第八十二話
山から秋風の吹きおろす西都の町。
あれから数日が経つ。亜久里先生はもういない。町から姿を消したのだ。
2箇所には連絡があったらしい、西都高校とメイド喫茶だ。
だがそれは先生本人からではなく、先生から委託を受けていた法律関係者だという。
「先生ってば、自分がいなくなったときの用意をしてたらしいっす」
黒架は今や高校の人気者で、周りの人にちょっと尋ねるだけで大抵のことは分かるらしい。彼女が情報を集めて僕に教えてくれた。
「48時間、自分の端末にアクセスしていない場合、弁護士が高校とメイド喫茶へ連絡して、あとの始末をする契約だったとか」
「そうなのか……」
先生は重奏を探求する科学者、戻ってこれなくなる可能性を考えていたのか。
養護教諭はすぐに代わりの人材が手配されて、メイド喫茶は東京から新しい店長がやってくるらしい。店の前を通りかかった時に見たが、40過ぎの仕事のできそうな女性だった。いつの間にあんな人を見つけていたのか。
……しかし。後始末を用意してるならそれでいい、という問題ではないだろう。
「先生はどこへ行ったのかな……」
「その……サンタクロースさんに案内されて、どこか別の人生に行ったんじゃないっすかね」
黒架には先日の出来事を伝えている。橘姫が消滅したこと、先生が姿を消したこと、姫騎士さんは過去の世界でもやはり姫騎士さんだったこと。
「……別の人生に行ったとは思えない。一度はきっぱり断っていたし、サンタクロースもいなかったし」
「じゃあ、どこか別の重奏へ行ったっすよ」
「姫騎士さんなら、探せるだろうか」
黒架は眉を寄せる。難しい顔だ。何でも姫騎士さんに頼る姿勢を嫌がってるのだと思いたい。
「昼中っち、その話の中で言ってたっすよ。姫騎士さんは助けるべきでない人は助けない。姫騎士さんが動いてないということは、先生は自分の意志で重奏の彼方に消えたってことっす」
その通りだ。
先生がどこへ行ったにせよ、それは不慮の事故でも誰かからの強制でもない。自らの意思でのことだ。
「でも、一言のお別れも言ってない」
「お別れできない理由があったっすよ。決心が鈍るとか、どこへ行くか悟られたくなかったとか」
もし姫騎士さんに頼めば、どれほどの距離があろうと必ず見つけ出す。連れ戻すこともできるだろう。僕たちが説得すれば、先生が考えを変える可能性も高い。
……それが、嫌だったのだろうか。
誰にも告げず、関わらせず、ただ消えたいと。
黒架のアパートへの道を歩く。空気は肌寒くなってきて、かさかさに乾いた枯れ葉が道の端に積もっている。
「先生は、西都でやるべきことを終えたのかな」
「きっとそうっすよ。橘姫も倒せたならそうっす」
橘姫と、「世界の滅び」
先生はどちらかといえば橘姫に重きを置いていたようだ。世界の滅びのような巨大な事象が起きれば、橘姫がその混乱に乗じてやって来る可能性が高いと。
事実それは当たっていた。橘姫は吸血鬼の城に乗り込んでいたし、無限の宿にもいたのだ。
では、姫騎士さんについてはもういいのか。もはや先生にも、姫騎士さんはどうしようもない存在なことは察せられるが。
「今生の別れとは限らないっすよ。また会えるっす」
「……そうだな」
「それより来月の百浜行きのこと検討するっすよ。やっぱりタワーに昇るっすか」
「百浜タワーって夜はカップルしかいないらしいぞ……あ、別にいいのか」
「もー」
姫騎士さんを頼るべきか。僕はまだ頭の片隅で考えている。
滑稽なことだ。僕はそれどころではないはずなのに。
黒架と姫騎士さんの狭間で、今にもすり潰されそうなのに。
その夜のこと。
ふと気がつくと、僕は西都の商店街のはずれ、「はんど☆メイド」の前にいた。
「……?」
なぜここまで来たのか思い出せない。いや、経路や途中の風景は思い出せる、なぜ夜中にここまで来たのか分からないのだ。
店舗にはまだ明かりがついていて、観葉植物などが外に出されている。新しい店長がさっそく大掃除をしているらしい。
どうして先生のことが気になるのだろう。
いなくなってしまったのは寂しいけど、個人的にそこまで親しかったとは言えない。対立したこともあった。
……おそらくは、先生の生き様が僕の琴線に触れるからだ。
失ったものを求める。
それは、きっと未来の僕だ。
黒架と姫騎士さん、どちらかを失ったなら、僕はそれを追い求めるだろうか。
どちらかを選んでいながら、もう片方のことを永遠に忘れられないのだろうか。
僕はスマホを取り出す。
電源を入れずに電話をかける。黒い画面の上を指が踊り、暗記している姫騎士さんの番号をタップ。夜の西都に静かなコールが流れる。
「もしもし」
「姫騎士さん、こんばんは」
「昼中さん、どうしたんですか、こんな夜中に」
姫騎士さんは困るような、諌めるような、それでいてすべて承知の上だったかのような落ち着いた声のはずだ。僕は一人きりで言葉をつぶやく。
「姫騎士さん、亜久里先生に会えるだろうか」
「会ってどうされるのです?」
「分からない、ただ先生が消えた理由を知りたいと思っている。それが今の僕に必要だと感じている」
「分かりました、ではまず」
「違うんだ」
電話の向こう、わずかな沈黙。姫騎士さんの息づかいを思い描く。電話の向こうに姫騎士さんの家を幻視する。
「姫騎士さんの力でなく、僕が自分の足で会いに行くことはできるだろうか」
「昼中さん……」
「方法はあるはずなんだ。重奏は念が生み出す。僕はそこまで先生のことを思ってるわけじゃないけど、会いたいという気持ちはあるんだ。何か方法があれば……」
自問自答。姫騎士さんの困惑は僕の困惑。だが姫騎士さんならば、そんな僕にも示唆を与えてくれるはず。姫騎士さんはどこにいても姫騎士さんだから、たとえ、僕の頭の中にいても。
「昼中さん。私にできなくて、あなたにできることが一つあります。それがカギとなるはずです」
「何だって、それは」
「よくお考えください。では」
通話を終える。
…………。
そうか。わかった。
僕は電源を落としたままのスマホをしまい、手近なマンションへ。
駐車場に車が並んでいる。僕は非常階段の下。風のこないスペースに潜り込む。こんなことは数ヶ月前は毎日やってたことだ。
心を空っぽにする。意識を宙に解き放つ。全身から力を抜いて、顎を引いてマフラーに口元を埋める。たっぷり着込んできて正解だった。夜風はまるで気にならない。
僕は闇の中を降りる。夜の海に沈んでいく感覚。壁に体重を預け、音を遮断し、己の内面へ。
――――
――
鳥の声が。
ぎゃあぎゃあと鳴き交わす野蛮な声。見たことのない大きな鳥が上空を飛ぶ。
それに食らいつく影。多くの触腕を持つタコのような生き物。鳥を捕まえ、胴体の中央にある口でがりがりと噛み砕く。
地上に目をやれば、狼のような生き物。
ような、と言ったのは首が二つあるからだ。双頭の狼が群れをなしている。それを斬り飛ばすのは鎧の少女。
全身鎧の少女が土の上を飛び回り、双頭の狼を斬り伏せていく。少女とわかったのは鎧にスカート状の部分があるからだが、かなり小柄で、ほんの子供に思える。
「なんだ、来たのか」
先生がすぐそばに座っている。
メイド服ではなく、紫のローブのようなものを着ている。手には杖を握っていた。杖をかざすと狼の一頭が燃えあがり、甲高い声を残して動かなくなる。
この魔法使い風の女性が先生だとすると、プレートアーマーの方は桜姫か。あの背丈を包むアーマーは職人技だと感じた。
「先生、どうして姿を消したんですか」
「遠くへ行くべきだと感じたんだ」
双頭の狼を退治すると、先生は腰を上げて荒野を歩きだす。僕も後からついていく。
東京タワーのように高い塔がいくつも並んでいる。ここは塔の世界だろうか。
「私は失われたものを求めていた。母を捨てたつもりだったのに、心の奥底には後悔があった。ロブたちも家族ではなく、西都の町で出会った人たちも家族ではない。きっと私は、あの雪国の夜。クリスマスの夜から一歩も進んでいなかったんだ。あの夜に時間が止まって。それからずっと長い夢を見てるだけ。そう考えると恐ろしくなった」
それは……かつての僕と似ている。
僕は両親の失踪によって停滞していた。一歩も前に進めない日々だった。毎日気だるく過ごして、心のどこかに焦りがあって、でも何もできない。苦痛にまみれた怠惰が日々を埋め尽くす。
桜姫は先行しつつ、塔に差し掛かると外壁を少し登って周囲を確かめる。歴戦の冒険者といった様子だ。
「姿を消したのはね、桜姫のためなんだ」
「桜姫の?」
「私は桜姫を家族とは思ってなかった。彼女はそのうち人間並みに成長するのに、今だって子供並みの知性はあるのに、私は愛情を持てなかった。橘姫は、私をマスターと呼んでくれたのに」
「……」
「今でも家族とは思えないんだ」
先生はひどく悲しそうに言う。口先だけでも家族だと認めてしまえば少しは楽になれるだろうに、そんな安易なことは言えないという先生の意地を感じた。
「きっと、関係性というものは簡単には生まれない。長い時間をかける必要があって、多くの悩みや共感を積み重ねた先にある。だから、関係性を模索してるんだよ。家族でなければ仲間に、相棒に、主人と従者に、あるいは友人になれるかもしれない。私は桜姫との関係性を探すべきだと感じたんだ」
先生は、大きく環境を変えたかったらしい。
町を出て、多くの人々と別れて、危険な世界に脚を踏み入れて。
静止した夜から、抜け出そうともがいている。
「いつか帰ってきますか」
「私のことなんか気にしないで」
先生は振り向き、僕の頬に触れる。
柔らかな手と潤んだ瞳。先生は僕に何かを言おうとしている。その言葉の重みに目を震わせている。
「出会いは別れの始まり。すべては別れから始まっている。私はやっと分かったよ。この世界には出会いよりも別れのほうが遥かに多いんだ。別れとは選択の結果であり、別れとは前進したことの結果なんだ。出会いもまた一つの別れの結果なんだ。私たちはお別れだけど、新しい始まりでもある。だから優しく受け止めてあげて」
可能性の樹形図。
未来は常に枝分かれして、進まなかった枝はすべて失われる。意識してしまうと一歩も動けない、圧倒的な現実。
「私たちが別れたとしても、出会ったことが消えてなくなるわけじゃない。昼中くんがときどき、私のことを思い出してくれればそれでいい。私も西都の町のことを思い出すよ。姫騎士さんのことも、ロブたちのことも、君のことも。そして、母のことも……」
「あぐりー」
桜姫が駆けてくる。
「みずば!」
「……そうか、水を補給しないとね、行こうか」
先生は歩み去る。
僕はその場を動かない。
ああ、先生は選択したのか。
すべてを捨てて、ただ一人、桜姫と一緒にいることを選んだのか。
そうだ、僕が知りたかったのはそのこと。
先生が、選択したことを知りたかった。
目を開ける。
駐車場の片隅、非常階段の下。
まどろんでいたのはおそらく数秒。その中で僕は時間と空間を超え、世界の壁すらも超えたと思えた。
「姫騎士さん……」
彼女はこれを起きながらに行う。
それは恐ろしいことだ。彼女は夢を現実に拡張し、想像を超えた創造をもたらす。
あの力を、人の世界に置いておくことができるのか。
そして、僕の選択は――。




