8-8 濁りきった空の光は その6
今回で過去編は終了です。
変化というのは、いつも突然に、まるで嵐のようにやってくる。
生き物って奴は、他人から見て些細な事であっても、当人にとっては何物にも代え難いくらいに重要な経験を獲得して、成長していくものだ。
人間も、人造生命体も、それは変わらないと断言できる。何故なら、涼子と一緒にグランド・ジャットの群れを目撃したあの日以来、俺の意識の深いところで、何かが着実に変化していったからだ。
『私から学ぼうとするその姿勢は嬉しいけれど、私の真似事になっちゃダメだからね』
万事屋の助手として日夜てんやわんやの仕事に追われる中、涼子は良く俺にそう言って聞かせてくれた。多分、彼女なりの優しさだったんだろう。俺が俺の人生を踏み出そうとしていることを、応援してくれていたんだ。
本当に嬉しかった。今までただ言われた通りに己の手を血で汚してきた。そんな俺に惜しみないほどの暖かな光を注いでくれる人がいる。
枯れた大地のようだった俺の心に、もう二度と緑は芽吹かぬであろうと思われた俺の足元に、彼女はいつだって、潤いと勇気を与えてくれた。
万事屋の仕事。内容は多岐に渡った。犬の散歩から遺失物の調査、身元が分からぬ子供の保護、探し人の捜索、揉め事の仲介役。殺人や暗殺以外の業務は、全てやったといって良かった。
彼女と一緒に仕事を続けていけばいくほど、俺の中での涼子の存在は、どんどん大きくなっていった。彼女には感謝の気持ちしかなかったが、その余りにも的確で迅速な仕事っぷりを見ているうちに、自然と尊敬の念が沸いてきた。
『涼子先生だなんて、そんな畏まった言い方はやめてよぉ』
口では面倒くさそうに言ってのけるが、その頬が緩んでいたのを、俺は今でも覚えている。世辞なんかじゃない。俺が今もこうしていられるのは貴方のお蔭だと正直な感想を口にすると、彼女は生まれて初めて表彰状を貰った少女のように、照れてはにかんだ。
英雄。
《髑髏十字》に所属していた頃、マスコミや街の人々はこぞって俺達をそう呼び讃えた。英雄だ。貴方たちは救国の英雄であると。
蒼天機関が散々手を焼いていた極悪犯罪者共を、これといった苦労も無く消し去ってしまう俺達の姿が、彼らの網膜に鮮烈に焼き付いて離れなかったのだろう。
そうやってちやほやされることは、悪い気分ではなかった。人間とは違う出自を持つ俺達でも、誰かの役に立つことが出来るんだと、むしろ胸を張っていたものだ。
だけれども今になって思うのは、俺達は紛い物の英雄だったってことだ。彼らの瞳に眩しく映っていたのは、俺達個人じゃなく、その背後に見え隠れする大いなる力の方だ。
俺達が生まれつき持ち合わせている、特殊なジェネレーター能力。この異能の力が、俺達の社会的存在意義であったのと同時に、俺達の背負うべき業でもあった。
力だけを崇められる者。そんな奴は英雄じゃない。英雄っていうのは、本当のヒーローっていうのは、称賛を乞うたりはしない。名声や地位なんかには目もくれない。事態を損得勘定の天秤に乗せたりなんかしない。
ただ己の意志の衝き動かされるがままに、困っている人を助ける。たったそれだけの為に命をかける人。それが英雄だ。
涼子先生はまさに、俺にとっての英雄だった。
彼女といると、不思議と勇気が湧いてくるのだ。この人の生き方を見習いたいという想いは日に日に強くなり、俺は死に物狂いで彼女の仕事を学ばせてもらった。その過程で、彼女は少しづつ、昔の事を話してくれた。
火門涼子。彼女は練馬区出身じゃない。生まれは新宿で、五歳の頃に《大禍災》に見舞われて家族を失ったという。
万屋として彼女がまず初めに活動を開始した場所は、新宿区だった。新宿区。物騒な響きだ。幻幽都市成立からそれなりの年数が経った今でも、新宿区の裏歌舞伎町と言えば、悪党どものの巣窟として名高い。
闇市場に、裏歌舞伎町の地下に広がる違法流通物品のオークション。戸籍の無い人間を拉致して臓器売買の仲介をする人間牧場も、ここが発祥の地だった。
《髑髏十字》時代、良くこの街に出向いていた。やることはいつも大抵決まっていた。甘ったるい匂いを放つ麻薬中毒者の遺体を整理し、悪党共の臓物を道路にぶちまけていたものだ。
彼女は裏歌舞伎町でエリーチカと出会い、多くの仕事をこなしてきたらしい。それは生きる為に彼女が望んだ選択で、誰かに強要されたものではなかった。
颯爽と現れては揉め事を解決し、颯爽と立ち去る。後には何も残さない。それが何時もの、彼女なりのやり方だった。
噂は、あっと言う間に広がる。電脳技術なんていう壮大なネットワーク技術が確立されたこの街では、特にそうだ。火門涼子の名が新宿中に広がるのに、それほど時間はかからなかったのも、当然と言えば当然だった。
それは同時に、彼女の事を快く思わない同業者や、彼女を目の仇とする者達の手で、命が脅かされることを意味していた。
それがきっかけとなったのかは知らないが、彼女の名が新宿中に広まった直後、涼子先生は行方を晦ました。
凡そ、三年間もの間。どこに身を隠していたのかは、誰も知らない。俺にも、その間どこで何をしていたのかは、教えてくれなかった。
沈黙を破り、彼女が練馬区に居を移したのが、俺と出会う三週間前のことだったと聞いた時は、驚いたものだ。なんというタイミングで、彼女と出会ったんだろうと。
『まぁー、色々とあったんだよ。色々とね』
彼女が自分について語る時、最後は必ずそう言って話の締めとした。お決まりの科白であるかのように。
色々あった。
辛い事も、悲しい事も。
嬉しい事も、楽しい事も。
『でも、これからはきっと、楽しい事の方が多くなるよ。再牙君が来てくれたからね』
俺が彼女の弟子となってから一年後。
話の締めに、そんな一言がつきはじめた。
△▼△▼△▼
変化というのは、いつも突然に、まるで嵐のようにやってくる。
変化にも色々ある。環境の変化。人間関係の変化。
けれども、それよりもずっと大事な変化があることを、俺達は毎日の生活の中で忘れている。
肉体の変化だ。直接的な言い方をすれば、それは死である。人造生命体も人間も、生き物である以上は、いつの日か必ず死ぬんだ。
幻幽都市が建都されはじめたばかりの頃は、多くの都民が死の恐怖と背中合わせで過ごしてきたらしい。治安が今よりもすこぶる悪かった時代は、みんな自分の命を明日に繋ぐのに精一杯で、他人の事になんか構っている暇なんかなかった。
だが、殺伐とした空気に幻幽都市が満たされていたのも、今では昔の話だ。年が経つごとに、治安は良くなっていった。人々の間にも余裕が生まれた。そうして自然と、彼らは学んだ。自分の命を繋いでいくには、誰かの力が必要であることを。
その結果として、近隣住民同士の互助会のようなものが出来上がったり、緊急時に迅速な行動に移せるよう、各区毎に生活する上での明確なルールが設けられた。
でも、俺だけはずっと、自分の命の事を考えるのに精一杯だった。限られた命であることに変わりはない。だが俺の場合は、その具体的な年数を、図らずも知ってしまっている。
涼子先生の役に立ちたい。せめて俺の命が潰えるまで、あの人から一つでも多くの事を学びたい。その気持ちだけが大きくなり、俺は全く、他の事に頭を巡らせることが出来なかった。
でも、俺だけじゃない。誰だって、そんな事にまで考えが及ばなかったに違いない。
それを予測できた奴なんて、只の一人もいなかったんじゃないだろうか。
△▼△▼△▼
『涼子先生が、交通事故に遭いました』
俺が彼女の下で働き出してから五年が経過したある日。家で留守番をしていた俺の下に、エリーチカからそう連絡が入った。
その日はうんざりしてしまうくらいの大雨が降っていて、客足もめっきりなかった。丁度梅雨入りした時期で、今年の雨季は長引くだろうとの報道がされていた。
恨めしそうな表情で軒先にぶら下る《願望実現型てるてる坊主》を睨みつけていた俺は、突然かかってきたエリーチカからの電話連絡を受け、言葉らしい言葉を口にすることが出来なかった。
『来週の分買い物、今のうちにエリーチカちゃんと済ましてくるから、家で大人しく待っててね』
エリーチカの通信を受けながら、俺は壁にかけてあるアナログ時計を見上げた。時刻は午後の六時を回っていた。涼子先生が家を出てから、もう一時間以上も経過している。
『涼子先生が、交通事故に遭いました』
電話口から聞こえてくるエリーチカの声色は当然のことながら無機質で、でも肝心な情報は何一つ教えてくれなかった。どういう状況で事故にあったのかとか、どこで事故に遭ったのかとか、肝心なことは何一つ。
酷く嫌な予感がした。
アンドロイドに搭載されている人工魂魄は、アンドロイドの精神状態を過保護なくらい守護している。衝撃的な事実に直面した際に精神のバランスが崩れないように配慮したシステム。事実だけを取得して、そこに付随する当人の感情の一切を、シャットアウトしてしまう。
シャットアウトされたエリーチカの感情。
それは、心が破壊されてしまうほどの、強い哀しみではないだろうか。
エリーチカは馬鹿みたいに繰り返す。
涼子先生が交通事故に遭ったと、ただそれだけを。
余計な感情を、全て廃した無感情な声色で。




