第六十四話
パーク内には人がいない。スタッフもいないし、行きのバスで見かけた他の観光客もいない。人の気配などというものがはっきり分かるわけじゃないが、近くには誰もいない気がする。
不自然なほど静かだ。これが魔法による人払いなのか。しかしまあ、日本刀を握って血まみれになってる姿を見られても困るけど。
僕は服を脱ぎ、洗面所にあったホースで体中に水をぶっかけてから替えの服を探す。しかし服と言ってもどこを探せばいいのだろう。
ちらと横を見れば、等身大のマネキンが忍者装束を身に着けている。
「……さすがにちょっと抵抗あるな」
もちろん急がねばならないのだが、さすがに忍者スタイルで事態に関わるのは何か違う気がする。生地がゴワゴワしてて動きにくそうだし。
結局のところ土産物屋にあったTシャツで妥協した。奥の倉庫にジャージの下履きもあった。スタッフの私物だと思うが拝借しよう。
「どうするか……やっぱりソワレを呼びに行くべきかな」
先ほどの「治療」でアドレナリンの分泌が全開になっていた。さながらフルマラソンを終えた走者か、一公演を振り終えた指揮者の心境か、ハイになってるので比喩もぞんざいになってる。
火照る頭でなんとか思考。人払いの魔術があるとしても公道まで行けばタクシーを捕まえられるだろう。西都までは30分ほどなので往復一時間。説得の時間も加味して一時間半というところか。
スマホを使おうかとも思ったが、起動させようとしても電源が入らなかった。よく見ると画面に引っ掻いたような線が入っており、それはスマホの背面まで抜けている。先ほどの術を浴びていたか。
「ソワレが確実に来る保証はない……僕がやられたことを察したら、西都で待つように言われるだろうな」
僕がソワレの立場なら、首すじをトンと叩くかホルマリンを嗅がせるか、どっちもそんなにうまく気絶しないらしいけど、とにかく僕を行動不能にする可能性はある。
「つまり、何かあったことをソワレに伝えて、僕は僕で姫騎士さんたちを探せばいいのか」
なんだ簡単じゃないか。
そこから五分ほど、僕はソワレへのメッセージを送ると、あの重奏への入り口を探す。
それはすぐ見つかった。絨毯だ。
総合案内所の小さな建物。その石の床にひいてある絨毯は3メートル四方ぐらい。夕映えの照らす秋色の庭園、秋枯れの迫る庭園で貴婦人が静かに佇むという構図だ。おそろしく細かい織り目が木の葉の軽やかさを、貴婦人の気高い美しさを活写する。
「すごく細かい糸で織ってるな……。明らかに単なる絨毯じゃないけど、でもそんな特別なものなのかな」
そして移動する気配もない。
博物館では気が付いたら移動していたが、今回はうまく行かない。目を強く閉じてから開けてみたり、黒架の真似をして空中を引っ掻いてみたりするが変化はなし。
「重奏概念……」
動揺はない。やるべき時が来たようだ。
いつまでも姫騎士さんや他の誰かに連れていってもらうだけではいけない。僕が独力で世界を渡らねば、結界をこじ開けねば。
僕は刀を横に置き、カーペットの前に腰を下ろす。
大丈夫、やれるはずだ。
あの魔法使いは言った。この富前霧街道は坂道だらけのような状態。ふと気を抜けば異なる世界に落ちていく。
では気を抜くとは何か。
見当はついている。この美術品への理解だ。
そのような都市伝説はある。広々とした水田。あるいは夕凪の海岸。遥か遠くに白く揺れ動く何かがある。それが何なのかを理解した瞬間に気がふれるという話だ。
象牙多層球、金糸で作られた蝶、どちらもその美しさの精髄を、込められた執念に気づいた瞬間に移動していた。
ではこの絨毯は何が特別なのか。どこに怨念じみた技が潜んでいるのか。
「糸を選び……織る」
集中する。絨毯と僕の他には何もない。アドレナリンで煮えたぎる脳が見せる驚くべき忘我。
そうだ、これは手で織られている。それはろくな道具も持てぬ貧しき人。糸は均一ではなく、様々な太さや色味のものがある。一枚の落葉の中ですら何種類もの糸がある。
これは工業として作られたものではない。巨匠の手になる芸術品でもない。
これはきっと、何も持たざる者が編んだ絨毯。
想像する。彼は機織り工房の近くをうろつく貧者。家もなく家族もなく、重い病を背負っていて目はほとんど見えず、ただ腰を大きく曲げて歩いては糸くずを拾う。
それを結び合わせ、歯で噛み切り、誰も知らない場所で一手一手織り続ける。見たこともない庭園を、想像の中の貴婦人を描く。
糸をつなげる結び目は織り目の中に隠し、手に入らぬ色は複数の色を混ぜ合わせて作る。その人物は天才だった。その才能を誰も知らず、蔑まれ、何一つ持つことなく孤独なまま生涯を終えた。
「……黄昏時の傍居りの君」
体が傾斜する。
「!」
気づけば瓦の上。数千枚の瓦が波打つ場所に座っている。僕は即座に立って身構える。
「はれ? 昼中っちいつのまに?」
黒架がいた。背に翼を生やし、両手から剣のような爪を生やして臨戦態勢。
「黒架、あの修羅はどうなった」
「見つけたっすよ。この花備の城に追い詰めたっす」
見ればこの城はとんでもない規模だ。
例えるなら発達した未来都市のような、高度に発展したビル街のように複数の天守がそびえている。
中央の天守閣は雲に届くほど高く、大阪城を軽く凌駕する小天守が10以上。石垣は凄まじく高くて堀は幅広く、白と青に彩られた大海原のような城。
「なんて巨大さ……」
「20万人が寝泊まりできる規模らしいっす。もっとも戦乱の世は終わってるとかで、銃眼は埋められてるし籠城のための備蓄米も放出してるらしいっすよ」
そして足元はくらくらするような高さだ。ここはビルで言うなら20階以上。真下を歩く和装の人々は点にしか見えない。
「藤十郎は?」
「明華様……この城の城主様を守ってるっす。侍の人たちが修羅を追い立ててるはずで、順調ならたぶん、そろそろ」
その時、僕の目が何かに引き付けられる。同時に黒架の目も動く。
黒い人影。修羅だ。鎖を巻いた姿で天守の一つに立ち、百メートル余りを隔ててこちらを見ている。屋根の上はそれなりの強風だが、ふらつく気配もない。
ほとんど黒い点にしか見えない距離。だがその全身に巻かれた鎖がはっきりと見える気がする。原因は僕が昂ぶっていることと、修羅の殺気が強烈なことの両方だろう。
「黒架、何をしてくるか分からない。正面からぶつかるな」
「大丈夫っすよ。ひとっ飛びして一気に仕留め――」
僕の腕が。
とっさに動いた先で火花が散る。刀の鞘が粉砕されて刀身が露出する。腕が痺れて刀を取りこぼすが、反対の腕で即座に拾う。
今のは、まさか手裏剣。この距離から。
黒架は動けていない。僕が弾いたのも偶然だろう。とっさに黒架の前に出した刀に手裏剣が当たったのだ。
野球ならキャッチャーの位置からバックスクリーンに直撃させるほどの投擲。藤十郎の手裏剣術とは比較にならない。
「黒架、気を抜くな、集中するんだ」
「ひ、昼中っち……」
「大丈夫だ。この距離なら十分に反応できる。吸血鬼の目と反射神経があれば勝てる。自分に言い聞かせるんだ。自分には何でもできると、どんな攻撃でも見切ってみせると」
「……わ、分かったっす」
黒架が両手を合わせる、一瞬後に手の中に生まれるのは二振りの剣。幅広い刀身を持つ西洋風の両刃の剣だ。そんなこともできるのか。
そして修羅は。
その鎖に覆われた腕がぶるぶると震える。内部でエンジンが燃焼するような気配。この距離でも見える。やつの腕から、白い湯気が。
その手に手裏剣。丸鋸のような円形の手裏剣が見える。それは僕の目が見ているのか、あるいは距離を隔てても伝わる気配か。殺意を込めた腕が瓦の表面を這うように振られ、手裏剣が分厚い瓦に触れた刹那、固めた煙のように瓦が消し飛び。
黒い閃光。
一瞬で黒架に到達、音圧が僕を押すかに思える。間髪入れずの雷音。空間全体が振動して意識が消し飛びそうになる。いくらかの瓦が砕けて下へ落ちる。
まさか今のは衝撃波。あいつの手裏剣は音速を超えるのか。
だが防げている。胸の前でクロスさせた両刃剣が白煙を上げている。あのライフル弾のような一撃を弾いたのか。
「よし……防げたっす、これなら戦え、る……」
膨れ上がる殺気。
黒架に向きかけた視線が修羅の方に引き戻される。
修羅の腕がぎりぎりと鳴る。
それは幻聴なのか、奇妙な存在感を伴って耳に届く音。板ゴムの束を重機でねじるような。深海の超高圧の世界でドラム缶がひしゃげるような光景が連想される。
そいつの手に手裏剣が。
獣のように体毛に覆われて見える手。すべての指を使って、何十枚もの手裏剣が。
「な……」
瞬間。修羅の右腕が消失。
あいつの立っていた天守の屋根が吹き飛ぶ。爆発的な加速とともに伸びる影。
僕が刀を構える、その周囲で空間が削られるような衝撃。瓦が消し飛び土壁は砕けて、窓の鎧戸が消失して一瞬後に衝撃波がすべてを吹き飛ばす。
「ぐっ……」
当たっていない。さすがに狙いは甘くなるのか。
だがこの衝撃。音圧と衝撃波で三半規管が悲鳴を上げている。僕は立っていられず膝をつく。
もし今の一瞬を天の高みから見たなら、散弾を浴びたゾンビの頭のように天守閣が消し飛んで見えたか。
「黒架! 大丈夫か!」
僕がそう叫ぼうと背後を見れば、黒架の顔には脂汗が浮かび、歯の根はかたかたと鳴っていて。
そして気配が。
全身が粟立つ。それは理解よりも早く訪れる強制的な身体反応。
修羅のいたほうを振り向くが、半壊している天守があるのみ。
その上。
太陽に重なる黒い影。この距離を。跳び。
手に手裏剣が、先程よりも多く。
落下を利用。
加速度。
ぎりぎりと鳴る腕が。
黒架。
僕は黒架に向かって何かを叫び、動けずにいる彼女へ飛びかかり。
そして数十もの黒い雷撃。
破滅的な威力を備えた手裏剣が、僕たちのいた天守を粉々に打ち砕いて――。




