7-1 崩れた安息
二週間ぶりの更新。お待たせしてしまって申し訳ございません。
「これで残りは、スメルト、チャミア、マヤの三体やな」
一連の騒動を引き起こしている『組織』ことダルヴァザ。その本拠地に当たる地下施設のモニタールームで椅子に座りながら、茜屋罪九郎は一人ごちるようにして言った。
作戦が始まってから、既に二時間以上が経過している。当初は軍鬼兵と人造生命体の能力が物珍しいタイプであった為か、それなりの被害を与える事には成功した。
だが、超現実仮想空間でアハルが電脳兵士に敗北したのをきっかけに、戦況は徐々に押されつつある。壁面スクリーンに表示されている軍鬼兵の撃破数が、一時間を超えた辺りで急激な上昇を見せているのが、その証拠と言えた。
流石は蒼天機関だ。憎たらしく思いつつもその一方で、罪九郎は心の中で敵を讃えた。恐らく、何らかの方法で軍鬼兵の超高再生を無力化させる方法を編み出したのだろう。優秀な人材を多く抱えているだけの事はある。
おまけに、罪九郎が手塩にかけて育て上げた人造生命体も、全六体のうち既に半数が殺害されている。戦力の大幅な低下は否めない。このまま他に何も手を打たずにいれば、優れた情報収集力を有する蒼天機関のことだ。直ぐに、こちらの居場所を探り当てるだろう。
だが、罪九郎はそこまで状況の悪化を想定しながらも、余裕の笑みを崩さない。組織が不利な状況に陥っていくのを、楽しんでいるようにも見える。
「ええぞ。ええ調子や。こっちの望んだ通りに事が運びよる。清々しい気分や……」
幼子が、精一杯の知恵を凝らして造り上げたトラップに誰かが引っ掛かるのを、今か今かと待ち侘びる。今の罪九郎は、まさにそんな心持ちでいた。糸目を輝かせ、壁面スクリーンが映し出す地獄絵図と化した幻幽都市の街並みを、喜々として眺めながら口にする。
「奴らはきっと、ワシらを追い込んでいると、そう思い込んでいる筈や。しかし、逆や。全て逆なんや。ワシらが奴らを追い込んどるんや。そんな事にも気づかないんやから、全く……ちょろいもんやで。なぁ、お前さんもそう思わんか?」
罪九郎は椅子に座ったまま首を回し、背後に立つ男へ視線を投げかけた。罪九郎の問いかけに男は答えず、ただ黙してその場に立ち尽くしている。顔色は死んだように白く、その瞳は灰色に濁り、焦点もどこか合っていない。まるで、酷い催眠状態に陥ってしまったかのようだ。
「どんな気持ちや? 守るべき兄妹達が、このワシの命令で死地に赴き、むざむざと殺されていく様を何もできずに眺めるっちゅうんは、一体どんな気分や? なぁ、マヤ……と言っても、くく、もうお前さんにはワシの声は届かないんやったな」
なじるような物言いに対しても、マヤ・ツォルキンはこれといった反応を見せなかった。分厚い灰色のコートに身を包み、沈黙を伴い立ちつくしているその姿は、どこからどうみても置物じみている。
特殊音響が持つ思考攪拌の効果は絶大だ。今のマヤは、感情のみならず、人格そのものが抜け落ちてしまっていた。抵抗はおろか、自分の意見を口にする事さえ出来ない。釈尊の掌の上を飛び回る孫悟空の様に、運命の手綱を握られてしまっている。茜屋罪九郎という、忌むべき男の手に。
「しかしや、マヤ・ツォルキン」
罪九郎は悪意の籠った笑みを浮かべると、おもむろに椅子から腰を上げた。その手には、何時の間にか注射器が握られている。その中は、濃い白色の薬液で満たされていた。
「今のボケたお前さんを戦場に向かわせても、何の役にも立たん。それでは困る。《切り札》の発動には、もっと沢山の血が必要なんや。しっかりと働いてもらわなあかん」
罪九郎はマヤの傍まで近寄ると、右手でコートの襟を掴んで捲り、マヤの白い首を露わにした。左手だけで器用にシリンジ官を押し上げ、針内に溜まった空気を外に出し、準備を整える。
「これから、貴様の人格を『上書き』する」
それは、宣誓に近い宣告。
罪九郎の左手に力が入る。注射針をマヤの首筋に突き刺し、中の薬液を注入するその姿は、何とも例え難い危険な気配を孕んでいた。薬液は高粘性の溶液であったから、最後の一滴まで注入するのに一分少々の時間を要した。
全ての薬液を注入し終えても、直ぐにそれと分かる変化は無かった。しかし、罪九郎は底意地の悪い、それでいて大変満足げな表情でマヤの正面へ回り込み、得意げに薬液の『正体』を明かした。
「お前さんに注入したんは、ワシの精液と、催淫誘発系の合成天然化合物、真言スープの三種類をブレンドさせた《スペルマグラス》や。その効果はズバリ、人格矯正。ワシの体液を原料に使うておるから、今の貴様はワシと同等の『理性』と『感情』を宿し、ワシが抱えている『欲望』をも内包しとるっちゅう訳や」
つまり――罪九郎は続ける。
「マヤ、今のお前さんは、頭ん中を色々な感情がグルグル周回しとるはずや。憎悪、嫉妬、怒り……覚えておけや。それがワシや。ワシそのものなんや。分かるやろ? なぁ、分かるはずや。きっと、なぁ?」
ニタニタとした笑みを前に、マヤは静かに頷き返した。みるみるうちに、その白い顔に仄かな赤みが取り戻されていく。
途端、マヤの全身から、例えようも無い悪臭が放たれた。瞬く間に部屋一面に充満したマヤの体臭は、常人が嗅いだら失神してしまいそうなぐらい臭く、吐き気を催さずにはいられない程に刺激的だった。熟成させたドブ川が発するような、そんな激臭だった。
だが、その体臭の原因である体液の持ち主だからか。それとも、彼自身の生まれ持っての異常な癖ゆえのものか。罪九郎は、マヤの全身から匂い立つその悪臭を、心地よい香りとして認識した。
「そうやそうやッ! この匂い、この臭気やッ! これこそが、貴様が今、ワシの感情、ワシの理性、ワシの欲望に塗り替えられた事の証拠。生まれ変わった事の真なる証やッ!」
「……いい気分だ」
濁った瞳が僅かな光を取り戻した。今までのマヤ・ツォルキンと決別した、新しいマヤ・ツォルキン。その誕生の瞬間である。彼はマヤであって、マヤではなかった。姿形はマヤでも、その入れ物に宿る精神性は、全く異質で優しみの欠片も無かった。
意識が覚醒。マヤは大袈裟に両手を広げ、薄明りに包まれた天井を仰々しく仰ぎ見た。自然と、熱っぽい溜息が漏れる。
「清々しい……まるで、心の中に一筋の光が差し込んだような気持だ。身体は勿論、心まで生まれ変わったかのような気分。だが……」
ふと、顔をしかめる。視線を暗黒の足元へ転じ、卑しい奇虫でも見つけてしまったかのように、口元を歪めた。マヤは気が付いたのだ。己の意識下から沸々と気泡を生じては弾けていく、とてつもなくドス黒い、どろどろとした感情に。
「なんだ……これは……この、身体の芯を煉獄に変えんとギラギラ滾る、底知れぬ黒い感情は、一体なんだ?」
「それがワシの心。お前さん自身の心でもある」
「心……だと?」
怪訝な表情を浮かべたマヤに、罪九郎は黙って頷き返した。
「成程そうか……醜い汚泥のように意識の底にへばりつく、この忌々しい感情。発露の源は、俺と貴様の心か……ふん、気に食わないな」
「ほう、気に食わんと来たか」
「当たり前だ。こんなゴミ溜めのような感情、今すぐにでも葬り去ってやりたいくらいだ。昏い影にどこまでもついて回られるかと思うと、やりにくい事この上ない」
「なら、戦うんやな」
罪九郎は椅子に座り直し、足を汲んで肘掛けの上で頬杖をついた。
「戦って、戦って、戦い続けるんや。そうして発散しろ。自分の心の内を、全て曝け出せ。そうすればきっと、お前さんを蝕んでいるその黒い感情も消えるはずや」
あることないこを口にする。只のでっちあげた。それは罪九郎は無論、マヤも当然理解している。しかし、マヤは否定する事も無く、「そうか、分かった」と口にしただけだった。
要するに、彼は口実が欲しかったのだ。己が心を搔き乱すこの苛立ちを、ぶつける相手が欲しかった。マヤは――罪九郎の感情を植え付けられたマヤの行動原理は、未だかつて経験したことが無いくらいの、ドス黒い情緒に支えられている。
世界に向ける失望感。背中にのしかかる、陰々滅々とした圧迫感。この世のあらゆる事柄と事象に抱く、途方もないほどの憎悪の塊。それらが混然一体となり、己の肉体を蝕んでいるというのなら、選択肢は元より限られていた。
「ぶちまけよう。俺の、あんたの――俺達のこの苛立ちを。世界への憎悪を、この異形の都市でぶちまけてやろう」
「なら、千代田区に行くんや。今、あそこにはお前さんの弟妹がおる。スメルトに、チャミアや。特にスメルトは、地下シェルターに逃げ込んだ都民共を殺すために、軍鬼兵と行動を共にしとる。奴らと合流し、街に血の雨を降らすんや」
「血の雨だと?」
小馬鹿にするかのように、マヤが鼻を鳴らした。人形が主人に向けるにしては、行き過ぎた態度。罪九郎は意識せずとも眉間に皺を寄せ、厳しい口調で言った。
「何か不満か?」
「生ぬるいな」
「ふむ。ワシに意見するとは、肝っ玉が据わっとるのぉ」
皺が、一層深くなる。罪九郎の苛立ちを前にしても、マヤは臆しなかった。顔に残虐な笑みを張り付け、モニタールームのドアへと歩き始める。
灰色のコートに身を包んで堂々と歩くその姿は、神聖さからは程遠かった。暗黒に近い気配を孕んでいた。弟妹達が知らない、黒に生まれ変わったマヤ・ツォルキンが、そこにいた。
ドアに手を掛ける。マヤは振り向きもせずに言い放った。それは、実に挑戦的な物言いであった。
「血の雨では物足りぬ。臓物の雨を降らせてやる」
罪九郎の表情に、邪悪が灯った。
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千代田区の地下シェルターは、幻幽都市の中でも最初期に建造されたことで有名だ。
かつて存在していた東京ドームと同等の規模を誇るそれは、『地下シェルター』という言葉の響きから想起される暗さとは縁遠く、十分な光量を蓄え、そして清潔だった。
延べ六万人にも及ぶ千代田区避難民の精神的ストレスを緩和する為か。地下シェルターにはささやかな工夫が凝らされていた。高い天井に設置された高輝度MLD照明を始め、貯蔵庫には一ヶ月間を余裕で過ごせるだけの十分な日用品・加工食料品が備蓄されている。板張りの床下には暖房システムも完備。
エネルギーの供給面でも問題は無い。シェルターの更に地下に埋め込まれた電量保存槽には、数十年分の電力が蓄えられている。そこから、シェルターの各場所に設置された受送電クラスタを介して、シェルター内にある全ての電化製品にロスレスで無線給電される仕組みだ。
幻幽都市におけるメインエネルギーは電気であるから、蒼天機関が無線給電設備のグレードに気を配って地下シェルターの建設を推し進めたのは、当然と言えば当然であった。
地下シェルターの堅牢さは、言うまでもない。海底五千メートル級の圧力にも耐えられるオーガ合金が素材なだけあって、これまで一度も外敵からの物理的侵入を許してはいなかった。
だからと言って、それが安心に繋がるとは限らない。これまでが上手くいっていたから、『今回も』身の安全が無事で済むという保証は何処にもない。
高輝度MLD照明が照らす騒めきの最中。幼児、少年少女、青年、中年に壮年の男女、老人と老婆。その表情は十人十色。しかし、表情の陰に隠れた心理は、皆が同じだ。緊張と不安である。
まだ物事の判別がつく年頃ではない幼子を除いて、群集は暫くの沈黙の後、思い出したかのように隣の人と会話を始め、途切れ、押し黙る。それを繰り返す。あちらこちらで、そのような光景が見られた。
獅子原琴美も、そんな群集の中の一人としてここにいた。支給された毛布にくるまり、エリーチカと向かい合うようにして体育座り。
「無事にここまで避難出来て何よりです。貴方に何かあっては、私が後で再牙に怒られてしまいますから」
琴美は黙って頷く。エリーチカの科白後半の部分についてではなく、前半部分についての肯定である。無事に避難出来てよかった。ミセス・ミストの店を出たところで、あの奇妙で怪奇な訳の分からない怪物に襲われた時は、もうどうしようもないと覚悟したものだ。それでも、こうして生きている。今のところ、取り敢えずは。
「あの怪物達、何なんでしょうか」
思い出すだけでも寒気がする。不安げな視線を向けると、エリーチカは推測を述べた。
「おそらく、ベヒイモスかと思われます」
「それって、あの元旦にだけ山から降りて来る怪物のことですか?」
「よく御存じですね」
「昨日読んだガイドブックにそう書いてありました。でも、今は十一月ですよ?」
「あり得ない話ではありません。ベヒイモスはまだまだ生態系に謎が多いですから。元旦にのみ襲ってくるというのも、これまでの経験則から導き出した推測に過ぎません」
琴美は思案した。彼らが仮にベヒイモスだとして、でも山から降りてきたようには思えなかった。奴らは、目の前にに突如として現れたのだ。あの、七色に輝く空間を通って。
「次元の門ですね」
エリーチカは即答した。
「ジゲンノモン?」
「簡単に言えば、ワープ空間です。Aという空間とBという空間、二つの異なる空間を繋ぐ、文字通りの門です」
「それも、この街で起こる自然現象の一つという訳ですか」
「そうとも限らん」
琴美の隣で背中を向けて胡坐をかいていた何者かが、会話に割り込んできた。琴美は訝しげな視線を男に向けたが、振り返った男の顔を見て、「あ」と声を上げた。
「捜索屋さんじゃないですか」
どうも。ぺこりとお辞儀をする琴美。捜索屋は朝に出会った時と同じく、黒いロングコートに黒い鍔広の帽子を身に着け、その下は包帯で完全に覆われていた。
捜索屋は、包帯の隙間から琴美を見て、続いてエリーチカに視線を移した。
「奇遇だな。こんなしけた場所での再会とは。それに、火門の相棒も」
「久しぶりですね。もしかして、この辺りに住んでいるんですか?」
「たまたま近くのバーで飲んでただけだ。そしたら騒動に巻き込まれて、こんなしけた場所に避難する羽目になった。それはそうと、火門は相変わらずだな。奴を俺の所に来るようにけしかけたのは、君だろう?」
「そうでもしないと、あの人は動きませんから」
「扱いを心得ているな。その肝心の当人がいないようだが、まだWBCカンパニーにいるのか」
「さっきから何度もかけてるんですけど、全然連絡がとれないんです!」
琴美は祈るようにして、携帯電話を両手で握り締めた。都市西部の移動通信体は、いまだに回線が回復していないようだった。
「あまり心配しすぎると体に毒だぞ」
「でも、あそこは危険区域で、死魂霊とかいう悪霊が沢山いる場所だって、火門さんが……」
「あの程度の困難に打ち負けるような奴じゃないさ。そうだよな」
エリーチカに同意を求めると、彼女は冷たい表情のまま、しっかりと首を縦に振った。
「もしかしたらここにくる途中で、あの怪物達と遭遇したのかもしれません。まぁ、ここで大人しく待っていれば、いずれ会えるでしょう。大丈夫ですよ」
「信頼されているんですね」
「再牙は、万屋としてはまだまだ半人前ですが、戦闘力は高いですからね。彼の宿す能力は、この都市でもかなり上位のクラスに入るはずです」
「戦闘力はともかくだ。俺としては、あのナリで十五歳だってのが、未だに信じられんがな」
耳を疑う琴美。
十五歳だって?
あの顔とあの声で?
「それ、冗談ですよね?」
捜索屋が苦笑した。
「どうだか。まぁ、少なくとも本当だろうな。奴は、そういう類の冗談は口にしない性質だ」
「……本当なんですか?」
エリーチカに問いかけるが、彼女は敢えて答えなかった。
話題を変えようと、エリーチカは琴美を無視して、捜索屋に話かけた。
「さっき、次元の門が自然現象とは限らないと言ってましたが、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ。つまり、人為的に発生させることも可能だという話さ」
「……過去に前例がないでずね」
「だが、あり得る話だ。そう思わないか」
エリーチカは押し黙った。琴美もまた、何と口にして良いか分からないでいる。
「ここは幻幽都市だ。何が起こるか分からない魔窟で、都市は今も進化している。生きているのさ、この都市は。ナマモノである以上、常に俺たちの予想を超える現象が起きても不思議じゃない。また、それらの現象を人間が意図的に起こすことだって、可能かもしれない」
「かもしれないだらけの都市ですね、ここは」
「あれだけの数の次元の門が、ほぼ同時に出現したんだ。自然の力にしては、出来すぎている」
言い終えて、捜索屋は特に意味もなく天井に視線を向けると、凍った様に動かなくなった。何事かと思い、琴美も、エリーチカも天井を仰ぎ見た。
白い天井。高輝度MLD照明が設置された曲面の中央付近に、いつの間にか亀裂が生じている。殻に包まれたゆで卵をテーブルに叩き付けていくかのようだ。頑丈な筈のオーガ合金が、崩されていく。
崩壊は一瞬だった。一体どういう原理でそうなったかは分からない。分かっているのは、地下シェルターの天井が、何者かに破壊されたということだ。
落下していく合金の巨大な欠片。飛散するMLD照明。人々の叫喚。パニックと非常事態の嵐。一時の安全は破壊され、混沌が地下シェルターを覆った。
「離れるなっ!」
捜索屋は叫び、エリーチカと琴美の腕を掴み、地上へ脱出しようともみくちゃになる人ごみの中、じっと天井を睨み付けた。
不規則に点滅する照明が、それを照らす。天井に穿たれた穴から、蜘蛛の子を散らすようにシェルター内へ入り込み、蹂躙しようとする彼らの存在を。
「……本当に、何が起こるか分からない」
軍鬼兵である。




