8-9 覚悟、背負いし者
遠い過去の記憶が、少しずつおぼろげになっていく。漠然とした不安定な雰囲気が、ゆっくりとではあるが確実に、現実味のある世界へと変貌を遂げていくのが、彼の中で確かに感覚された。
緩やかな覚醒。瞼に僅かな痺れを感じながら、火門再牙は静かに目を開けた。途端に眩い光が視界に飛び込み、軽い眩暈を覚えた。
もつれた糸が勢いよく解けるようにして、全神経の感覚が一気に現実へと引き戻された。
硬い床の感触を背中に感じた。ゆっくりと身を起こせば、体のあちこちが痛んだ。軽く咳払いをしてから、再牙は舐めるような目つきで周囲の様子を探った。首を動かすたびに、筋張った痛みが駆け巡った。
再牙が目を覚ました部屋には、簡易ベッドと机とアナログ時計と天井灯以外に、何もなかった。正面には分厚い透明ガラスの壁があり、それ以外は全て硬く白い壁に覆われていた。ガラス壁の向こう側には通路が広がっていたが、出入り口らしきドアは、どこにも見当たらなかった。
見覚えのある無機質で冷ややかな空間。再牙は自ずと悟った。ここは、蒼天機関統合司令本部の独房だ。それも、重犯罪者専用の。ただ、場所までは分かったが、なぜこんなところにいるのか。状況を上手く呑み込めないでいた。前後の記憶が曖昧なせいで。
頭の中を整理しようと、再牙は胸ポケットから灰煙草を取り出して着火し、口をつけた。肺を香ばしい灰分の煙で一杯に満たし、思いきり口から吐き出す。それを何回か繰り返しているうちに、頭の中がようやくはっきりしてきた。
「バジュラ……」
うっそりと呟く。
獅子原錠一から託されたデータを解析したとき、彼は無意識のうちに願っていた。全てが嘘であって欲しいと。
だが、現実は無情である。嘗ての同胞は瞳に暗がりを宿し、部隊にいた頃とは似ても似つかぬほどの凶悪さを再牙にぶつけてきた。その圧倒的な力を抑え付けるだけの言葉を、彼は持ち合わせていない。
バジュラは言っていた。アヴァロ、貴方になら分かるはずよと。一体私が、何を考えてこんな行動を起こしたのか、直ぐに理解が及ぶだろうと。
全くその通りだ。彼女が纏う、黒き憎悪に満ちた衝動は再牙の理解を超えてはいたが、そこに至る根拠については身に染みて理解できる。あれだけ暴力による自己肯定を批判していた彼女を、ああも変えてしまった原因について。
つまるところ、復讐だ。それを成し遂げるために、彼女は《髑髏十字》が壊滅した十年前のあの日から、ずっと内に秘めた魔刀を研ぎ、研鑽を積んでいたのだろう。
彼女なりの正義は年月をかけてとっくりと熟成され、それは今や、恐ろしき異形の鬼刃へと姿を変え、都市を奈落へ叩き落さんとしている。
再牙の心は、既に一つに決まっていた。昔の仲間とは言え、どうにもならないことだってある。誰に命令された訳でもない。再牙は自分の意志で、あの恐ろしき次元操作能力を操る魔女に立ち向かう心構えを決めていた。
再牙は、オルガンチノの裾を強く握り締めた。火門涼子の忘れ形見。持ち主の体格に合わせて身の丈を変える魔性の装束。纏えば、いつだって勇気が沸き起こる。
涼子の下に身を寄せた当初は、まさか自分がこのコートを羽織ることになろうとは思いもしなかった。でも、今は非常に重宝している。気持ちが弱りそうになった時には、何時だってこのコートが傍にあった。涼子の魂が、常に励ましの言葉を送っているような気がしてならなかった。
力を持つ者は、持たざる者の為に生きなければならない。
涼子と暮らした五年間。涼子亡き後の五年間。合わせて十年間。再牙は数多くの経験を積み、学んできた。楽しいことも、辛いこともあった。その集大成が、彼を一つの頂へ辿り着かせていた。
不遇の死を遂げた獅子原錠一の遺志を、無駄にするわけにはいかない。
火門涼子の愛したこの街を、壊滅させてなるものか。
決意は鋼の如く揺るがない。紅蓮の灼熱が内側から静かに湧き上がるのを、再牙は感じた。早く彼女を止めなければという想いが迸り、心臓の音を速めていく。
と、その時だった。不意に、建物全体に強い揺れが奔った。ガラスの壁がびりびりと揺れ、それが収まらぬ内に、さっきよりも強い振動が襲ってきた。崩れる気配は無い。しかし、外で何やら、これまで以上に物騒なことが起こっているのは推測できた。
揺れが収まり、静寂が戻る。
そして、今度は廊下の向こう側から足音が近づいてくるのを知覚した。足音からして、人数は三人。再牙は瞬時に判断した。聴覚を鋭敏化させなくとも、それくらいのことは分かる。
耳を澄ませる。こちらにやってくる三人のうち、二人の足音からは張り詰めた糸のような雰囲気を感じた。残る一人の足音に、聞き覚えがあった。周辺の空気を凍りつかせるかのような、冷徹さに満ちた靴の音。思い出すことはなかったが、忘れることも出来ない威圧感の込められた音。
再牙は、何かに耐えるかのように、ぎゅっとオルガンチノの裾を強く掴んだ。幼い子供が不安感を紛らわせようと母親の手を握る仕草に、それは似ていた。
やがて、足音の主がガラス一枚を隔てた通路に姿を見せた。思った通り、三人。全員が男だった。真ん中に立つ重厚な雰囲気の男に、見覚えがあった。舞い上がる砂嵐のように、過去の風景が脳裏を流れていった。
男の鋭く短い頭髪には幾分か白髪が見え隠れしていて、それが再牙に年月の経過を感じさせた。だが、それ以外の外見的特徴は特段変わってはいない。精悍な顔立ちも、使命感に満ちた瞳の色も、力漲る肌の照りも。まるでそこだけが、昔の写真から切り取って貼り付けたかのようだ。
再牙は顔をやや斜め下に向けて、視線を合わせないよう努めた。男の存在感をガラス越しに強く感じれば感じるほど、胸にささくれ立った痛みを感じる。
「気分はどうだ」
特に感慨深さもない調子で、大嶽左龍が訊いてきた。分厚いガラスの壁越しに、その声はやけにクリアな響きを伴い、再牙の耳元に届いた。
意味ありげに、大嶽がこんこんとガラスを叩く。
「融合璃鉱物を加工して造った、集音声機能を持つ強化ガラスだ。おまけに自動シャッター式で、こちら側で対象者の動き全てを管理できる。凶悪な犯罪者と直に触れずに接触するには、うってつけの代物だ」
「凶悪な犯罪者になった覚えなんて、これっぽっちもないけどな」
「ほざけ。立川市の危険区域へ違法侵入をしただろう?」
再牙の表情が険しくなる。低い笑い声を漏らして、大嶽は続けた。
「支部から連絡があってな。区域から逃亡する貴様の姿、カメラにばっちり映っていたそうだ」
「お気楽なもんだ」
再牙は失笑した。
「だってそうだろう? 機関のトップが、都市陥落寸前の一大事に、たかだか危険区域への侵入罪で捕まった奴の下にこうして足を運んでくるんだ。お気楽じゃなかったら何なんだよ」
俄に、大嶽の両隣りに立つ機関員が色めき立った。だが、大嶽は彼らを片手で制すると、この場から下がるように命じた。
「こいつと、二人っきりで話がしたい」
そう言われて、機関員らは物分かりの良い返事を返し、その場から潔く立ち去った。
大嶽左龍と火門再牙。嘗ての上司とその部下。二人だけの空間。
「で? 俺をこうして捕まえた本当の狙いってのはなんだよ」
部下たちの足音が完全に消えたのを知覚して、再牙が身を乗り出す。大嶽が自分を独房にぶちこんだのには、何か別の狙いがあってのことだろうと、彼は考えていた。
危険区域への無断侵入容疑で逮捕されたのなら、その瞬間に『容疑者』として身柄を拘束され、武装を解除させられるはずだ。そうしないのにはきっと特別な理由があるはずだった。
「まぁ待て。先に知らせておくことがある」
しかし、大嶽は再牙の問いかけには応えない。あくまで会話の主導権はこちらが握るのだと言わんばかりに、一方的に話を進めようとする。
「お前と一緒にいたあのアンドロイドと、獅子原琴美と名乗る女の子は、こちらで無事に保護してある。安心しろ。二人とも、命に別条はない」
「そうか……ま、あの二人を保護してくれたことには、感謝するよ」
「ほぉ、感謝する、か。お前からそういう言葉を聞けるとは、意外だ」
「勘違いしてもらっちゃ困る。別に、お前らの過去の所業を許したわけじゃねぇんだからな」
「寿命の件か? あれについては、私は全く把握していなかったからな。勝手に恨まれても困りものだが」
「とぼけるなよ。当時、副機関長の座にふんぞりかえっていたお前が知らないわけ……って、ああ、もう」
苛立ち交じりに再牙が頭を掻く。何をやっているのだと、自分で自分が嫌になる。この緊急時に、過去の受難についてほじくり返している場合ではない。だが、それが分かっていても、どうしても食って掛からずにはいられなかった。
そうこうしているうちに、再び震動が独房を揺らした。今度はさっきよりも揺れが大きく、再牙は体が一瞬、浮いたかのような錯覚を覚えた。
「大分激しくドンパチしてるんだな」
「当然。浄道の連中が機動兵器を使って、怪物と殺りあっているからな」
「怪物って、あの気持ち悪いゴブリンモドキの集団のことか?」
「いや、あんなものよりもずっと巨大で、人知を超えた力を持つ怪物だ。浄道のトップが言うには、邪神か、それに近しい何かだという」
「邪神……なるほど。ついにXivalverの降臨というわけだ」
「なんだそれは」
「ダルヴァザが秘密裏に開発していた人造の神さ。古代マヤの神話に出てくる冥界の神をベースにしているらしい」
「……何故そんなことをお前が知っているんだ」
「ん……そうだな……」
再牙は暫く逡巡した後、静かに語り出した。獅子原琴美から受けた依頼であるという箇所は避けて、自分がそれを知ることになった経緯を、要点だけを整理して伝えた。
「あの場所で、そんなことが起こっていたとはな」
全てを訊き終えた大嶽は、静かに溜息を漏らした。
「カンパニーで発生した火災は、ただの事故ではなかったということか。そして我々の見立て通り、この一連の事件に、茜屋罪九郎も関わっていたんだな」
驚きと共に、再牙が口を開く。
「知ってるのか? 茜屋のことを」
「口は悪いが、ウチにはそこそこ頭のキレる大隊長がいてな。あのゴブリンモドキの怪物どもに超高再生機能搭載の疑いがあると奴から進言された際に、過去にそれに近しい研究に従事していた者を洗いざらい探し出した。結果、分かったのさ。それに、仮想空間でダルヴァザの一味を電脳部隊が撃退した際に、敵の本拠地がどこにあるかまでも掴んだ。ただ――」
大嶽は一旦言葉を区切り、口元を僅かに歪めた。
「組織を率いているのがバジュラだったとは、思いもしなかったが」
「俺も、事実を知った時には驚いたさ。あいつ……ずっと怒りを溜め込んでいたんだな。復讐のために」
「それは、我々への当て付けのつもりで言っているのか?」
「あいつの気持ちは、俺にも痛いくらいわかるからな」
そうなってしまった元凶を造り出した組織の首魁を前に、再牙は恐れもせず、卑下もせず、恨みも込めず、淡々と語った。
「お前らがやったことは、今でも許せない。治安回復の為とはいえ、自分たちの勝手な都合で俺達を造り出し、あまつさえ、寿命の事を隠していやがった。許せなかった。だから反乱を起こした」
「そして、お前たちは返り討ちに遭った」
「ああ、そうだ。悔しかったさ。そりゃもう、言葉じゃ例えられないくらいに」
「ならどうして、今ここで私に刃を向けようとしないんだ?」
大嶽が、ガラス壁を叩いて言った。
「遠慮することはないぞ。力が回復した今のお前なら、壁を殴り壊し、私に怒りの鉄槌を与える事など、造作もないはずだ」
「やらねぇよ。そんなことして、今更どうにかなるのか?」
「どうにかなるなら、俺を殺る気でいるのか?」
「相変わらず面倒くせぇ奴だな。そういうところ、昔から全然変わってねぇ」
「お前は……随分と変わったな」
「まぁ……色々あったから」
「そうか」
両者共に、口を閉ざした。沈黙が場を満たし、Xivalverと釈迦如来が激しくぶつかり合う音だけが、微かに響き渡る。
「あの事件の後、私はずっと、お前たちを突き止めようと躍起になっていた」
沈黙は、独り言のように話し始めた大嶽の声で破られた。
「最初は、お前たちを拘束した後、思考拘束術をかけて再び手駒として扱う。そういう予定だった」
「随分とぶっちゃけるな、お前」
「昔の事だからな。隠し立てしていても、しょうがない」
「だが結局、あんたは俺もバジュラも見つけ出せなかった」
「ああ。だから仕方なく、事件を表向きに終結させるため、偽物のお前らを用意して処刑した。それで最高枢密院の長老らは溜飲を下げたし、都民らの不安感も払拭された」
それでもと、大嶽は続ける。
「私は、お前たちを捜索することを諦められなかった。特にバジュラは、彼女だけは何としても発見しなければならなかった。お前も知っての通り、奴の宿したジェネレーター能力は凶悪すぎる。捕えなければ、いずれ大変なことになる……だが、結局見つからずじまいだ。そのうち、機関にも優秀なジェネレーターが多く揃うようになり、バジュラの能力が必要とされる場面も少なくなった。それに、俺も機関長という立場になってからは、スタンドプレーが出来なくなった。まぁ、機関長に就任してからも、部下を使ってバジュラの行方は捜索させていたんだがな。結局、何一つ手掛かりを見つけられなかった。そして七年前に、捜索は打ち切られた」
大嶽は、遠くを眺めるような視線で、実に口惜しそうに唇を噛んだ。いつも自信に溢れ、冷静さを損なわない一面しか知らない再牙にしてみれば、彼がそういう表情を見せた事に、若干驚いた。
「だが、捜索を打ち切った後も、俺は不安で不安で仕方なかった。いつの日かきっと、バジュラは己を追い詰めた者達全てに、復讐の牙を突き刺してくるのではないか。その思いが脳裏から消える事は無かった」
「……」
「近いうちに、審判の下される日がやってくる。それが何時やってくるのか。考えるだけでも恐ろしかった。そして今、その時がきてしまった」
あの時、諦めずに捜索を続けていれば。いや、それよりも前に、反乱を起こした《髑髏十字》を一人残らず一網打尽にできていれば。未来は大きく変わっていただろう。
起こってしまった災いを前に過去へ逃げる事が出来れば、どんなに楽なことか。しかし、都市の安全を一手に引き受ける蒼天機関のトップに、及び腰になることは許されない。何より、大嶽本人が、それを許さない。
「これは公人ではなく、あくまで私人としての意見だが」
前置きの後、大嶽は再牙を正面に見据えて口にした。
「神罰計画は、都市の治安を簡潔に回復させようとした結果引き起こされた、重大な生命倫理違反事項だ。故に、バジュラが我々に対して復讐する権利は、確かにあるのだろう。だが、だからといって、このままこの身が焼かれるのを甘んじて受け入れるつもりはない。もとより、罪無き多くの都民らを巻き添えに、都市を破壊する彼らを、許してはおけない」
言葉に熱が入り、大嶽は自然と両拳を力強く握り締めていた。そこにあるのは、怒りでも、過去の過ちに対して抱く後悔でもない。
使命。ただそれだけだった。定められた運命の道を切り開こうとする、人間のあるべき姿が、再牙の目に圧倒的な存在として映っていた。
「火門再牙」
大嶽が、初めて目の間にいる男の名を呼んだ。
「どうか力を貸してくれ。この都市を守るために」
大嶽は律儀に頭を下げた。直立不動で、そのまま再牙の返答をじっと待つ。彼の双肩に圧し掛かっている重圧。プレッシャー。相応の立場にあるべき者が背負わざるを得ない義務と責任。それを口にすることは容易いだろうが、実感を抱けるのは当人だけだ。
「頼む」
巨木を絞るような声色だった。再牙は、大嶽がまさかこんな態度に出てくるとは思っていなかった。強い衝撃を受け、動揺し、それ以上に彼の想いを汲み取らなければと思った。過去の因縁がしゃしゃり出てくる隙は、どこにもなかった。
立場も違う。思想も違う。性格も、趣味嗜好も、何から何まで大嶽と再牙は似ていない。だがしかし、唯一、目的だけは共通していた。打ち倒すべき共通の障害がある。
双方が頭の中に描いている手段や過程は異なっていても、共通の終着点があるというのなら。選び取り、投げかける言葉は一つだけだ。
「当然だ」
再牙は、力強く頷いた。顔を上げた大嶽の瞳を、じっと見つめる。
「俺も、この街を守りたい」
そこに傀儡はない。
意思を持つ、一人の人間の姿がそこにあった。
「有り難い」
「ただ、その前に一つ、条件がある」
「なんだ?」
再牙はオルガンチノのポケットに手を突っ込みながら、要求を口にした。
「獅子原琴美に、会わせて欲しい。渡さなきゃならないものが、あるからな」




