8-2 それは、悲しき裏切り
何を言われているのか分からず、琴美は呆然とした。体の悪い冗談だろうか。だが、夜生真理緒の真剣な表情を伺えば、それが酔狂から出た言葉であるとは思えない。
琴美は不意に、脳裏に浮かぶ火門再牙の姿が、濃密な影に包まれていく錯覚を覚えた。出会ってまだ数日しか経っていないが、琴美は火門に良い感情を抱いていた。信頼に値する人だと思ったし、命を懸けて自分を守ってくれたことに感謝もしている。
その一方で、こうも思った。
自分は、彼の事を何一つ理解出来てはいないのではないかと。
思い出すのは、今日の昼のこと。ジーン・グラッセルの店で彼が見せた、過去を懐かしみながらも、どこか物憂げな雰囲気に満ちた佇まい。郷愁と哀切が混じりながらも、彼の瞳の奥には眩く輝く光があったのを、はっきりと覚えている。
「存在していないって、どういう意味ですか?」
琴美の口から会話を繋ぐ言葉が漏れだすのにそれなりの時間が掛った。迷い、狼狽え、掠れ気味に発したその質問は、しかし殆ど反射的に口にされたものと見なして良い。衝撃的な事実を告げられた今の少女には、そうする以外に術が残されていなかった。
「全ての始まりは、幻幽都市が建都されたばかりの頃に遡るわ」
ふっと、夜生は自嘲的な笑みを浮かべて、自分が幼い頃の街の様子について語り出した。
「この都市が出来たばかりの頃はね、犯罪係数が世界的に見ても酷く高い状態で、それが何年も続いたの。ジェネレーターに目覚めた者達や、害悪獣やベヒイモスのような怪物達が暴れまわって、街は滅茶苦茶だった。機能を失った既存の政府中枢は解体されて、新たに最高枢密院が設立され、蒼天機関が組織されたけど、それでもどうにもできなかった」
「今は、どうなんですか?」
「……こんな危機的な状況を前にして口にするべき言葉じゃないけど、今は大分マシになったわ。でも、それは私たちの努力だけで勝ち取ったものじゃない。決定的な転機があったのよ」
「転機?」
「今から、十五年前。二〇二五年に、蒼天機関は爆発的増加を続ける犯罪件数を一気に減らすために、一大プロジェクトを立ち上げた。それが、神罰計画。特級クラスのジェネレーター能力を開発して人造生命体に植え付け、『最高の戦士』を造り出す。それが計画の根幹だった。人為的に造り出したその圧倒的な力で、主要な犯罪組織や人に仇為す怪物達を一掃しようとしたの。目には目を。歯には歯を。力には力を。強引なやり方かもしれないけれど、もしも私がその場にいたら、計画の実行に賛成していたでしょうね」
「軍用のクローン人間を造ったってことですか?」
「簡単にまとめると、そういう事になるわね」
「そんな……」
琴美がこれまで育ってきた世界では禁忌とされている実験が、ここでは十五年も前から当たり前のように行われていたという。その事実に覆せぬほどの道徳的断絶を感じ、琴美は思わず非難めいた視線を寄越した。しかしながら、そんな彼女を冷ややかに見つめて、蒼天機関のナンバー2は話を続けた。
「事態がそれだけ切迫していたということよ。一刻の猶予も残されてはいなかったの。覚醒者と呼ばれる超越的な科学技術者集団の力を借りて、神罰計画は順調に遂行されていった。その結果として、十人の人造生命体が誕生した。いや……それは人の姿をした、悪魔的力を宿す十人の怪物だった」
「ちょ、ちょっと待ってください。まさか……もしかして、そんな……」
「流石に、勘付いたようね」
夜生は静かに頷くと、琴美にとって最も衝撃的な一言を放った。
「蒼天機関が造り出した十人の人造生命体。彼らのみで構成された特務部隊・髑髏十字。またの名を天柩の戦士。火門再牙は、そこに所属していた。『アヴァロ』という名のコードネームを与えられて」
後頭部を激しく殴られたかのような衝撃を受け、琴美はただ茫然とするしかなかった。そんな中、はっと思い出す。彼女とエリーチカがマヤの強襲を受けた際に駆け付けてきてくれた、火門再牙の痛々しい姿を。道中で激しい戦闘を切り抜けてきたせいで、その衣服は破れ、あちこちから血が滴っていた。その血の色を、琴美ははっきりと覚えている。
人間のそれとは異なる、鈍く銀色に光る血。神の真似事の下で生み出された、何よりの証。謎の一部が氷解し、思わず琴美は唾を飲み込んだ。
「私は、その時まだ五歳だったから、直接彼らの活躍を見ていたわけじゃない。だけれど、蒼天機関の中でも、彼らの力は極めて抜きん出た力を発揮していたと聞いてるわ。その証拠に、彼らが本格的な活動を開始した二〇二五年以降、都市の犯罪件数は誰が見ても明らかなくらい低下して、治安も大分良くなった……突然すぎて、驚いてる?」
「当然です。だってあの人、そんなことは一言も口にしなかったから」
「己の過去を話したがらない理由も、私には分かるわ。嘗ては救世主と持て囃された髑髏十字も、今じゃ都民から『裏切者』の烙印を押されているから」
「裏切者?」
只ならぬ語句を耳にして、思わず琴美が身を乗り上げる。
「どういうことですか? 街の人達の為に頑張っていたのに、裏切者って……」
やや早口で、琴美は夜生を急かした。不安に満ちたその瞳を見て、夜生は悩み、己の口の軽さを後悔した。果たして、この何も知らない無垢な少女に、真実を口にして良いのかどうか。人の感情が関わってくるケース。冷徹な処理をする役目の多い夜生には、不得手な代物だった。
「私から彼の事を話しておいてこんな事を聞くのもおかしいけど、どうしてそんなに彼の事を気に掛けるの?」
唐突に話題を変えて、夜生は優し気に語り掛けた。
「貴方にとって、彼はただの万屋なんでしょう? 万屋なんて、金に飢えた只の獣よ。貴方を敵から助けたのだって、そうした方が得だからと考えた為かもしれない。依頼人に死なれちゃ、お金が受け取れないからね。そこまで大した存在でもないのよ。万屋なんてのは」
「そんなこと、ありません」
自分でも驚くほどの怒りが、口調に込められていた。
「あの人は、無関係な私の為に、傷つきました。私が一方的に頼み込んだ依頼にも、快く応えてくれて。それに、私がこの街で本当に知りたかった事に気が付くきっかけを与えてくれました」
「それだって、万屋が依頼者に向ける只の営業パフォーマンスかもしれない。そうは考えないの?」
「思いません。火門さんは、私を助けてくれた。あらゆる危険から、私を遠ざけようとしてくれました。彼が私を信じて依頼を受けて下さったのなら、私だって、彼を信じなくちゃならないんです」
万屋に懐疑的な印象を持つ夜生の態度は、この街に住む者なら当たり前の反応だろう。だが、琴美は《外界》からやってきた来訪者だ。彼女からしてみれば、再牙にどんな過去が秘められていようとも、恩人であることに変わりはない。
助けられてばかりの今の状況を、どうにかして変えたかった。彼の過去を知る事で、ほんの少しでも、力になってやれるかもしれない。いや――力になってあげたい。
兎に角、彼の事を知りたかった。好奇心から出た行動ではない。そうすることが、自分の義務であるように琴美は思った。
「教えてください」
琴美は、深々と頭を下げた。
「火門さんに何があったか、教えてください」
「……分かったわ」
諦めたように、夜生が溜息を洩らした。火門がそうであったように、彼女もまた、目の前で痛々しく頭を下げる少女のことを、信頼に値すると判定したのだ。そしてその判定は、間違ってはいない。
「彼らが何故、裏切者と呼ばれるようになったのか……そこに至るまでの原因は色々ある。私が知っている範囲で、話してあげるわ」
夜生は実に慎重に、一つ一つ言葉を選んで語り始めた。
「さっきも話したように、髑髏十字の活躍で、この街の治安は大分マシになった。でも、彼らが表立って大々的に表彰されたり、地位が向上することは無かったみたい」
「どうしてですか?」
「結局は、汚れ仕事が殆どだったのよ。指名手配犯の暗殺は勿論、犯罪シンジケートへの破壊工作の他に、蒼天機関内部に潜入した敵組織のスパイの炙り出しはもちろん、必要なら監禁やら誘拐やらもやって……あとは、そうね。当時は機関も一枚岩ではなかったから、内部の揉め事を処理するのに、上層部に敵対する人物の暗殺業務なんかも行ってたみたい。彼らの手は、他の機関員達の数倍も、血で汚れていたの」
加えて、彼らが人造生命体であったことが一番影響していたのではないかと、夜生は付け加えた。
人造生命体の位置づけは、アンドロイドと殆ど変わらない。彼らは被造物であり、造物主たる人間と同等の権利を与えられることはない。どれだけ素晴らしい力を持っていたとしても、生物としての格は人間より遥かに劣るのだ。
そんな彼らを表彰したとあっては、人間の尊厳と沽券に関わると、当時の機関員は判断したのだろう。『人間は人造生命体よりも弱い存在です』と、公の場で認めるようなことをしたとあっては、彼らの面子が立たない。
「髑髏十字の活動期間は凡そ五年間。その五年間の間、彼らの地位は一度も向上しなかった。ずーっと特務部隊っていう括りで一纏めにされて、本部の大隊や各支部の機関員らよりも、機関内での立場は低いままだった。髑髏十字の中には、そう言った現状に不満を抱えて、上層部に意見しようと動く者も現れたって聞いてるわ。でも、それを取りまとめた人がいた。誰だかわかる?」
「……火門さん、ですか?」
琴美の静かな返答を聞いて、夜生は黙って頷いた。
「髑髏十字は、一人一人が完璧に近い群狼のような存在。個人でありながら群れを形成し、隊の規律に従順で、迅速に無駄なく行動を起こす。だから、個々の思考を一つに統一して実行に移す、リーダー的存在を必要としなかった。でも、そんな彼らの中にあって、アヴァロは特別だった。それとなく、メンバーの不満や愚痴や悩みを率先して聞いてあげているうちに、自然と、彼が髑髏十字の精神的支柱となっていったの」
「……」
「彼は、分かっていたのね。自分たちのような『誰かの手で造られた存在』の生き方を。誰かの為に生きる事が、自分の悦びであると、信じて疑わなかった。いや……もしかしたら、自分たちと人間は違う次元の生物なんだと、無意識に思っていたのかもしれない」
「……」
「でも皮肉な事に、アヴァロがどれだけ頑張って仲間たちの不満を押さえつけていても、出る杭は打たれるもの。やがて、蒼天機関の中に、彼らの活躍を妬む者達が現れるようになった。それだけ、都民たちの髑髏十字へ向ける羨望の眼差しには、並々ならないものがあった。文字通り、希望の象徴だったのよ」
「……大人でも、嫉妬はするんですね」
十五歳の素朴な言葉を聞いて、夜生がふっと笑った。
「そりゃあ、人間だもの。それも同じ組織に属している者となれば、尚更気に食わないものよ。自分達だって頑張っているのに、その努力を軽々と超えてしまう存在が近くにいるとなると、心にくるものがあるの。最初は頼りがいがあるかもしれないけど、それが何年も続いたら、流石に嫉妬の一つや二つ、覚えるものよ」
「それで、どうなったんですか?」
「機関内部では、讒言の嵐が巻き起こったようね」
「讒言?」
「つまり、彼らの評判を貶める為に、ありもしない話をでっちあげる人達が沢山出てきたってこと。機関の上層部や、機関を直轄している最高枢密院の枢機卿達にそれらを報告して、彼らの社会的評判を落とそうと企んだのよ。ある程度は効果があったみたいだけれど、それでも真剣に取り合う人なんて、当時は片手で数える程度しかいなかったらしいわ」
「なんだか、凄くギスギスした関係ですね。どっちも街の為に頑張っているのに、互いの動きを牽制し合うだなんて」
「そうね。でもそんな状況でも、何とか髑髏十字は上手くやっていけてたのよ。不満はあったんだろうけど、それでも、彼らは本当に懸命に働いたと聞いてるわ。少しでも街の治安を良くして、都民が安全に暮らせるように頑張ったのね」
そこで一旦言葉を区切ると、夜生は声のトーンを一段落として続けた。
「ところで獅子原さん。ちょっと話は変わるけど、亜生物工学って言葉は、聞いたことがある?」
「いえ……」
「簡単に言えば、クローン技術の事よ。彼ら髑髏十字の人造生命体は、この技術の下に生み出されたの。人間の受精卵を元にしてね。で、さっきも話した通り、神罰計画の目的は『最高の戦士』を造り出す事だった」
それはつまり、生まれながらにして、一般常識や戦闘に関するあらゆる知識を獲得した生命体を生み出す事を意味している。
「あらゆる知識を生まれながらに備えるなんて、そんなこと可能なんですか?」
「可能よ。それなりの代償を支払えばの話だけど」
不吉な物言いに、思わず琴美は押し黙った。これから先、彼女がどんな話をしても、暗く陰惨な結末しか待っていないのが、目に見えて分かった。
「人が何かを思考する際、脳の神経細胞には微弱な電流が発生しているんだけれど、蒼天機関の覚醒者らはこれを応用して、フラスコの中の人造生命体に、思考力と知識を植え付けるようにしたの。何億種類もの電位パターンを生み出して、それを外部入力機器を通じて、只ひたすら打ち込んで学習させていく。そして、知識を植え付ければ植え付ける程、必要になってくるのが膨大なエネルギー供給。大量のエネルギー供給を続けると、細胞は肥大化して分裂を繰り返す。何回も、何回も……そうして、全ての作業が終了した頃には、既に完成していた。あらゆる戦闘技術と知識と思考力を宿した、ゼロ歳児の大人の姿をした、最高の戦士がね」
「大人の姿をした、ゼロ歳児……」
思い出すのは、千代田区の地下シェルターでの出来事。捜索屋が何気なく放った、あの一言だった。
火門再牙があの顔で十五歳であることが信じられない……捜索屋が確かにそう言っていたのを思い出すと同時、その謎が解けていくのを琴美は実感した。生まれた時点で既に大人だったのなら、年齢と顔つきが一致しないのも、辻褄が合う。
「でも、最高の戦士として生み出された彼らには、致命的な『欠陥』があった。開発に携わった覚醒者や当時の上層部は、その事実をずっとひた隠しにしていた訳だけれど、何かの拍子で『それ』が発覚してしまった。それが、全ての始まりだった」
「一体、何だったんですか?」
「テロメアが関わっているわ」
また聞き慣れない単語が出てきて、琴美は首を傾げてしまう。
「テロメアっていうのは、人間の細胞が分裂できる回数を決めている器官のことよ。俗に『命の回数券』なんても呼ばれていたりもする。人間だけじゃない。あらゆる生命体にはこのテロメアっていうのが存在していて、細胞の分裂出来る回数があらかじめ決められているの。そして細胞は、テロメアが定めた分裂回数に到達すると、細胞周期が停止してしまう。そうなったら、後は細胞が老化してくのを待つのみとなり、やがて死に至る」
髑髏十字は、大人として生まれてくる必要があった。細胞分裂をある程度繰り返し、テロメアを――命の回数券を大幅に消費した状態で。
これらの事実から導き出される答えを、琴美は強く予感し、同時に総毛立った。
例え難い切迫感が、背後からひたひたと近づいてくる感覚があった。自然と、体が硬直してしまう。次に夜生が口にする言葉は、きっと最悪以外の何物でもない。しかしながら、ここまで話を聞いてしまった以上、現実から逃げ出す訳にはいかなかった。
何も口にせず、唇を固く結んで俯いてしまった十五歳の少女を前に、真相を告げるべきかどうか、夜生はまたしても悩んだ。だがしかし、ここで己が逃げたり、話の筋を誤魔化してしまう事は、琴美の覚悟を侮辱するにも等しい行為だ。その事に気が付いたからこそ、彼女は屹然として答えた。
「彼らの寿命は、持って二十年が良いところだった」
凍えた沈黙が、場を支配した。二人とも、息を止めているかのように、ただ黙した。耳に届くのは、室内を緩やかに流れる風の音と、外での騒乱が引き起こす振動音のみであった。
二十年……火門再牙ことアヴァロが生み出されたのが十五年前なら、彼はあと、五年しか生きられない。五年。短い。余りにも。
「……ひどい」
俯いたまま声を震わせて、琴美はそれだけを呟いた。顔が髪で隠されているから、夜生の座っている場所からは彼女の顔は伺えない。だが、どんな感情を抱いてそれを口にしたかは、痛いほど分かる。
「この事を知ったのが、彼らが蒼天機関を裏切るトリガーとなったと言われている。事実を知っているのは、私と機関長の他に、全工学開発局の総研究長を務めている白神博士を含めた三人だけ……」
白い壁を見つめながら、夜生は全てを吐き出すように、一息に続けた。
「自分達の寿命がたったの二十年ぽっちだと知った髑髏十字のメンバーらは、それまで溜め込んでいた蒼天機関への不満や不信感、やり場のない怒りを爆発させるかのように、機関を相手に派手に暴れた。さながら、戦争だったみたいよ。この統合司令本部も、相当な被害を受けたみたい。彼らは、類稀なジェネレーター能力を駆使して、徹底して同胞たちを殺し続けた。でも、最終的には数に押し切られる形になって、結果として十人のうち、八人が殺された。残る二人は機関の猛追を逃げ切って、行方知れずとなった。機関は、自分達の面子を保つ為に事件の真相を隠蔽し、一連の騒動を『髑髏十字が主導した機関長暗殺未遂事件』として発表したの。その後も、半年間に渡って何度も残党狩りが行われたけれど、結局、残り二人の人造生命体の居場所は掴めなかった。機関は焦ったわ。表向きとは言え、機関長暗殺未遂を企てた大罪人をいつまでも捕まえられないとなると、機関の信頼に関わるから。そこで、機関は適当な死刑囚を二名選んで、彼らを逃げ出した人造生命体そっくりに整形して替え玉を造り、彼らを公開処刑した。これで、事件は終結。英雄として讃えられていた髑髏十字は一転して、幻幽都市一番の大悪党として、汚名を被る事になった。それが、今から十年前の話。彼らが、五歳の頃の出来事よ」
「……」
「逃亡した二名のうち、一人はアヴァロ……貴方が『火門再牙』と呼んでいる人物。そして、もう一人がバジュラと名乗る女。アヴァロがさっきまで対峙していた女が、それよ。彼女こそが、今回の都市騒乱計画を主導している黒幕。次元操作能力を宿した、最狂のジェネレータ―なの」




