8-7 濁りきった空の光は その5
今回も再牙の過去話です。後半からは三人称視点で進みます。
一体、どれだけそうしていたんだろうか。ようやく泣き止んで涼子の胸元から離れた時、既にグランド・ジャットの群れは消え去り、辺りには元の暗闇が広がっていた。月は雲間にすっぽりと覆われ、夜の静けさだけが、俺たちを取り囲んでいる。
「ありがとう。なんか、落ち着いたよ」
瞼をこする。きっと鏡を見たら目の下が赤く腫れているんだろう。
人前で大声で泣くなんて、人生で初めての体験だった。
だが、それを恥ずかしいことだとは思わない自分がいた。
この人に泣き顔を見られても、別に構いやしないと思った。火門涼子。本当に、不思議な女性だ。
「そう。それは良かった」
にっと、綺麗に並んだ歯を見せて涼子が笑う。
「泣きたくなったら、またこうして胸を貸してあげるからね」
「俺も男だからな。そうそう毎日わんわん泣く訳にはいかない。今日だけだ」
「全く、意地っ張りなんだから……ところでさ、君……これからどうするの?」
「え?」
「あ、別に『早く出て行ってくれ』とか、そういう意味じゃないからねっ! 誤解しないでねっ!?」
言い方を誤ったと思ったのだろう。見るからに慌てた様子で、涼子が発言を取り繕った。彼女の慌てる様を見るのは初めてで、それがとても新鮮に映った。
「私的には、ずーっとウチに居て欲しいんだけど……その……何時までも家に閉じこもっていちゃ、君の精神衛生上、悪いんじゃないかなぁと思ってね。出過ぎた意見だったら、その、申し訳ないんだけど」
確かに、涼子の言う通りだ。彼女と出会って以降、俺は指名手配されていたこともあって、外出を極力控えていた。すぐに慣れると思っていたが、外の空気を浴びないというのは、思っていたよりもかなり心にきた。このストレスをどう発散するべきか。そんなことばかり考えていたように思う。
街そのものを敵に回したという状況が、自然と俺の行動範囲を狭め、精神をすり減らしていったのだ。それでも自暴自棄に陥ることがなかったのは、涼子やエリーチカが、親身になって俺の話を聞いてくれたお陰に違いない。
十分に良く理解しているつもりだ。何時までもこのままじゃいけないと。涼子は優しいし、とても頼りになるが、何時までも甘えていては男が廃る。毎日毎日部屋の隅で丸くうずくまることに時間を費やすのも、もう終わりにしよう。
俺に残された人生は、あと十五年しかないのだ。
その残りの十五年の人生を、どのように使っていくべきのか。すでに答えは頭の中で生まれていた。あとはそれを、はっきりとした形で意思表示さえすれば良いだけだ。
「やりたいことなら、あるさ」
ふと、己の両手へと視線を落とす。
――生命の冒涜者。それは、君の方ではありませんか?
記憶の片隅に追いやったあの時の言葉が、今更になって甦ってきた。
――あなた達の脳みそに詰め込まれているのは、紛い物の知性なんですよ。
紛い物の知性。確かに、そうかもしれない。
俺は今まで、知性とは意識と知識の集合体だと盲目的に信じていた。理論的に体系化された知識と、あらゆる状況を切り抜ける対応力と判断力だけが、幻幽都市を生き抜くのに必須の道具だと思い込んでいた。
だけどそうじゃないんだと、今ならはっきりと断言できる。
知識だけでは、経験だけでは、人は生きていけない。仮にそうだとしても、それは『生きているように見えているだけ』だ。血の通った人生を渡り歩くには、もっと別次元の何かが必要なんだ。
じゃあ、人がその人生を全うするのに、真に必要なものは何かと訊かれたら、どうだろう。多分、今の俺に正しい答えは導き出せない。
だから、知りたい。
知らなくてはならない。
「俺は……」
両手を握り締める。指先に、血の幻影が奔る。俺が今まで殴り殺してきた人々の亡霊が、指の一本一本に絡みついてくるようだ。これより先へは進ませないと、言いたげに。
でも、そんなのは関係なかった。
今、ここで過去に縛られていたら。
きっと、どこにも辿り着けない。
「俺は」
あらゆる雑念を振り払って、俺は顔を上げた。目の前に、涼子の顔がある。優し気な瞳で、こちらを見ている。
「俺は、あんたの仕事を手伝いたい」
風が、二人の間を静かに通り過ぎる。一瞬、時が止まったかのような錯覚。俺の決意が意外なものだったのか。涼子が目をぱちくりさせている。
「手伝うって……君、もしかして万事屋になりたいの?」
「なりたいっていうのとは、ちょっと意味合いが異なってくるかもしれない」
「どういうこと?」
要領を得ないといった面持ちの涼子を前に、俺は、慎重に言葉を選んで想いを伝えることに決めた。
「理由は二つある。一つは、あんたに恩返しがしたいんだよ」
「恩返しって……」
「こんな野良犬同然の俺を助けてくれて、今は本当に感謝している。でも、感謝しているだけじゃ、駄目だと思ったんだ。はっきりと、形にして返したいと思った。あんたの役に立つことでそれが返せるのなら、良いと思って」
「……二つ目は?」
「二つ目は、生きる理由を知りたいからだ」
誰かに想いを伝えるというのは、こんなにも緊張するものなのだろうか。さっきから、心臓が高鳴ってしょうがない。俺は、早口にならないよう、一言一言を噛み締めるようにして言った。
「知りたいんだ。俺が俺である理由を。俺がこの街に生まれてきた理由を。この街で生き続けなければならない理由を。人は何のために生きるのか。自分のためなのか。それとも、誰か別の人の為に生きるのか。そこに一体、どんな価値があるのか。どんな世界が広がっているのか。誰かに言われたからじゃない。ちゃんと自分の意志で、そういった事を考えて実行していきたい。でも、一から始めたんじゃ、どうしようもない。俺に残された人生は、あと十五年だからな。だから……あんたから、学びたいんだ」
「学びたいって……何を?」
「人生を全力で生きようとする姿勢だ。あんたからはそれが感じられた。眩しいくらいに、俺の目に映って離れないんだ。俺、あんたの生き方に、いつの間にか惹かれていたんだ。万事屋っていう仕事を通じて、あんたの生きる姿勢を学んで、俺は、俺の生き方を定めたい」
自嘲気味に、俺は笑う。
「と言ってはみたものの、正直不安なんだ。今まで人を殺す手段しか学んで来なかった俺が、もう一度ゼロから始めていいものなのかって。亡くなった人に、申し訳ないっていうか……」
「…………」
「でも、億したら駄目なんだ。過去に起こした罪は、どう頑張ったって決して消えない。なら、背負うしかない。俺は俺がやったことの全てを背負い込んで、前へ進みたい。そうしなきゃ、どこにも行けないから」
「君は……」
「頼む。あんたから、学ばせてくれ」
この通りだと、俺は柄にも無く頭を下げた。
沈黙が、俺たちを包み込む。
何時までそうしていたのか。きっと、そんなに時間は経っていないのだろう。でも、途方もない刻が過ぎ去っていったように感じた。
彼女は今、どんな感情で俺を見ているのだろうか。呆れているのか。それとも、喜んでいる? 駄目だな。全く分からない。
だけれども、言いたいことは全て言葉にした。後悔は微塵もない。
「頭を上げてよ」
言われて、恐る恐る顔を上げる。涼子の目を見て、はっとした。これまで以上に真剣な表情をしていた。俺の事を品定めしているような、こちらの胸の内を曝け出してやろうというような、挑戦的な態度に見える。
彼女は、その美しく長い髪を軽く書き上げると、深く息を吐いて、
「前に私がした、正しさと幸福の話、覚えている?」
「ああ。人は、正しさと幸福のどちらを選んで生きていけばいいのか、だっけ?」
「そう。そこで質問なんだけど」
涼子が、半歩踏み出す。
「君は、どっちを手に入れたい?」
「……!」
瞬時に、場の空気が変わった。風の騒めきが止まり、世界に俺と涼子の二人だけが残された。
彼女の二つの瞳。薄茶色の大きな切れ長のそれが、俺の心を捉えて離さない。磔にでもされたかのように、身動きできない。圧迫感にも似た彼女の気配。それを漂わせた理由を、俺は直ぐに理解した。
彼女は、俺の覚悟を試している。生半可な気持ちで相対することは許されない。今の俺の言葉に偽りがないのかどうかを、見極めようとしているのだ。
気持ちを落ち着かせようと、少しばかり息を吐き、俺は正面から涼子の顔を見つめた。
正しさと、幸福。
「どちらもいらない」
「え?」
「俺は、俺のやりたいことをやり遂げたい。俺の納得する形でそれを実行に移せるんなら、正義も幸せも、いらないさ」
正直な気持ちだった。きっとこう言えば正解なんだろうとか、浅はかな推測の下で導き出した回答では断じてなかった。それは自然と、胸の奥から湧き上がるようにして、はっきりと自らの言葉として、世界に刻まれた。
俺のやりたいことをやる。欲望に塗れて好き放題にやるということでは決していない。自身が定めた『生き方のルール』に則って、やるべきことをやるということ。
「それが、今の俺が導き出した、答えだ」
決然として向かい立った俺を、涼子は暫くの間じっと見つめていたが、緊張が解れたように相好を崩した。
「合格」
「はい?」
合格? 何が?
「題して、『火門涼子の助手になりたいんだよ試験』に、君は晴れて合格したってことっ!」
「……もしかして、俺を試したのか?」
「ま、そういうことになるね」
涼子はコロコロと笑い、茫然としている俺の手を大事そうに取った。慈しむように、手のひらの皺を一本一本伸ばすようにして、触れる。彼女の仄かな体温を感じる。
「ありがとう。そう言ってくれて、本当に嬉しいよ」
「本心を言っただけだ」
「でも、本当にいいの? 万事屋の仕事って、結構大変だと思うけど」
「だから、言っただろう? あんたから、学ばせて貰うって」
「……そっか。うん。そうか…………って、あっ!」
そこで何かを思い出したように、突然、涼子が驚きに似た声を上げた。
「忘れてたっ!」
「何が?」
「名前だよ。君の名前、まだ聞いてないっ!」
あちゃぁと、おでこを掌でパチンと叩く。何だかセンスが古い反応だ。
「私ったら、うっかりさんだなぁ。出会ってもう半年も経つのに、名前を教えてもらってないなんて……あぁ、何だかちょっと、ショックだなぁ。君が髑髏十字の人っていうのは、テレビで散々報道されていたから顔は知ってたんだけど、名前までは報道規制が敷かれていて分からなかったから」
「た、確かに」
言われてみればそうだ。俺も、指摘を受けるまで忘れていた。何でそんな大事なことを失念していたんだろう。
「でも、名前か……」
アヴァロ。それが髑髏十字にいたころの俺の名前だった。でも、愛着なんて全然無い。あれは言うなればコードネームのようなもので、血の通った音の響きとはかけ離れている。
名前は重要だ。名前は存在を定義するものだからだ。俺が俺であることを正しく表現するための概念。それが名前だ。そう考えると、どうもこの『アヴァロ』という名前の響きは良くない。俺の今後を生きるのに、この名前は相応しくない。
考える。今の俺を正しく定義する言葉を。シンプルで発音しやすく、でもそれ以上に、俺が新たな一歩を踏み出せるきっかけとなる言葉。折れてしまった牙が、再び立ち上がる為の助燃剤となる言葉。
「再牙だ」
決めた。
「再牙。それが俺の名前だ」
晴れ晴れとした顔で、涼子に告げる。だけれども、何が気に食わないのか。涼子は不可解な視線をこちらに送り、
「……それ、本当に貴方の名前?」
「え? なんで?」
「なんでじゃないよ。自分の名前を相手に伝えるのにじーっと考え込んでたら、そりゃ不思議に思うでしょうよ。もしかして偽名かなとか、思っちゃうでしょうよ」
「あー、いや。それはない。うん。偽名じゃない。正真正銘、俺の名前だ」
今決めたけど。嘘はついてないから、まぁいいでしょ。
「ホントにぃ~~~~? ホントに偽名じゃないの?」
まだ疑いは晴れていないんだよとでも言いたげに、涼子がワザとらしく目を皿にして問い詰めてくる。
「ぎ、偽名じゃねーって。大体、この状況でそんなこと言う訳ねーだろう?」
「じゃあ聞くけど、苗字は?」
「え?」
「みょ、う、じ。ほら、答えてよ」
「み、みょうじ」
考えてなかった。
「あ、えーと……」
涼子と視線が合う。彼女は両手を腰の辺りに当てて、早く答えてよと目で急かしてくる。火門涼子、こんな顔もするのか。本当に今日は、彼女の意外な面を色々見れて、何だか得した気分だ。
その時、頭の中にそれは何の前触れも無く降りてきた。ごく自然と。まるで、俺がこの世に生を受けた時から、そう名乗るのが運命であったかのように。
「か……」
「うん?」
「火門」
躓きながらも、俺ははっきりと声に出して言った。
「火門再牙。俺の名前だ」
口にした俺自身、戸惑っていた。だけれども、どういう訳か心に妙な安らぎを覚える。心の居場所が正しいところへ着地した感覚。落ち着くべき場所に魂が辿り着いたような。
「火門……再牙……」
小さく唇を動かして、涼子が復唱をする。何度も、何度も。俺がちゃんとこの場所に立っているのだということを、自分自身に分からせるように。
そうして一通り名前を呼び続けた後、涼子は、実に何とも例えがたいほどに頬を緩めた。
「いいね。その響き」
そう口にした彼女の姿は、闇の中にあっても眩しく、何者よりも美しかった。そうして暫く取り留めも無い話を二三交わしてから、俺達はどちらが先に言うまでもなく、沈黙のままに森を抜けて、杜の入口へ戻ることにした。
来た時よりも、戻る時の方が少し時間を要した。入り口の路傍に止めておいた倍力電動自転車は、幸いにして盗まれてはいなかった。どうやら涼子が言った通り、この辺りは以前の頃と比べて治安が大分回復しているようだった。心配が、杞憂に終わって何よりだ。
綺羅星光る暗幕が下りた練馬区の大通り。闇が息を顰めているようだ。時刻は既に夜中の二時半を回っていた。人の気配は全くしない。いつもなら騒音の如く煩いはずの有害獣の唸り声も、水を打ったように止んでいる。
アパートへの帰り道を、俺たちは急いだ。今度は二人乗りではない。涼子が自転車を押して歩き、その隣を俺が歩くという形をとっている。
歩いていると、通りの左側で淡い光彩が漏れ出ているのが目についた。さっと視線をやっただけで、それが大手のコンビニエンスストアの店内から流れているのだということは直ぐに分かった。
不意に涼子が立ち止まった。そして、俺の方を振り返り、
「ごめん。ちょっとコンビニに寄りたいんだけど」
「いいけど、何か買いたい物でもあるのか?」
「この前受けた仕事の依頼で、確認しておきたいことがあるの。電子ジャーナルを幾つか買いたいんだけど、ちょっと時間かかると思うから、先に帰っていてくれない?」
「帰り、一人で大丈夫か? 」
「なにガラにもなく心配してるのよ」
ケラケラと笑いながら、涼子はアパートの鍵を俺に無理矢理握らせてきた。
「あ、鍵は郵便受けの中に入れておいてね」
「あ、ああ」
涼子が、小走りでコンビニへと向かっていく。俺はどこか不安な予感を覚えながらも、言われた通りに先にアパートへ戻る事にした。
△▼△▼△▼
闇に溶け、どんどんと小さくなっていく再牙の背中。窓際に設置された電子雑誌コーナーの傍で立ち読みに耽る振りをして、涼子は彼の背中をじっと眺め続けた。まるで、彼の行く末を見守るかのように。
再牙の背中が完全に涼子の視界から消えた直後だった。客の入店を知らせるメロディーが小気味よく店内に鳴り響く。反射的に涼子は顔を上げ、入り口の方へ視線をやる。
来店者は、がっしりとした体格の男性だった。目深にハンチング帽を被り、表情は伺えない。何かから身を護るかのように、しっかりとロングコートを着用している姿は、用心深いを通り越して異常にも見える。
男はごく自然な足取りで、何かを物色するかのようにあちこちへ目を配らせながら、電子雑誌コーナーの方へ近づいた。自然な流れで涼子の左隣に立ち、棚に幾つも陳列されたA4サイズの薄っぺらい《パルプフィクション》のうち、表紙に『週刊幻冬』とあるものだけを選んで、手に取った。
表紙の隅に刻印された指紋読取式認証コードに、男が掌を翳す。途端、表紙から半透明色のミラー粒子が立ち昇り、覗き見防止機能付きの立体映像が現れた。雑誌の体験版。全てを読むことは出来ないが、どんな内容が掲載されているのかは把握できる。
「何を読んでいるの」
唐突に、涼子が雑誌に目を落としたまま尋ねた。
相手は一人しかいない。隣に立つ男。そいつに用があった。
「電子麻薬大手密売グループ《闘陰狼》が摘発されないワケ。幹部級枢機卿『A』との『あぶない繋がり』を暴く……」
淡々と誌面に書き殴られた文章を読み上げる男。
対して、涼子は冷ややかな笑みを浮かべた。
「いつもと変わらない内容ね。週刊幻冬らしいわ」
「こっちの身にもなってみろと言うのだ。糞が。またケツを拭きにいかなきゃならん」
「何なら、手伝ってあげようか」
「冗談も程々にしておけよ。元・舎利弗隊大隊長……火門涼子どの」
涼子が、憮然とした顔つきになる。
「昔の役職名で呼ばれるのがそんなに嫌か?」
「過去を振り返っている余裕なんて、ないからね」
「ならばなぜ、手伝うなどと口にした?」
「趣味の悪い冗談を口にしたまでよ」
「何を」
男の声音は巨岩の様に低く静かで、有無を言わせぬ威圧感が込められていた。彼の言霊には、黒々とした予断を許さぬ意志が込められていた。相手を支配してやろうという、征服欲に満ちた感情も漏れている。意識して出しているのではない。男の社会的立場が無意識領域に干渉し、そのような色を声に持たせているのだ。
「一方的に三下り半を突きつけ、野に下った落武者に心配される覚えなど、こちらにはない。我々の問題は、我々だけで処理をする。昔からのしきたりだ」
蒼天機関のナンバー2が、その引き締まった体躯から威厳と凄味に満ち溢れるプレッシャーを放射し続ける。並みの人間なら、彼の圧にあてられただけで本能に恐怖感を刷り込まれ、殺気が刃となって乱舞する幻影を垣間見るに違いない。
それでも、涼子は動じる気配をまるで見せない。それが一体どうしたと、何てことはないとばかりに平然としている。お互いにどうかしているし、それはお互いに唯一認め合っていた部分でもあった。
「我々だけで処理する……か」
涼子が思わず失笑を漏らすも、すぐに顔を引き締めた。そこには、再牙の前では決して見せない『もう一つの』涼子の顔があった。
「だから、彼を大人しく引き渡して、部外者の私はとっとと引っ込んでいろ、と言いたいわけね?」
男は答えない。涼子もまた、後に続く言葉をあえて口にしなかった。
《パルプフィクション》を手に並んで立つ、二人の男女。傍から見れば、恋人にも夫婦にも、もしかしたら兄妹にも見えるやもしれぬ。あるいは、単にその場に居合わせているだけの、赤の他人同士か。両者の間に、不気味ともとれる緊迫した空気が蔓延していなければ、そんな陳腐な感想で片付いた筈だった。
「何時から尾行に気が付いていた?」
「家を出た直後からよ」
「流石だな。一線を退いてもジェネレーターはジェネレーターか。《影》の隠匿効果も、お前を前にしては形無しというわけだ」
どこかふざけた口調だった。それが本心からの言葉ではないことくらい、涼子にはお見通しであった。男のジェネレータ―能力を良く知っているからこそである。
「単刀直入に言おう」
週刊幻冬の《パルプフィクション》を棚に戻しながら、大嶽がやや早口でまくし立てた。
「奴を直ぐにこちらへ引き渡せ」
「嫌よ」
即答だった。あらかじめ質問の内容を予想していたかのようだ。
更に、涼子が被せる。
「思い上がりが過ぎるんじゃないかしら。え? 大嶽左龍副機関長。この際だから言ってあげる。貴方たちの思い通りに事が運ぶと思ったら、大間違いなんだから」
貴方たち、と涼子は確かに言った。今、この場には男と涼子の二人しかいないのにも関わらずだ。その意味深な科白は、言外に男の部下が店内の何処かに潜伏していることを指している。
目星はついている。涼子は大嶽の足元に鋭い視線を投げた。墨汁のように黒めいた円形状の影がある。大嶽の影だ。しかし、それは影というには余りにも奇妙だった。元より色が濃すぎるだけの話ではない。
影は人の形をしていなかった。まるで水溜りのように、光の角度など完全に無視して、大嶽の足元で独りでに揺らめいていた。大嶽自身は全く微動だにしていないというのにだ。
涼子は落ち着き払って、その奇怪な影へ意識を傾けた。一人、二人……いや、五人だ。五人の余人の存在を、影の中から確かに察知できる。
「もう一度言うぞ。こちらへ引き渡せ」
大嶽は、涼子の言葉など無視するかのように、再度要求を突き付けてきた。涼子は押し黙った。何時の間にか彼女を取り囲むかのように変形を遂げた影から、冥府の鬼の如き笑い声が静かに漏れた。気のせいではない。確かに影から声がした。彼女の覚悟を嘲笑うかのように。
彼女は良く知っていた。蒼天機関副機関長たるこの男・大嶽左龍の能力を。彼もまた、ジェネレーターだった。その力は、涼子が彼の下を離れて以降、全く衰えてはいなかった。
棺に眠る十二使徒。影の中に他人を閉じ込め、自由に出入り可能とする能力。この超至近距離でその妙技を喰らえば、いくら涼子と言えどもひとたまりも無いはずだ。
彼女は今、大嶽の影中に潜む五名の精鋭から、見えない刃を喉元に突きつけられているも同然の状況である。下手に刺激すれば、突発的な死が降りかかるは必至。
だが、
「断る」
貴様の声なんか聞きたくないとばかりに、涼子は一方的に話を切り捨てた。たとえ目の前に金塊の束を積み上げられようとも、彼女の覚悟は変わらなかったろう。足元の影からいつ刃が飛び出しかねないこの状況にあっても、涼子の再牙へ向ける愛情は、一欠けらも揺らぐことはなかった。
「何故だ」
大嶽は、ハンチング帽の奥から鋭く輝く瞳を覗かせた。解せない。視線だけでそう訴えかけていた。涼子はやや怒気を含ませた調子で応じた。
「それはこっちの科白よ。どうして今になって、彼を捕まえようとするの? 先日の報道で、事件は全部終わったはずでしょう。放っておいてあげてよ」
「そういう訳にはいかない。たとえ秘密裏に処理することになろうとも、こちらにどれだけの犠牲が出ようとも、あの二人は必ず捕まえる。これは至上命題だ。猛毒を持ったライオンを檻から逃がしたままとあっては、夜も眠れない」
「猛毒を持ったライオンでも、その力を正しく振るえば、問題なんてないはずだわ」
「そんなのは、牛の糞にも劣るただの妄言だ。殺しが全てだった人間に、それ以外の事を学ばせようとするなど、酷な話だとは思わないのか。貴様がやろうとしているのは、魚に向かって陸で生きろと強要しているのと、同じことなんだぞ」
「全ては彼が決めた事よ。彼が彼自身の人生を胸を張って生きるには、そうするしかないと選んだ。だから私も己の命が続く限り、彼に出来るだけ多くの事を教えてあげたいと願った。私、何かおかしなことを言ってるかしら」
「全ては彼が決めた事だと?」
何も分かっていないと口にする代わりに、大嶽は嘆息をついた。と同時に、ビリッと周囲の空気が鋭敏さを増した。まるで、針の筵に敷かれているかのような、刺々しいでは済まされない程の幻痛が、涼子の全身を貫いた。
幻痛。それは仮初の痛み。言うなれば殺気である。大嶽左龍の逆鱗に触れてしまったと悟った涼子だったが、既に遅かった。
物音一つ立てずに静謐に、しかしながら驚異的なスピードで、大嶽の影の一部が、沁みのように天井にも展開している。足元には、先ほどよりも大きい影の水溜りがある。上下を挟まれたとあっては、迂闊に動くことも許されない。
「冗談じゃない。奴にいらぬ知恵を与えて脇道へ誘導させたのは、何を隠そう火門涼子、貴様自身ではないのか」
巌のような声音の奥に、確かな怒りを滲ませる。
「あれは人形のままで良い。悪を捻じ伏せる力を宿した人形として生き続けることを、私も、機関長も望んでいる。機関の為に働く忠実な人造生命体であればこそ、奴の命は際立って輝くというものだ」
「あなた……」
空恐ろしいものでも見るかのように、初めて涼子は大嶽に視線を恐る恐る向けた。会話の流れから、彼が本気で再牙を処刑したがっているようには、聞こえなかった。だったら、可能性として残るのは一つしかない。
「まさかとは思うけど、彼をまた機関の暗部に引き込むつもりだというの?」
「無論だ。確かにウチの技術者連中を殺されたのは痛い。しかしだ。資材というものは、もっと有効に使うべきだよ。たとえ我々に牙を剥いた反逆者だとしても、優れた才能を宿している存在を危険因子と断じて処分するのを、俺は良しとしない」
大嶽は涼子へ視線を向けず、ごく当たり前といった風に答えた。
「奴の存在意義は、暗闇の中にしかない。奴の居場所を奪ったのは貴様だ。責められるべきは火門涼子、君のほうだ。君が保護しなければ、俺は奴の説得に成功し、手足として働くべき存在になっている筈だったのだ」
「あり得ないわ。彼が貴方の誘いに乗るはずがない」
「機関の精神拘束術を甘く見るなよ。脳神経にちょっとした細工をしてやれば、どうということはないのだから。それに言わせてもらうが、貴様が奴を保護したせいで俺がこうして気を揉み、ストーキング紛いの行為に徹する羽目になったんだ。全て、貴様が狂わせたんだ」
「ふざないでちょうだい」
怒りを隠そうともせずに、涼子は拳を握り締めた。手にとった《パルプフィクション》が変形するのも構わない。瞳は何時の間にか蒼く燃え滾り、彼女の華奢な体躯から旋風の如き闘気が湧き上がった。
「それ以上おかしな事を言ったら、その汚らしい口を縫い合わして、アンタの醜い短小ポコチンをぶっこ抜くから」
普段、再牙の前では絶対に見せないであろう鬼気迫る表情と、外面の美麗さに似つかわしくない下劣な罵声が、店内に木霊した。
大嶽はだんまりを貫いた。その精悍な顔立ちに焦りの色はなく、罵声の鋭さに衝撃を受けた様子もない。売り言葉を下手に買っては、収拾がつかなくなると知っているのだ。
だが、それで納得できる者より、できない者の方が多かった。
ごぽ……と、不可解な音が黒い泡と共に大嶽の影から湧き出た。影中に潜む機関員の誰かが、感情の波を逆立てたことの証だ。大嶽の影が宿す気配隠匿の効果を上回るほどに。上官を侮辱されたことに対する怒りは、それほどまでに凄まじく、今にも涼子目掛けて食って掛りそうな勢いである。
「水喰、落ち着け」
侮辱を受けた当の本人が発した鶴の一声を受けて、影に落ち着きが戻った。どうにか一触即発の事態は免れた。
やれやれと、苦笑を交えて大嶽は頭を振った。先ほどまで見せていた刃の如き殺気が、少しだけ柔らんでいるように思える。
「どうしてそこまで頑なになる」
大嶽は、質問の内容を変えた。
「今度は、理由が知りたいってわけ?」
「ああ」
「そうね……」
僅かばかりの沈黙。どこか遠い眼差しを窓の外に向け、涼子の口から決定的な一言が飛び出した。
「あの子が、私の息子だからっていうんじゃ、不足かしら」
今度は、長い長い沈黙が訪れた。大嶽の足元に広がる影が、不規則な揺らめきを見せた。影の中に潜む機関員らの精神状態は、影の動きにリンクする。揺らめきの具合から、機関員らは明らかに動揺しているのが伺えた。
それも当然のことだろう。髑髏十字の出生に関するありとあらゆる内容は、機関内でも最重要機密事項。限られた者しか、その全貌を知らないのだから。
たとえ元大隊長だった火門涼子でも、それは例外ではないはずだ。だとしたら余計に分からない。なぜ彼女は、アヴァロが自分の提供した卵子から造られた人造生命体であると知っているのか。どこでその情報を知りえたのだろうか。
「…………息子、か。確かにそういう表現も、アリかもしれないな」
「貴方に対して言いたいことは、山のようにあるわ」
涼子は大嶽の方へ向き直り、きつく彼を睨み付けた。無言でありながら、多くの雑言をぶつけられているかのような錯覚に、大嶽は陥った。
「本当に、言葉にできないくらい、貴方には言いたいことが沢山ある。だけれども、もういい。あの子が過去を背負って生きると決めたのなら、私もそうするだけだから」
「…………」
「だからもう、二度と私に会いに来ないで。あの子にも、指一本触れさせない」
それで満足できないのなら、と涼子は《パルプフィクション》を棚に戻し、半歩、大嶽から距離を取った。
「私も、このまま黙って引き下がるわけにはいかない」
凄まじい闘気が、涼子の足元を中心に巻き起こった。熱き力場が空間を歪め、再び状況が一変した。
涼子は、初めからこのつもりだった。大嶽の存在を感じ始めた時から、心に決めていた。迫りくる障害を、全身全霊で打ち壊す。たとえ、この身が犠牲になろうとも構わない。息子の平穏を守って死ねるのなら、母親として本望であると。
「……ふふ」
と、不意に大嶽が笑った。その笑みは、今にも野獣のように襲い掛かろうとする涼子を嘲るものではなく、この緊迫した状況そのものに対する笑いであった。
「俺と一緒に暮らしていたころより、ずっと女らしい顔になってるな」
「……はい?」
何を言っているのだと問い詰めるより先に、大嶽がハンチング帽を脱いで、涼子に視線を送った。その瞳には、敵対の意志は既に消えていた。
「あの時の俺には確信があった。お前の卵子を元手に奴を創造した時、こいつはきっと凄いものが出来上がると」
あくまで人造生命体をモノ扱いする彼に嫌悪感を覚えつつも、涼子は口を挟まず、黙って嘗ての恋人の言葉に耳を傾けた。
「だが、蓋を開けてみればこのザマだ。何かが足りなかったのだ。彼を、本当の意味での戦士に仕立て上げるのに、決定的な何かが欠けていたのだ。それがなんなのか、今、ようやくわかった気がする」
「……どうしたのよ。力づくで奪うつもりじゃなかったの?」
「笑わせるな。お前を相手取るとなれば――」
大嶽は足元に這う自身の影を見下ろし、指さした。
「たった五人の機関員では力不足。本気で殺すつもりなら、フルメンバーの十二人をここに入れるさ。無論、大隊長だけの精鋭メンバーをな」
つまり、カマをかけてきたということだ。
「演技だったのね……気合い入れて損した」
膨らんでいた風船が、急激に萎んでいくような感じだった。闘う意思が無いのなら、どうしてあんな事を言ってきたのか。そう尋ねると、大嶽は涼子の瞳を覗き込むようにして言った。
「お前がどういうつもりでいるのかを知りたかっただけだ。どういう気構えで、奴と向き合おうとしているのかを。的外れな事を言ってのけたら、本気でどうにかするつもりだったが……杞憂に終わって何よりだ」
「いちいち細かいところまで気にしすぎなのよ。あなたは昔からそうだった。私の嫌いな性格、その1」
「だがわかるだろう? 相手は行き過ぎた力を持った子供も同然。誰かがしっかり手綱を持ってやらねば、いつ過ちを起こすか分からない。機関の命令を遂行してきたとはいえ、奴がこれまで何をしてきたか、それを知らないお前ではないはずだ。力を宿した人間は、それを正しく使う責務がある。奴がそれを本当の意味で学ぶのに、どれだけの時間がかかるか……あるいは、何も学ばずに終わる可能性だって、否定しきれない」
「ちょっとは彼のことを、信じてあげてもいいんじゃないの?」
「お前は少々楽天的なんじゃないのか?」
涼子が、ほんの少し笑みを浮かべた。
「母親が息子を信じてあげないで、どうするっていうのよ」
その一言だけで、この場を収拾させるのには十分過ぎた。大嶽は何も手に取らず、黙って店の外へ出ようとする。と、おもむろに足を止めて、振り返った。
「一つ聞きたい」
「何?」
「一体どういう手段を使って、奴が息子であることを知ったんだ? まさか、ヴェーダ・システムに侵入したわけでもあるまい」
「そんなの、簡単よ」
あっけらかんと、涼子は言った。
「母親なんだから、息子の顔くらい知ってて当然でしょ?」
大嶽はもう、何も言い返せなかった。
天井に広がっていた影は、何時の間にか消えていた。




