7-2 鋼糸(ストリング)
言葉では言い表せない、凄惨極まる光景だった。
割れた天井からワラワラと這い出て、降下してくる軍鬼兵の群れ。怪物達の残虐性が、容赦なく避難民へと降りかかった。
平穏は呆気なく崩れた。シェルター内は混乱状態へ陥った。怒号のように響く靴音。方々で猛る獣のようなうめき声と、下劣な叫び。泣き喚き、時折混じる呻き声。見る見るうちに、周囲は血肉の海へと化していった。
「こっちだッ!」
目の前で繰り広げられるありったけの虐殺を前にして、唖然とした様相で体を震わせていた琴美の腕を、捜索屋が強く掴んで引っ張る。
「気をしっかり持てッ! 同情なんかするんじゃないッ!」
捜索屋は包帯の隙間から琴美を見下ろし、巌のような声で激を飛ばした。琴美が痛がるのも無視してぐいぐいと引っ張り、七ヶ所に設置された非常脱出口を目指して、人込みを押しのけて駆ける。二人の後ろを付かず離れず、エリーチカが続いた。
「(俺は一体、何をやってるんだ)」
床に散らばった人々の破片を踏み散らしながら、捜索屋は考えた。それは脊髄反射的反応だった。咄嗟に琴美の腕を掴んだが、何故そんな行動に出たのか、自分でも良く分からなかった。逃げようと思えば、自分一人でも良かったはずなのに。
「(……情が移ったか)」
琴美の父が映った写真。あれを手掛かりに、捜索屋は突き止めた。獅子原琴美の父親が所属していた民間企業。ホワイトブラッド・セル・カンパニー。
嫌な予感しかしなかった。きっとこの子は、自分の父親についておぞましい真実を聞かされることになるのだろうなと、直感的にそう思った。
だから、同情したのか? 考える。そして結論。ありえない。頭を振る。どんだけチョロイ性格をしているんだと、自分で自分をなじりたくなってくる。
決めたはずだ。人を心の底から信用してはならないと。表向きは笑顔を浮かべていても、腹の底では黒く汚らしい感情が渦巻いているに違いない。人は皆、そういう生き物だ。
狂乱の渦から逃げながら、捜索はコートの裾から一枚の写真を取り出した。青空を背景に、巨大な塔が映っている。皇居跡地にある、王皇ノ柱塔。ここから距離はそう離れていない。
捜索屋は走りながら、写真に意識を集中して《色彩嗅覚》を発動。立ち昇る対象の《匂い》を視覚化する。
「(走りながらやるのは、やっぱりキツいな)」
額に滲む汗を、包帯が吸い取っていく。やがて、苦しそうに息を吐いた。捜索屋の視界に、銀色の『煙のようなもの』が、細いロープの形状をとって現れた。王皇ノ柱塔へと誘う、視覚化された《匂い》の道筋だ。
「蒼天機関の本部に向かうぞ。そこまで行けば、何とかなるかもしれない」
銀色に輝く《匂い》の道程は、最短にして最も運動量が少ない最効率なルートを示している。捜索屋は琴美の手を引き、人込みを押しのけて、《匂い》の道筋から目線を逸らさずに駆けた。
エスカレーターも、エレベーターも、非常脱出口にはなかった。地上へと続く長ったらしい階段しかなかった。そこもまた、地上に脱出せんと我先に群がる避難民達で溢れかえっていた。
こんな時どうするか。捜索屋は経験から知っていた。譲り合いの精神など、人用焼却炉にでもぶち込んでやればいい。遠慮はいらない。
溢れんばかりの人混みに無理矢理からだを割り込ませ、銀煙の導くがままに階段を駆け登る。琴美は、半ば引き摺られるような形で。エリーチカは、実に余裕のある機敏な動作で、彼に続く。
不意に、背後から聞こえる。逃げ遅れ、軍鬼兵の餌食となった人々の断末魔が。琴美の表情が、増々硬くなっていく。捜索屋は、敢えて断末魔を無視して先に進む。
関係ない。自分には、関係ない。そう、言い聞かせて。
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最後の一段をようやく駆け上り、三人は月の妖光満ちる地上へと脱出した。だが、そこも安寧からは程遠かった。
「そんな……」
あまりの光景に、琴美は肩を落として愕然とするしかなかった。
目の前にそびえ立つビルというビルは破壊され、飛沫の様に黒煙を上げている。アスファルトで舗装された道路には亀裂が奔っていた。道路が歪んだせいでマンホールの蓋が浮き上がり、割れているのが幾つも目についた。
「想像以上の破壊だな、これは」
捜索屋は呟き、隈なく周囲を観察する。何匹かの軍鬼兵が、脱出口に背中を向けるような姿勢で、狂ったように声を上げて騒いでいるのに気が付いた。奴らの手の中にあるモノを目にして、捜索屋は思わず眉を顰めた。
子供の死体だった。奴らは息絶えた男児の、血に濡れた細い足を雑に掴み、バットのように振り回し続けていた。狂ったように矯声を上げながら。まさに悪鬼だ。それ以外の何物でもない。
死体弄りに夢中になっているのか。幸いにも、まだ捜索屋の存在に気が付いていない。逃げるなら、今しかない。
「物陰に隠れながら、移動するぞ」
小声で琴美に耳打ちし、軍鬼兵がいる方向とは反対の道へ足を進める。と、踏み出した拍子に、足元の小石を不注意から蹴とばした。
「あっ……」
小石は放物線を描いて宙を飛び、軍鬼兵の一匹に当たった。何だろうか。そんな風に思ったかどうかは知らないが、小石をぶつけられた軍鬼兵と、その取り巻きが、ゆらりと琴美達の方へ向き直った。
その醜悪な相貌からは容易に想像できないぐらい、奴らの行動は的確で素早く、微塵の迷いも無かった。地下から地上へ脱出してきた避難民の存在を感知した途端、奇怪な歓声を上げて宙に舞い、琴美達三人へと踊りかかった。
「ちぃッ!」
捜索屋は琴美を庇う様に前に出ると、腰から自動拳銃を抜き、間断なく発砲。飛び掛かる軍鬼兵の体に風穴を空けていくが、その程度の傷で立ち止まる敵ではない。
護り切れない――判断は一瞬だった。
「さっさと逃げろッ!」
琴美をエリーチカの方へ突き飛ばすと、捜索屋は立て続けに銃の引き金を引いた。9ミリ炸裂弾で頭を穿たれても、傷跡が直ぐに再生する。軍鬼兵の新劇は止まらない。
「捜索屋さんッ!? なにを!?」
「早く行けッ! その角を右に曲がって道沿いにいけば、蒼天機関の本部が見えてくるッ! だから走れッ!」
襲い来る軍鬼兵を前に、捜索屋は声を張った。だが、琴美はその場から立ち去ろうとはしない。彼一人を置いて、ここから逃げるわけにはいかないと思っているのだ。
「琴美さん、速く逃げましょう」
見かねたエリーチカが琴美の腕を握る。が、琴美はそれを払いのけると、
「駄目だよッ! 捜索屋さんも一緒に……ッ!」
「気遣いなんぞ無用ッ! 行けったら行けッ!」
黒い背中が吼える。鬼気迫る声。琴美は、思わず声を失った。
「琴美さん、このままここにいたら、足手まといになります」
「で、でも……」
「彼の足止めを、無駄にするおつもりですか?」
「それは……」
「行きましょう。彼なら大丈夫です。ああ見えて、結構やりますから」
エリーチカは琴美の腕を掴んだまま、走り出した。が、何か大切なことを思い出したのか、ふと足を止める。気配を察知した捜索屋が、引き金を引きながら苛立たしげに吐いた。
「火門の相棒ッ! 何をぼさっとしているッ! さっさとその娘を連れて――!」
「捜索屋さん。貴方がどう思っているか知りませんが」
「何?」
エリーチカは振り返ると、捜索屋の背中に何とも言えぬ視線を送った。
「琴美さんは、違いますよ」
それだけ言い残し、エリーチカは琴美の手を引いて先へ進んだ。琴美は転びそうになりながらも、何度も何度も、後ろ髪を引かれる思いで背後を振り返った。
琴美の瞳には、うっすらと暖かい水の膜が張っていた。それがどういう感情の現れを示しているのか、当然の事ながら、捜索屋の理解が及ぶ領域ではなかった。
△▼△▼△▼
二人の姿が完全に群集に紛れたのを気配で確認すると、捜索屋はようやくといった風に肩を鳴らし、拳銃をホルスターへと戻した。手ぶらのまま、煌々と両目を光らせた八体の軍鬼兵と対峙する。
自分も、とうとう焼きが回ったのだろうか。捜索屋は思わず苦笑した。何故彼女を逃がすような行動に出たのか。自分の心の変化が分からなかった。
今までの自分なら、もっと冷酷な対応をとったはずだ。そう例えば、彼女らを置いて遁走することだって出来たはず。それなのに、出来なかった。どうしてだろうかと、考える。彼女の、獅子原琴美のあの目を見ると、心の水面に波紋が広がるのだ。
「まぁ、別にいいさ」
これで心置きなく、本領を発揮できる。搜索屋は気持ちを切り替えると両拳を構え、きつく軍鬼兵の群れを睨みつけた。その好戦的な態度を前にして、軍鬼兵の醜悪な面に、戸惑いの色が浮かんだ。
軍鬼兵は、理論上で言えば集合知で動く有機生命体だ。即ち、知性生命体である。故に、彼らは『気配』を察知する能力に長けていたし、戦闘の中で成長もしている。
彼らの創造主――茜屋罪九郎が下した指令はたった一つだ。幻幽都市を破壊せよ。それだけである。だが、彼らはその体に宿した知性で与えられた命令を拡大解釈し、今やその行動原理は『自分たちに敵対する人物、並びに兵器の徹底的な駆除』といった具合に変換されていた。
一度与えられた命令は最後までこなす。それが軍鬼兵の、人の手で造り出された生物破壊兵器の矜持である。だが、その矜持がここにきて、僅かに揺らぎ始めている。
捜索屋の雰囲気が変わった。それを見逃す軍鬼兵ではなかった。彼らの知性は確かに、目の前に立つ男の異質な雰囲気を知覚したのだ。先ほどまでとは全く異なる気配を放つ男を前にして手出しするのを躊躇っているのが、ありありと見て取れる。
「なんだ」
捜索屋は、コートのポケットから偏光サングラスを取り出して装着しながら、口元に笑みを浮かべた。残虐な笑みであった。決して、あのか弱い少女の前では、見せてはならない笑みだった。
「思ったより、臆病なんだな」
軍鬼兵達が敵意を剥き出しにする。挑発に乗ってまずは二体。一匹は地を駆け、もう一匹は跳躍を決めて、捜索屋を屠り去らんとする。
ところが、捜索屋が包帯に包まれたその両腕を前方に突き出した途端、軍鬼兵は苦悶の呻きを漏らし、その場から一歩も動けなくなった。地を駆けていた一匹は爪を振りかざした状態で、飛び掛かった一匹は空中で静止した。二匹共に無理矢理にでも体を動かそうとすれば、まるでカマイタチでも喰らったかのように、その皺だらけの全身から緑の筋が流れた。
「餓鬼共が、散れ」
捜索屋の指が、動く。見えぬ鍵盤を弾くように。見えぬ操り人形を繰るように、包帯に包まれた十指が空気をなぞる。指の動きに合わせて、軍鬼兵の全身から、血が激しく噴き出した。
何かが彼らの周囲で唸り、羽ばたき、切り裂いた。肉が、骨が、神経が、バラバラに切断されていく。あっという間に、二体の軍鬼兵は出来損ないの挽肉と化した。
そこへすかさず、残りの六体がほぼ同時に襲い掛かった。右から、左から、上から、下から、前から、後ろから。全身の筋肉をフル稼働。鬼気迫る速度で迫りくる。
捜索屋は落ち着いていた。突き出していた両腕をぐっと脇腹まで引き寄せると、右腕と両腕を軽く振った。包帯に包まれた指先が、妖しい月光に照らされてキラリと瞬いた。
瞬きは点となって連なり、幾条の軌跡を宙に描いた。捜索屋の指先から伸びる輝きは一秒と経たないうちに、左右から襲い来る軍鬼兵の全身に絡みついた。
十の指を、先ほどと同様の滑らかさで動かした。その動作に合わせて、両側の軍鬼兵が、木っ端微塵に弾け飛んだ。瞬間、捜索屋の指先から放たれていた謎の輝きが、緑色に光る血を纏った。
光の輝きの正体。捜索屋の両手の指先から伸びるそれは、肉眼では決して捉える事の出来ない特殊な糸――合計十本の鋼糸であった。
捜索屋の全身を覆う包帯の素材にも使われているそれは、蜘蛛の糸よりも細く、鉄より重く、たった一本で十トントラックを軽々と持ち上げてしまうだけの引張力を実現させていた。防刃性、防弾性、共に申し分ない。しかしながら、容易く扱える代物ではない。こうして偏光サングラスをかけて視覚化してやらないと、武器に昇華させることだって難しい。
腕を引き戻し、今度は身を反転させて背後を見やる。と同時に右腕を突き出す。目前まで迫っていた軍鬼兵の全身に、五本の鋼糸が絡む。か弱い輝きでありながら、鋼糸には肉という肉、骨という骨を断ち切るだけの驚異的力があった。
鋼糸を絡ませたまま、捜索屋は全身を回転。天突きで押し出された心太のように、鋼糸に引っ張られて軍鬼兵が角形に寸断された。
一先ずの危機を脱してなお、捜索屋の瞳は既に次の標的へと移っている。再び右腕を突き出して、前方から突進してくる軍鬼兵の動きを止め、牙を突き立てながら宙より襲い来る一匹へ、左腕を突き出す。
両腕が塞がった。機を逃さまいと、最後の一匹が下方より飛び出す。しかしそれも、捜索屋の右足首から放たれた鋼糸に阻まれた。あっという間の出来事だった。三匹の軍鬼兵は蜘蛛の糸に捕まった蝶のように身悶えし、脱出を図ろうとするが、そんなこと、許されるわけが無かった。
捜索屋が、左足を軸にして全身を独楽の様に激しく回転。派手な動作に合わせて、三体の軍鬼兵が肉片となって周囲に散らばる。穢れた緑血が捜索屋の全身を汚していくが、当の本人は、別に不快感は覚えない。
汚物に汚物を重ねたところで、それがどうだというのだ――
捜索屋の変幻自在の攻撃の前に、八体の軍鬼兵は倒れたが、死んだわけではない。超高再生により、瞬時に全身を再構築。再び嬌声を上げて、第二ラウンドへと突入。
捜索屋は慌てなかった。この状況を素直に受け入れ、狼狽する事は決してなかった。それが自然な流れだとでも言うかのように、再び戦闘へと身を投じる。右手と左指で殺戮の糸を放ち、絡ませ、手繰らせ、薙ぎ、払い、縦横無尽に肉と骨を砕き、ばらまき、血の雨を降らし続けた。時には、足首に巻かれた包帯をワザと解れさせて操り、両指では賄えない殺しもカバーした。
異様な光景だった。裸眼で見れば、血雨降り注ぐ中で一人の男が奇妙な舞踏を踊り、それに合わせて周囲の軍鬼兵達が、壊れた人形の如く血しぶきを上げるように映るはずだろう。
そして、第十二ラウンドへと突入仕掛けた時点で――戦いは終わった。軍鬼兵八体は再生する事を止め、考える事を止めた。
彼らの超高再生を無力化させる方法は唯一つだけ。彼らの活動源となるエネルギー、即ち熱量を全て奪い去る事。それしかないはずだった。
だが、彼らの知性が戦いの中で『進化』を遂げた結果、それは意外な形となって彼らの弱点となった。開発者である茜屋罪九郎でも、この展開は予想出来なかったことだろう。
捜索屋との戦いの中で、この八体の軍鬼兵は、悟った。
敵わない。
どんな手段を講じても、自分たちに適う相手ではない。
これ以上の戦闘は、一切が無駄である。
深層意識の中で自分たちの敗北を認めてしまったのだ。それは決して外す事の出来ない楔となって、人ならざる怪物たちの心を穿った。全ては、心を宿し、『挫折』という体験を経たが故の敗北だった。
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『琴美さんは、違いますよ』
戦いを終えた今、捜索屋は自分が殺したこの謎の生命体が何なのか、という事を考えるよりも、別の事に意識を割いていた。
足元に散らばる軍鬼兵のミンチ肉を、包帯越しの眼で眺めて思う。
『琴美さんは、違いますよ』と、あのアンドロイドは確かに口にした。その言葉の真意について、彼は考えた。
捜索屋。
十年前、彼には女がいた。
彼は彼女を愛していた。彼女も自分と同じ気持ちでいるに違いないと思っていた。
自分には勿体ないほどの良い女だった。気立てが良く、笑顔が似合う女だった。月が美しく輝く夜、軋むベッドの上で、互いの気持ちを深く確かめ合った。彼女と一緒にいれば、何も怖くなんてない。彼女と一緒なら、こんな悪魔じみた都市で暮らすのも、悪くないとさえ感じていた。
そして、女と付き合い始めて二年が経った頃。
彼の体に《異変》が起こった。
何か前兆があった訳ではない。思い当たる節は無かった。だが、《異変》は確かに起こった。
『原因は不明ですが、貴方の生体遺伝子を解析した結果、何箇所かが未知の塩基性有機化合物に置換されているのが判明しました。今の貴方は、未生物に極めて近い、それでいてまた異質な存在になりかけています。手術は無理です。今の幻幽都市における医療技術では、貴方の体に巣食った《異変》を取り除く方法はありません』
担当医は無情にも彼に事実を告げた。泣き喚いて縋っても無駄だった。現実は、彼に鋭い刃を突きつけてきた。
彼は悩みに悩み抜いた。寝る時間も削って必死に思考を巡らせた。自分の体に起こった異変と、この先どう折り合いをつけていったら良いのか。必死になって考えた。
この時の彼はまだ、人を信じていた。故に、全てを話そうと心に決めた。自分の体が例え《異変》に見舞われても、自分は自分だ。女を愛し続ける心に変わりはない。あんなに優しい彼女のことだ。きっと、自分の苦しみと、変わらぬ愛の深さを理解してくれる。
――今となっては、実に悔やまれる、愚かな考え。
ある日、彼は自宅のアパートに女を呼びつけ、全てを話した。勇気を出して、自分の身に起こった《異変》を、実際に彼女に見せつけた。あの時、自分が何を口にしていたのか、捜索屋は今になっても思い出せないでいた。多分、こんな体になっても、僕についてきて欲しいだとか、そういった類の科白を恥ずかしげもなく吐いていたのだろう。
「……無様だな」
過去の自分に向けた言葉だった。あの日を思い出す度に、彼は自分を責めずにはいられなかった。なぜあんな事をしてまで、彼女を自分の手元に置いておこうとしたのだろう。何が自分を駆り立てたのか。
答えは分かっていた。彼はずっと、自分を認めてくれる『誰か』に出会いたかった。恋愛というのは、得てしてそういうものだと思っていた。自分がこの世界にいて良いのだと、肯定してくれる存在と出会い、自分もまた、彼女にずっと、この世界で生きていて欲しいと願う。
存在の肯定。全人類が欲しがっている無償の愛。
だが、彼にそれが与えられることはなかった。
その後、彼は勤めていた義肢製造会社を辞めて、住んでいたアパートも売り払い、逃げる様にして練馬区へとやってきた。そこで紆余曲折あって、名前を捨て、捜索屋として生きている。
彼はもう、人を信じてはいない。人間の醜さを知ってしまったからというのもあるが、何より思ったのは、自分には他人を信じる『資格』が無いという事だった。
仕事上での関係なら、上辺だけの付き合いで事足りる。だが、心からの友人や真剣な付き合いをしている恋人が相手なら、自分の浅ましい部分までも曝け出さなければならない。仮初のままでは、自分を偽ったままでは、他人と真の信頼関係を築くことなんて出来やしない。
果たして今、この体を蝕んでいる《異変》を諦めと共に甘受している自分に、誰かと深い信頼関係を築く資格があるのだろうか。呪われたこの体で親友と呼べるべき人と笑い合い、愛する人と家族になりたいだなんて。そんなことを考えるなんて、いくらなんでも虫が良すぎる。
『琴美さんは、違いますよ』
エリーチカの言葉が、捜索屋の脳内で重く反響する。エリーチカは偶然から、彼が抱えている《異変》の正体を知ってしまった。それでも、彼女は以前と変わりなく、捜索屋と接している。
その理由は簡単だ。彼女が旧式のアンドロイドだからに他ならない。旧式アンドロイドは新型のそれとは異なり、合理的思考を優先し、情緒は二の次で行動する。エリーチカは捜索屋の腕を買っている。合理的思考の下で、彼が自分や再牙に害をもたらす人物ではないと判断したから、今も変わらぬ態度をとり続けているだけ、なのかもしれない。
『琴美さんは、違いますよ』
彼女も――獅子原琴美もそうなんだろうか。捜索屋は深く思う。
あの、怯えの中にある純粋な瞳の向こうで、彼女は何を考え、何を思い、今朝あの場で、俺の事を見ていたんだろうか。
彼女は違う――何と違うというのだ。火門の相棒、教えてくれ。彼女は何が違うというんだ。嘗て俺が愛した女とは違って、俺の『全て』を受け入れてくれるというのか。俺に、人との信頼関係を築く為の『資格』があると、全面的に肯定してくれる。あの子はそんな性格の人間なんだと、そう言いたいのか?
分からない。もし仮にそうだとして、理由は何だ? あの子はどう考えても、アンドロイドのように合理的に物事を考えるのを不得手とするタイプだ。地頭もきっと、そんなに良くはないのだろう。
なら、彼女が違う理由は?
彼女が、『俺の存在を認めてくれるかもしれない』としたら、そこにはどんな理由が隠れ潜んでいるというのだ。
捜索屋の思考の流れはしかし、突如として耳元に響いた銃声により、強制的に中断する事を余儀なくされた。




