通じなかった夜、会えた朝
「菜摘、ちょっと」
母の不機嫌そうな声を聞いたのは、三学期終業式の前日の夜。
お風呂上がりの顔と足のお手入れも一通り終わったのを見計らったタイミングだった。今やることあるからあとにして、という逃げの言い訳を一切できないように。
わたしは濡れた髪をタオルで巻いたまま、家具調コタツを挟んで母と向かい合わせに座った。
コタツの上には十二月分から二月分までの携帯電話の請求書が、わたしの使用金額が一目で判るように並べられていた。
十二月は四千円程度に収まっていた携帯電話の使用料金が、一月と二月は一万円弱になっている。
三月分の請求書はまだだけど、調べたら二月と同じくらいの金額だったらしい。母は携帯電話の使い方にわりと詳しい。ネット照会で昨日までの使用料金が判ることも知っている。
「増えた分は通話料金だから、変なサイトやゲームにハマっているのではないわね?」
仰る通りで。通話料金は、まるっとすべて夏目くんとの電話代。
毎日長電話をしているつもりもなかったし、半分は夏目くんから掛けてきていたから、油断していた。
携帯電話を出せと言う母。使用料金は家計から出してもらっているので私に拒否権はない。
母は携帯電話の電源を切ってからバッテリーパックを抜き、その下にあるSIMカードを抜いた。
「ああーー!!」
SIMカードが抜かれた携帯電話は通話もネットも使用不可になる。
バッテリーパックを戻して再び電源を入れられた携帯電話が私の手元に返った。
通信が一切できなくなった携帯電話は時計もリセットされ、待受画面の時刻表示は一九七〇年一月一日〇時〇分を示している。
「三ヶ月分の使用料金の増えた分を返したらSIMカードも返します」
「ちょっと待ってよ!メール受信もできないじゃん!」
誰かがメールをくれても気づかず返信もできないじゃないか。
「学校の友達には明日会ったときに言えばいいでしょう?」
「学校で会えない人だっているもん」
「中学校よりも前の友達だったらご近所なんだから、なんとでもなるでしょう?」
母の非情な手段と隙のない理屈。
しかし母は知らない。学校の友達でも、中学校以前の友達でもない、絶対に連絡を取りたい人が私にいることを。
ふと、風呂上がりの弟と目が合って、ヤツの目が意味ありげに笑ったように見えてヒヤリとした。
弟は夏目くんと初めて会ったときに「変態彼氏」と呼んだ失礼千万なヤツである。
目線で「あんた、余計なこと言ってないでしょうね!?」と脅しを掛けるが、視線をそらされた。
「菜摘、どこ見てるの!?」
慌てて目線を母に向けた。
「とにかく、お小遣いを貯めるなり、バイトするなりして支払いなさい」
我が家はお金のしつけに厳しい。私は公立高校だし、弟は来月私立高校に入学するが、大学附属高校なので受験対策費用はかからない前提である。
正当な理由もなく携帯電話の無駄遣いは許されない。そして「彼氏と電話」が正当な理由になるわけもなく。
私はうなずくしかなかった。
やれやれ、早いところバイトを見つけて返済せねば。
立ち上がりかけた私を母が引き留めた。
まだあるのぉ?
次のお小言は学年末試験の結果について。どの教科も平均点は取れているのだからいいじゃないと返したら、平均点で安心するな、と叱られた。
これから学年が上がるに従い、更に勉強が難しくなるのに、一年生の段階でやっと平均点では先が思いやられると。
大学受験で苦労するのは私、受験対策費用を払うのは両親だ。
高校一年生の勉強は一年生のうちに理解しておくことは当然。そのための補習が春休みにある。しかも無料だ。
要するに春休みの補習に行け、ということ。
春分の日に担任に春休みの補習に自主参加してもいいと言われた。それをそのまま母に話していたことを後悔した。
私の春休みは補習にバイト?
おまけに電話もメールもできなくて。なにこれ、これは一体なんの修行なの?
弟が「泣きっ面に蜂」とクスリと笑った。
この、ことわざ好きめが!!
やりどころのない怒りの矛先を弟に向けた。
夏目くんは週の半分以上、登校前に私の家の最寄り駅まで来てくれる。
それは約束したものではなく、いわば夏目くんの気まぐれで来たり来なかったりする。
気まぐれというと言葉は悪いかもしれないけど、そう呼ばせてもらいたい。
朝に私と会うには夏目くんは家を一時間は早く出なければならず、そんなことを約束や義務にしてもらいたくなかった。
だから、明日の朝に会えるかはわからない。
夏目くんには今日のうちに連絡しておこう。
「外で電話かけてくる」
「五分以内ならば家の電話を使ってもいいわよ」
夜の九時過ぎに公衆電話に行こうとする私への母の気遣いだ。
だけど
「やっぱり掛けにいく」
夏目くんとの電話が家族に筒抜けなのは耐えられない。
ベタ甘な会話はしていないけれど、声色を聞かれるのも恥ずかしい。
家から歩いて五分のコンビニに公衆電話がある。
夏目くんの携帯電話に何度もかけてみたが、ずっと話し中だった。
あまり夜遅くまで外出するわけにもいかず、私は諦めて帰宅した。
◇◇◇
翌朝。
一週間前に卒業式を終えた弟は一日中ヒマそうで、だったら寝てればいいものを朝はきちんと起きてきて、散歩を習慣にしている。
今朝も私が朝食を食べているときに弟が外に出て行く音がした。
――と思ったら、すぐに帰ってきた。
「姉さん、変態が迎えに来た」
「あんたねえ、その呼び方いい加減にしなさいよ!」
「誰のことだかわかってんじゃん」
あんたが変態と呼ぶ人間は一人だけじゃん。
夏目くんは家の外に閉め出されずに玄関に招き入れられていた。
「おはよう。駅で待ってくれていれば良かったのに」
駅から家まで歩く時間分、夏目くんは更に早く自宅を出たはず。
夏目くんは私を見て、笑顔になったあと溜息をついた。
「よかった。いつも通りのナツミちゃんだ」
「うん? ……あ! もしかして昨日九時くらいに電話してくれた?」
昨日、夏目くんの携帯電話がずっと話し中だった原因は、私の携帯電話に掛け続けていたからだ。
「メールも全然返ってこないし」
ごめんなさい、と私は頭を下げた。
私が電話もメールも返事を返せなかったのに、夏目くんは怒っている様子もない。
それどころかだんだんとニコニコし始めた。ニコニコというか、ニヤニヤ? ニタニタ?
その視線の先には、まだハイソックスを穿いていない私の足が。
制服はブレザーからスカートまできちんと着ているというのに、足だけが素足のまま。
自分で言うのもなんだけど、妙になまめかしい。
「ちょっと待ってて! すぐ支度してくるから」
「あー、そのままで良いのに」
良いわけあるか!!
私は生足を紺のハイソックスで隠して身支度を完ぺきに整えた。
夏目くんと一緒に歩いて駅まで向かう。
昨夜、電話もメールも通じなかったから、心配で家まで迎えにきたと夏目くんは言った。
バレンタインデーのときも来てくれた。夏目くんはフラれると勘違いしていたのに。
私がクラスメイトの男子と歩いているのを見かけた翌日にも来てくれた。夏目くんは風邪を引いていたのに。
ホワイトデーは学校の中まで追いかけてくれた。
春分の日には私が呼んじゃったけど。
そして、もしかしたら、私と夏目くんの始まりの日、クリスマスにも会いにきてくれた……のかもしれない。
「夏目くんは、すぐに会いに来てくれるね」
「そりゃそうでしょ。同じ学校だったら、たとえばケンカしても次の日は学校で会えるよね。気まずいかもしれないけど会えるでしょ。でもナツミちゃんと俺は学校違うから。簡単に会えなくなっちゃうんだよ」
「うん」
「だから俺はナツミちゃんに会いに行くんだよ」
夏目くんの一言一言が響いて胸がいっぱいになる。
私ばかりこんなに幸せでいいのかなあ。私は何を返してあげられるんだろう。
「私も夏目くんを迎えに行こうかな」
「それはいい。俺が行くから。むしろ駅まで行ってるんだから、今日みたいに家まで行けばいいね」
「えー、そこまでしてもらうのは悪いし」
「全然! 俺が着くまで靴下穿かないでくれれば、もうそれで充分ですから!」
私がしてあげられることは何となくわかった気がした。
ひとまず<おわり>




