8-1 再牙の謎
琴美は暗闇の中にいた。辺りには誰もいなかった。夜目の効かない中、手探りで恐る恐る歩き始めた。しばらくすると、周囲の暗がりはそのままに、声が聞こえてきた。
『ねぇ、もう一度考え直してはくれないの? まだ他にも手はあるはずよ……何より、琴美にどう説明しろっていうのよ。あの子に、寂しい思いをさせることになるわ』
『すまない。分かってくれ。琴美のことは……勿論大事だ。でも、僕にとっては、君も大事なんだ。君を救うには、これしか方法がないんだ。頼む。行かせてくれ。幻幽都市に』
父と母の声だ。会話の中身について考えるよりも先に、動いた。琴美は必死になって辺りに視線を向けた。だが、耳に届いてくるのは声だけ。姿かたちは、どこにもない。
琴美の小さな背中に、重圧がのし掛かる。潰されそうになる少女の背中。涙が溢れて止まらなかった。必死に喉を鳴らして父と母の名前を叫んだ。
どうしてこんな事になってしまったのか。なぜ、父は私を捨てたのか。父は、本当に私を愛していたのか。孤独の湖から溢れ出る飢えた問いかけに、答えを掲示してくれる者はいなかった。
「私は知らなきゃいけない……父の事を。母と私を捨てた訳を」
琴美は歩くのをやめ、暗闇の中に腰を下ろした。自分が、酷く惨めに思えた。身体の震えが止まらず、奥歯をガタガタと震わせた。何に怯えているのかは、漠然としていたが分かっていた。自分にまつわるあらゆる事柄が、霞かかったように不透明でいるせいだ。
正しく生きてきたはずなのに、世界が見返りを与えてくれないことに、言いようのない恐怖感を覚えた。どうしてこんな目に自分が遭っているのか。考えれば考える程、琴美の脳内に警告音が鳴り響いた。
何故、母は死ななければいけなかったのか。何故、父は死ななければならなかったのか。何故、エリーチカが傷つかなければいけないのか。何故、何故、何故――都市の悪徳は十五の少女の心を蝕み、その華奢な体躯が背負うには厳しすぎる現実を、容赦なく突きつけてきた。
琴美の背後で、何かが激しい音を立てて迫ってきている。振り返ると同時、少女の全身に炎の波が襲い掛かってきた。喜びも、哀しみも、憎しみも、理不尽も、何もかもを飲み込んで消し去ってしまおうという、強烈な無力感に満ちた炎が。
熱いとか、苦しいとか、そんな感覚はとうに超えていた。大蛇のごとくうねる炎熱が、少女が持ちうる何もかもを焼き尽くしていった。理不尽で、無慈悲に満ちた理の火炎。世界は、少女に何も教えず、何も示さず、何の真相もくれてやらないままに、彼女の命を絶つ気でいる。
立ちはだかる運命をぶち破るように、琴美は無心で叫んだ。それは限界を超えた、命の叫びだった。
「私は、知りたいだけなのッ!」
まさしくその瞬間、琴美は眼を覚ました。
初めに感じたのは、背中にかかる柔らかな感触だった。なんとはなしに、天井を見つめる。MED照明の白い光が覚醒したばかりの眼には眩しく、琴美は思わず顔をしかめた。
気怠さを覚えながらも、瞼を瞬かせて体を動かそうとするが、全身の筋肉を長時間に渡って酷使し続けたせいだろう。腕や足に痛みが奔り、反射的に顔をしかめた。刺激のある薬品の匂い。そこで琴美は、自分が清潔な白いベッドに寝かされているのだということを、はじめて認識した。
首をなんとか動かして周囲を確認しようとしたその時、ベッドのすぐ近くに誰かの気配を感じ、思わず身を固くした。
「よかった。目が覚めたのね」
声のした方を向くと、ベッドの脇に置かれた丸椅子に、一人の女性が座っていた。女性は、紅白刺繍の施された特注の警邏服に身を包み、長い黒髪を後ろで一つに纏めていた。すぐ近くの壁には、彼女の持ち物と思しき日本刀が、鞘に収まって立てかけられていた。
整った顔立ちの女だった。目覚めたばかりの琴美へ向けて笑顔を浮かべてはいるが、その表情の奥には、怜悧な印象が見え隠れしていた。
しかし、その鋭い殺気にも似たような印象が、自分へ向けられているものではないと、琴美はおぼろげに察した。急に話しかけられたことには驚いたが、少なくとも悪意ある人物のようには見えなかった。
「ここ、どこですか?」
「蒼天機関の統合司令本部の地下二階にある医療施設。心配ないわよ。ここなら、とりあえずは安全だから」
言われて、琴美は痛む身体をゆっくりと起こし、部屋の中を見回した。白一色の壁を覆いつくように立てられた薬品棚に、カルテの山。部屋の中央には、検査治療用の球形型型医療カプセルが置かれている。
空気清浄機らしきものは見当たらないというのに、どういう訳か、部屋には潤いに満ちた風が緩やかに流れている。心地よい風の手が、そっと琴美の頬を労わる様に撫でていった。
「体のほうは大丈夫?」
「ちょっとまだ、痛みが……」
「残る感じかしら。でも我慢してね。コイツを使い過ぎると、逆に自然治癒力が低下する。貴方のような『普通の』人間には負荷がかかりすぎる代物なの。本来はジェネレーター専用の恢復装置なんだけど、私が白神博士にお願いして、今回特別に使用を許可されたってわけ」
女は椅子から立ち上がると医療カプセルの傍に近寄り、緩やかな局面を描く外装をコツコツと叩いて言った。その音が、琴美のぼんやりとしていた琴美の記憶を呼び覚まし、同時に、少女は人目もはばからず叫んでいた。
「火門さんと、エリーチカさんはッ!?」
「え?」
「あ、あの、私を助けてくれた男の人と、それと、アンドロイドの女の子がいたはずです。二人も、ここに運ばれたんですよねッ!?」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて」
女は、少しの驚きを顔に出しながら、興奮しきった様子の琴美を宥めた。
「とりあえず、あの二人に関しては無事よ」
女は再び椅子に座り、聞き分けのない子供に言い聞かせるように、優しく語り始めた。
「まず、あの男性……彼は出血が酷くて、一時期は危ないところまでいってたんだけど、あなたのお蔭で助かったのよ」
「私の?」
「申し訳ないけど、貴方を保護した機関員から貴方の持ち物を預かって、中身を調べさせてもらったの。そしたら、超特攻のナノカンが見つかってね。緊急を要する事態だったから、使わせてもらったわ。今はあらかた治療も終わって、安静状態に入ってるわ」
「そう……ですか。秋葉原で買ったあのナノカンが……そうですか」
「で、あのアンドロイドの方なんだけどね」
「はい……」
「ボディパーツがどこもひどく損傷していて、正直修理が効かないの。でも安心して。人工魂魄の発生源が収納されている頭部だけは殆ど無傷だったから。替えのパーツを用意すれば、直ぐに動くと思う」
「……」
琴美は俯き、押し黙った。自分を守ろうとして甚大な傷を負った二人へ、心の中で謝罪と感謝の意を示した。そうして、静かに泣いた。意識したわけではないが、自然と涙が溢れてきた。
頬を伝う涙は止められなかったし、止めてはならないように思えた。無力な自分を守護し続けた彼らへの、無言の敬意がそこにはあった。そうして一通り涙を流し終えた後、琴美は顔を上げ、赤く腫れた目で女を見つめた。真一文字に固く結んでいた唇を、ゆっくりと開き、噛み締めるようにして言った。
「有難うございます。二人を、助けてくれて」
「都市の治安を守る者として、当然の責務を果たしただけよ。とはいっても、私は報告を受けただけなんだけど。貴方に用があったから、目が覚めるのを待っていたの。ああ、挨拶が遅れたわね。私は夜生真理緒。蒼天機関の副機関長を務めてるわ」
「あ、私、獅子原琴美です……あのそれで、用って……何ですか?」
「貴方、あの男とは、どういう関係なの?」
夜生は微笑み、しかしその瞳は笑っていなかった。深海の皆底に潜り込み、何かを引き上げようとする魂胆が垣間見られた。
「あの人は万屋です。私はあの人に、依頼をお願いしていたんです」
暫く考えてから、琴美は口を割った。だが、彼女の答えが意にそぐわなかったのか。夜生はイマイチ納得のいかない表情をした。
「それだけ?」
「はい。本当に、それだけです」
「……」
「あの……」
「じゃあ、質問を変えるわ。その万屋……ええと、名前は確か、火門再牙で良かったわよね?」
「ご存じなんですか?」
「彼をここに運んだ時、念のために持ち物を調べさせて貰ったのよ。それで知ったの。彼の名前を。現場にいた私の部下からの報告によると、彼は次元の門から現れた女と、なにやら言い争いをしていたみたいだけど、その女に心当たりがあったりはする?」
「女……」
琴美の脳裏に、気を失う寸前の光景が蘇る。妖艶な衣装を纏い、陶然とした笑みを浮かべながら、辺りを血の海に染め上げた凶魔の怪女。思い出すだけで背骨に氷水を流されたような錯覚を覚えこそすれ、見覚えなんて無かった。
「すみません。私にはよく、分かりません」
琴美は、この街に来てまだ数日しか経っていない。にも関わらず、理解の範疇を超える出来事を一度に数多く経験する羽目になっている。半ば状況に流されるまま、ここまで至ってきたと言って良かった。今は、夜生の質問に答えるので精一杯なのだ。あの絶大な力を宿した女が、この都市にとって一体どういう存在なのかという点について、推測する余裕を持ち合わせてはいない。
「そう……」
夜生は明らかに肩を落とすと、「時間を取らせて悪かったわね」と言い残し、その場を後にしようとした。さっきまでとはまるで別人のような、諦めを漂わせたその姿が、琴美には何だか痛々しく思えてしまった。
「火門さんが、どうかしたんでしょうか」
ドアに手をかけようとしていた夜生の動きが止まる。彼女は、ゆっくりと振り向いた。視線の先には、眉根を下げて心配そうにこちらを見つめる、傷を負った一人の少女。
さて、どうしたものか。
「……念を押す様で悪いんだけど、その万屋は確かに、貴方に対して『火門再牙』と名乗ったのね?」
真剣な表情で夜生は尋ねた。琴美には、質問の意図が理解できなかった。その問いかけにどんな意味があるのか。何を確かめようとしているのか。濃い霧が立ち込める森へ迷い込んだかのように、見通しが悪い質問に聴こえた。
ただ、この後で彼女が口にするであろう科白が、これまでの己の人生観を全て塗り替えてしまいそうな予感がした。確証はない。本当に何となく、そんな気配がしただけだった。
「一体、何をお聞きになりたいんですか?」
「そうね、順序立てて話しましょうか。貴方だったら、口を割る事もなさそうだし。少しくらい話しても、大丈夫でしょう」
夜生は再び椅子に腰かけ、琴美と向き合う形になった。今は地上がとんでもない状態になってはいるが、住民の地下シェルターへの避難は一定値を超えているし、軍鬼兵の進撃も、収まりつつある。機関長である大嶽左龍が采配を振るっている限り、現状がいきなり覆されるなんて可能性は殆ど無いだろう。昔話を聞かせてあげる程度の時間は、あるはずだ。
「結論から言うと、火門再牙と言う名前の人は、この都市に存在していない。いえ……この世に生まれた時から、そういう名前で生活してきた人間はいないと言った方が、正しいかしら」




