7-6 そして、彼は拳を鳴らす
ぞくりと、琴美の背筋に悪寒が走った。見てはいけないものを見てしまったような感覚に襲われた。だが、目を逸らす事は出来なかった。
救済を求める敬虔な信者の如く、震える手を宙に伸ばす。その白い指が向けられた先。狂気の棘に絡み捕られたエリーチカが、身体を弓なりに逸らして絶叫を上げ続けている。涙を流さぬ筈の瞳からナノマシンの涙を漏らし、苦しみを発さない筈の声から苦痛を漏らしている。
感情の出力が――エリーチカ自身の存在意義が、変性を遂げようとしている。
感情を抱くことが出来ても、それを外部に出力することが出来ない旧式アンドロイド。マヤがその枷を外そうとしているのは、苦しんでいるエリーチカの容貌が物語っていた。
――良いはずがない。
自分自身で歩むべき道を選択するならともかく、他人の手で自分の生き方を決定されることほど、恐ろしい事は無い。それが、感情表現を獲得する後押しになるとしても、エリーチカにとって一体何になるというのか。他者の押しつけがましい思考に縛られた、操り人形になれというのか。
第一このままでは、エリーチカが殺されるのは目に見えている。そして、その次には自分が殺されるのだと思うと、耐え難い絶望感が胸に迫ってくるのだ。
早く、早く逃げなくては。それなのにどうしてか。心だけがぐつぐつ煮え滾って、身体は氷漬けにされたかのように動かない。
そもそも逃走しようにも、この檻に囲まれた状態ではどうにもならない。他に打つ手が無かった。琴美は恐怖に打ち震えて、ただ傍観するしかなかった。
「エ、エリーチカ――」
なんとか苦労して呼び掛けて、琴美は息を呑んだ。エリーチカの右手の指が、弱々しくも震え、動いたのが見えた。透き通るように白い人差し指が、くいくい、と何度か折れ曲がった。何かのサイン。重要な事柄を伝える、導きのジェスチャー。
琴美は勘を働かせ、エリーチカの人差し指が示す方向を見た。唖然とした。アスファルトの檻。その一か所に、人ひとりが通り抜けられるくらいの穴が、何時の間にか穿たれていた。先ほどの戦闘でエリーチカが放った、小型電磁誘導ミサイルの爆発を受けて生じた穴だ。唯一残された逃走経路だ。
彼女はずっと、琴美をマヤの悪意から守りつつ、大切な依頼人だけでも無事に脱出できるように、予め策を練っていたのだ。
脳裡に、熱い波飛沫が押し寄せてきた。凍った心が徐々に解きほぐされ、琴美の全身を暖かく包み込んだ。琴美は、声を押し殺して、瞳に涙の雫を浮かべるしかなかった。この場から逃げ出す事ばかり考えていた自分が、嫌というほど情けなく思えてきた。
今は、全て分かる。エリーチカの考えている事が、手に取るように理解出来る。
彼女は、いつもこうだったのだろう。こうして、依頼人に危機が訪れると、身を呈して阻止してきたに違いない。それが、自身が死に呑まれる可能性を高める事になろうとも、それでも、彼女は誰かの為に生きてきたのだ。それが、エリーチカ・チカチーロの人生。高潔な魂の現れでもあるのだ。
今、わたしは生かされている。エリーチカの意志に、生かされている。
自分を責めるなという方が無理だった。何故こうなってしまったのか。琴美は深く自問自答した。答えはあっさりと導き出された。自分のせいだ。自分に誰かを助けるだけの力が無いから、こんな事になってしまっている。いつも、誰かの手の陰に隠れてきた。
そして今も、命懸けで守ってくれた彼女に、こんな酷い重荷を背負わせてしまっている。
だからこそ、助けなくては。暗く冷たい茨に包まれた琴美の心に、天使の梯子が静かに舞い降りてきた。
背筋を濡らす冷たい汗は止まらない。恐怖と絶望と悲しみは、今も変わらず心の中に充満している。だが、もっとはっきりとした感情が、琴美の意識の中で芽生えていた。怒りと覚悟だった。目の前で、友人を躊躇いなく痛めつける男への、明確な憤怒と嫌悪の念。そして、立ち向かわなくてはならないという覚悟だ。
逃走という選択肢は、もうとっくに消え去っていた。琴美の体に、明らかな負傷は全くと言っていいくらいなかった。エリーチカが、ボロボロになりながらも最後まで守ってくれたおかげだ。いま、この場で自由に動けるのは自分だけ。その意識が、恐怖に支配されながらも、琴美に『立ち向かう事』の意義を考え、実行させた。
「(や……やらなくちゃ……)」
震える手で、腰に手を回す。ホルスターに収まっている彼女の拳銃は、主の手に委ねられるのを待っていたかのように、ぴったりと、琴美の手に吸い付いた。
銃把を握り締める。熱い。とてつもなく、熱い。この街に来た時、初めて彼女は拳銃を握った。その時は、拒絶されているかのような冷たさを感じた。だが今は、あの時とは全く違う。置かれた状況も、琴美自身の心持ちも、銃に込められた想いも、何もかもが。
マヤは、依然としてエリーチカの頭を掴み、彼女の心を滅茶苦茶に搔き乱していた。人工魂魄への強制介入に没頭しているせいか、琴美が拳銃を構えた事にすら気がつかない。フードに隠れたその顔には、征服欲に満たされ、加虐的な笑みが浮かんでいた。
好機がぶらさがっていた。
頭の中で、手順を踏んでいる場合ではなかった。今は一秒でも時間が惜しい。心が求めるがままに、身体が動くがままに、琴美は無我夢中で手を動かした。
弾倉を装填する。スライドを引く。安全装置を解除。両手で構える。呼吸が荒い。整える。深く息を吸う。深く吐く。まだ荒い。銃把を固く握り込む。照準を当てる。深く息を吐く。まだ荒い。まだ整える。緊張で、顔が強張る。
「いい顔だな。それが見たかったのだ」
気づかれた。
不穏な気配を察知したマヤ・ツォルキンが、右手でエリーチカの頭部を抑え込んだまま、琴美を軽く睨みつけた。思わず、背負っていた覚悟が霞み、再びの戦慄が、力無き少女の全身を激しく揺さ振った。
「恐怖に怯えているその表情、実に最高だ。今はその表情が、この世のどんな贅沢な料理よりも、美味なるものだ。恐怖は伝播する。さっき、俺が言った通りの事態になったな」
まるで、お前のせいでこうなったのだぞと、そう言いたげな科白だった。猛烈な不快感が脳裡に広がり、思わず琴美は顔をしかめた。マヤが、ますます愉快に笑った。
「そうそう。いい子だ。その表情のまま、このオンボロ人形が壊れる様を見ていろ。これからもっと、恐ろしい事が起こる。絶望の到来だ。だがその前に、まずはその物騒な鉄の棒を仕舞うんだな。パーティー会場でそんなブツを構えていては、場が白けてしまうだろうが」
徹底して他人の尊厳を逆撫でする物言いだった。琴美は返答の代わりに、グリップを強く握り直した。
「やれやれ、思った以上にサディスティックだな。そんなに、このオンボロが悶え苦しむ様を見届けたいのか?」
芝居がかった口調と共に、マヤはエリーチカの頭を掴む手に力を込めた。瞬間、エリーチカの関節部の至る所から、たちどころに白煙が上がった。ナノマシンで組まれた生体構造が、あちこちでショートを繰り返しているのだ。
「ほうら、更に刺激を強めるぞ」
今度は、絹を裂くような絶叫が響いた。エリーチカが白い喉を露わにして仰け反り、泡を吐きながら痙攣。琴美は目を見開き、奥歯を噛み締めた。この世で真に憎むべき本当の相手を、見つけたような心持ちだった。
「まだおろさないのか。本気か? その銃で、撃つというのか? この俺を。貴様のような小娘が?」
面白がるような口調で、挑発するかのように迫る。そこには、琴美の覚悟を図り損ねている調子が含まれていた。出来るわけがないという、自惚れの匂いがあった。
「何を思い詰めている? どうせ貴様も俺に狩られるのだ。そう死に急ぐ事もあるまい。何故そうまでして、誰かの為に生きようとするのだ」
答えは既に、彼女の手の中に握られていた。
「……な」
唇が震える。恐怖で心が圧迫され、今にも弾け飛びそうだ。それでもなお、琴美は銃を下ろさない。
「わたしの……」
トリガーに、静かに指を掛ける。
「わたしの友達に、手を出すなッ!」
マズルフラッシュの輝きの中に、父の幻影は浮かばなかった。一点の曇りもない、眩い光だけが煌めいていた。他に余計なものは、何も無かった。
改造ベレッタの銃口から規則正しく発射された三発の弾丸が、まるで吸い込まれるかのようにして、敵の胸部目掛けて一直線に衝き進んだ。
マヤは驚愕した。有り得ないと思った事が、現実の出来事として描かれていることに。自身が予想だにしなかった破壊現象が、しかし今まさに迫っていると認識した途端――彼は咄嗟に、人形を盾にした。
琴美が、この世の終わりのような、絶命の瞬間を悟ったような声を漏らした。
三つの弾丸はマヤではなく、無慈悲にも、盾にされたエリーチカの体を穿った。エリーチカが、痛みで悲鳴を上げた。精神的拷問を受け続けた彼女の感情は、既に半分ほど、出力制御の殻を破ろうとしていた。
あともう少しで、エリーチカの人工魂魄は完全に変質し、感情の出力制御機能を破壊されるだろう。しかし、マヤは手を休めた。代わりに、エリーチカを用済みだとばかりに明後日の方向へ投げ飛ばした。すかさず琴美の方へ走り寄り、震える彼女の体を、力を込めて思い切り蹴っ飛ばした。
鳩尾の辺りに鋭く重い一撃を食らい、琴美は血の泡を吹きながら、アスファルトで出来た檻に激しく背中を打ち付けた。肋骨の数本にひびが入っている。だが、そんなことに思いが及ぶよりも、琴美は全身を巡る不快な痛みに、苦しみ悶えるので精一杯だった。
気管に沸く血の匂いと、あってはならない誤射。肉体面と精神面の両方でいたぶられ、先ほどまで燃え滾っていた怒りが、あっと言う間に鎮火していく。それでも、彼女の手から拳銃が滑り落ちる事は無かった。
「馬鹿な餓鬼だ。そしてムカツク餓鬼でもある」
頭の奥で火花が散り続けている。視界が霞み、恥辱に震えて近づいてくるマヤの姿も、まともに見えない。
「俺の事を甘く見やがってッ!」
怒りに任せて、マヤは蹴りを放った。倒れ込んでいる琴美に向かって。
「貴様のような小娘が、オンボロのアンドロイドが、何故俺に歯向かう。クズだ。お前ら全員クズの極みだ。みんなそうだ。みんなそうなんや。みんな、ワシの事を甘く見やがるんや。お前のようなションベン臭い処女野郎にまで、なんでコケにされなあかんのやッ!」
マヤの口調と声音が、明らかな変異を遂げていた。彼自身の魂に上書きされた罪九郎の魂とマヤの肉体そのものが、ここにきて結びつきを強くし始めた結果だった。きっかけとなったのは疑うまでも無く、力無き小市民に過ぎない琴美の反抗だ。琴美は、罪九郎の魂が抱える強烈な自己愛性を加速させるトリガーを、知らず知らずの内に引いてしまったのだ。
「いつもそうやった。ワシが人工血液を開発したときも、機能片の構築理論を発表した時も、皆は技術の方ばかりに目を奪われて、誰もワシを褒め称えなかった。誰も、ワシの偉大さを認めなかった。ワシの瞳を、見つめようとはせぇへんかったッ! なんでや、なんでなんやッ! なんで誰もワシを認めへんのやッ! ワシがこの世で一番、一番――」
最後の方は、衝動任せの喚き声に近かった。それは文字通り、罪九郎の魂からの叫びであり、子供の駄々にも似た願望の吐露そのものだ。幼稚である。しかし同時に加虐的だ。『自分さえ良ければ、他人なんてどうでも良い』という、余りにも身勝手な暴力を止められる者は、この場に只の一人もいなかった。
マヤは怒り続けた。罪九郎の声で。怒鳴り、唾を吐きかけ、徹底的に足元に転がる少女を甚振り続けた。琴美の腕や顔に青い痣が浮かび上がると、それが増々、マヤの暴力性を異常なまでに駆り立てた。
最期の時が、刻一刻と忍び寄ってきた。ぜえぜえと息を吐き、血の混じった涎を零す琴美から無理矢理拳銃を奪うと、すっと構えた。あらかじめ決められた、厳かな儀礼に臨むように。
「殺しの順番が逆になってもうたが、まぁええわ」
狩りの愉しみを思い出したのか。マヤの眼が、くらくらと燃える業火の如く、色めき立った。熱い息を吐きながら、トリガーに指を掛ける。
「これで、終いや。せいぜいあの世で、ワシの功績が如何に偉大なものとして人類の歴史に刻まれるかを――」
言い終えるより先に、それは何の前触れもなく起こった。
琴美も、そしてマヤも、意識が混濁しているエリーチカにも、その『音』は確かに聞こえた。三人とも、今までの人生の中で、一度も聞いたことが無い轟音だった。衝撃で大地が揺れ、マヤの血で凌辱の限りを受けた地面に、蜘蛛の巣を張るようにして地割れが起こった。
「なんだッ!?」
壮絶な気配を感じ、マヤは琴美に向けた銃を、音の聞こえた方へ向けた。それは、マヤがここに来て初めて見せた、本能的な防衛反応だった。琴美も、朦朧とした意識の中から目覚め、驚き交じりにマヤと同じ方へ視線を送った。
琴美の澄んだ瞳に、感激の色が灯った。
檻の中央。上空から降り注いだ莫大な力の奔流に揉まれ、崩れゆくアスファルトの棘と檻。濛々と立ち込める粉塵の波。その陰に揺らめく、謎の人影をマヤが認めた刹那、
「ばぷ――」
不可解な殴打音を残して、マヤの肉体が尋常ならざる速度で、明後日の方向へ吹き飛んだ。勢いを殺すとか、何とかして体勢を立て直そうとか、最早そんなレベルの話ではなかった。火薬を大量に搭載された大砲から撃ち出された砲弾の様に、マヤは宙を飛び、檻に背をぶつけてぶち破り、五十メートルばかり、地面の上を転がった。
「ひッ……ごぷぺ……ッ」
具体的に何が起こったのか、本気で理解出来なかった。どうして呼吸をするたびに、おかしな音が鼻から漏れるのか分からなかった。
まさか、鼻骨が粉砕されてしまっているのか。
気づいた途端、思い出したかのように、猛烈な痛みがマヤの全身にのしかかってきた。
酷い有様だった。先ほどまで、優越感に任せるがままにエリーチカの頭を掴んでいた右腕が千々に千切れ、肘から下が消失していた。あちこちに飛び散る肉片。銀色の血だまり。両足も、あらぬ方向へ曲がって、骨が内側から肉を突き破って露出していた。誰が何と言おうと、重傷だった。
「(あ、頭が、頭が割れるッ!?)」
突如としてこみ上げる猛烈な嘔吐感。たまらず、マヤはその場で粗相を漏らした。
一体、俺はどうなってしまったんだ――原因を探ろうと、目線だけを轟音が聞こえた方角へ向け、驚愕から息を呑んだ。
薄れゆく粉塵の真っ只中に、一人の男が地面に足をつけていた。
男の目は蒼い輝きを放ち、誰も止められない程の濃密な闘気を、全身から漲らせていた。うっかり触れようとするものなら、木っ端微塵に吹き飛んでしまいかねない程の、力のうねりがそこにはあった。
だがしかし、精錬且つ野蛮な気配に満ちた男の登場が、琴美にも、エリーチカにとっても、例え難い程の救済であったのだ。
琴美は見た。
アスファルトの粉塵を浴び、汗に濡れた銀色の短髪を。
あらゆる障害を跳ね除けようとする、引き締まった肉体を。
その肉体を包む、異相空間との接続機能を有する黄色いコートを。
両腕に装着され、今は緑と銀の血に濡れている、暗黒のガントレットを。
憤怒に満ちた貌に刻まれた、男の過去の象徴でもある、深い深い刀創を。
「火門さんッ!」
琴美の呼びかけに、男は黙って頷いた。




