第8話
……という体験をし、カルチャーショックを味わったのだ。
でもどうしてこのタイミングで、養父は散策のことを話題に挙げたのだろう……?
「その日、セリーナとシャノンが教えてくれたのだが、君は町の若者に口説かれた時、うまく対応ができなかったそうだな」
養父はそう問うけれど、咎めるような響きはない。
私はこっくり頷き、おそるおそる口を開いた。
「……はい。その、これがこの国では当たり前なのだとセリーナやシャノンから聞いて、驚きました。私が暮らしていた国では、あまり見かけない光景だったので」
「文化の違いとなれば、仕方はないことだろう。……だが、私はその点で心配なのだ」
養父に言われ、ようやく彼の言いたいことが掴めてきた私はごくっと唾を呑んで言葉を待つ。
「結婚後、ずっと家に閉じこもるわけにはいかない。必要に応じて外に出て、人々と友好関係を深めることも必要だろうし、夫の立場によっては夜会などに夫婦で出席することもあるだろう。その時、礼法やダンスはこなせたとしても、君が誰かに口説かれた時、うまく対応できない可能性があるのではと危惧しているのだ」
養父の言葉は私が想像していたとおりのことで、なんだか恥ずかしいやら面目ないやらで、私は視線を落としてドレスのスカートをぎゅっと握った。
「……申し訳ありま――」
「だめだぞ、キーリ。それは君の悪い癖だ。男性に慣れていないというのは、君の能力云々ではなく、育った環境が理由だろう。自分の非がないのに反射的に謝ろうとするのは、やめなさい」
養父に言われ、私は思わず彼の顔を凝視してしまった。
口癖が「ごめんなさい」「すみません」「申し訳ありません」である日本人なんて、腐るほどいるだろう。少なくとも私が働いていた会社では、反射で「すみません」と言ったために気を悪くされたことはない。
……でも、養父の言うとおりだ。今すぐにこの染みついた癖を直すのは難しいだろうけど、「この世界の人間に溶け込む」ことが目標である以上、悪い意味で日本人らしい行動は直すよう心がけないと。
「……分かりました。少しずつ、改善させてみます」
「うむ、そうするべきだろう。……ああ、話がずれてしまったな。とにかく、この国に溶け込もうと思ったら異性に慣れる必要があるというのは、分かってくれたかな?」
「……はい。あの、どうすれば慣れるでしょうか?」
人生二十一年。「いい感じ」まで発展した男友だちはいるけれど、いわゆる彼氏にまでなれた相手はいない。
学生時代は「まあ、就職すればいい人が見つかるでしょ」と軽い気持ちでいたけれど、いざ就職した会社は例のごとくで、恋をする暇もない。
……そういえば私に仕事を押しつけたあの女、どうなったんだろう。彼女から預かったデータはいつもパスワードを付けて、完成したら彼女にデータとパスワードを教えるようにしていた。
もしかすると、データは未完成だしファイルは開けないしで、困ってるかもね。知らんけど。
「ああ、そこで強力な助っ人を迎えることにしたのだ」
養父はそう言うと立ち上がり、続き部屋に向かった。そっちは確か、執事とかの待機場所だったと思う。
養父がドアを開け、「来なさい」と言う。そうして部屋に入ってきたのは――
「……ユーイン?」
「こんばんは、お嬢様」
灰色の髪の従僕は私を見、柔らかく微笑んだ。
従僕のお仕着せ姿の彼は例のおじぎをすると、デスクの横に立った。
右肘だけ曲げてお腹に添える格好で立つユーインは、姿勢がいいこともあって一つの芸術品のようだ。美術館のお立ち台の上に立っていれば、かなりの客を集められるんじゃないだろうか。
……ん? ちょっと待って。
「あの、お父様。助っ人というのは……」
「そう。このユーインを、君の新しい教育係に据えるのだ」
椅子に戻った養父はそう言い、目を見開く私に向かってニッと微笑みかけた。
「彼は昼間は従僕、夜はカジノのディーラーとして働いているだけあり、言葉遣いも礼法も完璧だから、共に行動するだけで君の勉強にもなるだろう。それに彼は話術も得意で、リベリアの男らしい華やかさがある。彼がいることに慣れたら、そこらの男のほとんどが口下手な幼児に見えることだろう」
養父はなぜか誇らしげに言うけど……そ、それってつまり、女性を口説くのが当たり前なリベリア王国でも、ユーインは屈指の口説き名人ってこと?
ユーインの口説き文句をさらっと流せるようになれば、結婚して多くの人と触れあっても赤面したり、どもったりせずに済むと……?
私は、ユーインを見た。
ユーインは目を細め、ふふっと小さく笑う。
「そういうことで、旦那様直々のご指名をいただきました。ブラッドバーン家に仕える者として、光栄に思っております」
「……え、えーっと……」
「あなたを、どこに嫁いでも恥ずかしくない淑女に育てて差し上げましょう。……よろしくお願いしますね、キーリ様」
色男は、そう言って妖艶に微笑んだ。
恋愛偏差値底辺のこけしは、口から魂を飛ばしていた。
「無理……毎日あの顔であの声で口説かれるんでしょ!? 無理……恥ずかしさと緊張で爆破する……」
「いいじゃないですか。ユーインを選んだお父様には共感しかありません」
「そこらの一般市民よりはずっと、信頼できる相手だものねー。よかったんじゃないのー」
書斎を出た私は、居間に転がり込んだ。屋敷には居間だけでも複数存在するけれど、ここは「淑女の間」と呼ばれていて、男子禁制の女の園だった。
使用人も含めて男性は立ち入り禁止となっていて、ブラッドバーン家の女性陣が女性ならではの相談をしたり、雑談をしたりするための談話室となっていた。
まだ夜も早い時間だからきっと誰かいるはず、と思って駆け込んだところ、セリーナとシャノンがお茶を飲みながらレース編みをしていた。
彼女らは私が養父に呼ばれていたことを知っているから、私を見るとすぐに席を用意し、侍女がお茶を淹れてくれた。
この世界のお茶は茶葉からして地球とは違い、どことなくきゅうりのような匂いがした。でも日本で飲んだことのある紅茶より甘くてとろみがあるので、匂いさえ我慢したらとてもおいしくて飲みやすかった。
そんなお茶で渇いた口と心を潤して先ほどの出来事を教えたのだけれど、二人の反応は私が期待していたものとはずれていた。
「お父様が心配なさるのも、よく分かりますもの。確かにお姉様はとても奥手でいらっしゃるから、結婚してから苦労されそうだと思ってましたから」
「恥ずかしがり屋なのはお国柄仕方ないことだけれど、確かにこのままだと浮いてしまいそうだものねー」
「うっ……」
セリーナたちの指摘はもっともすぎて、胸が痛い。
この世界の人間に溶け込み、平穏無事な人生を送りたいと思ったからには、溶け込むための努力が必要だ。だから礼法もダンスも文字の練習も張り切って取り組んできたけれど、これはちょっと毛色が違いすぎる。
「あんな顔面偏差値で殴られるだけでもこっちは虫の息なのに、あんなイケボで囁かれたら私は死ぬ……」
「ヘンサッチとイケボとは、何のことですの?」
あ、どうやら「偏差値」と「イケボ」は、セリーナの魔力でもうまく訳できなかったようだ。まあいいや。
「……それにしても、ユーインが先生になるってことは、私は口説かれるんでしょう? 全然想像できないのだけれど」
単純に、普段アラスターからシャノンへの接し方をユーインに当てはめてみるけれど、あの笑顔の素敵なお兄さんが私に向かって「私の天使」「愛しいお姫様」と口説くシーンが想像できない。
というか、ユーインってそういうキャラなの? どことなく大人っぽい雰囲気だとは思っていたけれど、口説くの? 見たことないけど?
私がそう言うと、シャノンは長い睫毛を瞬かせて首を傾げた。
「あらー? これまでユーインが誰かを口説く場面を見たことがないのは、当たり前でしょ? 彼は仕事としてこの屋敷やカジノに出入りしているのだから、仕事中に女性を口説くのはさすがにだめだものー」
「それに、今回はお父様直々の推薦があったから例外になるけれど、使用人が自分の主人やその家族にアプローチをかけるのは禁止されているのですよ」
セリーナの指摘は、散策の日にも聞いた気がする。
えーっと……つまり、アラスターや町で見かけた男の人が積極的で、ユーインが恋愛に無関心というわけじゃない。
ユーインもリベリアの男らしく睦言を囁くのが得意で――これまでは仕事中だからそういう面を見せなかっただけ、ということか?




