7-9 アヴァロとバジュラ、再び
火門再牙は、棒立ちのまま動けなかった。バジュラと呼ばれた女は、切れ長の鋭い瞳で、射抜くように彼の様子を伺い続けている。琴美とエリーチカは、やや離れた所から、二人のやり取りを見守るしかなかった。
「本当に、久しぶりね」
笑みを浮かべず、バジュラはそう口にした。
何と返せば良いか、分からなかった。咄嗟に何かを口にしようとするものの、上手く言葉にならない。再牙は複雑な表情で、同じ釜の飯を食ってきた旧友を見つめ続けた。
言いたい事、聞きたい事は山ほどあった。
あの地獄から、どうやって這い上がってきたのだ。
今まで、どうやって暮らしてきたんだ。
なんで、《ダルヴァザ》なんていう組織を造ったんだ。
お前は――お前は、どうして。
「……どうして、ここが分かった?」
喘ぐ様に発した言葉が、それだった。
バジュラが眉を顰め、その麗しい美顔を崩した。十年振りの再会にしては、やけに似つかわしくない科白だった。軽い失望感を覚えた。すっかり性格が変わってしまった嘗ての戦友に対し、バジュラは、哀れみが込められた瞳を向けた。
「フライング・ロッド」
僅かばかりの嘆息を漏らし、呆れた調子で、何事かの名前を呟いた。
「何?」
聞き返した再牙の目の前を、正体不明の小さい物体が、高速で過ぎ去った。すかさず右手を翻す。親指と人差し指で挟むようにして、それを掴んだ。
細くて白い、棒状の半有機生命体だった。棒の両側にはカーテン状の白く短い羽がついていた。白い謎の棒は、再牙の指から逃れようと、必死に体をくねらせ続ける。こそばゆい感覚が、指先の神経を伝ってきた。
「うちの科学者が造った、最新の映像通信装置よ。細い棒状のシリコン素材に、秒速百二十キロで移動可能なマイクロモーターを取り付けた高性能の小型兵器。作戦決行前に、あらかじめ都市全域にばら撒いておいたの。遠隔監視には、実にうってつけの代物ってわけ」
「科学者……茜屋罪九郎のことか」
「詳しいのね」
「ああ、詳しいよ。ある程度はな……知り合いが教えてくれたんだ。あの薄気味悪い不死身の怪物についても。この馬鹿げた殺戮劇をおっぱじめたのが、ダルヴァザという組織であることも。そこのリーダーが、『御台所』という符丁で呼ばれている事も。それがお前であることも。何もかも」
バジュラは閉口した。再牙は、じっと彼女の瞳を覗き込むように凝視し続けた。彼女の双眸に、己の理解を超えた凄まじい憎悪の感情が宿っているのを、再牙は直ぐに知った。そして、例えようの無い哀しみに襲われた。
再牙はフライング・ロッドを親指と人差し指の腹で押し潰し、捨てた。代わりに腰のホルスターに手を回す。怪物クラスの拳銃・マクシミリアンを片手で構え、物々しい銃口をバジュラへと向ける。
「答えろ」
かちりと、撃鉄を上げた。
「Xivalverとは、一体何だ」
「さぁ、何かしらね」
「なら、質問を変えよう……バジュラ、お前は一体、何がしたいんだ」
言外に様々な意味が込められているのに気が付かない程、バジュラは気の回らない女ではない。逆にあらゆる方面へ気が回りすぎて、考えなくても良い事まで、考え過ぎてしまう癖がある。
その複雑な網目模様のような思考回路が、今の、この状況を造り出した。全ては、彼女自身が招いた結果に過ぎない。彼女の深層心理が生み出した最良の手段が、破壊を望んでいる。今まで誰にも話さずに、心の内に抱えてきた、彼女自身の闇が、この場を支配していた。
「何がしたいか、ですって?」
念を押すように尋ねると、バジュラの口元がきゅーっと歪み、引き攣った嗤いが闇夜に木霊した。
「そんなの決まってるじゃない。因縁を断ち切るのよ。その為に、私は私の正義をぶちかます。十年間、溜め込み続けてきた……部隊にいた頃よりも、多くの辛酸を舐めてきた。本当に、本当に辛かったわ。恥辱と屈辱に塗れた毎日だった。太陽の光は私を照らす事無く、ただ先の見えない暗黒だけが、私の体を包み込んでいた。でも、悲しくは無かった。それどころか一層、私の心は満ち満ちて、今日のこの日が来るのを、ずっと待ち侘びていたの。アヴァロ……貴方にだったら、分かるはずよ。一体私が、何を考えてこんな行動を起こしたのか。直ぐに考えが及ぶ筈だわ」
「……変わったな、お前。十年前とは大違いじゃねぇか」
「変わったんじゃない。理解したのよ。本当の私がどうあるべきか。私はね、追い求め続けていた『正義の在り方』をようやく掴むことが出来たのよ。あとは……」
バジュラは、視線を彼方に向け、暗闇の中で堂々と聳え立つ、嘗ての故郷を睨みつける。
「あの糞の掃き溜めと、糞を喰って生きるこの都市のカス共に、私の正義を叩き付けるだけ」
「バジュラ、お前は……」
「ねぇ、アヴァロ。私と一緒に、来ない?」
唐突な勧誘だった。理由を尋ねる間もなく、アヴァロが陶然とした笑みを浮かべる。
「フライング・ロッドを通じて貴方の姿を見た時、確信したの。これは、過去へ立ち向かおうとする私の意志が引き寄せた運命なんだって。嬉しかった。当然じゃない。十年前、全員死んだと思っていた仲間の一人が生きていたのよ? この時ばかりは、神に感謝せざるを得なかった……悔しいけどね」
「バジュラ」
「アヴァロ。私に力を貸しなさい。その為に、わざわざ人前に姿を晒しに来たのよ? 貴方の力があれば、百人力だわ」
「……バジュラ」
「なぁに? もしかして、気にしているの? 貴方がここまで来るまでの間、あの怪物達を斃し続けた事を」
衝撃的な一言だった。琴美が驚きで眼を見開いた。エリーチカが、思わず再牙の身体へ目を向ける。
既にここへ来た時、再牙の衣服には、激しい戦いの痕があった。その理由がはっきりとした。彼は、立川市から千代田区への移動中、行く手を遮るように立ち塞がった軍鬼兵の軍勢を蹴散らしてきたのだ。
バジュラが、カラカラと嗤い声を上げる。
「気に病んでるの? まさかね。貴方がそんな人じゃないってことは、よーく分かっているからね。まぁ、もし万が一気に病んでいるとするなら、別にいいのよ。あんなのは只の兵隊で、仲間なんかじゃないから」
「バジュラッ!」
「兵隊……いい言葉ね。そう、兵隊よ。あの怪物達も、さっき私が殺した人造生命体も、全部全部、私の手足となって働く奴隷。でも、貴方は違うのよ? アヴァロ。貴方は私の――」
「聞けッ! バジュラッ!」
遂に、大声で叫んだ。勧誘に必死だったバジュラの表情が、途端に曇る。
「なによ突然大声出して。どうしちゃったのよ」
「それはこっちの科白だ……本当にどうしちまったんだ、お前。俺が知るお前は、そんな事を言う奴じゃなかった。俺と違って、決して暴力に溺れるような奴じゃなかった。人を殺すのが性に合わないと、さんざん駄々を捏ねていたじゃないかッ!」
「そうね……そんな甘っちょろい事を言っていた時期もあったわね」
「甘っちょろいだと?」
「そう。甘っちょろくて、センチメンタル」
まるで、己自身に言い聞かせているかのように、ゴメルは呟く。
「過去を乗り越えるには、暴力しかない。血を浴びる事を恐れ続けていたら、何も変わらないまま終わってしまう。アヴァロ。あなた、言っていたわね。『俺達のやっている事は正義なんだ』って……なるほど、一理あるわ。暴力そのものを肯定しているという点だけは同意できる。でも、それだけよ。あの時の貴方の科白、全てが正しい訳じゃない。機関に飼い慣らされていた頃の私達は、正義を標榜する誰かの手で造られた刀に過ぎなかった。それでは意味がない。自分自身の手で正義を掴まなければ、そこに価値は生まれないのよ」
バジュラは自身の胸に手を当て、決然とした態度で、覚悟を口にする。
「私は手に入れたわ。辛抱に辛抱を重ねて、ついに獲得すべき『正義の力』を手に入れたッ! 今は、私が正義。そして、この街が悪よ。下らない使命感に苛まれ、偽りの正義を強要されていたあの頃の私は、もういないの」
「下らない使命感だと?」
再牙の瞳に、怒りの炎が宿った。話し合いは既に、決裂の兆候を見せてきている。
「確かに……あの頃の俺は、明らかにやり過ぎていた。それは認めよう。見境の無い暴力に溺れていたことも、自覚している。だが、それとこれとは話が別だ。あの頃の俺達に与えられていた使命は、下らなくなんかなかったッ! 少なくとも、力無き人々の心の支えには、なっていたはずだ」
「だから、そこに何の価値があるのよ」
「あるさ」
落ち着いて息を吸い、再牙は一息に言った。
「力ある者は、力無き人々の為に、道を綺麗にする義務がある」
再牙の曇りなき瞳が、バジュラを捉えた。意志ある光だった。そんなのは詭弁だと言わんばかりに、バジュラは厳しい目つきで再牙を睨んだ。彼自身の在り様を強く否定するかのように。
二人の間に、静寂が訪れた。十秒。二十秒。無限とも思える短き刻の中で、双方の対立は決定的なものとなった。バジュラが一方的に持ち掛けてきた交渉は決裂し、今はただ、沈黙だけが場を支配していた。
「貴様らッ! そこを動くなッ!」
怒号が轟いたのは、互いに睨み合ってから三十秒程経過したところだった。だが、再牙もバジュラも、尋常ではないくらい殺伐とした気配が周囲に満ち始めたというのに、それでも睨み合いを続けている。
一方で、事の成り行きを見守っていた琴美とエリーチカが、はっとして周囲を見渡し、驚愕した。
何時の間にか四人の周囲を、厳重に武装した数多の機関員が取り囲んでいた。四人の逃げ場を失くすように、挟み撃ちになるように人員が配置展開されている。崩れたビルの屋上に陣取っている輩も、ちらほらと伺えた。
機関員らは皆、同じ得物を構えていた。紅のメタリックに覆われた、巨大な重機関砲――AP85キラナ・ガン。統合司令部の武器庫から引っ張り出してきた、荷電粒子弾五百発を連射可能な最新鋭の支援火器だ。その重々しい銃口の全てが、引き寄せられるかのように、再牙とバジュラへ向けられていた。
「……少々、派手にやり過ぎちまったか」
ようやく意識をそちらに向ける再牙。視界一杯に広がる銃口を見て、やや困ったように、頬を掻く。先ほどの再牙とマヤの一戦が、彼らを引き寄せたのは明らかだった。そうに違いなかった。蒼天機関の本部近くであれだけ暴れたのだから、厳戒態勢の彼らが気付かない訳がない。
「抵抗するな」
高機能強化外骨格に身を包んだ機関員の集団の中から、ずしりと重たい言葉が湧いた。リーダー格と思しき一人の禿頭の男が、厳つい目つきと共に前へ出る。
「貴様らを、本事案の重要参考人として連行する。武器を捨てろ」
客観的に見れば、まっとうな判断だ。だが、再牙としてはたまったものではない。勘違いをしてもらっては困るとばかりに、何かを言いかけようとした。
だが、それよりも早く。
「邪魔をしないで頂戴」
再牙は、思わず身を固くした。バジュラの瞳が、紅き閃光に濡れて輝いたからだ。
空気が凍りついたようになり、彼女の身体の中心から放射された不可視のエネルギーが、周辺の大気を激しく揺らし、何名かの機関員の身体が吹き飛んだ。
リーダー格の機関員の対応は、素早かった。吹き飛び、肉片と化した部下へは目もくれず、右手を上げて残りの機関員へ合図を寄越す。
「撃てッッ!」
何十というキラナ・ガンのトリガーが一斉に引かれた。たちどころに銃口から火花が噴き出す。荷電粒子を纏った弾丸の嵐が空気を破壊してオゾン臭をまき散らし、牙を剥いてバジュラの肉体を引き裂こうと迫る。
彼女はそれでも落ち着いていた。お前たちの攻撃なんて全く意味がないのだと言いたげな風に、素早く右手の人差し指を天に向けた。
すると、バジュラを中心に周辺の空間がたわみ、虹色に輝く異相のカーテンが展開された。卵の殻のように彼女を包む、不気味な力を宿した虹色のカーテンだ。人為的に発生した、次元の門に他ならない。
十分な武装と人員配置であったはずだ。それでも異相空間への干渉能力に対抗するには、余りにも非力であった。現にバジュラの引き締まった肉体に見られるのは過去に負った古傷だけで、今この場で、新しくつけられた傷なんか一つもなかった。
まさに絶対的防御の技と言わずして、何と言おうか。たとえ核兵器を彼女に打ち込んだとしても、この圧倒的力の前では意味を為さない。
リーダー格の男は掠れた呻き声を漏らした。しかし臆してはならないと、自らもまた巨大な重機関砲の引き金に指をかけた。
だが無意味だ。弾丸はやっぱりどう頑張っても、バジュラの身を穿つ事は出来なかった。あらゆる攻撃が、彼女を包み込む次元の門に飲み込まれていった。
バジュラは周囲の機関員へ目配せすることもなく、次の動作へ移行した。暴虐に満ちた笑みを浮かべて、くいっと人差し指を曲げた。
その動作に呼応して、次元の門が形状を変えた。殻のようにバジュラを包んでいた次元歪曲の力が、今度はドーナツを思わせる太いリングへと形状を変化させた。
「伏せろッ!」
再牙が吼えるのに前後して、異相空間のリングは耳障りな音と共に爆発的な速度で、急速に外側へ広がった。再牙、琴美、そしてエリーチカの三者は、反射的に身をかがめ、すんでのところで一撃を躱した。
彼らの頭上を通り過ぎた次元のリングの威力といったら、凄まじかった。進路上のあらゆる物体と空間、立ちはだかる障害を意にも介さず、次々に飲み込みながら爆走した。
それは、白く聳え立つ蒼天機関の本拠地、王皇ノ柱塔の先端部を破壊し、周辺空域で待機中の風力機動偵察機を飲み込み、遥か天空の彼方に到達したところで、ようやく消滅した。
「良く避けたわね。流石だわ」
バジュラはそう口にしながら、再び殻の形状に次元の門を展開し、自身の身を守った。天から、血の豪雨が降り注いだ。リーダー格の機関員、並びに部下達の肉片と血の嵐だ。突如として襲ってきた次元のリングをまともに喰らってしまったが故の、凄絶な結果である。
機関員らの肉片はべっとりとした質感を伴い、次元の門の彼方へ飲み込まれていった。あらかた吸収し終えたところで、彼女は次元の門を仕舞った。その美麗な肉体には、これだけの虐殺を行ったというのに、血痕の欠片さえ付着してはいなかった。
攻撃の軌道上を運よく外れていた為に難を免れた数名の機関員らは、しかし反撃の姿勢を全く見せず、恐怖と悪寒に身を震わせ、呆然とするしかなかった。悪魔的力を前にして、どうする事も出来ない彼らを、一体誰が責められようか。
「……その力、相変わらず顕在という訳か」
深刻な目つきで、再牙はこの状況をもたらしたバジュラの力に、想像を巡らせていた。あらゆる攻撃を防ぎ、あらゆる要素を飲み込む力。天柩の戦士のみならず、当代最強の能力と言っても、過言ではない力。
昔は、バジュラ自身が力を振るうのを拒んだせいもあって、殆ど実戦で使っているのを見たことがなかった。だが、こうして改めて目にすると、使わなかった事が正解だったように思える。
余りにも異質で、余りにも強大すぎる能力。最悪の事態になることを想定して、時の科学者たちが、彼女を人用焼却炉で処分しようと決断しかけたのも、納得がいく。
《崩天・果てなき絶海獄》。それは、今のバジュラにとって渦巻く因縁の象徴でも、忌むべき呪いでもなくなっていた。今を生き、明日への道を切り開くのに絶対に必要な武器となっていた。
「人は、明日を生きるために、過去を乗り越えなければならない」
何かを悟った彼女の表情は、晴れ晴れとしていた。
「アヴァロ、貴方が私に協力しないというのなら、貴方はたった今から、私の敵になる」
「ああ、それでいいさ。こっちとしても、その方がやりやすい。余計な情をかけなくて済む。これで、心置きなく約束を果たせるってもんだ」
「どういう意味かしら」
「頼まれたのさ……獅子原錠一に」
再牙は、意味が分からないという顔をしている琴美の様子を、背中越しに知覚した。バジュラが、何を言っているのか意味が分からないという風に、頸を傾げる。
「彼は死んだはずよ」
「俺も、そう思っていた。だが違った。生きていたんだ。仮想の世界で……電子霊として生きていた。彼はずっと、お前たちの野望を打ち砕こうと策を練っていたんだ。俺には、あの人の意志を継ぐ義務がある。お前が創設した組織を潰して欲しいって、依頼を受けたからな」
「仕事?」
「そう、仕事だ。そういえば、言っていなかったな。実は俺、万屋をやっていてね」
意外そうな顔で、バジュラが鼻で笑った。
「そう。昔の貴方は、金の亡者からは程遠い人間だと思っていたけどね。アヴァロ」
「アヴァロじゃない。その名前は捨てたんだ。今の俺は、火門再牙だ」
「……可笑しな名前」
「何とでも言うがいいさ。別に、お前に今の俺を分かってもらおうだなんて、思っていない。ただ、これだけは言っておく……俺は、何としてもお前を捕まえる。そして、然るべき罰を受けてもらうッ!」
瞳が再度、蒼い光に満ちた。再牙は地面を蹴って宙を飛翔。叩き付ける様に、怒りと哀しみの籠った拳の一撃を喰らわせようとした……
が、途中で勢いが失速した。あれほど生気漲る彼の全身から、ふっと力が抜けたのだ。瞳は直ぐに元の黒色に戻り、そのまま地面に仰向けに倒れ伏した。
「火門さんッ!」
離れたところで、琴美が叫ぶ。だが、声は届かなかった。何を言われているのか判断がつかない。細胞の一片一片が直接火で炙られているかのような錯覚に陥り、意識が混濁しかけていく。
彼の思いとは無関係に全身が痙攣し、寒気が皮膚という皮膚を舐めていく。そんな中でも、彼は気力だけで己を鼓舞し、周囲の状況を把握しようと、懸命に体を起こそうと努めた。
「その能力、反動は相変らずのようね」
すぐ頭上で、声がした。再牙は震える体を無理やり起こし、虚ろな瞳で仰ぎ見た。目の前で、バジュラが面白がるように笑みを浮かべていた。悪意に満ちた、嘲るような気配が、口元に浮かんでいた。
「貴方の能力も、私に負けず劣らず相当凶悪だけど、効果時間が三十分しか持たないってのは、悲しいわね。やるせないわ。人生は上手くいかないもの。だからこそ、努力する意味がある。アヴァロ、貴方は自分の能力を高める訓練を怠った。努力をしてこなかった。怠け癖のついた貴方に、私を斃す事なんて不可能よ。覚えておきなさい」
「……別に……いいさ……」
やや遅れる形で、再牙が不敵に笑った。顔が、銀色の血に染まっている。能力の効果が切れ、血管の収縮操作が出来なくなっている。血は再牙の顎を伝い、止まる気配を全く見せなかった。
今の再牙は、とてつもない疲労感と、全身に襲い来る痛みの奔流で、千切れんばかりの感覚の海の中にある。それでも、彼は意志力だけで体を起こし、屹然と、変わり果てた友の顔を見上げ、噛みついた。
「あと三時間ちょっとの辛抱だ……日を跨げば……俺の能力は回復する。その時は、バジュラ……必ず……お前を捕まえてやる」
「殺してやる……とは、言わないのね。情けをかけて斃せる程、私は弱い女じゃないわよ」
「殺しは、しないさ」
青い唇を懸命に動かし、再牙ははっきりと口にした。
「もう、誰かを殺すのは、止めたんだ」
バジュラが、虚を突かれたような顔になり、すぐに、爆弾が炸裂したかのように大声で笑い始めた。天柩の戦士だった頃には一度も見たことがなかった、彼女本来の姿が、確かにそこにあった。
琴美も、エリーチカも、あれだけ凶悪な能力を披露した彼女が、狂ったように笑い出したのを見て、言いようのない悍ましさを覚えた。生き残った僅かな機関員らも、ただ地面にへたり込み、邪なる者を見るかのような眼差しを送っている。
異常な状況だった。何もかもが、狂っていた。運命の歯車は、すっかりおかしくなっていた。バジュラは、徹底的に笑い続けた。両手で腹を抱え、瞳に涙を溜めて、腹の底から声を出した。
嘲笑、興味、恐れ、怒り、哀しみ、決意……種々の要素が混然一体となった彼女の声が、灰に満ちた大通りに木霊していく。その姿を、何とも言えぬ表情で、再牙は見続けた。
「本当に、私たち、何もかもが変わったのね。でも、それでいい」
笑い終えると、彼女はしみじみと言った。ふぅと溜息を一つ吐いて、彼に背を向ける。
「あなたとの対立は決定的。断ち切らねばならない因縁があることを、ようやく理解できたわ」
「バジュラ……」
「私の勝利は確実よ。直ぐに、この都市は未曽有の大災害に見舞われる。幻幽都市誕生のきっかけにもなった、大禍災に勝るとも劣らない事態になる。だけれども……アヴァロ、貴方とはまた別に、決着をつけなくちゃならないようね」
「…………ッ!」
「アヴァロ。大事な事だからもう一度言うわ。私は勝利し、勝負にも勝つ。正々堂々と、正面から貴方と戦い、この手で殺す。そうして私は初めて、過去の因縁と決着をつける事ができる。そこまでやって初めて、私は『正しさ』と『幸福』を掴まえられる……貴方と話してみて、確信したわ」
バジュラが、さっと左手で何もない空間を撫でる様に振った。すると、突如として空間が歪み、虹色に輝く次元の門が現れた。
「デッドフロンティアの防衛ライン近く。開拓街八丁目番付近の『喰わずの森』を潜った先にある、旧ライフトロン死体安置所。そこの地下で、待っているから」
「バジュラ……聞け」
次元の門の中へ去ろうとする彼女の足がピタリと止まった。それを見て、再牙は力を振り絞り、叫ぶようにして言葉を続けた。
「暴力は、困っている人を助ける為に、使うものだ。だが、あらゆる物事には限度というのがある」
「……」
「正義は、暴力の免罪符じゃない」
バジュラは何も言わず、次元の門へ足を伸ばした。虹色に輝くカーテンは彼女の全身をすっぽりと包むと、跡形も無く消失した。
緊張の糸が切れた。ふっと意識に霞がかかり、そのまま暗転した。
遠くで琴美とエリーチカのものと思しき声が聞こえたような気がした。
返事をする力は、とっくに残されていなかった。




