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あの時の偶然で今の私がある

 ● 2007年(入社当時)


 大阪駅の桜橋口から数分の場所にある会社は、高層ビルの上層階にあり、しかも3フロアを借り切って、それぞれの電話窓口業務やホームページ作成などの代行を行っていた。私は何のとりえも無く、将来に何の夢も希望もないまま就職活動をしていた。

 そんななか、子供向けゲーム会社のホームページ作成や電話窓口業務の募集があると派遣会社から話をもらい、何となく面接を受けることにした。

 「こういったところでの仕事は初めてですか?」

 「はい、対面での接客業は何度か経験していますが、電話での接客サービスは経験がありません」

 「それでも、ここに応募してくれた理由はなんでしょうか?」

 面接官の男性は、優しい口調で私に聞いた。私は元々人見知りでオドオドしているところがあるが、今回に限っては面接官の優しい雰囲気のおかげで、終始リラックスするようにと関係のない世間話をしながらの面接になった。

 私がこの会社の面接を受けた最大の理由は、子供向けゲーム商品の案内というところだった。私自身が大人になりきれず、子供のようにゲームに夢中になるところがあるし、まだまだ大人になりきれていない考え方が業務内容において大人の視点とは違った見方ができるのではないだろうかと思ったからだ。

 彼は私の話を一通り聞き終わり、履歴書を見ながら何度か頷いたあと、『結果については電話でお知らせいたします』と言い、約40分程度の面接は終了した。

 完全に失敗した面接だったなと後悔しながら、帰宅した後、新しい仕事を探してもらうために派遣会社へ連絡を取った。電話を終えるとすぐに、面接先からの着信があった。

 慌てて通話ボタンを押すと、優しげな女性の声で『明後日の入社前の説明会に来ることはできますか?』と聞かれた。

 私は「もちろん可能です」と答えて、明後日の説明会に必要な必要な書類の確認をして電話を終了した。そしてすぐに派遣会社に連絡しなおして、新しい仕事を探してもらわなくてもよくなったと伝えた。


入社説明会当日、私を含めて9人が会議室で就業前の研修スケジュールや、研修担当者やその他の注意事項の説明を受けた。

 なかでも、隣同士になった中野という女性とはすぐに打ち解けることができた。愛読書や好きなドラマ、俳優など似通ったところが多く、帰りも同じ方向でますます仲良くなった。

 「本格的な研修は週明けの月曜日からやけど、気の合う人がいてくれてよかったわ」

 「それは私も。一人だけ場違いで、浮いてたらどうしようかと思ってたし」

 「そうそう!何か居心地悪い雰囲気とかね」

 新しい職場で期待と不安を持ちながらも中野という心強い仲間を得られたことで、私は新しい仕事について前向きに考えることができるようになっていた。

 卓上研修が終了すると、すぐに現場での研修に移ることになった。現場といってもオフィス内で、電話の応対やパソコン画面の見方、クライアントからのメッセージ確認、休憩時間の管理などの簡単な説明で1日目は終わった。あとは実践あるのみということだ。

 「何だかすごく軽い研修だけで、本格的に仕事に入るなんて不安だらけじゃない?」

 「うん、でも実践で経験を積むほうが私には合ってるかなぁ?」

 「うんうん。京ちゃんってそんな性格な気がしてた」

 中野と一緒の帰り道、明日からの現場研修のことで不安や期待を言い合っていた。そのなかでも何より悲しかったのが、お互いの出勤時間や配属先が違うことだ。

 最初は全員で同じ部署で電話応対から始める。次に成長度合いによって、より活躍できる部署へ配属される。そこではじめて本契約となり、今の安い時給からワンランクアップする。

 「明日から頑張ろうな」

 「うん。辛いことがあったら、いつでも相談してな」

 「わかった。遠慮なく相談する」


 敦子に出会ったのは、現場での研修当日だった。ひと際大きな声で、笑い、話し、そして色んな人に愛想を振りまいている。私は直感的に仲良くなると少し面倒な子だろうなと思った。

 事実、ほとんどの人が彼女を良く思っていなかった。ただし、仕事はできるので、そういった面では彼女は大変重宝されていた。

 「そっかぁ、こういう仕事初めてなんだ」

 「はい、事務って色んなことを一挙に引き受けて、何というか器用な人じゃないとできないんじゃないかって思ってます」

 「でも、穂斗山京さんって器用な感じがする」

 「そんな雰囲気を出してるだけですよ」

 「そうかな?人当たりもいいし、絶対に向いてる仕事だと思うよ」

 「そうですか?そんな事は考えたことも無かったです」

 「うん、絶対そうだよ。もっと自信持っていいよ」

 当時の私は、いや今の私もあの頃の彼女の励ましの言葉で何とか仕事をやってのけている。『自信もっていいよ』『人当たりがいい』なんて、何処の誰にも言われたことがない最高の褒め言葉だったからだ。

 午前中の研修は、敦子が対応している内容をモニタリングして疑問点があれば質問するという内容だ。詳しい説明は、研修直前に責任者からの説明があると聞いている。

 「ところで、お昼ご飯は誰かと食べるの?」

 「いえ。同期の子は短時間勤務なので、短時間休憩なので昼食は一緒にはとれないんですよね」

 「じゃあ、一緒に食べる?」

 敦子の提案に、当初の私は「ぜひ」と言いたかったが、何となく違和感を感じたので丁寧に断った。その違和感がぬぐい切れ無い限り、私は彼女とは一歩異常の距離を置いた間柄で居ようと思った。

 午後は私と中野だけ別室に呼ばれて、しばらくここで待つようにと言われた。私達は妙な不安と緊張を覚えてそわそわと落ち着かない様子でいた。

 「もしかして、研修段階で契約終了とかかなぁ?」

 「うん、何かあんまりピンとこない研修ばっかりだし、質問攻めにしすぎて評判悪くなったかもねぇ」

 「明日からさぁ、また職探しかなぁ?」

 「うん、ほんまに困ったなぁ」

 しばらくすると、責任者の安藤がやってきた。この日が安藤との初めての対面だった。笑顔の少ない威圧感のある男だと思った。責任者としては、うってつけの相手だとも感じた。

 「すみません、遅くなりました」

 開口一番、安藤はそう言って簡単な自己紹介をしてくれた。

 意外にも私達の名前を覚えていて、どちらが中野でどちらが穂斗山なのか区別をついている。

 「実は、2人には研修トレーナーをつけて早急に現場で働いてもらおうと思ってます」

 「どういうことですか?」

 「午前中の就業態度や、洞察力についてもモニタリングトレーナーに聞いたけど、かなり優秀だと伺いました」

 「そうですか?」

 私の記憶の中では仕事中の相手に対して散々な質問攻めで、迷惑をかけたくらいしか覚えていないのにと疑問が芽生えた。そのことを率直に安藤に言うと、彼は意外にも笑顔を見せた。

 「その質問というのも大事なもので、一連の流れが理解できてこその質問だと思うんだ」

 「それで、トレーナーをつけて対応トレーニングを始めるんですか?」

 「そういうことです。恐らく基礎は他の方よりもしっかりできているようなので、あとは応用にそれをどれだけ活かせるかを確認して、本格的に現場で働いてもらうことになります」

 安藤からの説明は約20分ほどで終了し、その後、新しいトレーナーを紹介されて研修を再開したのだった。

 「よかったなぁ、てっきり退職手続きを取らされるのかと思った」

 帰り道では中野がそう言った。私も同じくそう思っていたので、安藤の意外な言葉を未だに信じることができなかった。

 実際に午後からの研修は本当に1回1回の対応の段取りが悪く、落ち込むほどだった。それをトレーナー達が見事に褒め上げて育ててくれたおかげで、何とか自分の中で小さな希望と自信を持ち始めていた。


 翌日、私はロッカールームで由美と出会った。ロッカーが近いこともあり、研修初日から挨拶程度の会話はしていたが、きちんと顔や名前を認識するのはこれが初めてだった。

 「新しい人って、あなただったんですね」

 「え、まあそうですね」

 「何か、貫禄があるって言うか落ち着いてる雰囲気があるから、ベテランの方が異動で来たのかと思っちゃいました」

 「貫禄、ですか?」

 「うん、何かねぇ…よくわかんないけど。大きい感じがした」

 「はぁ。ありがとうございます」

 「うん。気にすることないよ、大丈夫だし」

 気さくな反面、会話の内容の構成が分かりにくく適当な子だという印象を受けた。噛み合わない会話の間も笑顔を絶やさないところは、本当に可愛らしい子だとわが身を振り返ってみて見習ったほどだ。

 「で、いつから一人で仕事するんですか?」

 「昨日からようやく研修トレーナーがついたので、まだまだ先じゃないですか?」

 「そうかな?意外に早そうな気がする」

 「はあ、ありがとうございます」

 「うん、頑張ってね」

 そう言って元気よく朝から駆けていった先に居たのが敦子だった。なるほど、たしかに彼女の友人なら納得がいくと思った。どうやら私のことを話しているようで、ちらちらと2人でこちらを何度か見ているが、気がつかないフリを通して研修室へ向かった。

 あの時の2人の言うとおり、私と中野はそれから1週間後に一人で電話対応を巻かされることになった。

 事実上、研修完了となったのだ。

 それでも心配なので、いつでも相談できるようにと、固定席が決まるまでの間は責任者の傍に座らせてもらえるようにお願いした。

 「もう1人で電話の応対してるよね。凄いね、仕事能力が高いんだね」


 ある日の帰り際に敦子が突然、私の傍に来てそう言った。私は「ありがとう」と答え、まだまだ未熟なところがたくさんあると呟いたのがきっかけで、「何か相談に乗れることがあったら」と外食を誘われた。

 断る理由もないので、すんなりと受け入れて敦子がお勧めする洋食レストランへ行った。するとすでに由美と全く面識の無い男が3人いた。

 「あ、新人さんだ。お疲れ様です」

 由美はすでに酔っ払っているのか、上機嫌で挨拶をしてきた。私は雰囲気についていけず、どうもと答えて、言われるがままに席に座った。

 「普段は何してるんですか?」

 「買い物とか、やっぱり大阪?」

 「あ、でも吹田なら京都も近いやんな」

 「南辺りとか、あんまり出かけないほう?」

 矢継ぎ早に男性3人に質問攻めにあい、とりあえず、大阪や京都には定期的に買い物や観光で出かけることと、大阪の南へはあまり出かけないことを答えた。 すると3人は納得したように頷き「南っぽくない雰囲気やし、どちらかというと北とか京都っぽいな」と妙な感想を言われてしまった。

 残念ながら後の会話については全く記憶に無いが、二度と行きたくないと思ったことと、何故、中野を誘わなかったのかという疑問が脳裏をよぎっていた。

それについては、中野から別の形で答えを聞くことになった。

 

 「昨日、あの問題児たちと外食したらしいやん」

 「問題児って?」

 次の日の朝、中野に呼び止められてこう切り出された。何のことかと聞きなおすと、彼女は大きな声では話しにくいが、とにかく、あの取り巻きは仕事の能力は優秀ではあるが、素行が悪いと人事部から目を付けられているということらしい。そして、あまりかかりあいにならないほうがいいと忠告された。

 その問題児達については『ここに勤めている全員が知っている』とさえ言われた。だったら何故、私はそんな噂を全く耳にすることなく過ごせていたのだろうと思った。

 「うちについたトレーナーの人、あの問題児達のおかげで上がったクレーム処理にかなり迷惑してるらしい」

 「え?優秀なのにクレームなわけ?」

 「色々、優秀なだけに相手の気持ちを逆撫でするんちゃうの?」

 「へぇ、そうなんや」

 「とにかく、付き合うなら別の人たちと付き合ったほうが良いから」

それだけ言って中野はトイレに行くからと私をロッカールームに残した。今日の業務内容の確認のために席につくと、隣の可愛らしい女性が肘で私のわき腹をつついてきた。


 「なんですか?」

 「あいつらと仲いいの?」

 「あいつら?」

 彼女は私の理解力の遅さに痺れを切らし、敦子たちのことだと言い直してもう一度『仲が良いのか?』と聞いてきた。私は昨日一度だけ食事に誘われたので、断る理由も無いからとご一緒しただけだと告げた。

 すると彼女は安堵したように言った。

 「あの人たち、本当に評判悪いから。仲良くなるだけで、あなたの評判も悪くなるよ」

 「は、はぁ?」

 「だから、できるだけ他人行儀で付き合って、食事なんか断ったほうがええわ」

 「そうですか?」

 彼女は力強く頷き、無駄話はここまでと、自分の業務内容のチェックに戻っていった。私も自分の業務内容のチェックをしながら『交友関係を制限するなんて、学生気分じゃないんだから』と半分呆れてつつも、もう半分は中野や彼女の忠告に対して肝に銘じることにした。

 「こっちで一緒に食べない?」

 昼休憩時間になり、ご飯を食べようと休憩室へ行くとすでに食事を取っていた敦子に誘われた。中野と約束をしていると断りを入れてその場を後にしながら、これじゃああまりにも失礼じゃないだろうかと少しだけ反省した。


 「京ちゃんさ、あの問題児にかなり好かれてない?」

 別の日、あらゆる処から私と敦子のことを聞いているようで中野は楽しそうに私に聞いた。私も否定はしなかった。

 敦子と言う人物と由美という人物が、妙に躍起になって私を仲間に引き込もうとしているのも丸分かりなのだが、私の「1人で食べたいです」という頑なな態度で嫌がっているということに気づかないほうが可笑しいと思ったからだ。

 「うん。何だか、会話もあんまり好みじゃないと思ってるんやけどね」

 「まぁ、向こうは聞き上手な京ちゃんが気に入っちゃったってことやな」

 「難しい人間関係やなぁ」

 「ほかのグループに入る前に、必死で自分達の内輪に入り込ませて遊び仲間に紹介しまくるんやろうな」

 「あ、遊び仲間?紹介?」

 中野はさらに色んな情報を他のスタッフから聞いたようで、何でも遊び仲間の男に紹介してはくっつけたがり、失敗すれば散々なほどに責めて反省させる。そして、もう一度他の誰かに紹介して・・・ということを繰り返しては、男女問題で退社する人を生み出しているそうだ。

 「それって、お節介な迷惑野郎なだけじゃないの?」

 「でも、それが自分達にとってのコミュニケーションなんやろうね?」

 「結婚紹介所のつもり?」

 「そうなんちゃう?まぁ、金銭を要求せえへんだけ良いけど。」

 「そういうもんかな?」

 「うん。そのかわり、あの子らの周りの男に散々遊ばれるかってことやろ?」

 あまり食事時間向きの素敵な話というわけではないので、この話は早々に切り上げてさっさと食事を済ませた。

 午後からは中野の隣の席に座ることになり、快適に過ごせたが敦子からの熱い視線は痛いほど感じていた。

 「ねぇ、あの中野さんって友達なの?」

 帰宅時間も中野と一緒になった私はトイレに行くと言った中野を待っていたところ、敦子がやはり話しかけてきた。同期で何でも話せる友人だというと、意味ありげに頷いてこう言った。

 「彼女って、何だか性格悪そうじゃない?あんまり付き合わないほうが良いよ」

 そういうあんたのほうが性格悪そうだねと言いたいのを我慢して、「あ、そうですか」と言い、早く会話を切り上げたいという雰囲気を出した。しかし、敦子は全く気づいてくれないようで、中野を置いて一緒に帰ろうと提案した。これについてはさすがに頭を悩ませた。

 「中野は一番頼りにしている友人なんです。折角ですけど遠慮します」

 「そうなんだ。残念、また今度遊ぼうね」

 敦子とすれ違いで戻ってきた中野に苛立っている気持ちを隠すことなく先ほどの会話を聞かせると、本当に予想通りの面白い反応をしてくれた。

 あの性悪女だとか、私以上に性格悪いじゃん、などとブチブチ呟き、今まで以上に仲良く話してくれるなときつく注意された。


 でも、それ以降も幾度と無く話しかけてくる敦子には、うんざりしながらも今まで付き合ってきたのだから、結局、私は中野の忠告は全く役に立っていなかったのだろう。

 実際、中野とは別々の部署への配属となり、昼食時以外はほとんど話さなくなってしまった。もちろん、そこには敦子も由美もいない。

 私の配属部署には鈴子や他の仲間がいた。おかげで、敦子とは適度な距離感を保ちながら友人関係を築いてきた。おかげで、妙な紹介所まがいの行為も何もされることなくやってきた。今は敦子が窮地に立たされて、助けを求めてくるようになってきている。

 正直言って、周りの評判ほど悪い性格ではないと感じていた。たしかに、自分勝手で人の話を全く聞かないし、自分が一番大人で魅力的な女だと自覚していると堂々と豪語するタイプなので他人からは驚かれるだろうけど、それでも一緒にいて楽しいと思えるところは何度かあった。


 あの頃は「何でもかかってこい」という気持ちと、夢や自分の気持ちを全て投げ捨てて投げやりな気持ちで生きていた気がする。今ほどは幸せな気持ちで、仕事があるということに感謝していることは無かったと思う。


 ● 2011年:7月頃(現代)


 由美の解雇通告事件は、翌日には会社全体に広まっていた。そして、誰もが納得したような表情で頷いたり、中には「今頃なんて、対応が遅すぎる」と不満顔の人間もいた。

 どうやら由美たち迷惑な世話焼きの犠牲者が多数いたようで、ずっと心にそのわだかまりや嫌悪があったのだろう。松岡も同期の男性が一人、彼女達のおかげで会社を辞めることになったことがあったという。

 悲しいことに、彼女の解雇について悲しんでいるのは誰もいなかった。敦子さえも、明日は我が身と言い、彼女には励ましの言葉を二言三言かけるだけで、それ以降はあまり彼女に関わらないようにしているのだと意気揚々と話していた。

 そんな敦子を見ると、社会でも学校でも、友情なんてものは全く当てにならないものだとつくづく感じた。

 「あの子はとってもいい子だけど、態度が悪いし仕方ないよね」

 「でも、ずっと昔から一緒にいて仲良かったよね?」

 「だって、態度が悪いから直してあげようと思って一緒にいただけだもん」

 私が一生懸命にお手本を見せてあげてるのに直さないのが悪いと開き直った表情であっさりと言ってのけた。


 「さすがにあの子の解雇ってなると、色々と反響がくるね」

 安藤は飄々とした顔で、新しい業務スケジュール確認中の私達のところへ来て言った。

『こうなるって知ってたんでしょう?』と言いたかったが、誰も何も言わずただ苦笑いを浮かべるだけだった。

 「穂斗山さん、寂しいとか思ってる?」

 安藤はニコニコしながら私に聞いた。何て心無い質問なんだ、と思いながらも私はできるだけ冷静に頷き、寂しくないといえば嘘になるが何とも言いにくいと答えた。

 だが、私の顔は嘘をつけない正直な作りなので、結局すぐに「内心ほっとしている」という気持ちががばれてしまい、「何だ、内心ほっとしてるんじゃない?その顔」と言い当てられてしまった。

 やがて安藤が去ると、光井や松岡が『気にするな』と元気付けに来てくれた。そしてこうも言った。

 「京ちゃんは他人思いやし、他人事でも気に病むところがあるからさ。今回のことも妙に気にしてるんちゃうかって、安藤さんも心配で様子を見にきたんやと思うよ」

 「うん。安藤さんって、冷たい上司って感じの割りに気を使うところがあるもんなぁ」

 「そうやね。きつい言葉を使う割に、周りに気を使う人かな」

 安藤という人間は、私をからかうためだけに、自分の仕事を放棄してやって来たのではない。仕事もそっちのけで、由美のことを心配して落ち込んでいるかもしれないと思ったのではないだろうか。

 私は持病にてんかんを持っているし、社会に出てからは生活に気持ちが追いつかずに軽度のパニック障害と診断されていた。

 このまま仕事を続けることができるのか心配になったとき、唯一相談していた相手が安藤だった。彼は笑顔で「そんなことは気にするな。気持ちが楽になるような補助ならいくらでもする」と言い、私のストレスが少しでも減るようにと、今の部署へ異動させてくれたのだ。

 安藤はそんな私の身を案じて、様子を見に来てくれたんだろうと密かに感じていた。


 「由美ちゃんが、仕事探ししたいってさ」

 松岡たちと休憩中に突然、敦子が唐突に話しかけてきた。

 彼女は私が松岡たちといる時に限っては、松岡が苦手なのか相性が悪いのか絶対に話しかけてくることがなかったのに、珍しいこともあるもんだと思った。

 私は敦子のほうへ振り向いて「そうなんや」と言った。

 「ねぇ、一緒に探さない?」

 「仕事探しを?」

 「そう。京ちゃんと由美ちゃんで探せば、すぐに見つかると思うんだ」

 私と松岡は顔を見合わせた。どうして「私と由美」だけなのか。そこに敦子の名前はどうしてないんだろうか。その疑問は敦子自身がすぐに解決してくれた。

 「ほら。私って、忙しいじゃない?デートとかあるし。でも、京ちゃんはたかが趣味と友達と遊ぶだけでしょ?暇なんだからできるじゃない」

 「だったら、あんたも暇だね。男と遊ぶしか予定がないんでしょ?」

 松岡の痛烈な言葉に、敦子は一瞬目を見張って怯んだように見えたが、すぐに表情を元に戻すと、私にむかって話を続けた。

 「だめかな?悪い話じゃないと思うけど?」

 「由美がそれを望んでるのかな?」

 「さぁ、どうかな?でも私が言うんだから問題ないよ。」

 そう言って、私の腕を引っ張った。「今から探そう」というのだ。

 「ごめん、昼食中だから後にしてくれない?本人に聞いてないなら、尚更、お節介すぎるよ」

 「でも、私は今すぐ探してあげたいの」

 「だったら、敦子さんは敦子さんで探してあげたら?」

 痺れを切らした松岡が、ゆっくりと大きな声で敦子に言った。敦子は信じられないものを見るような表情で松岡を見て、そして私にもう一度言った。

 「じゃあ今から、私と一緒に探さない?もう次は無いよ?」

 「次はない」の「次」とは一体何のこと?と聞きたかったが、話が伸びると松岡の機嫌も悪くなると思い「うん。私は、松岡たちに相談したいことがあるから。自分のことで頭がいっぱいなの」

 本当にごめんと呟き、敦子から松岡たちへ視線と体を向き直した。

 すると敦子は怒ったような口調で「だったらもう、私と友達なんて言わないでね」と言い放ち、後姿でさも「ぷりぷり怒っています」という雰囲気をワザと出しながら私の元を去っていった。

 松岡は呆れ顔になり「京ちゃんから敦子さんが友達って紹介されたこと無いけど」と大声で去っていく敦子の背中に言い放った。すると敦子が振り向いて松岡を睨んだ。松岡も負けじと、じっと敦子を睨んでいた。

 私も光井もあたふたするだけで松岡のシャツの袖を何度か引っ張って止めるように訴えた。

 ふと周りの同僚たちを見ると、松岡の意見に同意しているのか、それともただ面白がっているだけなのか、敦子のほうを見てクスクスと笑いをかみ殺していた。休憩室にいる全員が、敦子から発せられる奇天烈な言葉を待っていた。

 しかし、敦子は何も言い返さずに休憩室を出て行った。

 「何だか空気が淀んでない?」

 敦子と入れ替わりに休憩室へ入ってきた安藤が開口一番にそう言った。

 それから、新商品が地下のコンビニに並んでいたので思わず買ってきたと言い、休憩室にいたスタッフに一口サイズのチョコレートを「一人1個ずつだ」といいながら渡しはじめた。

 さすが管理職ともなると突飛な大判振る舞いをするもんだなと、安藤の行動に感心していた矢先、松岡の一言で私の感心していた気持ちが一掃された。

 「安藤さんて、あの商品の限定のトースターがほしいって、応募シール集めてなかった?」

 「ああ、だからあんなに大判振る舞いなんや」

 私達3人は、安藤の突然の登場と新商品チョコの配り歩きの理由をあれこれと推理していた。

 やがて安藤が私たちのところへやってきた。案の定、「一人1個ずつだから」とチョコレートを配った。

 「なんか、大変そうだったんだって?」

 「え?なんのことですか?」

 「さっき、あの女と言いあったって聞いたけど?」

 「さぁ?全く覚えてません」

 「あ、そうなの?穂斗山さんの親友、だっけ?」

 「いや、もう違うみたいですよ」

 「え?そうなの?その情報は聞いてないなぁ?」


 その後は、安藤と松岡の軽快なトークに右往左往しながらも、私も光井も休憩をそれなりに快適に過ごすことができた。徐々に敦子の化けの皮が剥がれ始めていると感じたのは、恐らく私だけではなかった気がする。

 少なくとも中立の立場にいた光井も同じように敦子の皮の捲れる音を聞いた気がしてならなかった。


 翌朝、いつもどおりに駅にいると同じように男性が横に並んだ。例の男だと思った。じつは昨日、松岡たちに相談していたのはこの人物のことで、何だか気味が悪いと話したばかりだった。


 「会話のきっかけを作ろうとしてるんじゃないの?」

 「何のために?」

 「そりゃあ…京ちゃんと、仲良くなりたいからやろ?」 

 「なんでさ?」

 「え?可愛い、からやろ?京ちゃんが」

 「…でも、朝の駅のホームで会うだけの人なのに?」

 そこまで言うと、松岡と光井は呆れ顔で「だから鈍感は困る」と苦笑した。何のことか全く理解できず、2人の見解を待つことにした。

 「随分前から見つけてたんやと思うよ」

 「そうなんかなぁ?」

 「ようやく話しかけるチャンスができたのにさ…そんな無下にされて、可愛そうなチャレンジャーって感じ」

 「でも、めげずに話しかけてくるってことは、そういうことやと思うよ」

 だから「一体、どういうことなのか」と聞いても、結局2人はきちんとした答えをくれず、とりあえず簡単な会話をしてみろと言った。

 簡単な会話すら無理だと思うなら、乗車時間を毎日すこしずつ変えて避ければいいというアドバイスをくれたというのが昨日の昼の休憩中の話。


 今、隣にいるその男性は、しばらく何も言わず私の様子を伺っているようだ。

やがて痺れを切らしたように、私の目線近くまで顔を下げて声をかけた。

 「あの、本当にこの前はありがとうございました」

 「え?この前ですか?」

 「小銭の事です」

 私は「ああ」と答え、「ご丁寧にありがとうございます」と返した。すると彼は嬉しそうに笑った。その顔が何とも言えず私の心をくすぐった。

 彼の外見を改めてみると、この前とは違って気味の悪い印象はなくなっていた。

 二重まぶたにぱっちりとした瞳、180㎝はある身長と男性としては細身に見えるが、肩幅が広くてがっしりしていて頼もしさを感じた。

 「あの、いつも何処までいくんですか?」 

 「あ、ああ。私は大阪駅までです」

 「大阪駅ですか?」

 「そうです。駅の近くに会社があります」

 「え?会社?学校じゃないんですか?」

 彼は驚いた表情で私を上から下まで何度も見返した。どうやら私のことを学生と思っていたようで「会社にお勤めなんですね」と言い直し、つい先ほどまでのフランクさがなくなった。

 たしかに私は29歳のわりには幼く見られてしまうことが多い。極まれに居酒屋の受付で「身分証の提示をお願いします」と言われることだってあるほどだ。

 「はぁ…なんだか、社会人には到底見えない外見ですね」

 「そうですかねぇ。結構、社会人経験は長いですよ」

 私は嫌味をこめて返答した。すると彼は何度も「そうですか。社会人ですか」と言い、何度も頷くとそれ以上は私に話しかけてくることは無かった。

 どうやら私のことを学生と思い込んでいたようで、彼は『学生の私』とお近づきになりたかったようだ。

 それがまさかの社会人で、しかも新社会人でもないとわかった。おかげで「仲良くなりたい」という気持ちが一気に冷めたのだろうと思った。

 かくいう私は、彼のそんな反応に少しだけショックを受けていた。やはり男の人は年齢で女性を見て付き合うのだ。だから、私のように売れ残ったような女には興味が無いんだろう。そして来月にはとうとう30歳を迎えるのだ。私にもいよいよ、一生独身の可能性が高まってきていた。 

 

 「え?じゃあ、20代だって思われてナンパされてたわけ?」

 「そういうこと」

 ロッカールームに着いて早速、松岡に今朝のホームでの出来事を報告した。正直、松岡に報告するだけじゃ腹の虫が収まらないと光井や伊藤、そして鈴子にも報告しようと思っている。

 「ばっからしい。男ってさ、近頃は女に若さを求めすぎてるよね」

 「いや男の人って…まぁ女もだけど、人ではなくて年齢と付き合いたいのかな」

 私は松岡にそんな疑問をぶつけていた。松岡は「気にするな」と言ってくれたが、私はよほどショックを受けていたようで、いつもは気にしない自分の年齢のことを仕事中ずっと考えていた。

 私がもっと若ければ、私が学生だったらあの男の人はあんなに驚かずに話を続けてくれていたのだろうか。いや、それとも私のあまりにも気のない返事にあきれ返ってしまい、話を続けるのを断念してしまったのだろうか。

 もし、あの瞬間に戻ることができるのなら、今度はもう少し丁寧に接して彼の反応を見てみたいと思った。

 「京ちゃん。お昼ごはんはどうするの?」

 昼休憩直前に、松岡と光井が席にやってきた。今回はわが部署唯一の主婦である伊藤もお昼ご飯を一緒に付き合うと言っている。どうやら、私が今朝の一件でよほど落ち込んでいると思ったのだろう。

 皆に気を使わせてしまったことに申し訳ない気持ちと、だったらトコトン付き合ってもらおうと「皆のお供をしたい」と元気よく言った。


 「でもさ、逆にそういう奴だって先にわかってよかったんちゃう?」

 「うんうん。勝手に想像してナンパして、相手が社会人とわかるとシカトする。まぁ普通は無いよねぇ」

 「まぁ、付き合ってからじゃなくて良かった」

 「そうそう。京ちゃんが、そんなアホな奴に絡まれるなんて…余程巧妙な奴やったんやなぁ」

 「いや、そうでもないんちゃうかなぁ」


 私の話を一通り聞いた後にそれぞれが思うことを話してくれたが、結局は私が恋愛下手なのでそういう人に絡まれたのではないだろうかと思った。

 29歳にもなって恋愛経験がほとんどゼロに近い私は、優しい言葉やさわやかそうな雰囲気に騙されやすいかもしれない。いや、絶対にだまされる自信がある。 

 「その人って、どんな感じの人?」

 「普通の人かなぁ。背は高かった」

 そういえば私が彼を観察していた時、彼の笑顔に心を動かされてしまったおかげで、自分の好きな特徴しか見ていなかったところも反省点としてあげられる。

 そんな偏った印象や特徴を皆に話すと、全員が揃いもそろって「ナンパ男の典型」だと口々に言い始めた。

 会ったこともないのによく言うよ、と少しだけ苛々した私は話題を変えようと伊藤に夫との馴れ初めや、いい男の見分け方などの質問をして、どうにかこうにかナンパ男の話題を見事にそらすことに成功させた。


 「でもさ、案外、明日からも話しかけようとするかもねぇ?」

 昼休憩の帰り道で、伊藤がポツリと呟いた。どうして?と聞くと、彼は私の年齢を聞いて幻滅したのか、冷たく愛想のない私がきちんと自分の話をしてくれたことに感動したのかもしれないという。

 「とにかく、思い込みは良くないと思うから。色んな可能性を考えておくのもいいかもねぇ」

 伊藤曰く、悪いことばかりを考えると表情も徐々に暗い表情になって人を遠ざけてしまうというのだった。それが本当だとしたら、私はいつまでも昔のことを思い出しては、それを理由に恋愛や人間関係から逃げ出すことを止めなければいけないと感じた。

 いつまで経っても、私は昔の私のままで何もできない退屈な人生を送ることになってしまうだろう。

 伊藤には肝に銘じると言い、どうすれば暗いもう一人の自分を清算できるのかと考えながら、午後の仕事と向かい合った。


 「京ちゃん、今日は真っ直ぐ帰るの?それとも夕飯をどこかで食べて帰ろうか?」

 ロッカールームで敦子が待ち伏せしていた。「しまった」と思ったが、すでに手遅れ状態で松岡も光井も今日だけは先に帰宅していた。

 ここにはすでに助け舟はない、と思いながら深呼吸し「家に帰って夕飯を食べる」と告げ、別れの挨拶もそぞろにロッカールームから脱出した。敦子も今回は諦めたようで追ってくる気配は無かった。

 それにしても「友達と言わないで」と言っていたのに、何事もなかったように話しかけてきたのかが奇妙で仕方なかった。


 最寄駅へ着き電車を降りると、目の前に例の男性らしき姿を発見した。もしかしたら出勤時間も帰宅時間もほとんど同一で、その中で彼は私を見つけたのかもしれないと思った。

 本当は朝のホームだけで見かけたわけではなく、帰宅中の私の姿を見ていたのかもしれない。だったらなおの事、私が学生でないことに気づけないのかと疑問に思った。

 私はこれ以上の面倒ごとは極力避けたいので、彼が行くエスカレーターは使用せずに階段を使って改札口まで行くことにした。

 少しだけ早足で階段を駆け上り、改札口まで一気に速度を速める。そして、彼が登ってくる頃には私は改札口を通過し、今更ながら家の場所を知られないためにといつもとは反対側の出口から家路へと向かった。

 駅の出口へ向かう途中、ついに好奇心に負けてしまいチラリと振り返ると、彼は気がついた様子も無く、ゆったりと定期入れらしく物を鞄にしまっていた。

 これでは私が彼のストーカーのようになっているのではないか。だとしたら、やはりこれ以上は関わらない方がいいと判断し、明日からは1本早めの電車に乗ることにした。


 「へぇ、帰宅時間もほとんど一緒なんやぁ」

 「そうみたいやった」

 翌朝、駅の改札口でばったり出会った鈴子に昨日の出来事を話すと「へぇ」と何度も私とは別の考えがあるような相槌をうっていた。

 恋愛に関しては、異性人たちとは違って価値観を押し付けるのではなく「症例」としてアドバイスをくれる鈴子の次の一声を待つことにした。

 「それって、京ちゃんのことを元々学生とは思ってないんちゃうかなぁ」

 「カマかけたってこと?」

 「うぅ…ん、言い方は悪いけどそうかもねぇ」

 そうやって会話が弾めば彼としては大成功だったかもしれないが、生憎、恋愛下手な私はネガティブに話を受け取り、嫌味な返答をしてしまったがために会話を続けることができなかったのではないだろうかと鈴子は分析した。

 「そっか。だから、何回も頷いては同じこと言ってて…」

 「まぁ、あくまで憶測やけど。今までの女性とは反応が違うから、次の一手に踏み込めなかったとかね。相手も予想外で話を上手く切り出せなくなったとか」

 「そっか。私って男の人と話すことに慣れてないしなぁ」

 「そうかな?でも、あくまで可能性の話として受け止めといてね」

 「うん、わかってる。ありがとう」

 そんなことを話しながら会社へ向かう道で、あることを思い出していた。この会社へ入社した頃、ささいな質問がきっかけで仲良くなった男性が3人いた。彼らはすでに退社しているのでもう会うことはないのだが、それでも彼らとの会話を思い出し、ホームで会った彼と比較していた。


  ● 2007年(入社から3ヵ月後)


 この顧客については私ではなく、もっと別の誰かに対応を頼んだほうが良いかもしれないとパソコン画面に映し出されている顧客情報と顧客対応での注意点を凝視していた。

 「どうしたん?」

 突然、声をかけられたので慌てて振り向くと、隣にたまたま居合わせた辰井という男性が怪訝そうに私をみていた。どうやらジッと画面を見つめたまま微動だにしない私を奇妙に感じたようだ。私は慌てて顧客画面を指差して彼に釈明した。

 「この方の対応なんですけど、私で勤まるかどうか心配なんです」

 「どんな感じ?」

 私は辰井に顧客対応注意点を掻い摘んで説明した。すると彼はしばらく考えた後、こう助言をくれた。

 「まずNGワードをメモ欄に書き出す。次に重要部分の要点をまとめる。最後はシュミレーションして、電話を架けるってかんじかな?」

 「うまくできますか?」

 すると彼は、まず私の弱腰がよくないと指摘した。注意点を頭に叩き込んで、説明が必要な部分を説明することに集中するべきだと言うのだ。それでも無理なら、合図をくれれば上司へ引継ぐか、彼が対応を変わるという。

 「まずは、君がしなければいけないことをする。それで無理なら後は、トレーナーや上席が対応するから一人で抱え込まなくて良いよ」

 「わかりました。ちょっとやってみます」

 私はそう言って、必要な部分と不要な部分を書き出し、シュミレーションをした後でようやく相手に電話した。すると思った以上にすんなりと話が進み、結果的に問題解決に繋がった。

 私が安心して電話を切ると、隣で様子を見ていた辰井が「お疲れ様、格好良かったで」と褒めてくれた。私のなかで少しだけ仕事への自信がつき、何となく彼を尊敬するようになった。


 辰井は3年前からこの会社に勤めていて、すでにトレーナーや上席の対応も任されるほどになっていた。しかし、役職としては私達と同じ役職のままで昇進を全く望んでいないというのだ。奥さんや子供がいるのにどうして昇進して、今よりもっと良い給料をもらいたいと思わないのか?といつか随分不躾な質問をしたことがある。辰井はそんな私の質問に笑って答えた。

 「小さな劇団を友達と立ち上げてて、そっちでも収入は少しだけあるからなぁ。それを本業にしたいねん」

 「あ、そうなんですか?」

 「そういうこと。やりたいことをするために、ここで働いてそれなりの給料は、毎月家に入れてるから嫁も何も言わずに着いてきてくれてる」

 「いいですね。理解のある奥さんで」

 「そうそう、俺には勿体ないくらいに気立てのいい奥さんやで」

 彼は嬉しそうにそう言って、私にはそういう「良い人」はいないのか?と聞いてきた。生憎、恋愛にはほとんど興味がなかったので「いません」と答え、今後の参考として恋愛対象になるタイミングや結婚のタイミングについて話を聞かせてもらった。

 男性側から聞く恋愛についての事や結婚についてんも考え方はとても興味深くて面白くて、色んな質問を気がつけば彼に浴びせていた。

 「意外に興味あるんだね」と彼が言ったことで、自分が興味津々に話を聞いていることに赤面し、それなりにはあるが今はそんな時期ではないと思っていると伝えた。

 「まあ、人それぞれタイミングはあるけど。時期を勝手に決め付けて割り切るのは良くないかもなぁ」

 「そうですか?」

 「うん、本当は一番良いタイミングやったはずのものを見逃すことになるからなぁ」

 「ああ、そうですよねぇ」

 彼との話もそこで終了させて、仕事に集中した。それから1時間後には、午前中の仕事もひと段落したので休憩を取ることになった。

 すると辰井は、自分の友達に紹介するから一緒に昼ごはんを食べようと誘ってくれた。断る理由は一切ないので、もちろんですと答えた。


 「あ、確か最近入った新人さんやんなぁ」

 昼休憩時に、辰井から2人の男友達を紹介された。一人はのんびり口調の五十嵐さんで、もう一人は小柄で生真面目そうな印象のある斉藤さんだ。辰井とは同期入社で、いつも昼休みには好きな野球の話やテレビドラマの話、それから辰井の舞台公演の話をしているという。

 「辰井ってさ、昔から舞台については変なこだわりがあってさぁ」

 「そんなことないけどなぁ」

 「でもそのおかげで、劇場スタッフと揉めた事あるやろ?」

 あれは照明が思ってたのと違うからって言っただけで揉めたのではないと説明するが、話を聞くと明らかに強いこだわりを持っていて、そのこだわりから逸脱すると相手が劇場スタッフであろうと観客であろうと意見するのだという。

 「それがあるからこそ、今のうちの劇団があるねん」

 「まぁ、面白いものを見せてくれるんなら僕らは何も言いませんけどね」


 斉藤さんはとても落ち着いた話し方をする人で、軽快なトークをする二人の間でいい味を出していた。のんびり口調の五十嵐も言葉のバリエーションが豊富で、聞けば心斎橋あたりではDJやイベント司会業をしているという。

 「同じような職種を本業にしてる奴って、何となく雰囲気でわかるねん」

 「本業?」

 「そうそう」

 辰井も五十嵐もこの会社での仕事は副業でしかないと言い、本業だけで生活できるように休日返上で活動をしているそうだ。

 私はこの2人がとても羨ましかった。私もいつか、舞台に立って華やかな演劇の一登場人物になりたいと願っていたことがある。でも、自分には一切の才能がないととあう大阪で有名な養成所に入って痛感したのだ。

 それ以降、表舞台で活躍するのではなく脚本だったり照明だったり、舞台の仕事のお手伝いのような仕事をしていきたいと思って現在にいたるのだ。

 斉藤はそんな2人と友達でいられることについて、とても誇らしいという。夢を追いかけて生きている人の傍にいると、自分も力が湧いてきて仕事への意欲が湧くというのだ。

 「この2人の話をこうやって聞くだけで、僕は元気になるんですよ」

 「何だか判る気がします」

 そんな感想を斉藤をしていたとき、ふと辰井と五十嵐は微笑ましい表情で見つめていたのが気になった。何か妙な気を使い始めるのではないだろうかと、変な勘繰りをしてしまうくらいの表情ですこしだけ不安になった。


 それからも何度か、中野がいない日は辰井たちと休憩時間を一緒に過ごすようになっていた。先輩であり、何かあった場合には上席として対応してくれる頼もしい3人には尊敬と羨望の眼差しを向けていた。しかし、徐々に斉藤が個人的に話しかけてくることが多くなり、時折、2人でお昼ごはんを食べるときもあった。辰井も五十嵐について質問すると、後から来ると言うが、実際に2人がくることはほとんどなかった。


「あのさぁ斉藤がね、どうやら穂斗山さんのこと結構気に入っているみたいやねんけど」

 ある日、辰井がロッカールームで私に耳打ちした。私はと言えばやっぱりそうだったかと合点がいった。こんな時は、妙な感が冴えるのが私のいいところだ。 それでも彼はただの職場の先輩であり、仕事の目標としか認識していないので何とも言えなかった。

 「あいつ、結構良い奴やし。とりあえず、2人で舞台でも観にけぇへん?」

 「2人でですか?」

 「うん、斉藤は2人で行きたいって言ってるけど」

 「それはちょっと…」

 私が困ったようにそういうと、辰井は「やっぱりそうか」と答えて五十嵐さんを呼んだ。そして、やはり3人で遊びに来てくれと言い、五十嵐に舞台チケットを3枚渡してくれた。


 「辰井くんの舞台、行くんですか?」

 昼休憩時に、斉藤が声をかけてきた。今日の私は中野と一緒に昼休憩をとっていた。会社ビルの入り口で販売していた焼きたてパンをちょうど頬張っているところだった。

 口の中にパンが残っているので、モゴモゴと話すのは汚らしいので不躾と思ったが首を縦に2回振ることで、辰井の舞台に行くことを肯定した。

 「じゃあ、一緒に行きませんか?」

 緊張しているのかそれとも平静なのか全くわからない表情で斉藤は私を誘った。ようやく口の中身がなくなったところで、「それなら五十嵐さんと3人で行くって話をしてましたよ」と答えた。

 すると、斉藤は首をかしげてこう言った。

 「チケットは当日に五十嵐さんからもらう約束ですが、劇場までは僕が穂斗山さんを連れて行くことになっています」

 「え?2人で、ですか?」

 「はい、嫌ですか?」

 斉藤は率直に物事を聞くタイプなので、私も話しやすいのだが、如何せん話題をふってもかなりズレた答えが返ってくるのでストレスが溜まる相手だと感じている。本当に2人きりになるのは極力避けたかった。

 「3人で行くほうが楽しいし、五十嵐さんの家は私の家の近くですよね?」

 「はい、でも手伝いがあるからって、当日は先に劇場に行くって言ってました」

 「だったら、私達も手伝いましょうよ」

 「ぼくと2人は嫌ですか?」

 「仕事以外のときに、2人で出かけるのは避けたいです」

 「そうですか。僕が嫌いですか」

 「嫌いとは言ってませんよ。男性と2人で出かけるのは避けたいんです。苦手なんです」

 「そうですか…五十嵐さんなら、2人でも大丈夫そうですよね」

 「…はぁ」

 その言葉に思わず中野が吹き出した。まさか、そんな事を突然聞いてくるとは想像していなかったのだろう。私も何度も「嫌いではないが、仕事以外では勘弁して欲しい」と頼み、何とかその場をやりすごすことができた。話が違うと思っているのか、首をかしげながら去っていく斉藤の後姿を見ながら中野が私のわき腹を小突いた。

 「あんなのに好かれたの?凄いね」

 「ちょっと。そう言うのやめてってば」

 「あの人、小柄で無口でコミュニケーション取りづらいって有名な人やで」

 相変わらずの中野の情報網に感心しながらも、たしかに斉藤とはコミュニケーションが取り辛いと言う意見には同意できた。彼は気に入った子を見つけては、何かと休日に出かけようなどと積極的に声をかけている肉食系のタイプだという。

 「あんたの前は、由美ちゃんやったらしいよ」

 「へぇ…あの子かぁ」

 たしかに由美は可愛いし、愛嬌があるので斉藤が好きになるのも理解できる。中野の話によると、何度か由美とデートをしたそうだが由美の破天荒さに斉藤が衝撃を受け、泣く泣く由美を諦めたそうだ。

 「さすがの斉藤さんも、お手上げの女ってやつ」

 「へぇ…すごいや」


 私は中野の情報収集能力と由美と言う人物に、素直に感心した。それは良い意味での関心でもあるし、悪い意味での関心でもある。

 「ところで、変な噂を聞いたんやけど」

 「変な噂?」

 「そう。あんたの噂」

「私の?」と随分素っ頓狂な声を上げてしまい、あわてて小声に戻してどんな内容なのかと聞いた。中野が聞いた噂によると、私と辰井が不倫関係にあるという噂がまことしやかに広まっているという。

 たしかに、中野が不在のときは辰井と一緒にいることが多いし、舞台の観劇や練習風景なども勉強のためにと見学をさせてもらっていることがある。

 でも、ただそれだけで不倫しているなんて噂がたつとは到底思えない。他に何か原因があるのではないのか?と中野に聞いてみたが、噂の出所がいつもの女のところだから経緯については詳しくは分からないという。噂の出所の人物とは、異星人・敦子や由美と匹敵するくらいに悪名高い松本という女性だった。

 彼女はコネで入社してから、たった2ヶ月で時給を格上げしてもらった挙句に研修制度をクリアしていないのに、辰井たちと同じくトレーナーとして職場に君臨している。

 彼女から仕事に対する熱意は感じられるが、噂話が何よりも大好きで彼女のおかげで妙な噂を立てられた女性2人が自主退職を申し出たことがあるのは、情報網が全く無い私でも知っている事実だ。

 「あの人、あんたが安藤さんに好印象だってのが気に入らんみたいよ」

 「え?そうなん?」

 「そういうこと。自分が一番じゃなきゃ気に入らないやろうねぇ」

 「まったく。勘弁して欲しいわ」

 「あんまり関わらないほうがイイよ。松本さんとも、辰井さんともね」

 「わかった」


 その後、松本とは話すことも接触することもなく彼女が別部署へ異動するという噂だけを耳にした。その噂通り、彼女とは顔を合わせることも無くなった。

 中野から仕入れた情報によると、このビルから少しはなれた場所の新設事業の立ち上げスタッフに任命されたらしい。安藤が言うには「あまり期待できない事業」だという。それでも、本社が新しく作ろうとしている事業にはできる限り優秀な人員を派遣したいと思ったので、松本を含め10人のスタッフが異動することになった。

 私はその説明をしてくれた後に言った安藤の一言を忘れることができない。

 「ま、松本は徐々に窓際に追い詰めて退職させるつもりだったから、ちょうど良かったよ」


 私はこの人にだけは、間違っても逆らったり気にさわるようなことをしてはいけないと心から思った。


 辰井の舞台観劇当日。予定通りに五十嵐、斉藤と合流し心斎橋までのんびり行くことになった。

 五十嵐の話によると、にぎやかな場所から少しはなれた場所にある小さな劇場らしくて、劇場についたらまずは駅から劇場までの道にある電柱に、目印となるプレートをつけて歩く仕事からはじめるらしい。よく『○○は、この先100メートル先を右に曲がって~』というポスターを貼っていくそうだ。

 「それが終わったら、役者達への昼食の調達と差し入れの調達」

 「へぇ。そのあとは?」

 「そのあとは、最終リハーサルを見学して開場まではゆっくりする」

 「何だか長い一日になりそうですね」

 五十嵐は、そんな私の言葉を笑って一掃した。むしろあっという間に時間が過ぎていくというのだ。慣れないことをするので、少しの不安と大きな期待が入り混じっていた。

 それから、できるだけ斉藤と2人にはなりたくないと、何度も五十嵐に言い聞かせた。彼は困ったような顔をして「辰井と斉藤には2人にしてほしいと頼まれた」と言い、それでも「穂斗山さんが嫌って言うならそれとなく俺が一緒にいることにするわ」と言ってくれた。


 どうやら、斉藤の件に関しては辰井も一枚咬んでいるらしかった。私は舞台が終わり次第、彼に一言文句言ってやろうと心に決めた。

 最寄駅から劇場傍までの電柱やフェンスにひと通りのポスターを貼り終えたところで、昼ごはんの準備にしようと五十嵐が言った。

 「いつもこんなに当日に忙しく動き回るんですか?」

 私は昼ごはんの調達のために五十嵐とコンビニへ来ていた。劇団員を含めて30人のご飯の調達とだけあって、かなりの量を買い込んでいる。

 「いやぁ、こういう担当の女の子が急に辞めたらしいねん」

 「辞めた?何も言わずにですか?」

五十嵐は渋い顔して「理由もなにも不明らしい」と簡単に説明してくれた。

 「そんな勝手なことをするなんて非常識にもほどがありますよね」

 「まぁでもね、他にも色々あるらしいねんけど」

 五十嵐はきっと何かを知っているんだなと感じた。そしてそれはあまり聞いてはいけないことなんだと感じたので、「そうですか」とだけ答えて終わった。しかし、五十嵐はそのまま独り言のように呟いた。

 「辰井となぁ、ちょっとできとったからなぁ」

 「え?辰井さんとですか?」

 思わず私は反応してしまい、五十嵐は「辰井には俺から聞いたって言うなよ」と釘を刺された。

 「結構さ、前から付き合ってたみたいやわ。今の奥さんより前から付き合ってたみたいやねんけどなぁ」

 でも何故か辰井はその女性ではなくて、今の奥さんと結婚したそうだ。親友の五十嵐でさえもさすがにその理由は聞いていないし、デリケートすぎて話題にも出せないと言った。

 今までの話でも十分にデリケートな話だと思ったが、五十嵐が話を続けたがっていたので敢えて止めることもしなかった。

 「ま、辰井の奥さんは結構な地主の娘やし、婿養子で割と生活は安定してるみたいやからなぁ」

 五十嵐は「人の気持ちは変り易いからなぁ」と呟いているが、恋愛経験の少ない私でも辰井が広報担当の女性よりも、今の奥さんをとったのは明らかに金銭面や生活面で楽な暮らしができるという打算的な考えが芽生えた結果だと思っている。が、まさかそんな卑しいことを言えるわけもなく「そうですよね」とだけ返事をした。

 「ところで」と五十嵐が斉藤についてどう思っているのか?と私に突然聞いてきた。五十嵐が言うには、斉藤は「今度こそ、本当に運命を感じている」と言い、何とか私との距離を縮めて恋人になりたいという趣旨のことを、五十嵐や辰井に相談しているそうだ。

 「別に試しに付き合ってみるって言うのも良いかも知れへんし、無理ならそれなりに俺達からも諦めるように説得はしてみるけど」

 どうかな?と聞かれても、私としては全く会話もかみ合わないし2人きりだと断然退屈だった。雰囲気を変えようと話題をふっても、抑揚の無い声で「へぇ、そうなんですか」とか「それ、ほんとうですか」という、話をその先にもっていくことが大変難しい返答しかしてくれない。

 彼には本当に申し訳ないが、「2人でいるのは辛いし、彼は男としてみることができない」と五十嵐に理由を全て告げて、斉藤と無理やりにでもくっ付けようとするシチュエーションを作るようなことはしないで欲しいとお願いした。


 買い物から帰ると早速、斉藤が駆け寄ってきて私たちに話した。

 「買い物に行くなら僕も行ったのに」

 「いやいや、2人で十分やったからなぁ」

 「留守番するよりも気晴らしができると思ったんですが…」

 「ごめんごめん。悪かったよ」

 相変わらずの独特なしゃべり方と抑揚のない声の斉藤は、五十嵐と私が2人でコンビニまで買出しに行ったことを、かなり根に持っているようだった。

 私は改めて斉藤を分析しているが、たとえ好みのタイプでなくても一緒にいて楽しい相手なら好かれても悪い気分にはならないが、相手が斉藤なだけに無理があるとつくづく納得した。

 小柄な体型で、女性にモテるからとスポーツジムに通って体を鍛えたり、店頭で一番人気の香水や雑誌で紹介された『モテ・アイテム』と購入して持ち歩いたりと、とにかく女性にもてたいための必死の意気込みに気持ちが引いてしまう。 そして抑揚の無い話し方は、どんな話をこちらが振っても興味が無いように捉えてしまう。おかげで話していても全く楽しいと思わないし、話せば話すほど退屈になる。その事は五十嵐も辰井も同意していた。

 「あいつの話し方は、仕事では通用するけど女の子との会話には全く不適合やなぁ」

 「わざとなんでしょうか?それとも、癖なんでしょうか?」

 「たぶん、癖やなぁ。まったく気づいてないからなぁ」


 だとしたら、まず初めに自分の話し方の癖に気づくべきだと思った。外見を磨くのはそれから先のことと思うのだ。

 「まぁ、それがあいつの良さやってわかる女の子が一番ええやろうな」

 あいつは亭主関白タイプやから注意したところでもっと頑なになるやろうしなぁ、と仕方が無いという風な口調で五十嵐が言った。

「次に買出しが必要になったら、僕も一緒に行きますから」

 さきほどの買出し事件で孤独を感じたのが余程悔しかったのか、何度も五十嵐に言い聞かせていた。私にとっては、その光景があまりにも滑稽に見えて余計に彼とはこれ以上は関わりあいたくないという気持ちが芽生えていった。

 五十嵐も「わかった、わかった」と何度も言いつつ、少しだけ呆れているように見えた。残念ながら、その後は一切買出しも無く、買い足しがあっても劇団員が「舞台用のものだから」と買い出しの度に名乗り出る斉藤に断りを入れていた。


 舞台内容は、抽象的な現代劇というもので、あまりにぶっとんだ舞台セットと配役と話の展開で、私は舞台の内容に全くついていく事ができなかった。

 近未来の設定で、妙な生物が人間の弱った心の隙間に入り込んでは奇想天外な事件が勃発して大騒動が起きるという内容だった。

 終了後のカーテンコールでは、役者全員が達成感で満たされた顔をしながら、時折涙を流して挨拶している人がいた。周りの関係者やスタッフが満足げな表情をしている中で、私だけは話の展開も理解できず、何もかもの辻褄が合っていないと感じて、ただただ退屈で仕方なかった。酷いようだが、無駄な時間を過ごしてしまったと後悔していた。


 私はこのあとの打ち上げに参加するつもりはなく、五十嵐も明日は仕事だからと帰るそうで五十嵐に駅まで送ってもらうことになっていた。五十嵐を入り口あたりでぼぉっと待っている間、退屈紛れに会場を出て行くお客さんの表情を観察していると「内容も展開もすごく感動した」と嬉しそうな表情をうかべて辰井たち役者に感想を述べている。恐らく役者の親族か、辰井と同じような小さな劇団を立ち上げて大阪で頑張っている仲間たちで、私のように密かに舞台観劇を趣味に持っていて「気になるから観にいこう」という好奇心で劇場に訪れていた観客のほとんどが、無言で退屈そうな表情で劇場を後にしていた。


 「誰かを待っているんですか?」

 声のほうを振り向くと斉藤がいた。彼は打ち上げに参加する組だった気がする。だから五十嵐に駅まで送ってもらうので、ここで待っていると斉藤に言うと「だったら、僕が送ります」と言い出した。

 「結構です。五十嵐さんを待って帰ります」

 我ながら冷たさの域を超えた、かなり突き放した口調で言い放ったが斉藤は全く意に介していない様子で「五十嵐さんは、辰井さんと話をしているのもうしばらくは出てこない」と言った。どうしてこんなに鈍感なんだろう?と気の毒に思い始めた頃、五十嵐が「ごめんごめん」と言いながら私のところへやってきた。斉藤を見ると、五十嵐は「向こうで打ち上げ組が待ってるで」と言った。

 「はい、でも穂斗山さんを送ってから参加しようと思ってます」

 「なんで?俺が送るから大丈夫やで」

 「でも、今日はほとんど一緒にいなかったので」

 「一緒にいなきゃ駄目なことでもありますか?」

 気がつけば、私は大きな声で斉藤に言っていた。どうしてこうも鈍感なのかと、少しずつイライラが募っていたのだ。それが今ちょうど、爆発したところだった。五十嵐も斉藤も驚いた表情を浮かべて私を見ていた。気がつけば、周りの人も私達を見ていた。

 「とにかく、私は五十嵐さんに駅まで送ってもらうんです。斉藤さんは必要ありません」

 「そんなに、僕ではいやですか?」

 「はい、嫌です」

 苛立ちが頂点に達していた私は、傷つけないようにと配慮をしながらの会話すらできないくらいに余裕がなくなっていた。斉藤は「そうですか」と言い、打ち上げ組に合流すると言ってその場を後にした。


 「さっきの一言、最高やったなぁ」

 「いい加減にしてください。こっちも限界やったんです」

 帰り道、五十嵐がさきほどの私と斉藤のやり取りを思い出しては笑って最高だったと賞賛していた。

 「まあ、これであいつも女の子への接し方について考え方を改めるきっかけになるかも知れへんなぁ」

 「そうですか?」

 人前であれだけ大声で嫌味を言っていた私は、決してそんな前向きに彼の性格を考えることができなかった。

 「好きな子にいい加減にしろとかさぁ、送ってもらいたくないなんて拒否されたら誰だって反省して今までの行動を反省して改めるやろう?」


 翌々日、辰井と斉藤が出勤してきたが、五十嵐の言っていた『反省する』というのは全く有り得ない事だと証明された。打ち上げの席で、斉藤は辰井に私のことについて散々相談していたようで、辰井も妙に面白がってしまい「頑張れば報われる」と励ましたそうだ。

 その後、私へのアプローチは徐々に減ってきたが、それでも事ある毎に食事の誘いや映画、買い物のお誘いは時折あった。その度に、興味が無いので行かないと再三はっきりと伝えているが、私以外に気になるような新しい女性が現れるまではなくなることは無かった。


 そんな斎藤は今、同じ部署の「沢渡さん」という20代前半の女性に夢中だと聞いている。

 そして、その恋愛は未だに「駆け引き」というところにも達していない、執拗に付きまとう迷惑な男性として嫌がられているという噂だった。彼がストーカーにならないことを切に祈っている。

 この経験もまた、私の中で男に対して「嫌がるのにしつこく付き纏う嫌な人種」というイメージを植えつける原因になった。


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