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アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第六幕 幻幽都市壊滅計画、始動
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6-14 白炎魔瞳 その2

 無意識のうちに、身体が動いていた。

 

 そこに、一切の迷いは無かった。


 殺らねば、殺られる。


 それが、幻幽都市という街だ。


 七鞍は反射的に体を半分に開いて両足を肩幅まで広げると、機銃に変形した右腕を眼前の敵目掛けて突き出した。暗闇の中で弾けるマズルフラッシュが、暗視スコープ越しに眩しく光る。


 ルビーは、避ける事もせずに、襲い来る銃弾の雨を甘んじてその身に受けた。ARCL(アークル)の暗視スコープ機能を駆使しているから、弾丸の軌道が見えない訳ではない。なのにどういうことか。炎浄眼を発動させることもなく、ルビーは確かに喰らった。合計六十発近い、五十口径のニトロマグナム弾の一斉射撃を。


 ニトロマグナム弾とは、通常のマグナム弾の十倍以上もの装薬量を有する、特殊な素材で出来た弾薬である。この弾薬の前では、コンクリートなぞ、ただの豆腐に過ぎない。


 しかし、外天の科学者・茜屋罪九郎が生み出した人造生命体(ホムンクルス)が、たったこれしきの攻撃でくたばる訳が無かった。ルビーの全身を覆う鋼の如き盛り上がった筋肉の鎧を前にして、ニトロマグナム弾は呆気なく弾かれてしまった。


「む……」


 思わず声を漏らした七鞍を見て、ルビーが嗤いを漏らした。女の声ではない。恐らくは喉の筋肉までもが異様な発達を遂げたせいだろう。ルビーの嗤声は低く、まるで地の底より這い上がってくるかのような不気味さがあった。


「体内に詰め込んだ衝散性筋繊維(スラッシュ・マッスル)を、生物式ナノマシンが素材のドーピング剤で活性化させているのよ。いくらニトロマグナム弾でも、いまの私に傷をつける事は、出来ない」


 丸太の様に太い右腕を弓の様に引き絞り、ルビーが掌底を繰り出す。大気が波打ち、衝撃波が七鞍に向かって奔る。


 七鞍は咄嗟に、手近にあった展示ブースの影に隠れてこれをやり過ごした。衝撃波は床を盛大に削りながら、さっきまで七鞍が立っていた場所を通り過ぎ、壁際の試着室を粉微塵に吹き飛ばした。


 その恐るべき破壊力を前に思わず唾を呑みかけるも、何とか立ち上がり、七鞍は物陰から右腕を突き出した。


 再びの射撃。だが、意味を為さない。ルビーは全身に力を溜め、膨れ上がった大胸筋の前で両腕を交差させると、その身で全ての弾丸を弾き返した。弾丸は、筋繊維を断裂させるどころか、皮膚を破る事さえ出来ていない。血は、一滴も流れ出てはいない。


「無駄だって言ってるでしょうがッ!」


 気迫を纏い、ルビーが吼えた。同時に、その瞳が赤く輝く。これまでにない以上に、赤く、(あか)く。


 己が瞳に映る景色の何もかもを、完膚無きまでに叩きのめしてやる。紅蓮を煌めかせ、怒りの意志を具象化させるかのように、両眼から突如として白き極光が放たれた。それは、周囲の空間を昼間の様に明るく照らしてしまうほどに輝き、そして、得も言われぬ熱さを伴っていた。


 まずい――脳が指令を下すよりも先に、自然と七鞍の肉体は回避行動を取っていた。迦楼羅の体勢補助機能と脚部の加速器を駆使し、左手だけで身体を支えて機敏に側転を二三回行い、一瞬にして割れたショーウインドウまで退避する。


 障害物を盾にすれば、ことは優位に運ぶだろう。そう考えていたが、見立てが甘かったと認識せざるを得ない。七鞍が計画した当初の作戦は、粉々に打ち砕かれた。


 魂の底から、自分の無力さを思い知らされるだけの圧倒的威力が、炎浄眼には込められていた。それがドーピングによるものなのか。あるいは、ルビー本人の意志に拠る所なのか。七鞍には判然としなかった。それでも、目の前で『一瞬にして蒸発してしまった』展示ブースを見れば、警戒心を抱かない訳が無かった。


「逃がさないわよ」


 ルビーが再度、本気で(・・・)炎浄眼を発動させる。瞳が白く光り輝いた刹那、よりも数刻先に、七鞍が動く。勘にも近い判断で、眼撃をすんでのところで見切ったのだ。


 逃走の最中、七鞍はちらりと背後を振り返り、驚愕した。さっきまでそこに確かに存在していた筈の、ショーウインドウの枠から壁の一部が消失してしまっている。


 否、消失ではない。そう錯覚してしまっただけで、実際のところは蒸発してしまったのだ。それを証明するかのように、床には気化しきれなかった壁材の残渣が、細やかな泡粒となって、張り付いている。


 白炎魔瞳。《殺戮遊戯(グロテスク)》に名を連ねるパック・ルブタニアが隠し持つ、最大にして最狂の絶技。


 その瞳から放たれる白き光の効果は、灰化でもなければ融解でもない。別の現象をこの世にもたらす。昇華である。常識を遥かに超えた超々高熱のエネルギーを瞳から発射し、有機無機問わず、瞳に捉えた物質全てを気化させてしまう。


 一回でもその身に受ければ、死は免れぬ。


 まさに、一撃必殺とはこのことか。


「(無駄だ……こんなの……)」


 圧倒的絶望感が、重くのしかかる。七鞍は右腕の機銃形態を解いた。有効的な攻撃手段を思いつけない今の彼女に出来るのは、唯一つ。逃げの一手。それだけであった。


 迦楼羅がもたらす各関節駆動部への倍力補正を享受して、七鞍は床という床、ブースというブースの間を素早く駆け抜ける。追い縋るかのように迫る白き炎が、荒波の様にうねり狂う。焼かれ、崩れ、蒸発し続ける壁やブース、化粧品類、床を覆うタイルの数々。七鞍が逃げれば逃げるだけ、化粧品売り場は地獄の様相を呈してきた。


 そんな激しい戦闘の最中でも、ルビーの足取りは実に穏やかだった。支えを唐突に失い、建物が僅かに傾きかけているのもお構いなしとばかりに、次々と視界に投影する世界を滅ぼしていく。異常な筋肉に覆われた異様な姿もあって、まさに存在自体が怪物と言えた。


 一階の中央付近。二階へと続くエスカレーターの陰まで七鞍は逃げ、何とかして身を隠そうとした。だが、直ぐに思い直してその場を離れる。判断は正解だった。七鞍がエスカレーターから離れた直後、エスカレーターの半分が瞬時に蒸発してしまった。その名残を、幾許かの高粘度液状物質へと変えて。


 無残にも塗り替えられていくショッピングモール。この場に留まっていては、いずれは行き詰ること必死。思い切って外に退避するのも考えた七鞍だったが、それは自分の首をますます絞める行為になるのではないかと思い、やめた。


 外にはまだ、あの化け物――軍鬼兵(テスカトル)がうじゃうじゃいるのだ。ここから脱出して、あの不死身の怪物と遭遇する可能性は非常に高い。その上、このイカれた魔眼保持者を相手取る羽目にでもなったら、目も当てられない。


 応援部隊に寄せる期待を、七鞍は既に捨てていた。これだけの異常な能力を持った相手に、果たして本部の人間でも勝てるのかどうか、怪しいと直感したからだ。


 七鞍がそう考えてしまうのも、無理ないだろう。魔眼がジェネレーターの中でも恐れられている理由の一つに、捕捉人数という概念がある。魔眼の効果範囲は文字通り、視界に映るその全て。つまり、視界に入ってしまえば、大人数で押し掛かっても得られる成果は少ない。寧ろ、余計な被害が増すだけだ。


「(じゃあ……)」


 どうすればいいのだ。七鞍は考えた。床に大きなへこみを与え、倍力補正で加速する肉体へ気を配りながら考えた。


「(私が戦うしか、ない)」


 でも、どうやって? このままでは、確実に死ぬだろう。


 確実に、死がやってくる。


 死――ああ、そういえば。


 七鞍はふと思った。自分を殺したら、この筋肉ダルマと化した女は、その凶暴な瞳を誰に向けるのだろうか。罪なき無辜の人々だろうか。それとも、支部の仲間たちだろうか。


 それとも――


「(村雨……先輩……ッ!)」


 殺すだろう。まず間違いない。あの魔眼使いの女は自分を殺したら、きっと村雨を探し出し、塵も残さず消し去ろうとする筈だ。


 脳内に浮かんだ最悪の結末を、振り払う事は出来なかった。沸々と煮え滾る熱い想いが、七鞍の小さな胸の内にこみ上げてきた。駄目だ。逃げる事は許されない。そう、自分に言い聞かせる。必ず自分の手で、この細工の展開を覆さなければならない。


「(やらせるものか……ッ! 村雨先輩を、やらせてなるものかッ!)」


 倍力補正機能を維持したまま、七鞍は脚力を落として足を止めた。覚悟を決めて振り返り、まだ破壊されていない展示ブースの一部を挟んで、魔眼の主と相対した。


「ほう」


 ルビーが、感心した声を上げた。度胸試しをするかのように、片足を上げ、そのまま床を踏み鳴らした。衝撃で亀裂が奔り、振動が七鞍の直ぐ傍を薙ぐ。


 七鞍は怯まなかった。暗闇であることと、フルフェイスヘルメットに包まれていることから一見して分からないが、今の七鞍の瞳からは、普段のうとうと(・・・・)した気配は既に消えうせていた。


 出来ることは全てやってやる。出し惜しみなんてしている場合ではない。今、自分が繰り出せる最高の技を披露し、眼前の敵を殺さなければならない。街の為に、そして村雨の為に何としても――そう自分に言い聞かせているかのようだった。


「覚悟を決めたのね。いいわ。それでこそ、殺し甲斐があるというもの」


 不吉に口元を歪ませて、ルビーが腰に力を溜めた。そして、勢い良く右拳を突き出した。血管が浮き出た太い腕の周りで空気が唸り声を上げ、突風が舞い上がる。大気の刃が道並ぶ展示ブースをずたずたに破壊しながら、凄まじい速度で七鞍へと接近した。切り刻んでやる。そう告げているかのようだった。


 大気の刃が無数に絡み合い、迦楼羅に包まれた七鞍の全身を食い荒らした。七鞍の華奢な体が朧のように立ち消えたかと思うと、その向こう側にある壁が破壊された。


「残像かッ!?」


 ルビーは叫び、更に連続して拳を繰り出した。その度に莫大な風の奔流が室内に溢れ、無数の刃と化して七鞍へ襲い掛かる。その悉くを、七鞍は恐るべきスピードで絶妙に躱していった。


 七鞍が纏う迦楼羅は天帝(インドラ)と同じく、次世代型のパワードスーツである。それはパワードスーツと呼ぶには余りにも薄い装甲で出来ており、頑丈さとは程遠い外観をしていた。だが、耐久性はもとより、秘められた機能は数多い。


 七鞍はその内の一つである、慣性制御を実行していた。足元に慣性力を自在に制御可能な特殊力場を生成し、それにより超高速での移動を可能としている。


 ルビーを取り囲むように円形を描きながら、七鞍は床を蹴り、壁を蹴り、ただただ無我夢中で走り続けた。残像が次々に生じては消え、生じては消えていく。撹乱が目的ではない。高速移動を繰り返すことで敵の視界が定まるのを封じ込め、隙を見て攻撃するという明確な目的のもとに、七鞍は全身全霊を賭けていた。


 痺れを切らして、ルビーが瞳を輝かせた。それでも、加速を重ねる七鞍の動きを封じ込める事は叶わなかった。


 白炎は壁一面を昇華させて跡形も無くしては、虚しくも白煙をたなびかせるばかり。ルビーが魔眼で仕留める事が出来たのは、七鞍の速度に追従しきれなかった《レギオン》のみという結果だった。


「くそッ……!」


 ここにきて、初めてルビーは焦りの色を浮かべ、一つの考えを巡らせた。あの小憎たらしい小娘が、己の能力の弱点を見抜いているであろうことを。だからこその、高速移動なのだろうと。


 炎浄眼は強力な能力ではあるが、しかし万能ではない。炎浄眼を発動させた状態で、視界を移動させることは出来ない。カメラに例えるなら、写真は撮れても、動画撮影機能が無いのに等しい。一度視界に映った物を燃やさない限り、次の行動に移せないというのが、致命的な欠点だった。


 七鞍は地面と平行になるような形で一階の壁面を走り、ルビーの背後に回り込むと、力強く壁を蹴った。天井付近まで高く高く跳ねながら腰の軍用ベルトに素早く手を回して超硬性アイクチ・ダガーを引き抜き、手首のスナップを効かせて投擲する。ルビーの頭部を狙って放ったつもりだった。


 気配を察知してルビーは金髪を靡かせて振り向き、上方へ視線をやった。機能片(フラグメント)を起動させて体感時間を遅らせると、加速を伴い落下してくるアイクチ・ダガーへ焦点を当てる。僅かな間すら置かず、白炎魔瞳の痛烈な一撃を受けて、短刀は掻き消された。


 それでも、七鞍の攻撃は終わらない。滞空を保ち、天井に設置されたガラス製のスクリーンパネルを背にした彼女の手から、何かが放たれた。また短刀による奇襲か。そう思い込み、ルビーは歯を食いしばって、赤く禍々しい瞳をその『何か』へと向けた。


 視界に跳び込んできた何か。それは短刀ではなかった。


 ルビーが意識を集中させようとした寸前で、突如、彼女の視界全域が強力な光の嵐に飲み込まれた。


「(な……ッ!)」


 ルビーは反射的に顔を苦悶に歪ませて頭を垂れた。七鞍が投げつけたのは、まさしく起死回生の一手。ARCL(アークル)の機能すら無力化する程の威力が込められた、閃光手榴弾であった。


 世界の景色が白に満たされ、反撃の狼煙が上がる。白光のカーテンに紛れて、七鞍が姿を晦ます。一方で、ルビーは唐突に視界を奪われた事に激しいショックを受けていた。未だかつて、こんな屈辱は経験した事がなかったのだ。


 思考の一部を停止させたまま、怒りに身を任せて訳も分からずに両の拳を振り回す。だが、意味が無かった。拳の周囲を旋回して放たれた風の刃は、虚しく宙に拡散しただけだった。


 どのくらいの時間が経っただろうか。五秒か、十秒か、あるいはもっと長くだろうか。徐々に暗闇が息を吹き返す。ぼやけた視界。正常に像を結ぶ必要があった、しかしながら、閃光手榴弾の威力は予想以上のものだったらしく、ARCL(アークル)は未だに機能を強制的に停止されたままだ。仕方なしに裸眼(・・)で敵の位置を確認しようとした時だ。


 天井付近で何か大きな破壊音がしたのを、ルビーは確かに耳にした。


 見上げて、ルビーはぎょっとした。さっきまで天井に遭った筈の、ガラスで出来た巨大なスクリーンパネルが砕け散り、破片がシャワーの様にルビーの下へと降り注いだ。ガラス片は、破壊された壁から差し込む月光を浴びて、キラキラと輝いている。


「(炎浄眼が――封じられたッ!?)」


 ガラス片に映り込む無数の自分の顔を見て、ルビーは眼の力を使うのを躊躇した。


 その時である。


 ルビーの左目が、熱い衝撃に襲われた。


 得体の知れぬ鋭い何かが網膜を突き破り、水晶体が破壊された。


 目玉が抉り出され、隙間から間欠泉のように赤黒い血しぶきが眼底から吹き上がる。


 どくどくと左目から溢れる粘っこい血はそのままに、飢えた野良犬のような咆哮を上げて、ルビーが悶え苦しむ。


 一体、何が起こったというのか。


 訳が分からないまま、ルビーは必死の形相を浮かべ、残る右目で辺りを確認した。


 足元に、何者かが潜んでいる感覚があった。


 もしや――絶命の危機を感じて足元を確認する。


 そこには、アイクチ・ダガーを右手に携えて身を屈める七鞍の姿があった。


 膝のバネに倍力補正を上乗せして、七鞍が残る右の魔眼目掛けて、アイクチ・ダガーを素早く突き上げた。生じた勢いを殺す事無く全身のバネを使うと、七鞍は前のめりに体を走らせ、ルビーの横を駆け抜けた。


 右腕を機銃形態へ変形させつつ振り返る。ルビーは床に尻餅を付き、両手を顔に当てて、壊れたからくり人形のように激しく身をくねらせていた。その手の隙間から大量の血が溢れ、足元の床を汚していった。


 七鞍の作戦――炎浄眼を封じる為の奇襲は成功したかに見えた。左目は確実に潰したし、さっきの一撃で右目もその役目を果たしてない筈だ。そう思った。


 だが、ルビーは幽鬼のように金色の髪を振り乱すと、


「こ……の……ドグレサがぁああッ!」


 地獄から這い上がろうとする亡者の如き咆哮と共に、その右目が闇の中で輝いた。ルビーの左目は完全に潰されていたが、攻撃の瞬間に僅かに首を逸らしたことで、何とか右目に致命傷を受ける事だけは回避したのだ。


 両目を潰したと思い込んでいた七鞍の心は、思わぬ展開に動揺を隠しきれず、それがそのまま、彼女の肉体的動作にも影響を及ぼした。判断の後れは、そのまま命取りになりかねない。特に、相手の力量が自分の上を行っている場合は、尚の事だ。


 猛烈な恐怖感を覚える。石のように固くなりつつある自らの心を必死に鼓舞して、何とか七鞍は横へ素っ飛んだ。


 だが遅かった。


 機銃形態の右腕に違和感を覚える。


 いや、違和感などという生易しい表現では済まされなかった。


 熱い。


 それも、耐え難いほどに。


 異常な程の熱量と吐き気を催す程の不快感が、七鞍の右腕を覆い尽くした。


「あ……」


 右腕の状態を確認しようとした七鞍は、呆けたように絶句した。右腕が、もはや原型を留めていなかった。というより、溶けて消失していた。右肘から下の部分が、初めから無かったかのように存在していた。断面部は赤黒く見るも無残に焼け爛れ、不幸中の幸いなのか、熱による焼き付けで出血量は少なく済んでいた。


 猛烈に鼻腔を刺激する、金属と肉の焦熱臭。


 自分の肉だ。


 私の肉が、焼かれたのだ。


 自覚した途端、七鞍の全身からぶわりと汗が垂れ落ち、迦楼羅の内側にある衝撃吸収素材に吸い取られていく。体内を搔け巡る猛烈な不快感に耐え切れず、ついに、げえげえとその場で嘔吐してしまった。


「粗相をしている暇があるのかしらッ!?」


 怒号と共に、ルビーが丸太じみた四肢を震わせて、(ましら)のように飛び掛かる。七鞍は避けようとしたが、それよりも先に、ルビーの手が七鞍の首を掴み、そのまま床へ仰向けに押し倒した。衝撃で床がへこみ、蜘蛛の巣のように亀裂が奔る。


「よくもコケにしてくれたわねぇ……!」


 馬乗りになった姿勢で、ルビーは左目から血を滴らせ、恨み辛みを右目に込め、呪詛の言葉を紡いだ。肩で息をついてはいるが、それは疲れからではなく、内に燃え滾る怒りがそうさせているのだ。七鞍はなんとかして逃れようとするも、全身に力が入らなかった。両膝はルビーの両足に踏まれて砕かれ、左腕は右手によって抑え込まれてしまっている。おまけに、ルビーの左手がぎりぎりと首元を締め付けてくるせいで、呼吸もままならない。


「あんたみたいな、あんたみたいな姑息な手を使う奴らにアハルが殺されたんだと思うと、本当にムカっ腹が立ってしょうがないわ」


「さっきから……誰ですか、その人……」


「煩いのよッ! この小娘ッ!」


 叫びを轟かせると、ルビーは七鞍の細い左腕から右手を離し、今度はフルフェイスヘルメット越しに、七鞍の顔を殴り始めた。何のテクニックもない、身を焦がす怒りに任せた拳の連続攻撃である。鈍音が暗闇に木霊し、ヘルメットにひびが刻まれる。何度も何度も叩いている内に、ついにヘルメットの耐久性は限界を迎え、砕け散った。


 顔の左半分と口元が露わになる。ルビーは回復した右目のARCL(アークル)を再起動させた。


「あらあら……随分と、可愛らしい顔をしているのね……ほっぺたも、凄く柔らかくて美味しそう……」


 さっきまであれだけ怒っていたというのに、感情の起伏が激しいのか。ルビーは切れ長の目を細めて、科白に嗜虐性の籠った色香を漂わせた。幾分か、気持ちが落ち着きを取り戻したようだった。


 七鞍の左目を覗き込むように見ると、その唇に右手の人差し指を軽く押し当て、誘うように囁いた。


「私、兄弟にも内緒にしているんだけど、人間の肉が大好物なの。あなた、見たところ顔もいいし、体も程よく引き締まっているみたいだし、太ももなんて、カツサンドにしたら最高でしょうねぇ。唇も、ほぅら。こんなにプルプルしてる。ゼリーみたいに柔らかそうで、すごくいいわぁ……」


 色情狂いにでも陥ったように、ルビーが頬を染めて嗤った。余裕が満ちた嗤いだった。この後、どうやって目の前の小鹿を料理してやろうかで、頭が一杯という風だった。


 愚かだ。実に。


 七鞍が、鋭く息を吐いた。


 それと同時、彼女の『左腕』が神速で構成を変化。刃渡り五十センチ程の高電磁ナイフに早変わりしつつ、左腕が半円を描き――ルビーの首へ、深々とめり込んだ。迦楼羅の倍力補正に支えられた赤熱する刃が、高密度の骨と筋繊維と神経を、ものの見事に掻っ捌いた。


「ゴヒュッ!?」


 気管支から空気の塊が抜ける音が聞こえた途端、ルビーの首は肉の焦げる猛烈な臭いを放ちながら、ごろごろと床を転がった。


「よい……しょ……」


 電気的刺激を与えられたカエルの筋肉のようにのたうつルビーの胴体をやっかいそうに蹴飛ばして、七鞍は上半身をもたげた。両膝に鋭い痛みが走るが、この程度の被害で勝利を掴めたのだから、寧ろツイていると言って良かった。


 視線をルビーの頭部へ向ける。切断面から煙を上げて絶命したはずなのに、まだ生きているような錯覚を覚えた。死してなお、その右目からはおぞましい程の力を感じた。じっと見つめていると、何だか責められているような気分になり、一応、七鞍は小さく言い訳を呟いた。


「左腕を機械化していないだなんて、私、一言も口にしてませんからー」


 パラパラと、天井から何かが降ってきた。戦闘の苛烈さを受けて、二階の天井部分に夥しい亀裂が広がり、壁がぼろぼろに剥がれ落ちている。ショッピングモールのあちこちから、嫌な軋音が聞こえ出した。


「ああ、まったく……いやになりますねー」


 自嘲的な笑みを浮かべ、七鞍は村雨を想った。


 村雨パイセン。私、勝ちましたよ。


 それも魔眼保持者に。凄いと思いません?


 ご褒美に、聖菓堂のアップルパイ、一年分奢ってくださいね。


 約束、ですからね。


 私、絶対に生きて帰りますから――貴方の下へ。


 緊張の糸が解れたせいなのか。崩れゆく建物の中で、七鞍は死んだようにその場に倒れ伏した。二度と、その場から動こうとはしなかった。


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