第二十七話 【百眼の蛇の途吊れ夜市】1
「まさか……」
先生は一瞬、僕の言葉を一刀のもとに切り捨てる気配を見せる。
しかし数秒後、言葉が脇腹に刺さるような苦悶。言われて初めて、その可能性について検討したのだろう。
「ありえない……桜姫を構成してる言語は並の複雑さじゃない。コマンドの一つ一つがオリジナル。文字単位で圧縮され拡張された言語なんだ。私ですら全容は分からない。桜姫は自己進化を続けてるから」
「先生は、桜姫を遠隔で操作することはできるんですか。視覚や聴覚の情報を受け取ったり、その行動を自由に操ったり」
「コネクタに配線を繋げば……。遠隔では無理なはず……分かった、調べてみよう」
先生は手招きして桜姫を呼ぶ。
「桜姫、メンテナンスモード。結合部開放は不要。右側第二指から出力」
「わかった!」
先生は例の箱型の端末を取り出し、桜姫が側面から指を差し込む。
「桜姫に侵入するなんて、想像もつかないんだけど……」
焦りは見えるが、まだ信じられない、あるいは信じたくない様子だ。
勝手口のドアベルが鳴り、にわかにざわめきが聞こえる。メイドさん達が何人か出勤してきたようだ。
「あ、てんちょー、桜姫ちゃんのメンテてすかー?」
「かわいー、指で診るんですねー、ほんと人間みたい」
桜姫がロボットだというのは知っているらしい。たとえ戦闘能力を加味しなくても十分にとんでもないロボットのはずだが、そのへんの疑問はないのだろうか。まあ最近は掃除機だって踊る時代だし。
「ログがない……」
先生の声は濁っている。自分の膝を殴りそうな調子で言う。
「今日もだ。午前3時05分から27分間の行動ログがない。しかし侵入の形跡が見つからない。私ですら気づいてないセキュリティホールがあるっていうのか。桜姫のアクセスメモリがどれほど広大だと……」
先生は悔しさをにじませる。
「アクセスは電波か……? どうやって桜姫の命令形を特定したんだ。バックドアなんてあるはずない。そもそも桜姫はスタンドアローンなのに……!」
先生はそのまましばらく端末と睨み合っていた。桜姫は動かず、眼はぴたりと閉じている。
やがて決然と、顔を上げる。
「……桜姫を初期化する」
「……!」
僕だけでなく、更衣室に向かおうとしてた女の子たちも動きを止める。
「桜姫はまだ生まれて半年だ。最初からやり直すなら早いほうがいい。今度はマニュアルでファイアウォールを増設する」
「そんな、桜姫の記憶はどうなるんですか」
「桜姫の脳は複雑すぎて部分的なバックアップができない。一括消去する。すでに桜姫には進入路や合鍵がいくつも作られてるはずだ。汚染を一つずつ取り除くのは不可能だ」
「なになに、桜姫ちゃんフォーマットするの?」
「かわいそうですよー、てんちょー」
女の子たちは口々に言うが、亜久里先生はじろりと彼女らを睨めつける。
「余計な口を出さない。これは私と桜姫の問題」
「でもー」
「死ぬわけじゃない。見た目は昨日までの桜姫とほとんど変わらないはず。より完璧に近くなって生まれ変わるだけだよ」
女の子たちは顔を見合わせたが、それ以上言う筋ではないと思ったのか、部屋を出ようとする。
「先生、それでいいんですか!」
ばん、と応接机に手を突いて言う。女の子たちははっとしてこちらを向く。
「生まれ変わるって、それでは今の桜姫はどこに行ってしまうんですか! ハッカーに屈して平気なんですか!」
言われて、先生は少し困惑の様子。
それは見知らぬ人から声をかけられたような、角を曲がったらまったく知らない街に出たというような、想定外から来る混乱。
「……ええと、桜姫に同情してるの? でも、桜姫のためを思えばこそだよ。人間じゃないんだ。桜姫だってフルメンテの時は分解されるし、主電源も落とされる。それは人間で言えば死だろう。桜姫は何度も死んで生まれ変わる存在だ。機械の魂とはそんなものだ」
「だからって納得できません。初期化しなくて済む道を考えるべきです!」
「そう、言われても……」
このとき、僕自身も気づいていなかった。
なぜこんなに食い下がるのか。なぜ桜姫と、この盗撮騒ぎにこだわるのか。
「先生、相手は怪物です。たとえ桜姫のセキュリティを強化しても、また侵入されるおそれがあります。おそらくハッキングの手腕においては先生より上です」
「しかし、とても信じられない、そんなことが……」
ぱしゅ、と音がする。
先生と数人のメイドさん、そして僕が同時にその匂いを嗅ぐ。プラスチックが溶けるような匂い。桜姫の耳から白煙が。
「! 桜姫!」
その足が硬さを失い、ぐらりと傾いて僕がその体を受け止める。軽い、機械のはずなのに人間の子供とまるで差がない。
「うわっ! マジ!?」
「て、てんちょー、何か手伝うこと」
「救急車とか呼びます?」
「君たちは控え室にいて!」
一喝、女の子たちは桜姫に不安げな視線を落とすも、それ以上食い下がることはなく退散する。
「先生、桜姫は」
「駆動系のサーキットに過電流を流された。向こうも気づいてる」
「おい、能無し」
ぎょっとする。桜姫が僕の膝に座ったまま、口を動かさずに野卑な声を張り上げたからだ。
「! 誰だ!」
「誰でもいいだろうがオタク野郎にクソコスプレ女が。妙なプロトコル領域があると思ったら人型ギアかよズサンな作り方しやがって。ワンオフで言語を組んだだけでほとんど鍵もねえじゃねえか。クリンゴン語で書かれた日記なら読まれねえと思ったのかチープナードが」
人間の声ではない。合成音声のようなものを早口で喋っている。先生が慎重に問いかける。
「……お前、何者だ。個人なのか、組織か」
「質問なら十年後にしてくれや。その前にこのギアのメインメモリを抜いてレンジでチンしな。邪魔なんだよこういうゴテゴテしたプロトコルは。無駄にチップ山積みしやがって」
……! こいつ、桜姫を物理的に消去しろと言うのか。
「電磁波で焼けだって……なぜそんなことを要求する」
「てめえらはメインストリームにはなれねえ、日陰者でクソ雑魚のクソナードが似合いなんだよ。着飾るな、ヒールを履くな。何でもできるような口を叩くな。味のついた食事にありつけるだけで満足しとけカスが」
……。
何だこいつ。何か、話してることに脈絡がないというか、クールぶってるようでただ感情をぶつけてるだけ、のような……。
「分かったらすぐにやれ、窓から、モバイルギアから、そのへんのトラックの車載カメラからいつでも見てる、ごまかすんじゃねぇぞ」
ぶつり、とラジオの電源を切るような音。
「くそっ……!」
先生に口惜しさがにじむ。床を打ち付けんばかりに拳を握る。
「先生」
僕は先生に耳打ちする。どこで音声を拾われてるか分からない。声を限界まで細くする。
「……な、なに?」
「先生、相手はまさに異能です。もはや超能力に近い。現実的な対策では勝ち目がない」
「それは……悔しいけど、認めざるを得ない……。桜姫を消去するのは耐えがたいけど、でも拒めば、店の子たちに何をされるか……」
「違います。異能だからこそ戦える、そう思いませんか」
「……?」
「先生の言う重奏です。あれを使えば敵のところまで行けるかも知れない」
「……まさか!」
これは確信だ。
あの世界では迷子になった猫も探せる。おそらくは電脳空間を通じて、遠く離れた場所にいるハッカーすらも叩ける。
このハッカーは異常すぎる。先生は存在するとも思ってなかったようだ。ウィザード級と呼ばれる人は現実にも何人かいるが、それともケタが違う。
それはきっと、西都だからだ。
この街に先生が来たから、別の異能と出会ってしまった。おそらく互いに出会うはずもない人々が、オカルトが、超科学が、理解を超えた世界が、この町で重奏を奏でようとしている。それがどんな曲になろうとも。
先生はためらいがちに答える。
「しかし……重奏を対クラッキングに応用するなんて試したこともない、位相を解析するのにも時間が……」
「大丈夫です」
僕はスマホを見せる。それはずっと通話状態になっていた。コールできたのは事態の途中からで、こちらから何も発言はできなかったが、聞いていた人物ならば全てを察してくれるはず。
「姫騎士さんなら、きっと扉を開ける」
「……姫騎士さん、あの宿でも妙に慣れていたね、君たちは一体……」
「昼中さん」
スマホが初めて音を放つ。
「姫騎士さん、頼みたいんだ。前にやったように、電話で指示が欲しい。桜姫の中を覗いている相手と、接触するために」
「……昼中さん。賛成できません」
……!
「なぜ……」
「先生の言われる通りです。ぼんやりと見えていますが、その場所はとても危険なところです。それに今回は明確な敵がいます」
「それは分かっている。何なら僕が一人で潜ったっていい。すべて覚悟の上だ。差し違えてでも倒してみせる」
「……」
「一刻を争うんだ。お願いだ姫騎士さん」
「ちょっと待て、昼中くん、おかしいぞ。なぜそこまでする。桜姫を守りたいと思ってくれるのは嬉しいが、人の命には代えられない。まして君に何かあったら、それは姫騎士さんの責任ともなるぞ」
先生は困惑と怪訝さが混ざったような顔になる。
「……」
本当にそうだ。僕はなぜここまでするのだろう。僕はそんな軽々に命を投げ出す男ではなかったはずだ。
何よりこの件は姫騎士さんと関係がない。僕が姫騎士さんを使うような形になっている。それは僕が何よりも嫌なことのはずなのに。
だが。意志が思考に先んじる。
「迷ってる暇はないんだ。今動かなければいけない、そんな気がする。理屈はきっとあるけど、今は説明しきれない」
「……私は、今すぐそこに行ける場所にはいません。黒架さんも、おられないようですね」
姫騎士さんが言う。
「……ですので、電話はずっと繋げたままでいてください。私が戻れと言ったら必ず戻る、いいですね」
「分かった、ありがとう姫騎士さん」
「私も行くよ」
先生も手を挙げる。机の中から何か色々と取り出し、メイド服の胸元に仕舞う。
姫騎士さんの声が響く。
「道がかなり細くなってます。時間がありません。昼中さん、立ち上がって桜姫さんを抱きかかえて」
「ちょ、ちょっと待って、机の隠し棚に45口径が」
なんか不穏な単語が聞こえたけど、非常時なので黙殺。
「この音が聞こえますか」
電話から聞こえる、それは小銭の音だ。板張りの上に落ちている。
「聞こえる」
「眼をしっかり閉じて、この音だけに集中してください。私は少しずつ携帯から離れます。音を聞き逃さないように、残響の一つ一つを感じてください。そして完全に聞こえなくなったら、嗅覚まで動員して音を探そうとしてください」
ちゃりん、ちゃりん、と響く音。
10円玉だろうか。コインが床で跳ねて、いんいんと細かく震えながら空中で回転。
音がだんだんと小さく、いや遠くなる。
か細くなって、さらに角を曲がって奥へ。
扉の向こう、ふすまの向こう。さらに無限に遠ざかる。
音はどこだろう。
心細い。
僕はあらゆる場所に耳を澄ます。
何か小さな音が無数に聞こえる気がする。しかし小銭の音はない。
鼻をひくつかせる。匂いで音を求めようとする。
そして感じる、肉の焼ける匂い。
飴のような甘い匂い。木の匂い。通りすがる誰かの体の匂い。
「……!」
そこは、屋台街。
星もまばらな夜の町。左右にずらりと屋台が並び、着物で着飾った女性たちが、着流し姿の男たちが行き交う。わいわいと話し声が入り交じる。どこかで祭り囃子や太鼓の音も聞こえる。
「ここは、重奏。信じられない、機械のサポートなしでこんなにスムーズに」
メイド服姿の先生もいる。僕たちは互いに背を合わせて周囲を伺う。
「この場所は……」
やはり、かなり危険な場所か。僕と先生はそう感じただろう。
その屋台街は、宙に浮いていた。
天空から鎖のようなものが無数に降ろされ、建物を、床板を支えているのだ。言わば吊り橋の上に築かれたような眺め。
ただし道は直線ではなく、かなり入り組んでるように感じる。
そして一定の距離から先は何もない。町がぷっつり途切れていて、墨染の闇があるだけだ。
しゅるる、と、どこからともなく妙な音が。
見れば、蛇が這っていくところだった。誰もその蛇を気にせず、見もしない。その事に妙な不気味さを覚える。
蛇の這いずる町で、闇に浮かぶ泡のような世界で、人々は笑いさざめき、商売に興じる。
そして姫騎士さんの言葉が、この世界に名前をつける。
「百眼の蛇の途吊れ夜市」




