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アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第七幕 魔血の贄/邪神降臨
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7-10 邪神降臨/Xivalver

 最初にやることは、理解する事だった。幻幽都市を支配する、四つの力について。


 都市の世間一般で四源(よげん)と称されるその力は、幻幽都市の柱であると同時、都市が生きるのに必要な手足でもあった。都市の息吹を感じるには、その未知なる力の本質的理解が必須だった。


 この異形渦巻く大都市で生み出される全ての産物と現象は、一つの例外もなく、四源(よげん)に集約される。誰が決めた訳でもない。都市が誕生した時点で、すでにそれは存在し、正しく定義されていた。


 人々の心の裏側に、静かに根を張る偉大な概念(グレート・コンセプト)

 即ち、《自在》、《工量》、《霊顕》、《偽獣》の四つ。


 自己の内面性を、具体的な現象として放出するジェネレーターの存在は《自在》に分類され、超現実仮想空間(ネオ・ヴァーチャルスペース)のように、純然たる科学技術により生み出された道具や兵器は《工量》に当たる。


 標準状態で非物質の形態をとり、意識や霊的存在に近く、あるいはそのものでもある死魂霊(マーラー)人工魂魄(ノウアスフィア)は《霊顕》として知られ、進化の正常異常を問わず、人にあらず、人よりも高い力を備えた怪物らは《偽獣》にあたる。


 彼は、この四つの力を理解し、更にその奥を探った。何が四源を四源たらしめているのか。その根はどこに繋がっているのか。彼は突き止め、秘匿された情報を解明した。幻幽都市が成立するよりもずっと以前に――まだ、東京都という一大都市が生まれるよりもずっと以前に、秘密を開ける鍵は存在していた。


 その昔、東国にて自らを『新皇』と称し、中央に対して反逆の限りを尽くした悪路の武士(もののふ)がいた。彼の者が討たれてから幾百年後、その荒ぶる御霊を封じ込めるばかりでなく、強固な結界の核として利用しようとした、一人の天下人がいた。


 その男は、新皇の首塚を守護するように、陰陽の規則に沿って次々と寺社を建立し、世界有数の百万人都市であった江戸を、あらゆる厄災から遠ざけようとした。時の経過と共に力が弱まるたびに、多くの僧坊や陰陽師、修験者らが力を合わせ、結界を修復し、より盤石な破魔の砦として改良してきた。


 新皇の御霊を核として寺社同士の持つ力が緻密に絡み合い、相互作用を及ぼし合い、都市の大地を覆う不可視の大結界。それを深仙脈(レイライン)と呼ぶようになったのは、幻幽都市が誕生してから直ぐの事である。


 大禍災(デザストル)が寺社の大部分を倒壊せしめたが、それでもなお、深仙脈(レイライン)の強大な力は残り続けた。数百年の長い時を経て、既に都市の一部と化していた結界が、あの大災害の影響を受けて、完全に都市と融合を果たしたのだ。


 もし、この結界が破れたらどうなるか――答えは明白である。


 怨霊悪鬼と化した新皇の御霊が暴虐の限りを尽くし、四源(よげん)のバランスが崩れる。その影響を受け、有害獣(ダスタニア)やベヒイモス達の殺戮本能が臨界点を迎え、突発的な行動に出るだろう。


 しかし、それでは物足りない。茜屋罪九郎は考え、生み出した。


 主だった研究員を次元の門で《外界》へ脱出させ、誰もいなくなった地下の巨大な研究室。仄暗く広大な部屋の中央にあつらえた、融合璃鉱物(アマノイロカネ)製の巨大なフラスコを眺め、罪九郎は命の鼓動を高めた。


 フラスコの中には、虹色に輝く球体が、ぷかぷかと浮かんでいる。それは、見ようによっては七色に輝く巨大なビー玉にも見えたが、しかしふとした時に目にすると、天文学的なエネルギーが込められているのが分かる。


 深仙脈(レイライン)を崩すだけでは、面白くない。何時の時代も、研究は画期的でなければならない。それが罪九郎の持論であった。


 そして、至った。怨霊を召喚するのではなく、怨霊を変質させる。神をも冒涜せんとするその恐ろしき企みに必要な駒が、《殺戮遊戯(グロテスク)》だった。


 六体の駒。六体の人造生命体(ホムンクルス)。六体の贄――三年の間、罪九郎は手塩にかけて彼らを育てた。愛情の代わりに、血と硝煙の匂いをとことん与えた。必要なのは彼らの力であり、彼らを贄として捧げる事であった。


 幻幽都市は生命体である。罪九郎は己が立てた仮設の下で、計画を実行に移した。六体の魔を都市に放ち、徹底して殺戮を行わせる。絶望を抱いて殺されていった人々の無念が都市を蝕み、六体の駒全てが死に絶えて、邪神は息を吹き返す。


 全てに意味があった。軍鬼兵(テスカトル)を都市へ大量投入したのも、人々を、都市を絶望へ叩き込むためだ。都市中に満ちた負のエネルギーを深仙脈(レイライン)に叩き込むには、人造生命体(ホムンクルス)の血が必要だった。彼らに刻まれた名は全て、太古の邪神の眷属から拝借したものだ。


 血を流す順番も、固く決められていた。最後に贄として捧げられるのは、マヤ・ツォルキン自身でなくてはならなかった。


 ツォルキン――古代マヤ語で『暦』を意味する名だ。贄に捧げるということはつまり、その者自身の力を真に開放するということだ。他の五人を先に死なせて、その力を邪神へ返上した後、マヤを贄に捧げる。これにより、深仙脈(レイライン)を流れる結界力の暦、つまりは『力の時』を乱し、結界の力を歪ませた。


 いまや、深仙脈(レイライン)は瓦解寸前のところまでいっている。都市に満ちる絶望が結界を弱まらせているだけでなく、人造生命体(ホムンクルス)を贄に捧げたことで、新皇の御霊すらも、全く別の力に成り変わろうとしている。


 最後のスイッチを押すのは、罪九郎自身だった。


 罪九郎は、獰猛な貌で、全高十メートルの巨大フラスコの真ん前に立った。バジュラ――御台所の《崩天・果てなき絶海獄(ナインスゲート・リヴェリオン)》が生み出した《次元のゆりかご》は虹色の珠となり、壊滅の卵を育み続けている。


 それも、今日で終わりだ。

 そして、ようやく始まるのだ。


 永き巡礼を終えた罪人の如き物憂げな瞳で、虹色の珠を見つめ続けていた罪九郎だったが、ふと思い立ってフラスコから離れ、傍らに置かれた機械仕掛けのベッドチェアに体を預けた。鋭く冷たい感覚が、サイボーグ改造された罪九郎の背中を襲った。


 罪九郎は暫し考え込むと、今度は手すりのボタンを軽くタップした。流れる様に手すりの一部が開き、中からヘッドギア・タイプの超高性能脳波トランスミッターが現れた。罪九郎は、まるで赤子を取り上げる母親のようにそれを手に取り、懐かし気に眺めた。


 罪九郎は、元々は脳科学分野の研究者だった。十一歳の時に、研究者だった父に連れられる形で、一家揃って建都したての幻幽都市に引っ越してきた。そこから、彼の数奇な人生は始まりを告げた。


 中学校へ入学した時、転機が訪れた。入学の際に受けた問診と知能テストの結果、彼が後天的な《覚醒者(エデンズ)》であることが判明したのだ。


 両親は狂喜乱舞した。多くの親がそうであるように、罪九郎の両親もまた、頭の良さが社会的成功に直結する重要な要素であると、盲信していた。両親は直ぐに中学校を中退させると、、優秀な子が集まる専門の学習施設へ、自慢の息子を送り込んだ。


 そこで、罪九郎はめきめきと頭角を露わにしていった。本来なら卒業年数が六年掛かるところを、たった三年で卒業すると、今度は都市の最高学府たる統一専科大学へ飛び級で入学し、脳科学分野を専攻した。それが、十六歳の時であった。


 統一専科大学に入学して一年後の冬の日。彼の両親が惨殺体となって発見された。全身がバラバラに切り刻まれ、特に大脳部は酷い損傷を受けていた。発見場所は、実家のリビングで、第一発見者は、たまたま訪問してきた父方の叔母夫婦だった。罪九郎も当然、蒼天機関(ガルディアン)の取り調べを受けたが、明確なアリバイがあった為に、直ぐに容疑者リストから外れた。


 彼がまだ十八歳未満であったことから、身元は港区に住んでいた叔母夫婦が引き取る事になった。


 その一年後、今度は叔母夫婦が行方不明となった。失踪する動機も見当たらす、現場の状況から事件性がないと判断され、迷宮入りとなった。


 失踪事件の直後、彼は蒼天機関(ガルディアン)が出資元の民間企業の研究部門に入局し、学会に論文を投稿した。大脳神経分野の異常活性化を促すマイクロマシンの開発と運用に関わる論文だった。それがきっかけとなり、機能片(フラグメント)が開発され、爆発的に広がっていった。


 それから半年後、彼は専攻分野を血液医学に鞍替えし、そこでも画期的な研究を行った。一切の拒絶反応を起こさない完璧な人工血液が開発されたのは、それから一年余り後の事だった。


 医学界において、茜屋罪九郎は一躍時の人となった。二十歳にも満たない、稀代の天才科学者としてもてはやされ、マスコミ共はこぞって彼へのインタビューを行った。中には研究者という職業を理解しない無礼な質問もあったが、罪九郎は特に怒る事もせず、どんな質問に対しても丁寧に答えた。研究に対する真摯な彼の態度は、多くの研究者に良い影響を与えた。


 しかし、それでも――数々の栄光を受け、周囲から数多の喝采を浴びてもなお、罪九郎の心は満たされなかった。彼の心に棲む、尋常ならざる功名心の怪物は、より多くの羨望と賛辞を漁り続けた。 


 もっと褒められたい。まだまだ褒められ足りない。際限なく湧き続ける承認欲求に突き動かされ、罪九郎は寝る間を惜しんで研究に励み、年に数十本は論文を科学雑誌に投稿した。その度に、称賛を浴びた。飽き足らず、また別の研究を始め、論文を執筆した。そしてまた、称賛を受けた。


 研究、投稿、称賛……高速に循環し続ける彼の研究生活は、しかしどれだけ多くの人々からの喝采に包まれようとも、華やぐことは決して無かった。罪九郎の心に虹は架からず、いつまでも灰色の景色に支配されていた。


 もっとだ。もっと寄越せ。お前たちの賛辞を、もっとワシに浴びせろ――無限に増殖を続ける『認められたい』という欲求は、いつしか彼の精神をドス黒く塗り潰し、悪循環(スパイラル)へ陥らせていった。


 より多くの『良き声』を訊きたいと願い続けた結果、罪九郎の中で『何か』が壊れ、逆説的な負の感情が芽生え、無限の問いかけを生み出した。


 どうして(・・・・)誰もワシを(・・・・・)評価してくれ(・・・・・・)ないのだ(・・・・)


 日夜、血反吐を吐く思いで研究に没頭しているというのに。何故、もっと多くの賛辞を与えてくれないのだ。おかしい。こんな社会はおかしい。ワシを認めようとしない幻幽都市は、致命的な欠落を抱えてしまっている。


 崇めろ。

 ワシを、崇めろ。

 この愚衆どもが。何をもたもたしている。

 どこまでも、どこまでも、ワシを高みへ押し上げろ。

 ワシを、もっと評価しろ。


 彼に良き感情を持ってくる者、悪い感情を抱いてけなしてくる者。両方分け隔てなく憎らしかった。自分の功績を心の底から認めようとしない、唾棄すべき存在だと錯覚し、その錯覚は罪九郎の精神を奈落の底へ叩き付け、あらゆる価値観を一変させた。


 そうして、心の檻に閉ざされていた怪物が産声を上げた時、既に罪九郎は医学界から姿を消していた。それが、今から八年前の話になる。


 表舞台に見切りをつけてから数ヶ月と経たず、彼は運命的な出会いを果たす。その謎めいた女は、自身の身分をぼやかした代わりに、幻幽都市への明確な憎悪と怨讐を曝け出してきた。共感できる部分があった。協力体制を結んだのは、ごく自然な流れだった。


 罪九郎は、これまでの人生を思い出し終わると、笑みを零した。誰に向けるものでもない、悪意極まる笑顔であった。


 今日、この日を迎えるのに多くの苦労を重ねてきた。金銭的な援助を《外界》の人間から受けたはいいが、『神の召喚』へ至る道は険しく、辛酸を舐める事もしばしばあった。時に己をも凌ぐ才能と出会い、時に手ひどい裏切りにあった。そのどれもが、今となっては良き思い出であり、恨みを募らせた日々でもあり、どうでも良い些細な事に過ぎなかった。


 これで終わりだ。

 今、自分は人間という殻を捨てる。

 捨てて、神と同化する。

 それが、茜屋罪九郎の二十八年に及ぶ人生の結晶。

 最大最高の研究成果(・・・・)


 誰も自分を認めてくれぬのなら。

 誰も、自分に眼を向けてくれないのなら。

 成ってしまえば良い。

 己こそを、研究素体に。


「はじめよう」


 ヘッドギアの重みを感じながら、ゆっくりと頭へ被せて、罪九郎は完全にベッドチェアに体を預けた。預けるのは自身の体ではなく、その意識、その魂もだ。文字通り、彼自身の全てが今、このヘッドギアに委ねられている。


 『神の召喚』に必要な最後の鍵。罪九郎自身が抱く、行き場の無い憎しみがそれだ。罪九郎自身の意識を、虹色の珠――神の核と融合させることで新皇の御霊は変異を遂げ、Xivalverは覚醒する。


 罪九郎は息をゆっくりと吐き出すと、再びベッドチェアの手すりを撫でて開き、今となっては珍しい、物理キーボードを取り出した。


 ベッドチェア自体が巨大なコンピュータであり、意識移行のプログラムがあらかじめ組み込まれている。後は行動認証のコードを打ち込めば良かった。慣れた手つきでキーを叩き。十秒と掛からず予備準備が完了し、力強く、エンターキーを叩き込んだ。


 途端、全身から力が抜け落ち、ヘッドギアが稼働音を鳴らした。蚊の鳴き声にも似た微音が、広大な研究室にやけに大きく響いた。無線を通じてヘッドギアからフラスコ内部へ信号が飛び、次いで、虹色の珠が莫大な光に包み込まれた。


『未知』を意味する《X》を冠する邪神が暮らすには、都市の闇は、まだ浅かった。





△▼△▼△▼





「機関長、ビンゴです」


 王皇ノ柱塔(ギガストス・バベル)の地下一階。オペレーションルームを統率する大嶽左龍(おおたけ さりゅう)の元に、一人の機関員が息せき切って駆け寄ってきた。手に持っていた電子ペーハーを渡すと、興奮しているのか、早口で調査結果を報告した。


蒼天機関(うち)が出資していた民間企業の研究部門に、機関長の仰っていた経歴に該当する人物を見つけました」


 電子ペーパーの表面を軽く指でなぞると、記録が映像データとして現れた。左龍は真剣な目つきで、隅から隅までデータを黙読した。彼の目の動きからは、ほんの少しの不可解ささえ見逃さないという、鉄壁の意志が感じられた。


「この男か」


「はい。名前は茜屋罪九郎。今も存命なら、年齢は二十八。十八歳の時に株式会社大帝臓器の研究部門に所属しており、脳科学の高次認識領域に関する研究を行っていたようです」


「名前だけなら聞いたことがある。たしか、機能片(フラグメント)の理論構築と、人工血液製造に必要な遺伝子因子を特定した科学者だ」


「仰る通りです。しかし、八年前に突然会社を辞め、その後は行方不明となっています」


「この男以外に、怪しい経歴を持っている者は?」


蒼天機関(うち)が関わっている民間企業、並びに研究所に勤務していた経歴を持つ覚醒者(エデンズ)は、二十四名おりました。そのうち、二十三名の死亡記録が、既に確認済です」


「偽装の可能性は?」


「あり得ないと判断できます。ヴェーダ・システムの厳正なチェックを、全てクリアしている記録ですから」


「……宜しい。御苦労だった」


 左龍は機関員に下がるように命じると、顎に手を当てて、暫し考えた。軍鬼兵(テスカトル)達に施されている超高再生(リニア・リジェネ)は、生体医学に関わる分野の最先端研究。脳医学を始め、あらゆる医学分野を渡り歩いているのが、電子ペーパーから読み取れた。可能性は十分にある。加えて、電脳部隊の報告にあった敵アジトと思しき場所のデータもある。


 反撃の狼煙を上げる準備は、全て整った。左龍は一人頷くと、指揮台の手すりに手をかけて握り込むと、今夜一番の大声を張り上げようとした。


 まさに、その瞬間であった。


 初めに、視界が激しくぶれた。次いで、足元が床から離れた。バランスを崩して指揮台から落ちそうになったが、慌てて手すりを掴む手に力を込め、事なきを得た。体勢を崩した状態で視線を資料棚へ向けると、棚が次々に倒れ、大量のファイルホルダーが床に投げ出された。それらすべての出来事が数秒以内に起こり、遅れて、地震が来たのだと悟った。


 天は気まぐれだと、人は言う。

 だが、あまりにも――


「総員、落ち着けッ! 各自持ち場から離れるなッ!」


 混乱の渦に陥るオペレーターへ檄を飛ばす左龍。こういった非常時に取るべき行動を普段から叩き込まれているのか、オペレーター達の混乱は、地鳴りが鳴り止むのに合わせて収束していった。


 だが、落ち着きが完全に取り戻されたかというと、違った。オペレーター達は左龍の指示を乞うこともせず、全員が、一番大きな中央のモニター画面に視線を注いでいた。ある者は、奇異な目つきで。またある者は、完全に放心しきった様子で。誰もが息をするのを忘れ、磔にされたかのように、微動だに出来なかった。


「なんだ、あれは……」


 普段は冷静沈着な左龍も、この時ばかりは眼を見開き、か細い声を漏らすに留まった。モニターには、先ほどまで戦火に包まれていた都市が映っていたはずなのだが、今は、全く別の『何か』が、そこにあった。


 眩い輝きを放つ、虹色の珠が目に入った。視線を動かすと、珠の直ぐ下に白一色の途方も無き大木が生えていた。今度は視線を上へ動かす。珠の直ぐ上に、一転して暗黒を思わせる、超弩級の竜巻が渦を巻いていた。


 誰も、何も言えなかった。ただ、画面越しににも、その感じたくもない感情を、ここにいる全員が確かに知覚できた。


 悪意だった。安寧を拒み、安寧を良しとする全ての知的生命体を抹殺せんとする、純粋で、健気で、絶対不犯の殺意があった。オペレーターの何人かが、その圧倒的な殺意のプレッシャーに気圧されて、口から泡を吹いて倒れた。機関長たる左龍に、そんな失態は許されない。彼もまた、全身からどっと汗を掻き、精神的圧力を受けながらも、果たして目の前の正体が何なのか、懸命に探り当てようと努力した。


 そして、はっと気が付く。殺意の塊たる、この正体不明の物体が『移動』していることに。注視してみれば分かる事だった。慌てて左龍は、近くで呆然と画面を見つめていたオペレーターに指令を飛ばし、映像の拡大を命じた。


 コマンドを受信した《レギオン》の眼球型カメラが、引き気味に全体を映した瞬間、オペレ―ター全員が、声にならない声を上げた。


 物体は(・・・・)歩いていた(・・・・・)。二足歩行で粉塵を天へ撒き上げ、ゆっくりと歩いていた。あの虹色の珠の下――つまり下半身に生えていた白い大木は、実は大木ではなく巨大な脚であった。さっきはあまりの莫迦でかさに一本、それも一部しか映っていなかったので誤解したが、実際には二本の巨大な脚であったのだ。


 虹色の珠の上部――上半身もまた、黒き竜巻ではなく、超高速で輪廻回転する瘴気であった。それも、死魂霊(マーラー)達が分泌するそれよりも数千倍の濃度に至り、超越亡霊(エンティティー)の軽く五百倍はあろうかという、濃厚な死の気配の回転気流こそが、竜巻の正体に他ならない。


 その頑強で巨大な胴体部は、半径百メートル以内に入った途端に全身が炭化してしまうほどの超高密度瘴気を鎧の如く平然と纏い、その両側から三本ずつ生えた合計六本の暗黒腕で、ビルというビルを押し潰し、薙ぎ倒している。


 上半身と下半身を、一個の虹色の珠で間接的に繋ぎ、強烈な殺意をまき散らして進撃する怪物。いや、怪物などではない。あれは――


「邪神で、ございまするな」


 背後から声がした。左龍が振り返ると、一人の高貴な雰囲気に満ちた老年の僧坊が、深刻げな表情で立っていた。僧坊は、金色の刺繍が為された法親王珠代五条袈裟を堂々と身に着けており、貌に年輪の如く刻まれた深い皺からは、彼のこれまでの苦難の道のりが伺い知れた。


「御坊、あれを知っているのか」


 御坊、と呼ばれたその男。聖欣坊冥塵(せいきんぼう みょうじん)は、ゆっくりと頭を振った。


「あれの正体については、定かではございませなんだ。しかしながら、あれの放つ異質な気は、土着の類ではござりますまい。恐らくは、外法の御業を以て生まれ落ちた、異国の神でございましょうや」


「外法……神下し……鬼神というやつか」


「そのように考えて頂ければ、結構かと」


 親が幼子を諭すような、実に静穏とした口調であった。突如として現れた異貌の邪神を前にしても、泡を吹くことも無ければ、慌てふためくこともしなかった。ただただ、目の前に悠然と立ちはだかる困難を、ありのまま受け止めていた。


 それが、己の身に課せられた運命であるとでも言いたげに。それも全て、彼の内に宿る莫大な《法力》の影響なのか。あるいは、彼自身が培ってきた経験と、その聡明な頭脳でしかと噛み砕いた知識の裏付けからくるものなのか。


「御坊。倒せるか、あれを」


「倒す……とは、また異なりまするな。調伏と滅相。どちらもいまだ、選択のうちにあるかと」


「判然とせんなぁ。その回りくどい口調では、一体どっちなのか見当がつかないぞ」


「弱りました。拙僧も、先ほど拝見したばかりですゆえに。まだ有効な手を考え付いてはおりませぬ。敵を知り、己を知れば百戦危うからずとは言いますが、今はまだ、あの化生の正体が判然と致しませぬからなぁ」


 自信なさげな科白を吐くも、冥塵は続けて、


「しかしながら……拙僧を筆頭に、大僧正位を十二名。僧正位を五十五名。天気輪搭載式重仏装(ぶそう)戦車を百八台。曼荼羅術式展開に必要な最高徳性即身仏を、二十四柱。重機動僧衣の第参番兵装に、金剛杵榴弾、仏舎利誘導弾、昇天迫撃砲を装備させ、阿頼耶識級多重結界を敷く涅槃梵鐘が十二鐘あれば、見込みはあるかと」


「御坊……」


 唖然とする左龍を前に、冥塵は快活に笑った。


「試練は、乗り越えられぬ身に襲い掛からぬとは、いつぞやの先代のお言葉。これもまた、御仏が遣わした試練と受け取るならば、この冥塵、いつでも御霊を天へ返上する覚悟は出来ております」


「頼む」


 軽く目を細めて顎を引いた左龍を前に、冥塵は良く通る声で応えた。


「お任せを。全ては、王の意思に従いまする」

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