続けることしかできなかった。
ビスの呼吸が先ほど以上に激しくなり、ぜぇぜぇと吐く息の音と呼吸の合間の雑音が大きくなる。時折「ぐぅっぐぅっ」と唸り声をあげる。そのたびにビスの体が波打つ。上着を着て、ビスの体を抱えようと座り込んだ瞬間だった。
ビスの前足が私の左手に添えられるように乗せられた。その眼は何かを訴えるように潤んでいる。
その瞬間に「ビスはもう助からない」と感じた。「このまま病院に駆け込んでも、ビスは助からない」と悟った。
せめて苦しまずに安らかに逝ってほしいと思ったのに、こんなに苦しい思いをさせてしまうことになったと改めて延命を望んだ自分を責めた。
こんな真夜中にビスの名前を呼びながら大声で泣いた。隣の住人が怒鳴り込んでドアを叩くかもしれないというくらいに大きな声で泣いて叫び、何度も名前を呼んだ。
もしかしたら獣医から余命宣告を受けた時に、安らかに眠らせてあげたほうが良かったかもしれない。そうすればこんなに苦しまずに済んだのかもしれない。「ごめんね、苦しいよね」と何度も言った。
その間もビスは尻尾を弱弱しく振りながら私を必死で見つめていた。何をどう感じて何を思っているのか、全くわからない表情をしている。ただただ、苦しんで口からは涎を垂らしてぜえぜえと荒い息をしているだけだった。
このまま、この部屋で自分の最後を迎えようとしている。私は抱き起すと器官の通りが悪くなるかもしれないと思い、床に倒れこんでいるビスを抱き込むようにしておいおいと泣いた。
「助けられなくてごめんね。一人ぼっちにしてごめんね」
泣きながら何度もそう呟いては「明日も一緒に散歩に行こうよ」と懇願した。
人を信用しない私にとっては、ビスが何よりも大切で大事な存在と思っていたのに何もしてやれない自分を責めた。
すると、ビスの前足がゆっくりと私の額に当てられた。ハッとして愛犬をみると、何かを訴えるような目をしていた。何度も前足を額に打ち付け尻尾をふる。
なにが言いたいの?と私は問いかけるが、ビスが答えるわけもなく苦しむ姿を抱きしめて見守るしかできなかった。
ビスの瞳はまるで人間の母親が可愛い子供を慰めるようで、そして前足で私の額に何度も撫でるようにあてがった。
苦しくて自分を責めては泣いている私の姿を理解してくれているのだろうか?何度も何度も私を撫でようとするその前足を掴んで「ごめん、私は大丈夫。大丈夫やから」と言うと、ビスの眼はそのまま空を彷徨ってやがてゆっくりと目を閉じた。
それから後はゆっくりと時間をかけて全身から力が徐々に抜けていくのを見守った。いつも以上に体重が重く感じると思った矢先に、ビスの口元の緊張がなくなるのを確認した。
そしてとうとう、ビスの心臓が完全に止まった。目は少しだけ開いていた。必死で閉じようとするが、薄目になったままの目を結局は完全に閉じることができなかった。
もうビスは起き上がらない事を確認すると、再び涙があふれてきて、我慢していた嗚咽をこらえることができなくなった。名前を呼びながら、全身をゆっくりと撫でてやる。耳のうしろを優し撫でてもらうことが大好きだったのを思いだし、ゆっくりと耳の後ろを撫でてやる。
そうすることで、もしかしたら息を吹き返してくれるかもしれない。また明日の朝になれば家の裏の畑で、1人と1匹でぼぉっと朝日を一緒に見ることができるかもしれないと思った。
翌朝6時。いつもの散歩の時間を迎えても、ビスは目覚めることはなかった。
私はビスが逝ったあの日から、裏の畑のいつもの場所に近づけなくなった。あまりにも思い出が強すぎて、寂しいと泣いてしまうだろうから近づかないでおこうと決めた。
いつか、何かの本で読んだことがある。その本によると死んでしまった魂はこの世に後悔や心配事があると成仏することができないと書いてあった。
もし、私が寂しくて辛くてメソメソと泣いていたら、ビスが成仏できないかもしれない。輪廻転生で生まれ変わって新しい人生を送ることができないかもしれない。ビスは優しい性格だったから、私が心配で成仏することができずに一生、私のそばに魂のままで彷徨い続けることになるかもしれない。
だとしたら、私は一人でもしっかりと生活していけるんだというところを見せてあげないといけない。一人で寂しいなんて言って泣くなんてこと、いい加減にやめないといけない。
あれから6年が経った。未だに悲しみを隠すことができず、毎年の誕生日や命日には彼女の好きなお菓子やおもちゃを買って、可愛らしくポーズを決めている写真の前に飾ってやる。寂しい女や残念な女と思われてもいい、そうすることで私の心は少しずつ救われていくのを感じていた。
● 2011年:8月頃(現在)
今日は昼の休憩時間が少しだけ遅れた。
案の定、私一人が休憩室でお弁当を広げて遅めのご飯を食べる羽目になった。松岡や光井もすでに昼食を済ませて仕事に戻っている。
「なんだか、ボッチって悲しいなぁ」とおかずを口に含んだままで、モゴモゴと独り言をつぶやいた。どうせ誰も聞いていないし、笑われることはないと気を抜いていた。そんな時だった。
「あれ、京ちゃん。今日は一人なんだ」
振り向くと、敦子が携帯を片手にニコニコしながら立っていた。正直言って、今一番会いたくない子に会ってしまったと心の中でかなり後悔した。
おそらく、そんな後悔の表情がはっきりと出ていたと思うが彼女は勿論気にもせず、私の隣に当たり前のように座った。
「なんだか最近、あんまり話してないから寂しかったんだ」
「あ、そう?私は敦子さんと同じ部署の人に、男友達と毎日のように遊びに行ってるって聞いたけど?」
「うん、カラオケとかね。でも、京ちゃんと話したかったんだ」
「何を?何かあった?」
「ううん、特にないけど。ほら、私たちって親友じゃない?」
親友?と思わず聞き返してしまった。すると敦子は驚いた表情をして、そしてクスクスと笑った。
「そうだよ。私たち親友じゃない?ちがうの?」
「考えたことなかった。親友なんていないものと思ってたよ」
「ほら!そういうところだよ。もっと素直にならなきゃ」
「素直になる」という意味が分からず私は首をかしげた。敦子から親友だってことを強制されていると感じている私が今よりもっと素直になれば、敦子の発言を鼻で笑ってから「あんたなんて親友ではない」と答えるに違いない。
まぁそんな事で言い争うのも面倒なので、敦子がそう思っているなら勝手に思っていればいいと思った。でも、私自身は彼女のことをそこまで大切な友人だとは感じていないという事実があることを知っているので、敦子の「親友」発言については苦笑いをしてやり過ごした。
「ねぇ、今日の帰りに夕飯とか一緒にどうかな?」
「ごめん、外食は極力控えてるから。別の人を誘ってくれる?」
「そうなの?安いところだから、大丈夫だよ?」
「違う!そうじゃないの」と思わず強い口調で言い返してしまった。しかもかなり大きな声だったようで、いつの間にか休憩室にいた他の人たちが一斉にこちらをみた。
私は気まずい空気をごまかすために咳払いを一度して、お金の問題ではなくて自炊中心で生活しているので、外食は極力行かないと付け加えた。
「そうなんだ。じゃあ、仕方ないね」
意外にも敦子はあっさりと身を引いて、仕事に戻ると言い残してその場を去った。何事かと珍しげに後姿を鏡越しに見送っていると自動販売機の傍に安藤がニコリと笑って立っていた。
どうやら敦子は安藤がそこにいると気付き、これ以上言うと注意されると思ったのか私から離れていったみたいだった。
敦子は安藤が苦手なようで、安藤がいるとすぐに会話を止めてどこかへ行くかメールを打つふりをしてやり過ごすことが多い。
「また、あんな変な子に絡まれたの?」
「変って。まぁ、いちおうは顔見知りなので」
「いっそのことさぁ、友達やめるって言っちゃえば?」
「そうすれば、私のストレスがかなり解消されるよ」と安藤はニヤニヤしながら助言してくれた。私は検討しておきますと言っておいた。去り際、安藤が急に真剣な表情になった。
「ちょっと、仕事で話したいことがあるんだけど」
「仕事ですか?」
「そう。休憩が終わったら執務室に来てくれるかな?」
安藤は中川にはすでに私をしばらく借りると断っているそうで、多少休憩時間の終了から戻りが遅くなっても問題ないと付け加えてくれた。「わかりました」と答えて、休憩室から出ていく安藤を見送った。
それから急いで最近の仕事の内容を振り返った。もしかして、あの一件以外にも何かミスをしてしまったのではないだろうか?と妙な不安と緊張に包まれた。
こんなにヤキモキするくらいなら、安藤ではなく敦子と話をしていたほうがストレスが少なかっただろうと今更ながら思った。
「別に仕事のことで叱責するんじゃないから。緊張しないでいいよ」
私は休憩が終わった後、すぐに執務室へ出向いた私に安藤が笑顔で言った。私の表情はよほど強張っていたようだ。実は執務室に早めにいき、そこでゆっくりと今までの自分の仕事内容について考えようと思ったからだ。
何かミスでもしない限り、安藤があんな風に個人的に呼び出すなんてことはしないだろうと考えていた。執務室には、私以外にも安藤に呼ばれている人物がいた。その中に鈴子がいた。
他にも、顔を合わせたことがない男性スタッフ4人で合計6人がその場に揃った。私は彼らに軽い挨拶をして鈴子の隣に座った。お互いに顔を見合わせて、「仕事のことで怒られるのかな?」とちょうど心配していたところに安藤が入ってきて、開口一番に笑顔でそう言った。
「実は、新設部署の予定が近々あるんだけど」
と、前置きなしで安藤は話し始めた。いつも通りマイペースに話を進める人だと思った。この人は多少身勝手なところがあり、自分のペース以外は遅いとか回りくどくて面倒だと思っている。だから他の人がマイペースに話を始めると、話を遮って直球で物を言うように促す。
不満に思う人も医療だが、私はそれが清々しいというか見ていて気持ちがいいと感じている。
「特別難しいわけじゃないんだけど。新しいクライアントとの契約になるんだ」
「新しいクライアントですか?」
男性スタッフの一人が安藤に聞き返した。安藤は「そうだ」と頷いて話をつづけた。
「同じように子供向けの商品を取り扱う会社なんだけど、うちの会社の事業を拡大する大きな一歩になると思うんだ」
「そんなすごいプロジェクトなんですね」
「まあね。ここが成功すれば、今以上に黒字が大きくなる」
「へぇ。でもそれと、あの私たちは何の関係があるんですか?」
私が恐る恐る質問すると、安藤はにやりとした。何となくではあるが、安藤が次に言う言葉を予想できた。それでも先読みして理解してしまったことが悔しいので、全く分からないふりをして安藤に答えを求めた。
「その事業の最初の立ち上げスタッフになってほしいんだ」
答えは1週間後にもう一度集まってもらってから聞くと安藤は言い、仕事の内容やどこの企業なのかという簡単な資料を私たちに手渡した。
「君たちを選んだ理由は、就業態度と仕事に対する姿勢をみて判断したんだ」
すぐには答えを出さずに、よくよく考えてほしいと告げ、あとは個別の質問に移った。
男性スタッフたちは積極的に「異動することで給料面はどうなるのか」や「勤務形態はどうなるのか」などの質問を矢継ぎ早にし始めた。
私はというと、ぼぉっとしながら渡された資料を眺めて「これは何か大きな一歩になるかもしれない」と小さな期待と、大きな不安を感じていた。
「あの、私たち以外にスタッフはいないんでしょうか?」
男性スタッフたちの質問が一通り終わった後、恐る恐る鈴子が安藤に質問をした。私を含めて計6人で立ち上げるというのは余りにも無謀ではないだろうかと感じたのだろう。
安藤が言うには新規採用をするつもりでいるが、その新規スタッフたちをサポートする人間として私たちを引き抜いて、前に研修を済ませようと考えているという。
「給料面も先ほど言ったように、今よりは上がると思ってくれていいよ」
「そのかわり、残業や責任が付いてくるということですね」
男性スタッフの一人が嫌味ともとれるような物言いで安藤に言う。しかし当の安藤は何とも感じていないようで「まぁ、当たり前のことだよね」と答えた。
約40分ほどの面談の後、私たちは解散した。次に同じ顔ぶれで会うのは1週間後で、どのときには、また今日と同じように事前に集合場所と時間を伝えると言った。
家に帰り、愛犬ビスの写真を見つめる。私はどうするべきなんだろうか。今の部署でも十分楽しくやっているし、時々は失敗はあるけれどそれでもやり甲斐や生きがいを感じ始めている。それでも、新しいことにチャレンジしたいという気持ちが芽生え始めている事実は否定することができない。
いっそのこと、野田さんを忘れるためにも新しいことに打ち込むべきではないだろうかと思った。しかし、こんな不真面目な理由で異動を決めてしまってもいいのだろうか?
それでも今日のように、松岡や光井たちに気を使われながら仕事をすることを考えると、新天地でやり直すほうがストレスも緩和されるのではないだろうか。
「ねぇ、ビス?どう思うかな?」と独り言をつぶやいたが、写真なのだから尻尾をふることもないだろうし、嬉しそうな表情でこちらをふりむくこともない。ただじっと、カメラのレンズを見つけている制止した顔だけがそこにあった。
こんなことばかりしていたら、ビスだって成仏するにも安心して成仏できないだろうなぁと思わず苦笑した。せっかく、ビスのことを忘れて今の会社で必死で働いているはずなのに、こういう一人で解決できない悩みに直面した時にビスの写真に向かって問いかけては弱音を吐いてしまう。
きっとビスは、この部屋のどこかでヤキモキしながら私を見ているんだろう。私はビスの写真に向かって手を合わせて、心の中で「迷惑かけてごめんね」と謝った。
その日の夜、奇妙な時間帯にふと目が覚めた。とくに大きな物音がなったわけでもなく、トイレに行きたくなったわけでもない。のどが渇いたということもないのに突然目が覚めた。
それでも、眠気には勝てずそのまま目をつぶり夢の世界へ行きかけた時、足元から「何か」が這い上がってくるのを感じた。
心霊映画や恐怖映像のような恐ろしい感じではなく、優しい感触でゆっくりと私の背中に向かって歩いてきている。この感じは、いつかどこかで味わったことがある。その「何か」は背中の中央あたりで歩みをとめ、私に背中を向けて横たわり、満足げなため息をついた。
これは、このため息はビスの感触だと瞬間的に感じた。
ビスは甘えたいときは眠っている私の背中にべったりとくっついて背中合わせで眠る。微かにビス特有の寝息が聞こえた。安心すると必ず人間のように寝息をたてて眠る。
私はビスの存在を確かめるために、思い切って振り向いてみようかと体を動かしてみようと思ったが残念ながら身体を全く動かすことができなかった。
これが金縛りというものだろうか。でも、テレビや雑誌で見たり聞いたりするような恐怖を感じることが一切なかった。それはビスの優しさや思いやりが背中を通じて伝わってきているからだろう。きっと悩みを抱えてそのまま眠ってしまった私を心配して会いに来てくれたのだろう。
残念ながら私の記憶はそこで途切れてしまった。
朝になってベッドを調べてみたけれど、ビスが一緒に眠っていたような痕跡は一切なかった。それでも、私の心の重さを少しだけ緩和してくれたことに変わりなかった。
朝の電車のホームでは、できるだけ目立たないようにと帽子を目深にかぶり列も最後尾に並ぶようにした。
この前のように最前列で野田さんの姿を見かけてしまったり、電車に乗った後に相手に気付かれてしまったりを防ぐためだ。
しかし電車に乗った後、それほどまでに警戒する必要はなくて自意識過剰の取り越し苦労だったと安堵のため息をついた。
でも電車に乗り込む瞬間、野田さんらしき姿をやはり反対側のホームで見つけたが気のせいだと思うようにした。今の私は神経過敏になっていて雰囲気の似たような相手を見つけると、心拍数が異様に上がってしまう。「落ち着け」と自分に何度も言い聞かせた。
私は新しい部署へ異動して、すべての事をリセットして心機一転し人生を始めるんだから、今からこんな弱気でどうするんだ。
電車に揺られてしばらく後、携帯電話に見知らぬメールアドレスからの着信があった。どうせ迷惑メールだろうと思いながらタイトルを確認すると「野田です」とあった。
私は驚きのあまり携帯電話を手から落としそうになったが、寸でのところで持ちこたえた。別の例えパソコンや会社専用の携帯電話を持っているなら、別のメールアドレスを持っていることは十分に考えられた。
読むべきなのか読まずに消してしまうべきか悩んだ末、大阪駅に到着したのをいい機会に、結論は昼休憩時間にゆっくり検討することに決めた。
「京ちゃん。もう決めたん?」
ロッカールームに行くと、鈴子も今来たばかりのようで職場専用のビニールバッグに小物を入れ替えている最中だった。私は大方異動することを決めているが、それでもぎりぎりまでは返答を待ってもらい、じっくりと自分自身と向き合いながら考えたいと答えた。鈴子もどうやら同じ考えのようで、「やっぱりそうだよね」と頷いた。しかし男性スタッフのうち1人は、昨日の時点ですでに断りを入れたそうで、残りは私たち5人だけとなっている。
「他に引き抜こうとか考えていなんかなぁ?」
「どうやろう?補助要員としては、何人かいるようなことをこぼしてた気がするけどねぇ」
どうやらあの後、その断りを入れた男性スタッフと鈴子はたまたま話す機会があったようで安藤とどんな話を最後にしたのか聞いたらしいのだ。
「意外にあっさりと受け入れてくれたみたいで、もう何人か候補がいるから気にしなくて良いみたいなことを言われたらしいよ」
「やっぱりそうなんや」
「うん、そうせんと6人中6人ともが断ったら終わりやもんなぁ」
たしかにそうだ、と私は一番当たり前のことを見落としていたと思い、心の中でかなり自分の安易に物事を受け入れすぎる考えを恥じた。
「まぁ、うちは異動するつもりやけどなぁ」
去り際に鈴子はそう言った。彼女曰く、もうほとんど異動するつもりでいるらしい。理由は細々とあるので今は言えないと言い、もしよかったら今日の昼休憩の時間に話そうと提案された。私は快くその提案に乗った。
「そういえば、来週の水曜日に皆で飲み会をしようって話をしてたんやけど」
就業開始前、光井が松岡や中川、そして伊藤に話を切り出した。大井の歓迎会もかねて開催しようと武藤たちと話をしていたそうで、人数によって当日のお店について武藤が決めてくれるそうだ。
「ああ、たしかに。一度もこのメンバーで飲み会とか食事会なんてしたことないもんなぁ」
「でしょ?それでね、なんか大井君の歓迎会を機会に定期的に開催しようって話をしてるねん」
中川もその提案には大いに賛成した。もともと大勢で集まって食事をするということが好きだったようで、いつか開催したいと思っていたそうだ。
「だったら、回覧板みたいなのを作って早速みんなに回していこうか?」
「あ、そういうの作るの得意」と松岡が元気よく宣言したので、松岡に回覧板作成を依頼した。
あとはどんなお店に行きたいかというところだが、武藤曰く「歓迎会は鍋料理か焼肉だ」ということで、そのあたりを中心に格安で味も期待できそうなお店を探してくれているそうだ。
「一回目の開催地は、焼肉食べ放題で2980円の店にしようと思ってるねん」
武藤は出勤したと同時に、食事会の店について熱く語り始めた。
「やっぱり気合を入れる意味を込めて、肉料理って最高やと思うし」
「うん、でも…ちょっと落ち着こうか?」
「大丈夫、十分落ち着いてるから」
武藤はそう言って、ガハハハハと豪快に笑った。彼女が笑うと自然とこちらも笑顔になる。
そしてふと迷いが生じてしまう。このままこの部署を離れてしまえば、彼女たちとも遊ぶことができなくなってしまうのではないだろうか?そうなると、こうやって楽しく笑うことも忘れて必死に働くことになってしまうのではないだろうか?
はたしてそれは、今の私にとって良いことなんだろうか?それとも良くないことなんだろうか?
「あれあれ?京ちゃんが、珍しくふさぎ込んでる?」
武藤は明るい口調で、難しい表情をしている私に声をかけた。野田さんの一件以来、とりあえず誰もが私が塞ぎ込んでいるときは話しかけないようにしていた。ところが武藤はそういう暗いことは苦手なようで、とにかく私の減らず口を聞きたいようで、暗い表情をするとそうやってちょっかいをかけてくる。
「武藤さんが、思っている以上に深いことを考えてるんよ」
「へぇ、例えば?」
「例えば…そうやなぁ」
私はしばらく考えた後、「世の中の貧困について胸を痛めてる」と適当に答えると、武藤がガハガハと笑って、「ないない、京ちゃん。深すぎて逆にない」と一掃された。
周りを見ると、みんなも同じくらいに私のことを心配してくれていたようで、武藤とのやり取りを楽しげに見ていた。
もしかしたら、みんなに負担をかけないためにも一度、離れてみたほうが良いかもしれない。
「あ、あとねぇ…世界平和とか」
「ほんと、ないですから。京ちゃん、まじめに仕事してくれます?」
無駄な話のやり取りにひとしきり笑った後、ようやく仕事を再開した。
昼休憩時、私は鈴子と食べると言い残し早めに部屋を出て行った。
待ち合わせのレストランにはすでに鈴子がいて、メニューを開いている。ここはこのビルでも一番人気の洋食レストランで、ランチメニューが豊富でボリューミー、しかも低価格で時間帯によっては行列ができてしまう。
「あ、先に頼んどいたよ」
「早かったねぇ」
「うん、午前中の発注作業は想像以上に少なかったんや」
「そうなんだ」と答えて私はお冷を持ってきた店員さんに、いつものAランチセットを頼んだ。
「そういえば、もう一人のスタッフが安藤さんに連れていかれてたよ」
「え?新しい子ってこと?」
「そうみたい。行動は迅速かつ的確にって感じやなぁ」
「へぇ、誰やったん?」
鈴子はしばらく考え、「伊勢谷くん」と答えた。私は一瞬眉をひそめた。あの伊勢谷を選んだ?と首をかしげたところ、鈴子も同じような考えだったようで、「彼って、どちらかというと安藤さんとは正反対の性格で、気が合わなさそうというか…2人が話しているところをみたことないんだよねぇ」と言った。
私も同意見だった。なおかつ、彼はそこまで目立った存在ではなく、どちらかと言えばその他大勢と言われるタイプの何の個性も印象もない人物と思っている。
「まぁ、伊勢谷くんの才能だとか何かに光るものを感じたんかな?」
「うん。まぁ、成り行きを見守るって感じやなぁ」
「ということは、京ちゃんは断る感じなん?」
鈴子に不意を突かれて、私は言葉に詰まった。すると、いいタイミングで頼んでいた2人の食事が運ばれてきた。
「まだちょっと、考えてる」
「そっか。京ちゃんは、今の部署も十分すぎるくらい合ってるもんな」
「うん、すごく楽しいねん。またに失敗もあって怒られることもあるけど」
「じゃあ、なんで異動しようか今のままでいようかって考えてるの?」
そういわれると、なんと説明していいのか困ってしまう。すごく個人的な感情だから、はたしてそれを説明して理解してくれるのかどうか、とてもじゃないが私の言語能力では伝えきれないところがある。
「何というか、個人的なことで悩んでるねん」
「個人的なこと?仕事ではなくて?」
そう、とだけ答えて後の言葉を探していると「それ以上は、話せる日になったら聞くから」と鈴子が言い、話はいったん終了して食事へ集中することにした。
「あ、この味。ちょっと変わったんちゃう?」
「うそ?あ、でもピリ辛ソースを加えましたって書いてあるよ」
「ああ、でも美味しさが増した気がする」
「ほんまに?次はそっちを頼もうかな?」
「せやな。京ちゃんは、いっつもAセットやもんな」
「そうそう。あんまり冒険でけへんほうやねん」
「ああ、なんかわかる。保守的というかなんというか」
そんな風にして、会話は弾み食事は進んでいった。会計を早々に済ませて、休憩時間終わりまで中庭でくつろぐという話になった。
「そういえば、他の子らと話をしてみてんけど」
鈴子が突然真顔になり、ほかの引き抜きスタッフたちから情報を聞き出したという。
仕事の内容は、同じようなコールセンター中心で、HPの障害チェック、それに新しいメニューが追加されることになれば試験操作もすることになる。もちろん、あらゆるパソコン環境を踏まえて試験チェックするのだから、かなりの時間を費やすことになるそうだ。
それから、クライアントとメールのやり取りに始まり、顧客へのメール案内。 そして場合によっては上席として電話対応をしてもらうことになるということだった。
何よりも一番肝心なのは、今回の新設部署の拠点はいずれは東京になるということ。しかし、今はめぼしい場所がないために大阪のこのビル内の8階を間借りしてしばらくは運営する。
その時は、望めば私たちも同じように異動するとなればその移動費用については、要相談になるということ。
「要相談?」
「そう。まだ本決まりってわけちゃうから、そこまで詳しくは決めていないらしくて、暫定として引っ越し費用は半額くらいは負担することになるかも知れへんらしいよ」
「それって、ここに残るっていう選択肢はないの?」
それについては鈴子も「さぁ?」とだけ答え、やはり本決まりではないので何とも言えないということを説明してくれた。
東京に移動することになれば、野田さんとも会えなくなる。それに家族ともなかなか会えなくなる。だったら、いっそのこと東京転勤にかけて異動してみるのも悪くないと考えた。そんな考えを巡らせている私を横目で見ながら、鈴子は話をなおも続けた。
「でも、失敗したらその場で解散。らしいよ」
「つまり、責任重大ってことやんな?」
「そういうこと」
はたして、保守的な私にそんな一大勝負の駒として役割を果たすことができるのだろうか。もし、私という駒が重大なミスを起こしてしまった場合、どんなことになってしまうのだろうと考えた。半分は恐ろしさを感じているが、半分は新しいやり甲斐を見つけたと興奮している。
そんな時、母が主婦業がひと段落したを良いことに「やりたいこと」と実現したいと父に相談していた時のことを思い出した。
● 1998年:中学・高校時代
余りにも突然の出来事で、私たち兄弟、というよりも私は驚きを隠せなかった。母と父が再婚を前提に同居すると言い始めた。もちろん、家族揃ってまた暮らせることを考えると嬉しくて仕方なかった。
しかし、必ずその生活には終わりが来るだろうということの確信が隠せないでいた。
5人で暮らすのだからと言い、2DKのボロアパートから3LDKのマンションへの引っ越しもいつの間にか決まっていた。私も妹も、積極的に新居の掃除や細かな荷物運びに協力した。
新居は4階建ての2階部分で、お隣さんもとても気さくで可愛らしい夫婦だった。
「まぁ、5人家族ですか。ちょっと狭いんとちゃいます?」
お隣さんとほとんど間取りが同じ状態で、たしかに5人で暮らすには少々無理がある間取りだった。しかし、今更部屋が狭いと意見を言うこともできず、ただただ親の言う事を聞くだけで、何とか5人での生活を成功させるしかないという気持ちでいっぱいだった。
「でも、みんなで暮らせるんですから。十分です」
お隣さんは私たちの詳しい事情を知らないが、私のその一言で何らかの理由を察知して「仲良く暮らせてほんまによかったねぇ」と柔らかい笑顔で祝福してくれた。
その生活に慣れた半年後のこと、母が突然、みんなをリビングに集めた。
「うちな、やりたいことあるねん」
「やりたいこと?」
父が不思議そうな目で母を見た。母の突飛な発言は、いつもはた迷惑か、家族間での混乱を招く以外に考えられないので父も含めて全員が身構えた。
もしかして、突然「好きな人ができた」とか「離婚しましょう」などと言うのではないだろうか。そんな気持ちが溢れて背中には妙な汗が流れた。
「うちな、看護師になりたいねん」
「か、看護師?」
「え?今やってる介護士じゃなくて?」
「うん、ほんまは看護師になりたいねん」
本当に突然の告白に父は無言になり、私たち兄弟もどう反応していいのかわからなかった。母の目は本気なのか単なる思い付きなのか、どっちともとれるような目をしている。
母は、今の仕事に関しても突然「介護の仕事をやりたい」と言いだしてやり始めた仕事で「介護の補助をすることに幸せを感じる」と呟いていた矢先のことだった。それがどう進めば、介護士ではなくて看護師になるのだろうか?と疑問符をつけずにはいられなかった。
「介護の仕事も、もちろん大事なこと。でも、もっと大きく仕事の幅を広げたいから思い切って看護師になろうと思ってん」
「まあ。お前がそこまで言うなら止めはせんけど」
「ほんまに?」
母は嬉しそうに父の顔を見た。父は未だに困惑気味ではあるが、惚れた弱みというのだろうか?母の願いは何とか叶えてやりたいという気持ちが先行したのだろう。そうなれば、私たち兄弟が反対する余地はない。
「やれるとこまでやればいいやん」
「せやな。勉強とか、いちから大変やろうけどな」
「それでもやるんやったら、応援するわ」
それがきっかけで、家事全般が私の仕事になり始めた。妹は学校から帰宅して、私に弁当箱を渡す。「それ、洗っといて」と言い残し友達と遊びに行く。
私は買い物を済ませると勉強もそっちのけで洗濯物を取り入れて、夕飯の支度をする。このころから、私の生活は家事に追われることになった。妹や兄のように遊びに行くことが、一切禁止された。
「私も友達と遊びたい」
「あかんよ。お母さんがおらん間、誰が家事するん?」
母は面倒くさそうに、そして非常に迷惑そうな目を向けながら私に言った。家族みんなで家事を分担してやっていこうと、あの時はそういう話になったはずだ。なのに、どうして私に押し付けるの?助けを求めたくて、妹や兄に目を向ける。話のすべてを聞いていたはずの2人は、さっと目をそらす。
その時、丁度帰宅した父に母が私を説得するようにと言い始めた。父は母の言い分を聞き、そして私に向かってこう言った。
「たしかに、長女のお前が母親がおらんのやったら本来は家事をするべきちゃうんか?」
「遊ぶなってこと?勉強もできへんで?」
すると父は「なんだ、そんなことか」と言い、軽々しくも話をこう続けた。
「勉強なんて、徹夜するか学校ですましてきたらエエやないか。お前やったらそれぐらいするやろう?」
「私だけ?そんな待遇なん?」
「お兄ちゃんは、バイトがある。妹は怪我でもしたら大変や」
「うちは?」
「お前はそういうところ、うちの子供らと違って器用なんちゃうんか?」
横目で母がニヤニヤと勝ち誇ったような表情をしている。兄や妹も、もう家事を手伝わなくていいと分かり、安心しきったような表情をしていた。
私は「うちの子供」ではないような言い方にひどく傷ついたが、必死で我慢した。今ここで、そのことについて発言するべきではないと思ったからだ。
深夜、みんなが寝静まった頃に私は勉強机に座り、静かに泣いていた。
「絶望感」というのを本気で味わった。私が何を言っても、誰も聞き入れてくれない。何をどう説明しても「お前は大丈夫」という。
子供なりに、この生活は「地獄」か「罰ゲーム」そのものだと感じた。
本当は大きな声で叫びたかった。「ちがう、私はちっとも大丈夫じゃない。」気が付けば、何度も心の中で叫んだ。そして早く大人になりたいと願った。大人になったら、この家族とは離れて住み、そして連絡を取らずにひっそりと生きていきたいと何度も願い、そして心に誓った。
そして結局、父との同居もわずか1年半で解消となった。同居解消と再離婚理由は「看護学校で知り合った若い男を好きになってしまった」というから、なんとも皮肉なものだった。
それでも父は母のやりたいことを応援したいと言って、看護学校の費用を払い続けた。情けない父と懲りない母に心底呆れてしまい、もっと頼もしい両親のもとに生まれたかったと自分の人生を呪った。
でも、あの時の母のやる気に満ち溢れた表情は、私の中でやはり「いくつになってもやりたい事を諦めたくない」という挑戦しつづける頼もしい大人と思えた瞬間だった。
自分のやりたいことをやる。年齢なんて関係ない。「チャンスは今しかない」と思えば、今がチャンスなんだと母が唯一教えてくれた大切なことだった。
● 2011年:8月頃(現代)
「今日の午後2時くらいに、この前の場所にいてくれるかな?」
異動の話をもらってから、丁度10日後のことだった。
朝のロッカールームのドアの前で安藤に出くわした。どうやら鈴子にも同じことを言いに行っていたのだろう。あの時の約束の機嫌が1週間から少し日数が伸びたのは、私たちよりも遅れて異動の話を持ち掛けた伊勢谷に配慮してのことだろう。
それでも、十分すぎるくらいの時間を呉れたことに感謝している。私は「わかりました」と短く返事をして、いつもの部署へ向かった。
改めて返事をするまでもなく、すでに異動して新しことにチャレンジしたいということで心は決まっていた。
結局、この1週間の間も野田さんからの連絡はない。というよりも、連絡を取りたくても拒否設定をしているのだから、野田さんがいくら連絡をとろうとしても私に連絡できないだろう。
このくらいの期間を開けておけば、彼も私がどれだけショックを受けて怒り狂っているか理解してくれただろう。
私が彼の新しい彼女との関係について言い訳がましい説明を受けたいだとか、ましてや目の前で仲の良い関係を見せつけられたくないという気持ちに気が付いてくれただろう。
私は携帯の拒否設定を解除して、携帯の電源を切り部署へ向かった。今から向かう部署にはあと数日間の勤務になるんだろう。この部署で、あんなに楽しいみんなと過ごす日常が、もう少しで終わりを迎えようとしていた。
きっと、新しい部署では楽しい時間や、ちょっとしたリラックスタイムなどないまま、あっという間に過ぎていくんだろう。忙しすぎて年を取っていることすら忘れてしまうくらいに、仕事に打ち込もうと心に決めた。
「それで?みんなの気持ちはどうかな?」
午後2時から始まった異動についてのミーティングは、軽い雑談から始まり、其々の自己紹介を簡単に済ませたところだった。
私を含め、みんなの表情に緊張が走る。誰が一番最初に何を言うのだろうと、腹の探り合いが始まった。こういう時、私はそういった「心理戦」に弱く、すぐに根負けしてしまうのだ。だから数分ののち、私はおずおずと手を挙げた。安藤もそこにいた全員が私を一斉に見た。
「あ、私は。挑戦したいです。新しいことに」
「そうか。ありがとう」
その言葉を皮切りに、他のメンバーも次々に「やります」と言った。全員の言葉を聞き終わると安藤は満足そうに全員の顔を見て、そして軽く会釈した。
「正直、簡単なことではない。でも、できる限りバックアップはさせていただきます」
そういうと、詳しい日程や研修スケジュールは追って連絡すると言い、せっかくだからと安藤の執務室にあるお菓子を食べようということになった。
「ただし、ほかのスタッフには言わないでほしい。」
「わかってます。食べ物の恨みほど怖いものはありませんからね」
異動について、ミーティングが終わるとすぐに中川に報告した。中川は私が先行メンバーとしてリストアップされていたことを知っていたようで、異動を承諾したことを言うと真っ直ぐ私を見てうなづいた。
「異動するっていっても、簡単な場所ちゃうからね」
「はい、わかってます」
「それでも、気持ちは変わらへんの?」
「はい。挑戦したいと思いました」
中川は私の返答に大きな決心を感じたようで、「そうか、わかった」と言い、そのことを皆に丁寧に説明してくれた。
「そっか、寂しくなるなぁ」
「うん、京ちゃんってそこに居るだけで安心できる存在やからなぁ」
「新しい事業の立ち上げってなると、色んなルールとかも決めていくんやんな?」
「まぁ、そこら辺は事前に安藤さんとクライアント側で基本を作るみたいやけどなぁ」
「じゃあ、それまでに食事会を開いて景気づけしようよ」
その日の帰り道で、光井に呼び止められた。もうすぐ秋になるというのにまだまだ暑いねと何でもない話をしていた。すると突然、光井は黙り込み俯いた。どうしたのかと顔を覗き込むと、今にも泣きそうな表情をしていた。
「なんか、一緒にあの部署に行って。いろいろ教えてもらったり励ましてもらった子を思い出したら、素直に異動おめでとうって言いにくくて」
「うん、急なことやから色々と迷惑をかけることになるけど」
光井は「うんうん」と何度も頷き、「部署は変わっても今まで通り、昼ご飯を食べたり遊んだりしようね」と言ってくれた。
私の異動を素直に祝ってくれる人もいれば、光井のようにジレンマに襲われて喜べない人もいる。私は妙に人と人との関係を考えるようになってしまい、自分が選んだ選択肢は正しいんだろうか?と考えてしまった。
その後、駅のホームで光井と別れてから京都線のホームに立つ。そこでようやく携帯電話の着信に気付き相手を確認した。メールを2件受信していて、アドレスは野田さんのアドレスだった。
思わず削除のボタンを押しかけたが、すんでのところで止めた。現実から目をそらしてはいけないんだと自分に何度も言い聞かせてから、1通目のメールを開いた。
『お疲れ様です。最近、全く会わなくなったので元気にしているのか、それだけでもメールをくれませんか?』というものだった。
何でもない内容ではあるが、どことなく探りを入れているように捉えることもできる。なんだか私が悪いことをしているようで手が震えるのを感じた。意を決して、2通目を開いた。
『たぶん、あの時のことで怒っているように思うんですが。誤解を何とか解きたいんですけど。いつでも良いですから、少しだけ話せる時間がほしいです。連絡をください』とあった。
もちろん「あの時」というのは、あの朝のホームの出来事を差しているんだと悟った。やっぱり他人の空似ではなくて、反対側のホームにいたのは野田さんだったんだと衝撃を受けた。心の何処かであの時の男性は、野田さんによく似た顔の別の誰かで完全に私の思い違いだったと思いたかった。
そうではなかったことが、このメールを読めばわかる。あのときの男性は野田さんで間違いなくて、恐らくあの時傍にいて親しげにしていた女性は彼女か、もしくは奥さん?それとも婚約者になるんだろう。
最悪の結果は、最悪の事ばかり考えると現実になると聞いたことがある。まさに今の野田さんからのメールが証拠として表れている。
とにかく、返信はよく考えてからにしようと決めた。うまく言いくるめられたら悔しいから、反撃できるくらいに心が強くなった時点で連絡しようと思った。
私は忘れないようにとメールを保護して、ちょうど到着した電車に飛び乗った。そして、なんでこんなに色々と悩むことが絶えず出てくるんだろうと首をかしげた。
昔はこんなに他人の事で悩むことなんてなかったはずなのに。30歳になって色んなことに慎重になっているんだろうか。
20代の私は、何でもかんでも「大丈夫、何とかなる」と言っては悩まずに前に前にと進んでいた気がする。あの時の強い心がほしいと思った。
でも、若い私の心を支えてくれていたのは、私一人で支えていただけではなく愛犬の存在があってこそ成立していたんだろうと思う。




