8-14 都市の輝きは人の魂
高級な年代物のウイスキーを何度呷ろうとも、山橋道元の心の内から、焦燥感が追い出されることはなかった。
午後九時を回った、中央都の新星宮市。十年前に購入した一軒家のリビング。革張りのソファーに座り、両肘を膝の上に置いて手を組み、木製のテーブルに置かれたスマートフォンを、山橋は睨み付けるように見つめ続けていた。
茜屋罪九郎からの連絡が途絶えて、もう三日になる。
山橋は、彼の性格をよく知っていた。茜屋罪九郎。行き過ぎた自尊心と、臆病ともとれる神経質さを併せ持った男。加えて、時間に几帳面な男。その彼から、連絡がこない。
三日前の深夜。中央都のテレビ局が緊急特番を組んで放映したあの映像が、今でも彼の脳裏にこびりついている。騒ぎを知り、幻幽都市の領空ぎりぎりまで接近した中央都テレビ局のヘリ。空撮が映し出す都市の街並みは、赫赤とした炎の海に呑まれていた。そこまでは良かった。実に計画通りだと山橋は満足し、心の底で浮足立った。
だが、立ち昇る炎柱の最中に蠢くそれをテレビ越しに目撃した途端、思わず引き攣った声が漏れた。目の前で起こっている現実が、信じられなかった。
規格外の無量さを誇る二体の異形が、燃ゆる街並みを背景にして、人知を超えた戦いに興じていた。そのうちの一体は、仏像を模したと思われる光輝く巨人。もう一つは、例えようもないくらいの、黒々とした体躯の亜人。戦慄が奔った。あれらはなんだ。あの怪物は一体なんだ。呆けたように、山橋はうわごとを繰り返すしかなかった。
茜屋の仕業か? いいや、そんな筈はないと、自身に強く言い聞かせた。
茜屋の立案した計画では、都市のそこら中に時限爆破装置を仕込み、起動させると同時に軍鬼兵を都市一帯にばらまく。そうして十分に混乱を広げた後、上空から小型スーツケース爆弾の嵐を降らせ、都市を壊滅させる。その手はずであった。あんな恐ろしい怪物の投入など、計画には組み込まれていなかったはずだ。
やがて、二体の怪物のうちのどちらかが放った攻撃の余波を受けて空撮ヘリは爆破され、臨時中継はそれっきりとなった。それからもう三日も経った。今の幻幽都市がどんな状況になっているか、全ては茜屋の報告で明らかになるはずだった。その肝心の報告が、いくら待っても来ない。
何かあったのか。まさか、予期せぬ出来事にでも巻き込まれて、死んだのか。
様々な憶測が頭の中を駆け巡る。考えている暇があるなら動いた方が早いと、専属の秘書に頼み、ヘリを手配してもらうことも考えた。自ら都市に乗り込み、幻幽都市の状況を確認しようと思った。
しかし、思うだけで行動には移せなかった。結局のところ、彼は臆病な人間だった。誰よりも臆病だったからこそ、今日まで生き永らえてこれた。しかしその臆病さも、今は足枷以外の何物でもなかった。
一人で暮らすには広すぎるリビングに、古時計の時を刻む音だけが、妙に誇張されて響き渡る。ここでじっと待てば待つだけ、自分の知らないうちに事態がどんどん悪い方向へ流れているように思えてならない。連絡がこない。ただその一点だけが、山橋の心に陰鬱な濃霧を立ち込めさせている。
とにかく、このざわついた気分を変えよう。そう思ってテレビのリモコンに手を伸ばしかけた山橋の耳に、玄関のチャイムが鳴り響いた。
「誰だ……こんな時間に」
訝しみながらも、山橋はソファーから腰を上げてリビングを抜け、玄関へ向かった。
「どちらさまでしょうか」
ドア越しにそう尋ねるも、返事はない。不気味なほどの静寂。山橋は恐る恐るノブに手をかけ、ゆっくりとドアを開けた。
誰もいなかった。眼前に広がるのは、街灯に照らされた闇の中に浮かぶ、通りに立ち並んだ住宅街だけ。人の気配など、どこにもない。
「……いたずらか」
ささくれ立った心を不躾に刺激されたことに、軽く舌打ちをする。誰に向けるでもなく、山橋は眉間に皺を寄せ、ドアに背を向けた。
事態が風雲急を告げてきたのは、彼がリビングに一歩足を踏み入れようとした時だった。反射的に、足を止めた。心臓が張り裂けるかと思うほどの衝撃が、全身を貫いた。さっきまで不機嫌な色を浮かべていた浅黒い顔に、驚きと恐怖が、同時に押し寄せてきた。
視線の先。見知らぬ男が、リビングにいた。
数は二人。一人はソファーに座り、もう一人はベランダへ通じる窓の近くに立っている。どちらも服装は至って平凡だ。青い帽子を被り、カッターシャツにジーパンを身に着けている。しかし、男らが纏っている雰囲気に、生物特有の温かみは一切感じられなかった。
「だ……誰……だ……?」
舌が縺れる中、声を出す。それは質問というよりも、こういった場面で当事者が口にする、決まり文句に近かった。山橋の頭の中では、全く別のことが起こっていた。
この男たちは、物音を一つも立てずに、どこから侵入してきたんだろうか。そこを起点として、様々な憶測と予感が、暗い気配と共に洪水の如く溢れ出した。
山橋は、男たちから目を逸らす事ができなかった。男たちも、山橋をその無感情な瞳で睨み続けた。正体不明な彼らの佇まいは堂々としていて、これから自分たちがやるべきことに、誇りを抱いているようにも見えた。そこに、露ほどの後ろめたさがないことを感じ取った時、山橋の思考が、一つの結論を導き出した。
殺されるか、あるいはそれに近しいことをされるのだと。
本能の従うままに、山橋は逃亡を図ろうとした。が、体を捻って後ろを向こうとした途端、強い力で背中をドンと押された。そのまま前につんのめり、バランスを失った山橋は、フローリングの床に顔面から激突した。
「な……あっ……!」
口を切ったか、歯が折れたか。口内に広がる血の味と、顔面に奔る激痛もそのままに、山橋は床に尻もちをついたまま、自身を突き飛ばした三人目の男を見上げて戦慄した。
何時の間にか山橋の背後へ忍び寄って彼を突き飛ばしたその男は、頬が酷くこけていた。顔色も蒼白で、血色が悪いのは一目でわかる。そのくせ、眼光だけはギラギラと輝いて活力に満ち、さながら、幽鬼のような出で立ちであった。
しかし、山橋が戦慄した理由は、この男が放つ独特の雰囲気以外にもう一つあった。男の手が硬く掴む、軍刀様式の鞘。軍刀。つまり、殺人の道具。
「な……な、なん、何なんだ貴様らッ! わ、私を誰だと思って、こ、こんなことをしているんだッ!」
ただただ必死になって喚き散らす。返事はない。代わりに、ベランダの近くに立っていた男がゆっくりとした足取りで山橋に近づき、おもむろにジーパンのポケットに手を突っ込んだ。
取り出したのは、手のひらに乗るサイズの超広域用無線通信機。だが形状は特殊で、知らない人間が見れば、ピラミッド型のオブジェにしか見えない。明らかに異質な、《外界》には存在しない軍用機器。侵入者は、それを自らの顔の横に持ってきて、山橋に見せつけるかのように、無線機の頭頂部を押し込んだ。
『聞こえているか? 山橋道元』
無線機から、男の声がリビングに木霊した。聞き覚えのない声であった。低く、それでいて有無を言わせぬ迫力に満ちた声色だ。何と返事をすれば良いか分からず黙していると、通信機からまたもや声が聞こえた。
『グレンフィディックとはまた、似合わない代物を味わっているな。テレビ台の傍にはガレの水差し、壁に掛けられているのはフランシス・ベーコンの複製画か。ステータスを誇示したがる、実に政治家らしい部屋だ』
テーブルの上に放置していたウイスキーの銘柄と、部屋の内装を言い当てられて、山橋はぎょっとした。謎の男は、通信機越しに話しかけてくるだけでなく、山橋の顔も、部屋の全ても、何から何までお見通しのようであった。
『この通信機は私の友人が遊び半分で造った名品だ。通話だけでなく、内臓された超小型カメラを通じて、現場の様子をモニター越しにリアルタイムで確認できるようになっている。お前がいま、どんな面構えでこちらを見ているか、懇切丁寧に説明してやることもできるぞ』
「だ、誰だ」
全身から脂汗を流し、山橋が大声で怒鳴った。
「誰なんだ、貴様はッ!」
『……大嶽左龍。蒼天機関二代目機関長』
その言葉を聞いた瞬間、山橋の首筋に、死神の鎌がピタリと当てられた。そんな感覚があった。体の内側で、今までよりもずっと純度の高い恐怖が泡立ち、全身の毛穴という毛穴が一気に開いた。
「げ、幻幽都市……は……炎に包まれて……」
『ほう。こちらの被害を知っているのか。まぁ、どうやって知りえたのかは大方予想がつく。《外界》のテレビ局が放ったコバエも、中々迷惑なことをしてくれたようだな』
「ほ、崩壊……」
『崩壊? 都市が崩壊したと思ったのか? おめでたい奴だ。都市の治安維持を司る組織のボスが、こうして話しかけているんだ。それだけで、十分推測可能だろうが。残念だったな。貴様の期待する結果にならなくて』
「あぅ……」
計画が露見し、そして失敗に終わったことを暗に示され、山橋は喉の奥から、奇妙なうめき声を漏らした。徹夜を何日も繰り返して、綿密に組み上げていたトランプ・タワーが、無情にも薙ぎ倒される感覚に近い。いや、あるいはそれ以上の屈辱が、山橋の魂に焦げ付きを与えていった。
『この三日間で調べ上げたぞ。貴様と茜屋罪九郎の関係性を』
大嶽は、淡々と話を続けた。
『おかしいとは思っていたんだ。いくら優れた科学者が中心となっている組織とはいえ、あれだけの生物兵器を量産できる設備を整えるのには、金が掛かりすぎる。パトロンの存在を疑った我々は、組織のアジトを徹底的に捜索した。逃げ出そうとしていた他の技術者達も全て拘束し、洗いざらい全てを吐かせた。そうして、貴様と茜屋の目的に加え、貴様らの繋がりを示す、幾つもの物的証拠、並びに信頼性のある証言を確保したというわけだ。それにしても《外界》の人間が、それも日本国の政治中枢に深く関わっている者が資金援助をしていると判明した時には、流石に少々驚いたがな』
「あ、茜屋は……茜屋は今どこで何をしているんだ!?」
『ヤツなら死んださ』
通信機を介してリビングに響く大嶽の断定的な口調には、刃物のような鋭さがあった。山橋は一瞬、言葉の意味を理解し損ねた。されども、すぐにそれが嘘ではなく、また自分にとって重要な事柄であることを深く思い知らされ、激しく狼狽した。
「死んだ……死んだ、だと……」
『古代の邪神を召喚するのに、己の命を供物に捧げた結果だ』
「邪神……?」
『いやぁ、アレには手を焼いたぞ。それでも、ウチの優秀な人材と兵器達を前にしては、力不足だったようだがな』
言葉の意味が正確に掴めない一方で、山橋の脳裏に、三日前に見た映像の残渣が蘇った。戦いを続ける巨大な二体の怪物。あれのことを言っているのかと思い、ほとんど反射的に抗議の声を上げた。
「ま、まて。邪神なんて、そんなもの私は知らないッ! 濡れ衣だッ!」
『貴様が計画していたことだろうに、ここにきてシラを切るか』
「本当の事だ……貴様、何を言って……!?」
会話の歯車が噛み合わず、猛烈な違和感が山橋の頭の中で鎌首をもたげた。テレビが捉えた、爆炎に包まれる異形の怪物。計画から逸脱した想定外の現象。脳裏を過る侮辱的なキーワードを懸命に追い払おうとするも、あらゆる事実が、山橋が茜屋にとってどのような存在であるかを、がっちりと固定していた。
『……ふむ、なるほどな』
通信機から静かに届く声の背後には、山橋の置かれた立場を滑稽に思う色が彩られていた。
『まんまと、奴の研究開発に利用されていたという訳か』
今度は明らかに、侮蔑の調子が含まれていた。山橋の額に、うっすらと青筋が浮かび上がった。信じていた者に裏切られた絶望感よりも、自身のプライドを抉られた事に対する怒りの方が、勝っていた。何かを言い返そうと、唇を震わせる。次々と口撃の矢が浮かぶものの、しかし、どれ一つとして発射することは叶わなかった。自分を取り巻く情勢の移り変わりっぷりに、思考を必死に巡らせていて、それどころではなかったからだ。
『なぜ茜屋に資金を援助し続けたか。理由は聞かなくともわかる。貴様の立場と、その偏った思想から、それは透けて見える。我々が抱える軍事情報の奪取は、あくまでも副産物。目下のところの目標は、都市の壊滅にあった』
山橋は睨めつける視線を無線機に向けるだけで、何も言わなかった。無言の抵抗。だがその姿が、無線機に仕込まれた映像機能を通じて、どのように大嶽の目に映ったかは、本人は知らない。
『都市の治安を預かる者として、はっきりと言わせてもらう。山橋道元。これ以上、我々に関わるな。我々が伝えたいのは、それだけだ。それだけを伝えに来た』
「……何を……」
今度は、山橋が嘲笑した。相手が、それまでどこか高圧的な言動だったのが、一転して懇願とも取れる言い分になったことで、形成が逆転したと思った。
「何をぬかしている。貴様らの存在はこの国にとって、いや、この世界にあって、有害以外の何物でもない。これは私個人の意見ではない。日本国民の、世論の意見だ」
『幻幽都市が外の世界に対し、害意ある行動を過去にとったことがあるなら、その言い分にも一理ある。だが、実際はそんな記録は存在しない』
「今、ここに存在しているではないかッ! 私のような立場の人間が、日本をより良い国にしようと頑張っているこの私が、まさに今、害意に満ちた敵対行動の下に晒されているッ!」
『先に喧嘩を売ってきたのはそちらだ。我々は合理的な判断の下で、それに応じたに過ぎない』
「これは滑稽極まる。やはり、あんな魔境に長く住み着いていると、頭の方もやられてしまうものなのかね?」
舌戦の最中、リビングに山橋の怒号が木霊した。
「その無自覚さが罪だと言うのだッ! お前たちの存在が、あの都市が地球上に存在しているというだけで、善良な日本国民は夜も眠れない生活を送っているんだぞッ! 気味が悪くて仕方がないッ! 自分たちがおかしいとは思わないのか? 怪物が棲む穢れた土地に居座り続けるだけでなく、世界を脅かすほどの科学技術に溺れるその姿、まさに、今にも噴火しかねない危険因子だッ! 害意がないだと? ふざけるなよ大嶽左龍ッ! 何をもってそんな確証がある。どこにあるッ! その気になれば世界を混乱に陥れるだけの軍事力、科学力。それを背後に隠しておきながら、我々の事は放っておいてくれだなどと、そんな言い分が通じるかッ! 敵意があろうとなかろうと関係ない。行き過ぎた強大な牙がこの国に向けられる可能性が万に一つでも存在するなら、それを徹底的に摘み取ろうとあらゆる努力をする。それが政治家たる私の務め。私こそが正しいッ! 日本だけではない。アメリカも中国もロシアもEU諸国もッ! どの国々もッ! お前たちが無自覚に振るう刃に恐れているのだッ! 言うなれば、私は、世界の為に戦っているんだッ! 悪である貴様らを罰する為になッ!」
感情の赴くままに激しく喚きたて続け、山橋は最後の矢を放った。
「日本国民の称号を剥奪されたよそ者のお前らなど……失われた東京にいつまでもしがみつこうとするその哀れさ、実に不愉快極まりないッ! 亡霊だ。貴様らは亡霊の民だッ! 早く消え去るがいいッ! この薄汚い蛆虫どもがッ!」
ありったけの感情を吐き出し、肩で息を吐きながら、山橋は自己に酔いしれていた。世界の気持ちを代弁してやったかのような心持ちであった。幻幽都市を脅威と思えば思うほど、心の奥底が灼けるような感覚に誘われた。
無線機から、沈黙が流れる。山橋を取り巻く三人の男たちも、全く表情を変えずにいた。山橋の心に、笑みが灯る。言いたいことを言ってすっきりしたというのもあるが、それ以上に、押し黙る彼らの様子が可笑しかった。こちらの舌鋒に撃ち抜かれ、微動だにできないのか。
『……大禍災から、もう二十年も経つのか』
「……なんだと?」
全く、何の脈絡もない科白を耳にして、山橋の心に雲がかかる。
だが、その言葉にこそ、全ての意味があった。
『二十年前、私は十八の小僧だった。将来のことはまるで考えず、何にも意欲が沸かない。それでいて、与えられた物には立派に難癖をつける、どこにでもいる一丁前の高校生。それが私だった。このままダラダラと平凡に時間を浪費して、大学に入学して、就職して、なんとなく結婚して……それで終わると思っていた。あの頃の私には、生も死も同じだった。同じ、くだらない存在に過ぎなかった。そんな時だ。大禍災が発生し、東京が壊滅したのは』
山橋には決して推し量れない、濃密な時の流れに想いを馳せる大嶽の声が、リビングに広がっては消えていく。この感覚は貴様に分からないだろうという明確な線引きが、そこにはあった。価値観の違いによる、一種の拒絶に近い何かが。
『大禍災は全てを創り変えた。土地も、ビルも、生き物も、そして人の生き方さえも。あの時、私は確かに見た。痛みを抱え込みながら、瓦礫の山々を懸命に駆けあがる人々の姿を。どんなに周囲から冷たい視線を投げかけられても、国からの救援を打ち切られ、見捨てられようとも、それでも前を向いて歩みを止めない、燃える命の輝きを。人の雄姿。今まで見たことがないくらいに、それは眩しかった。とてつもなく――それに憧れた。あの眩しさを、自分も宿したいと思った。やがて、宿すだけではなく、この輝きを守りたいと思うようになった。だから、私は機関に入隊した』
都民の安全を預かる者としての矜持が、洪水が如く大量に、しかし清流の如く穏やかに流れだした。感情の圧力に押され、山橋はただ、呆気に取られて黙る以外の選択肢を選べなかった。
『山橋道元、貴様は思い違いをしている。我々は決して亡霊ではなく、れっきとした真なる意味での人間だ。では、亡霊と人間を分かつものは、一体なんだと思う?』
山橋は応えない。無線機から、声が流れる。
『想い出だ。亡霊にはそれが無いから生きられず、人間はそれがあるから生きていける。たとえ住み親しんでいた土地が失われようとも、そこで培われた積年の経験は、その人が生き続ける限り、消えはしない。楽しい想い出も、悲しい想い出も、全て分け隔てなくだ。その様々な想い出の中から、人は人生を歩むのに必要な糧を選び出し、自分の足に変えて生きていく。運命を歩むとは、つまりそういうことだ。そして、幻幽都市に住む全ての人間が、運命を歩もうと懸命に走り続けている。山橋、貴様の先の発言は、彼らの生き方を根本から否定し、侮辱し、貶めるもの。最低最悪の暴言だ。簡単には見過ごせない』
大嶽の言質にリンクするかのように、幽鬼じみた機関員が、ゆらりと軍刀を鞘から引き抜いた。天井にぶら下がるシャンデリアの光を浴びた曇りなき刀身に、山橋の引き攣った顔が映り込む。
『これが、最後の警告だ』
じり、と軍刀を手に男が近づく。恐怖で動くこともできない山橋の首筋に、それをピタリと当てがった。背骨が凍り付くような、想像を絶する冷たさが、山橋の皮膚を通じて全身に広がりだした。
『山橋道元。今後一切、我々に関わるな。イエスと答えるのなら、今回のことは多めに見てやろう。だがもしも、ノーと答えたなら』
ぐっと、機関員の持つ軍刀に力が込められ、山橋の首に、うっすらと血が滲んだ。
『貴様を、殺す』
部屋の温度が、急激に下がったかのような感覚を覚えた。それだけの冷気に満ちた声色であった。だけでなく、相手の心の中心を射抜くような鋭さと、只ならぬ剣呑さも含まれていた。
「は、はったりだ。日本の警察を甘く見るな。私を殺して逃げようとも、必ず足が付くぞ。貴様らが殺ったことだと、直ぐにバレる」
『そちらこそ、機関の外事交渉部の能力を甘く見ないでもらいたい。彼らは皆、隠密能力に特化したジェネレーター。証拠隠滅の工作には手慣れている。十分もあれば、この部屋からあらゆる指紋を消し去り、貴様の遺体を完全に消滅させ、事を済ませられる……最もそれ以前に、警察にバレないうちに都市に戻りさえすれば、そちらは何の手出しも出来ないがな』
相手が場に掲示してくるカードのどれもが強力で、山橋のそれをはるかに上回っていた。どちらが優勢であるかは、誰が見ても明らかだ。支配と被支配のゲーム。その渦中に投げ出され、山橋の精神が、やすりで削られていくように摩耗していく。それに拍車をかけているのが、もしここで大嶽が今までの流れを無視して殺害の指令を下しても、何の躊躇も無く、彼の部下はこちらの命を奪う行動に出るだろうという、確信めいた予感だった。
山橋の本能が、彼の恰幅の良い体に警告音を鳴らした。イエスと答えろと。そうすれば、最悪命だけは助かるかもしれないと。そうするべきであると。
しかしながら、敢えて彼は耳を貸さなかった。魂の汗を拭い去り、意識が遠のくような感覚の中にあって、衝動が山橋の心をプッシュした。
「私が死んだとしても、終わらない」
震える声。山橋の中で、何かが音を立てて閉じた感覚があった。一瞬の後悔。だが、もはやどうでもいい。恐怖に心が千切れ飛びそうになるも、山橋は言葉による抵抗を選択した。彼は、最期の最期まで、自分らしくいることを選んだ。
「貴様らを疎ましく思う連中は他にもごまんといる。いずれ、第二、第三の私が現れるだろう。これで終わったのではない。ここからが始まりだッ! 後悔するがいいさ。貴様らは一生、我々の影に怯え続けるしか――」
『殺せ』
相手の言動が言い終わらぬうちに、無線機から最後の通告が下った。
軍刀が、たちどころに振り下ろされた。
△▼△▼△▼
山橋道元。彼は己の死が迫る寸前になっても、決して信念を曲げる事は無かった。その点だけは、敵ながら評価できる。彼は彼自身の正義に殉じた。同時に、彼が手にするはずだった幸福への道は、完全に断たれた。
『正しさと幸福。人は、どっちを選んで生きていけばいいと思う?』
昔、同じ屋根の下で暮らしていた女の声が、大嶽の中でふと蘇った。
何と答えたか。彼は、今でも直ぐに思い出すことができる。
首を切断され、血だまりの中に沈む山橋の遺骸を外事交渉部の機関員らが片づけていく。その姿をモニター越しに見届けながら、大嶽は椅子の背もたれに身体を預け、大きく息を吐いた。
正義を掲げた果てに死ぬことがあっても、その人自身に後悔が無ければ、その人は幸福であったと言えるだろう――
モニターをじっと眺めながら、またもや溜息を吐いた。




