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アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第八幕 正しさと、幸福と
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8-13 死闘 その3

「だから、言ったでしょう?」


 闇の中。崩れた壁の向こうで邪なる声が反響し、妖気が立ち上がった。生者の気配だ。ぞわりと、悪寒が再牙の背筋を撫でた。


「私の螺旋進化は、A級判定だって」


 陶然と微笑みを浮かべ、闇の中から染み出すように、バジュラが現れた。体のあちこちから血を流し、骨も幾つか折れてはいる。しかしながら、死闘に興じるだけの余力は残っているのが、その獰悪に満ちた眼光からはっきりと感じられた。


 戦慄。再牙の視線がバジュラの右足へ吸い込まれた。そこに明らかな変異が生じていた。虹色に輝いている。あの異相空間と同じ輝きを、バジュラの右足が放ち続けている。暗黒の夜空にあって、力強く存在を主張する一等星の如く。


「右足の一部を、異相空間と接続させたのか……」


 恐るべき能力の進化だった。彼女は、投げ飛ばされる瞬間、自身の右足を異相空間と繋げ、再牙の右拳を粉砕したのだ。


「貴方も、中々のものね」


 バジュラが見下すような視線を、再牙の右腕に送った。無残にも破壊された右拳。だが、手首からの出血は既に止まっている。筋量操作による血管の圧迫が、それを可能としていた。


「それにしても、妙な服を持っているのね。異相空間の攻撃を無力化するなんて」


 その台詞は驚きよりも呆れ気味のニュアンスが込められていた。いくら強い武器を持っていもこちらの優勢は揺るがないという意思が、ありありと感じられた。


 バジュラが、ゆったりとした動きで右手を翻す。フィナーレへ突入せんと、彼女の周囲に異相空間が幾つも現出した。


 再牙は後ずさり、ついに壁を背にする格好になってしまう。それでも頭の中は実にクリアに透き通っていた。雑念は一切なかった。右手を失ったショックよりも、どうやって次の手を打つかを思考し続けることが、命の刻を伸ばす最善の手法であると、本能が理解していた。


 自身と相手の戦力差を感覚で見極め、一撃を与える。防御に徹しては敗北が近づくばかりだ。命の削り合いにおいて、まず重要なのは攻めへの道筋を創ること。こちらが相手を圧倒しうるだけの戦闘状況を生み出せれば、勝機は近づく。それが定石とされている。


 しかし、その定石通りに事を運ぼうとしているのは、当然ながらバジュラも同じであった。


 異相空間が瞬き死光線が直線の軌道を描いて発射されたのと、再牙が地面を蹴って上方へ飛翔したのは、ほぼ同時であった。虹の嵐が地下を蹂躙する中、再牙は神経の全てを尖らせた。自身が、薄く硬い刃になるような感覚に陥る。あらゆる脅威の切先を肌で知覚し、更にその次の脅威を予測し、己の動きを己の意志で完璧にコントロールし続けた。


 繰り広げられる暴威のトポロジカル。壁を、柱を、あらゆる障害を灰塵へ帰す破壊光線。それが描く幾何学模様を掻い潜りながら、死が間近に迫る最中にあって、再牙の視線は未だに一歩もその場から動こうとしないバジュラへと向けられていた。破壊光線が描く文様は一見して複雑だが、それを構築しているのは全て直線的な軌道のみだ。実に単純明快な攻撃であり、見切るのに目はもはや必要なかった。ただ、経験と能力に任せれば事足りた。


 再牙が少しづつ余裕を取り戻している姿を見て、バジュラは激しく憎しみを募らせていった。癇癪を起したように左足を踏み鳴らすと、運動量が爆裂をかまし、室内全域にとてつもない震動が奔った。衝撃で、巨大な柱の一本が根元から崩れ去る。柱が倒壊する位置は丁度、再牙が次に跳ぶべき軌道と殆ど被っていた。


 破壊しろ。本能が強く囁きかけてきた。その囁きに脳よりも体が最初に反応した。再牙は飛翔しながら素早く左手でマクシミリアンを構え、倒れ込んでくる柱に向けて砲撃を行った。爆炎と破片が舞い散る。再牙は前者には目もくれず、後者の存在にのみ意識を傾けた。


 もう一方の柱へ滑り込むように身を隠しながら、バジュラははっきりとそれを見た。再牙の足が、十センチにも満たない柱の破片を踏んでいるのを。筋量操作と骨密度操作により、自身の体重を数瞬、スポンジと同等の重さにまで減少させ、次の一瞬で元通りに体重を戻して破片を踏み抜いて次の破片へ飛び移る。想像しがたい負荷が再牙の全身を突き刺すかのように駆け巡るが、その痛みすらも、彼は痛覚のレヴェルを下げることで耐え抜いていた。


 バジュラが何事かを大声で叫び散らしながら、両手を翳す。またもや出現した異相空間が、再牙の姿を捉えた。轟と音が爆ぜて、死光線がラピッド・ファイアの如く発射されるが、その悉くを、オルガンチノが弾いていく。


 たまらず、死の連撃を浴びせ続けるバジュラ。破片を踏み抜いて移動しながら、それをオルガンチノで弾く再牙。執拗な矛と盾の争いの中、両者の視界が段々と灰色に曇っていく。壁という壁が戦闘の衝撃でもろくも崩れ去り、もはや部屋とは呼べない、ただの空き地も同然の状態と化していく。吹き飛ぶ大量の破片と轟音が辺りに立ち込め、再牙の視界は完全に不良となった。


 両者の争いは既に、肉体の強さは元より精神の頑強さを競うデス・ゲームの域へ到達していた。少なくとも再牙にバジュラは殺す気は全くなかったが、バジュラ自身は相手に手心を加える気はまるでなかった。当然だ。これはバジュラにしてみれば、己の正義を証明し、自身の過去へ決着をつけて幸せを勝ち取る、血を伴う儀式なのだから。あるのは純然とした殺意だけだ。そして、その殺意を感じ取れば、いくら視界が閉ざされたとしても彼女の居場所は容易に割り出せると再牙は考えた。その筈であった。


 先ほどまでの争いが嘘だったかのように、水を打ったかのような静寂に包まれる。ひとまず地面へ着地した再牙は、マクシミリアンを左手に持ったまま暗黒の粒子が立ち込める周囲へ視線を配った。


 粉塵の密度が低下し、視界が晴れることを待っているのか。それとも、それ以外の別の何かを考えているのか。再牙は感覚を研ぎ澄ませてバジュラの出方を伺う。死光線による攻撃がないところを察するに、体力が持っていかれるのを防ぐためか、異相空間は全て閉ざしたものと思われる。しかし、それ以外の動きはまるで読めなかった。気配すらもだ。五感を集中させているというのに、感じるのは夜に舞う風の動き。魂の芯まで凍えてしまいそうな夜風の冷たさだけだった。


 それが突如として轟音と共に打ち壊された刹那、猛烈な違和感を再牙の耳が捉えた。強化された聴覚が爆裂した轟音の影にもう一つ、他とは違う別の音を感じ取った。それが明確な悪意の籠る足音であると分かったのと同時、彼の耳元に生暖かい吐息がかかった。


「ようやく、捕まえたわ」


 バジュラの声。振り返ろうと身を捻る再牙。左手首に強烈な圧迫感を覚えた時だ。突如として視界が反転し、猛烈な勢いで地面へと叩きつけられる。マクシミリアンが彼の手を離れて宙を舞い、地面へ叩き落された。とんでもない衝撃であった。肉体を能力で強化していなければ、この時点で既に彼の肉体から魂は離れてしまっていたであろう。


 ようやく捕まえた。まさにその言葉通りであった。バジュラの細く、しかし運動量の付与により強化された右腕が、がっしりと再牙の左手首を掴んでいた。これを手に入れたかったのだとばかりに。


 バジュラは、あの粉塵の霧の中にあって自身の胸部に異相空間を出現させていた。つまり一時的に心臓を『停止』させ、自らを仮死状態へ追い込んでいた。再牙の五感が完璧に知覚できるのは鼓動を打つ生命のみ。一時的にとはいえ、死の床に伏した人間の気配を探ることは不可能。能力の虚を寸分の狂いもなく突かれた、愕然とする戦法であった。


 再牙の左手首を掴むバジュラの右手に、ぎりぎりと力が入る。彼女の右腕が稲妻の如く闇を撫でれば、面白いように再牙の体が宙を舞い、再び地面に叩きつけられた。休む暇も与えないとばかりに、三度バジュラが右腕を振り薙ぐ。今度は崩れた柱の一角に、再牙の顔面が叩きつけられた。


 もはやこれは、人体を使ったヌンチャク演武であった。逃げようにも逃げられず、反撃しようにも反撃できず。ただ再牙は、バジュラの為すがままに身を預けるしかなかった。地面に頭から激突し、足を柱にぶつけられ、壁に背中を強く打ち付けられる。内側から膨れ上がる灼熱が、細胞の一つ一つを焦がしていく感覚。いつ終わるともしれぬ徹底的な肉体への攻撃が、再牙の命を削り取っていく。


 骨密度と筋量を最大限にまで向上させて猛攻を凌ぐも、物事に限界はつきものだ。圧倒的破壊の嵐に晒され続ければ、流血も滂沱の如く起こるもの。オルガンチノはぼろ雑巾のように破れてしまうばかりか、左足も右足も、皿が粉々に破壊され、肉を突き破って骨が露出する有様であった。左腕だけが辛うじて原型を留めてはいたが、それもいつ潰されるか分かったものではない。


 だが、それは攻撃を加えている側のバジュラも同じであった。彼女の右腕もまた、付与し続けた運動量の負荷に耐え切れず、あちこちから血を流し、ねじれた棒切れのようになってしまっている。それでも彼女は攻撃を止めない。それどこか歪な笑顔を浮かべていた。心からの笑顔であった。


 これだったのだ。赤黒い血をおびただしく流し、今やただの人形と化した再牙の哀れな姿を目で追いながら、彼女は歓喜に打ち震えた。正しさと幸せを無意識のうちで天秤にかけ、そのどちらもが心のうちで均衡を保っていた。


 これを待っていたのだ。未来を照らす光。それが映し出す影が、今、目の前にぶら下がっている。逃すわけにはいかなかった。歩むべき道がすぐその先に開けているのを、確信した笑みであった。


 心の叫びが、そのまま歓喜の喜びとなった。呪われた過去に立ち向かい、今やそれを克服しかけている自分の姿に、バジュラの心は艶やかに歪み続けた。自身の右手と再牙の左手首。もはやその境界は曖昧で、互いが互いの一部になったかのような錯覚すら覚え、何とも例えがたい快楽の波が全身を激しく貫いた。魂の悦楽は彼女の肉体にまで影響を及ぼし、両足の間から生暖かい液体がちろちろと流れ出るのもそのままに、彼女は息を荒げて死の演武を続けた。


 絶望的なまでに繰り返されたその演武も、十数分経過としたところでようやく終了した。バジュラは、もはやただの枯木となった右腕に最後の力を込めて、地面に倒れ伏した再牙の頭を無理やり掴み上げた。


 今の再牙は酷く醜い有様であった。十人が十人とも思わず目を反らすであろう、凄絶な姿。頭皮の一部が剥がれ、左目が半分飛び出し、両足は立つのもままならないほどに砕けている。破壊の残り香が彼の全身を包み、なおも見えない衝撃に蹂躙されているかのようである。


「哀れね……本当に哀れよ……そして美しい、アヴァロ」


 バジュラは目を細め、生気を無くした再牙の顔に唇を近づけると、頬に刻まれた傷痕を流れる赤い滴をぺろりと舐め、飲み込んだ。


「ふふ……貴方って意外と、可愛い顔してるのね。その醜い傷も、こうしてみると凄くチャーミングよ。安心しなさい。昔のよしみで、お墓だけはつくってあげるから――」


 謳うように語るバジュラの言葉が、異音と共に遮られた。瞬間、目の前に広がる闇が白熱し、開かれたはずの未来への道が、無情にも閉ざされる音がした。打ち払ったはずの忌むべき過去が、紅く燃え、猛然と襲い掛かってくる。耐えがたい恐怖が、したたかに彼女の全身を撃ち抜いた。


 驚愕と、絶望と、後悔と――あらゆる感情が心を揺さぶる中、バジュラは視線を己の腹へと向けた。信じられないという表情と共に、彼女の双眸は確かにとらえた。自身の腹に食い込む左拳の存在を。それを認めた拍子に、何かがせりあがってくる。こらえ切れず、バジュラは猛烈に吐いた。黄色く濁った吐瀉物が、腹を貫いた再牙の腕にかかり地面へと落ちる。


「勝手に……死んだことにしてんじゃねぇぞ」


 ぎらりと、眼光が一つ。再牙の魂が激しく明滅していることの証拠だった。身を焦がす苦境に身を晒され続けて打つ手がなくなっても、それでも生きる事を諦めない。真なる人間の精神の輝きがそこにあった。


 能力が強制解除を迎えるまで、あと十分。再牙の双眸に灯が宿る。砕け散りかけた意志に活を込めるかのように彼は吠えた。魂からの叫びだ。ここにきて初めての咆哮であった。両足から血が噴き出すのも構わずに、彼は立ち上がる。その野獣の如き鋭利な視線が、茫然と立ち尽くすバジュラの姿を捉えた。


 再牙はバジュラの腹部から血まみれになった左腕を引き抜くと、腰を急旋回させて風を巻き込み、爆速の如き勢いで腕を振るった。バジュラも応じるが、何を思ったか既に使い物にならぬ右拳で、再牙の必死の一撃を受け止めようとしまっていた。明らかなミスだ。判断を誤った要因は、既に闘いは決したものとして心の帯を緩めた彼女の怠慢だけにあるのではなかった。再牙がふるった腕は、手首から先が吹き飛んで本来の役割は機能しないであろう右の(かいな)だった。その事実に、バジュラは激しく動揺してしまっていた。


 なぜ、あえて右腕で――バジュラの脳裏に沸いた疑問に、応える声はない。


 再牙の潰された右腕に猛烈な筋力が甦る。風を切って奔るその攻撃を、バジュラの右腕は防ぎきれなかった。至近距離でマグナムを撃ち込まれたかのような絶なる一撃が、バジュラの右拳をぐしゃぐしゃに破壊する。


 痛みに耐えかね、猛烈な叫びを上げるバジュラ。視界が暗転しかねないほどの激痛に意識を奪われかけた刹那、彼女の体の芯をまたもや耐えがたい衝撃が襲った。再牙の渾身の蹴りが、彼女の股間を撃ち抜いていた。反撃に転じる事も出来ないバジュラを、なおも再牙の牙が襲う。左拳の正拳突き。それは見事にバジュラの正中線を捉え、この闘いにおいて一番の打突を与え込むことに成功した。


 獰猛なインパルスの牙が、バジュラの体の中心に勢いよく噛み付いた。想像を絶する波動が全身を襲い、反対側の壁に強く背中を打ち付けられるバジュラ。そのままずるずると、力なく地面に尻もちをつく。


「終わりだ、バジュラ」


 よろめく足取りで、彼女に近づく再牙。まだその瞳は蒼く燃え輝いているが、声の調子には嘗ての同胞を労わる想いが込められていた。


「もう、諦めろ」


「黙れ……ッ!」


 朦朧とする意識の中、バジュラが起き上がる様子を見せる。なんという執念。なんという覚悟か。肉体強化の能力としては最高峰に位置する再牙の渾身の攻撃を数発喰らいながらも、肉体が千々に千切れそうな激痛に全身を嬲られながらも、命ある限り彼女は闘うつもりでいた。


「それを決めるのは、アンタじゃない……ッ!」


 残った左手で、宙を撫でるかのような仕草を見せようとするバジュラ。往生際悪く、またもや異相空間を呼び出そうとしているのは明らかだ。しかしながら――どうしたことか動かない。腕どころではない。指一本すら動かせない。体が負った深刻なダメージのせいでもあるが、もっと大きな原因があった。


「体……動かねぇんだろ。なんでだか分かるか?」


 バジュラは応えない。再牙はバジュラからやや離れたところまで来ると、歩くのももう限界だとばかりにぺたりと腰を下ろした。


「お前さっき、俺の血を舐めただろ。それのせいだ」


「な……に……?」


「お前も知っての通り、俺の能力は肉体と五感の強化だ。こと肉体に限っていえば、俺は細胞の一つ一つに至るまで強化することができる。言い換えれば、俺は自分の肉体そのものを俺の意識下に置いているってことだ。肉体……骨や血も、全てだ。それは俺の肉体を離れた後も、一定時間は俺の支配下にあり続ける。意味が分かるか」


「まさか……血を介して……」


「そうだ。俺は、お前が舐めとった俺の血を介してお前の肉体を支配している。効果時間は……およそ半日ってところだろう。部隊にいた頃は黙っていた、俺の切り札だ。知らなくて当然だ」


「この展開を……読んでいたの……?」


 呻くようなバジュラの問いかけに、再牙は静かに首を振った。


「たまたまだ」


 そこから、互いに黙り込む。時間にしてほんの数秒に過ぎなかったが、再牙にとっては、永い永い、終わりどころの分からない静けさだった。


「あなた、本気じゃなかったでしょう?」


 バジュラが呟くように言った。「どうして分かった」とは、言わなかった。ため息混じりに、バジュラがまた、口を開いた。


「なんで、私を殺さないのよ」


「……俺は、もう誰も殺したくない。殺されるのも嫌だ。我儘だと思うだろうが、もう、人殺しはごめんだ」


「……それ、本気で言ってる?」


「ああ」


「だとしたら、アヴァロ、あなた、この後私をどうする気でいるの?」


「俺は、別にどうもしねぇよ。機関の奴らにお前を引き渡して、そこで終わりだ。あとは、あいつらが決める事だ……幻滅したか?」


「何が?」


「俺が、あいつらとまた組んで、お前を追い詰めようとしていたことを」


「……さぁ、どうかしらね……ふふっ」


 くすりと、バジュラが笑みを溢した。先ほどまで見せていた圧倒的悪意に満ちた顔は、そこには無かった。悪童が悪戯を閃いた時のような、少し相手を困らせてやろうという響きがあった。


 だが、あくまでそれは表面上の話だ。裏にはバジュラの後戻りできぬ必死の覚悟があった。勝負には負けても勝利だけは掴もうとする姿勢。このまま過去を克服できずに終わるのなら、自身の正義が貫けずに終わるのなら、別の方法へ身を委ねるだけだという壮絶な想い。 


 己の根源を縛る見えない鎖を自分自身の手で断ち切ろうと、バジュラの瞳に最後の光が灯った。力を軽く入れるだけで、体内に巣食った再牙の血が即座に抵抗反応を示す。痺れが神経のあちこちに伝わる。全身が痙攣するかのように震えるが、必死になってバジュラは左手を動かそうともがいた。


「無駄だ、止めておけ」


 バジュラの動きを気配で察知した再牙が警告を送る。彼の視線は明後日の方向へ向けられ、バジュラの姿は完全に視界の外にあった。一々、目視で確認する必要が無かったからだ。彼の血が彼女の行動をロックしている以上、どう頑張っても抗えないことは誰が見ても明らかだった。


 しかし、それでもバジュラは諦めない。歯を食いしばり、喉奥から唸るような声を上げた。罠にかかった獣が、必死にそれを振り解くような姿に似ていた。自分を地の底へ引きずり込もとする何者かを突き飛ばし、正義と幸福のどちらも手に入れる。それもまた、まごうことなき人のあるべき姿であった。


 蜂がすぐ耳元で舞うような音が、再牙の鼓膜を振るわせた。はっとして振り向いた時、再牙は刮目した。


 バジュラの直ぐ真上に、虹色に輝くそれが、大きく展開している。


「私の勝ちよ。再牙」


 そう告げて、バジュラは会心の笑みを浮かべ、続いて何かを囁いた。苦楽を共にした仲間へ向けた最後の呟きは、別れの言葉でも、恨みの言葉でもない。全く別の意味合いが込められた言葉。それが、彼女の『もう一つのやりたいこと』を意味しているのだと理解した前後で、唐突に幕は下ろされた。


 どん、と激しい衝撃が大気を揺らして、バジュラの体に大きな穴が開けられた。止めを刺した虹色に輝く異相空間は、死光線の残渣を残して幻のように消え去った。


 残されたのは、胸の中心から零れ出る赤い命と、虚を突かれてただ茫然とする再牙の姿。


 それだけだった。

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