普通って何だっけ
春分の日。
昼と夜の長さがほぼ同じになり春が訪れる日と学校で習ったはずなのに、制服姿で外に出た途端に冷たい突風に吹かれて、私は家に逃げ帰った。
紺のハイソックスを脱ぎ捨てて黒のタイツに穿きかえる。私が通う西高の制服の指定はハイソックスだけど、寒いときにはタイツを穿くくらいの融通はきく。
何より今日は夏目くんには会わないのだから生足でいる必要がない。
夏目くんに出会う前はタイツどころか、スカートの下にジャージを穿くのも珍しくなかった。だけど夏目くんに何度も足を褒められているうちに、自分でも隠すのが勿体ないような気がしてきてジャージを穿かなくなった。
だから今日もジャージは穿かないけれどタイツは穿かせて貰う。いいの、夏目くんには会えないから……たぶん。
ただ一つ会えるかもしれないチャンスがあって、私は夏目くんのアルバイト先のピザ店のメニューチラシを通学鞄に入れておいた。
今日は夏目くんはピザ宅配のバイト。私は担任の先生に年度納めの準備と春休みの補習テキスト作りの手伝いを頼まれて、西高に行かなければならない。
先生に今日のことを頼まれたのはホワイトデーの翌日のことだった。
ホワイトデーに夏目くんと初めてキスをして、私はその夜眠れなかった。そして翌朝の通学電車で私と夏目くんは同時にあくびをした。
もしかして夏目くんも夜眠れなかった?
それが嬉しくて舞い上がって、西高に着いてからも足元がふわふわで浮かぶように廊下を歩いていたら先生に呼び止められた。
「春分の日、学校にきて用事を頼まれてくれないか?」
担任は色黒で背が低めで声は高めな男性教師。髪は短く刈り込んでいて若く見えるけれど、生徒との会話のノリの良さやクラス運営の仕切りのうまさからいって、ベテランの部類に入ると思う。バレンタインデーの日の噂をききつけて、私を最初に「ケリ姫」と呼んだ先生もこの人だ。つまり、私があらゆる教科担任からウケ狙いで用事を頼まれるようになったキッカケを作った人とも言える。
日頃、みんなが揃っている教室で私をケリ姫と呼んで用事をいいつけて一笑いとっているのに、廊下で呼び止めたら誰にも気づかれないしウケも狙えないよ? と思いながら、二つ返事で引き受けた。
たとえウケ狙いであっても、先生には日頃お世話になっているし、何よりその日は夏目くんと会えない。寂しい気持ちで一日過ごすくらいならば用事くらい引き受けましょうとも。
そういう事情での登校だったので、ハイソックスからタイツに履き替える時間の余裕があった。いつもならば、一度家を出たら大抵のことでは引き返せない。駅で私を待ってくれている夏目くんを余計に待たせてしまうから。
◇◇◇
西高に着いて職員室の扉をノックして中に入った。
職員室の中は雑然としていた。年度替わりで教師の席替えもあるらしく、机の上や床に荷物が無造作に積み上げられている。
先生方はほぼ全員出勤しているみたい。休日に生徒は休んでいても先生は忙しいって本当なんだ。
周囲を見渡してしまう私に
「あんまりキョロキョロするなよ。個人情報の宝庫だからな」
先生が釘を刺した。
そんな場所に足を踏み入れてしまってもいいのかな。少し不安になったけれど、私みたいに手伝いにかり出されている生徒も数人見かけたので安心した。
それでも、あれこれ見てしまわないように意識して視界を狭くする。
さすがに個人の成績を盗み見できるような作業は与えられなかったけれど、補習のテキストと仕上げテストの内容をほぼ全部見てしまった。
それを見たからといって、私にとって何かが有利になるわけでもないのだから、問題は無いという判断だと思う。
ただ、先生のお手製のテキストは、この一年間の授業内容が判りやすくまとめられていて目を引いた。補習を受けるのは学年末テストの成績が赤点だった人たちで、私は免れている。
「面白そうだろ~。姫も補習受けるか?自主参加もアリだぞ」
姫とは私のこと。ケリ姫のケリを除いての姫で、決して姫様の姫ではない。
春休みは夏目くんとたくさん会いたいから補習に参加する時間が惜しい。夏目くんも西高だったら良かったのになあ。でも夏目くんは頭がいいから基礎の復習の補習はいらないか。
「考えておきます」
曖昧に返事をした。
それからは先生から指示される作業を黙々とこなし続けた。
◇◇◇
職員室の時計の針が午後一時をさした。作業も丁度一段落。
「そろそろ一休みすっかー! 飯はもってきたか?」
私は首を横に振る。まさか持ってくるわけないでしょう? 快く用事は引き受けたけれど、見返りぐらいは期待してます。
先生もそれは察してくれているようで
「蕎麦でも寿司でも奢っちゃる。好きなもん出前とっていいぞ」
「ピザが食べたいです!」
「ピザぁ? 値段高いだろー」
「じゃあ特上寿司頼んじゃいますよ? ピザもランチメニューがありまして、意外とお得なんです」
いそいそと通学鞄からピザのメニューを出した。
これが私が狙っていた「ただ一つ会えるかもしれないチャンス」
夏目くんのバイトのジャマをせずに夏目くんに会う方法。それは、お客さんとしてピザを頼んじゃうこと。運良く夏目くんが宅配してくれれば……。
と思ったけれど、夏目くんには今日のことを言ってなかったっけ。
ピザを注文してから一時間が過ぎた。先生が注文したときに「混み合っていて一時間以上かかります」と言われたらしく、仕方ない。
周囲の先生方は先に届いた蕎麦や寿司を食べていて、その匂いと音で空腹感が刺激される。
今日の作業の見返りとはいえ、先生を待たせている申し訳なさと、夏目くんに会いたいというよこしまな気持ちでピザを頼んだ後ろめたさが辛くなってきた午後二時十五分。
ようやく外部との受付窓口である事務室からピザ到着の連絡が入った。
「私、取ってきます!」
転がりそうな勢いで職員室を飛び出した。
学校の正面玄関が宅配物の受け取り場所。玄関にはピザ箱を抱えた店員がいた。駆けてくる受取人である私に気づくやいなや、店員は制服の帽子を脱ぎ深々と頭を下げた。
つま先を揃え背筋を伸ばした深いおじぎ。真っ直ぐな背中が一瞬ビクッと動いたが姿勢は崩さず
「遅くなり申し訳ございません」
張りのある声で丁寧に謝った。
一呼吸おいて頭をあげた。
真剣な眼差しでお客様である私を見てかすかに笑顔を見せた。
それはもうアイドルのように爽やかな笑顔で、二時間遅くなったとしても「いえいえ~」と許してしまいそう。
しかし、真摯な態度のイケメン店員の笑顔はそこで終わり、次の瞬間には、いつもの夏目くんの素の笑顔になっていた。
「やっぱりナツミちゃんか」
驚きもしていない。いや驚いてはいたと思う。頭を下げたときに背中が不自然に動いたから。つまり
「足を見たときにナツミちゃんだと気づいた」
そうで。「あれ?」でも「ナツミちゃん?」でもなく断定しちゃっている。しかも足を見ただけで。さすが足に執着している夏目くんらしい。
いつもならば「やっぱり足か、足なのか」と言いたいところだけど、私は久しぶりにイケメン光線にヤられてしまい、目眩がしていた。
夏目くんが自分の武器、恵まれすぎている容姿――端正な顔立ちとスタイルの良さと佇まいをフル活用したときの破壊力を無防備に浴びてしまったのだから。
ポーッとなりながら、うわごとのように言葉を漏らした。
「夏目くんが、このバイトを頼まれている理由がわかる気がする」
「でしょ? 見てくれがいいと真面目に謝るだけで許してもらえる上にお店の好感度が上がっちゃうんだよね」
いつもと同じような軽い口調だったけれど、表情がくもったように見えた。それはほんの短い間で、瞬きをしたら気づかなかったぐらい。
私が「どうしたの?」とたずねる前に夏目くんが言った。
「残念ながらお客様が男だと通じないけどね」
プッと軽くふきだした私を見て、夏目くんが満足げな笑顔を見せた。
お店は相当混んでいて急いで帰らなくてはいけないらしく、以降私語はせずに、お客と店員のやり取りだけをした。
帽子を被り直して玄関を出て行こうとする夏目くんに声を掛けた。
「夜、電話していい!?」
「バイト終わったら掛けるよ」
私はイケメン店員の夏目くんから受け取ったピザを抱えて夏目くんの背中を見送った。
さっき夏目くんの表情がくもったのが気になって、夏目くんに会えるチャンス、なんて浮かれた気持ちはどこかに行ってしまっていた。
◇◇◇
職員室では、先生が首を長くして私の帰り、というかピザを待っていた。
ランチメニューのピザはLサイズ一枚と飲み物と厚切りフライドポテト。それを抱えて職員室に入ってすぐに周囲からブーイングがおこった。チーズが焼けた匂いと、ポテトを揚げた匂いが暴力的だという。
かまわず先生と取り分けて食べ始めた。
「職員室で出前を取るのはよくあるんだが、ピザは初めてだよ。川島は意外と大胆だな」
「普通です。最近は悪目立ちしちゃってますけど。ウケ狙いで用事頼まれたり」
暗に今日のこともほのめかす。
先生はピザに伸ばした手を止めて私を見た。
「川島、おまえはただのウケ狙いで用事を頼まれていたと思っていたのか?」
「ちがうんですか?」
「ノートを集めて提出するときに、出席番号順に揃えたり、出し忘れた生徒に催促したりしてただろ?」
「普通すると思いますけど」
「それがそうでもないんだよ。言えばやるんだけど、言わなきゃやらねーんだわ。だから、ついつい川島みたいに気が利く生徒に頼んじゃってなあ。あ、ここだけの話な」
思わぬ言葉に驚いて私は何度も首をたてに振った。いつも普通にしていたことを褒められてくすぐったい気持ちになる。
先生は申し訳なさそうに言葉を続けた。
「そうは言っても、それに気づいたのは川島が『ケリ姫』と呼ばれてからな」
それは仕方ないです。だって私は普通で平凡で良くも悪くも目立たないのですから。
そんな私が注目されるようになったのは夏目くんのおかげ。夏目くんが何かと西高に襲撃してくるもんだから私はすっかり色物扱い。でもそれが面白くて楽しくて。
もしも夏目くんと同じ学校に通っていたら、どんな毎日になっていたのかな。
最後の一枚を先生に勧められて私はピザをほおばった。
◇◇◇
その日の夜。
私は夏目くんからの電話を待ちわびていた。夏目くんから電話を掛けると言っていたのだから、私はただ待つだけ。
今か今かと待ち構えていたものだから、着信音が鳴った瞬間に通話ボタンを押した。
『びっくりした。早いね』
夏目くんの声が少し揺れている。遠くで喧騒も聞こえているから歩きながら電話をしているみたい。本当にバイトが終わってすぐに掛けてくれたんだ。
「聞きたいことがあるの。いい?」
『いいよ、なに?』
「さっき、学校でちょっと変な顔をしてなかった?」
あの一瞬くもった表情を何と言い表せばいいのかわからなくて「変」と言ってしまったけど、夏目くんには通じたみたいで『ああ……』と相づちをうった。
『ちょっと恥ずかしくなったから。俺がバイトで謝り倒しているのを知られちゃって。ナツミちゃんにも謝っちゃったしバツが悪くて』
夏目くんの答えにはツッコミどころが二つある。
一つ目。
「おじぎをしたときに私だと気づいたのに、どうして謝ったの?」
『ナツミちゃんだって確信していたけど、万が一人違いだったら取り繕いようがないでしょ?念のため』
夏目くんは照れくさかっただろうに謝りきったんだ。
二つ目。
「あんなにきちんと謝ってすごいと思ったよ。遅れたのは夏目くんが原因じゃないのに」
『それでもねえ、男としてはカッコつかなくていやなもんだよ。好きな子には知られたくない』
う……! そうくるか! 盛大にツッコミを入れたいところだけど!!
ツッコミを入れる前に夏目くんが言った。
『あとは「バイトを頼まれている理由がわかる」って言われたからかな。たぶん、これが最大』
やっぱり私の言葉が原因だった。そんな気がしていた。
『顔でナツミちゃんを釣っておいてなんだけど、結局、顔なんだなと思って』
「違うよ! 顔がよくたって態度が悪かったらダメでしょ! むしろ顔が良いぶん、いけ好かないヤツに見えて感じ悪すぎるよ!」
顔で釣られたと思われている私の言葉に説得力があるか不安だ。
私は三ヶ月前に『ナツミちゃんも俺の容姿にオチそうでしょ?』でオチた。イケメンだったから足フェチ発言も受け入れられた。
でも、あのとき私が初めて見た夏目くんはバイトしている姿だった。寒そうなサンタで走り回っている夏目くんだった。
付き合うまでの決め手の一押しは顔だったけれど、キッカケはそれだけじゃなくて。でもダメだ、上手く説明できない。
どう言っても言い訳しているようにしか聞こえないと思う。
私は何と伝えようか悩んでいた。それなのに。
『ところでさ』
ところで……?
『今日、タイツ穿いてたよね。足のラインがクッキリ出ていいね。堪能しました。でもちょっと分厚いね。百デニール超えてる? まあ、学校に行くならそれくらいで良いと思うけど。
俺と会うときに穿くなら六〇デニールくらいでね。ちょっと透けるくらいがそそられるから』
ちょっ……おま!! 突然話題を変えるな! 悩んでいた私は一体何なんだ!?
電話越しで殴れないのがもどかしい。
それにしても、バイトで謝り倒していることよりも、タイツの厚さの単位にまで詳しい方が男として恥ずかしいんじゃないのかな?
私には夏目くんの価値観がわからない。
ひとまず<おわり>




