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アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第八幕 正しさと、幸福と
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8-10 彼女らの祈り

 治療室のドアが無造作に開かれた瞬間、琴美は反射的に、また事情聴取が始まるのかと思い込み、うんざりした。治療が終了し、夜生から再牙の出自に纏わる話を聞かされた直後から、それは始まった。


 治療室を訪ねてきたのは、全工学開発局(サルヴァニア)の特務防疫調査分析室に所属するメンバーたちだった。彼らが琴美から聞き出そうとしたのは、バジュラの摩訶不思議な力についてだった。あの妖女に関する記録は機関の公的機密文書館に厳重に保管されているが、彼らが知りたかったのは今現在の彼女の能力。その詳細であった。


 バジュラの襲撃を受けて生き残った者は限られていた。故に、貴重な情報を得ようと彼らが躍起になるのはわかる。しかし、自分のようなど素人から、一体何を聞き出そうというのか。機関員たちの必死さは伝わったが、だからこそ琴美は余計に無力感を覚えた。


 あの時の光景を思い出そうとすると、驚愕と恐怖がフラッシュバックしてしまい、他には何も思い出せなかった。目の前で多くの血が流れたことによるショックも手伝って、バジュラが振るった力の正体を十五歳の少女が見定めるのは、どうやっても無理な話だった。


 それを分かっているのかどうか知らないが、彼らは中々に諦めが悪かった。琴美の体調に気を遣いつつも、何とかして話を引き出そうとする焦りだけが前に出ていた。


 聞き取りをしては、しばらく退席し、また聞き取りを開始する。何回か同じやり取りが繰り返され、この流れがしばらく続くものだと思った。


 だからこそ、扉の向こうから見知った顔の人物が現れた時、琴美は心から安堵すると同時に、はじけるようにして大声を上げていた。


「再牙さんっ!」


「よぉ、元気そうで何よりだ」


 ベッドから飛び起きて駆け寄る少女に、再牙は優しく微笑みかけた。


「無事だったんですね」


「何とかな。エリーチカの奴はどこに?」


「今は修理中みたいです。損傷は激しいけど、命に別状は無いって、さっき機関員の方が仰ってました」


 ところでと、琴美は再牙の背後に立つ大嶽をちらりと見上げて、遠慮がちに再牙へ訪ねた。


「そちらの方は?」


「ああ、えっと」


「再牙」


 何から説明しようか迷っている再牙の肩を、大嶽がポンと叩いて、わざと琴美に聞こえる大きさで声を発した。


「俺は先に第三ヘリポートに向かう。場所は最上階。行き方は、あの頃と変わっていない。覚えてるか?」


「忘れるものかよ」


「時間が惜しい。手短に用件を済ませて、合流しろ」


「手を抜けと? そういう訳にもいかない。俺は今から、俺本来の仕事を片付け――」


「いいな」


「おい、ちょっと」


 何かを言いかけようとした再牙の声を無視して、大嶽はさっさと部屋を出て行った。


「やれやれ、相変わらず自分勝手な……まぁ、座ってくれ」


 再牙は琴美にベッドに座るように促し、自身は近くに置かれた丸椅子を引き寄せて、対面になるように腰かけた。


「君に、話さなければならないことがあって、来たんだ」


 重圧から解放されたような再牙の声色を耳にして、琴美は何となく察した。これから彼が話すであろう内容について。


「もしかして、父の事について何か分かったんですか?」


「まぁな。ただ……見ての通り、ちょっと今は立て込んでいてな。悪いんだが、要点だけ話させてもらう」


 そう口にしながら、再牙はオルガンチノのポケットから、ボロボロの手帳を取り出した。


「WBCカンパニーの跡地で見つけた。お父さんの私物だ。中に、写真が挟まっている」


 琴美は、大切な物でも扱うかのように、恐る恐る再牙から手帳を受け取った。少女の小さな掌には少し大きすぎた、父の遺品。錠一の激しい哀切と共に忘れ去られたそれは、ようやくこの時、望ましい者の手へと渡った。


 琴美の表情は、誰が見てもわかるくらいに緊張していた。瞬きの回数も少ない。これから再牙の口を通じて伝えられる真実を正しく受け止められるのかどうか、自問自答しているようでさえある。


 だが、覚悟を決めたのか。煤けた手帳の表紙に視線を落としていた琴美の手が、重い扉を押し開けるように、ゆっくりと動いた。ページを破らぬように黄色く変色した紙を、静かに捲っていく。


 沈黙漂う中、琴美の指が、ある一点で止まった。


 笑っている、父の顔があった。


「俺が掴んだ事実を、全て話す」


 再牙の報告は、実に慎重を極めていた。いつもより、ずっと低く、だがはっきりとした発声。正しい場面で、正しい言葉を使わなければという責任感が込められた声。


 琴美の父がこの街に来た理由。家族を置いてまで、そうしなければならなかった理由。彼の手帳を危険区域に指定されている施設跡から発見できた理由。話が終わるまで琴美は微動だにせず、感情波打つ瞳で写真を見つめていた。


 種々の理由の背景には、複雑に絡まる人間の心理があった。その心理を事細かく拾い集めて憶測を述べる事を、再牙はしなかった。きっと錠一氏はこう思っていたんだろうとか、こうしたかったに違いないとか、そんな意見を述べることに何の価値もないことを、彼は知っている。


 重要なのは、事実を伝えられた側である琴美がどうやって立ち上がり、歩いていくかだ。彼女が己の運命に対し、どのような向き合い方を選択するのか。それを見届ける義務が、彼にはある。


「父は……そうだったんですか。母の、ために」


 魂を絞るような声。再牙から聞いた言葉を、頭の中で何度も反芻する。言葉の意味の一つ一つを、必死になって探り、知りたい事実を知ろうとする努力に徹する。


「私の……ために……」


 目を閉じる。唇を結ぶ。まるで苦行に耐え抜く修行僧のように。ただ心の赴くままに、彼女は記憶の海に没入した。


 家族三人で過ごした、穏やかな日々。平凡にして幸せな日常が、あっけなく崩壊した。ばらばらに砕けた想い出の海を、彼女はもがき、苦しみながらも、足掻いて足掻いて泳ぎ続ける。深海のように凍える悲壮感が消えないわけではない。大切な何かを失った哀しみは、二度と消えない。どれだけ時間が経とうとも、それは当事者の深いところで、ずっと根を下ろし続ける。


 決して癒えぬ傷痕に、毅然として立ち向かうのは骨が折れるどころの話ではない。己の過去に降りかかった災難から目を反らし、できれば無かったことにしたいと願うのは、人の業でもあり、普遍的な一面だ。だからこそ、逃げることは許されないのだ。どんなに辛くとも過去を真正面から受け止めなければ、いずれにしろ、待っているのは灰色の未来だけだ。


 これでいいのか(・・・・・・・)。終わらぬ問いかけが、いつも呪いのように少女の脳裏に潜んでいた。父へ向ける愛情と憎悪。反発する二つの感情。それが、自身の心の方向性を狂わせ続けていた。果たして、真に父へ向けるべき感情はどちらなのか。それを見定める鍵は一人の万事屋の努力の甲斐もあって手に入り、後は、琴美自身の手で鍵穴に差し込むだけだった。それでよかった。本当に、それだけで。


「……お父さん……」


 情けなく背中を丸め、声にならない声を上げる琴美。それが本来の彼女のあるべき姿だった。十五歳の少女が、本当の意味で、心に閉じ込めていた感情を爆発させた瞬間だった。


 少女の細い肩が小刻みに震え、写真に滴がひたひたと落ちる様子を、再牙は神妙な面持ちで見守っていた。琴美から依頼内容を初めて聞かされた時に浮かんだ一つの疑問。ずっと頭の片隅にこびりついていたその疑問が、自然と氷解していくのを感じた。


 自分の親が何者かに殺され、しかも犯人が逮捕されていない。この状況なら普通、犯人を捕まえて欲しいとか、犯人に制裁を加えて欲しいなどの依頼内容になるはずだ。


 だが、琴美の場合は違った。彼女は犯人を逮捕することより、父の足跡を知りたいと願った。知ってどうするのか。他にやるべきことがあるのではないか。そこに思考を至らせれば、彼女の抱えている暗い影が見えてきた。


 されども、これでようやく、ここにきてやっと、彼女に暖かい日が差し込んできそうな気配があった。


「これ……この手帳、貰っても、いいですか?」


 泣き腫らした顔で、琴美が再牙を見上げる。その姿を見て、再牙は安堵のため息をついた。それこそが、彼女が正しく、自らの鍵穴を開けたことの証明に他ならなかった。


「聞くまでもないさ」


 もう、暗黒の影は琴美の小さな体を包まない。暗がりの向こう側に、彼女自身を追いやったりはしない。何より、彼女自身がそれを許さないだろう。


「それは、君が受け取るべきだ。誰でもない。君にしか、その権利はない」


「はい」


「うん」


「……有難うございます」


「うん……さて、と」


 一仕事を終え、二つ目の(・・・・)依頼に取り掛かろうと席を立ったところで、琴美が涙声混じりに尋ねる。


「どちらにいかれるんですか?」


「ん、ちょっと闘ってくる」


 買い物にでも行ってくる、というような、実に軽い口調でそう言った。


「闘うって……まさか、さっきの女の人と!?」


 琴美は驚いて立ち上がり、何かを伝えようと口を動かす。しかし、肝心の言葉が出てこない。色々な感情が怒涛のように押し迫り、まず何から話せばいいのか。


「心配するなよ。なぁに、直ぐに戻ってくるさ」


 振り返って、再牙が朗らかに笑った。これから死地に向かおうというのに、不安や恐怖といった感情をおくびにも出してやいない。


「どうして……」


 琴美は半歩だけ再牙に近づくと、視線を床に向けたまま、呟くように訴えた。


「どうして、再牙さんなんですか」


「え」


「なんで、再牙さんばっかり……」


「……」


「だって、再牙さんは――」


 あと、五年しか生きられないんですよ。だったら、残りの人生を大切に歩んだ方がいいに決まってるじゃないですか。


 顔を上げて、溜め込んだ言葉を口にしようとした。が、できなかった。再牙の目を見た途端、飛び出しかけていた悲痛な訴えも引っ込んでしまった。


「それは違うよ」


 疵面に嵌る二つの瞳。琴美が初めて見る、気迫と覚悟に満ちた、強い光の瞳。マヤと戦った時に見せたものとも違う、揺るがぬ意志の表れ。十五歳の少女が、気軽に足を踏み入れることの許されない決然とした態度が、そこにあった。


「俺ばかりが何でこんな目に遭わなきゃいけないんだって、君は言いたいんだろうけど、それは違うよ。みんな、死に物狂いで頑張ってるんだ。この街を、見捨てるわけにはいかないから、みんな体を張って頑張ってる。それに、奴らを止めてほしいってのは、君のお父さんからの依頼でもあるんだ」


「父から、ですか?」


「さっき話しただろう? 超現実仮想空間(ネオ・ヴァーチャルスペース)で、電子霊(ゴースト)になった君のお父さんと会ったって。その時に託されたんだ。奴らを……一連の事件を引き起こしている組織を止めてくれって。俺も伊達に、万事屋の看板を背負ってるわけじゃないからな。依頼人の要求には、何が何でも応えるつもりさ」


 それに、と再牙は付け加える。


「あいつは……バジュラは昔、俺の仲間だったんだ。詳しいことは長くなるから言えないけど」


 琴美は小さく首を縦に振った。知っている。彼とバジュラの関係性。彼らが、どのような目的の為に造られ、悲惨な道のりを歩んできたかは。だからこそ、残りの人生を静かに暮らして欲しいと琴美は強く願った。しかしながら、もしこのまま都市が奈落に落ちようものなら、静かに暮らせるか暮らせないか以前の問題になる。


「あいつを止めるのは、同じ釜の飯を食ってきた俺の役目だ」


 勝てるから闘う。勝てないから闘わない。そういう打算的な考えなど、再牙の頭にはない。そこまで考えが及んだとき、琴美は似ていると思った。再牙が背負うものと、嘗て父が背負っていたもの。その内に秘められた想いの質について。


 悲しんでいる誰かを救う為に。自分自身の覚悟に応えるために。男は黙って拳を握り締めなければならないことがある。今が、確かにその時だった。


「じゃあ、行ってくるから」


 再牙が密やかに微笑みを浮かべ、ドアに手を掛けようとした時だ。不意に、オルガンチノの裾を引っ張られる感覚があった。振り返って、怪訝な顔を浮かべた。琴美の小さな手がコートの端を掴んでいる。忘れ物があると、言いたげな手つきだった。


「お金」


「え?」


「お金、まだ払ってないです」


 琴美は、顔をぐいと再牙に近づけた。心の訴えが、ほんの一ミリでもいいから彼に届いて欲しい。そんな熱意の籠った瞳で、少女は少女なりの激励を飛ばす。


「死んじゃったら、依頼料、受け取れませんよね? そんなの、駄目ですからね。わ、私、貯金全額下ろして来たんですから。絶対に、絶対に受け取って貰わないと、困ります」


 琴美の意を汲んで、再牙は大きく頷いた。





△▼△▼△▼△▼





 治療室を出た再牙が、大嶽に指定された第三ヘリポートへ向かおうとポータル・エレベーターを探していた時だった。


「再牙」


 背後から声がした。凛とした、鈴の音色のような声音が。振り返ると、エリーチカが小走りで走り寄ってくるのが目に入った。


 修理が完了したのだろう。彼女の首から下が、いつもの白いハイレグを模したボディではなく、ライトブルーを基調としたスイムウェアになっている。傍から見れば、法に触れかねない際どさだ。


 再牙は、何とも言えぬ表情で、頭を掻いた。


「ここの心霊工学士(ネクロマンサー)は平常運転だな。昔から何も変わっちゃいないようで安心したよ。仕事の速さも、ボディパーツのデザインセンスも」


「私は結構気に入ってますけどね」


「いや、前の方が絶対に似合ってる。客からのウケもいいしな」


「ウケが良い悪いはともかくとして、さっき大嶽とかいうオジサンから聞きましたよ。貴方が、あの女ジェネレーターを止めると」


 それだけ言うと、エリーチカは普段と変わらない様相で尋ねた。


「本気なんですか?」


「ああ」


「私も、行きましょうか」


「いや、ここで待っていてくれ。これは、俺が解決しなきゃいけない問題だから」


 間髪入れずに、頷く再牙。


 エリーチカは少し考えた後、言った。


「もしかして、あの人が、昔貴方から聞いた、バジュラという女性なのですか?」


「そうだ。昔の仲間で、今は……敵だ」


「……そうですか。分かりました」


 それだけで、十分だった。エリーチカの()が、再牙の覚悟を理解するのに、多くのやり取りは必要なかった。彼の声を、彼の瞳を、彼の息遣いを察すれば、それが自ずと理解できた。この十年間で培ってきた両者の絆に、遠慮という概念が付け入る隙はない。


 心配していない、といえば嘘になる。時には誰かを頼るべきだと、ここでも口酸っぱく言い聞かせてやることも出来たろう。だが思いやりや気遣いというのが、時として相手への侮辱になることをエリーチカは知っている。


 彼女の選択は、出来の悪い弟弟子の覚悟を正しく汲み取ってやることだった。それが、今の自分がすべき最良にして最大の仕事であると、信じていた。


「再牙、私は今、すこぶる機嫌がいいんですよ」


 特にそうは見えない仏頂面で、しかしエリーチカははっきりと声を大にして言った。


「新しく大切な人もできたし、代替品とはいえ、こんなに素敵なデザインのボディを与えられて、私、幸せです。凄く上機嫌です。だから奮発して、再牙にご褒美を上げます」


「……褒美?」


「はい。明日の晩御飯。貴方の好きな献立にしてあげます。何がいいですか?」


 それは、彼女なりの激励の言葉だった。同時に、まじないでもある。明日を生きるために今を闘い抜こうとする戦士へ送る、祈りの歌でもあった。


「カレーだな」


 にっと笑って、再牙は即答した。


「やっぱり、お前の作るカレーが、一番美味いよ」


「カレーですね。分かりました。腕によりをかけて作ります」


「楽しみだ」


「はい。それじゃあ」


「ああ」


 行ってくるよ。

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