1-4 村雨と七鞍
「ちょ、パネェっす村雨パイセンー! いきなりスピード上げてどうしたんですかー!」
相変わらず眠たげな表情で声には若干の戸惑いを交えながら、七鞍は突然トップスピードを上げた上司の後ろを必死になって追いかける。
「見えたんだよ」
「はぁー!? 見えたー? 何がですー?」
「スカー・フェイス……」
「なんですってー? 雨音がうるさくて聞こえませんよー」
「良いから急げ! このままだと手柄を横取りされるかもしれねーんだぞっ!」
村雨は呑気な返事を寄越す部下を一喝した後、強く下唇を噛んだ。苛立ちを抑えられぬ時に、彼がいつも無意識で行ってしまう癖だった。
《無情雨宿》は未だ発動中だ。雨水を吸って肌に張り付く衣服の不快さを気にする素振りも見せず、村雨は七鞍を突き放してしまう程のスピードで練馬区の路地裏を駆け抜け続けた。
村雨の様子が一変したのは、彼の脳内に流れ込んできた映像の中に『厄介者』の存在を見出したからである。黄色のコート。黒いガントレット。顔は伺えなかったが、身なりからして間違い無いと思った。
夢中で追いかけているうちに、村雨は件の空き地に辿り着いた。視線の先に、力無くうつ伏せに倒れている人物を捉えた。伊原だ。血にまみれているのが、遠目でも確認出来た。
村雨は《無情雨宿》を解除すると、血だまりの中に沈んでピクリとも動かない売人に駆け寄った。はやる気持ちを抑え、首筋に手を当てて脈を測る。意識はある。だが重傷だ。左腕がもぎ取られている事に気づく。
あの男の仕業に違いない。村雨は確信した。
伊原の瞳は虚ろげで、焦点が合っていない。想像を絶する程の外傷ショックを受けて意識が混濁しているのか、機関員が駆けつけて来た事にも気が付いていない様子である。
憎々しい小悪党である事には違い無い。だが、見捨てて置くわけにもいかない。こいつには、きっちりと都市新法に則った刑罰を受けて貰わなくてはならない。都市に蔓延る売人達への見せしめという重大な役割を果たすまでは、死なせる訳にはいかないのだ。
「おい、俺の声が聞こえるか? 聞こえているのなら反応しろ」
顔の前に手を翳し、様子を伺う。反応は薄い。呼吸をするのもままならないようだ。時折、下半身を鞭打たれたかのように痙攣させている。村雨はうつ伏せの伊原を仰向けに寝かせると、首を支え、気道を確保しようとした。
「……す……かぁ……」
その時、伊原の唇が弱々しく震えた。僅かだが意識を回復させたようだ。しかし言葉になっていない。村雨は耳を彼の口元へ近づけ、其処から漏れる単語の一語一語を決して聞き逃すまいとした。
「スカー……フェイス」
スカー・フェイス。たったそれだけ呟くと、伊原の意識は再び闇の中に沈んでいった。
「やはり、あいつか!」
村雨は弾かれた様にその場から立ち上がると、再び目を瞑って《無情雨宿》を発動させる。だが、周辺を隈なく探索するも空しく、目当ての人物の映像が脳内に流れてくることはなかった。既に、能力の効果が及ばない建物内部へ逃げ込んだのだろう。
ちくしょう、今回もしてやられた。
悪態を付いて能力を解いた時だ。背後で「うひゃぁー。こりゃひどいですねぇー」と、科白の内容とは裏腹に、ひどく間の伸びた七鞍の声が聞こえてきた。村雨は振り返る事無く、遅れてやって来た部下に小言をぶつける。
「遅いぞ」
「村雨パイセンが早すぎるんっすよー。てか、パネェっすねぇー。やりすぎじゃないですかー? 何も腕を切り落として死なす事はないでしょうにー」
「やったのは俺じゃない。それにまだ死んでもいないぞ。気絶しているだけだ」
「それだけ出血していてですかー? あ、でも血は止まってるみたいですねー」
「即効性の止血剤でも口にしたんだろう。だがこのまま放っておけば、傷口から細菌が入って遅かれ早かれまずいことになる」
「そう言う事なら、さっそく支部に連絡して、救護班を要請しましょう」
素早く裾を捲り上げる。露わになった細い右腕には、蒼天機関が開発した腕時計型の防水防塵性小型通信機が装着されていた。竜頭を引っ張り出し、慎重に回して周波数を合わせる。慣れたものだ。
「あーもしもしー? こちら――」
七鞍が練馬支部の救護班に連絡を取っている最中、村雨は伊原を抱き起こすと、痛々しい左肩の傷口を慎重に観察した。鎖骨の辺りが歪に砕けて、切断面が酷く汚い。鉄塊すら断ち割る切れ味を持つ超硬性セラミック・ブレードやアイクチ・ダガーとは全く雰囲気を異にするが、しかしどこか見覚えのある断ち筋でもあった。
「(間違い無い。あの男によるものだ)」
己が能力で得た映像情報。その中に映っていたのは、伊原と人質に取られた少女だけではなかった。黄色いコートを羽織った疵面の男もいた。どう考えても、奴がやったに違いなかった。あの肉体強化の能力で、手刀の一撃を見舞わせたに決まっている。
またしても商売敵に先を越された事が、余程悔しいのだろう。苛立ちと不満を隠そうともせず、村雨は鋭く舌打ちをした。その舌打ちは、支部への連絡を終えたばかりの七鞍の耳にも届いた。彼女は上司の苛立ちにワザと気がつかない振りをして、視線を瀕死の伊原に向けた。
「というか、あの人質にされた女の子の姿が見えませんけど、どうしちゃったんでしょー?」
「連れていかれたよ。スカー・フェイスにな。映像にはっきり映り込んでいやがった」
村雨は苦虫を噛み潰したかのような表情で、因縁深いその名を口にした。
スカー・フェイスなる人物については、七鞍も当然の事ながら知っている。その風貌と生業も含めて。
だが何故この場面で、彼の名が出てくるのか。状況が掴めていない彼女にはてんで理解出来なかった。眉根に皺を寄せ、難しい顔を浮かべる。部下の鈍い反応を見かねた村雨が「お前なぁ」と、頭を抱えて呆れた声を出した。
「俺がさっき口にした内容、聞いていなかったのか?」
「さっきー?」
「走っている時に言っただろうが。スカー・フェイスって」
「ああ。《無情雨宿》の映像に映っていたんですかー。それで突然走るスピードを上げたんですねー」
「ああ、ってお前、人の話聞いて無かったのかよ」
「雨音が煩すぎて聞き取れなかったんですよー。ホント、村雨パイセンの能力って、使い勝手が悪いですよねー」
「聞こえなかったのは、お前の耳が悪いからだろ。俺の能力のせいにするな」
眉間に皺を寄せて苦言を呈するが、そんなこと、この究極なまでに自由人の無責任な部下には全く通用しない。七鞍は「はいはい」と適当な生返事であしらうと、しげしげと周囲を見渡した。
「っていうか村雨パイセン。あの連れ去られた女の子、探さないとマズくないですかねー? 一応身元の安全を確認しておかないと、後で支部長から何て言われるか、分かりませんからねー」
「支部長のご機嫌伺いはともかくとして、お前の意見には賛同するよ。まずは奴の足取りを掴まなきゃいけないが……時期的に、俺達が直接捜査担当になる可能性はほぼゼロだろう。状況報告だけ済ませて、後任の者に継がせるとするか」
「異動のタイミング的に、それがいいかもですねー。それにしても、なんでスカー・フェイスは伊原の腕をちょん切って、持ち帰っちゃったんでしょうねー?」
「決まってるさ。大方、依頼人に頼まれでもしたんだろうよ。『奴の腕を斬り落として欲しい』って具合にな。それだけ、この男は周囲から恨みを買っていたって訳だ。まぁ当然の報いだな。麻薬を売り捌いて私腹を肥やしていたんだから。こういう奴には俺たちの手で、きっちり天罰を与えてやらんといかん」
「しょっ引く前に、手垢がついちゃいましたけどねー」
「言うなよ、それを」
不機嫌さを隠そうともしない様子で、村雨は部下の言い草に釘を刺した。いつもならここで、更に厭味ったらしく上司に食ってかかるのが七鞍なのだが、流石に今の彼にそれをやったら本気で怒鳴られそうだと感じたのか。只黙って、年若い上司の横顔を眺め続けた。
「奴との決着をつける最後のチャンスだったかもしれないのに、棒に振っちまうとはね。つくづく運の無い男だよ、俺は」
乾いた笑い声を洩らす。無念を通り越して諦めの色が滲んでいた。村雨が今置かれている状況を鑑みれば、そんな反応を見せるのも当然と言えるだろう。。
「村雨パイセンが弱気になるなんて、近いうちにまた《陸波》が起こるかもしれないですねー」
重苦しい雰囲気を打破しようとでも考えたのか。七鞍が、努めて能天気な口調で軽口を叩いた。だが今の村雨にとって、それは逆効果である。部下の軽薄な言い方に不快感を覚え、露骨に嫌そうな顔を浮かべただけだった。空気が更に微妙になる。
「おまえなぁ、あと一週間で立川に異動するって時に、そういう冗談は本気でやめろよ。洒落になってねーぞ。それに俺だって、弱音の一つくらい口にしたくなる時があるんだよ」
「そう肩を落とさないで下さいよー。村雨パイセンらしくないっすよー」
珍しく、七鞍が励ましの声を掛ける。間延びした独特の声色なのは相変わらずだ。なんやかんやと言いつつも、此処まで三年間一緒に仕事を共にした仲なのだ。本心では、自分の戯言遊びに付き合ってくれている村雨を大層気に入っているのだ。
「立つ鳥跡を濁さずって言いますけどー、別に濁したっていいじゃないですかー」
「後に残った濁りは誰が掃除するんだよ」
「それはほらー、支部の後輩や先輩方に任せればいいじゃないですかー」
「適当な事抜かしてると、ド頭かち割るぞ」
「そんなにムキになるならー、異動なんてすっぽかせばいいんですよー」
「どんな理由で」
「ちょっと腹痛でー、とか」
「俺は小学生か」
「冗談に決まっているじゃないですかー」
七鞍は眠そうな瞳はそのままに、いたずらっ子の様にペロリと舌を見せた。茶化すような振る舞いに辟易とする村雨だったが、彼女の台詞がしこりのように残り、微妙な顔になる。
「(あと一週間で、この街ともおさらばって訳か)」
正直言って生まれ育った土地を離れるのは辛い。しかれども、今の彼には郷愁よりも一抹の『後悔』が深く根を下ろしていた。
村雨と七鞍の立川支部への異動が決まったのは、一ヶ月程前の事だった。手土産は支部長と副支部長のポスト。若年の機関員にしては異例の出世スピードである。
『君達の様な優秀な部下を持つ事が出来て、私も上官として鼻が高いよ。ゆくゆくは、本部への呼び出しがかかるかもしれんな』
二人に辞令を告げた練馬支部の支部長は、そう言って誇らしげに笑った。
村雨は笑えなかった。彼の胸中に渦巻いていたのは昇進に対する喜びではなかった。焦る気持ちの方がずっと大きかった。
あと一ヶ月でこの街を離れてしまう。其れはつまり、因縁あるスカー・フェイスと邂逅する機会が著しく減る事を意味していた。そう考えると、居ても立ってもいられなかった。
人事異動の発表から程無くして、村雨は益々仕事に打ち込むようになった。日に三時間近く費やしていた警邏活動が、倍以上の八時間に膨れ上がった。何時もなら素通りしてしまいそうになる暗い路地裏にも、丹念に注意深く目をやるようになった。
警邏を終えて支部に戻った後は、夜遅くまで訓練場で汗を流す日々が続いた。その入れ込みようといったら、練馬支部支部長が彼の身を案じて手製の差し入れを持ってくる程であった。
訓練相手に指名されるのは決まって七鞍だった。彼女は文句の一つも口にする事無く、村雨が満足するまで相手を務めた。
『立川に行く前に、練馬の風景を目に焼き付けておきたいんだろう』
『あの若さで支部長に任命されたんだ。プレッシャーを跳ねのけようと、ああして必死に稽古しているのさ』
事情を知らぬ同僚達は口々にそう言った。そのどれもが的外れな指摘だった。村雨の心情を慮っていたのは、雨の日だろうと風の日だろうと、何時も訓練に付き合っていた七鞍を置いて他に居ない。
七鞍には自ずと分かったのだ。この角刈り頭の上司は、何もセンチメンタルな気分に駆られて警邏に熱を入れている訳ではない。ましてや、周囲の期待に応えようと毎晩無茶な訓練メニューをこなしている訳ではないのだと。
ただ、過去を清算したいだけなのだ。
あの疵面の万屋――スカー・フェイスと、決着をつけたいだけなのだ。
村雨はスカー・フェイスを敵視していた。其れは何も、彼に限った話ではない。呪工兵装突撃部隊に身を置く者なら誰しもが同じ思いでいるに違いない。万屋稼業に手を染めている者達の事を、憎からず思っている節があって当然だった。
しかしながら、村雨があの疵面の万屋を嫌う理由には別の事情があった。
依頼人を選ばず、頼まれさえすれば万の事を請け負いこなす。万屋とはそういう職業だ。字面を真に受ければ、なんと慈善心に溢れた職務かと思うだろう。しかし、その実態は劣悪の一言に尽きる。現に都民の多くが『万屋』という単語を耳にするだけで、あからさまに不快な表情を見せるのも、昨今では珍しくも何ともない。
理由は、彼らの仕事を請ける基準にある。カネだ。彼らは何よりも、依頼の際に支払われる『金額』を重要視していた。確かに仕事である以上、そこに金銭のやり取りが生じるのは必然の理ではあるが、そうは言ってもやり過ぎにも程があるというものだ。
幻幽都市広しと言えども、彼らほど金に意地汚い人種はいなかった。ちょっとした、例えば犬の散歩の代行といった日常生活におけるささやかな要望も、金の亡者と化した彼らにしてみれば一回につき十万円というのが相場だった。彼らの金銭感覚は狂いに狂っていた。
馬鹿馬鹿しい。
何が万屋だ。
只の金に飢えた畜生じゃないか。
期待していた分だけ、都民の落胆と怒りは大きかった。皆、陰で罵声を浴びせては離れていった。代わりにすり寄ってきたのが、都市の暗部に根を張る悪党達だった。
こと大金を稼ぐという一点において、暗黒街に住む悪辣漢どもの右に出る者はいない。手段は何でも良かった。臓器売買。麻薬密売。違法カジノの経営。人間牧場の経営に、闇オークションの開催――――非合法な手段で金を掻き集め、それを元手に非合法な仕事を万屋に依頼する。この図式は、瞬く間に業界を汚染した。
今のところ、大多数の万屋が犯罪の肩棒を担いでいるのは間違いない。しかし彼らは別に、その事を恥だとは思わない。それどころか、大金が一度に稼げてラッキーと思っているのが大半という有様である。拝金主義という名の海原を駆ける彼らに、人としての道徳的観念を問うこと程、無駄なことは無い。
だが、スカー・フェイスだけは違った。
奴は、少なくとも人殺しにだけは手を出さなかった。相手がたとえ、赦しがたい悪人であってもだ。現に、ここに倒れ伏している伊原も重傷は負っているが、一命は取り留めている。それ以外でも、基本的にヤクザを始め、法を犯した人間の依頼や復讐代行といった依頼は全て断るという、業界では異端ともとれるポリシーの持ち主だった。
練馬区に、義に厚き万屋あり。いつしか、そんな流言が区民の間で交わされるようになった。今では、スカー・フェイスという名前は悪に正義を下す鉄槌の象徴としてこの街に広がっている。
村雨は、それが気に食わなかった。
故に彼を敵視しているのだ。
大禍災以降、大量の瓦礫を撤去し、負傷者を手当てし、カウンセリング施設を充実させ、土地の再開発にだって取り組んだ。日本政府に見捨てられたこの土地に住む人々を、悪しき犯罪者やベヒイモス達から身を呈して守護してきたのは、他でもない。自分達を始めとした蒼天機関の機関員であり、呪工兵装突撃部隊の面々だ。その自負心が、プライドが、村雨には強く根付いていた。
故に、練馬区に彗星の如く参上しては区民達の喝採を浴びるスカー・フェイスの存在が、疎ましくないはずがなかった。奴の存在は村雨にしてみれば、目の上のたんこぶに等しかった。本来なら自分達の行動に向けられるべき区民の羨望を、奴が一人で奪い去っていたのだ。正直、目障りで仕方がなかった。また、スカー・フェイスが活動を開始したとされる五年前を境に、練馬区での犯罪件数が指数関数的に減少しているという報告も、村雨の一方的な競争心を煽り立てた。
彼が練馬支部に配属されてから、今日で五年の月日が経つ。五年の間に、色々な事があった。支部の連絡長に任命されたり、恋人が出来て一週間も経たずに別れたり、いつも眠たそうにしている部下を指導したりと色々だ。その『色々』の中に、スカー・フェイスとの邂逅も含まれていた。
五年間の内、村雨が奴と直接顔を突き合わせた回数は二十回。仕事の成り行き上、交戦したのはその内九回。その全てで敗北した。手傷を負わされた事もあった。
それでも、彼は決して諦めなかった。自分の方が万屋なんかよりもずっと格上なのだという事実を、頑として突き付けたかった。しかしながら、異動を一週間後に控えた今となってはそれも叶わないのだろう。そう思うと、益々悔しさが込み上げてくる。
それにしても、と思う。
スカー・フェイス。奴は本当に強かった。
決して村雨の力が劣っているという訳ではない。むしろ、戦闘系の能力を身につけていない分、前線でも巧く立ち回れるようにならねばと努力した。その甲斐あってか、村雨の単純な戦闘力は若手機関員の中でも上位に格付けされていた。
そんな彼の力を以てしても、スカー・フェイスには全く歯が立たなかった。奴の実力は呪工兵装突撃部隊の大隊長クラスと同格だ。仕事上、何度も手合わせをしている内に、そう感じるようになった。
一介の万屋がどうしてあれほどまでに強いのか。何度も敗北を重ねている内に、強さへの疑念が湧き起こるのは当然の事だった。村雨は日常業務の合間を縫って、スカー・フェイスの人となりについて調べ始めた。その結果、あくまで噂の範囲であるが、スカー・フェイスに纏わる『衝撃的な内容』を彼は掴んだ。
しかし所詮、噂は噂だ。村雨自身、真偽の程は半々だと思っている。確かに奴の強さを裏付けるには十分な内容だろう。それでも、鵜呑みにするには余りにも現実味が無さ過ぎた。
そうだ、試しに――この俺の横で眠たそうな顔をしている部下にその話をしたら、どんな表情をするだろうか。不意に、そんな悪戯心が、村雨の心に芽生えた。
「なぁ七鞍」
「何ですかー?」
「お前、天柩の戦士って知ってるか?」
からかうような口調で村雨が尋ねる。七鞍が珍しく、険しい目付きで上司を睨んだ。心外だとでも言うように。少なくとも、年頃の女の子が人前で見せていい表情ではなかった。上官にして良い態度でも、勿論ない。
「パネェっすねー、村雨パイセンー。あたし、こんなふざけた口調で見た目頭空っぽのお馬鹿さんに見えますけど、そのくらい知ってますよー。そんなの一般常識じゃないっすかー」
「なんだ。ふざけた口調っていう自覚はあったのか」
「キャラ付けですよ。知らなかったんですか? て言うか、あれですよねー。天柩の戦士って、昔、蒼天機関に所属していた傭兵集団で、機関内で最強の名を欲しいままにしていた、十人のジェネレーターの事ですよねー?」
「そうだ。余りに実力がずば抜けていたから、呪工兵装突撃部隊や他の部局とは別個の、彼ら専任の特殊部隊が創設されたほどだ」
「確か髑髏十字って名称の部隊ですよねー」
「そこまで知ってるとは意外だな」
「機関に入りたての頃、教本で学びましたからねー」
ふふんと、七鞍はその小さな胸を反らし、得意げに鼻を鳴らした。普段はのんびりとマイペースで何を考えているのか分からない、この『ぼんやり少女』でさえ知っているほど、天柩の戦士達は有名も有名である。もし、この都市に住んでいる人間で彼らの事を知らない者がいたら、間違い無なくモグリだ。
「ていうかー、今頃なんでそんな話をするんですかー?」
「うむ……」
「村雨パイセン?」
「仮にだぞ。もし仮にスカー・フェイスが、天柩の戦士の生き残りだと言ったらお前、信じるか?」
やや含みを持たせた言い方で、そう尋ねる。さて、のんびり屋の部下はどんなリアクションを取るのだろうか。吃驚するだろうか。あるいは、呆れ返るのだろうか。
反応は後者だった。若干の間があってから、七鞍は「はぁ~~~~」と肩で大きく溜息を付いた。
「今日一番のパナイ発言っすねー村雨パイセンー。ありませんよそんな事ー。だって、彼らは機関への反逆行為が発覚して、十年前に全員討伐されたって話じゃないですかー。万が一にでも彼らが生き残っていたら、ウチらのボスが黙っていませんよー。血眼になって、街中を必死になって捜索するはずですからねー」
「……まぁ、それもそうだな」
「彼らの生き残りがいるだなんて、そんな話、陰謀論者か何かの誇大妄想じゃないですかねー?」
素っ気ない態度である。村雨は思わず失笑した。ロマンの無い奴だなと思うよりも、七鞍の言う通りかもしれないなと、納得する思いの方が強かった。やっぱり、只の噂に過ぎないとみるのが妥当だ。
当時の彼ら――天柩の戦士達は、間違い無く幻幽都市の市民達にとって英雄であり、都市の守人そのものだった。彼らが本格的に活動を始めた時期は二〇二四年頃とされている。その頃は、蒼天機関も創設されてから二年余りしか経っておらず、より多くの人員を確保しようと躍起になっていた時期であった。
そんな状況も相まってか、都市の治安は最悪を極めていた。人里へ降りてくるベヒイモスの手で何百人もの都民が虐殺された。犯罪者達の中にもジェネレーターに覚醒したばかりの者が多く、力に溺れて欲望のままに悪事に手を染める者が後を絶たなかった。
最悪の渦中に颯爽と現れて、死神の如き力で悪党どもを地獄送りにしてきた彼らが、祭り上げられない訳がなかった。天柩の戦士の勇名は一週間と経たず、都市中を駆け廻った。彼らが活躍した二〇二四年から二〇三〇年の間に、都市の治安は見る見るうちに回復していった。彼らはまさに、時代が求めたヒーロー像そのものだったのだ。
されども、それも今となっては昔の話。都市の英雄から一転して『裏切り者』の烙印を押され、無残にも処刑された彼らの存在を懐かしむ者など、道端に寝転がるホームレスの中にさえいやしない。
人々から忘れられた過去の戦士と、あの万屋が同一人物だとは。全くおかしな噂も流れるものだ。それを半ば信じかけていた自分も、全くおかしい。
それに、
「(仮に噂が本当だとして、だからって俺に何の関係があるんだ)」
ポケットから灰煙草を取り出して火を付ける。これでこの話はおしまいだと自分の中で区切りをつけるかのように、村雨は煙をたなびかせた。だが、ゆらゆらと宙を漂う煙を見つめるその視線が、実に物憂げな雰囲気を孕んでいたことには、彼自身も気がつけなかった。




