0'-1 さらば幻幽都市
「やっぱり、慣れねぇなぁ」
千代田区の病院の一室。個室用のベッドに寝かされた再牙は、渋い表情で己の右手をじっと見つめた。秋晴れの空に浮かぶ太陽の光を浴びて、右手は影をつくり、それが再牙の顔面に深い陰影を落としている。
「大丈夫ですよ、再牙」
ベッド脇の丸椅子に座るエリーチカが、レモレンジの皮を剥く手を休めずに、慰めるように語り掛けた。ボディの交換は既に完了していた。窓に差し込む太陽光に照らされて、その金色の髪と純白の肢体が一層のこと眩しく光っていた。
「きっとそのうち、慣れますよ」
「…………」
再牙は何も言わず視線を戻し、もう一度、己の新しい右手を見た。元々あった手首から先の部位は、バジュラとの壮絶な死闘の果てに失われた。今後は、サイボーグ手術で手に入れたこの黒い義手が、代わりを務めることになる。
再牙が右腕に力を込める。肘を曲げて、右手を顔の前まで持ってくる。そうして、五本の黒々とした指全部を内側に曲げ、伸ばし、また曲げた。納得しなければらないと、言い聞かせるように。今の状況に至るまでの全てを、噛み砕くように。そうして、闘いの果てに辿り着いた結果を、胸の中に落とし込もうとしていた。
五日前の、決戦の夜。ダルヴァザの施設の地下深くで、バジュラの死を見届けた再牙は、激しい疲労で意識が混濁しかける中、別棟の捜索に当たっていた機関員へ、結果を報告した。終わったと。ただ、それだけを告げた。
そこから先の事を、再牙は覚えていない。気を失っている間、終始彼は、長い夢の中を漂っているような気分に侵されていた。ようやく目を覚ましたのが一昨日の話で、既にその時、右手のサイボーグ化手術は無事に完了していた。後で聞いた話では、現場の判断でそうなったという。
そのことについて、当の本人は特に何とも思わなかった。それよりも、ずっと別の事が彼の頭の中を支配していた。バジュラが、自らの手で自らの人生に区切りをつける寸前に、遺した言葉。再牙が気を失っている間中、彼の心の奥底まで、それは深く染み込んでいた。
「……恋がしたかった」
エリーチカが、レモレンジの皮を剥く手を止めた。ゆっくりと顔を上げ、死線を掻い潜った弟弟子の顔を見る。
「バジュラが、最後にそう言ったんだ」
苦しそうに、再牙は顔を歪めた。沁み一つないベッドシーツを掴む左手に、自然と力が入った。溢れ出そうとする感情を、必死に堪えるような仕草。顔の傷痕がそれまで以上に痛々しく、エリーチカの目に映った。
「それが……彼女の成し遂げたかった、もう一つの願い。いや、それこそが、彼女本来の望み……だったのでしょうか」
「だが結局、叶えることは出来なかった。あいつはずっと、自分で自分を縛り付けていたせいで、本当にやりたかったことに、意識を向けられないでいたんだ。あいつは――」
バジュラは己の過去を消滅させることに奔走し、ついには自らを葬り去ることで、決着をつけた。その選択が正しいか正しくないかを決めるのは、他の誰でもない、彼女自身であった。私の勝ちね。死に際にそう告げたバジュラの顔が、いつまでも再牙の脳裏に焼き付いて、離れなかった。
再牙は身を起こして、遠くを眺めるような目つきになった。細められた視線は、エリーチカの背後に向けられていた。壁に掛けられた黄色いコート。オルガンチノへと。
闘いの激しさを物語るように、オルガンチノはあちこちが破れ、酷く煤けていた。これが無かったら、きっと自分は死んでいたに違いない。そう、再牙は思わざるを得なかった。闘いの中で、オルガンチノはずっと彼を守り続けていた。脅威を遠ざけ、時に打ち砕いてくれていた。
再牙は頭を振った。自分がいかに恵まれているかを、はっきりと思い知らされた。優しさと、愛情と、厳しさ。人生を歩む為に必要な糧を、涼子は常に与えてくれた。世界の広がりを教えてくれた。過去に縛られて生きることが、どれだけ恐ろしいことかを、懇切丁寧に話してくれた。
火門涼子と出会ってからはずっと、大変だが楽しい日常が当たり前の様に続いていた。自らの置かれた環境に慣れ過ぎて、気が付かなかった。無意識の中で、誰もがそうなんだと、当然の如く思い込んでいた節があった。
「あいつは、出会えなかったんだ。涼子先生のような存在と」
言葉にした途端、再牙の胸の中に、どっと湧き出るものがあった。
なぜ、涼子先生に出会ったのが自分だったのか。なぜ、バジュラにはそういう出会いが無かったのか。
なぜ、俺は彼女を助けてやれなかったのか。何が必然で、何が偶然なのか。
無限の問い掛けが次々に泡となって生まれ、それは消える気配を全く見せずに不気味に漂い、再牙の胸の内を圧迫していった。耐え切れず、自身が内側から破壊されかねない恐怖すらも感じた。いや、いっそのこと破壊されてしまえばいいと、半ば投げやりな気持ちになりかけた。
その時だった。顔に、冷たい感触を覚えた。抱きしめられているのだと遅れて悟り、再牙は見上げた。視線がぶつかる。エリーチカが再牙の頭に両腕を回し、その紺碧に輝く双眸で、彼を見下ろしていた。
「昨日の晩にもお伝えしましたが、今日、琴美さんがお見舞いにやってきます」
唐突に、そんな事を言い出した。
「実は、さっき連絡がありまして、練馬区に知り合いの機関員が入院しているから、先にそちらへ寄ると言っていました。ここまでくるのに、あと一時間はかかるそうです……だから、あと一時間、こうしていましょう」
エリーチカは静かに目を閉じ、より深く再牙の温もりを感じようと、腕に少しだけ力を込めた。
「再牙、前にも言いましたよ。他者と協力し合わなければ、人は生きてはいけない。なんでも一人で解決しようとしないでくださいって。忘れっぽいんですから。全く、困った弟弟子です」
旧式アンドロイドらしく無表情であったが、不思議と、再牙には長年連れ添った相棒の声に、優しい温もりを感じた。
「貴方の苦しみや辛さ、私にも、分け与えてください」
エリーチカの心からの訴えが、良薬のように再牙の全身に広がり、壊れかけていた心へと伝わった。
言葉にならなかった。引き寄せられるかのように、ゆっくりとエリーチカの小さな背中に両手を回して、再牙は己へと向き合った。自分がやるべきこと。後に遺された者の義務。自分自身の望み。それらを考え、直ぐに一つの答えを導き出した。
エリーチカの胸の中で、再牙は静かに涙を流した。祈りの涙だ。悲しき宿命を辿った、嘗ての同胞へ向ける、精一杯の鎮魂歌であった。
エリーチカは何も言わず、何も聞かず、震える再牙の肩を優しく抱き寄せた。貴方の気が収まるまで、そうして良いという、無言の意思表示であった。
涙に濡れた、哀切に満ちた声が病室に静かに響き渡る。時としてままならない現実へ向けるやり場のない怒りが、それを助長させる無限の問い掛けが、溶けるようにして消えていく。再牙の中で、少しずつ、少しずつ、収まるべきものが収まっていった。道に迷った小鳥たちが、正しく自分たちの巣へ帰っていくのに、それは似ていた。
私の勝ちね――バジュラの声が、最後の泡となって、再牙の胸の内に現れた。かと思いきや、それは陽炎のように揺らめいて、囁きへと変じた。私の事を、忘れないで欲しい。そんな囁きへと。
忘れるものか――決して、忘れるものか。
太陽の光が差し込む中、死者への厳かな祈りは、粛々と続いた。
△▼△▼△▼
それから数日が経過した。再牙の体力の回復が思いのほか早いこともあり、入院生活は七日間で終了した。彼が無事に退院したことを知ると、琴美は我がことのように喜んだ。
二週間の滞在期間のうち、前半は殆ど一連の事件と再牙への見舞いに費やしたが、後半部分は違った。残された滞在期間の全てを使い、琴美はエリーチカと共に街へ繰り出し、彼女とのひと時を楽しんだ。未だに事件の爪痕が街のあちこちに残っていたが、それでも、大切な友人と過ごす時間が至福であることに変わりはなかった。
そうして、時間は過ぎ去り、やがて別れの時がくる。
「本当にお世話になりました。もう、何てお礼を言っていいのか……」
幻幽都市と《外界》を繋ぐ唯一の出入り口。《虎ノ門》の巨大な扉の前に立ち、琴美は見送りにきた再牙とエリーチカに向かい、頭を下げた。心からの、感謝の意だ。
「別にいいってことよ。何より、無事に依頼を完遂できて、本当に良かった。君のお父さんへのわだかまりも消えたようだし、俺としては、それで万々歳よ。なぁ、チカチ?」
すっかり怪我から立ち直った再牙が、隣に立つエリーチカに、軽やかに声をかける。オルガンチノは自宅の壁に掛けられたままだ。故に、今の彼は季節に合わせて、厚手のジャケットを羽織っていた。
「おや、珍しく意見が一致しましたね、再牙。私も、全く同じ気持ちでいたところですよ」
無表情で憎まれ口を叩くその姿も、琴美には分かった。これが、彼女なりの愛情表現の一つなのだと。初めて彼女に出会った時の事を想い返し、思わず涙腺が緩みそうになる。が、それを必死で堪えると、琴美は、ずっと気掛かりだった内容を切り出した。
「あのう、再牙さん」
「なんだ?」
「依頼金の事なんですけど、本当に支払わなくていいんですか?」
「まーだ言ってるのか? 君も中々、見かけによらず頑固だなぁ。今回は……」
再牙は一瞬目を細めると、優しく微笑んで口にした。
「……今回は依頼を解決する中で、俺も色々と得るものが大きかったからな。だから、いいんだ。本当に気にしないでくれ」
「分かりました。そこまで仰るんでしたら、私も潔く諦めます。ただし、『今は』ですけれどね。お返しは何が何でもさせて頂きます。でないと、私もちょっと居心地悪く感じちゃいますから」
「どういう意味だ? それ」
意味深な琴美の科白に、怪訝な表情を見せる再牙。エリーチカも、友人の意図が見えないのか、不思議そうな仕草で、琴美の瞳を見つめた。
「私、地元に戻ったら、働こうと思うんです」
琴美は、真っすぐに二人の姿を捉え、今後のことについて、話し始めた。自分の生き方について。目の前に開けた道を、歩む決意を固めていた。
「まずはバイトからですけれど、でも、働こうと思うんです。まだ、何をやりたいとか、そういうのは全然ないんですけれど、でも、自分の足で歩いていかなきゃって……お父さんがそうしたように、私も、誰かの力になりたい。だから、働きます。働いて働いて働きまくって、お金稼いで、そうしてまた、ここに来ます。二年……いや、一年後の今日、この日に必ず戻ってきます! そして、私のお金で美味しい食べ物、沢山奢らせてあげます。再牙さんと、エリーチカさんに。それくらいのお返しは、させてくださいよ」
琴美の決意を聞いて、再牙は狐につままれたような気持になった。驚きの表情。だがすぐに、顔面を縦断する刀疵がくしゃりと歪んで、晴れやかな表情へと変わっていく。彼女の新たな門出を、心から祝福する笑みへと。
「そうか……自分の足で」
「はい。歩きます。私、今だったら、上手く歩いて行ける自信があるんです」
「そうか。そうか……」
何かに納得するように、再牙は何度も頷いた。そうして、ゆっくりと右手を差し出す。失い、そして新たに得た右手を。琴美も同じく右手を差し出して、二人は固く握手を交わした。
「君が、君の人生を歩むことを。心から願ってるよ」
「はい、ありがとうございます」
微笑み、手を放す。そうして琴美は、エリーチカへと視線を向けた。
「エリーチカさん。私の事、忘れないでね」
どうしてそんな科白が飛び出してきたのか、不思議と、言った本人にも分からない。どことなく、不安があったのだろう。それは実に漠然としたもので、だからこそ、確かな繋がりを感じたかった。
そんな彼女の不安を知ってか知らずか、エリーチカがおずおずと右手を差し出す。同じく琴美も。二人の指と指が絡まって、掌どうしが重なり合う。エリーチカの冷たい手の感触を確かめた途端、結構な力で、琴美の体が、ぐいと前のめりに引き寄せられた。
「え、エリーチカさん!?」
エリーチカが、琴美を強く抱きしめた。別れを惜しむような大胆な行動。隣で様子を伺っていた再牙も、これには流石に驚き、目を白黒させている。
「忘れるわけ、ないじゃないですか」
琴美の耳元で、エリーチカの声が響く。その感情の読めない声色の向こう側に、彼女の心を琴美は感じた。
「エリーチカ……さん」
「琴美さん。私、貴方に出会えて、本当に良かった。貴方と友達になれて、本当に嬉しい。また、遊びに来てください。精一杯、おもてなしさせて頂きますから」
「エリーチカさん……!」
「……チカチ、です」
エリーチカは琴美から体を離すと、彼女の手を優しく両手で握り締め、しっかりと、琴美の瞳を見つめて言った。
「チカチって、呼んでください」
「……うん。チカチちゃん。また、必ず会おうね」
「はい。約束です」
互いに互いの心を確認し終えるのを見届けたかのようなタイミングで、扉がゆっくりと開きだした。琴美が幻幽都市を訪れて、きっかり二週間が経過したことを示していた。
「時間だ、チカチ」
中々琴美の手を離そうとしない相棒の肩に手を置く再牙。名残惜しそうにしていたエリーチカが、ようやく琴美の手を解いた。
三者は、暫し見つめ合った。これまでの出会いを振り返り、そうして今、別れの時を迎えていた。後ろ髪を引かれる思いを、誰もが抱えていた。それを最初に断ち切ったのは、琴美の方だった。
「それじゃあ、どうかお元気で」
笑っているような、泣いているような、一年後の再会を心待ちにしているような。そんな複雑な笑みを浮かべ、琴美は大きく手を振りながら、スーツケースを左手で引き擦り、一瞬たりとも再牙とエリーチカから目を逸らさず、門を潜った。
「そっちこそ、元気でな」
「琴美さん、ありがとう。さようなら。そしてまた、必ず逢いましょう」
再牙も、エリーチカも、懸命に手を振っていた。負けじと、琴美も手を振って応えた。有難う。どうかお元気で。その二種類の気持ちを最大限に乗せて。
門が重々しい音と共に閉じられ、二人の姿が全く見えなくなった後も、琴美は暫くの間、その場に佇んでいた。多くの感情が、この街で得た様々な想い出が、心に蓄積されていくのを実感した。それはきっと、ずっとこれから先、琴美の生きる姿勢を支えていくに違いなかった。
今日も門番役をこなしているアルファ17に向けて軽く会釈をし、琴美はゆっくりと、地面の感触を靴越しに感じるようにして歩きだした。自身が帰るべき場所へ帰る為に。生きるべき場所で生き抜く為に。
視界に広がるのは、二週間前に幻幽都市を初めて訪れた時に見た、漠々たる大地の姿だ。白灰に染め上げられた木々がまばらに立つだけで、緑に茂るものは一つも無い。
しかしながら今、琴美の目には全く別の想いと共に映っていた。これらの、一見すれば死にかけている大地にも、確かに命の芽吹きがあるのが分かった。彼らが、彼らの人生を歩もうとする、その気高き姿勢を反映しているかのようにも見えた。
これでいいのか。少女の心の一端を永らく蝕み続けた呪いの問い掛けは、既に跡形も無く消え去っている。その穴を埋めるかのように注ぎ込まれたのは、父の生き様。自身に向けられていた、確かな愛情。
もう、どれくらい歩いただろうか。
終わりが見えない一本道の途中で、まるで一つの儀式のように、そうすることが自然であるかのように、琴美は足を止めて振り返った。
眼前にそびえるのは、太陽の光を反射して白く光る、威風堂々とした巨壁の群れ。
その内側にあるのは、サイバネとオカルトの大都会・幻幽都市。
そこで暮らす人々のこれからを見守るかのように、雲一つない清涼な青空だけが、どこまでもどこまでも、天高く広がっていた。
終




