第三十九話 【八の禍戸の禁忌夢継橋】1
※
深水先輩。あの人がアングだとすれば。
「そうだ、そういえば不自然だった。なぜバク狩りの一族は支配下に置かれたのに、玄孫の深水先輩には何も起きてないのか」
実際は、ずっと支配下にあったとしたら。
深水先輩こそが人間に化けたアングだとしたら。
「学校で会ったことも繋がってくる。学校にバクは連れていけない。アングの気配を探せない状態だから会ったのか」
リッチフロー側にも人の多い場所で会いたい事情があった。互いの思惑をうまく噛み合わせたわけか。アングは影に日向に動いている。力あるものを個別に始末しようとしている。
「リッチフローが深水先輩を送り届けてる。まずい、襲われる……」
「その人物の家は?」
ソワレが問うが、家は聞いていない。今から調べるしかないのか、くそ、時間がないのに。
と、そこで思い出す。そういえば深水恵流先輩の母、深水蚕恵という人物はバイク店に嫁いだと言っていた。
「バイク屋だ! 西都にそんな何件もないはず。スマホで検索すれば」
「あっちだ」
言うが早いが、ソワレは駆け出す。僕も慌てて後を追う。
ソワレは振り返りもしないが、ぎりぎり僕がついてこられる速度で走っているようだ。この町についてはかなり把握しているということか。
やがて着く。
と簡単に言えるほどの道のりではなかった。バイク店は旧国道沿いにあり、距離は2キロ弱、高低差80メートルの登りがあったのだ。しかも夏場である。
僕は喘鳴音を鳴らしながらソワレに追いつく。
「た……タクシー使った方が良くなかったか」
「この時間帯なら走る方が早い。家は裏手だったはずだ」
造りとしては道路側に店舗兼工場の大きなガレージ。その背後に民家がある。店は開いていないようだ。
「バイク屋まで把握してるのか?」
「町の写真を撮って歩いている。半分は趣味だが、役に立つものだな」
そういえば、団地跡ではドングリの木を撮影してたな。カメラが趣味なのは本当なのか。
まあそんなことはどうでもいい。僕らはベルも鳴らさず家に踏み込む。鍵は開いていた。
「両親がいるはずだ……ガレージの方にはいなかったけど」
「生きていればいいがな。何を見ても大声を上げるなよ」
念を押すように言われ、僕はごくりとつばを飲む。
異変はすぐに見つかった。廊下に白い大きな獣が横たわっている。
ひどく強く打たれたのか、体の一部が変形し、青黒いアザとなって残っている。
「バク……」
そして奥の部屋に、二人の少女が。
一人は制服姿の、もうひとりは黒づくめの装束。
制服姿のほうが縛られている。二人は僕を見るが、無駄に叫んだりはしない。ただじっと僕を見つめるのみだ。
「……?」
何か言おうとする前にソワレの腕が動く。
黒づくめの方にぐるぐると巻き付く縄。あれは確か、ロープの両端に錘をつけたボーラボーラとかいう武器だ。投げることで相手に絡みつき、動きを封じる。
「あん」
妙に艶めいた声を出して倒れる。
これは……どっちがどっちだ?
学校を離れたときは二人とも制服姿だった。一人はリッチフローの衣服を着ているが、着替えたのか。
「ひどいじゃない。急に何するのよ」
「……」
どうやら茶番が始まりそうな気配だ、そうはさせない。
僕は黒づくめの方の服に手をかけ、胸元の布を剥ぎ取る。
ない。獣の牙を組み合わせたような入れ墨が。
そして制服姿の方も剥ぐ、こちらは入れ墨がある。
「こっちがリッチフローだ。その衣装を奪って成りすまそうとしてるってことは、つまりそっちの黒づくめの方がアングだ。やはり深水先輩に成り代わっていたな」
「あらあら、村に伝わる刺青、そういえばそんなものもあったわねえ、すっかり忘れてたわあ」
アングはにやにやと下卑た笑いを浮かべ、縄の食い込みを楽しむかのように身をよじる。艶ぶってはいるが、そこに色香はない、不気味なだけだ。やはりこいつはアング。人間になりすまそうとする態度が不気味さを生むのか。
「この家の人たちをどうした」
「隣の部屋で眠ってもらってるわあ。死なせては無いわよお」
確認する。確かに男女が寝ている。
「この娘がアングか」
戻ってくるとソワレがナイフを振り上げていた。柄をしっかり握って斬り付ける構え。
……一瞬、止めようとする意識が働くが、意志の力で意志を打ち消す。僕は熱狂しようとしている。そうでなければアングとは戦えない。
そしてソワレの短剣が、アングに下ろされて。
「違うな」
ナイフの刃が止まる。皮一枚のところで。
「……なぜ止めるんだ、ソワレ」
「前に言っただろう。これでも法律を順守して活動している。ただの人間を殺せば重罪だ」
「人間……」
そんなはずはない。こいつはアング、闇に堕ちたバクのはず。
「あら惜しい。牢屋に入るソワレも見たかったのにねえ」
そいつは、少女の姿をした何かは冷ややかに笑う。ソワレはその顔をまじまじと見る。
「やはり人間だ。そっちで縛られているお嬢さんもな、前に会ったな」
「どういうことだ……」
「夢はどこから来るのでしょう? 空の向こうから、心の内側から、あるいは愛しいあなたの瞳の中から」
黒づくめの女は指を天にかざし、歌うように言う。
「それは人には見えないもの。脳細胞のふるえ、何かの偶然、心の奥底のわずかな揺らぎ」
「……」
「私はたくさんの夢を食べて、夢の真理に迫って、そして夢となったのよ。夢の世界から人間を操り、思い通りに動かせる。それが私の真にあるべき姿。バクが最後にたどり着く姿なのよお」
「お前、どこにいる! どこから深水先輩を操ってる!」
「無駄だ」
ソワレが肩を押さえる。そうされなければ掴みかかっていた。
「今わかった。こいつにもはや実体はない」
「何だって……」
「いわば純粋な悪夢だ。どこから来て、どこに潜んでいるかも分からぬ。それは悪意とか殺意とか、魔が差すなどという言葉に似ている。こいつは本当にただの夢になったのだ。それを見た人間がアングの思想に支配される夢だ。バクの体は夢でできていると聞いたが、極まれば夢が意思を持つということでもあるのか」
「そんなことが……!?」
「操れるのは人間だけじゃないよお」
がふ、と血反吐を吐く音がする。
見れば板張りの廊下、傷ついていた白いバクが立ち上がっている。しかしそれは傷ついての吐血というより、体内のものをすっかり出してしまうために見えた。
その眼はぎらぎらと赤く光り、耳まで裂けようとする口が笑みの形に歪む。
「! リッチフローのバクを!」
「私は純粋な夢の精霊。ただのバクじゃあ、もう比較にならないわねえ」
白いバクが深水先輩に擦り寄り、あろうことか、大きく裂けた口を深水先輩の口腔と重ね合う。口づけとはとても言えない、互いを貪り合う亡者のような行為。
本物のリッチフローは沈痛な顔を浮かべ、しかし悲しみに閉ざされるほど弱くは無いのか、殺意を込めてアングを睨みつける。
「貴様……殺してやる!」
「どうぞお。もともとこの体じゃ長旅はきついからねえ。入れ替われないなら、あなたの体をもらうのもいいかもねえ」
「何……」
「言ったでしょお。私はただの夢。あなたの夢に出てきてあなたを調教してあげる。少しずつあなたの精神を食らって、私があなたに取って代わるのよお」
「できるものか!」
「できるわよお。どんな強者でも眠らずには生きられない。眠るたびに私の悪夢にさいなまれる。一か月も経てばあなたの心は灰になって、私のために席を譲るわあ」
「う、ぐ……」
完全な、夢。
生きているものには抵抗も、攻撃もできない純粋な夢。それがアングの究極の形か。
「私は村に帰る。他のバクをこの子に全部食べさせるわあ」
白いバクの首を撫でて言う。
「バクの溜め込んだ夢をすべて食べて、そして次はこの子になるのよお。素敵でしょお? この世にバクは私一人になって、私はすへての夢を食べ続けるの」
――そうか。
これで全てが繋がった。こいつはもはやただの夢であり、実体がない。だから分身を差し向けていたのだ。
こいつに必要だったのはリッチフローの体と、生きているバク。
だから西都の町に何十年も潜み続けて、自分を探しにくる仲間を待っていたのか。
誰にも気づかれぬうちにリッチフローを乗っ取れるならそれで良かった。こうして追い詰められていても、僕たちをすべて殺して悠々と凱旋すればいいのか。
そして一頭ずつ、村のバクを食べていく気なのか。
何という、計画……。
全人類が夢を失う、それがどんな意味を持つか想像もつかない。あるいはそれが世界の滅び。
そして、こいつはもはや誰にも攻撃できない。捕まりもしない。眠るたびに現れ、心を汚し、乗っ取る悪魔と化したのか。そして生けるものほとんどすべて、眠りからは逃れられない。
――だが。
「なめるなよ、大食らい……」
僕は深水先輩の泥のような瞳を見る。向こうは僕が何を言い出すのか、いっそ楽しみにするかのようににやつく。
「どうされちゃうのかしらあ?」
「お前は完全無欠じゃない。本当にただの夢になったなら距離など問題じゃないはず。一足飛びにバク飼いの村に行けばいい。お前はまだ3次元的な座標に影響を受けている」
「ふふ、そうかもねえ」
「お前には隠れている世界がある。そこへ行き、お前を退治する」
あはは、と演技めいた笑い。
「無理よお。これは結界とかじゃないのよお。私は本当にただの夢だって、言ったよねえ」
「捕まえられる、としたら?」
携帯を取り出す。声の響きに何かを感じたのか、深水先輩とバクが笑いを止める。
そう、今までだって同じことだ。
彼らはそれを結界と呼ぶ。科学使いは重奏とも呼んだ。
だがそれは本質ではない。成り立ちも性質も違うそれを、さまざまに勝手な名前で呼んでいるだけ。
「形があるとか無いとか、眼に見えるとか見えないとか関係なく、どんなものでも捕まえられるとしたらどうする。そもそも妖怪とか伝説の獣がそうだろう。誰かが不可思議な現象に名前を与え、想像上の姿を与えた。名前を付けることが理解の第一歩。名前を付けるごとに人間は恐れを遠ざけた。それは悪夢であっても例外じゃない。お前は形も、居場所も不確かだと思ってるかもしれない。だから今から名前をつける。お前たちが生きている場所の名前、お前たちを生物としての型にはめる名前を」
「……何を言ってるのかしらあ」
「姫騎士さん」
「はい」
すでにダイヤルは済ませていた。電話の向こうで声がする。
「忙しいところすまない。悪夢を捕まえたいんだ。アングという名の悪夢、姫騎士さんならそれが「いる」場所への行き方がわかるはず。僕に教えてほしい」
「……それは、危険なことですよ」
「こいつは黒架を襲った! 見逃しておけない!」
「……」
姫騎士さんを道具のように使いたくない。命令なんか絶対にしたくない。
だが、今の僕は頭に血が上っている。姫騎士さんのわずかな言葉の揺らぎ、沈黙が何かを語ろうとしていたが、そこに潜む意思を読み取れなかった。
「約束してください……必ず、命を大事に」
「約束するよ。必ず帰ってくる」
「では……壁に夢という字を書いてください。ただし、四画で書いてください」
僕は持っていたボールペンを取り出し、漆喰の壁に夢と書く。細部が省略されて、ほとんど記号のようになった字だ。背後のリッチフローとアングはけげんな眼をしているだろう。
「書いたよ」
「四つのパーツで構成されていますね。ではそれを様々に入れ替えた文字を五パターン書いてください。狭い範囲に」
「夢」を四画で書く場合、横棒、横長の楕円、コ型の冠と、夕を表現する数字の9のような記号、というパーツができる。僕はそれを様々に入れ替える。
「……気がふれたのお? それは魔術的な文字でもない。儀式のようにも見えない。なんの魔力も感じない」
「書けたよ姫騎士さん」
「では、その文字をすべて視界に入れて、じっと見つめてください。そして、焦点がぶれてきたら視線を素早く動かしてください」
「これは……タットワ呪法に似ているな」
ソワレが言う。
たしか、タットワ呪法とは五行思想から来る記号、この世の五大元素を表現した記号を見つめて瞑想することで、異世界への扉を開くと言われる技術だ。アングがそれに答えるように言う。
「……あれはただのインチキ、魔術でも何でもない」
そうだ、そんなものと姫騎士さんの力を一緒にするな。
これは既存の技ではない。おそらく世界で姫騎士さんにしか生み出せない、まったく新しいもの。
そして畏れろ! 姫騎士さんの力を!
焦点がぶれる。
僕は視界を振り、そして見る。
そこは雲海。
虹のような七色の光をたたえる雲の海。
そこに橋が架かっている。真紅の欄干をそなえ、同じく真紅の板を敷き詰めた赤い橋。それが僕らのいる場所を起点に八方向に広がっている。
そして八つの道には立て看板がある。一つは「生」一つは「老」、あとの六つは判読不能な見たこともない文字だ。
そして世界に名前を付ける、姫騎士さんの声が。
「八の禍戸の禁忌夢継橋」
視界の果てで橋はさらに枝分かれし、無限の網目となって雲海の上にかかっている。これが夢の世界。世界のあらゆる人の夢に侵入するためのアングの世界。
周囲を見る。この世界に来たのは僕とソワレだけのようだ。
「……素晴らしい」
ソワレが何かつぶやくのを無視し、僕は駆け出していた。




