7-3 おぞましき涙
咄嗟に飛び退いて右手を地面に置き、捜索屋は上空を仰ぎ見た。
崩壊したビルの壁面に、得体の知れない『モノ』がへばりついていた。それは、軍鬼兵とは全く趣を異にする形状をしていた。そもそも、それが意志宿す『生命体』であるとすら、一見しただけで分る者などいないのではないか。そう思わせるくらい、捜索屋に向かって発砲してきた敵は、奇妙奇天烈な出で立ちであった。
「何とまぁ……」
顎に手を当てて、軽く睨みつける。敵は特にこれといった動きを見せない。
見れば見る程、奇妙さが先に立つ。それはもはや、人間の姿をしていなかった。蝸牛を思わせる巨大な殻。その殻の穴から伸びている二本の巨腕。巨腕に埋め込まれた、蛍光色に輝く無数の瞳。そして、縦に割れた殻の内部から露出しているのは、鉄板なんぞ紙くずの様に吹き飛ばす威力を持つ、一丁の重機関砲――敵の名は、スメルト・A・フィッチ。
「よもや未生物が、今回の騒動に絡んでいるとはな」
その正体を瞬時に見抜く捜索屋だったが、スメルトは肯定も否定もしなかった。もとより人語を話す術を、彼は生まれながらにして持ち合わせていない。でも、生きていく上で不自由はない。未生物として造られたスメルトの感覚器には、何の問題もないからだ。いやむしろ、鋭敏さで言えば、その知覚力は兄弟一と言っても過言ではない。
スメルトは己の腕力のみで、百キロを超える自重を支えていた。ビルの壁面を掴んだまま、重機関砲が戦慄く。殻に巻き付けられていた弾帯が物凄い勢いで消費され、莫大なマズルフラッシュが闇夜に轟く。
迎え撃つ。両腕を振り薙ぎ、鋼糸が宙を舞う。鋼の糸は襲い来る無数の弾丸を逸らし、弾き、あるまじきことに断ち割ることまでやってのけた。糸は、それ自身に意志が宿ったかのように蠢き、回転し、霰の如く降り注ぐ銃弾の威力を無力化していく。
精緻なる防壁、正に神業。『糸』というそれ本来が宿す変則的な動きの前では、直線的な攻撃しかできない銃器など、役に立たない。それでも、スメルトの心臓(どこに位置しているのかは判然としないが)が打つ脈拍には、いささかの乱れも無かった。
「シッ!」
鋭い呼気と共に、捜索屋は天高く右腕を突き、追い上げる。糸の束が、螺旋階段を描くようにしてスメルトを強襲。だが、腕が絡み捕られる寸前の所で、スメルトはこの一撃を脱した。脱しただけに留まらず、反撃へと転じた。
闇夜に跳躍んだスメルト。その腕に埋め込まれた瞳の一つ一つの表層に、厚い水の膜が張られた。鋭い痛みを感じたのは、まさにその瞬間である。
「がっ――」
包帯に包まれた捜索屋の顔が苦痛に歪む。見ると、彼の両膝から血が……銀色の血が流れ、靴を汚し、地面に濃い染みをつくっているではないか。
「(何だ……糞、何が起こったッ!?)」
訳が分からず、捜索屋はスメルトの姿を追った。敵は何時の間にか、反対方向のビルへさかしまに移動していた。あんなに巨大な重機関砲を背負っているというのに、俊敏性を全く失っていない。スメルトの両腕に搭載された筋肉が如何に異常な密度を誇っているかを、如実に表していると言えよう。
機関砲の銃口は、相変わらず捜索屋へと向けられている。腕の瞳が、キュッと細く笑った。ような気がした。
「(む……ッ!)」
攻めなければ、殺される。殆ど直感に近かった。捜索屋は両足の痛みを堪えつつ、先程よりも高速で十指を繰り、風切り音を鳴らして鋼糸を放射。目まぐるしい剛糸の乱舞を以て、スメルトの全身を切り刻もうとした、その刹那。捜索屋の視界で、予想外の現象が起こった。
スメルトの両腕に巣食う数多の瞳から、瞬時に液体が溢れ出たのだ。液体は瞳から零れる寸前でピンボール程の球形へ変化し、散弾を彷彿とさせる弾分布を描いて、超高速で射出された。
瞳から滲む体液。
スメルトの体液。
彼の涙。
「(涙の……弾丸……!?)」
蝸人として造られた、スメルトだけが扱える飛撃。先が読めない変幻軌道を描きつつ、涙の弾丸はビルの壁面に当たると、速度はそのままに幾粒にも分裂して跳弾を繰り返し、鋼糸の網を掻い潜って、捜索屋の死角へ食い込んだ。攻撃と共に標的の動きさえも封じ込める、正に必殺の銃弾爆撃。
逃げ場はない。
だというのに。
「なるほど。なるほど」
捜索屋は、不敵に笑みを浮かべた。
「腕の眼だけじゃなく、使う技までそうくるとは」
俺と同じ、バケモノか――
ニタリと笑みを浮かべた捜索屋の全身を、涙の弾丸が一斉に叩いた。その拍子に、スメルトと捜索屋、両者の間で莫大な水煙が上がった。涙の弾丸が一つ残らず弾け飛んだのである。
砕けた水の微粒子が大気を泳ぐ。
周囲の気温がぐっと冷え込んだ。
水煙の密度が徐々に薄くなっていく。
瞼が千切れんばかりに、スメルトの瞳が大きく見開かれた。
煙が晴れた先で、捜索屋が不敵に笑っていた。
スメルトの自信に、僅かばかりの綻びが見られた。彼の腕にある瞳の数は、左右合わせて凡そ五十対。つまり、百の目玉から、あの恐るべき涙の弾丸を発射する訳だ。発射方向は変幻自在で、且つ『人体』のみを貫くようにできているその弾丸は、障害物に当たれば無数に砕け散り、級数的にその数を増やしていく。
誰が見ても必殺の妙技。それでも、捜索屋は恐ろしく冷静でいた。彼は、それまで羽織っていた黒いコートを脱ぎ去ると、包帯によってがんじがらめとなったその体躯を見せつけ――いや、これは。
「まさか、こんなところで『同類』に出会えるとは思わなかったぞ」
捜索屋の全身に巻かれた包帯を良く見れば、これはどういうことか。虫食いにでもあったかのように、無数の穴が開いているではないか。
しかも良く見れば、その穴から覗くは、金色の光輝かせる目、目、目。無数の目だ。それが、捜索屋の胸を、腕を、首を、背中を、髪に隠れた後頭部を、びっしりと覆いつくしているではないか。
同類。捜索屋はスメルトを見上げてそう口にした。その言葉通り、彼らは『同種の特徴』を宿した未生物。捜索屋がその体に受けた《異変》は、図らずとも、敵と『同じ特性』を宿していた。
先ほど生じた莫大なる水煙は、咄嗟の機転を利かせた捜索屋の反撃が生んだものだったのだ。捜索屋もまた、その全身に生えた瞳から、体液を高圧放射する術を身に宿していた。故に、自身に襲い掛かる涙の弾丸の一つ一つを叩き砕くに至ったのだ。
スメルトはビルの壁面に両腕をついたまま、ぶるりと大きく殻を震わせた。それが恐れからくるものなのか、それとも武者震いか。はたまた、自分と同等の力を宿した者を前にして、何か運命的な予感を覚えた事ゆえの慄きからなのかは定かではない。分かっているのは、両者共に戦う肚を、既に決めているということだけだ。
スメルトは、力一杯にビルを両腕で蹴った。蹴ったと同時、空中で縦に回転。恐るべき加速に乗じて、再び両腕の瞳より、無数の液体弾丸を爆ぜさせた。捜索屋も、妖幻怪奇の一撃を以てこれを迎え撃つ。
巨大なピンボール台の中に閉じ込められてしまったかと見間違うほど、寸分の予断も許さぬ決死の攻防戦が繰り広げられた。スメルトが放った涙の弾丸を、捜索屋の全身より発射された涙の弾丸が叩き落としていく。彼は、冷徹な瞳で怪奇なる魔人をただじっと睨みつけると、地を蹴って突進して鋼糸を繰り出した。
と、ここに来てスメルトが新たな動きを見せた。依然として涙の弾丸を放射しつつも、いままで拳形であった両掌の固い結びを、ふっと解いたのだ。
その掌の中心にあったのは、どう見ても人間の口にしか見えぬ穴。そこから、男根にも似た棒状の肉塊が飛び出ていた。
今度は何をする気か。
考えるより先に、身体が自然と動いていた。
腹の底から息を吹き、捜索屋はスメルトの真下までくると、勢いをつけて跳躍。重力加速度に乗って落下してくる巨大な殻目掛けて鋼糸を絡ませ、あまつさえ肉の棒を刻まんとするが、その先端部から噴き出した緑色の溶解粘液に溶かされた。
月光に照らされ、儚く消えゆく鋼糸の無慚な様よ。地下シェルターの外殻を破る糸口をつくったその溶解粘液は、金属に対して強い腐食性を持つのである。オーガ合金が練り込まれた鋼糸にとって、スメルトが放つ溶解粘液は、まさに天敵だったのだ。
捜索屋は狼狽した。咄嗟に身を翻して粘液を避けるも、立て続けに涙の弾丸が牙を剥いて襲い掛かる。たまらず地を俊敏に転がり、物陰へと退避する。追い縋るかのようにして、涙の弾丸がコンクリートを次々に抉っていくも、既にそこに、捜索屋の姿は影も形も無かった。
△▼△▼△▼
――何故、こんなことをしているのだろうか。
捜索屋の胸の内に沸いた疑念は、余りにも突拍子のないもので、全くこの場にそぐわない感情だった。今、彼は冷たきビルの陰に体を預け、瞳を瞑り、苦痛に耐えている。
百の銃口より火を吹いた涙の弾丸に弾丸をぶつけるという、彼の凄絶極まる妙技は、しかしその実、全て上手くいった訳ではないのだ。幾つかを撃ち損じた結果、腕や胸に浮かぶ目玉が数個潰れ、そこから銀の血を流している。それらの傷は、彼が常人を遥かに超える技を身に着けた者ではあっても、火門再牙のような超人ではないことを、ありありと示していた。
だが、何も無理をする必要は無かったはずだ。その気になれば、敵の猛攻を掻い潜って逃げ去るという選択肢もあったはず。だが、彼はそれをしなかった。もし、あの恐るべき蝸人を野放しにしておけば、その毒牙が、あの可憐な少女に向けられると思えば――
『琴美さんは、違いますよ』
戦いの中で、捜索屋は自覚した。自分は、あの女に少なからず好意を抱いている。だから助けた。だから先に逃がした。何故、そんな気持ちになったか、分からない。そもそも、人が人に好意を抱くのに、また、人が人を嫌うのに、理由がいるだろうか。
「(……今日一日くらいは)」
《異変》を身に受けて以降、ずっと人との深い関わり合いを避けてきた。ずっと、『誰かの為に』生きる事を、馬鹿らしいことだと詰っていた。
だけれども、今日ぐらいは。今日一日くらいは、誰かの為に生きてやろうとする日があっても、別に良いじゃないか。あの娘の為に、生きる日があっても、それで誰が困るというのだ。
『琴美さんは、違いますよ』
分かった。火門の相棒。
一先ず、お前のいう事を信じようではないか。
捜索屋は、不意に人指し指を握り込むように動かした。既に餌は巻いてある。あとは、蝶が蜘蛛の巣に掛かるのを、待つのみであった。
△▼△▼△▼
水煙と粉塵の霧が晴れかかった頃、スメルトは既に地面への着地を済ませていた。ただでさえ直視するのも躊躇われる、その太い腕に生えた目の一つ一つが、何かを探し求める様にギョロギョロと動き、辺りの様子を伺っている。
スメルトの目は万能の感覚器である。目で物音を聞き、目で周囲の匂いを嗅ぎ分ける。無数の目で、人間の五感全てを補うのである。
どんな暗闇においても、木々生い茂る複雑極まる森の中にあっても、彼の目が鋭敏さを損なう事は無い。その目から逃げられる者などいなかった。故に、索敵と陽動こそが、兄弟間における彼の立ち位置であったのだ。
五感を働かせる。果たして、敵は何処に潜んでいるのか。奇しくも、己と同じ呪いを受けた、あの男はどこへ逃げたというのか――見つけるのに、時間はそれほどかからなかった。
スメルトの瞳が、大きく見開かれた。そして、ビルの陰に捜索屋の気配を覚えると、これで終いだと言わんばかりに、両腕を奮わせて涙の弾丸を弾き出した。だがどうしたことか。しっかりと狙いを定めて撃った筈の弾丸が、どれもおかしな方向へ逸れていく。
気持ちが逸ったか。気を取り直して、スメルトは再び弾丸を放射した。今度はさらに奇妙な事に、弾丸が何もない空間で跳ね返り、スメルトの腕を貫いた。
殻の中から、反響するかのように響くうめき声。その悲痛且つ言語不明瞭な声の音に反応したかのように、周囲に何時の間にか張り巡らされていた糸が――強靭なる極細の鋼糸の束が風を切って、折り重なるようにして広がり、スメルトの体をがんじがらめに縛りつけたのだ。
腕も殻も、万力の糸に縛られてあらぬ方向へ折れ曲がり、殻から露出した重機関砲は、銃口部から内部へと侵入した糸により、発射機構を破壊されて只のハリボテと化してしまった。
捜索屋の言う『餌』とはこれであった。
先ほどの戦いの最中、捜索屋は敵の腕を狙うふうに見せかけておいて、用心して気取られぬように、周囲の廃ビルの壁や鉄柱、瓦礫という瓦礫に鋼糸の切れ端を巻き付けた。
そして、人差し指を軽く握り込むというたったの一挙動で、仕込んだ鋼糸が複雑な軌道を描き、巨大な網の様に展開するよう仕掛けていたのだ。さしものスメルトの感覚器を以てしても、只の切れ端が、どうしてこのような立体迷宮へ転じようと予想できたことだろう。
たまらず、スメルトの両手の口から伸びる肉棒が、俄かに震えた。だが、その先端部から粘性ある液が迸るよりも早く、左右の廃ビルの窓枠から飛び出すは鋼の糸乱舞。暴発寸前の肉棒をきつく締めつけ、溶解液の放出を辛うじて抑え込んだのだ。
身動きも取れず、頼みの溶解液も封じられた。腕は折れ、殻にもヒビが入っている。今のスメルトは、もはや赤子同然。月の眩い光に照らされて燦然と輝く凄惨な糸網に絡めとられた、まことに醜き蛾そのもの。これを討つは、手負いの機関員であったとしても容易いだろう。
「良く似合っているぞ。バケモノめ」
ビルの陰から、煽るような口調と共に、捜索屋が姿を見せた。
スメルトが吼えた。掌の口から発せられたのではない。殻の中からだ。彼の発声器官はそこにあった。相も変わらず言語不明瞭。しかし、壮絶な恨みが込められているのは分かった。忌々しく捜索屋を睨みつける無数の瞳に、暖かな水の膜が張られた。
「おっと、待て」
手を翳し、制する。
「俺の鋼糸要塞は綿密に計算されて展開されている。今、その体勢から涙の弾丸を撃とうものなら、全てが貴様に向かって跳ね返るように出来ている。いいのか? 俺を殺すつもりが、逆に自分が死ぬ羽目になるぞ」
スメルトは、何も言わなくなった。ただ、瞳から涙の嵩が急速に小さくなっていったのを、捜索屋は見逃さなかった。敵の言葉に素直に従う。臆病ともとれるが事実、スメルトにはもう、それ以外の手は残されていなかった。
「それにしても驚いた。それほどの深手を負っていても、まだあんな大声が出せるか。なら、その両手の口から伸びる棒を縛っている糸も、断ち切るだけの余力はあるだろうな」
網を張った主は、悠然と告げた。両腕をワザとらしく大きく広げて、
「見ろ、この通り……とはいっても、見えぬだろうが聞け。今、俺の指に糸は繋がっていない。お前が破ろうと思えば要塞は壊れる。本当だ。どうだ、やってみては? 俺の糸とお前の腕力。どちらの万力が上か、勝負といくか?」
酷な言い分である。だが、馬鹿正直にもスメルトは従った。ねじ曲がった腕に血管が浮かび、みちみちと、筋肉が凄まじく膨張する。肉の棒も更により固く、より太くなっていった。
一本、二本――棒を縛る鋼の糸が千切れていく。肉棒は赤紫色に変色し、見ているだけで痛々しい。
三本、四本――あとほんの少し力を込めれば、肉棒を縛る糸は全て断ち切られるだろう。
五本、そして六本――最後の糸が断ち切られようとした寸前、それは起こった。
ぶるりと、捜索屋の上半身が震え、何かが飛び出した。言わずもがな、無数の涙の弾丸だ。弾丸は壁にぶつかり跳弾し、糸と糸の隙間から、正確無比にスメルトの体を穿った。まさに蜂の巣という言葉以外にない。穿たれた無数の風穴から水銀のような体液が止めどなく溢れ出た。
糸に囚われたまま絶命したスメルトの傍に近寄ると、捜索屋は脱ぎ捨てた黒コートを羽織った。
血風吹き荒れる幻夜の都市。
残る《殺戮遊戯》はあと二人まで減ってしまった。
造物主の試練を乗り越えるか。
それとも、奮戦虚しく全滅するか。
道は、二つに一つだ。




