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アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第八幕 正しさと、幸福と
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8-6 濁りきった空の光は その4

もちっとだけ続きます。

「……ぇ……ね……」


 夢と現実の狭間に立つ俺を、誰かが必死になって呼び覚まそうとしている。


「ねぇったらっ!」


 一際大きな声が鼓膜に響いて、そこで俺は完全に覚醒した。何事かと思い、驚いて飛び起きる。


 いつもと変わらない部屋の風景が、目の前に広がっていた。空色の景色も、死者達の群れも、完全に何処かへと消え去っていた。穏やかな世界。生まれて初めて手にした日常の世界。簡素な造りの部屋の空気を感じ取り、心の底から安堵の溜息を漏らす。


「大丈夫?」


 すぐ横で、誰かが心配そうに声をかけてきた。涼子だ。彼女の瞳は、窓から差し込む月明かりの淡い光を受けて、深い陰影を刻んでいた。


「うなされてたみたいだけど……悪い夢でも見てたの?」


「……別に」


 何でもないと、そっぽを向く。冷たい態度であることは、自覚している。正直に言おう。彼女の優しさに触れることに、俺は若干の恐怖を覚えてしまっていた。彼女に対してではない。他でもない、俺自身の心の脆弱性に起因した問題だ。こんな自分(・・・・・)が、何時までも此処に身を隠しているのが正しい事では無いように思えてきて、しょうがなかった。


「汗、ひどいよ。これ使っていいから」


 振り向くと、涼子が厚手のタオルをこちらに差し出していた。そこで俺は初めて気が付いた。寝間着のタンクトップが吸収した、粘ついた汗の不快感に。


「……悪い」


 言われるがまま、タンクトップを脱いで汗を拭う。既に初秋は過ぎているはずだが、尋常ではない汗の量だ。真っ白だったタオルが、俺の汗を吸ってみるみる内に変色していく。


「拭き終わったら、早く着替えて」


「着替えるって……は? なんで」


「ちょっと散歩に出かけようよ」


「……もう夜中の一時だぞ?」


 壁に掛けられたアナログ時計を見て言う。だが、そんなことは関係ないのだと言わんばかりに、涼子が笑顔でまくしたててきた。


「そのまま寝たって、どうせ眠れないでしょ。また悪夢にうなされるくらいなら、ちょっと体を冷やした方がいいんじゃない? うん、絶対そっちの方がいい」


「だが、外を出歩くわけには……」


「素性がばれるかもしれないって? 大丈夫だよ。昨日の報道で、もう事件は解決したことになってるんだし。君の正体に勘づく人なんて、いないと思うけどね」


「う……それも、そうか」


「それにいい機会だし、この時期にしか見られない『すごいもの』を、君に見て欲しいんだよね」


「すごいもの?」


「そう。私のお気に入りの場所なんだけど、見たらきっと驚くと思うなぁ」


「……もしかして」


「ん?」


 小首を傾げて俺の反応を伺う涼子。唐突に気恥ずかしさを覚えて、俺は目を伏せた。


「気を……遣ってくれているのか?」


 彼女と会ったばかりの頃なら、絶対に出てこなかった科白だろう。自分で自分の心の変化に驚く。彼女に対してひどい後ろめたさを抱えているのは、何故だろう。騙しているような気分だ。罪悪感なんて、あの頃には微塵も抱いていなかったのに。


 彼女の声を聴いて、彼女の瞳を見ていると、自分の心の弱さや辛さを、一切残らず吐き出してしまいたい衝動に駆られる。だが、甘えることはできない。俺のような人間に、そんな資格はない。そう、強く言い聞かせる。


「もしそうなら、別にいい。気にしないでくれ、俺なんかに気を遣う必要なんて、どこにもないだろ」


「……やだ」


「え?」


 彼女の我儘を、初めて耳にした気がする。意外に思って顔を上げると、実に不満げな顔で立ち尽くしている涼子と、目が合った。


「気を遣っちゃ、悪いのかな?」





△▼△▼△▼





 結局、彼女の勢いに押される形になった。あそこでこちらが頑なになって断ったら、涼子は怒ったに違いない。彼女の怒る姿は見たくなかっし、ちょっとした好奇心も手伝って、その『お気に入り』の場所とやらに行く事になった。


「しっかり掴まっててね」


 夜が支配する閑散とした練馬区の大通りを、倍力電動自転車が疾走する。サドルには涼子が、荷台には俺が座っている。


 冷たい夜風を切り裂いて進む感覚が心地いい。女性が軽く力を入れるだけでも、この馬力だ。憎らしいが、全工学開発局(サルヴァニア)がこの街にもたらした技術革新には、目を見張るものがある。


 二人乗りは部隊にいた頃も散々やったが、主に搭乗していたのは大型戦術二輪駆動車が殆どだった。しかもそれを駆っている時は必ずと言っていいくらい、血と硝煙の香りが辺りに漂っていたものだ。こんな平穏に満ちた空気感とは著しくかけ離れた世界に、俺は住んでいたんだ。


「ほらっ! こっから一気に飛ばすから、もっとしっかり掴まってっ! 振り落とされるよっ!」


「あ、ああ」


 涼子の必死さに押されて、俺は反射的に彼女の腰に腕を回した。


「うあー!」


 感嘆にも似た声を、涼子が上げる。くすぐったそうに身を捩らせて、いたずらっぽく笑うのが、背中越しに伝わってきた。


「君の腕って、太くて大きくて逞しいね」


「そ、そうか?」


「うん。なんだか、男の人の腕って感じがするよ。力強いことは良いことだっ!」


 そう言って無邪気に笑うが、一方の俺は気が気で仕方なかった。心臓の鼓動がやけに高鳴る。彼女の腰が予想していた以上に柔らかく、細く縊れていたせいだ。驚きしかない。力を込めたら、折れてしまいそうじゃないか。こんな華奢な体格で、よくも万事屋なんて荒事を続けていられるものだと思う。


 普段の涼子は、俺にとって頼りがいがありつつも、何処か不思議な空気を纏った存在に映っていた。その分より強く、彼女の体つきに『女性らしさ』を感じてしまう。


「ところでさ」


「何?」


「今日は来てないんだな。あの黄色いコート」


 今の涼子は、水玉模様のワンピースに、灰色のカーディガンだけを纏っている。彼女のトレードマークでもある黄色いコートを着ていないと、受ける印象も大分違うものだ。


「オルガンチノの事? あれは仕事用の服だから、今日みたいな日には不釣り合いだよ」


「そうか……仕事用か」


「結構便利だし、気に入ってはいるんだけどね。普段着として着ていくにはちょっとねー」


「便利?」


「知らなかった? あのコートって不思議な素材で出来ていてね。着る人の体格に合わせて、服が勝手にサイズを変更するの」


「へぇ」


「でも一番不思議で便利なのは、コートのポケットが異相空間に繋がっていて、どんなものでも出し入れ自由ってところかな」


「どんなものでも?」


「そ。どんな大きさの物でも」


「そりゃあいい」


「欲しくなってきた?」


「え?」


「もし欲しいなら、いいよ。君にならあげてもいい」


「やめてくれ。なんだか、こっちが物乞いしてるようじゃないか」


「遠慮しなくてもいいのに。君って、変なところで礼儀正しいんだから。でも――」


 そこで、言葉のキャッチボールが不自然に途切れた。ペダルを漕ぎながら、涼子は何かを思案しているようだった。どうかしたのか。そう口を開きかけた時だ。


「もし私に何かあったら、その時は貰ってよ。きっと、君の役に立つだろうから」


「……え?」


 それって、どういう。


「あ、見えてきたよっ!」


 不穏な予言めいた彼女の言葉に突っ込むよりも先に、涼子が大声を上げた。右手をハンドルから離し、人差し指で真っすぐ、ある一点を指さす。


 細くて白い、どこか儚い涼子の指先。その先が示すのは、黒々とした小高い森であった。





△▼△▼△▼





《逃れの杜》――大禍災(デザストル)の影響下で誕生した台地にして、練馬区の新たな名所として知られているこの小高い丘こそが、涼子の『お気に入りの場所』らしい。


 あの未曽有の大災害が幻幽都市の地形にもたらした影響は、大なり小なり色々だったが、人々の暮らしにマイナスであったことが殆どだ。異常進化した土地の多くが、凶悪な有害獣(ダスタニア)の巣窟になったり、蒼天機関(ガルディアン)から危険区域の烙印を押されている。それらはどれも、平和な日常を求める都民にしてみれば、畏怖と憎悪の対象でしかない。


 だが、《逃れの杜》だけは例外中の例外だと、涼子は言った。


「ここには有害獣(ダスタニア)もいないし、危険区域にも指定されていないの。知ってた? 十一月ぐらいになると、思わず見とれちゃうくらい紅葉が綺麗なんだよ。カップルとか家族連れで訪れる人も、結構いるみたい」


 入口に当たる社の前でブレーキを駆け、倍力電動自転車から降りる。手頃な場所に自転車を駐車させながら、涼子が言う。


「ここからは歩いて頂上を目指すわよ」


「自転車、ここに置いていくつもりなのか?」


「大丈夫。盗まれないわよ。最近はこの辺りも治安が良くなってきたし。仮にそういった奴が現れても、これの電子錠は中々解除できないしね。そんなことより、ほら、早く登ろうよ」


 それは、実に自然な流れだった。涼子の細くてしなやかな指が、絡みつくように俺の右手を握ろうとする。


「い、いいってっ! それよりも、ほら、早く行こうぜ」


 石畳の階段に足をかけ、俺は涼子の方を振り返ることなく、ぶっきらぼうな口調で言った。


「はいはい。わかったわかった」


 涼子はちょっと残念そうに眉を下げたが、すぐに笑顔に戻る。彼女のコロコロ変わる表情は、見ていて楽しいし凄く落ち着く。だけれども、二人っきりで夜の散歩に来ているというこの状況を正しく消化するのに精一杯で、彼女の顔をまともに見れない自分がいた。


「(一体なんなんだよ……)」


 騒めく胸の吐息を無視して、俺は簡易式ライトを片手にずんずんと階段を上がっていく。ちょっと離れて、涼子が続いた。


 俺たちは無我夢中で山頂を目指し、森の海を泳いでいく。耳に届いてくるのは、木々を隠れ家とする小動物や野鳥の囀り、虫たちの心地よい羽音だけ。余計な雑音は、一切聞こえない。


 森の中はうっそうとしていて、群がる樹葉の天幕が完全に月の光を遮っている。恐怖や不安とは無縁の、暗黒の世界。一種の異世界に迷い込んでしまったかのような感覚だった。街の中心部からはそんなに離れていないというのに。日常生活の喧騒から、俺たちは完全に隔離されていた。


 網を張るかのように太い蔦が石畳を覆っているから、足元には気をつける必要があった。ライトを焚かなければ、とてもじゃないが進めない。いや、能力を発動して視力を強化すれば問題はないのだろうが、それをやってしまうと、この何とも言えぬ雰囲気が崩れそうなので控えることにしているだけだ。


 森を構成する木々の幹は太く逞しく、色づきかけた葉の一つ一つが、夜風の揺りかごに揺られている。こんな人気のない森だというのに、不気味さとは遠くかけ離れていた。寧ろ、散策する者の心を落ち着かせるかのような、清涼な空気を感じる。


 そうして、二十分ほどかけて歩き続けたときだ。


「もうそろそろだよっ! ほらぁ、早くっ!」


 俺の後ろを黙って歩いていた涼子が、急に子供のような声を上げて走り出した。危ないぞと声を上げそうになるも、彼女は実に軽やかに、蔦の絡まる石畳をぽんぽんと駆け上がり、あっという間に俺を追い抜いていった。通い慣れているのか、足の運び方に自信があるのが伺えた。


 連られて、俺も走り出す。涼子がこんなにはしゃぐなんて、一体何があるんだ? どれだけの価値が、そこに込められているんだろうか。


「はやくっ! はやくっ!」


 両腕を上下にぶんぶんと振りながら、笑顔を伴って彼女が急かす。


 胸の奥に、ちくりとした痛み。


 必死になって、石畳を蹴りつける。


 あと三段。


 あと二段。


 あと一段。


 そして、


「ここは……」


 階段を駆け上がった先。開けた小高い丘には、例えようもない絶景が広がっていた。


 七色に輝く、小さな蝶たちの群れ。羽根を動かす度に、鮮やかな色彩の鱗粉が軌跡を描く。鱗粉の軌跡は空中で磔にされたかのようにその場をしばらく漂い、消えるまでの間に、月の光を受けて乱反射を繰り返し、眩くも暖かな色味を生み出している。傍らに佇む涼子の存在を忘れてしまうほどの、圧倒的な美しさだ。


「すげぇ……」


 感嘆の声が無意識に漏れる。引き寄せられるように、丘の中心地へと足を進め、俺は一匹一匹の蝶の動きを、つぶさに観察した。


 その数は目で追いつけないほど多く、俺たちがやってきたことを意にも介さず、無軌道にあちらこちらを舞い続けている。その動きは見ているだけでもこちらを飽きさせない。実に変化に富んだ自然の羽ばたき。浮遊する鱗粉の色彩反射が全く読めないのが、楽しくて仕方ない。


 こんな世界が、この悪徳に満ちた幻幽都市に存在していたなんて、知らなかった。俺が今まで見たことも、想像すらも出来なかった未知の世界。胸を打つ、幻想的な蝶のダンス。口にすべき言葉が見当たらない。この美しさを、何と例えれば良いんだ。


「グランド・ジャット。奇紋蝶(アロマチョウ)の中でも希少種とされている、夜行性の蝶だよ。そのあまりの美しさと長寿命のお陰で、地下のオークションに出品されると億単位の値がつくんだって。ま、お金でどうこうできる美しさじゃ、ないと思うけどね」


 驚きに満ちた俺の横で、涼子が呟くように言った。彼女も俺と同じく、輝く蝶の群れに釘づけになっているようだった。


奇紋蝶(アロマチョウ)っていうと、光を食べるっていうアレか。ってことは、この辺りに光子元素(フォトニウム)の発生源があるってことなのか?」


「そう。あれだよ」


 涼子の指さした方向を見て、驚いた。丘を取り囲むように乱立した木々に紛れて、数か所の草花が光っている。いや、正確には明滅していると表現した方が正しいか。行燈のようにぼんやりと淡いオレンジ色の光を時折放つその姿は、まるで草花達が呼吸をしているようだった。


「幻光草っていう多年草でね。普通の植物と違って、秋と冬に花を咲かせて、春と夏には枯れちゃうの。グランド・ジャットは『偏食蝶』ってあだ名がつくくらい、光子元素(フォトニウム)を選り好みする虫で、彼らが好んで食べるのは幻光草の花弁から漏れ出す光子元素(フォトニウム)だけ。だから、これだけ多くのグランド・ジャットが集まるのも、幻幽都市広しといえども、ここを含めてほんのわずかしかないって言われてるんだ」


「そうなのか。知らなかったよ」


「ちなみに、幻光草は多年草の中でも宿根草ってグループに属していて、花が枯れても根っこは一年中生きてるの。それでね、枯れ落ちた花はミツメリス……この森に棲んでいるリスなんだけど、彼らの栄養源になるの。幻光草の花は栄養満点で、それを食べたミツメリスの糞には高濃度のリン酸や窒素が含まれていて、それが土に還って肥料になり、幻光草や周辺の木々が育つ手助けをする。自然のサイクル。生命循環って奴だね」


「随分と詳しいんだな」


「そりゃあ、お気に入りの場所だからねー。大事にしたいから、余計に気になるでしょ。私、気になることはとことん調べたがる性分なの」


 そういうものかと思いながらも、俺と涼子は並んで立ち、しばし幻想的な風景を堪能した。


「仕事で悩んだり辛いことがあると、季節とか関係なしに、いつもこの場所に来るんだ」


 彼女にしては珍しい、どこか憂いを滲ませた声色での呟き。


「あんたにも、悩みがあるのか?」


「あるに決まってるよ。万事屋って、中々気苦労が絶えない職業なんだよ。あの時、ああすれば良かったなーとか、もう少し上手く解決するにはどうしたらいいのかなー、とか」


 意外な告白だった。俺の目に映る彼女はまさに天真爛漫が服を着て歩いているような人間で、苦悩や辛さとは無縁の世界に住んでいるように思えたから。


「そういう時は、誰にも相談せずにここに来るの。特に何をするわけでもない。ただじーっとここに腰を下ろしているだけで、なんだか気分が落ち着いてくるんだよねぇ」


 うーんと、思いっきり背を伸ばす涼子。


「ここから眺める街の姿、本当にキレイだよねぇ」


「え……」


 はっとして、俺は丘の下に広がる街並みに目をやった。グランド・ジャットの煌びやかさに意識を奪われていたせいで気が付かなかったが、確かに言われてみると、夜の深海に沈む練馬区の姿は、どこか神秘的な雰囲気に包まれている。昼間とは全く異なる貌を見せていた。


「確かに……綺麗だな」


「でしょう? ここからの景色を眺めていると、なんだか、自分がすごーくどうでもいいことで悩んでいたことに気が付かされるっていうか、人間の自尊心や深刻な悩みなんて、この街にしてみれば、取るに足らないことなんだろうなぁって、思い知らされるの」


 そう口にする涼子の表情は、真夜中だというのにあまりにも眩しさに満ちていた。本当に、この場所が気に入っているんだろう。


「私、この街が大好き」


 遠くを眺めるような視線で放たれたそれは、涼子の心からの言葉だ。それくらいのこと、俺には分かった。


「喜びも悲しみも、幻幽都市には全てがある。だから、万事屋を続けていられる。辛いことや苦しいことばかりじゃない。それ以上に、嬉しいことや楽しいことだって、数えきれないくらい存在してる」


 涼子が、慈しむような目線をこちらに向けてきた。


「貴方に出会えて、それが自覚できた。本当に、ありがとう。感謝してるわ」


「感謝だなんて……」


 突然のお礼に、どう反応して良いか分からない。


 なんだか、うなじの辺りがむず痒い。


「別に大したことしてねぇよ。つーか、お礼の言葉を言うのはこっちだっつーの」


「そんなことない。だって私、生きるのが楽しくてしょうがないもの。それに気づかせてくれたのは、貴方なんだよ?」


「……」


 生きていて楽しい――か。


「あんた、本当にスゲェよ」


「え?」


「生きているのが楽しいなんて、俺、今までそんな気持ちになったこと無いからさ。羨ましいっつーか……」


「あ……」


 悪いことを言ってしまっただろうか。触れられたくない心の一端に、土足で踏み込んでしまっただろうか。そんな事を思っているのだろう。こちらの気持ちを気遣うように、涼子が若干悲しげに睫毛を伏せた。その姿がいじらくして、でも、それ以上に『そんな顔をしないでくれ』と願う気持ちの方が強かった。


「与えられた命令を馬鹿みたいに真面目にこなす。それだけの人生だった。それが正しい道を歩むことなんだって、思い込んで生きてきた。生きるのを楽しむなんて、そんなこと考えたことなかった。むりやりそれっぽい理由をこじつけて、自分で自分を納得させていたんだな、俺は」


 別に全然、気にしてないと伝えたかった。


「でも、あんたと半年近く過ごしてきて、ようやくわかったよ。俺は、誰かが押し付けてきた生き方を、自分の生き方だって錯覚していたんだ。俺にはこの生き方しかないって、思い込んでいたんだ……」


 誰かに無理矢理与えられた覚悟を、自分の偽りない覚悟だと偽ってきた。それが誤りだと、もっと早く気づいていれば。もっと広い視野で物事を見る目を養っていれさえすれば。


「……あいつらを、殺す必要はなかったのかもしれない」


「殺す……って」


「ああ、そうだ。そうなんだよ、俺は」


 もう、隠し事はやめよう。


「俺が……俺たちが蒼天機関(ガルディアン)を追放されて逃亡を余儀なくされたのは、その原因を作ったのは、俺なんだよ」


「……まさか、本当に暗殺未遂を企てたの?」


「いや、あれは本当に嘘っぱちだ。濡れ衣さ。でも――」


 大きく、息を吸って一息に口にした。


「機関の人間を殺したのは、事実だ」


 視線を上げる。涼子の目と合う。彼女は、何も言わない。驚愕に満ちた顔もしていない。非難の色も瞳にはない。ただ、これから俺の口から紡がれるであろう事柄の一つ一つを、絶対に聞き逃さないという覚悟だけが感じられた。


 だから俺も、それに応えようと思った。彼女には、誠意を込めて向き合いたいと思ったから。


「俺たちの寿命が、あと十五年しかない……そのことを偶然知っちまった時、もう、俺は俺の感情を抑えきれなかった」


「……」


「だって、十五年だぜッ!? 短すぎるだろうッ!? そんなのあんまりじゃないかッ! 今までずっと、組織の為に、街の為に尽くしてきたのに、そんな惨い仕打ちがあってたまるかって……普通の人間とは違うんだって、立場が軽んじられるのにも耐えてきた。それなのにあいつら……全工学開発局(サルヴァニア)のあいつらは……ッ!」


 気が付けば、爪が手のひらに食い込んで血が滲んでしまうくらい、強く拳を握り締めている自分がいた。


「騙していたんだ。俺たちをずっと。使い物にならなくなったら、捨てる気でいたんだ。奴らにとって、俺たちの頑張りなんてどうでもよくて……それで……それでどうしても我慢出来なくなって……問い詰めたんだけど……」


 激情に駆られるまま、俺は覚醒者(エデンズ)を殺しまわった。あの悪魔的頭脳を持つ賢人たちに、怒りと憎しみのすべてを、はっきりとした形でぶつけ続けた。


「…………だけれどもッ!」


 違う。違うんだ。俺が本当にしたかったことは、奴らを殺すことじゃなかったはずだ。俺が、本当に知りたかったこと。俺が、真に耳にしたかった言葉は。


「ただ一言……謝罪の言葉が聞きたかった……」


 悪かった。本当に申し訳ないことをした。今まで隠してきて、本当に済まない。君たちの心を、慮ってやれなかったばかりに。人の命を人の手で造り出そうとしていた我々が間違っていた――そんな言葉が、彼らの口から出てくるのを期待していたのに。


「他の仲間たちがどう思っていたのかは知らない。でも、俺はあいつらから、謝罪の言葉が聞きたかった。なのに、最後の最後まで、理屈に凝り固まった主張で自分たちのやり方を正当化しようとしたから……だから……殺した。俺が殺しちまって、仲間たちも死んで……全部俺のせいで……でも、でも、本当は殺したくなかったんだよッ! 本当なんだッ! 信じてくれッ!」


 なんだか、視界が霞んで涼子の顔がよく見れない。だけれでも、偽りなき本心を言える機会なんて、ここを逃したらきっともう、二度とやってこないだろう。だから、話せることは今のうちに全部、話しておきたい。


「俺は、俺は――」


 でも、着地点が見えない。どう話したら、彼女は俺のことを信じてくれるだろう。俺は俺の言葉に、どれだけの説得力を持たせることができるんだろう。そればかりが頭の中を巡って、呂律がうまく回らない。


 その時だった。


 全身を、今まで感じた事のないくらいの温もりに包まれたのは。


「大丈夫だよ」


 涼子が、その華奢な体で俺に抱きついてきた。彼女は、母親がぐずる幼子にそうするように、ポンポンと、俺の背中を優しく撫でるように叩いてきた。


「私はあなたを信じてる。あなたの心から紡がれる、あなたの言葉の一つ一つを。だから、もうこれ以上、自分を苦しめないで」


「う……」


「寿命のことは……私が言うのも変だろうけど、すごく悲しいし、許せないことだと思うよ。でも、大丈夫だよ」


 涼子は俺の背中に腕を回した状態で顔を上げると――本当に、それは本当に穏やかな笑みを浮かべた。


「また、もう一度やり直そうよ」


「あ……う……」


 限界だった。これ以上、堪えられなかった。俺は情の激しさに身を委ねることにした。涼子の体にしがみ付き、子供のようにわあわあと泣いた。必死に、懸命に泣き続けた。それこそ、一生分の涙を。彼女の優しさに満ちた胸の中で。

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