前へ前へ進んでいくために
● 2011年:7月頃(現代)
辰井や五十嵐はあれから半年後に退職し、五十嵐は心斎橋でバーを経営しながら司会業を続けている。辰井はというと、奥さんや子供をおいたまま半年以上行方不明になっているという噂を耳にした。
斉藤は、別の部署で相変わらず彼女を作ろうと必死で外見磨きに勤しんでいる。すでに私には興味がないようなので安心している。
そんな昔話を思い出しながら、午前中に鈴子に言われた「あくまで可能性として考えて」ということをずっと思い返しては頭を捻っていた。
そのおかげで、私は仕事でありえないミスを犯してしまった。とある顧客の質問内容メールを作成中だった私は、最終チェックを中川に依頼していた。
その間に、次の新しい顧客のメッセージを確認していた。ちょうどその時に中川から「この内容でメールを送っても問題ない」と言われ、別の顧客の返信画面に全く異なる回答内容を送信してしまった。
メールを送ってしまった後にその事実に気が付き、顔から血の気が引いていくのを感じた。そして、手が震え始めて冷静さを失った。
耳の奥で例の少女の忍び笑いが聞こえた気がした。そして「ほら、やっちゃったね」と笑られた気がした。
「中川さん」と私は真っ青な表情で呟いた。中川も何かに気がついたようで、何も言わずに私の傍にやってきて「どうしたの?」と聞いた。
私は震える指でパソコン画面を差して、「さきほどのメールを誤って送信してしまった」と報告した。
中川はしばらくの間、黙り込んで画面を見つめていた。そして「とにかく、送るべき相手にメールを送って頂戴。誤った送信についてはそれから考えよう」と言った。
私は震えながらも頷き、メールを正しい相手へ送信した。その間、中川は誤送信先の相手の連絡先へ架電していた。
「突然の連絡で申し訳ありません。私は鯨夢堂でお客様対応の責任者をしております、中川と申します」
相手は若い女性のようで、家事の合間にメールで問い合わせていたようだった。
誤送信メールが届いているということを告げて、謝罪すると相手の女性は怒ることも無く許してくれたようだ。加えて相談内容を口頭で確認し、解決策を提示することでその女性に関しての問題は無事に解決した。
私は自分の浅はかさへのショックと、ミスを犯してしまったことについての後悔が、徐々に心の中に広がっていくのを感じた。気がつくと、涙が溢れパソコン画面がにじんで全く見えなくなっていた。
そんな私を見た中川は、すぐさま私のところへやってきて私の肩を抱いた。
「落ち着いて、とにかくお客様への対応は完了したから。大丈夫だよ」
「はい、すみません。でもミスしたのは私なんです」
「それはわかってるけど、それをカバーするのが私の役目やからな」
中川はそういう言うものの、クライアントへ報告した際に『先月も武藤という女性が作成途中のメールを誤って送信したという事例の報告をうけた』という指摘を受けたのだという。
契約を考え直すという最悪の事態は免れたが、職務怠慢だけは避けて欲しいと厳重注意を受けた。安藤も私のやったミスについての報告を中川から受けて、部署へやってきた。とくに厳しい追及はなかったものの、その環境が余計に私を落ち込ませた。
どうせなら、もっと厳しく注意してもらったほうが気持ちがスッキリすると思った。「猿も木から落ちるというじゃないか。気にするな」という優しい言葉が、余計に私の胸に突き刺さった。
その日の午後、私と武藤が別室へ呼ばれクライアントへ経緯報告の書類作成を命じられた。
報告書を書いている合間に、少女の声がまた頭の中に響いた。
「ほら、自分のことしか考えていないせいで、迷惑かけたよ」
そんなことわかってる。心の中で少女に言い返した。少女の声はまだ頭の中で響いている。
「自分一人で生きてきたつもりでいるの?凄い身勝手だね」
わかってる、誰かのおかげで自分が生きていることくらい知ってる。
「あなたの嫌いな母親や、家族のおかげで今の自分がいるんだよ?」
うるさい、いい加減にしてよ。心の中で叫んでも、少女には聞こえていないのかクスクスと笑い続けている。
「自分が可愛いから、色んな人に甘い顔して影では毒づいて。失敗しては人のせいにして逃げてね。八方美人もここまでくると、希少価値があるよ」
「わかった!うるさい!」
気が付くと、目の前にいる武藤が深刻そうな表情で私を見ていた。「どうしたの?」と聞くと、私の表情が真っ青で今にも倒れそうだと言った。
「気分が悪いんなら、休んでくる?」
安藤さんに言ってこようか?と私に聞いた。私は思わず「色々考え過ぎていた」と言い、心配してくれたことにお礼を言った。武藤はしばらくの間、私の顔を見つめていたが、やがて納得したように頷いた。
「しばらくは真面目な顔で仕事しなきゃねぇ」と武藤はあっけらかんとした表情で言った。
彼女はとても明るくて前向きで、何事にも動じないタイプだった。どんな人ともすぐに打ち解けるほど人柄が良いと、どの部署からも評判で、敵を作らない誠実な人間だ。
たしかに時々は仕事やプライベートで小さなミスをするけれども、その後のバックアップ能がずば抜けていて、安藤も彼女には一目置いている。
報告書を作成中、心配性の安藤が私達のところへ何度か差し入れや、気晴らしにと世間話をしに何度も顔を出してくれた。
もちろん、光井や松岡も同じく顔を出しにきた。
「今回の件は、顧客への対応がそれぞれ迅速やったこともあって評価が高いみたいやで」
「そうなんや?」
「こんな人為的なミスを犯したときの対応が一番クライアントが注目するところやからね。中川さんの判断も京ちゃんの気づきについても相手には悪かったけど、好評みたいやねん」
「というか、京ちゃんはちょっと落ち込みすぎ」
「でもさ、ミスしたんやで?」
「ミスなんて、誰だってやってしまうことやろ?」
それをどれだけ迅速に丁寧にカバーできるかが一番大事だと松岡は言う。光井や武藤も松岡の言葉に何度も頷いた。
「とにかく、ミスについて反省するのは良いけど。報告書を書き終わったら反省終了やからな」
「わかった。ありがとう」
報告書を書き終わって、武藤と私は休憩室へ行った。安藤が『報告書を書いたら、少し休んで気分転換してから仕事に戻りなさい』と言ってくれた。
自分のミスを詳細に文章にして、考えられる原因や今後についての対応や姿勢を誰が見ても納得するものを作り上げなければいけない。それにはかなりの労力とストレスがかかる。そのため、安藤の「休むように」と言う指示はありがたかった。
書き終えた時には武藤も私も椅子にぐったりと項垂れていた。
「はぁ、もうあんな報告書は書きたくないよなぁ」
「そうやねぇ。あれはキツイわ」
「松岡さんも、昔1回だけ書かされたことあるらしいよ」
「え?そうなん?」
なんでも松岡は、中川や安藤へ送る個人的なメールをクライアント側へも送信してしまったことがあるらしい。
内容は送別会の相談ではあったものの、クライアントや中川などのアドレスへ一斉送信だったために、個人メールアドレス帳に登録しているのか?会社間でしか使用しないメールアドレスの情報漏えいはないのか?などと、かなりキツイお叱りがあったそうだ。
中川や安藤もその際には、報告書を一緒に作成していたそうで教育方針や情報に関するルールの追求を受けたという。
「まぁ、要は正確に間違いなくスムーズに仕事をすればいいってことやんな」
武藤は驚くほど、いけしゃあしゃあと言い放ったが私は完璧な人間ではないので、また失敗するかもしれないという恐怖に怯えきっているのが正直な気持ちだった。
「武藤さんは強いね。そういうところ」
嫌味のように聞こえそうな言葉が、気がつけば自分の口から出ていた。武藤はしばらく無言で私を見つめ、「私は決して強いわけではない」と言った。
そして、武藤が少しだけむっとした表情をしている。私はあわてて付け加えた。
「でも、そんなことを言えるってことが強いんだよね」
「言うだけなら、誰だってできるやん」
「でも、私にはそんな事が言えへん。怯えるくらいしかでけへん」
「それでいいやん。」
武藤は先ほど言った事と真逆の事を言った私に大いに賛成した。なぜかと聞くと、私のその『怖い』と言えるところに勇気を感じるというのだ。
「うちは京ちゃんのその正直な気持ちが羨ましいねん」
いつでもどんな時でもニコニコと笑って「大丈夫だから」と言って、本当に大丈夫にしてくれる武藤の本音を始めて聞いた。そうして私は、武藤に前よりも親近感が湧いて前より好きになれた気がした。
「京ちゃん、大変だったね」
仕事終わりに敦子に声をかけられた。振り向くと、彼女はとてもにこやかに微笑んでいる。「私をないがしろにした罰だ」とでも言いたげな表情で、それが余計に自分を惨めに感じさせ、なおかつ敦子を敬遠するきっかけになった。
「一人になりたいから」と敦子に言うと、彼女の返事を待つことなくタイミングよく来てくれたエレベーターに飛び乗った。彼女は私を追いかけてくる様子は無かった。
おそらく、由美を待ってこれから私への悪口合戦でも繰り広げるのだろうと思った。彼女は気づかれていないと思っているかもしれないが、ちゃんと私の耳に届いているのだ。
「京ちゃんって、安藤さんに色目でも使ってあの部署に異動させてもらったんだよ」とか「所詮、私達より無能な子なんだからどの部署に行ったところで何にもできない足手まといにしかならないんだから」と由美や由美の友人である前川兄弟と休憩室で話しているのを、きっちりと私の耳に入ってきていた。
彼女達のツメの甘さは、周りへの配慮や警戒心が足りないところにあると思う。
どこに他人の目や耳がついていて、その目や耳が親切にも本人へ伝達してくれるのかという仕組みを理解していないようだ。
そうでなくとも、他の友人が彼女達の素行を知らせてくれては「付き合わないほうが良いよ」と丁寧に忠告してくれているというのに。
ぼぉっとしながらエレベーターの中にいると、誰の声なのかヒソヒソと敦子の噂話が聞こえてきた。
「あの寺川敦子って、田中由美のために仕事探しを手伝ってるらしいけど、上手く言ってないみたいやで」
この声の主は敦子と由美の友人である前川兄弟だろうと推測できる。
この2人はとにかく噂話が大好きで、いつ如何なる時もあらゆるところからあらゆる人の噂を手に入れては、面白おかしく休憩室内で広めるのが趣味なのだ。ある意味、2人なりのストレス発散方法なのだと思う。
それでも、その噂話の被害にあうと、しばらくの間は社内で好奇の目を集中的に浴びてしまうので困ったものだった。
「なんか、田中由美が仕事をする気がないみたいでさ」
「そうなんか?でも、生活できへんやろう?」
「そうそう。でもあの女、実家暮らしやから。養ってくれる相手を探して、手っ取り早く結婚すれば仕事しないで暮らせるやろうって言ったらしい」
「うわ。最悪な女。男にだけ働かせて金を搾り取って遊びまくるってやつ?」
「やろうな。男は自分の財布って思ってるんやろ?」
「まぁ、話を聞いてる寺川も含めてあの2人は、とくにそんなタイプやしな」
「救いようが無いってやつ?」
2人はクスクスと笑って1階で降りた。私も1階で降りるつもりだったが予定を変更して地下1階まで乗ることにした。何故だかわからないが、妙に気分が悪くてイライラしたのだ。
たしかに、敦子や由美は友達として、大人として出来が悪いと感じるとことが多々あるとは思う。
それは私や先ほどの前川兄弟2人にもあるべきところではないだろうか?世の中に、本当に完璧に『大人』と呼べる人間がいるのかどうか、とても疑問に思う。それに他人を馬鹿にして笑いものにしている人間のどこが『大人』なのだろうか。
しかし、そんな2人に対して何も言えない自分はもっと子供に思えた。人から嫌われるのを極端に避けたがり、何事に対しても怖がりで一歩踏み出すのにもかなりの時間を必要とするような最低な性格だ。
そうだ、あの少女の言う通りだ。私は八方美人で、陰ではあらゆる人を嫌っているひどい人間だ。
武藤はどうしてそんな私が「強い」と言うのだろうか。本当にさっぱりわからない。いや、彼女は所詮、職場での付き合いでしかないから、実は私がこんなに卑怯な人間だということに気がついていないだけなのかもしれない。
家に帰ると、推し測ったように祖母から連絡がはいった。何事かと通話ボタンを押すと、
『半年ぐらい会ってないから心配で眠れない』と大げさな話を始めた。そして、相変わらず「えぇそうなの?」と大げさに話を返さなければ、機嫌が悪くなり癇癪を起されるのを避けなければいけない。
昔から続いていることで、あの時は子供心に『なんて嘘が下手な人たちで、嘘とわかっていて親身に話を聞かなければいけないなんて変な人達なんだろう』と思ったことがある。
今では人間なのだから、多少の嘘をつくということや、見栄を張るということは当たり前のものだと理解している。それにしても、この一家に関しては必要以上に家族間でも嘘や見栄を張り合いながら共同生活していることが不思議でならなかったし、非常に疲れるのではないだろうかと心配したことがある。
「今日はどうしたん?」
『ちゃうねん。保彦が機嫌悪いから理由聞いたら会社潰れたっていうからびっくりしてな』
「そうなんや。で、どうするって?」
保彦とは私の父のことで、今は祖母と叔母と3人で暮らしている。だが父は、穂斗山家始まって以来の偏屈屋で、一緒に暮らしているのに自分の部屋に勝手に電話線を引いたり、洗濯物は一緒に洗いたくないと毎週コインランドリーに通っているそうだ。
なおかつ、祖母や叔母の洗濯物を雨が降っているからと取り入れることもしない。
何故か?と祖母は父に尋ねたことがあるそうだ。さすがに共同生活をしているのだから、雨が降っていて洗濯物が濡れていると気づいているのなら部屋に取り入れるとか、屋根のあるところへ移しておくなどをするのが普通ではないだろうか。
そんな事を祖母が言った途端、父は激しく怒り狂い、足の悪い祖母に対して胸倉を掴むような勢いで言い放ったそうだ。
「一緒には暮らしているが、面倒をみるとは言っていない」
「そういう問題とちゃうやろう?庭に置いてた洗濯物なんて、周りの人が気を使って入れてくれたんやで?」
「俺のものでもないやつを、俺が気を使ってみてやらなアカンなんて誰が決めたんや」
祖母は怒り狂った父に恐れをなして、それ以上何も言えなくなったそうだ。祖母も叔母もこれを機会に、父とはほとんど口を聞かなくなった。
しかし、大ウソつきの祖母のことだかた実際は何処までは本当の話で、どこまでが嘘なのか判別は付かない。だが、あの父親のことだからそれくらいのことは平気で言うだろうと思っている。
『とにかく、職安行って探すって言うてるわ。』
「あ、そうなんか。まぁずっと同じ屋根の下で、一緒に過ごすよりは気が楽やろう?」
せやなぁ、と祖母はボンヤリと言う。それでも父の持病である糖尿病のことが心配なようで、就職先が見つかるのかどうかや、父くらいの年齢でも仕事はあるのか?などを私に聞いてきた。
残念ながら、私は職探しの専門家でも何者でもない。ただの子供から大人になろうと必死に毎日生きている人間というだけで、祖母が安心するようなことを言うことはできない。
「根気強くやっていけば、今よりは収入が減るかも知れへんけど見つかるんちゃう?それは本人次第やろう?」
『せやけどな。あんた、なんかエエとこ知らんか?』
「悪いけど、私は職安の人間でもなんでもないから。それならおばあちゃんも一緒に職安に行って、相談すればええやん」
父のことをそれくらい心配しているということを、私にではなく本人に言えばいいではないかと提案したが、「そんなことしたら、怒鳴られて終わりや」と祖母は笑った。
たしかに、父はプライドが非常に高い人間だから他人に心配されるということが耐えられないだろうと思う。だからこそ、酔っ払っては私が眠っている時間を見計らっては留守番電話サービスに何度も恨み辛みを残してくれる。
私が男性に不信感や、嫌悪感を抱くのはこんな父親や母の浮気相手を見て過ごしてきたからだろうと妙に納得している。
結局、祖母の話はそれから30分間も続いた。話が終わった後は、冷え切って伸びきった美味しくないラーメンを、大好きな刑事ドラマを見ながら食べることになったことをいつか祖母に話してやりたいと思う。
それは祖母に対して、最大限の嫌味のつもりだ。
「おばあちゃんは、あんなに貴方を心配してるのにね」
私の背後から急に声が聞こえた。驚くことはない、あの少女だ。その少女がいったい誰なのかも私は知っている。
「あんたにイチイチ言われなくても、分かってるから」そうっとしておいてと言うが、案の定、彼女のおしゃべりは止まらない。
「あの男も、敦子さんも武藤さんも…お母さんもお父さんも、おばあちゃんもお兄ちゃんも妹もみんな、あなたを今まで無事で生かしてきた人たちなのに。」
「知ってる。そんな人たちを嫌っていることが、どれだけ酷い行いなのかも知ってる」
「そうかな?でも、誰かに感謝しながら生きたことってある?ないよね?口だけだよね?」
そうだと答えて、冷え切ったラーメンを啜った。本当に美味しくない。どうしてこんなに美味しくないんだろう?長電話で麺が伸びたことも原因だろうけど、私の荒んだ卑劣な心が味を台無しにしているのかもしれない。
「これから、どうするの?」
私はようやく彼女に向きなおって言った。
「あなたの言うように、誰かに感謝していきたい。形では表現できなくても色んな気持ちと努力で報いたい」
すると彼女は笑って言った。
「その気持ちが本当なら、私はもう出てくることはないと思うよ」
私は彼女がもう二度と出てこないことを願いながらしっかりと頷いた。
● 2011年:8月頃(現在)
翌日、ウッカリいつも通りに出勤してしまい、例の男と同じ電車に乗ることになってしまった。岸辺駅の改札口付近に彼らしき姿を見つけたので、少しだけ改札付近で時間を潰して、いつもの電車が発車するのを確認してから改札口をくぐった。
そして、念には念をと思い、いつもと反対側の階段から大阪方面のホームへ降りた。いつも通りに小説の内容に集中していたせいで、隣に男子高校生2人が来ていたことに全く気がつかなかった。
「あのぉ…お姉さん?」
私は一瞬、自分が声をかけられたことに気づかず、というか人違いだと思ったので一度目の声を無視した。しかし、もう一度少年たちから声をかけられた。
高校生に声をかけられるなんて絶対に有り得ないし、ここで道を聞くにしてもおかしいだろうと思いつつ、声のするほうに顔を向けた。
すると、2人の学生はニヤニヤと笑いながら「これから何処に行くんですか?」と私に聞いた。平日朝の8時台だ。社会人として約10年間も、電車通勤を同じ時間帯にしているのだから「会社に向かう」以外に目的は無い。
少年たちにはできる限り丁寧な口調で「会社に行きます」と答えた。
すると2人は、例のスーツ男と同じように意外そうな表情をして「大学生じゃないんですか?」と聞き返してきた。
生憎、私は高卒なので大学に行くことはあり得ない。なんだか可笑しくて思わず苦笑した。
「そうですよ。もう社会人になって随分経ちますよ」
「うわ、ごめんなさい。大学生かと思ってました」
「よく間違われます」
私がそう返事すると、2人は何かに納得したように頷き、私のことを何度も頭のてっぺんからつま先までを嘗め回すように見ていた。何だか居心地が悪くなったので、失礼しますと断りを入れて別の場所へ移ろうと思ったが、2人は待ってくださいと私を静止した。
「高校生って、やっぱり子供ですか?」
その質問に対して、できる限り配慮をした回答をしなければいけないと思い、私は少し考えてから答えた。
「外見は大人に見える方もいますけど、社会人と学生とでは圧倒的に考え方に差があると思います」
「ということは、やっぱり子供っぽいってこと?」
「成長過程の大人子供というところでしょうか。未熟な点もありますけど、自分なりに人生について考えて、行動しようとしているところは社会人1年目の自分と重なるところがあります」
彼らと話をしながら、昔の事を思い出していた。必死で働いているつもりでも、結局は先輩や上司たちに助けられていた自分の姿。そして、挫折しては、励まされて少しずつ社会を学んで今までやってきたこと。
物思いにふけっている私をしばらく見ていた彼らは、更ににやりと笑って言った。
「年下って興味ないですか?」
私は一瞬、何を言われているのか検討がつかず、困惑しながら首をかしげた。 すると、1人が携帯電話を取り出して連絡先を教えてくれないかと言った。
頭の固い私は初対面で名前を名乗って挨拶もしていないのに、しかも素性もわからない大人と連絡先を交換しようとする学生の気持ちが全く理解できなかった。
「初対面の大人に軽々しく交換なんてするもんじゃないですよ」と、つい強い口調で行ってしまい、恥ずかしさのあまりその場から移動しようと試みた。
それでも彼らは引き下がらず「軽々しい気持ちではない」と言い、「大人の女性と付き合いたい」と言った。
恐らく、彼らは若くて身勝手でプライドだけで生きているんだ。そんな彼らが周囲の人間に見られている場所で、大人の地味な女に簡単に断られたということが許せないのだろう。このままでは示しが付かないのようで、一向に引き下がる気配がない。
そういう身勝手な考え方や、自分のプライドと我儘を制御できないところが「子供」と思われる証拠だと言いたかったが、これ以上「頭の固いおばさん」というレッテルを貼られると困るので必死で我慢した。
気が付くと彼らは私の正面と背後にさりげなく移動して、逃げ道を塞ぐような行動をとっていた。
周りに助けを求めようにも、他の誰もが聞こえているはずの会話を気づかないフリをして、見てみぬフリをしている。面倒はごめんだと言わんばかりの表情で、助け舟を出すような人なんていない。
結局、電車が到着したところで慌てて女性専用者に乗り込み、彼らを振り切ることに一時的に成功した。それでも、隣の車両から2人の姿を確認することができるし、相手も私の姿を確認することができる。
唯一の救いは、彼らにも少しは「女性専用車」についてのルールを守ることができると言うところだった。
私は大阪駅で降りると、彼らも大阪駅で降りているのを確認した。何とか彼らを撒いて会社へ行かなければ駄目だと妙な気合いを入れた。
「まじで?次は高校生かぁ」
何とか男子高校生を振り切り、会社へたどり着いたところで光井と松岡に出会った。もちろん、今朝のことについて2人に愚痴を零した。
すると、松岡は「外見が若すぎるからだ」と大笑いし、光井も「年齢のわりに本当に若く見えるからねぇ」と、苦笑しながらも「お疲れ様」と、私の朝からの苦労をねぎらってくれた。
「これなら、あのスーツ男のほうがまだ良かったわ」
「せやな。明日も待ち伏せされてたら最悪やもんなぁ」
「でも、次はその高校生から逃げ切れへんかもねぇ」
「相手も顔を覚えているし、次は正攻法で来るかなぁ?」
「やめて。怖い話すぎる」
「でも、本当に気を付けないと駄目やからね」
「そうそう。未成年も社会人も、年齢なんて関係なく我慢ができない人間が多いからね。我儘を爆発させて攻撃的になることもあるよ」
「そうだ忘れてた」と私は途端に顔が真っ青にして光井や松岡を見た。そんな私を見て、2人は心底同情したようだ。
「とにかく、一人にならないようにしないとね」
「駅員がそばにいるところで電車を待つってどうかな?」
「人が大勢いる場所で並んで待つとかねぇ?」
2人の提案は、残念ながら岸辺駅では通用しないということを今朝のあの様子で実感している。それに、大阪であってもまだまだ発展途中の田舎街の駅なので、大阪駅や新大阪駅のように、ラッシュ時間に駅員がホームにいるようなことはなかった。
結局、その日の仕事中は「怪我もなく華麗に逃げ切る作戦」ばかりを考えてしまい、8時間の就業時間いっぱいを悶々としながら過ごす羽目になってしまった。
「あ、やっぱり昨日の説教女や」
昨日の「華麗に逃げ切る作戦」を決行したものの、健闘むなしく翌朝は例の高校生2人に見つかってしまった。
昨日の電車より1本早めの電車に乗ろうと思い、いつも以上に周囲に注意しながらホームに来たはずが大失敗だった。
それに良く見ると、昨日出会った2人のうち1人は初めて見る顔だ。なにやらコソコソと2人で話をしたあと、やはりこっちに近づいてきた。何やら物騒な雰囲気で、気味の悪い笑顔を向けて歩いている。歩く姿も子供が虚勢を張っている大股、がに股姿で「間抜けな姿」と思いつつも、面倒なことになりそうだと一気に不安が押し寄せてきた。
どうしようとオロオロしながら周りを見ても、やはり誰も関わりたくないと言わんばかりに見てみぬフリをしている。
こうなれば、何とかのらりくらりと話を交わして逃げ切ろうと腹を括ったところで、高校生とは全く別の方向の斜め左後ろから手が伸びてきた。その手が私の腕を取り、腕の主のほうへグイッと引かれた。そのまま地面に倒れると思ったが、まったく倒れることも無く人間の体にぶつかった。
「すみません」と後ろを向くと例のスーツ男が立っていて、私に向かってニッコリと笑って見せた。そして、高校生をジッと見つめながら「いえ、俺は大丈夫です」とだけ答えた。しばらく2人と1人がにらみ合っていたが、やがて高校生はホームに到着した電車に乗り込んで行った。
私はといえば、スーツ男から「この電車には乗らないほうがイイ」と言われるがまま、無言で何度も彼に向かって首を縦に振っていた。
電車が出発した後は、朝の通勤ラッシュ時であっても少しの間だけホームが無人になる。私はこの瞬間が何となく好きだった。
高校生から逃げ切れたという安心感もあって、思わず大きく深呼吸した。
そして例のスーツ男に助けてもらったことを思い出し、彼に向きなおって「ありがとうございました」とお礼を言った。すると彼は笑って言った。
「いや、本当は俺ってば逃げ出したいくらいに怖かったんです」
「え?そうだったんですか?」
「朝っぱらから喧嘩なんて物騒な話でしょう?」
「高校生に絡まれて大丈夫ですか?」と彼は私に聞いた。私は「喧嘩」という言葉に違和感を感じたものの、あの雰囲気ではそう思われても仕方がないと思ったので、「大丈夫です」と答えた。
彼と次の電車を待っている間、「どうして助けに来てくれたのか」と尋ねた。
彼がちょうど駅のホームに着いた頃、ちょうど目の前のカップルがヒソヒソと私と高校生を見ながら「喧嘩かよ」と呟くのを聞いたという。朝から物騒な話だと思いつつ、カップルの視線の先を見ると、まさに私が男子高校生2人に立ち向かおうとしているところだったという。
「別に立ち向かったわけではない」とは言ったものの、彼曰くあの瞬間の私の姿は周囲からは喧嘩腰に見えたという。
「でもね、女の子ひとりでね、たとえ相手が年下の高校生でも男の子2人でしょ?果敢に立ち向かおうとしてるって、普段やったら絶対に見られへんでしょ?」
まあそうだ、と私は彼の率直な感想に同意をした。意識したわけでも、ワザとでもなく彼から言われたことに対して素直に反省した私を見た彼は、笑って話を続けた。
「それに危ない目にあっていたところを助けた後やったら、お礼に連絡先とか聞いて、なおかつデートに誘いやすくなるでしょ?」
「デートですか?」
「そうです。でないと、また電車の時間をずらされたり、車両を乗り換えるとかで逃げられたりするでしょう?」
電車が到着するまでの間、私は「デート」という単語をその後2回繰り返して彼に確認した。
女子学生がお好みのはずの彼が、どうして社会人○年の干物女の代表格である私を誘うのだろうか?これはもう何らかの計画が裏で実行されていて、私の頼りない臓器が数週間後には海外に売り飛ばされているんだとか、とある小説の主人公のように事件の犯人に仕立てられるのではないだろうか、はたまた、私に盲目的な恋をさせて貯金を巻き上げようとしているのだろうか?と、まさにテレビドラマや小説の影響を受けた夢のような考えしか思いつかなかった。
会社につくと一目散に光井と松岡に今朝の出来事を報告していた。私の朝の出来事を2人に報告することはすでに日課になりつつあった。
「で?何て答えたん?」
私は助けてくれたお礼はしたいと思っていたので、連絡先はスーツ男に伝えたと返事をした。ついでに彼の名前が「野田」だということも報告した。
「ああ、もうこれは…ねぇ?」
「恋の始まりと言うやつですね?」
2人はニヤニヤしながら私の話を半分は冗談で半分は真面目に聞いていた。しかし、私は心の中で問題はこれからだと考えていた。
私は恋ができない。誰も信じてくれないが、本当にまったく恋ができない。いや、恋と言う言葉の意味を理解していないという表現のほうが正しいかもしれない。
その原因は意外に簡単なもので、ただ単に私が自分以外の人を信用していないだけだ。自分以外の会社の同僚や上司、友人と家族も信用していない。ましてや信頼なんて言葉を誰にも使ったことがない。
たしかに仕事を楽しいものにしたいから、同僚たちと積極的にコミュニケーションはとるし、悩みがあれば相談もする。ときには相手の悩みを親身に聞くこともする。
でも、目の前にいる松岡や光井が、いつか私を裏切って罠にはめたり、母のように金銭を要求して挙句に行方知れずになるかわからない。
だから、いつの間にか上辺よりも上の次元で付き合うことを学び、私生活にはできるだけ他人を入れないようにするようになった。
目の前の人たちに裏切られたときに、避難場所がなければ砕かれた心を隠す場所がなく苦しいから、住所だって曖昧にしか答えないし滅多に連絡先を交換しない。
他人とは必要最低限の関わりだけに留めて、いつかこの場所を離れる時が来た場合に悲しむことがないように努めている。きっと自分の弱い心を認めたくないから、人恋しい性格だと思われたくないからだろうと思っている。
その弱い心は、とにかく恋愛に関しては極端に逃げ腰状態になっている。友達付き合いよりも深く付き合わなければいけない関係になることが、とにかく恐ろしくて仕方がない。できれば、そんな恐ろしい関係のない人生を送りたいと願っている。
私は努めて冷静に2人に言った。
「1回だけデートしたら、相手も満足してそれで終わると思うよ」
「そうかな?そうでもないんちゃう?」
松岡はなおも笑って私の意見に反論した。野田は私が自分を避けているということを知っていた。それだけでも、野田の私に対する執着はかなり強いという。普通は避けられたと分かったら諦めるのに、それでも毎日探してはきっかけを作ろうと必死になっていた。
光井も松岡と同意見で「きっと良いことが待っている」と私に言った。
それでも、彼の事で少しだけ気になることがあった。
彼の外見はとても清潔で、誠実な雰囲気だった。スーツもかなり丁寧に手入れをしているようで、皺一つ見当たらなかった。
それはつまり、彼の世話をする人物がいるのではないだろうか。たとえば、両親や恋人、もしくは奥さん。私は2人に自分なりの見解を言うと、少しだけ俯き加減になり何かを考えているように思えた。
私が色んな言い訳を言葉で紡いでいることが、嫌になり始めたのか光井がこう言った。
「そんなに誰かと深く関わるのが怖いの?」
怖い?と私が鸚鵡返しに言うと光井はゆっくり頷き、松岡も同じく頷いて私をみていた。
「だって、さっきから必死にその人を避けようとか、その人から逃げようとしてない?」
「そ、そんなことないよ。だって、お礼もまだちゃんとしてないし」
「だったら、お礼をするってことで1回だけでもデートすればエエやん」
たとえ彼に恋人や妻がいても、今ならたまたま同じ場所で相席して話をしただけと割り切って考えることができないかと松岡は言った。
「怖いと言うよりも、人を好きになりやすいから極端に避けるんじゃないの?」
松岡の的の射た言葉に一瞬虚を突かれた。そして、図星を隠すために何か言い返したかったが、そこまでムキになる必要もないと「もしかしたらそうかもしれない」と答えた。
そんな私と松岡のやり取りをジッと観察していた光井は、突然「あっ」と声を上げ、にんまりとしながら私を見た。彼女は満面の笑みを浮かべながら松岡と私に言った。
「あのね、あくまでたぶんの話やねんけど」
「うん。なに?どうしたん?」
「京ちゃんはその人のことが…もう好きなんやと思う」
私も松岡も、突然の切り出しに目をパチパチとさせた。
「そうじゃなかったら、悪いほうへ考えて相手を自分の懐に入っても平気だし、ご飯を食べるだけのことを必死で避ける必要ないやん。それにその人が結婚していようが割り切って話せるしねぇ」
私はほとんど恋愛経験がないので、「割り切って付き合う」という意味も分からないし、複数の事を同時にやるという器用なことができない。
『男女が2人きりで食事に行く=付き合っているか、結婚している。もしくは人には言えない付き合いなのか』にしか分類できない。男女の友情なんてありえないのだと思っている。
「今の状態のままやと、京ちゃんの印象は駅のホームで会う可愛い子のままでいられるやん」
「い、いや。可愛いかどうかは知らんけど」
「素顔の自分を知られて、その人に嫌われたら傷ついちゃうからね。だから、距離を置きたいんじゃないの?相手を想像だけの世界で思っていたいんじゃないの?」
光井の推理は正解だった。たしかに人との距離を急激に縮めて仲良くなる前に、裏切られたり嫌われたらどうしようと極端に避ける。
たかがお礼のためのデートなのに、それがきっかけでスーツ男と付き合うことになるわけもないし、お互いが恋愛感情を生む結果にはなるはずがない。そんな夢の世界が現実に起こりうるわけがない。
「京ちゃんって、ホントに人との関わりを極端に避けたがるよね」
「あんまりポジティブに考えようとはしていないよね」
「そうかなぁ?」
そうだよ、と松岡に釘を刺された。それでも2人は優しい笑顔で私にこう言った。
「大丈夫。その人は、実家暮らしでお母さんとか家の人が身の回りの世話をしてくれてるんやと思うわ。」
「せやな。そうでないと、遊びのためだけに必死で逃げる女の子を捕まえるために厄介ごとに首を突っ込まんよなぁ」
「とにかく、メールでやり取りする。それで、相手のことを探るところからはじめるってことやん」
「それでさ、実は遊びたいだけで誘ってきててさ。私が軽そうとか思われてるとかないかなぁ?」
私がそう言うと「そこがよくない」と2人に散々力説された。結局、話の続きは昼休憩の時間にしようということで一旦は終了した。
昼休憩中、突然私たちの会話に敦子が割って入ってきた。
「京ちゃん、やっぱり一緒に由美ちゃんの仕事探しを手伝ってほしいんだけど」
私以外の2人はもちろん大いに驚き、それと同時に不機嫌な表情になった。それでも敦子はお構いなしで話を続けようとする。私と光井は、隣で今にも敦子に掴みかかりそうになっている松岡と敦子の間に体を滑り込ませて「どういうことなのか?」と敦子に聞いた。
「由美ちゃんが、仕事を探す気を無くしてるの」
「それと私がどういう関係があるん?」
「それって、完全に由美さん本人のやる気の問題やろう?」
敦子が理由を話す前に痺れを切らせた松岡が痛烈に言い放った。
光井はびくびくしながらそっと松岡の袖を掴んでいる。どうやらひと悶着ありそうなのを悟り、松岡に止めるようにと無言で制止しているみたいだ。私はと言えば、松岡の言葉を無視して敦子に向き直っていた。こうなれば、とことん彼女の言い分を聞いてやろうと敦子に話の続きを促した。
「たぶんね、由美ちゃんは寂しいんだと思うの」
「寂しいってなにが?」
「今ね自分一人で仕事をしてるの。もう誰も由美ちゃんを相手にしてくれないみたいなの」
「でも同じ部署に敦子もいるやろう?もちろん、支えてあげてるんやろう?」
敦子は一瞬考え、そして「支えているつもりだが話をしていない」と答えた。
「それって、あたなの大親友の由美を切り捨てたってことやんな?」
松岡が間髪いれずに彼女に言い放った。
今、休憩室にいるあらゆる人間が私達に注目しているのというのは目で確認せずとも、はっきりと雰囲気で理解できていた。
「そうじゃないよ。もうすぐ辞めちゃうから、仲良いままだと寂しくなるでしょ」
「うわ。それって、ただの言い訳じゃない?マイナスイメージのついた人間と関わると、自分もイメージが今以上に悪くなるから斬り捨てたんでしょう?なんとも最低な行為と友情ですね」
さすがの敦子も図星だったようで、何も言い返さずに松岡とを睨んだ。
「とにかく、京ちゃんなら何とかできるんじゃないかなって思ってさ」
にっこりと笑う敦子の表情は、本当に独特で所謂「面倒なものを押し付ける」ときの表情だ。
彼女は自分がやりたくないことや、面倒な処理を任せる時に必ずこうやって「にっこり」するのだ。
「悪いけど、私は私で忙しいから付き合えない」
「でも、仕事を探してあげるだけでいいのよ?」
「だったら、最後まであんたがしたらエエやんか」
「でも、私も仕事とか色々とあるし」
「それは京ちゃんも一緒やけど?」
いつの間にか、私と敦子ではなくて松岡と敦子の言い合いになっていた。光井と私はその光景をしばらく何も言わずに見守っていた。すると、遠くからツカツカと歩く音がした。
あの足音を聞き間違えることは無い。恐らく安藤がフラフラと何かの危険信号を察知して休憩室の様子を見に来たのだろう。でも、2人の言い合いは依然として止まらずヒートアップする一方で、足音に気付く様子がなかった。
「だってさ、私も由美ちゃんのお守りとかいい加減に面倒になってきたんだもん」
「気持ちが萎えちゃってさ。仕方ないじゃん」と敦子が呟いた瞬間、松岡が敦子へ詰め寄り今にも殴り掛かりそうになった。
「何してるの?2人とも」
私も含めて全員で声の方向に振り向くと、やはり安藤がいた。険しい表情で2人を交互に見ている。敦子はバツ悪そうにして「何もしていません」と言い、私にメールするとだけ言い残してその場を去っていった。
「で?何があったの?」
安藤は松岡と光井、そして私を見てニヤリとした。私は安藤の表情をみて、本当に相変わらずの噂好きな人だと思った。
そういえばあの時も、安藤は「ばかだな」と豪快に笑ってくれた。いつの間にか、あの時の事を思い返していた。
● 2008年:10月ごろ
その日は久しぶりに兄から連絡がはいった。珍しいこともあるもんだと折り返し連絡すると、少し震えた声で「祖父が危篤状態だ」という。
そう言えば、もう半年ほど顔を合わせていない祖父。最後に会ったときは、ぼぉっと玄関のほうを見つめながら死んでしまったコロの名前を呼んでいた。
「おじいちゃん、コロやったら2ヶ月前に死んでもうたで」
「おお、そうやったか。忘れてたわ」
のんびりとした口調で私の問いかけに答えて、そして天井を見上げた。昔の祖父は大柄で力強くて大きな声で笑う人だった。
それに感動するくらいに絵がとても上手で、とくに模写が上手かった。どうして絵描きさんにならなかったの?まだ幼稚園児だった私は、ある日、祖父に聞いたことがある。そのとき祖父は大声で笑ってこう言った。
「おじいちゃんは、人の真似が得意なだけや」
「でも、絵がうまいんやったら絵描きさんになれるやん」
「そうやなぁ…じいちゃんにしか描けへん絵があったら絵描きさんになれるやろうなぁ」
「そうなん?」
「そうやで。何でも、自分にしかできへんものがあればその仕事で成功するんや」
これは大事なことやから、絶対に忘れたらあかんよ。と祖父は小さな私に言い聞かせた。その祖父が、力強くて聡明な祖父が今は私に諭されている。そんな現実が嫌で、祖父が何を思って天井を見上げているのかは考えないようにした。
「次に遊びに来るときは秋ぐらいかなぁ?」
「せやな。夏は暑いから、あんまり無理せんと家で大人しくするか涼しいところに遊びに行っておいで」
帰り際、祖父は優しく私にそう言い聞かせて細くてガリガリの腕と手のひらをゆっくりと左右に振って「気をつけてお帰りよ」と言ってくれた。
その祖父が、今は危篤状態で高槻の総合病院にいるというのだ。私は今からそっちに向かうと兄に告げて、エレベーターに飛び乗った。
心臓の音が耳や口もとでも感じ取ることができるくらいに早鐘を打っていた。
「何とか持ちこたえてくれたみたいやわ」
病院につくと祖母が目を腫らしながら説明してくれた。叔母も駆けつけていて同じように目を真っ赤にしていた。兄も落ち着かないのか、室内をウロウロしており、やがて「タバコを吸ってくる」と言い残して病室を出て行った。
「そっか、よかったわ」
「何か食べるか?」
「いや、エエわ。なんか疲れて食べる気になれへん」
私はそう言って夕飯を断ったが、「体を壊しちゃうから」と祖母は無理やり病院の売店で購入したお弁当を私に押し付けた。
そして、病室のすぐ傍にある休憩室で食べておいでと言ってくれた。仕方なく私は病室を抜け出して休憩室へ向かった。
休憩室はカランとしていて、入院患者も見舞客もいなかった。看護師や医師の声もないしテレビもついていない。何もない空間でポカンと空を見ながらお弁当に箸をつけた。
あの時、祖父母の家で最後にあった時に祖父は何を見たのだろうと考えていた。コロが玄関まで迎えに来たのだろうか?それとも、別の何かが祖父に挨拶しに訪れたのだろうか?なんにせよ、あの時の祖父が空を見つめる瞳を忘れることはできなかった。
「なんや、一人でご飯食べてるんか?」
タバコを吸い終えた兄がのんびりと休憩室に入ってきた。容態も落ち着いてるということで、安心したら急にお腹が空いてきたと私は兄に言った。
「俺も何か腹減ってきたなぁ」
「せやなぁ」
「そういえば親父やねんけど、先生に呼ばれて説明受けてるみたいやわ」
「あ、そうなんや」
そんな世間話をしているところに、兄の奥さんと娘がやってきた。まだ2歳の典子ちゃんは祖父の体にたくさんの管がついていて、話しかけても目も開けてくれないことがどういう状況なのかを今いち掴めていないようで「おじいちゃんが遊んでくれない」と拗ねていた。
兄の奥さんである香美さんはしっかり者で、どんな時でも冷静に状況を掴んでテキパキと行動する人だ。私より1歳年上と聞いたが、とてもそんな風にはみえない。
「ノリちゃんも、ご飯食べるか?」
「いやや」
兄が優しく娘に話しかける。肝心の典子ちゃんは、拗ねたままで頬をぷっくりと膨らませていた。近頃たくさんの言葉を覚え始めているようで「一丁前に口答えするようになった」と香美さんが笑っていた。やがて兄は娘の機嫌を直すことを諦めて、香美さんに言った。
「俺の分、あるかなぁ?」
「あ、あるよ。持ってこようか?」
「うん、腹減った」
「ここに持ってきて」と兄は香美さんに告げて、典子のお守りを交代した。
そんな典子ちゃんは、時々しか現れない私に未だに慣れないようで、私が話しかけてもほとんど聞こえないくらいの小さな声で返事をしてくれる程度だ。
「そりゃあ、あんたは大人に話しかけるみたいな口調で話しかけるから驚いてるんちゃうか」と兄に言われたことがある。
正直、これでも気を使っていると言いたかったが、冷静に考えてみると話すスピードはゆっくりだけれども、口調は兄や祖父母達と話しているのと大差なかった。子供とのコミュニケーションは難しいなと心底感じた。
「それ、美味しい?」
ふいに典子が私のお弁当を指差し、恐る恐る私に聞いた。とても美味しいと言うと「よかったね」と答えてくれた。それからすぐに香美さんが兄と典子の分のお弁当を持ってきた。
典子もどうせ欲しがるだろうと思い、余分に持ってきたようだ。予想通り、典子は「私も食べるの」と言い、香美さんから自分用のお弁当を受け取った。2歳の子供では食べきれる量ではない大きなお弁当。結局、兄が典子の残飯処理も担うことになった。
「じゃあ、夜も遅いし駅まで送るわ」と、帰り際に父が私に言った。珍しいこともあるものだと思った。父は今まで自分の子供に関心が全く無く、何が起こっても「俺は関係ない。こんな風に育てたのはお前の責任だ」と母に全てを押し付けていた人だ。「どういう風の吹き回し?」と聞きたかったが、疲れもたまっていたので、言い返す気力もなく黙って頷いた。
帰りの車のなかでは、お互いに何も話すことが無く無言が続いた。そして父が独り言のように呟いた。
「あんなに頑固者やったのに、病気って酷いもんやな」
私は何も言えなかった。父と祖父は仲が悪くて、笑顔で話しているところを見たことがなかった。それでも父にとっては、祖父は自分の父親なのだから突然こんな事態に陥ってしまうなんて思っていなかったんだろう。
父は今、何を思いながら車を運転しているんだろう。返事を返すべきかどうか悩んだ末に「そうやな」とだけ呟いて、それ以上は何も言わないことにした。
次の日の朝、上司である中川に祖父の容態を簡単に告げて、緊急事態の場合には早退させてほしいと頼んだ。中川は間髪入れず「遠慮せずにそうしてくれ」と言った。
昼休憩のときも私は病院にいる祖父のことで頭がいっぱいになり、ご飯もほとんど味がしなかったし食べること事態が億劫になっていた。
「ほら、食べないと元気でないし午後からの仕事がきついよ?」
松岡が心配そうにまだ手をつけていないお弁当と私の顔を交互に見ながら言う。伊藤や光井も一緒にいて、有名女性歌手の電撃結婚の話題で盛り上がっていた。私も何とか元気を取り戻そうと、その話題に必死で喰らい付いているものの、何だかポッカリと中に浮いている気分でいた。
その日の仕事が無事に終わり、ロッカーでいつも通り携帯のチェックをすると叔母からの着信があった。急いで架けなおすと「容態が急変した」と告げられた。叔母の声はかなり震えているようで、事態が芳しくないことを暗に知らせていた。
私は持ち物を無理やり鞄に詰め込んで、慌ててロッカールームを後にする。敦子がすれ違いざまに「どうしたの?お手洗いなら…」と何か言っていたが、それ以上は耳に入ってこなかった。
大阪駅の改札は毎日大混雑でなかなか改札をスムーズ通ることができないはずなのに、今日に限っては何の障害もなく通ることができた。
京都方面のホームに着くと、私が到着するのを待っていたように電車が到着した。
そのまま順調に摂津富田駅まで私を運ぶと、ラッシュ時の改札口渋滞もなくすり抜けて、タクシー乗り場に直行した。たまたまタクシーが1台だけ乗車待ちをしていた。
私は運転手に行き先を告げたあと、せめて私が病院に着くまで持ちこたえてほしいと願った。
そう言えば、昨日の帰り際に父は「次に容態が急変すると、助からないかもしれないと言われた」と言っていたことを思い出していた。
車の渋滞もなく、信号も全て青で停車することもなく病院へ着いた。
病室へ直行し、ドアを思い切り開けて「おじいちゃんは?」と聞いた。予想以上に大きな声を出していたようで、祖母も叔母も驚いた表情で振り向き私を見た。病室には他に香美さんと典子ちゃんもいた。兄と父はいない。
ベッドをみると祖父が変わらずそこにいて、ぐっすり眠っているように見えた。助かったんだと思ったところで祖母が口を開いた。
「ちょうど今。逝ってしもうた」
「今?」
「ほんまに、あんたと入れ違いで担当の先生と看護師さんが出て行ったんよ」
「今、慎三があんたのお父さん呼びに下に降りて行ったわ」
「あんた、会わへんかったんか?」
私は無言で何度も頷き、祖父の足元にある椅子に座り込んで泣いた。祖母が何か話しかけているが全く耳に入ってこなかった。
目の前に広がっている光景が、まるで嘘のような世界に見えた。あの祖父が逝ってしまうわけがない。力強くて「京は本当に可愛い孫や」と、いつだって私の味方でいてくれた祖父が、私を待たずに逝ってしまうわけがない。
それでも間に合わなかった悔しさと寂しさを何処にぶつければいいのか分からず、大阪駅からタクシーまでは順序良く進んだのに、最後の最後にどうしてこんなに間が悪いのだろうと自分を呪った。
「京ちゃんがもうすぐ来るでって言うたら、そうかって言うて」
祖母はすでに覚悟していたようで、意外にもしっかりとした口調で私に語りかけてた。
「あんたはどこにいるんや?って聞いてて、会社からここに向かってくれてるって言うたら安心したみたいやわ」
祖父は祖母の言葉を聞くと、いつもの寝顔に戻ったという。そしてゆっくりと全身の力が抜けていき、握っていた拳も徐々に力がなくなっていき、やがて全ての動きが止まったそうだ。
「あんたが来るって分かったら、もうそれだけで十分幸せになったんやわ」
泣き崩れて何も答えることができない私に何度も祖母は言って聞かせてくれた。一番辛いのは祖母なのに、その祖母が必死で私を励ましながら祖父の最後の言葉を伝えてくれている。
私は祖父に一生分の「ありがとう」と伝えることができず、ただ悔しくて泣いた。
祖父母宅に住んでいたころ、近所に友達がいなくて一人で人形をもって遊んでいると「一緒に遊ぼうか」と画用紙を持って部屋に来てくれた祖父。テトリスが大得意で高得点を出しては、兄や私に自慢げに話してくれた子供のような祖父。
バレンタイン・デーに、ミッキーマウスのチョコレートを渡すと大事そうに透明のセロファンに包み、ずっと神棚の横に飾っていた祖父。
私が「チョコレート食べないと勿体無いよ」と言うと、「食べるのが勿体ないねん」と答えた祖父。
私が母に叱られているのを見ると「ええ加減にせぇ。身勝手な叱り方をするな」と誰よりも最初に怒鳴ってくれた祖父。私がやりたいことがあると相談すると「好きなようにしたらエエから」と言い、私の味方になってみんなを説得してくれた祖父。
家族から煙たがられていた私を「京ちゃんは可愛い子や」と言ってくれた祖父。
どうしてきちんと「今までありがとう」と言えなかったんだろうと後悔した。本当に祖父とは二度と会うことができないんだと思うと、何とも言い表せない気持ちが溢れてきて、ただただ大声で泣くしかできなかった。
しばらくすると、担当医と看護師がやってきた。祖母に悔やみの言葉を述べて私達家族に向き直った。
「最後のお別れとして、お一人ずつお声掛けしてあげてください」
「でも、じぃじは聞いてくれるん?」
幼い典子が自分の母に聞いていた。すると医師は「うん、好きな人たちの声はいつまでたっても届くもんだよ」と優しく言った。
まずは祖母、そして叔母と父が続いた。それから医師は、小さな水差しで唇を潤す程度に水を飲ませてくださいと言った。
兄が呼ばれ、祖父の枕元に立った。無言で祖父を見つめている時間がしばらく流れた。気の短い祖母が「何か言いや」とブツブツと呟いていた。
「じいさん、おつかれさん」
必死で絞り出した兄の声は、思っていた以上に震えていた。兄は両親が離婚した後、数年間は祖父母と父と叔母と一緒に暮らしていた。その時にあった色んな思い出を思い返しては、最後の言葉を考えに考えてようやく出てきた言葉。
兄から聞いた言葉の中でも、今の「おつかれさん」という言葉が一番重みのある言葉だった。典子と香美さんが後に続いた。彼女もまた、病気がちの祖父と過ごした時間を思い返して涙を必死で堪えて「今までありがとうございました」と声をかけた。
「妹さんもどうぞ」
担当医師は私を見ていった。恐る恐る祖父の枕元に近づく。未だに死んだということが信じられない私は、しばらくの間祖父の顔を眺めていた。もうしばらくすれば目を覚ますかもしれないと思えるくらいの安らかな寝顔だった。
「何か言いや。」と祖母の声がする。叔母が祖母を小さくたしなめるのを横目で見た。
叔母は平気な風を装っているが、誰よりも祖父の傍にいて病院の付き添いや、いつ訪れるか分からない別れをずっと考えていたんだろうと思う。父を見ると呆然としていて、私と同じく祖父が死んだ事実を受け入れることができないでいるようだった。
私は医師から差し出された水差しを持った。それほど重くは無いはずなのに、水差しを持つ右手が小刻みに震え始める。左手で零れないようにと右手を抑えるけれど、その震えは止まらない。
祖父の口元に水差しを当てて少し傾ける。動くことの無い口元と首元をみる。
ああ、やはり祖父はもう目を開ける事は無いんだと理解できた。
「ご、ごめん。ごめんね、間に合わなくて」
私の目から塩くさくて化粧の匂いをたっぷり含んだ涙が頬を伝った。医師は優しく「いいえ、間に合いましたよ」と声をかけてくれた。
でもその言葉は、医師ではなく祖父から聞こえた気がした。いつも間の悪い私に対して「気にするな」と言ってくれた気がした。
「帰るってどうやって帰るん?」
医師と看護師が病室を去って行った後、病院の職員が入れ替わりに入ってきて、私達家族は一旦病室から出て行くようにと言われた。祖母だけは病室に残り、荷物の整理や着替えの手伝いを申し出た。私は叔母から「これからじいさんを帰宅させる準備に取り掛かる」と聞かされた。
「体を綺麗に拭いて、病院服から着替えさせて、病院の車で家まで送ってくれるんや。明日は葬儀の手配とお寺にも連絡せなあかん」
叔母は涙をぬぐいながら丁寧に説明してくれた。
「ほんまに、あんたに電話してすぐに逝ってもうたわ」
叔母はポツリと呟いて、そしてまた泣いた。典子は状況がいまいち飲み込めないでいるようで、「じぃじは?」と何度も自分の母に聞いていた。
葬儀の場所とお通夜の日程が決まった頃、祖母から「あんた喪服、持ってるんか?」と聞かれた。私はもちろん、こんな日がくるなんて思っていなかったので「持っていない」と答えた。
喪服については叔母のお下がりを借りることになり、数珠についても昔購入したものの紐が切れてしまって使いものにならないので借りることになった。
「なんかさ、全部借り物やなぁ」
「そら、しゃあないわ。いきなりやねんから」
逆に準備万端のほうがびっくりするわ、と叔母は言った。それもそうか、と答えたもののせめて数珠くらいは用意していたほうが良かったかもしれないと反省した。祖父に対して、借り物の私の姿は非常に失礼なことではないかと思ったが、「お前はいっつも適当やなぁ。その肩の力がぬいた感じが、一番ええけどね」と祖父が言った事を思い出した。
これが私のいつもの姿なのかもしれない。いつも借り物ばかりで自分の物を持たない。だから、後腐れなく捨てることができるし、思い入れもない。
自分の部屋につくと、愛犬が死んでしまった時以上に空虚でカランとした部屋に思わずため息が零れた。
「あなたらしいよ」と声が聞こえた。部屋の隅には、例の少女が立っていた。いつものような嫌味な笑顔で出迎えることなく、ただ、じっと私を見つめていた。
「そうかな?何も自分らしいものをもってないのに…」
「それが、あなたらしいの。それでいいよ。そのまんまでいいから」
「よくないよ!」気が付けば私は叫んでいた。そして、涙を流していた。
少女は無言で私を見つめて言った。「貴方の心は届いてるから、大丈夫だよ」
少女はそのまま消えていった。帰りを待ってくれる誰かがいない部屋がこんなに寒いものだと初めて感じた。
「べつに2日間休んでも大丈夫やから。今日も早退してもええよ」
次の朝、会社に出勤してすぐに中川に祖父が逝去したこととお通夜の日程について相談した。お通夜の日は休みをもらったものの、本葬日まで休んでしまうと仕事にも支障が出るので休みではなく午前中までの早退扱いになった。
「会社としては、べつに問題ないけど…本当に大丈夫?」
たしかに、私の顔は疲れ切っていて仕事どころではないと思われていたのだろう。
私は公私混同して仕事の質が落ちる人間とは思われたくなかったので「大丈夫です。無理なときは無理と言います」と中川に言った。
「そうか、あんたは仕事があるんか」
お通夜が終わった頃に、明日は仕事があるので途中早退で葬儀に参加すると告げると祖母が落胆した表情をうかべた。
「あんたも生活が厳しいもんなぁ。せやなぁ、一人暮らしやから大変やもんなぁ」
祖母は祖母なりに、一生懸命に私の現状を理解してくれようと努力していたんだと思う。私は祖母は会うたびに、高齢者特有の身勝手な言動や我侭な行動に悩まされていた。
私はそのおかげで徐々に祖父母宅へ足が向かなくなり、穂斗山の家にいる大人のようにはなりたくない、こんな人たちが自分の家族だということを認めたくなかった。
しばらくすると「仕事なんて、やめたらええねん」と誰かが呟いた気がした。誰だろう?と思い周囲を見渡すと、ちょうど妹がやってきたようで何やら叔母や兄たちと挨拶していた。おそらく兄たちの言葉じりを聞き間違ったのだろうと思い、気にせず人数分のお茶を汲もうと給湯器のあるところへ行った。すると、今度ははっきりと「仕事なんてどうだってええ」と聞こえた。しかも声の主は祖母だった。
さすがの叔母もこれに気付いたようで「どうしたん?」と祖母に駆け寄った。
「京ちゃん、明日の仕事を早退してくるんやって」
「そうか。まぁ、契約社員やから融通きかん所が多いのに、ええ会社やなぁ」
「会社なんて、気に入らんかったら辞めたらええねん」
小さな体で、ヨボヨボの体であんなに大きな声が出るなんて誰も想像していなかった。そこにいる誰もが硬直して祖母を見た。
「そんなわけにはいかんやろう?」
呆然としている私たちをよそに、父が祖母に向かってきつい口調で言い放った。「考え方が身勝手すぎる」と祖母に言い放ち、「あの子の気持ちも考えろ」と言った。
祖母はその後もモゴモゴと何か言っていたようだったが、もう誰も聞いていなかった。私は私で、なんとなく居づらくなったので葬儀会館2階の休憩室へ行くと叔母に言い残した。
ミルクと砂糖がたっぷりはいったコーヒーを購入して、ぼぉっと窓の外を見ていた。
あの場にいた誰もが、我儘なのは祖母ではなく「仕事が大事」と宣言している私だろうと思っていたに違いない。契約社員でも時給制なら就業時間が少ないほど月給が減っていく。こんな時、有給申請の許可がすぐに下りる正社員が羨ましく思えた。
「ばあさん、いつもの我儘が始まったな」
物思いにふけっていると、兄たちがぞろぞろとやってきた。私と同じく自動販売機でジュースを買い、窓の外をみんなで眺めた。
典子は「ファンタがいい。ファンタがいい」と香美に訴えているところで、あいにくお目当てのファンタがないとわかると一気に不機嫌な表情になった。
「ほら、別の飲み物やったらあるよ」
「オレンジのやつがいい」
典子が嬉しそうにオレンジジュースを受け取るのを見守りながら、私にもあんなに可愛らしい時期があったのだろうかと考えた。
私が典子ぐらいの時からは、すでに可愛げのない憎たらしい子どもだと母親に嫌われていた。昔の写真を見ても私が笑っているものが無く、いつも暗くて陰気な表情をしていた。
それでも私は、一度だけでもいいから母や父に「可愛い」とか「良い子だ」という言葉がほしかった。それから、兄や妹らと同じように愛してほしかった。
典子の育っている環境を見て、改めて「羨ましい家族だ」と感動した。
その日の夜に夢を見た。夢の中での私は、典子と同じくらい幼い姿をしていた。そして、祖父母の家のリビングでテレビを見ている。
母親が外出する時には一緒に連れて行くのは兄と妹だけで、私は祖父母の家でこうやってテレビを見ながら留守番をしていた。あの時の寂しい気持ちが心の中に広がった。
すると突然、目の前に祖父が現れた。私は「おじいちゃん」と呼びかける。祖父は私をみてニッコリ笑い何度も頷く。その表情は実に嬉しそうだった。
「おじいちゃん」と何度も呼びかけるが祖父は返事をしない。嬉しそうにしきりに頷いた後、リビングを出て行ってしまう。後を追いかけたくても夢の中では自由がきかない。私はリビングからずっと「おじいちゃん」と呼び続けている。
「それ、おじいさんが君に会いにきたんじゃないの?」
仕事の合間に、ぽつりと夢の話をしたところ安藤が唐突に言った。
やはり最後に会えなかった私に何か言いたいことがあるんじゃないだろうかと心が痛んだ。
「たぶん、最後にどうしても顔を見たくてさ。」
そういう不思議な現象を聞いたことがあると言い、にこやかな表情は「本願を果たせてお祖父さんは満足したよ」と言った。
「本願と言っても」と私は口ごもり、実際には会っていないし、何も話せていないことをやはり後悔した。
「それでもお祖父さんは、夢のなかで孫に会えたことで幸せだと思ったんじゃないの」
私は祖父にとって、良い孫という存在だったのだろうかと考えた。そしてその考えを安藤は見事に察知した。
「君は変わり者だけど、それでも必死で生きて、仕事して活躍してるんだから。そんな君を自慢の孫と思わない人はいないよ」
私は安藤を凝視した。彼は本心を言ってくれているのだろうか?と疑わしかった。
うわべだけの言葉なら、安藤の表情を見ればすぐに見ればわかると思った。でも、安藤のポーカーフェイスからは嘘を発見することはできなかった。ただ、とても優しい雰囲気だけは発見できた。
それだけで十分だった。彼は最後にこう言ってくれた。
「世の中には色んな人間がいるからね。家族のなかでも、異分子と呼ばれる人物が必ず一人はいるもんだよ。俺もそうだったからね」
「そうなんですか?」
「そうだよ。家族とは意見も生き方も全てが違っていて、よく衝突していたけどなぁ」と懐かしそうに遠い目をしていた。
「安藤さんが?衝突していたんですか?」
「そうだよ。時々、自分の生き方や歩んできた人生を間違ったように思ってしまうことがある」
この人でも私と同じように考え込んでしまうことがあったんだと、妙に感動してしまった。
「だからこそ、周りの人間の動向とか発言や噂には敏感だったりするんだ」
そして安藤は「君もお祖父さんも似たような変わり者だったとする」と付け加えた。
「類は友を呼ぶって言うでしょ?だからお祖父さんだけが、君の寂しいとか苦しいという気持ちを感じ取れたんだよ。だから、今の私の気持ちを誰よりも心配して夢に出てきたんじゃないかな?」と柄にもないことを言ったあと、余程照れ臭かったのか「用事を思い出した」と言い、妙に大きな声で笑いながら部屋を出て行った。
私の祖父は決して変わり者ではなかったが、いつだったか私の母と祖母に怒りながらこう言っていたのを思い出した。
「あの子は世界で一番可愛い儂の孫や。なんか文句あるんか」
もしかしたら、祖父は私の前では凡人いたものの実は物凄く変わり者だったのかもしれない。こんなに阿保で醜い私を「可愛い」というのだ。でも、安藤の言葉も信じてみたくなった。そして冷静に考えてみると、安藤の発言はすこぶる失礼だったような気がする。
それでも偏屈で阿保な私にとっては心が温かくなる言葉だった。まぁ松岡に後で報告したところで「ただの失礼発言やんか」と笑われるだけだろうと思った。 帰り際、松岡とも少し世間話をしていた。そこで「京ちゃんはいつでも一人きりやから心配で天国に逝きづらかったんちゃうか?」と言った。
「あんまり一人で抱え込まんといてね」と松岡は私を気遣い、温かい言葉で何度も励ましてくれた。
祖父の夢については、その後も2度3度と間隔をあけて見ることになる。そのたびに安藤の言った言葉を思い出す。
祖父の夢の中での優しい笑顔と、安藤の素っ気なくも温かい言葉に、その後も幾度となく励まされ続けた。




