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第12話

 私がブラッドバーン家に養子入りして、一ヶ月が経過した。


 この世界は一年が三百日の六ヶ月、つまり一ヶ月は五十日という計算だ。

 それだけで計算すると地球よりも若干年月が流れるのが早いと思われるけれど、体感ではあるけれど一日の長さが地球よりやや長めな気がする。だから多分、一年の合計の長さは地球とあまり変わらないのではないだろうか。


 リベリア王国は日本ほど四季の変化がはっきりしていなくて、どちらかというと一年中寒冷な気候のようだ。

 一月――つまり新年は真冬スタートで、二月が春。三月の後半から暑くなってきて、四月に真夏を迎える。

 五月から少しずつ気温が下がり、六月になると全ての地域で落葉を迎え、山岳部から徐々に雪が降り始めるという。


 私があの森で保護されたのは日本時間で言うと秋だったけれど、この世界では二月の春真っ盛りの時季だったようだ。

 そこからだんだん暖かくなり、三月の半ばになった今は薄手のブラウス一枚で十分過ごせるくらいまで気温が上がっていた。


 家庭教師による授業は、良好だ。マダムの授業では四苦八苦しつつもテストで合格できるようになったし、森本先生からも「体幹が鍛えられている」と褒められた。

 富田さんとは字の練習を兼ねて毎日文通をしているし、最近では子ども向けの本なら一人で読めるようになった。二十一歳としては十分頑張ったんじゃないかと、自分でも思っている。


 ……ただし、四人目の先生による授業はなかなか難航していた。というのも先生であるユーインは神出鬼没で、いつ「授業」が始まるか分からない。

 マダムたちのように決まった時間にやってきて授業を始め、定時になったら帰るわけじゃない。


「さあ、教本の五十二ページ……ここを音読してみましょうか」

「……分かった。でも、ユーイン。どうしてあなたは私の後ろにいるの?」


 今、例の色気魔神は椅子に座る私の後ろからまるで抱きかかえるような形で、私が広げる教本を覗き込んでいるのだ。


 どうしてこうなったのかというと、富田さんの授業に向けて図書室で自習をしていたところ、アラスターのお遣いで本を返しに来たらしいユーインと遭遇してしまったのだ。


 彼は私を見るとにっこり笑い、「せっかくだから、『授業』を始めましょうか」ということで、私が子ども向けの教本を音読する「補助」をすると申し出たのだ。


 いや、補助は遠慮します。一人で読ませてください、という旨をオブラートにぐるぐる包んで伝えたのだけれど、

「おや、そんなことをおっしゃっていいのですか?」

「あらゆる場面を想定して『授業』をするのがいいと思うのですが……残念です」

と、わざとらしく悲しそうに言いながら、実際はちゃっかり煽ってきやがった。


 むっとした私が、「分かった! そこにいれば!?」と投げやりにオッケーを出したものだから、ユーインはしてやったりとばかりに笑って迫り、いつの間にかこんな体勢になっていたのだ。

 いや、わけ分からないんだけど!?


「色々な場面を想定しているとはいってもさすがに、恋人でもない人がこんなに密着するとは思えないんだけど?」

「分かりませんよ? 町ですれ違う男が全員、素面でまともな思考を保っているとは限りません。ちょっと酒が入って気が大きくなっていたら、ボディタッチをしてくる者もいます。もちろん、そういうのをうまくあしらうのが素敵な女性の条件でもありますからね」


 本当に、ああ言えばこう言う状態。そもそも私はこの世界の知識に疎く、ユーインは慣れているから、言い合いになった時に負けるのはいつも私だ。

 ちなみにユーインは二十四歳とのことだから、育った世界の差を考慮から外して単純計算しても、私より三つほど年上ということになる。


「そういえば……キーリ様は明日、セリーナ様やシャノン様と一緒に町の散策に行かれるそうですね」

「……ええ。そろそろ自分の足で王都を歩いてみるのもいいだろう、ってお父様に言われているから」


 なんとか五十二ページを読み終えたところで尋ねられたので、私は頷いた。


 私が自分の足でまともに王都を散策したのは、ユーインを「先生」に据えるよりも前のことだ。その時に女性を熱烈に口説く男性たちの姿を目の当たりにしてカルチャーショックを感じたのが、懐かしく思われる。


 それ以降は基本的に車に乗って移動し、車窓から町並みを見るだけだった。


 ちなみに、「車」と魔法で通訳されているけれど実際は自動車というよりバスに近い形をした乗り物のことで、魔力で地上一メートルほど浮遊して移動するものだ。

 これを動かすのにはかなりの魔力が必要らしく、車を所有しているのはたくさんの使用人から魔力を供給できる富裕層のみで、一般市民は昔ながらの馬車を使っているそうだ。


 車窓から見るだけでも王都の町並みは楽しめたけれど、やっぱり自分の足で歩いて色々な体験をしたい。

 養父も、「これくらいの作法ができるようになったのなら、行かせてもいいだろう」ということで、案内役のセリーナとシャノンを連れて遊びに行くことが許されたのだ。


 ……そのことを従僕であるユーインが知っているのは、おかしなことではない。でも、何か小言でも言われるのだろうかと反射的に身構えてしまい、彼はそんな私を見下ろしてふっと笑った。


「そんなに硬くならないで。ほら、もっと柔らかい表情をなさったらよりいっそう魅力的に見えますよ?」


 私の顔を覗き込んだユーインに言われ、私はむっとしつつ――内心では、「この人は本当に、人を褒めるのが上手だ」と舌を巻いていた。


 彼との付き合いも一ヶ月になるが、彼は私の喜怒哀楽のポイントをよく把握している。私が彼の発言で怒るとしたら、それは私をからかおうとした彼の計算内のこと。

 彼はただ単にデロデロに甘い言葉をぶつけてくるんじゃなくて、私が言い返せないような絶妙な点を突いてくる。


 今だって、たとえ同じような表現でも「可愛い顔が台無しです」と言えば私が機嫌を損ねるって、分かっていたはずだ。

 私は正直自分の顔にそこまで自信がないから、「そんな顔をすれば可愛くなくなる」より、「笑った方が可愛くなる」と言われる方がまんざらでもない。


 ……まあ、そういうのを全部ガッチリ掴まれているというのは、ちょっとだけ悔しい気持ちにもなっちゃうけど。


「……善処はする。それで、明日のお出かけについて何か言いたいことでもあるの?」

「いえ、旦那様が許可してくださった外出ですから、私からは何も申しません。それに、セリーナ様とシャノン様も一緒ですからね。あのお二人はあれでなかなか強かでたくましいので、困ったことがあればお二人を頼ればよろしいでしょう」


 従僕にしては、やけにずけずけとものを言う人だな。まあ、あの二人ならユーインに「たくましい」と言われても怒ったりはしないだろうけど。


「しかし、せっかくこうしてあなたに教えを授けているのですから、学習内容の復習の場としても活用してもらいたいと思っています」

「……えーっと、それってつまり、もしお出かけ中に知らない男の人に口説かれても、できる限り対処してみろってこと?」


 私が問うと、ユーインは「正解です」と満足そうに笑った。


「もちろん、どうしてもという時や思ったほどうまく言葉が出なかった時は、セリーナ様たちを頼ればよろしいでしょう。しかし、私が教えてきたことを少しでも実戦できたなら……私としても嬉しく思います」

「ユーイン……」


 ユーインを見ると、彼は力強く頷いた。こういう時の彼は甘い言葉を囁く時のような浮ついた雰囲気ではなく、頼りになる「先生」の顔をしている。


「残念ながら明日は昼から深夜まで、カジノに行かなければなりません。ですのであなたたちのお出かけの様子を聞くのは明後日になってからになるでしょうが……何にしても、楽しんできてください。そして、もし私によい報告ができそうなら是非教えてくださいね。楽しみにしています」

「……分かった」


 答えつつ、ちょっと気落ちしてしまった。本を取りに席を離れたユーインの背中を見つめながら、ため息を一つ。

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