第10話
私の腰を片手で支え、もう片方の手でぱたん、とドアを閉めたユーインは、ぱちんと指を鳴らして部屋の灯りを付けた。
そして呆然とする私を見下ろし、ついっと唇の端を持ち上げて笑う。
「いけませんよ、お嬢様。こんなに簡単に男に押し入られるようでは」
「……を?」
唇からは、間抜けな声しか出てこない。
いつの間にか私とユーインの体はぴったりと密着していて、腰を抱かれた私が彼の胸に抱きつくような形になっていた。
ユーインは背が高いから、私の目線の高さに彼のクラバットを留めるブローチがある。いつの間にか彼の胸に両手を添えるような格好になっていて、ジャケット越しに男の人の硬い胸の感触が――
「ぎっ……!」
「おっと、お静かに。もう夜ですよ」
ぎええ、と叫ぼうとした口が塞がれる。なんかこの状況、妙なデジャビュがある。森の中でユーインに保護された時も、悲鳴を上げそうになった口を封じられたんだ。
ユーインは左手で私の口を覆い、ふふっと小さな笑みをこぼした。
「本当に、可愛らしいお方です。あなたは本当に、純粋培養されて育ったのですね。こんなにいたいけな反応をされると、なんだかとっても悪いことをしているような気になってきます」
純粋培養で育った覚えはないけれど、男慣れしていないのは確かだ。というか、日本ではこんなにぐいぐい迫ってくる人はいなかった。本当はいたかもしれないけれど、少なくとも私は迫られたことがない。
むぐむぐ声を上げるとようやく口を解放され、ぷはっと大きく息をつく。
「鼻で息をしなかったのですか?」
「そんっ、そんなの、急に言われても! できないに決まってるでしょ!」
「それは困りますね。いずれあなたが結婚して夫となる方と口づけをする際、鼻で呼吸する方法を知っておかないと酸欠になりますよ?」
ユーインはしれっと言うけれど……えっ、酸欠になるくらいのキスをするの!? それって、小説の中だけのフィクションじゃなかったの!?
私がゼイゼイ息をつきながら睨むと、ユーインは薄い笑みを浮かべて私から離れた。やっと彼の拘束から逃れられ、私はへろへろになりながら後退してユーインとの距離を取る。
「こっ、こんなことするなんて、聞いてない!」
「おや、旦那様がおっしゃっていたではないですか? 私はあなたの教育係に任命されました。あなたが結婚しても婚家で恥を掻かないため、あらゆる場面を想定して教えを施し、あなたが『慣れる』よう手助けをするのが、私の役目ですからね」
いけしゃあしゃあと言うけれど……それじゃあ森本先生や富田さんみたいに、「今から授業を始めます」「これで授業を終わります」でオンオフを切り替えるんじゃなくて、いつどこでこの人が迫ってくるか分からないってこと……?
「……心臓が保たない」
「大丈夫です、少しずつステップを踏んでいけば心臓が壊れずに済みますよ。……それとも、やっぱり無理だと旦那様に泣きつきますか? 教育係を変えてほしいと申し出ますか?」
そう問うてくるユーインは、笑っている。でもそれは決して親しみのある笑みではなくて、私を試すかのような剣呑な瞳の輝きを孕んでいる。
……チープな方法で喧嘩を売られたと分かっても、さらっと流すことはできなかった。
もとより、私自身の承認の上で淑女教育を始めたんだ。「やっぱり無理」なんて泣きつくつもりはない!
「……いいえ。皆の厄介になっている身空で、そんなことは言わない」
「ほう……」
「私は、私を保護してくれた人たちに報いたい。だから……ユーイン。私を鍛えてください!」
ここまで言ってしまうと引っ込めないので、最後には叫ぶように訴えた。
ユーインは少し驚いたように青紫の目を見開いた後、すっと細めた。どことなく冷たささえ感じられる眼差しに一瞬怯んでしまうけれど、視線を逸らしたりはしない。
「……殊勝な心がけですね。途中で音を上げたり泣きついたりはしませんか?」
「えっと……ちょっと弱音を吐いたり愚痴を言ったりはするかもしれないけど、絶対にやめない! あなたに教わると決めたからには、チェンジもしない!」
さすがに、「絶対に弱音も吐かない」と断言することはできなくてちょっと弱気になってしまったけれど、ユーインは私を見て満足そうに微笑んだ。
「……できもしないことを偉そうに宣言する人より、あなたくらい人間味があって素直な方が、私は好ましいと思っています。旦那様に依頼された時からそのつもりではありましたが……私自身、楽しくあなたを教育できそうで嬉しく思います」
「た、楽しく?」
「ええ。あなたほど奥手な女性を口説くのは初めてで、少し戸惑う気持ちもあったのは確かですが……今はむしろ、楽しみで楽しみで仕方ありません。どんな言葉を囁けばあなたが赤面するのか、どれほど距離を詰めればあなたの腰が砕けるのか、どこまで迫ればあなたを可愛くなかせられるのか……考えるだけで胸が躍ります」
ユーインは楽しそうに語るけれど……な、なんか後半になるにつれて、やばいことを言っていない、この人!?
ちなみに最後の方で言った「なかせられる」というフレーズは、セリーナの通訳魔法によって私の頭の中で「鳴かせられる」という字で変換された。
「泣く」ならまだしも、「鳴く」って……どういうこと?私は小鳥? 哺乳類じゃなくて鳥類だったの?
ユーインとの距離は十分空いているはずなのに、まるで耳元で囁かれたかのような痺れが全身に走り、私はじりじりと後退しつつ強張った笑みを浮かべる。
「え、えっと、少しずつお願いね!」
「かしこまりました。……では、私はそろそろ失礼しますが……キーリ様」
「はいいっ!?」
「今回のように、恋人でもない男に部屋に押し入られないようにするためには、ドアを閉めるまで相手から視線を外さないことです。背を向ければすなわち、『襲ってもいい』のだと判断する男も少なからずいます。……おそらく礼法の教本の後半に出てくると思うので、早めに履修するようにしてくださいね」
まるで先生が生徒に言い聞かせるような口調だけれど、彼の瞳は笑っている。私に忠告する気持ちが半分、からかう気持ちが半分といったところだろうか。
かあっと顔が熱くなり、私はいたたまれなさと恥ずかしさを誤魔化すようにユーインの背中を押した。
「わ、分かったから、もう出て行って!」
「はい、そうします。では、おやすみなさい、お嬢様。よい夢を」
「……おやすみ」
最後にはしれっとして就寝の挨拶をするユーインを睨むけれど、彼は涼しい顔で去っていってしまった。
ドアを閉めて鍵もしっかり掛け――私はその場に膝を付いてしまう。
「なに、これ……こんなのをこれから毎日浴びろって言うの!?」
床のカーペットに突いた手がわなわな震え、顔は熱くなったりひんやりしたりで忙しい。
なんだかもう、頭の整理が追いつかない。誰か私の頭をアップデートしてくれと、切実に思う。
正直、あんな色男に口説かれるなんて寿命が縮まるだけだから、勘弁してもらいたい。でも、口説きに慣れないとこの世界に馴染むことができない。
魔力を持たない異世界人だとばれたら――悪い人に捕まるかもしれない。
さっきまでは火照っていた体が急に寒気を感じ、ぎゅっと自分の体をかき抱く。
養父の申し出は受けたし、ユーインにも堂々と宣言した。したからには、退くことはできない。
平穏無事に暮らすためには、ユーインに勝つしかないんだ!




