6-16 血風推参 その2
「がっ――!」
頭蓋に響く、猛烈な揺れ。蹴りの一撃を喰らって村雨がよろけたところへ、チェーンソーとギロチンがほぼ同時に振り下ろされた。村雨は飛びそうになった意識を無理矢理に引き戻すと、間一髪の所で中軽量級小型メイサー砲の銃身を盾にした。手首の力を軽く抜き、振り下ろされたチェーンソーの衝撃を受け流し、ギロチンの突きを弾き返す。手首に奔る痛みで苦悶の表情を浮かべるが、村雨は何とか堪えた。
だが、休む間など与えないとばかりに、キリキックの両腕から繰り出される一挙手一投足の連続攻撃といったら無かった。《ジェイソンGV》の歯刃は一秒間に一千回もの振動を繰り返し、とことん大気を切り裂いた。片や左腕の《キングクラブ》は執拗に村雨の首元を狙い、その巨大な鋏を滑らせる。キリキックの有り余る程の運動神経と獰猛さは、血に飢えた猛獣そのものであった。
チェーンソーとギロチン。高密度の筋肉を搭載した両腕に備えられた、禍々しき凶器の連撃は、留まるところを知らなかった。滅茶苦茶にして圧倒的とも言える激しい攻撃を、村雨は受け流す事もままならず、中軽量級小型メイサー砲の銃身で、辛くも受け止め続けた。暗闇の中で激しく火花が散り、その度にキリキックの口から嗤いが漏れる。
先ほどの勢いは何処へ行ってしまったのか。そう口にせずにはいられないほど、村雨は劣勢に立たされていた。息をつく暇も無いほどの攻撃に晒され、額に脂汗が浮かんでは垂れていく。反撃はおろか、ついていくのがやっとだった。
「オラオラオラオラァッ! どうしたどうしたァ! さっきまでの勢いが全然ねぇじゃねーかァ、ええッ!?」
水を得た魚のように、キリキックの表情が生き生きとしている。嵐のような猛攻を受け止め続けた結果か。中軽量級小型メイサー砲の鋼製フレームに、僅かずつ亀裂が刻まれていく。防御に徹していられるのも、時間の問題だった。
「(コイツやっぱり、本気を出していなかったんだ)」
このままでは、状況は不利になるばかり。村雨は一旦距離を置こうと、足を後ろへ滑らせた。だが、キリキックはその動きを既に読んでいたのか。村雨が足を引いたのに合わせて左足を一歩前に踏み込み、村雨の胸部目掛けて渾身の薙ぎ払い。チェーンソーが、腹部を守る装甲にクリーンヒットする。タイミングは完璧だった。
「がッッ!?」
腹部にのしかかる、熱くて重い衝撃。防御の構えを思わず解いた村雨の口から、鮮血が吐き出された。キリキックが隙を逃さまいと、今度はギロチン型の左腕――《キングクラブ》で、がら空きになった村雨の右わき腹を噛み捕った。そのまま腕に力を込めて装甲もろとも脇腹を砕こうとする――が、迦楼羅の装甲に施された気液流動回路システムによる衝撃吸収機能が思った以上に厄介で、それが叶わないと感覚的に悟るやいなや、趣向を変える。
両足と腰に力を溜め、キリキックは村雨を持ち上げたのだ。左腕一本の力で、迦楼羅を含む重量およそ百キロにもなる村雨の肉体を。恐るべき馬鹿力を前にして、村雨は心の底から恐怖した。
「奮ッ!」
全身を捻り、キリキックは村雨を近くにあった雑居ビルの壁面に向けて、勢い良く投げ飛ばした。近くを浮遊していた《レギオン》に村雨の腕がぶつかり、勢いそのままに、壁面に背中を強く打ちつけた。受け身もクソも無い。不快な衝撃に全身を凌辱された村雨は、力無く地面に沈んだ。何とか気を保ってはいるが、うつ伏せの姿勢から動けなかった。
「が……ふっ……!」
キリキックが放った攻撃は、体幹に響くほど重く、迦楼羅の優れた防御機能を凌駕する程だった。激痛に全身が苛まれた。白黒と反転する視界。打ち所が悪かったのか、フルフェイスヘルメットの後頭部にはひびが入り、脳の奥がズキズキと痛む。口の端から、血が垂れた。見ると、さっきぶつかった衝撃のせいなのか。機能を停止した《レギオン》がごろりと地面に転がっている。
「恐怖心ダ。それが、今の貴様の心を蝕んでいル。だからそうやって地面に這いつくばるしか無いのダ」
村雨は、灰色の大地からゆっくりと顔を上げた。勝ち誇った様に笑みを浮かべるキリキックが仁王立ちしているのが、視界に入った。
「恐怖――路傍に転がる合成野犬の糞にも劣る感情に支配された時点デ、貴様は既に、俺に負けていタ」
「……」
村雨は反論しなかった。キリキックの言葉が図星をついていたからではない。この期に及んでもなお、村雨の心は折れていなかった。反撃の芽を見出そうとしていた。幸いにして、すぐ近くに中軽量級小型メイサー砲が転がっているのが目についた。壁に打ち付けられた際に落としてしまったものだ。何とか掴んでやろうと、痛みを堪えて右手を伸ばす。
が、しかし。
「おっとォ」
意地悪い声と共に、キリキックが左足で村雨の手の甲を踏んづけた。骨が砕かれる嫌な音と共に、村雨は苦悶の表情を浮かべる事を強いられた。
「ん~ん。実にイイ顔だ。やっぱり、弱者にはそういう顔が良く似合ウ」
弱者。そう断じられた事に、村雨は内心で激しい怒りを燃やした。口を開いて何かを言おうとするが、喉元にかかる血塊が邪魔して、上手く言葉に出来ない。
弱者。俺は弱者。弱者なのか。
キリキックが悪戯風に口にした言葉は、呪いとなって村雨の心に入り込んできた。生真面目な性格故だろう。内に燃える怒りの矛先は敵ではなく、自分自身に向けられた。
あれだけの特訓を積んでも、自分はこの程度の力しかないのか。幻幽都市で狼藉を働き、罪無き稚児や力無き女老人を縊り殺す怪物集団に混じり、悪の極みを為す不逞の輩を斃す術さえ、力さえ、自分は持ち合わせていないのか。
情けない。蒼天機関の名の下に治安を守護するはずが、なんと、情けない事だろう。忸怩たる思いに締め付けられながらも、ふと、村雨は痛む右の甲に視線を向けた。
――この位の痛み――あの男なら。
脳裏に過る。黄色いコート。銀色の短髪。両の腕に備えられし黒いガントレット。顔を縦断する、痛々しくも禍々しい刀創。
――あの男なら、容易く斃してしまうのだろうか。スカー・フェイスと同等の強さを、自分も持っていたら、あるいは――
「確か、この辺りだったな」
鼓膜が捉えた人の声。力無き者がする当然の仕草がそれであったのか。村雨は夢想から覚めると、もう一度、己の聴覚に神経を集中させた。
「《レギオン》から出ていた信号から察するに、確かにこの周辺の筈ですが……」
「にしても、妨害電波がひどいな……まさか大声で呼ぶわけにもいかんだろうし」
「しょうがない。徹底的に探し出しましょう。こうしている間にも、村雨連絡隊長は窮地に立たされているかもしれないのですから」
一人、二人、いや……五人。総勢五人の足音が聞こえる。話し声もだ。ここに来て、ようやく本部からの援軍が到着したのだ。まさかの展開に、思わずキリキックは村雨の手から足を離して、声のした方を見た。
そうして、ビルの陰から五人の姿が露わになる。月に照らされた五人は本部の機関員らしく高機能強化外骨格の天帝を纏い、各々が重量級のライフル式メイサー砲を得物として携えていた。
「ごっ……」
こっちだ。そう声を掛けようとしたが、代わりに村雨の口から吐き出されたのは血の塊だった。打ち所が悪かったのは後頭部だけではないらしい。肋骨の何本かが折れ、肺に傷をつけている。死が、ひたひたと己に歩み寄ってくるのを村雨は感じた。
だが、別にいい。もしここで自分が死んでも、応援部隊がきっとこの巨漢の怪人を斃してくれるはずだ。そう、信じ切っている。
視線の先に捉える。黒い機械甲冑で身を包んだ五人の姿がどんどん近づいてくる。こっちだ。そう、こっちだ――村雨は心の声で呼び掛けた。やがて、五人は村雨とキリキックが激闘を繰り広げた大通りの真ん中辺りまで歩みを進めた。既に、村雨と彼らの距離は目と鼻の先である。
「(……おい)」
おかしい。決定的な違和感。すぐそこに、今ここに、助けを求めている人間がいるというのに、五人の誰一人として村雨の存在に気付いていないのだ。
この闇夜のせいか? いや、そんな事は有り得ない。だとしたら、一体どうして? 村雨は何とか己の存在に気付いてもらおうと、残る左手で拳を作り地面を叩いた。その行動を特に止める事も無く、黙って見下しているキリキック。
やがて、五人の内の一人が信じ難い科白を口走った。
「こっちにも、いないみたいですね」
「(な……ッ!)」
馬鹿な。何を言っているんだ。いるではないか、ここに。今こうして地に這いつくばって血反吐を吐いている情けない男が、ここにいるではないか。
手を伸ばせば直ぐに届きそうな距離なのに、しかし本当にどうしたことか。五人の機関員は村雨の存在に気付かないどころか、こちらを探そうとする素振りすらみせてない。
そんな彼らを、直ぐ傍で黙って見続けるキリキック。その口元には僅かながら笑みが浮かんでいる。
そこで村雨は、とんでもない事に気が付いた。五人の機関員は村雨の存在だけでなく、元凶であるキリキックすら視界に入っていないようだった。すぐそこに両腕に恐ろしい凶器を宿した人物がいるというにも拘らず、視界に入っていない。いや、そもそも認識出来ていないのか。
「(何だ、一体……な、なにがどうなっているんだッ!?)」
「今度はあっちに行ってみるぞ」
「ああ」
激しく混乱する村雨を他所に、五人はキリキックの直ぐ傍を走り抜けていった。唖然とする村雨。キリキックが含み笑いを漏らす。
「《神眼潰しの殺戮者》の効果抜群っていった所だなァ」
「な……にぃ……?」
「俺の能力ダ」
能力。つまりは、ジェネレーター。
「あんまり自分の能力をペラペラと語るのは好きじゃねぇんだがナ。簡単にいうと人間の深層心理に働きかける結界を張リ、結界に入った人間の傍観者効果を著しく向上させる能力ダ。傍観者効果は集団にしか働かなイ。まぁ、三人以上ってところカ。だから単身、あるいは二人組で結界内に侵入した奴らは能力が及ぼす影響の範囲外って事になるんだガ、別にそれは問題ねェ。一人や二人程度が相手なラ、俺一人でも勝てちまうからなァ」
傍観者効果という専門用語の意味が、村雨には分からなかった。それでも、分かっている事が一つだけある。今去って行った五人の機関員についてである。。応援に駆け付けた彼らが村雨の存在に気がつかなかったのは、彼らに落ち度があったからではないということ。全ては、この凶悪無比なキリキックの掌の上で踊らされていたのだ。
蒼天機関の本部も、そして村雨自身も重大な思い違いをしていた。練馬区で発生しているとされる、大規模な電波障害。しかしそれは、電波障害ではなかった。キリキックの発動した能力の影響で機器自体に異常が発生したから、そういう風に捉えられてしまっただけだ。
なんということか。キリキックの言う『傍観者効果』は、通信機器にまで影響を及ぼす程に強力なものだった。彼に勝利するには何らかの方法でジェネレーター能力を封じるか、一対一の戦いで勝利を収めるか。二つのうち、どちらかを選択する他ない。
そしてそのどちらも、今の村雨には選択出来なかった。選択する権利すら無かった。
「でモ、そうだナ」
キリキックの鋭い眼光が、今自身の後ろを通り過ぎていった五人の機関員の後姿に向けられた。続けて、実に軽い調子で恐ろしい事を口にする。
「邪魔だシ、一応殺しておくカ」
「――!?」
そうはさせないともがく村雨だったが、重傷を負った今の彼には、どうする事も出来なかった。
十字型の電子タトゥーを顔面に象ったキリキックの、その分厚い唇が糸を引いて開かれた。口腔部に食道器官と一体化していた『それ』が露わとなる。『それ』は、先端部分がまるで拳銃の銃口を思わせるかのような形状をしており、きゅいんと、甲高い収束音を鳴らした。
そうして次の瞬間。キリキックの口腔内部に淡い桃白色の光粒子が収束し、一条の鋭い光線となって、去りゆく五名の機関員の背後目掛けて放たれた。メイサー砲が放つ熱線と比べれば大分色味が薄いそれは、キリキックの口から続けて五回発射された。瞬きをする暇も無いうちに、熱線は機関員五名の心臓を――高性能の強化外骨格に覆われた彼らの肉体を、いとも容易く焼き切って見せたのだ。
五名の機関員からしてみれば、自身に何が起こったのか直ぐには理解できなかっただろう。また、仮に理解出来た所でどうしようもなかった。五人の機関員は、まるで息を合わせたかのようにほぼ同時に倒れ込むと、血の池に力無く沈んだ。
先の戦闘では見せなかった隠し玉。それを意外な形で目の当たりにした村雨は、驚きよりもしかし、平然と、聊かの躊躇も無く虐殺をやったキリキックに向けて、激しい憎悪を滾らせた。
「な、なぜ」
「あァ?」
「なぜ、何故殺した……ッ! 彼らに戦う気はおろか、貴様の存在にも気が付かなかったというのに、どうして……ッ!」
「馬鹿かてめぇハ。殺しの一つ一つに理由を求めていたラ、日が暮れちまうヨ」
殺したいから殺した。そこに理由は必要なかった。ただ、全てがキリキックの浅ましい殺人欲の中にあった。
平然と、まるで息を吐くかのように目の前で行われた凶行。村雨は恐怖した。心の底から絶望した。この男の異常性と残虐性を前にして、鳥肌が立たない事の方がおかしかった。
だがそれでも、口にした。否、こんな状況だからこそ、口にせざるを得なかった。
「貴様が……」
口内に溢れる血と、全身を苛む激痛に身もだえながらも、村雨はうつ伏せの姿勢のままでキリキックを睨んだ。その眼光から、闘気はまだ消えていない。
「貴様が何者かは知らん。知らんが、どうでもいい事だ」
唇を、きつく噛み締める。
「何人たりであろうと、この街で暮らす人々を傷つけるような奴はッ……断じて許さんッ! この命尽き果てようと、貴様の首を必ず捩じり切ってやるッ! この街は、俺達の街なんだッ! 貴様のような蛆虫が、好き勝手に暴れていい場所じゃない。あってたまるか。そんな事は……ッ!」
屹然とした態度の村雨を見下ろし、キリキックは虫の居所が悪そうに表情を歪めた。これから殺される者が吐くには相応しくない強気な科白が、癪に障ったのか。
「虫の息の癖に、良く言うゼ」
「どうかな」
この期に及んで、まだ村雨は勝負を捨ててはいなかった。
まだ最後の手段。奥の手が残されている――自爆である。
迦楼羅や天帝を始めとして、現在主流となっている高機能強化外骨格には、戦闘を補助する為の様々な機能が内臓されている。倍力補正もその一つだ。
そして、気液流動回路システム。それは、高機能強化外骨格の装甲部に内蔵された防御機能。特殊鋼製の装甲内部に、イオン性液体から成る一層目と混合気体から成る二層目が存在しており、この一層目と二層目で、銃弾や刺突、斬撃を始めとするあらゆる衝撃を吸収・拡散する仕組みになっている。
心霊工学の下で生まれた高機能強化外骨格には、もう一つ、強力な精神感応機能が付与されていた。装着者の強い『犠牲心』を汲み取ると、装甲内部を流れているイオン性液体と混合気体の科学的要素が変化し、一個の人間爆弾として目覚める。そういった機能が隠されている。これを、蒼天機関の人間は総じて《ツングスカ》と呼んでいる。
そこには、自らの命を捨てでもい都民の訴願に応え、都民が暮らす街を守ろうという決死の覚悟が見て取れた。今、村雨は決断を下そうとしている。残された反撃の糸口を掴むには、それしか無かった。
「(すまんな、七鞍……)」
憎くも可愛らしい部下へ心の中で謝罪を述べると、いよいよ村雨は意識を集中させた。
△▼△▼△▼
「命を捨てるには、まだ早すぎるわよ。村雨練馬支部連絡隊長」
溌剌であり、凛とした鈴の音のような声が、大通りに響いた。村雨も、そしてキリキックも、ハッとして声のした方を振り向く。
女がいた。意志の強そうな大きな瞳。豊かな乳房。真っ黒で艶やかな長髪を、後ろで一つに纏めている。両手には変わった意匠の鋼製グローブを嵌め、左腰には、古式ゆかしい趣の鞘に納められた日本刀を携えている。
「(こいツ……)」
キリキックは村雨から離れると女へ近づき、値踏みするかのような視線を向けた。彼は、こと戦闘においては馬鹿ではない。自分の強さに圧倒的な自信を抱いている故か、強者への嗅覚は《殺戮遊戯》メンバーの中でもとりわけ鋭かった。その嗅覚が、目の前の女をして告げている。
強い。間違いなく。
油断ならぬ相手である。
「あ……あぁ……」
痛みを忘れて、村雨は両手を地面につき、上半身を少しだけ起こし、呆然とした。
「あ、貴方が何故……」
女の出で立ちから、目を離せなかった。紅蓮のように濃い赤が目立つ特注の警邏服を纏った女の美貌は、月の光に照らされて得も言われぬ程に美しかった。赤い特注警邏服。それを着用するのが許されているのは、村雨が知る限り三人しかいない。
都市の番人・蒼天機関の最高意志決定機構である《三闘会》を構成する、三人の機関員。そして、その中の紅一点と言えば――
「夜生……副機関長……」
「なニッ!? こいつガッ!?」
救世主の到来を待ちわびていたかのような村雨の言葉に、キリキックは強い反応を示し、動揺した。女の姿をまじまじと見やり、驚愕する。
話には聞いていた。上職者でありながら夜な夜な街へ繰り出し、蒼天機関の眼を盗んで悪事を働く輩を一刀両断し続ける、正義の辻斬りがいると。
その者の名は夜生真理緒。夜に生き、夜を駆ける凄腕の剣鬼にして、蒼天機関機関長・大嶽左龍の右腕的存在。
「(実戦で鉢合わせた際には是非手合わせをしてみたいト、常日頃からそう思っていたガ……まさかここに来て巡り合うとはナ。アハルとルビーの弔い合戦としちゃア、最高の肴じゃねぇカ)」
キリキックの眼中に、最早虫の息である村雨の姿は入っていない。視界にただ一点の赤き女の姿を捉えて、両腕を擦り合わせた。《ジェイソンGV》と《キングクラブ》。両腕に装備した、鋼の武器を鳴り響かせる。
「ここに来る途中、死体の山を見たぞ」
夜生の声は、闇夜を突き抜けるかのように、清廉としてキリキックの鼓膜に届いた。隠しきれぬ程の殺気を感じる。だがキリキックは臆することなく、だからどうしたと答えた。
「あれは、貴様がやったのか? それに……」
夜生は視線を少しだけ動かすと、キリキックの背後で倒れている五人の機関員の亡骸を見て、言った。
「そこの機関員達も、貴様が?」
「そうダ。先に殺った連中も含めて、腑抜けばかりだったヨ」
「この辺り一帯に発生している妨害電波の主も、貴様の仕業という訳か」
「そいつァ違うナ」
強敵と相対している嬉しみが、そのまま自然と笑みとなってキリキックの相貌を崩した。
「傍観者効果の増幅……俺の能力サ。妨害電波なんていうちゃちな代物じゃねェ」
「成程、ジェネレーター……それもかなり厄介な業と見たわ」
「心配いらねぇサ」
腰を落とし、《キングクラブ》を胸の前で構える。
「俺の能力は、あくまで集団戦闘の無力化。こういう戦闘状況下じゃあクソの役にも立ちやしねェ。あんた一人に使っても効果はねぇシ、そのつもりモ、俺にはねぇからナ」
青電を迸らせ、《ジェイソンGV》がキリキックの昂りを象徴するかのように、激しく歯刃を回転させた。
「正々堂々ト、殺し合おうヤ」
夜生は、何も口にしなかった。代わりに腰を深く落とし、防刃防弾性のロングパンツに覆われた両足を前後に広げた。左腰に備えた鞘をハイブリッド・グローブに包まれた左手で掴み、その親指を刀の鍔にかける。夜生は眼光鋭いままに、キリキックの視界から手元を隠すようにして、やや腰を左に捻った。
隠したのは手元だけではなかった。つい先ほどまで、彼女の全身から匂い立つように湧き上がっていた殺気も、今は鳴りを潜めている。敵の視界から手元を隠し、間合いを隠し、殺気を消して剣筋を隠す。典型的な居合の構えだ。
ゆっくりと、弧を描くようにして夜生の右手が闇を撫で、刀の柄を逆手に握った。そうして、微動だにしなくなる。緊張の糸が張り詰める中、キリキックもまた、下手に動けずに立ち尽くしていた。
「(凄いなこいつハ……噂以上の強敵と見たゼ)」
まだ二十代だというのに、夜生の構えには、歴史に名を刻んだ剣聖達をも凌ぐ完成度があった。構えに一切の不自然さと迷いが無く、そして何より、美しかった。まるで、本来ならそうある風に生まれてくる筈だったかのような、そんな自然さがある。
闇の中に満ちる剣気。下手に仕掛ければ死は免れないというこの状況で、しかしキリキックの自信は欠片程も揺るがない。じっくりと、舐め回すようにして相手を観察する。
夜生の構えは居合術で間違いない。柄を逆手で握っている事から、恐らく一太刀目は右横薙ぎ、続いて二太刀目は諸手に持ち替えての上段からの振り下ろしか。喰らえば頭蓋が砕かれるどころの騒ぎではないだろう。
だがあいにくと、キリキックと夜生の間合いは、距離にして凡そ二十メートルは離れている。居合の攻撃範囲外であることは言うに及ばず。なら、夜生がとったあの構えに、如何なる目的があるというのか。
いや――キリキックは心の中で頭を振った。
敵は《飛燕斬》の異名を持つ、凄腕の剣士だ。その勢いは、歴代の剣豪に引けを取らないと称されている。そんな剣士が習得している術の中には当然、間合いを無視して相手を容易く切り伏せる類のものが、一つ二つはあると見て良いだろう。
即ち、飛翔する斬撃。これに尽きる。
居合術、抜刀術と言われる鞘の内から始まる剣術の要め。それは、鞘中における刀の加速であると、キリキックは考えていた。その加速を支えるのが、腰を切る速さに依存しているのだとも推測している。もしその速度が常軌を逸していれば、抜刀と同時に斬撃を飛ばすのも可能、いや、十分に考慮の内にあると見て良かった。
「(よシ……)」
キリキックは一人、頷いた。ARCLの分析が完了したのだ。夜生の脈拍、呼吸、そしてバイタルサインが電子の視界に映し出される。これで、相手の《起こり》を察知することが可能となった。如何に人並み外れた技を繰り出そうと、そこは所詮、人なのだ。《起こり》無くして、剣技を発動できる訳が無い。
敵の手の内を知る。それは戦闘という異常下において、絶対に必要となる項目だ。特に一対一の勝負に置いては、それが恐ろしいほどに戦闘の行く末を左右する。敵の内を知らねば、いくらこちらが上手い作戦や凄い技を隠し持っていたとしても、無駄に終わることだってある。ズルだなんだとは言っていられない。あらゆる手を尽くしてでも勝利をもぎ取ろうとする行為そのものが、戦士としてのあるべき姿であり、また、それを怠るものは純然たる悪である。キリキックはそう考えている。
目線を夜生の腰付近に向けたままの状態で、キリキックの右腕が、《ジェイソンGV》がこれまで以上にない輝きを放った。青い放電が闇夜を切り裂き、彼の足元を明るく照らす。チェーンソーの刀身を奔る歯刃が、鬼人の如き速度と共に大気を切り裂く。
《ジェイソンGV》には、発電機能が備えられていた。ここで発生した電気エネルギーを全身に巡らせることで体内を駆ける電気信号を超加速させれば、常を逸した動きが可能となる。キリキックが強者と巡り合った際にしか使用しない、彼の奥義。マヤ・ツォルキンを始め、兄弟達でさえ、目にした回数は幾許もない。
全ての準備は整った。
互いの闘気が乱舞して、空間が歪む。
闇夜の沈黙。言葉無き静寂の暗闘。
どちらも、まだ仕掛けない。
特に、キリキックは普段からは想像も出来ない程の用心深さを見せている。
さて、どうくるか――彼は考える。
目の前の麗しき敵は、依然として居合の構えを崩さない。抜きの速さに余程の自信があると見た。ならば、やはり抜刀の加速により生じる『飛ぶ斬撃』で仕掛けてくるに違いない。
そしてそれは恐らく、先ほども考えたように、一の太刀で右の横薙ぎ、二の太刀で上段から振り下しの、合わせて二撃。丁度、斬撃は十字の形となって襲い掛かってくることだろう。
防御すべきか――いや、それは愚策にもほどがある。
だったら、先に仕掛けるしかない。
得物はどっちを使おうか。右か、左か。
――やはり、得意としている右の突きでいくべきか。
思案の最中、キリキックはふと夜生の腰から視線を外し、彼女の双眸を見つめた。薄茶色の瞳は、キリキックを見つめているようでしかし、もっと深い、どこか別の世界を見つめているようにも思える。だが決して虚ろな視線ではなかった。キリキックの『芯』を撃ち抜くかのような眼差しとでも言うべきだろう。眼光に白熱の気が灯っていた。
瞬間、キリキックの背中に寒気が奔る。
なんだ。
恐れているのか。
まさか、この俺が――有り得ないだろう。
視界に映る電子情報を確認。相手の脈拍、呼吸、バイタルサインに変化なし。未だに《起こり》は見えない。先を衝くには、何としても《起こり》を掴まねばならない。逆に、先を衝けば必ず勝てると、キリキックは踏んでいる。
焦れる。キリキックの心に、少しずつ焦りの汗が垂れてくる。
互いに向かい合ってから、一分、二分、と過ぎた頃。唐突に、秋風がキリキックの顔を撫でた。うっとおしげに瞼を閉じかけた。
その次の瞬間。
電子の視界で、呼吸と脈拍のサインに僅かな異変。それは例えるなら、今まさに海面からジャンプせんと力を蓄えたトビウオの何気ない所作が、波紋となって水面に刻まれかけそうになるような、そんな刹那の刻であった。
――《起こり》である。
意識するよりも先に、身体が動いた。限界まで電気信号を加速させていたキリキックの全身。その至る所に移植された衝散性筋繊維が爆発し、稲妻の如き速度を以て駆ける。
そして――彼の意識は、そこで途絶えた。
△▼△▼△▼
何が起こったのかは、確認できた。
しかし、『どうしてこうなった』のかは、村雨には理解出来なかった。
心臓が張り裂けるかのような緊迫の最中、先に動いたのはキリキックだった。全身から青白い光筋を迸らせて、とんでもない脚力で地面を踏み抜き、そのまま夜生目掛けて右の諸手抜きを喰らわせようと前に出た。
そこまでは見た。この目ではっきりと見た。
だが、その後に起こった出来事は、村雨の想像を超えていた。
駆け出したキリキックの体が、一瞬にして崩れてしまったのである。肉片の一つ一つがサイコロステーキを思わせるかのようなサイズに砕け、銀色の血をまき散らし、血溜まりの中に沈んだのである。
意味が分からなかった。まるでジェンガだった。キリキックという名の生きたジェンガが風に煽られ、一気にバラバラに弾け飛んだように見えた。
「あ……え……?」
呆気に取られつつも、村雨はキリキックと相対していた夜生真理緒に目を向けた。見れば彼女は、構えを解いてふぅと息をつき、額の汗をグローブを嵌めたままの右手で拭っている。何時の間にか、納刀は終えていた。
いや、そもそも村雨には納刀どころか、抜刀の瞬間さえ確認出来なかった。徹頭徹尾最後まで、夜生は居合の構えのまま、全く動いていないように見えた。
怪奇妖術の類か。否、れっきとした剣術である。ただ、『速すぎて』見えなかっただけで、夜生は抜刀も納刀も実行したのだ。
《飛燕斬》……夜生真理緒の異名にもなっているそれは、彼女の持ち技から来ている。戦国時代より脈々と受け継がれる戦場剣術・己影流の奥義書に、その名は刻まれている。
一の秘刀《飛燕斬》
それが異名の根源にして、キリキックを葬り去った技でもあった。
《飛燕斬》は、その抜刀のスピード、腰部の絶妙な切り方と共に、もう一つの要素があって初めて完成する技である。
その要素とは、鞘への仕掛け。一見して何の変哲もなさそうに見える夜生の鞘には、独自の工夫が為されていた。
鞘内部にライフリングを彷彿とさせる溝が刻まれいるだけでなく、ワザと、鞘のサイズを納める刀よりも大きめに成型してある。これにより、納刀時に鞘内部に若干の『隙間』が出来る。
《飛燕斬》とは、この『隙間』が『息をする』技である。つまり、抜刀時に『隙間』に溜まっていた空気が吐き出され、納刀時に刀に引き込まれる形で空気が鞘の『隙間』に入り込む。鞘から吐出される空気量は微量であるが、それが周辺の大気を振動させ、真空を生み出し、刃となって加速する。そこに納刀の所作を組み合わせることで、更に空気を振動させる。言わば、空気の寄せ波と引き波を組み合わせた、大気の破壊技。それが《飛燕斬》の正体である。
無論、この技は神速が如き速さで……具体的には、コンマ五秒以下での抜刀・納刀を実戦で行えるだけの胆力と膂力を獲得して、初めて使えるモノになる。当然、人間の眼では負えない速さ。夜生には、それを実行できるだけの力があった。
もし、キリキックが視界に映る電子情報に囚われる事無く、裸眼のままで事を構えたなら。視神経を伝達する電気信号も加速させていたなら……《飛燕斬》を打ち破れたかもしれない。
だからと言って、両者の基本戦闘力の差が埋まるという訳ではない。《飛燕斬》で討ち取れなかったら、別の技を実行に移すだけだ。実戦の場において、正に夜生真理緒は強者であった。
「村雨君、大丈夫かい?」
夜生は心配そうな表情で村雨に駆け寄ると、ゆっくりと彼の体を起こし、壁に背中を預けるような体勢に変えた。彼女の手には、何時の間にか治癒膚板のケースが握られている。
「経口摂取タイプの治癒膚板よ。これを飲んでおけば、歩ける程度には回復するはず」
「あ、有難うございます……応援部隊を率いていたのって、副機関長だったんですね」
「連絡、誰が行くか伝わって無かったの?」
「ええ……」
夜の中、まるで眩しいものを見つめるかのような視線を、村雨は夜生へ向け、呟いた。
「強いんですね、本当に」
「村雨君?」
「俺は……全然ダメでしたよ」
口元から流れる血もそのままに、自嘲する。
「結構いけるかなって思ったんですけど、相手の方が上手でした。途中から、怖くなって……動きも全部見切られて、本当に散々で――」
「そんな事ない。君は強いよ」
「え?」
断定的な口調だった。夜生は優し気な視線を向け、しかしはっきりとした口調で言った。
「君の啖呵、確かに聞かせてもらったわ。あんな状況に追い込まれても、貴方は気持ちが折れていなかった。強くなるのに、絶対必要な要素なのよ」
決して、慰めで言った言葉ではなかった。本心から出た言葉だった。
「私も子供の頃、剣を取るのが怖くて仕方なかったけど、でも、それを乗り越えたら気分が楽になったものよ。人間の偉大さは、恐怖を乗り越えた姿にある……確か、ギリシャの哲学者が、そんな事を言ってたわね」
「副機関長……」
「忘れてはいけないわ。強くなるのに、近道なんてない。何時だって、歩むべき道は遠回り」
それにと、夜生は笑って口にした。
「私だって、強くないわよ」
「謙遜は止して下さいよ」
「本当よ。大嶽機関長と比べたら、全然だわ。どう、立てる?」
「ええ、なんとか」
よいしょと、夜生は村雨に肩を貸す形で、彼を立たせた。流石、全工学開発局の創薬部門が開発した薬剤だ。経口摂取タイプの治癒膚板の効果はてきめんだった。村雨の体内では、既に折れた肋骨を始め、いくつかの臓器の自然治癒が完了している。
「にしても、酷い有様ね……」
月明かりが照らす、崩れたビル。割れた大地。遠くから聞こえる軍鬼兵の嬌声。幻幽都市の惨状は、村雨と夜生の心を痛めるのに十分過ぎた。
「まるで、十五年前の景色に戻ったみたいだ」
「本当にね……そうだ、村雨連絡隊長。七鞍機関員は何処に?」
「それが、あいつらに追われている中で逸れてしまって……」
「だったら、すぐに捜索隊を向かわせましょう。私の部下を編成させるわ」
「宜しいのですか? あの……支部機関員一人の為に、そんな事をして」
「安心して。本部はようやく、戦力をどこに集結させるべきか掴めてきたところだから。余った人員を負傷者の回収に回せるくらいの余裕は出来てきたわ」
意味深な物言いに村雨が問いかけるよりも早く、夜生は決然と口にした。
「電脳部隊が、超現実仮想空間で騒動を起こしていた敵の脳内データから引き出すのに成功したのよ。今回の騒動を裏で操っている黒幕……敵の本拠地と見られる施設の見取り図をね。ここに来る途中で本部から通達された、出来立てホヤホヤの情報よ」




