第38話
――意識を持って行かれそうになった瞬間、バチン、と頭の中で鞭がしなったような音がし、私ははっと我に返った。
「敵襲か!?」
「使者様を――いや、それより吸引機を守れ!」
周りでたくさんの人が叫んでいる。何かが壊れる音がしている。
地面が揺れ、誰かが悲鳴を上げ、何か大きなものが転がる音がしている。
我に返った私だけど、その場にへたり込むしかできなかった。目の前には相変わらず、でかい水晶が鎮座している。
さっきまでは真っ白の雲が漂っていたその内部はなぜか、少しだけ赤く染まっていた。
まるで血のような――私の生命力のような色に、ぞっとする。
「キーリ!」
「無事か! 助けに来たぞ!」
背後で、誰かが叫んでいる。
懐かしい、待ち望んでいた人たちの声だということは分かる。
でも、振り返りたくても振り返られなかった。冷たい床にへたり込んだまま、私はびくとも動けない。
体に力が入らなくて、ぼんやりと水晶を見上げることしかできなかった。
でも、タタタン、と階段を上がる音がして――私の体が乱暴に引き上げられた。
明らかに私の味方でない者の腕。
「邪魔者が――! 愚か者共め、使者の魔力を味わうがよい!」
この声は、宰相だ。
彼は私の右腕を掴んで無理矢理立たせると、私のドレスの左腕の裾をぐいっと引っ張った。そして手袋を脱ぎ捨てた左手で私の左の二の腕を掴んだ――瞬間。
光が、溢れた。
誰かが悲鳴を上げている。
何かが削れる音がしている。
セリーナ、と妹の名を呼ぶアラスターの声が聞こえる。
私は呆然として、目の前の光景を見るだけだった。
これは……いったい、何?
巨大な光の槍が宰相の手から溢れ、部屋を貫いた。特別な素材で作られているのか、天井や壁は無傷だけど、足元のタイル床はまるで彫刻刀で削られたベニヤ板みたいに抉れ、生々しい傷跡を露わにしている。
ぱらぱらと粉塵が舞う中、倒れてる人々。
その中には見知った顔もあるし、赤い血だまりに浮く白ローブの人もいる。
――体中が冷たい。
吐き気よりもむしろ、本能的な恐怖で呼吸が苦しくなる。
……どうして、味方まで?
そこまでしてこの人は、私の魔力がほしいの? 装置を守りたいの……?
宰相は再び私の腕を掴み、光の槍を放った。
女性の悲鳴が、爆発音が、聞こえる。
ブラッドバーン家の使用人が、黒い女性が、倒れている。
なんで、なんで、どうして?
「……どうして、こんなことを」
「全ては国の平安のためです……使者様」
呟きを拾った宰相が、恐ろしいほど静かに言う。
「二百年間守り続けた伝統を、ここで失うわけにはいかない。……皆も、己の職に殉じられたこと、名誉に思っているでしょう」
……名誉? そんなわけない。
だってあの白ローブの人は、「助けて」って言っているよ。
そこの黒い女性も、「痛い」って泣いているじゃない。
血を流して、足が変な方向に曲がって、死にたくないって言ってるのに?
「……う」
「ん?」
「そんなの、違う……!」
何が国のため、平安のためだ。
異世界人のみならず、自分の国の人を巻き込んでも平気でいて、そんな人が伝統とか平和とかを語るんじゃない!
「間違ってる……こんなやり方も、魔力に頼ることも……! 異世界人召喚なんて、私たちの力なんて……在るべきじゃない……!」
「……もしかしてあなたは、知ってしまっているのですか? だとらしたら、厄介な」
宰相がじとっと見てきたので、どきっとした。
体は動かせないから必死に言葉で戦おうとしたけれど、脆弱な私は一瞬で怖気を震ってしまう。
でも、そのなけなしの抵抗が、勝機を繋いだ。
宰相が私の言葉に気を取られた一瞬の隙に、銀色の光が舞った。
たん、たん、と軽やかに階段を上がったその人は私たちのすぐ脇に躍り出ると、魔法の構えをした。
はっとした宰相が振り返り、魔法を放とうとする。でも、銀の光は驚くべき身のこなしで体を捻った。
魔法の構えをしたのは、フェイクだ。
宰相が狼狽えた隙を衝き、その人は一気に距離を詰めると――
「……キーリ様!」
私の右腕を掴み、宰相の手の中から引き抜いた。
そして一瞬で私を腕の中に引き寄せると前を向いたまま背後に跳躍し、階段を一気に飛び降りて華麗に着地した。
ほんの数秒の間に、私は宰相の手の中から逃れていた。
私を抱き寄せる腕は力強くて、さらっと頬を擽る灰色の髪が愛おしくて、胸元から香る匂いが優しくて。
「ユーイン……」
「お待たせして、申し訳ありません。……お迎えに参りました」
青紫の目が、私を見下ろしている。
その双眸があまりにも優しく、泣きたくなってしまった。
ユーイン、ユーインだ。
彼が来てくれた。助けに来てくれた。生きていてくれた。
でも、彼はすぐに視線を前に向けた。その先には、怒りの形相であのでかい水晶に片手を押し当てている宰相が。
「死に損ないの溝鼠が――! 国に牙を剥く反逆者め!」
「老いぼれはせいぜいほざいていろ。……キーリ様、ナサニエル殿――いえ、陛下から聞かれているでしょうが。……お力を、貸してください」
彼にしては珍しい雑な言葉を吐いた後、ユーインは震える声で私に呼びかけた。
彼が言いたいことは、すぐに分かった。
王様は、「力を求められた時には、協力すること」と言っていた。
そして、ブラッドバーン家の使用人であるユーインが強力な魔法使いであることも私は知っている。
ユーインは、迷っている。
そして、許可を求めている。
いくら目的のためとはいえ、これでは宰相と同じように私を利用しているのでは、と思っているのだろう。
……本当に、優しい人。
「……いいよ」
「キーリ様……」
「ユーインなら、いいよ。あなたなら、私の力を使ってもいい、力を貸しても大丈夫だ、って信じてるから。私の全部を、あげる」
宰相とは違う。彼は、私を裏切らない。きちんと目的を遂行してくれると、信じている。
ユーインの瞳が触れた。
そして彼は頷くと、正面から私を抱き寄せた。
「……キーリ様。私を信じてくれて、ありがとうございます」
「……うん」
「あなたの力、お借りします。……必ずや、御身に平安を。この国に、あるべき秩序を――」
まるで厳かな祈りのように告げた彼は、そっと私の首筋に触れた。
そこがチリリと熱くなり、あの体中が凍えるような寒気と吐き気、恐怖が沸き上がってくる。
怖い、寒い、痛い。
でも、大丈夫。我慢できる。
私の意識は朦朧としていたけれど、ユーインが片腕を上げ、そこから銀色に輝く光の矢を放ったのが見えた。
暖かくて眩しい光は斜めに飛び、階段を抉り、強固な壁をも粉砕して宰相を吹っ飛ばし――あの忌々しい水晶に激突した。
ビリリ、ギリリ、と黒板を爪で引っ掻いたような音が響く。
水晶が、抵抗している。
ユーインの魔法を弾こうと、悲鳴を上げている。
ユーインの腕が震えている。私はなけなしの力で彼にしがみつき、「もっと」と声にならない叫びを上げた。
大丈夫、もっと私の力を使って。
皆のために、国のために、私を利用して。
キーリ様、と微かな声がした。
その直後、後頭部をぶん殴られたかのような激しい衝撃が私を襲い、もう何もかも分からなくなった。
ここは、どこだろう。
きらきら光っていて、とてもきれいだということは分かる。
そうしていると、ふわふわと人魂のようなものが沸き上がってきた。数は、百近くあるかもしれない。
それらは、よく分からない言葉を囁いて消えていった。でもいくつかは私でも理解できた。「Thank You」と、「ありがとう」だ。
ああ、そっか。
みんなやっと、帰れるんだね。
『ねえ、あなた』
感謝の言葉以外の声が聞こえて振り返ると、そこには暖かそうな人魂が浮かんでいた。
『ありがとう。これでやっと皆も、故郷に帰れる』
故郷に――それじゃあやっぱり、ここに浮いているのは本当に人魂で、みんなは――これまでに犠牲になった、使者たちなのか。
『どうか、私の子孫たちに伝えて。アヤはこの国のことは大嫌いだけど、最後までサイラスを愛していた。彼が本当に望んだリベリアになるように、若い王様を助けてあげて、って』
人魂が言うけど――アヤ?
日本人女性のような名前だけど……聞いたことがない。
でも、子孫って……サイラスを愛していたって……?
もうちょっと質問したかったけど、それだけを伝えた人魂はふわりと上昇し、他の仲間たちと一緒に昇っていった。
その光景は眩しくて、私は目を細めて彼らの旅路――いや、帰郷を見送った。
きっともうすぐ彼らは世界を越えて、生まれ育った世界に――地球に、戻れるはずだと信じて。




