第四十六話
「な……」
コーヒーと、甘いミルクの匂い。胸から下腹部にかけてブラウンに染めた先生が、ゆっくり肩をすくめる。
「うわあカフェオレこぼしちゃった。替えの服はあるけど、シャワー浴びないといけないよ」
箱型端末が会話に反応、近くにあるシャワールームを表示する。
「昼中くん、ちょっと付き合って」
「な、何してんですか、今のは自分で」
「いいから、ついでにそこの売店でタオル買ってかないとね」
シャワールームとはレストランの近く、アスレチックエリアのそばにある。
そこはアスレチックで泥まみれになった子供を洗い流す場所であり、公衆トイレの裏手、人目につかない場所にボックス型のシャワールームが設置されていた。
そこまで汚れる子はあまりいないのか、他の利用者はいないようだ。僕はメイド服を両手に抱え、早く桜姫が戻らないかとやきもきする。
「昼中くーん、メイド服ちゃんと見ててね」
「はい……持ってますよ」
やがて水音が止まる。
「昼中くん、タオル」
「はい」
遊園地のイラストが描かれたものだ。5枚ほど購入した。手渡そうとするが、このボックスには隙間がない。
「ちょっと開けますよ」
「いいよ、入ってきなよ」
がばり、とドアが開き、僕は中に引っ張り込まれる。メイド服がドアの外に落ちる。
「うわっ!?」
中は一畳半ほど、先生は僕の手からタオルを取って、がしがしと頭を拭く。僕はきつく眼を閉じつつ言う。
「な、何してんですか」
「一枚ずつ渡さないとだから、いちいちドア開けてたら面倒でしょ」
「だからって、そんな」
「その非難がましい顔が気に入らない」
ふいの言葉。それは槍の鋭さを持っていた。何故か胸に刺さるような感覚がある。眼を閉じているが、ぎらりと光る眼光のような気配を感じる。
「まるで自分は被害者だと言いたげだね。なぜ平然とできない。なぜ私と君の感覚の違いを態度で示そうとする。君の言うスルーってのはこれだよ。見ていないとアピールしてるだけだ。無かったことにするというのは、つまり自分の世界観からの排除だ。相手の考え方の否定なんだよ」
「こ、この状況は完全に被害者でしょ……。男女が入れ替わってたら犯罪ですよ」
「とんでもない、このご時世、女が男に見せたって立派な犯罪だ」
先生はボックスの中でにじり寄る気配がある。僕は見ないようにしながらも手で牽制する。
「つまり、姫騎士さんも犯罪者だと言いたいわけだ」
「違う!」
両腕を取る。こんなやり方で一方的に責められてたまるか。僕は先生の両手首を押さえて、ボックスの壁に押さえつける。
姫騎士さんの名前が僕を激昂させている。あるいは激昂して場を覆そうとしている。先生の途轍もないプロポーションがわずかに意識されて、僕はそれを振り払うように言葉をたたみかける。
「先生、あなたほんとに養護教諭なんですか。どうも信じられないな。飛び級だの政府のプロジェクトだのはまだ分かるとしても、養護教諭だけあまりにも似つかわしくない。どんな手で潜り込んだんですか」
「分かってるでしょう? 私はどちらかと言うとアウトローだよ。世の中の規範から逸脱した人間だ。どんな書類だって、己の経歴だって簡単に捏造できる。明日、国会で質問に立つことすら容易い。悪人なんだよ。仕方がない。世界は私が歩くには狭すぎる。法をまったく犯すなというのは、私に何もするなと言ってるに等しい」
先生は首だけ前に傾けて、僕の頬に唇で触れんとする。僕はそれを嫌って身体を引く。むっとするような熱気、シフォンケーキのような甘い香りの幻影。
「おそらく誰もがこうなる。重奏に踏み込んだ人間にとって、この世界はあまりにも退屈で窮屈で、耐えがたいものになるんだ」
「僕にどうしろと」
「君が合わせてあげればいい。姫騎士さんが何をやろうとしてもそれを当然のことと受け止める。法律や倫理の枠を踏み越えるなら、君が先に踏み越えろ。そうでなければとてもあの子とは付き合えないだろう。黒架くんもだ。君は吸血鬼と付き合う覚悟があるのか。黒架くんが人の血を飲むことを容認できるのか」
「それは……」
それは、考えないようにしていた。
今までそんな場面は見たことがなかったし、高位の吸血鬼はあまり吸血しないと聞いていた。病院との繋がりもあるし、献血で集めた血を飲んでいるのか、そんな風に考えていたのだ。
だが、もし眼の前で飲んでいたら。
そんな場面を見てしまったら。
――ダメだ、考えるな。
針の先ほどの嫌悪感すら抱きたくない、どんな小さな動揺も持ちたくない。吸血鬼にとっては当たり前のことで、だから、僕は……。
唇が。
身体を前に付き出した先生が、僕と唇を重ねんとする。
しっとりと濡れるような、桃の果実のような肉厚な感触、一度触れたなら、果実を踏み潰すように蹂躙されそうな気配。
「……ぐっ!」
こんなことで。
そうだ、こんなことでナメられてたまるか。
僕は強く押し返す。先生にのし掛かりつつ上方から唇をかぶせんとする。
先生が手首をねじって拘束を抜け、彼我の唇の間に手を差し入れる。互いの口で手を押し合うような間抜けな恰好。
先生は眼を閉じている。必死のせめぎあいに見えて、まだ余裕を示すのか。
僕の主観では数十秒、だが実際には五秒もなかっただろう。互いに分かれて、僕は荒い息をつく。
「こうしろと言うんですか。要するに女に恥をかかせるなと言いたいんだ」
「今のはちょっとしたハグじゃないか、大袈裟な」
先生はほうと熱い息をつき、肌を真っ赤に染めて上気させるかに見えた。
それは享楽に思える。今の一幕を楽しんでいた気配だ。からかわれたのか、最初から勝負にもなってなかったのか。
姫騎士さんにもこうすべきだったのか。姫騎士さんが事に及ぶのを察して、僕の方から踏み越えるべきだったと……。
とてもそうは思えないし、姫騎士さんはこんな野犬みたいじゃなかったけど。
「なんか失礼なこと考えてない?」
先生はまだ何か言いたげだったが、今はこれ以上付き合えなかった。
僕は残りのタオルを拾うと、シャワーヘッドにかけてボックスを出る。多少、服に水気がかかったが、夏の日差しを浴びれば乾くだろう。
「おきがえー」
と、桜姫も駆けてくる。レストランに入っていくのが見えたので後を追った。
僕は姫騎士さんにどう向き合えばいいのか。
姫騎士さんが何を思っても、どう変わっても、どこへ行ってしまうとしても。
できうるなら、僕もその隣に。
「……いや、そうじゃない」
今の先生とのやりとりで唯一の教訓。
攻めなければ敗北しかない。そういう戦いもあるということ。
姫騎士さんの先に行くぐらいでなければ、けして隣にも立てない、ということ……。
※
案内してくれたのはアリのような怪人。黒光りする頭部と節足状の手足を持ち、ぺたぺたと地下を行く。
洞窟のようなものかと思ったが立派な地下通路だ。車が通れるほど広いし、トレーニングルームや図書室、食堂などが用意されている。
「そーですかー、吸血鬼さんってのは始めて見ましたねー、うちの組織に入っていただけるなら、きっと支部長も喜びますよ」
「支部長というと、他にもこんな場所があるっすか?」
「えーもちろん。我が「マスカレード」は全世界に支部があり、数千もの怪人を擁しております」
大きく出たものだ。そんな組織があればこの私の一族、ラインゼンケルンの氏族が知らないはずがない。
問題は、そんな事例がこのところ多すぎる事だ。
ときどきすれ違う怪人たちはその名に反して仮装ではない。虎のような、重機のような、あるいは炎や氷を身にまとう姿の怪人たち。あれがすべて本物だと言うのか。
「えーと、こちらが会議室ですねー。最高幹部の方々が現在、会議中でして」
分厚い金属製の扉が左右に分かれ、足元からスモークの沸き立つ部屋に通される。
そこには灰色の長机があり、何人かの怪人が着座していた。
私はその場の連中を眺め渡す。確かにここの連中はまた何段階も格が違う。これまで見た怪人より何倍も強そうだ。
「……」
その中の一人に、眼が止まりかけて……。
「おお、よくぞおいで下さいました」
一番奥の席に座っていた男が両手を広げる。仏法僧のような袈裟を着ているが、眼の周囲を除いてほとんどが機械である。
「高貴なる吸血鬼の姫君と伺っております。我がマスカレードの理念に賛同いただけると聞いて、この機械僧正フェイスドール、この上ない感謝と歓迎の意を捧げとうございます」
どうも大時代的というか、何もかも芝居のような振る舞いである。吸血鬼であると示すために、翼を出したり10円玉を曲げてみせたりはしたが、いきなり支部長が歓迎するのは妙な話だ。
「クックック、まだ小娘ではないか、その細腕で戦えるのか」
「ひょひょひょ……長生きはするものじゃのお、この老いぼれの眼に夜の女王を焼き付けられようとは」
「生々(しょうしょう)世々(せぜ)……むべなるかな無限の体現者よ……」
なんか色々言われてるが、私はそれどころではなかった。
「ささ、そちらのお席にどうぞ、姫君にもぜひ会議に加わっていただきたい」
私は何も言わずに着座する。
その隣の席には、ピンク色のフリルと白のヘッドカチューシャ。長身で肉付きのいい女が座っていたから。
「お姫様、ごぶさたですねえ」
「何やってるっすか、あんた……」
橘姫。
あの亜久里先生が作ったという知恵ある機械、完全なる自立型ロボット。
彼女は短く挨拶したきり、ぷいとそっぽを向いてしまう。
「さあ、本日の議題です」
フェイスドールと名乗った支部長が言い、部屋の壁に映像が映し出される。
それは青いアーマーに包まれたヒーロー、ジャスティスマスクだ。戦ってるのは両手が金属球になってる怪人。確かヴァンデーとか言ったかな。
「見ての通り、ジャスティスマスクの力は増すばかり。さすがはあのお方をして最高傑作と言わしめただけはある、という所でしょうか」
「あのお方……?」
「我らが総帥、ゼロ・シャドウ様じゃよ」
お爺ちゃんっぽい幹部が言う。
「ゼロ・シャドウ様は仮面の支配者、かりそめの仮面を渡り歩くお方じゃ。その最後の器となるべく開発したのが「真なる仮面」。つまりジャスティスマスクよ。ところが組織に裏切り者が出た。マスクを持ち出し、追っ手にかかり負傷しながらも逃げ続け、死の間際にあの男。空御門潮に託したというわけじゃ」
「な、なるほど……王道の香りっすね」
何だかすごく「設定」という感じの話だ。この異様な規模の地下施設と相まって、何もかもテレビの中の出来事に感じられる。
「つまり、このワールドにジャスティスマスク以上の力はありえない……そしてできればブレイクより生け捕り、そういうコトです」
橘姫が私を見ずに言う。何かしらの親切のつもりだろうか。
「さて皆さん、次なる怪人を送り込まねばなりません。午後4時と午後6時の怪人は決まっておりますので、今回の議題は午後8時のステージとなりますね。どなたか提案はございますか」
私はバレない程度に目を丸くする。
ではこの連中は、ステージのたびにこの会議を行っているのか。というかステージという認識はあるのか。
「実に面倒です。怪人を10人ぐらいシュートすればいいでしょう」
「なっ!?」
驚くのは機械僧正フェイスドール。席の中でのけぞってみせる。
「プリンセス・タチバナ、それはいけない。怪人は単なる武器ではないのです。地上侵略のための作戦司令官であり、一つの怪人が一つの作戦なのです。複数の怪人を同時運用してはいけないのです」
「クックック……これだから戦を知らぬ小娘は困る」
「左様、怪人とは完成された一つの美。単騎こそが最良なのじゃよ」
「一騎当千……兵は孤軍にて輝く……」
……。
何だろう、この感じ。
いま軌道修正された気がする。橘姫の掟破りな提案が、この世界観によって抑え込まれたような。
橘姫を盗み見れば、機械にも関わらず苛立った顔をしている。
もしかして、このロボット。
「……さては出られなくなったっすね? この世界観から」
橘姫はびしりとテーブルにデコピンをかまし。
石でできたテーブルに、消しゴムほどのクレーターができた。




