あくび
私が夏目君にお詫びとお礼を言って別れ、家に入ってから最初にしたのは、弟を叱り飛ばすことだった。
一歳年下の弟は言うに事欠いて夏目君を「変態彼氏」と呼び、「イケメンだからって調子に乗ってんじゃねえぞ」と言ったのだ。百歩譲って事実であっても、初対面の人に対して何たる言いぐさだ。
私がお説教をしているというのに弟ときたら
「制服が東高だったな。あの変態、頭いいな」
春一番が吹いたのは約二週間前のこと。私たち高校生の大多数はコートを脱いでいる。
「知ってるんだ?」
「大学受験がめんどくさくて止めたけど、東高も候補に入れてた」
弟は付属大学付きのAランクの私立高校に進学予定で、卒業式を間近に控えた中学三年生だ。間接的に自分も頭が良いと言っていることにも腹が立つ。
「……って変態って言うな!」
言ってもいいのは私だけだ。面と向かって言ったことはないけど。
弟は返事もせずに部屋に入っていった。
台所にいた母に急かされて私は制服から部屋着に着替えた。
夕食を食べ、お風呂に入り、足だけでなく顔もお手入れした。高校生でも手が届く値段のスキンケア用品を揃えて使っている。顔の作りはどうにもならなくても、肌のキレイさは努力で何とかできるのではないかと思うから。元々肌荒れをおこしていたわけではないけれど、やり始めると顔色が少し明るくなったような気がした。
夏目君がホワイトデーにくれたチョコレートでできたクマのオブジェは、透明な箱のまま机に置いた。
その机で宿題をして、明日の準備もして、一日が終わる。
ベッドに入って掛け布団をかぶって目をつむった。すると唐突に思い出した。
はじめてのキス。
心臓の鼓動が速くなった。脳内ではリプレイ開始。あの瞬間がみるみるよみがえる。
屋上への扉の手前で捕まって、抱きしめられて、夏目君の顔が近づいて……。
私は掛け布団をはねのけて上半身を起こした。両頬を両手で押さえる。熱い。たぶん顔は真っ赤だ。
キスの後から今まで平気で過ごしていたのに、突然どうしたんだろう。
何とか気持ちを落ち着かせて、再び仰向けになり布団を被る。
でも目をつむるとキスの瞬間が思い浮かび、じっとしていられない。
寝ては飛び起きて、飛び起きては寝て。
どんどん時間は過ぎていく。心臓はバクバクしっぱなし。
こんな調子で熟睡できないまま朝になった。
朝、自宅の最寄り駅の構内に夏目君がいた。それはいつものことだから、もう驚かない。驚かないけど、まともに夏目君の顔を見られなかった。
付き合って三ヶ月が過ぎてイケメンは見慣れたはずだったのに。
イケメン云々の問題でないことはわかっている。直視できないのはイケメンではなく、昨日はじめてキスをした夏目君の顔だ。
わざとらしいくらいに目をそらしたまま挨拶をして階段を上りホームに出て丁度きた電車に乗った。
電車の窓からはいつもの風景が流れている。いつも私たちはそれを眺めながら話をする。ときどき相づちを打ちながらお互いの顔を見たり。
しかし今日は……無理だ。見られない。真っ正面を向いて風景ばかりを見ていた。
「クマ食べた?」
クマとは、昨日夏目君がくれたチョコレートでできたクマのオブジェのこと。ホワイトデーにチョコレート。クッキーでも飴でもなく。でもそれを選んでくれた理由は、たぶん私がバレンタインデー前に欲しがっているような素振りをしていたからなので、とても嬉しかった。
「まだ食べてない。ていうか食べられません」
北海道土産のようなリアル熊ではない。可愛い可愛い二頭身のクマ。どこから食えというのか。
「ちゃんと食べなきゃ、立派なふくらはぎになれませんよ」
朝っぱらから何を言ってるんだ、この人は。いつも通りだけど。
ああ、夏目君はいつも通りだなあ。
「来週の春分の日にバイトすることになったよ」
バイトはピザの宅配。夏目君はピザ屋さんの店長とご近所さんで繁忙期に手伝っている。クリスマスの夜にもバイトをしていて、それが縁で付き合い始めたようなものだ。
「どっか遊びに行こうかなあ」
目線を夏目君から外したまま答えた。
「彼氏が働いてんのにそりゃないんじゃない?」
目線を外しているので、夏目君がどこを向いて話しているかはわからない。
「だって彼氏が遊んでくれないんだもーん」
もちろん本気で言ってるわけじゃない。夏目君が軽く笑う声が聞こえた。私も合わせて笑った。
笑って口を大きく開けたためだろうか不意に眠気が襲ってきた。
昨日、全然眠れなかったもんなあ。だって目をつむったらあの瞬間を思い出してしまうのだから。
ああ眠いなあ。
「ふあ~~」
「ふあ~~」
二人で同時にあくびをした。
私は夏目君を見た。夏目君も私を見ていた。
もしかして貴方も?
お互いの目には同じ疑問が浮かんでいて、私たちは同じような夜を過ごしていたのだとわかった。
ひとまず<おわり>




