第18話
「……あ、ありがとう。あと……ごめんなさい。あなたのこと、疑って」
「はは、気にしないでください。確かに私は普段から、あなたに嫌われるようなことをしている自覚はありますからね」
「あるんだ……」
「もちろんです。……それはともかく、なんだか嬉しいですね」
「何が?」
問うと、ユーインは私の手をそっと顔の高さに持ち上げ――それこそ物語の貴公子のように、指先にそっと唇を寄せた。
えっ、何これ!? 指先にキス!?
そんなの礼法の授業で習ってないけど!?
「ひぇっ……!?」
「実はセリーナ様やシャノン様からも、昨日のことは伺っています。……あなたは異性に話しかけられても、軽く手を取られても、目の前でしゃがまれても、ほとんど動揺なさらなかったそうですね」
あ、やっぱりセリーナたちからある程度のことは聞いていたんだ。
確かに、ザカライアに靴紐を結ぼうかと提案された時とか、別の男の人がグローブ越しに手に触れてきた時とかがあったけれど、かつてのようにはしたなく赤面したりはしなかったはずだ。
ユーインは私を見、自分がさっき口づけた指先にふうっと息を吹き付けてきた。とたん、私の頬がかっと熱を持ち、ユーインがくつくつと喉の奥で笑う。
「でも……私がこうして触れると、あなたは素直に顔を赤らめる。それが分かって……嬉しいのですよ」
……え、ええ? 嬉しい?
私が顔を赤くすると、ユーインが? なぜに!?
「……。……町で知り合った人は、ユーインみたいにこっちが恥ずかしくなるような迫り方はしなかったもの」
「ああ、そういうことですか? では、キーリ様は私に迫られたから、恥ずかしいのですね?」
この人は、自分の顔面偏差値の高さをちょっとは意識した方がいい。
……いや、もしかして分かっていて言っているのか? それはそれで質が悪い!
またしてもレスバに負けた私は、視線を逸らすことで降服の意を示した。ユーインはにっこりと笑うと私の手を解放し、立ち上がる。
「……さて、よい報告も聞けたことですし、そろそろお暇してもよろしいでしょうか?」
「……あ、うん。ユーインはこれから、こっちでお仕事?」
「はい。アラスター様が市場の視察に行かれるのでその準備のお手伝いをし、その後は食器の手入れ――それから、昼餐の給仕もします」
ざっと聞いただけでも、かなりの仕事量だ。
「……忙しいのに、時間を取らせてしまったわね」
「いえ、これも仕事ですからお気になさらずに」
ユーインはさらっと言う。
それもそうか、これもお父様から命じられた仕事であって、彼が好きこのんでやっているわけじゃないものね。
……そう。仕事だから、私みたいな突貫お嬢様にも丁寧に接してくれるのであって。
「……うん。あの、なんだかんだ言ってしまうけど……私、あなたのことをすごく頼りにしてる。いつも、ありがとう」
きちんと姿勢を正し、笑顔で礼をする。
いくら仕事とはいえ、お世話になっている相手には礼を言わなければならないだろう。この世界では師弟関係はそこまで厳密ではないみたいだけど、お礼を言って怒られることはないよね。
……でも、ユーインはなぜかちょっと目を細め、渋いものでも食べたかのように顔をしかめて私を見ていた。
……あ、あれ? なんか、迷惑そう……?
「……ユーイン?」
「……その顔、他の男には見せない方がいいです」
「……そんなに不細工だった?」
「どうしてあなたはそういうところで卑屈になるのですか。不細工どころか、今までにないくらいとてもきれいな笑顔です」
……お、おや? これはもしかしなくても、褒められてる?
しかも勉強内容とかじゃなくて、笑顔を?
あまりに意外だったので、照れることも忘れてまじまじとユーインの顔を見てしまう。彼は気まずそうに視線を逸らすと、ジャケットの裾を翻して背を向けた。
「……では、失礼します。次の『授業』は明日以降になりますので、またよろしくお願いします」
「あ、うん。お仕事頑張ってね」
こっちに背を向けたまま喋るなんて、ユーインにしては珍しい。
……それにしても、「とてもきれいな笑顔」……か。
それを言った時のユーインの声が脳裏に蘇り、なんだかとても恥ずかしくなった私はソファに置いていたクッションを抱きかかえ、丸くなったのだった。
居間を出たユーインは一礼し、ドアを閉める。
そして、すぐ脇の壁に寄り掛かっていた女性を目にし、にこやかに微笑んだ。
「おはようございます、セリーナ様。そのような場所に寄り掛かられては、お召し物が汚れてしまいますよ」
「おはよう、ユーイン。誤魔化すのがだいぶ上手になったわね」
挨拶を返すだけでなく茶化しも入れたセリーナは体を起こし、背の高い従僕に笑みを返す。だが、口元は笑っていても目元は笑っていない。
彼女を伴って歩きながらも、ユーインは鉄壁の笑顔を崩さない。
「はて、何のことでしょうか?」
「さあ、何のことでしょうね。……それと、先ほどの居間での振る舞い、あなたらしくもないわね。目上の者に対して背を向けたまま喋るのはよろしくないわよ」
「盗み見とは素晴らしい癖をお持ちですね」
ユーインは薄く笑った。
キーリと話している間、廊下にセリーナがいることは分かっていたし、彼女が魔法で居間の様子を覗き見していることにも気づいていた。
「敬愛する『姉君』が、そんなに心配ですか?」
「どちらかというと、あなたがお姉様を味見しないかの方が心配で見ていたのよ」
「それは聞き捨てなりませんね。私は見ての通り、清廉潔白な紳士です。養女とはいえ、旦那様の娘御で火遊びなんかしませんよ」
「ふっ。清廉潔白な紳士、が聞いて呆れるわね」
セリーナは、キーリの前では絶対に見せないようなしらけた顔で笑い飛ばした。
お互い知り合って十年来になる彼らにとって、毒も交えた言葉をぽんぽんとかわすのはもはや呼吸をするように自然なことだった。
別に行き先が決まっていたわけではないが、二人の足は自然とセリーナの部屋に向かっていた。
ユーインとしてはさっさとセリーナを部屋に放り込み自分の仕事に戻りたいからで、セリーナも盗み見という目的を終えたからだろう。
ふいに、思い出したようにセリーナが言う。
「……あなたは聞いているかしら。お父様が、お姉様の結婚相手としてミルズ領主あたりを候補に入れているって」
「ミルズ……東の穀倉地帯を抱える地方ですね」
「そう。ものすごく裕福というわけではないけれど気候は穏やかで、穏和な領民が多い。交易路から外れているから、外に出てもあまり人と接さなくて済む。それに、ミルズ領主は二十代後半で、独身。お姉様の結婚相手にぴったりだと思わない?」
ユーインは、足を止めた。
セリーナも立ち止まり、従僕をじっと見上げる。
「……あなたは、お姉様のことを気に入っているみたいね。それを悪いことだとは思わない。でも、わたくしたちは何があっても、あの方を失うわけにはいかない。お姉様が平穏無事に天寿を全うしなければ――我々の悲願の達成まで、遠くなってしまう。それを、忘れないで」
ユーインは、何も言わない。セリーナは「もうここまででいいわ」と言い残すと、豊かな金髪を靡かせて自室に向かっていった。
ユーインはセリーナの後ろ姿を見送り、肩を落とした。
「……そんなの、最初から分かっている」
ぽつんとこぼした声は、廊下に虚しく響くだけだった。




