6 最高の楽器であり声(※ジャスミン視点)
地の底から響くような声は、フリージア様の身体のどこから発せられているのか予測もつかない。
最初に聴いたのは、ほんの小さな頃。5歳になったから、宗家に挨拶に行く、と言って同い年の女の子がいると聞いて楽しみにしていた。貴族社会は大きいけれど、狭い。こういう事でもなければ同年代の子と知り合う機会なんてほとんどない。
宗家のお嬢様も私が初めて出会う同年代の子だと聞いてドキドキしていた。どんな方だろう、仲良くなれるかな、お友達になれたらいいな、と思って出向いた屋敷は本当に広くて、そしてその子は私が来ると聞いて恥ずかしくて庭に逃げてしまったという。
形ばかりの挨拶を済ませ、お祝いの言葉を貰った後には、子供には退屈な時間だ。お庭を見せてください、と精いっぱい丁寧にお願いして、私はその子を探しにいった。フリージア様、というお名前だというのは聞いていた。
侯爵家のお庭は本当に広くて、それでも私が隠れるならどこかな、と思いながら一生懸命探していたら、耳に微かに触れた声があった。
よく聞く童謡だ。でも、この世のものとは思えない程の澄んだ声……形容し難い、水のようでもあり、風のようでもあり、子供の私にはそれを適当な言葉で表す術がなかった。
とにかくその声の方に向っていったら、茶色の頭が灌木の間に座って楽し気に揺れていた。この女の子の口からその童謡が聞こえていると理解した時には、雷が走ったかのように体が固まってしまった。
「天使さま?」
「え?」
私の声は自然に零れていて、その歌を止めたその女の子が驚いて振り向いた。
「……天使さまは、あなたじゃないの?」
「ううん、私はジャスミン。あの……フリージア様、ですか?」
身形もいいし、髪も綺麗に梳られている。振り向いた顔は普通の女の子に見えるけれど、声は間違いなく天使の声だ。
恥ずかしくてスカートを握って訊ねた私に、彼女は笑うと頷いて立ち上がり、逃げてごめんなさい、と言って一礼した。
私は逃げられたことよりも、この声が、あの歌が、本当に心地よかったので何も気にならなかった。
「ジャスミン様、五歳のお誕生日おめでとうございます。フリージア・ドントベルンです。よろしくお願いします」
「あ、ありがとうございます……。あの、お願いが、あるんですけど」
「何ですか?」
きょとん、と首を傾げたフリージア様は、その声の素晴らしさの価値を知らないようだった。私は伯爵家だから、フリージア様に何も強制する事はできない。けれど、この声と謝ってくれたことで一気に好きになってしまった。
フリージア様のことを守らなくては、とこの時に決めていた気がする。幸せになって欲しいけれど、この声だけが目的の男性なんて近寄らせたりしない。今思えば、これは独占欲だと思うのだけど……それからずっと、フリージア様は私と仲良くして大事にしてくれている。
低音の響きが揺らぎを持って歌になる。歌詞のない歌。暁を迎えた草原に陽が差し込む音階は、徐々に、そして手の上を絹が滑るように滑らかに上がっていき、全く無理の無い最高音はどんな鐘の音よりも心地よく耳に響く。
低音から高音に移ると、拍子が早くなる。変調、というものらしいが、私はさっぱり音楽の才能は無かった。
鳥が囀るように短い高音が発せられ、余韻の間にソプラノのメロディが会場を満たしていく。
そして完全に陽が上り、山脈の影が落ちて空が澄んだ青空に染まるように、低音から高音へと何度もメロディは往復し、最高音までを天上の楽器としかいえない声で紡いで喜びを歌ってその余韻に会場は静まり返った。
少しどうしていいか分からないように、さっきまで堂々と両手を広げて歌っていたフリージア様が視線を泳がせてからお辞儀をする。
割れんばかりの拍手が、会場を満たした。
フリージア様。私は、やっぱり貴女が、どうしようもなく好きです。恋心ではなく、どこまでも優しく人間らしい貴女が、奇跡の声と音感を持っている。その全てが、本当に好きです。
最前列で聴いていた私に視線が向かないのが、少し悲しいと思うのは、私の傲慢だと分かっているけれど……、あの令息のことは私がしっかりばっちり調べるので、私から離れるのはしばしお待ちくださいね?




