1-3 疵面にガントレット
村雨と七鞍が追跡を開始した頃、琴美を肩に担いで息を荒げながら、伊原は練馬区の裏道を縦横無尽に走り抜けていた。《無情雨宿》のおかげで、二人の全身は頭の先からつま先までずぶ濡れである。冷えた雨水に体温が奪われていくのも気に止めずに、伊原は無我夢中で逃走に徹した。
「(一体なんだってんだこの雨は!? まさか、あの機関員達の能力か!? どういう効果かは知らねぇが、うざったくて仕方ねぇ!)」
伊原は目の前の空間を撫でるかのように片手を動かし、ARCLを起動させた。眼球を覆う極薄透明のナノレイヤー型ウェアラブルデバイスを通じて、彼の視界上に擬似視覚情報で造られた仮初めの映像が出現。その映像の中にやや遅れて、タップアイコンが滑り込むようにして配置された。
走りながら、伊原は左の人差し指で空間を軽く叩くようなジェスチャーをした。すると、彼の動きに合わせてタップアイコンの一つが反応。ゼリーを指で押したようにプルンと揺れると、アイコンを中心に画面上に波紋が生じ、霧が晴れていくようにマップ画面が現れた。練馬駅前のマップだ。伊原の現在位置が、マップ上に青い光点として記されていた。
「(奴らの位置を、確認しなくては)」
ARCLの顔紋情報インポーターを起動。先ほど眼で記録した件の機関員二名の位置情報が、赤い光点となって二つ、小さく刻まれる。瞬きを数回する。マップが拡大され、光点も大きく表示された。今度ははっきりと、その位置が掴めた。
赤い光点が尋常ではないスピードで青い光点に迫っている。仮想映像上での両点の距離は、凡そ二百メートルといったところか。いずれにせよ、あと最低一回は飛ばないと、追いつかれるのは確実だ。
「は、離して! 離せ!」
伊原の右肩に担がれる格好となった琴美が、激しく抵抗を繰り返す。怒りと恐怖から頬を上気させ、栗色の髪を乱して大声で喚く。手足をめちゃくちゃに暴れさせながら、どりゃ振りの雨の中で必死に助けを乞う。あらん限りの大声を出し続けることが、今の琴美にできる最大限の反抗だった。
「うるせぇぞッ! 大人しくしやがれこのアマァッ!」
伊原はヤクザめいた恫喝をかますと、左手に握られたままの高電磁ナイフの目盛を軽く押し上げた。高熱を纏った刀身を琴美の右脹脛へ強く、強く押しつける。
琴美の小さな身体が大きく跳ね、反射的に絶叫した。その叫び声は、車に轢かれた猫のそれに似ていた。
雨粒が高電磁ナイフの刀身に降りかかっては、瞬時に蒸発していく。琴美の右脹脛が、目を背けたくなるほど真っ赤に焼けただれていく。白い薄皮が剥がれ、中から脂肪が覗いていた。
負傷した箇所に、容赦なく冷たい雨粒が降りかかる。琴美は更に耐えがたい激痛に苛まれた。気が触れた様にもがき苦しみ、手足を更に激しくバタつかせる。
「ち、ちくしょうッ! コイツ、言う事を聞かねーかッ!」
本当に首を掻き切ってやろうかと思ったが、やめた。目立った傷をつけすぎては、人間牧場に売り払った時、買値がつかない可能性がある。
伊原は高電磁ナイフをズボンのポケットにしまい、方法を考えた。躾のなっていないペットを大人しくさせるやり方を。そうして、閃く。
酷薄の笑みを浮かべると、伊原は一切の躊躇なく、琴美の濡れた右わき腹を左の拳でぶん殴った。走りながら逃げながら、執拗に殴り続けた。早く気絶しろと言わんばかりに。
「こ……の……この野郎ッ!」
伊原ではない。それは、琴美の台詞だった。普段の彼女からは想像もつかない、汚くて下品な言葉遣い。裏を返せば、それだけ切迫した状況に立たされているという事だ。
何度も何度もわき腹を殴打されたのが堪えたのか。琴美が急に大人しくなった。やっと黙りやがったか。伊原が安堵したその途端、
「あがッ!?」
首筋に、激痛が奔った。
琴美が、その小さな口を目一杯開けて、伊原の首に噛み付いたのだ。歯型が出来るほど、深く、勢い良く、思い切り噛み付いていたのだ。ギリギリと歯を擦らせる度に、伊原の首から血が滲み出た。
そこに、普段の琴美の姿は無かった。あるのは、理不尽な暴力を前に惨めな抵抗を続ける、一人の少女の姿だった。可憐な顔立ちも、今では怒りと焦りと恐怖で、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。彼女は一端口を離すと、肉を食い破らん勢いで大きく息を吸い、もう一度噛み付こうとした。
「調子に乗るなよクソガキッ!」
腸が煮えくり返るのを感じながら、伊原が激情のままに、奥歯のスイッチを力強く噛み絞めた。途端に、莫大な慣性力が彼と彼の肩にかつがれた琴美を襲い、途方もない力が全身に纏わりついた。
彼が体内に仕込んでいる加速型の機能片。スペックによって程度はよりけりだが、使用者の脚力を何倍にも膨れ上がらせ、瞬発的に遠方までの移動を可能にする力がある。
その運用上、使用時の全身にかかる抵抗には凄まじいものがあった。にも関わらず、既に四回も加速を実行している。それだけ、機関員に捕まるのが怖かった。捕まれば、身の毛もよだつような拷問を受けるだけじゃ済まされないだろう。最悪死刑にでもなれば、半殺しのままデッドフロンティアの奥地に放り出される可能性だってある。そんな目にあうのは御免被る。
故に、伊原は機能片使用時にかかる風圧に耐えた。一方で、それまで気丈に反撃を続けていた琴美は、ついに五度目の加速には耐えられなかった。全身にのしかかる激しい風圧の余波に、今度こそ意識が彼方へと吹っ飛んで気絶。
「(首が痛ぇ。痛ぇが畜生。こうなったらとことんやってやる。この女を寝倉まで連れ込んだら、お返しにたっぷり犯して、中野区地下の人間牧場に売り払ってやる。それで多少の金にはなるだろう)」
転んでも、只で起き上がる訳にはいかなかった。伊原はこの日、六度目になる機能片の発動を試みた。赤い光点のスピードは、まだ落ちない。
「(はやく、はやく逃げ切らなくてはッ!)」
再度奥歯を強く噛んでスイッチを入れ、己の体にブーストを掛ける。瞬間、風を切るように空中を駆け抜ける。同時に、莫大な空気抵抗が全身に襲いかかる。伊原は構わず目一杯に足を前へ振り、空中を駆け続けた。
思うように遠くまで飛べない事に、伊原は内心苛立っていた。どうも今日は調子が悪い。頭の奥が焦げ付くような感覚があった。機能片の過電流防止機能が上手く作動していないのか。
失敗だったか。やはり正規品にしておけば良かっただろうか。そんな後悔の念が押し寄せるも、直ぐに振り払う。ピーキーな性能を求めたのは己自身だ。闇市場に出回る違法製造された機能片に手を出した時点で、安全設計なんてチンケな考えは、捨てたも同然ではなかったか。
人工で肉体強化を手に入れたいなら、サイボーグ化が一番だ。製密駆動塊を使うといい。制御システムの面を考慮しても、そちらの方が機能片よりずっと勝っている。懇切丁寧にそう助言する同業者もいた。
心の中で吐き捨てた。そんな事は言われなくとも知っている。知っていて、伊原は機能片を選んだ。理由は至極単純だった。定期メンテナンスの度にサイボーグ技師に支払う金を惜しんだからに過ぎない。金は快楽と欲望の為に使うべし。それが伊原の人生観だ。
売人として活動してから既に七年。秋葉原でヤクザの元締め達と争った際にいくらか零してしまったが、懐は大分温まってきた。機関の連中にバレないように洗浄してきた金を含めれば、結構な額になる。
しかしながら、サイボーグ化は嫌だ。初期費用もそうだが、定期メンテナンスで金を巻き上げられるのは厄介だ。故に、伊原は求めるスペックに手軽さと取っ付き易さを優先した。売人らしい、なんとも安っぽい考え方である。
売人らしい、安っぽくて浅ましい知恵だ。その代償が今になって、伊原の脳を蝕んでいた。後頭部深くに棘が刺さるかのような、ひどい激痛。顔が苦悶に歪む。呼吸はだんだんと荒くなり、足取りは益々覚束なくなっていく。
恐らく、機能片はあと一回の使用が限界だろう。
小悪党は酷い頭痛に堪えながらも、冷静に判断を下した。
どうする。もう少し走ってから使うべきか?
「(いや……)」
今は何としてでも、機関員の手から逃げねばならない時だ。
出し惜しみはしてはいられなかった。
そんな必死の願いが通じたのだろうか。擬似視界情報に映る赤い光点……機関員の速度が急激に落ちた。使用してから一分経過して、伝播強壮剤の効果が切れたのだ。
それを、伊原は見逃さなかった。覚悟を決めて奥歯を噛む。本当に例えようの無い痛みが、頭からつま先までを駆け巡った。何かが、頭の中でぷつりと切れる感覚があった。機能片の心臓部とも言えるマイクロ・チップの回路が、ついに悲鳴を上げたのだ。意識が飛びそうになるも、なんとか堪える。
「(くそっ! もう、もう駄目だッ! 限界だッ! これ以上、機能片は使えねぇッ!)」
加速を終え、地面に着地。思わずその場にしゃがみ込みそうになるが、なんとか堪える。ふらつく足取りで路地を当ても無く彷徨い続ける。
やがて、開けた空き地が目に入った。周囲を高い塀に囲まれてはいるものの、右奥に抜け道があるのを確認する。
乱雑に立ち並ぶビルと安アパート群の中にあって、空き地の存在はあまりにも場違いに見えた。更地だったのが長い事買い手がつかず、空き地へと変貌したのだろう。
忙しない様子で背後に目をやる。雨音に混じって、人が近づいてくる気配は無い。痛みを我慢した甲斐があった。伊原は、ほっと胸を撫で下ろした。
「体力が回復するまで、ここで暫く大人しくしてるか」
ARCLが映す視界情報上では、赤い光点との距離はかなり広がっている。止まり木を見つけた伊原は人質である琴美を担いだ状態のまま、誘われる様に空き地の中央へ足を進めた。
休憩は一分で良い。息を整えたら、この女を連れてさっさと練馬区から逃げちまおう。人間牧場がある地下繁華街の入り口までは、あともう少しだ。もう少しで、あの厄介な機関員を出し抜ける。
そう、楽観的に構えていた時だ。
「雨を気にせず休憩なんて、随分と粋なところがあるじゃないか」
唐突に、名前を呼ばれた。
びくりと肩を震わせると、伊原は背後にただならぬ気配を感じ取ったのか。琴美を放り出すと、その場から飛び退いた。
聞き覚えの無い無い声だった。先ほどの機関員達のものではない。だが、実に恐ろしい迫力を秘めた声色である。
「き、貴様はっ!?」
男の姿が路地裏の影から露わになった途端、伊原の細い両眼が大きく見開かれた。反射的にARCLを終了させ、裸眼でまじまじと見やる。
伊原の視線の先には、一人の男が立っていた。瞳は黒く、襟元から覗く肌は適度に日焼けして浅黒い。眉毛はやや細めに整えられていた。
男は、実にただならぬ気配を纏っていた。銀色の短髪は降りしきる雨粒を弾き、百八十センチもある肉体は引き締まった筋肉を纏い、凄まじい威圧感を放射している。
加えて、目に付くほど鮮やかな黄色のロングコートを前ボタンを留めずに羽織り、下に着込んでいる薄い黒地のTシャツは雨水を吸収して、男の逞しい体にピッタリと張り付いていた。
一目でそれと分かる得物らしい獲物を、男は持っていなかった。唯一それだと認識可能なのは、前腕部から両拳を分厚く包み込んでいる、暗黒色のガントレットだけであった。
ガントレットは大変精巧な造りをしていた。指の関節可動部に至るまで、装着者に対する細やかな気遣いが行き届いている。相当の業師が製作したものと見て良かった。
「き、貴様は、確か……」
伊原は、雨中で悠然と佇む男の顔を見て、慄くような反応を見せた。男の年齢は二十代前半に見えるが、若さからくるあどけなさは一つも見られない。
これまで数え切れぬほどの修羅場を潜ってきた事を暗示するかのように、男はとても精悍な顔立ちをしていた。女受けし易い風貌、とでも例えれば良いのだろうか。
――ただ一点、男の左眉から鼻と唇を突っ切って顎に向かって斜めに縦断した、痛々しくも不気味な、深い刀疵を除けばの話しではあるが。
男は、猛禽類を思わせる鋭い眼光を伊原に向け続けている。疵の刻まれた貌と全身から放たれる凄味も伴って、何とも言えぬ恐ろしさを植え付ける。さっき自分を睨みつけた角刈りの機関員と比べても、話にならないほどの。
「伊原誠一。ここ三週間ほど前に根城にしていた秋葉原から、古巣の練馬区へ出戻る……どうやら、噂は本当だったようだ」
静かに、ひとりごちる様に口にする。
男の声質は、芯の通った、太くて低い声だった。
「……し、知ってるぞ、お前」
伊原はズボンのポケットに手を伸ばし、じりじりと後ずさった。
直ぐ後ろは高い塀だ。逃げ場は無い。しかし、伊原は後退せずにはいられなかった。それほどのプレッシャーを、男から感じたのだ。
今日はもしかして厄日だったか。口惜しそうな表情を浮かべては自身に降りかかる災難を呪った。厄介な機関の狗からようやく逃げ切ったと思いきや、その狗以上に敵に回したくない男と邂逅する羽目になるとは。
「その黒いガントレットに黄色のコート。顔面に刻まれた不気味な疵跡。間違いねぇ。アンタが噂に聞く『スカー・フェイス』かあッ!?」
「だったら、どうする?」
男は鋭い目つきを崩さない。コートのポケットに両手を突っ込んだその立ち姿は、一見すると隙だらけに見える。だが実際の所は、あらゆる不意打ちに備えた『構え』の一つ。
伊原もまがりなりにとは言え、裏世界で多くの修羅場を生き延びてきた男だ。それを可能にしてきたのは、臆病すぎる彼の精神力による所が大きかった。己の周囲を取り巻く気配の変化に大変敏感な、その小動物じみた精神力がここ一番の警戒音を鳴らしている。逃げるんだ。早くこの場から逃げるんだ、と。
しかし、伊原は逃げ出す事が出来なかった。身体が言うことを聞いてくれない。もしここで背中を見せるような真似をすれば、あっという間に行く手を阻まれてどぎつい一発を喰らわせられると、本能が知っているのだ。
これ以上、痛い思いをするのはまっぴらごめんだ。
だから、彼は足を動かす代わりに唇を動かして、言った。
「よ、万屋風情が、アタシに一体何の用だッ!」
「可笑しな事を聞く。万屋の俺がヤクの売人に用があると言ったら、一つしかないだろうが」
言い終えるやいなや、男がぬかるんだ大地を強く蹴り、駆けた。蹴りの衝撃で泥が飛び散り、コートの裾が翻る。男の所作を伊原が確認した時には、既に自身の懐に潜り込まれていた。
唐突すぎて呆気にとられる伊原の顔を視界に収めつつ、疵面の男は弓を引き絞るように左腕を振るった。伊原の鳩尾目掛けて、ガントレットに覆われた拳を真っ直ぐに突き出す。
痩せた胸に深くめり込む豪拳。骨を折るまでには至らず、しかし深刻な肉体的ダメージを与えるには十分な一撃。やや力を抜いて左拳を振り抜けば、伊原の細い体が勢いよく、空き地の壁に強く打ちつけられた。胸の辺りを両手で押さえて、その場でうつ伏せの格好になる。
「あ……アタシを……殺しに来たのか……?」
「俺の仕事に殺しはねぇ。せいぜいが『半殺し』までだ」
「お、同じだ……殺そうが殺さまいが、あんたは俺の敵だ! ええ!? そうなんだろ!? 俺の前に姿を見せたってことは、そう言う事なんだろ!?」
「黙れ」
低く短い迫力たっぷりの恫喝を前に、伊原が小さく肩を震えさせた。常に弱者を甚振り続けて来た彼には、本物の強者とやり合える覚悟など、米粒程も持ち合わせてはいなかった。
男は、ずいと伊原に顔を近づけると、無表情で囁いた。
「何もそんなにビビるこたぁねぇだろう? ちょっとばかし、俺の質問に答えてくれば良いだけの事だ」
「し、質問だと?」
男はコートのポケットから、一枚のホロ・フィルムを取り出した。
フィルムの表面を軽く撫で、立体映像を展開。
映し出されたのは、坊主頭に髭面の、精気が抜け落ちた男性の全身像だった。
「こいつの事で、あんたに聞きたい事があってね」
「そいつは……」
「名前は三田健吾。写真の通り男だ。年は二十五。見覚えあるよな?」
「……」
「どうなんだよ」
「……そいつなら、二週間くらい前にアタシの所から『カラフル』を買った客だよ。それがどうかしたのかい?」
「死んだよ」
「何?」
狐につままれたかのような伊原を余所に、男はフィルムをポケットにしまった。
「事実だ。一週間前にな。ニュースでは報道されていない。『カラフル』を使って自宅で女とセックスしていたら、口から血を吐いて死んだんだとさ。捜査にあたった機関員の話によると、死因は『カラフル』の過剰摂取による中毒死らしい」
一通り話し終えると、男はホロ・フィルムをコートのポケットに戻した。
「さて、ここからが本題。三日ほど前の事だ。三田健吾の親友から、あんたへの『仕置き』を依頼されてね」
「はぁっ!?」
「涙を流しながら、俺に頼み込んできたよ。クスリを売りつけた売人をとっちめて欲しいってな。そうまでされて、断る理由が俺にはない。だから、あんたを制裁しに来た」
「ふざけんなッ! 冗談じゃないぜ! 大体、ヤクに手を出す奴が悪いんだろうがっ! アタシは只、自分の仕事をこなしているだけなのによぉ!」
「あんたの言い分も一理ある。覚せい剤に手を出すのは、《外界》だろうが都市だろうが、違法である事に変わりない……けどな? 俺からしてみれば、人の心の弱さや後ろ暗さに付け込んでヤクを売って銭を稼いでいるあんたの方が、よっぽどの悪人に見えちまうんだよ」
「言ってくれるじゃねぇか!」
伊原は憤怒の形相を浮かべると、勢い良くズボンのポケットから高電磁ナイフを引き抜き、構えた。柄のメモリを一気に最大値まで押し上げると、刃先を男の腹部目がけて力一杯に刺し貫く。
白熱した薄造りの刀身が焦音を鳴らして肉を焼き切り、男が苦悶の表情を浮かべて鮮血を撒き散らし、その場に力なく倒れ込む――はずだった。
だが、そうはならなかった。焼き切ったのは、男が着用している黒いジャケットだった。男の肉体は鋼以上に硬く、傷一つ負わせる事すら許されなかったのである。
高電磁ナイフの先端は刺突の勢いを殺せずに、男の強靭過ぎる腹筋に弾き返された。軽やかに宙を舞うナイフの刀身は、弾かれた衝撃で真っ二つに折れていた。
「なっ、あぁ!?」
茫然とする伊原。男は、傷一つついてない自らの腹を軽く擦った。黒々とした瞳は雨に濡れ、そして燃えるように蒼く光っている。
「今のは、なんだ? バターナイフか?」
表情を全く変える事無く、男はからかう様な口調でそう言った。目は笑っていなかった。伊原は此の時、酷く混乱していた。
「(馬鹿なッ!? 雨天下とはいえ、最高到達温度一千度の攻撃を受けて、平気でいられる訳が無いッ!)」
心中で驚愕するのと同時、伊原は男の不敵な発言を受けて直感的に悟った。この男はジェネレーターだ。そうに違いない。恐らくは、己の肉体を極限まで強化する能力を宿したジェネレーター。
「(だ、だがおかしい! いくら肉体強化能力系統のジェネレーターでも、違法改造した出力マックスの高電磁ナイフの一撃を土手っ腹に喰らえば、ダメージは通る筈なのに……)」
この男、一体何者なのだ?
伊原の脳裏に湧いた疑問に、男が答える必要は当然ない。
「貰ってくぜ」
恐怖に震える伊原の心情を余所に、男が、雨風を斬るかのように右腕を振り薙いだ。瞬間、伊原の左肩に凄まじい激痛が奔った。噴き出す血飛沫が、地面を黒く濡らしていく。鋼の硬度を超えた手刀による一撃。それを以て、伊原の左腕は無残にも、肩から切断されたのだ。
地べたに這いつくばり、血が止め処無く溢れ出る左肩を必死になって右手で押さえる伊原。涙と汗と鼻水を垂らし、降りしきる雨と泥にまみれて、無様に嗚咽を洩らし続ける。そんな彼の姿を、堂々とした様子で見下ろす男の視線が射抜いた。先ほどまで蒼く輝いていた男の瞳が、普段通りの黒色に戻っている。
「出来る事なら売人の腕を斬り落として欲しい。それが依頼内容だ。悪いが、この腕は証拠品として頂いていく」
降りしきる雨の中、男は右手で血まみれの腕を拾い上げると、今度は左手をコートのポケットに突っ込んだ。取り出したのは革袋だ。それも、腕一本は余裕で入るであろう大きさの。どう考えても、ポケットの容量を超えている。
瀕死状態で空き地の地面に突っ伏したままの伊原に、反撃の余地はない。男の一連の行動を、悔し涙を浮かべて凝視するしかなかった。
「良かったじゃないか。こんな薄汚れた腕とオサラバできてさ。今後は病院で新しい義手でもつけてもらって、真っ当な人生を生きるんだな」
「か、返してくれぇ……頼む、俺の腕を、返してくれ」
「駄目だね」
無情にもそう突き放すと、男はまたもや、オルガンチノのポケットに手を突っ込んだ。取り出したのは、透明な薄緑色のピルケースだった。
蓋を開けて赤色の錠剤を二粒取り出し、無造作に伊原の下へ放り投げた。錠剤はぬかるんだ泥を吸い、たちまち茶色く変色していく。
「即効性の止血錠剤だ。命だけは助かるだろうよ……後は大人しく、機関員の世話にでもなるんだな……んん?」
その場を去ろうと男が足を進めた時だ。視線の端にあるものが映った。つい先ほどまで人質となっていた少女、琴美である。
全身びしょ濡れで気絶中の彼女に駆け寄ると、男はじぃっと、その小さな顔を覗きこんだ。視線を下半身へ移す。少女の右脹脛に、熱による火傷の痕があった。
「ふむ」
男はオルガンチノのポケットからナプキンを取り出し、手に染みついた血糊と雨露を拭った。続けて、円筒型の活性チューブを取り出すと蓋を開け、中から治癒膚板を二枚取り出した。白い板状のガムにも似たそれは、幻幽都市の都民なら誰もが普段から持ち運んでいる医療用具であり、全天候下で使用可能な即効性の塗り薬でああった。
二枚の治癒膚板を掌の上でこねくり回す。体温の熱によって形状が崩れ、粘度の高いクリームへ変質したのを確認。火傷のひどい箇所へ丹念に塗りたくった。これであと一時間もすれば、傷は完全に治癒するだろう。
「よいしょっと」
活性チューブをオルガンチのポケットに仕舞うと、男は腫れ物に触るかのように気絶したままの琴美を抱き上げた。そのまま去ろうとして、はたと、足を止める。
「老婆心ながら言っておくが、報復なんて間違っても考えない事だ。そんな事をした日には、たっぷりと『お礼』をしてやるからな」
必至の形相で止血剤に手を伸ばそうともがく伊原の耳に、男の忠告は届いていなかった。




