7-5 守護天使エリーチカ
ただの小娘――そう呟いたマヤ・ツォルキンの瞳は、贄の本質を確実に見抜いていた。彼の目的は網に掛かった獲物の狩り。ただそれだけだ。多脚式戦車は、ついさっきマヤが屠り去った贄のおまけで引っ付いてきたガラクタに過ぎなかった。
「これで、五十七、五十八……」
神に捧げる供物の数を、祈りを込めるようにして呟いた。供物の種別は問わない。それが子供だろうと老人だろうと、武装した機関員であろうと、アンドロイドだろうと、あるいは、それ以外の何者であろうと。今のマヤには、全てが等しく生きた血袋に見えていた。意志を持つ喋る血袋に。
その血袋を破る為に、彼はここで網を張っていた。蒼天機関の本部と目と鼻の先で事を起こせば、蜜に惹かれる昆虫が如く多くの贄候補が集まってくると画策した。実際、本当にその通りになっていた。既に五十六人の機関員を、その手にかけている。
「逃げて、琴美さん」
「え……」
「早く、逃げて下さい」
エリーチカが突き放すように言った。琴美は言われるがままに足を動かした。本能が指し示す道に従い、男がいる方向とは反対の方向へ走った。しかし、行く手を阻まれる。眼前に突如として現れた黒く重い格子に。格子の表面にはマヤの血が付着していた。銀色に光る血。何時の間にかマーキングされていたのだ。
「無駄だ。折角手に入れた贄だ。一匹たりとも逃すものか」
格子の正体は道路のアスファルトの一部が変性したものだった。格子は凄まじい勢いで急成長すると、監獄さながらに四方と上空を取り囲んだ。格子の隙間から脱出しようにも、小さすぎて無理だった。
「琴美さん、隅の方へ隠れてください。絶対に守りますから、ご安心を」
エリーチカはマヤに向き合い、機敏に構えをとった。彼女の瞳に、琴美は映っていなかった。突然現れたこの男の正体は分からないが、自分たちに害を為す存在であるのは痛いほど理解できた。それならそれで、障害を省くだけだと確信した。
エリーチカは眼前の敵の挙動に、静かに意識を傾けた。それは、依頼人の逃亡を助力するのが無理なら、己の身を犠牲にしてでも守り抜くという悲壮な決意の表れでもあった。
その決意の業火に薪をくべるかのように、彼女の両肩の肩甲骨部が開き、二対の白い拳が現れた。細長いチューブに取り付けられた電子制御式機械拳。時代遅れな、しかし強力な彼女の武器の一つ。琴美がエリーチカと初めて出会った時に見た、あの機械拳だ。
「え、エリーチカ……さん?」
まさか、戦うというのか。
土地再開発の工事現場で、護衛役として配置されていた彼女が?
戦えるのか? 本当に?
マヤが、狩りに移った。地を力強く蹴り、高々と宙に飛んで拳を振り上げる。叩きつける標的は決まっている。先に贄として捧げるべきは、この旧式アンドロイドだ。そう直感した。逃げ場所を封じられてうろたえているあのか弱い娘は、何時でも好きな時に殺せる。優先順位は決まっていた。
エリーチカはバックステップで立ち位置をずらすと同時、機械拳の一つを『操作』した。彼女の感覚に従順な、彼女だけの特別製の拳。チューブが蛇のように伸びてうねり、チューブ先端部に取り付けられた機械拳が縦横に空気を衝いて、飛びかかってくるマヤの鳩尾にヒットした。完璧なタイミングだった。
機械拳の重みに胸を抉られて、マヤの巨躯が吹き飛んだ。口から糸を引いて、銀の筋が弧を描いた。
容易い作業のはずだった。逃げ場のない檻に囚われた蝶を狩るのは退屈極まるが、その行為に至上の価値がある以上、手を抜くなど言語道断だ。だからマヤは全力で挑みかかった。そのはずだった。
だが、やはり心の何処かで自尊心が鎌首をもたげていたのだろう。地を蹴って、空中から飛び掛かるというその動きには、明らかな無駄が見られた。メカニカル・サンガンを発動したエリーチカの眼には、余りにも十分過ぎる隙として映った。だからこそ彼女は初撃に手を抜かなかった。
怒涛の畳みかけが幕を開ける。二塊の機械拳が、マヤを翻弄するかのように複雑な軌道を描き、追撃。それは獰猛な唸りだった。機械拳が左右上下に風を切り裂いては、宙に投げ出されて落下していくマヤの体を滅茶苦茶に殴りつけた。
それでもマヤは器用に上半身を防御して、顎への一撃だけは防いでいた。奥歯を強く噛み締めて、脳内に埋め込んだ重力瞬間制御型の機能片を発動。重力加速度を減衰させた彼の体が、一瞬、ふわりと宙に再浮上した。その反動を利用して足を猛烈に蹴り上げ、拳を跳ね返そうとした。だが、ひょいと、お預けを与えるかのように拳が引っ込んだ。
二つの拳の軌道がまるで読めなかった。打ち倒すべきアンドロイドは一歩も動いていないのに、まるで拳自身に意志が宿っているかのように自在に襲い掛かるのだ。魔拳と呼ばれるものがこの世にあるとするなら、エリーチカの機械拳は、まさに魔拳そのものと断じて良かった。
「(魔拳……か)」
マヤの脳裏に黎明が降りた。意志持つ拳。操作している本人の意識が投影された拳形の双牙。認識を改めたマヤの瞳に、ギラついた光が宿った。過去の『訓練』を思考で反芻し、解法へ至る。どんな奇想天外な奇術でも種が分かれば、それは幼稚な詐欺に堕ちる。
マヤの全身がぶるりと震えて、カソックコートの裾から鈍く銀色に光る血が漏れた。鋭い打ち下ろしを見舞ってくる機械拳目掛けて、マヤは血に濡れた左手を伸ばした。手の動きに合わせて、コートの裾からコートと同じ黒色の魔糸が放たれた。呪われし血の恩恵を受けたコートの一部が、ワイヤー状に変性したのだ。
既に機能片の効果時間は過ぎていたが、マヤが落下する事はなかった。血に濡れたコートの裾が幾つものワイヤーに分裂して伸長し、機械拳に絡みついていた。たとえ意志を持つ武器であろうと、それが認識出来ない程のスピードで三次元的な動きを展開すれば封じ込めるのは可能だった。
詐欺師には曲芸士だ。このまま空中ブランコよろしく、反動をつけて接近して首を掻き切る。狡猾に満ちたその算段が、しかし人工魂魄が弾き出した近似未来予測の範囲内に収まっていることを彼は知らない。
絡みついたワイヤーの勢いに乗じて飛び掛かろうとしたマヤの全身に、ズシンと重みがかかった。驚いて仰ぎ見る。拳が落下していた。そしてマヤ自身も、地面に吸い込まれるように落ちていく。
チューブから自切された二つの拳に瞳の焦点を当てて、エリーチカが何かを呟いた。マヤの耳に彼女の言葉は届かなかった。拳の電子制御プログラムを意図的に『誤作動』させる為の音声暗号だということに、気が付けなかった。
二つの拳が眩い閃光を放ち、周辺の大気を震えさせた。
刹那、爆音と熱風。凄まじい風圧が辺りを飲み込む。檻が怯えるかのように軋んだ。地面に尻をつけ恐怖を抱きながら戦闘を見守っていた琴美は、咄嗟に近くの格子を両手で掴み、風の衝撃になんとか耐えていた。肝心の引き金を引いた当のエリーチカは、実に涼しい表情を浮かべ、風圧を全身で受け止めていた。彼女にとっては、何度も目に焼き付けてきた爆発だった。
エリーチカの奇襲。ガラテイア・シリーズの標準装備には登録されていないギミック。火門涼子の許可を頂き、十年ほど前に彼女の機械拳は改良されて自爆機構を獲得した。思い上がった敵を排除する為の緊急攻撃手段であり、恐るべき刃が主を切り裂こうとした時、咄嗟に守護する為の武装兵器。
今、守るべき人は『主人』から『依頼主』に変わっている。
同じことだ。『守るべき存在』という意味では。
エリーチカは双眸に仕込まれた多面式光学受容体の感度を調節して、メカニカル・サンガンを熱源感知へと切り替え、燃え盛る火炎の中を凝視した。
奇襲が戦闘終結の合図になることを、彼女は切に願った。しかし、視界に映る熱源分布図が生体反応を認めた事で状況は一変した。戦闘は仕切り直しとなり、エリーチカは武闘のステップを踏んだ。背を屈め、優れた暗殺者が如く疾走し、檻に足を駆け、そのまま格子の上を走り続ける。恐るべきバランス・センサーの為せる技だ。
爆炎の中心に揺らめく人影を確認した途端、エリーチカの白い右腕に亀裂が奔った。腕部を構成する製密駆動塊を信号が駆け巡り、暴力的な速度で五十五口径の火力支援式銃身へと変形。炎を取り囲むように走りながら、数十発の炸裂弾を猛烈な速度で炎の中に注ぎ込こんだ。ミセス・ミストの城で披露した射撃と同じくらい狙いは完璧に近かった。それは命を刈り取る銃撃ではなく、相手の出方を伺うフェイントの意味が込められていた。
周囲に地響きが鳴り、炎の中心から凄まじい勢いで血濡れたアスファルトの柱が上がってきた。柱の頂きにカソックコートを殻の様に纏うマヤが佇立していた。ARデバイスに覆われた瞳で、腹立たしげにエリーチカを睨みつけるが、そんな彼を数多の炸裂弾が襲った。だが、急所目掛けて放たれた弾丸の悉くが硬質化したコートに弾かれ、あらぬ方向で炸裂した。
「旧式にしては、なかなかやるな」
清々とした言葉の中に、明らかな敵意が見え隠れていた。エリーチカの表情に変化は無かったが、彼女の心は――人工魂魄は慄然に近い感情を目の前の男から取得していた。強敵と認識する必要材料は、余りにも多く揃っていた。次に取るべき行動を人工魂魄が取捨選択しようとする。だがそれに前後して、エリーチカは柱の異変に気が付いた。
何時の間にか、マヤの足元に銀の血だまりが形成されていた。銀色の魔血はカソックコートの内側から流れ出て、傘に行く手を阻まれた降雨のように柱を瞬く間に汚していく。
「だが、俺の能力からは逃れられない」
マヤの科白に呼応して柱が変性。側面からアスファルトの棘が無数に生え、爆速で伸長。エリーチカは咄嗟に身を翻したが間に合わず。鋭利な棘の先端が彼女の肩を掠めた。そして次の瞬間には右太腿を貫かれ、金属繊維の欠片と液状のナノマシンをいたずらに吹き散らかしていた。
しかし、エリーチカは特に何も感じなかった。アンドロイドに痛覚はない。人工魂魄が機能を停止した時にのみ、死が訪れる。敗北を認めることがエリーチカの終わりに繋がるのだ。
ならば敗北を与えてやろうとばかりに、マヤの血がより一層に柱を蹂躙した。すると、柱が急激に痩せ細っていく一方で、伸長に徹していた棘の一つ一つが無数に枝分かれし、空気を切り裂き、尋常ならざる速度で檻の中を占拠し始めた。
恐るべき進化だった。枝分かれは不規則に伸び、分かれた。まるで意志があるかのような、ランダムなパターンを何遍にも渡って繰り返した。旧式の人工魂魄に搭載された並列処理能力では、到底追いつかない種類の攻撃。
それでも、エリーチカは戦う。
依頼人を守る。
ただそれだけの使命に殉じる。
棘はエリーチカの命だけを狙ってはいなかった。果たしてエリーチカの眼が、檻の隅で縮こまっている琴美に迫ろうとしている、棘の存在を認識した。
気づけば、エリーチカは大地を蹴り飛ばすようにして駆けていた。穿たれた右足の状態など関係なかった。
そうして、走りながら新たなる武装を彼女は披露した。縊れた腰の辺りが蒸気を吹き出して《ドレス》が現れた。幾重もの超硬性セラミックの刃が折り重なった、攻防一体のドレスだ。
キュインと音を鳴らして、刃が高速回転。トップダンサーさながらに身を捻らせて跳んで駆け、回転する刃のドレスを駆使し、行く手を阻むかのように迫りくる棘という棘を弾き砕いていく。一目散に琴美の下へ駆け寄り、文字通り身を盾にして棘の攻撃を弾いた。
戦いが激しさを増していくにつれて、エリーチカが武装を広げていく。何時の間にか、両腕は荷電粒子を纏った刃へと変わっていた。メカニカル・サンガンで視野角を拡大して標的を捉え、縦横無尽に演舞するかの如く暴れ回る。棘が、青光る雷電の白刃に切り落とされていく。
追い打ちをかけるかのように、背面部が左右に素早くスライド。露出したミサイルパックから八発の小型誘導電磁ミサイルが、規則正しくも激しい音律を刻んで発射された。ミサイルは白煙を引いてマヤ目掛けて突っ走るものの、無造作に編まれた棘の花園に阻まれた。
恐るべき破壊の杖の身代わりとなって、棘の花園は爆散した。大気が激しく軋み、周辺ビルの窓ガラスが衝撃で全て割れた。莫大な炸裂音と煤煙が場に到来し、アスファルトの微粒子が分厚いカーテンとなってエリーチカの視界を覆った。
粉塵を目くらまし代わりに、マヤは颯爽と地面に飛び降りた。機敏な動作で軽やかに手を振るい、足元の地面に向かって銀血を撒いた。むくむくと殺意の芽が成長してアスファルトを刺激し、新たな棘がのたうつように湧き出てきた。かと思いきや、次の瞬間には、エリーチカの全身を穴ぼこだらけにしようと、獰猛な大蛇の如く飛び出した。
本気を出したマヤ・ツォルキンに、今度こそ隙は無い。戦いは棘の集団に任せ、自身は品定めをするかのように、必死に棘を叩き散らしていくエリーチカの肢体を眺めた。
「強がりか。それも、いいだろう」
爆圧と争乱の轟音に溶ける呟きが、この場における戦闘状況を正しく言い当てていた。幾つかの棘がエリーチカの体表皮を鋭く削り、あちこちから金属繊維の一部を露出させていた。
メカニカル・サンガンを駆使していても、エリーチカは全ての攻撃に対応できないでいた。この状況では如何ともしがたい。依頼人の状態にも気を配りながら複雑且つ多くの攻撃軌道を読み切って対処するには、背負う物が多すぎる。
琴美は檻の隅に身を接着させるかのように寄せつけ、ますますその身を小さくさせていた。惨たらしい状況なのは百も承知しているが、しかし彼女はどういう訳か、眼だけはエリーチカの背中から逸らさなかった。自分の為に戦ってくれている彼女の勇敢さをこの目に焼き付けようとしないのは、不誠実過ぎると感じたからだった。
決死の想いが込められた小さな背中。
力無き者を、命を懸けて守ろうとする、その勇姿。
か弱き子羊を永遠の沈黙から遠ざけようとする守護天使。堕落した悪鬼業魔の牙に食い荒らされ、その純白の羽は、今にも折れかかっている。私のせいだと、琴美は自分を激しく責めた。自分が情けないから、こんな事態になっているのだと痛感した。
流血の侵略が、静かにエリーチカの足元付近まで進んでいた。咄嗟に、メカニカル・サンガンが足元に忍び寄る狂気の存在を嗅ぎ取ったが、既にどうすることも出来なかった。巧妙で狡猾。それでいて冷静な知略の下、マヤは最効率の攻撃座標を割り出していた。
不気味で唐突過ぎる棘の一撃が、エリーチカと、その背後に隠れている琴美を狙い、闇に吹く風を切り裂いた。エリーチカの体が、大きく後ろに仰け反った。重くて密度の高い塊が、容易く破壊される音も聞こえた。
「エリーチカさんッ!」
琴美が、絶叫に近い大声を張り上げた。大きく見開かれた瞳が、エリーチカの背後から鋭く伸びる太い棘の先端を、しかと捉えていた。
少女の悲痛な声をエリーチカは確かに聞いた。胴体部に風穴を刻まれても、彼女の意識ははっきりしていた。しかしながら、返す言葉を口にするよりも先に、エリーチカはその場に力無く膝をついて崩れ落ちた。うめき声を一つも立てずにだ。
一体何をどうすれば良いのか分からず、琴美は、ただただ叫ぶ事しか許されなかった。
避けようと思えば避けられる一撃だった。しかし、頭の中で燦然と輝き君臨する鋼鉄の意志が、その決断を許さなかった。無意識に選択したのは殉教の道だった。
エリーチカは、守護者として剣を最後まで握り続ける未来を選択した。たとえその身が朽ち果てようとも、大事な依頼人を守れるのなら命など二の次で良い。もし自分が死んだとしても、万屋がどういう仕事か理解している再牙なら涙を呑んで頷くと信じていた。それは、己の生命の価値を度外視した竹を割ったかのような判断だった。
もしあの時、飛び出してきた棘をエリーチカが避けようとしたものなら、今頃は琴美の鼻腔が穿たれ、赤い絶望が広がっていた事だろう。そんなこと、あってはならない。涼やかな女の片腕を務め、火の牙を振るう相棒の為に切磋琢磨してきた自負が、万屋としてのプライドが、最悪の事態の到来を阻止しようともがいていた。
「……」
翼が折れた守護天使の口から、ナノマシンの透明な液体が流れ出た。小さな薄い唇からは冷たい吐息が漏れ、肢体は小刻みに痙攣を続けている。人工魂魄が即座に被害状況の解析と解決への方策を高速演算で導き出そうとするが、そこへ襲い掛かる棘の嵐が、次々とエリーチカの体に穴を開けていった。
マヤは、意図的に頭部への攻撃だけは避けていたが、手酷いダメージを負わせている事に変わりはない。各関節部を破壊し、身動きの効かなくなったのを確認すると、魔棘の指揮を振るった。
すると、棘がエリーチカの全身に――ボロボロに剥けた金属繊維とナノマシンの血袋に絡みついて、供物を暗黒の天空に捧げるかのように、高く宙に掲げた。そうして、子供が興味を無くしたおもちゃを投げ捨てるかの如く、実に乱暴にマヤの足元へ、エリーチカを叩きつけた。
「地球を一つの生物系として見なすガイア理論に基づいて考えるなら、幻幽都市もまた、一つの巨大な生命体であると見なすことが出来る」
エリーチカに成す術は無かった。棘に全身をきつく巻かれ、関節も破壊されている為に動こうにも動けない。大人しく、頭上から降り注ぐ悪魔の囁きに耳を傾けるしかなかった。それはマヤの意志が発している言葉ではなかった。彼の魂に上書きされた、茜屋罪九郎の意志が、漏れだしたものだった。
「この都市を生命体と仮定した場合、あらゆる事物が有機的な意味を持つ。都市の物流は血流であり、都市の建物は骨であり、俺達のような存在は、細胞の一つ一つになぞらえることが出来る。小憎たらしい蒼天機関は、悪党という名のウイルスを駆逐する抗体と言ったところだろう。都市に存在するあらゆる物体が、都市の血肉であるとするなら、さて、都市の『魂』とは何か。考えた事はあるか?」
マヤは不躾にも、エリーチカの後頭部を踏んづけた。
琴美が声にならない声を出したが、彼の耳には届かない。
「答えは、人々の『感情』だ。それこそが、幻幽都市の魂だ。人々の感情に裏打ちされた願望と欲望が、この都市を根本的に支えてきた。都市が、今日まで都市自身の存在価値を更新し続けられてきたのは、それ(・・)のお蔭だ。我々の欲望と願いが、都市を生かし続け、常に進化の最前線に押し上げてきた。ならば逆に、都市の死とは一体何か。何を以て都市は死んだと見なされるのか。その鍵も、我々自身が握っている。時代遅れのアンドロイドよ。無論、貴様とて例外ではない。貴様の意識たる人工魂魄も、人々の欲望の下で生み出されたのだから。その結果が、感情の出力を制御した、半端な人間の姿をした人形だというのだから、全く、笑えてくる」
話を続けながら、マヤは右腕の袖を露わにした。手の甲と平に電極ピアスが等間隔に埋め込まれていた。それは、点描された正方形のように見えた。洗脳以前の彼には、備わっていなかったギミックだ。茜屋罪九郎の即興手術がもたらした、他者の覚醒を促す電子機器だ。
「本質的に論じれば、都市の死は人類の死と同じ意味合を含んでいる。人が本当の意味での死を迎えるのは、己の魂が死んだ時だ。著しい内的ストレスにより精神の均衡が崩れて魂が破壊された人間は、真に死者だと断定出来る。それは、巨大なタンパク質の塊となんら変わらない。人なんかでは決してない。肉の入れ物に生は無く、永年の暗闇に体を預け続ける。都市もそうなのだ。人間のマイナスの感情と密接に結びついている。即ち、人々の感情が大量に、同時多発的に負の方向へ傾倒すれば、都市の精神バランスはいともたやすく瓦解する。負の感情の最適化がもたらすのが、幻幽都市の死だ」
エリーチカを踏みつける足に、増々の力が込められていく。顔の皮膚がアスファルトの凹凸に食い込んでも、彼女は沈黙を保ち続けた。何かを我慢しているのか。あるいは、ここからどうやって一矢報いるかを計算式により導こうとしているのか。
「最適化された負の感情とは、恐怖心だ。まず始めに恐れがあり、次に絶望が生まれた。絶対的強度を持つ恐怖は連鎖反応を繰り返し、絶望の純度を上げるろ過装置だ。自分がここで『死ぬ』という、逃れ無き運命を自覚する。それこそが、絶対の恐怖。それこそが、彼の者の召喚には必要なのだ……旧式のアンドロイドよ。お前も供物に捧げてやろう」
冷徹な眼差しを向けたまま、パチンと乾いた音を指で鳴らした。棘達が俄に動き出した。彫像を台に設置するかのように、エリーチカの体を地面と垂直になるように立たせた。二人は、向かい合う姿勢になった。一人は狂喜に彩られた者。もう一人は、半端な存在と揶揄された女。
「貴様のような時代遅れの遺物を見ていると、哀れみさえ感じる。シンギュラリティはもう、貴様を振り返らない。誰も、お前の存在に意義を見いだせない。自ら命を放棄しようとは思わないのか」
「思いません」
戦闘に突入してから初めて、エリーチカが口を開いた。
その凍えた声が、マヤの眉間に深い皺を刻ませた。
「何故だ」
「私を必要としてくれている人がいる。その人の為に、私は生きている」
「自らの命の価値。その論拠を、他人に預けっぱなしという訳か。楽な生き方だ。他人は道具だ。他人ほど信用できないものはないというのに。貴様は、自分の為に生きる事を放棄した。自分あっての人生ではないのか。唾棄すべき思念に囚われた旧式アンドロイド特有の恥部を、こうもまざまざと見せつけてくるか」
「考え方というのは、存在の立場によって変わります。正義も悪も、社会的必要性により生じた、理解の摩擦に過ぎません。それでも、敢えて私は口にします」
「何をだ?」
「貴方には一生、私の何たるかを理解できない」
エリーチカが、正面からマヤを見つめた。
その紺碧の瞳に、マヤの歪んだ顔が映り込んだ。
「貴方は、自分の力に酔いしれている。力の意味を履き違え、生きる意味を誤解している。己の残酷さを理解しようともせず、あまつさえ、その上に胡坐を掻いている。与えられた力を我が物顔で振るう人間は、獣以下の存在です。そして残念なことに、私の人工魂魄には、獣の論理を解き明かす暇はございません。本当に、残念ですが」
一つ一つが、鋭いナイフのようにマヤの心臓の奥深くに突き刺さった。どれもが彼のプライドに傷をつけ、どれもが彼の心を苛立たせた。巨大な試験管の中で製造て三年、初めて湧き上がる感情だった。
屈辱――マヤが残虐性と苦痛の入り乱れた、奇妙な笑みを浮かべた。
「良く回る舌だ」
マヤが、血濡れた左手を地面に向かって振った。
銀色の血が、アスファルトを刃物の形状に変性させ、エリーチカの両肩から下を易々と切り飛ばした。どばっと、透明な液体が彼女の足元を濡らしていく様を見て、マヤは低い嗤いを漏らした。
電極ピアスが施された手で、マヤはエリーチカの頭部を思い切り掴んだ。小さな頭だった。力を込めれば、直ぐに潰れてしまいそうなぐらいに。
舌を切り取るよりも、もっと残酷な拷問を、マヤは用意していた。肉体的ではなく、精神的な意味で。つまりは、
「心を作り替えたら、もっと舌が回るだろうよ」
人工魂魄への、強制介入だ。
電極ピアスから、チリッという細やかな動作音が流れ、エリーチカの全身がビクンと痙攣した。口と目を大きく開けて、呼吸不足に陥った金魚の様に、パクパクと唇を戦慄かせる。それは、彼女がガラテイア・シリーズとしてロールアウトされ、土地再開発に従事し、火門涼子と出会い、火門再牙の相棒として今日まで生きてきた歴史の中で、初めて表に出した『感情』だった。
「感謝しろ。俺が正してやる。貴様の全てを」
「あ……う……は」
「思考攪拌を応用し、人工魂魄の出力系統に干渉した。信号経路の破壊など、覚醒者の技術を使えば朝飯前よ。さぁて、貴様の肉体と魂を一片残さず、贄として使わせてもらうか。さしずめ、命の価値の教育だなこれは。絶望は、発露することにこそ意味があり、死の実感を確かなものとして、貴様自身の魂に刻みつける。そして、恐怖はまた――」
凶暴な両眼が、電子情報上ではない生の瞳が、何かを確信したかのように琴美を見た。全てが思い通りに進んでいるとでも、言いたげな瞳だった。
「周囲に伝播する。さぁ、もっとだ。もっと、絶望の純度を上げるのだ。彼の者の為に。太古よりの邪なる神の、復活の為に」




