6-3 吐き出された言葉、贈られた言葉
秋風は、相も変わらず冷たいままだ。
琴美は、ミセス・ミストから借り受けたモスグリーン色のトレンチコートに身を包み、『エスカルゴ』の軒先に設置された客待ち用のベンチに腰掛け、じっと宙を見つめていた。
通りを歩く人の数は少なく、時折、思い出したかのように電動自動車が通り過ぎていくのみ。
店内から漏れる客たちの喧噪をBGMに、しかし琴美の心は昏く沈んだままでいる。少女の心を慮ってか、今日は満月であるというのに、月は薄墨汁のように黒めいた群雲に隠れてしまっている。
少女の泣き腫らした赤い目元を照らすのは、店先にひっそりと佇む街灯だけであった。
「落ち着きましたか?」
声に反応して隣を見ると、エリーチカが立っていた。その白い陶磁器のような滑らかな右手には、自販機で買ったばかりの暖かな缶コーヒーが握られている。
「すみません」
声に僅かな掠れが残っている。琴美は缶コーヒーを受け取ると、膝の上で大事そうに両手で抱え込んだ。じんわりとした温みが、冷え切った指に沁み込んでいく。
「謝るのはこちらの方です。本当に、申し訳ございません」
隣に座ったエリーチカが、通りに視線を向けたまま謝罪を寄越してきた。
『なんで謝るの?』とは、琴美は聞かなかった。謝罪をして当然だという、そんな見当違いの驕りの為ではない。それを聞くのは、野暮であると思ったからだ。
今、エリーチカがどんな気持ちでいるのか。それを推し量れば、彼女が謝罪してきたことの理由は想像がつく。
それが、見当外れであるかどうかは別にしてだ。
「配慮が足りませんでした」
エリーチカは、やや伏し目がちにして言った。
「琴美さんにとって、殺したいほど憎い相手なんて、一人しかいない筈。それを分かっていたのに、あんなアドバイスをしてしまった」
「エリーチカさん」
「私が愚かでした。思い出したくもない過去を、思い出させてしまって」
「エリーチカさん、違うんです」
静かな口調で、琴美はエリーチカが考えているであろう事を否定した。
「違うとは、どういうことです?」
予想に反した返答を受けて、エリーチカは思わず琴美の方を見て言った。
「お父様を殺した犯人を、憎んでいるのではないのですか?」
否定の言葉を述べる代わりに、琴美は缶コーヒーへ視線を落として、質問を投げかけた。
「……あの、エリーチカさん」
「はい」
「エリーチカさんにとって、一番大切な人って誰ですか?」
琴美は、通りへ視線を投げかけたまま尋ねた。何を意図した質問なのか。エリーチカは疑問を頭に浮かべながらも、取り合えず答えた。
「それは、何といっても再牙と涼子先生。このお二方です。命に代えてでもお守りしたいと思ったのは、十五年稼働し続けてきて、未だにこの二人を除いていませんから」
「じゃあ、もし、もしもですよ?」
何かに縋りつくような必死さを込めて、琴美は胃を決して尋ねた。
「もし、火門……ええと、再牙さんが誰かに殺されたら、その殺した犯人を憎いと思いますか?」
「琴美さん。それは」
エリーチカは少し口を噤んだ後、まっすぐ琴美の方を見つめ直した。
「私の人工魂魄が許さないでしょう。憎しみという、負の感情を私が抱くことを、私の心が許さない。だから、もし再牙が何者かに殺されたとしても、私が認識できるのは『再牙が殺された』という事実だけ。事実に付随するあらゆる感情は、私の人工魂魄に蓄積されません。故に、相手を憎むという感情そのものが生まれてこない。ですが――」
そこで一旦、言葉を区切る。
「ですが、私が人間だとしたら、おそらく、いやきっと、再牙を殺した犯人を憎むでしょう。憎んで憎んで、どんな汚い手段を使ってでも葬り去る。きっと、そう己に誓うはずです」
「そう、だよね」
何故か苦笑を漏らす琴美。
「普通なら、そうだよね」
でも、
「あたしは、普通じゃなかった」
無遠慮な秋風に熱を奪われ、手の中の缶コーヒーは既に熱を失いかけている。琴美は、執拗に両手で缶を擦り始めた。失われた熱量を取り戻すかのように、何度も何度も缶を擦る。
苛立ち、不安、恐れ、嫌悪――あらゆる感情がない交ぜとなって少女の小さな体内を駆け巡る。
「お父さんが亡くなった日、私は涙を流さなかった」
本心。ついに言葉となって溢れ出る。これまで、再牙はもちろん、クラスメイトにも打ち明けなかった、本音だ。
「どうしてあの時、涙を流さなかったのか、ずっと分からない振りをしてきました。自分に、嘘をついていました」
琴美は首を横に振った。
「本当は分かっていたんです。自分が父の事をどう思っていたか。そのことには気づいていたんです。気づいていながら、気づかない振りをし続けていた。向き合うのが怖かったんです。でも、さっき拳銃で的を打ち抜いたときに、はっきりしたんです。自分の心が。その本心が」
エリーチカは、黙って耳を傾けている。
「拳銃を構えて憎い相手の姿を想像したとき、真っ先に浮かび上がってきたのが父の姿でした。おかしいでしょう? エリーチカさんの仰る通り、普通の人ならそんな事考えない。普通の感覚なら、父親を殺した犯人の姿をイメージして撃つはずなのに、私にはそれが出来なかった。顔を見たことも無い犯人よりも、家を捨てた父親の方が、ずっとずっと、憎かったんです」
隣で聞いていたエリーチカが密やかに息を呑むのを、琴美は確かに耳にした。
嫌われただろうか。幻滅しただろうか。殺された父親を憎む娘なんて……そんな、そんな非道徳な存在の『私』を、彼女は拒絶するだろうか。
いや、もうそんなことは関係ない。
一度でも溢れ出した感情の洪水を、堰き止める術はない。
「父が家を出たあの冬の日の事を、私は今でもはっきりと覚えています。あの時の私は呑気なもので、直ぐに父は帰ってくるものとばかり思ってました。多分、出張にでも行ったんだろうと、そんな風に思い込んでいたんです。でも、一週間、二週間と過ぎても、父は家に帰ってこなかった。心配になって母親に聞いても、『知らないし、分からない』の一点張りで……私はなんだかものすごく、恐ろしいと感じました。そして、父が家を出てから一か月ほど経過した頃、私はようやく気が付きました。ああ、父はもう二度と、家には帰ってこないのだなと。何か根拠があった訳じゃない。でも、子供の勘って奴なんでしょうか。とにかく私は、父が二度と家の敷居を跨ぐことは無いと直感しました。そうと分かって直ぐの頃は、本当に心細くて、心配で、一睡も出来ない日もありました。どうして父は家を出て行ってしまったのだろうか。お母さんとあんなに仲が良かったのに、どうして、どうしてなんだろうって。頭の中が、おかしくなりそうで……ずっと一人で悩み続けていました。でも、いくら考えても、答えなんて出てこなかった。父が家を出る理由が、まるで思いつかなかった」
そんな状況下でもなお、少女は心の片隅で願っていた。父が帰ってくることを、愚直に信じ続けた。
もう家には戻ってこないだろう。ふと脳裏を過るそんな悪魔の囁きにも近い直感を、必死に振り払い、あるのか無いのかすら分からない一縷の希望に、縋り続けた。
夜。床に就く時には、それが一層顕著に出た。ふと目が冴えて、微睡んだ意識の中、父の名を呼びながら部屋のあちこちを徘徊する日が続いた。心配した母親が精神病院へ連れて行ったことで、何とか恢復に至った。
それでも、少女の心から父親の影が消え失せる事は無かった。
少女は、夢の世界で追い求め続けた。父親の幻影を。来る日も来る日も、冷たい布団の中で願い続けた。
朝、目が覚めたら普段通りに、父親が新聞を読みながら朝食を摂っている。階段を下りたところでこちらに視線を送り、『おう、おはよう』と、一声かけてくれる。
どこの家庭でも見られるであろう、そんな朝のひとときが、当時の琴美には一番の願いだった。しかしながら、目が覚めた少女を待ち構えているのはいつも、辛い現実の日々であった。
少女の願いが叶わないままに、半年ほどが過ぎたある日の事。ついに琴美の心は、限界を迎えた。
限界を迎えて、反転した。
「その日……六月七日は、私の誕生日でした。でも、誕生日を迎えても、結局、父は帰ってこなかった。手紙の一つも寄越してこなかった。生きているのか死んでいるのか。それさえも分からなかった。そうして――」
声を震えさせて、琴美は吐き出す。
「私は、父を軽蔑するようになっていました」
決定的な一言だった。心のタガが外れたのか、何時の間にか琴美の瞳には、昏い炎が灯っていた。
「こんなに心配しているのに、一刻も早く会いたいのに、帰ってこないなんてひどい。他所に女でもつくって、駆け落ちでもしたんだろうか……一度抱いた不信感は、そのまま憎しみに昇華しました。なんてひどい父親なんだと、そう強く思うようになりました。何も告げずに家族を捨てて、私とお母さんを心配させて……特にお母さんが可哀想で、本当に心苦しかった。父がいなくなってから、日に日に痩せ細っていくお母さんの姿を見るのが、耐えられなかった。私と母を辛い目に遭わせている原因。それが父なんだと思い込む度、ますます父の事が嫌いになりました。憎くて、憎くてしょうがなかった。家族を捨てた父の事を考えれば考える程、歯ぎしりをせずにはいられませんでした」
琴美は、不意に顔を上げた。視線の先に、街灯に卑しく群がる羽虫の存在を捉えて、何かを悟ったように目を細める。
「父が亡くなった。その知らせを聞いた時、思いました。ざまぁみろと。家族を捨てたバチが当たったのだと」
心の芯まで冷え切った、冷たい言葉だった。
「葬式の場でも、私の憎しみは消えなかった。涙を流す代わりに、式が終わるまでずっと、父の遺体を睨みつけていた自分がいました。父の亡骸を前にして思うのは、憎しみ。ただそれだけでした」
琴美は苦笑を浮かべた。
「本当は分かっていたんです。自分が父の事をどれだけ憎んでいるか。なのに、気づかないようにしてきた。気づく事が恐ろしかった。でも、再牙さんは流石ですね。私の心を簡単に見抜いてしまった」
「再牙が、ですか?」
急に出てきた弟子の名を耳にして、エリーチカはそこで初めて声を出した。
琴美は、ジーン・グラッセルの店を出た後、彼の自宅で何があったのかを、掻い摘んでで説明した。
話を聞き終えたエリーチカが、溜息をつく。
「なるほど。再牙は既に、貴方が父親へ向ける感情に、どこか違和感を覚えていたのですね」
「指摘された時は、思わず私もムキになってしまって、必死に否定しようとしたんです。でも、言葉が出てこなかった。私は、私の心をずっと騙し続けてきたんです。父が憎い。憎くて憎くて、どうしようもないんです。でも、そのはずなのに、私、父の事が……」
そこで、琴美は言葉を詰まらせた。
父の事が憎くて憎くて仕方ない。その感情に間違いはないはずなのに、なんだろうか。この、胸の奥から溢れそうになる、熱い感情の正体は。
十五の少女は下唇を噛み、冷たくなった缶コーヒーを両手で力強く握りしめた。寒さのためか、それともまた別の理由からなのか。缶コーヒーを握る少女の手は、震えていた。
「父の事が……時折、とても愛おしくなって……」
絞め木で、身ががんじがらめになりそうだった。エリーチカが心配したのか、声を掛けようとして、やめた。
栗色の髪で横顔が隠された少女は、今確かに、何か大切な事を言おうとしている。横顔が伺えなくとも、エリーチカには分かった。
「父が亡くなった後、私の夢に父が出てくるんです。夢の中で、父は凄く申し訳なさそうにこちらを見ていて……何かを口にしているんですけど、私には聞こえずに終わってしまう。気が付けば、朝になっていて……」
「……はい」
「父は……父は本当に優しかった……毎日夜遅くまで仕事で疲れている筈なのに、休日になったら、必ず遊んでくれたんです。映画や遊園地に連れて行ってくれたし……勉強だって、教えるのが上手かったんですよ。それに、母が仕事で留守の時は、一緒に夕飯を作ったりもして……本当に、幸せだったなぁ」
「……」
「私、私は……父が大好きでした。学校に友達がいなかった私にとって、父が一番の遊び相手でした。何より、一番信頼できる人でした。なのに……」
ぽつりと、何かが零れる音が、エリーチカの耳にやけに大きく聞こえた。
「あんなに優しかったのに……どうして……」
琴美は、激しく頭を振った。振った衝撃で、琴美の瞳から流れた冷たい雫が、エリーチカの手にかかる。
「私、自分が分からない……! 父の事を恨んでいるのか、それとも愛しているのか……考えれば考える程、全然分からなくなって……だから、父のことを考えないように、思考を働かせないようにしてきました……でも……」
紡ぐべき言葉がもつれ、嗚咽となって口から洩れる。抑えきれぬ涙が頬を濡らし、少女は、その小さな肩を哀しみで震わせた。
陽が完全に落ちた、千代田区の一画。人通りが段々と増えている。しかしながら、少女とアンドロイドへ視線を向ける者はいない。この街で、他人事に首を突っ込むことは、即ち、自らの破滅へ直結する場合があるからだ。
車の排気音。自転車のベル。革靴が地面を叩く。目の前を足早に通り過ぎる、サラリーマンや主婦。学校帰りの学生諸君。そして、『エスカルゴ』の賑やかな喧噪。
どこにでもある日常。幸せとは言い切れないが、それなりの生活を送っている、都市の人々が送る日常。
そんな日常世界の中にあって、琴美の心だけが、もがき、苦しみ、のたうち回っている。暗黒の世界で、たった一人で苦しむしかない。
「大丈夫ですよ」
不意に手を差し伸べたのは、エリーチカだった。
大丈夫? 一体何が大丈夫なんだろう?
エリーチカの言う『大丈夫』の意味が良く分からないまま、琴美は顔を上げると、涙で濡らした瞳でエリーチカの方を見た。
白く滑らかなボディ。白一色の外装に包まれたアンドロイドは、ゆっくりと、口にすべき言葉を選ぶ。
「琴美さん」
「はい……」
「貴方が幻幽都市へやってきた、本当の理由を話して頂けませんか」
核心を突く質問。琴美は、やや躊躇ったのちに答えた。
「父がどういう最期を迎えたのか、知りたかったんです。それを知って、私は良い気分になる。悦に入って、あの世でもがき苦しむ父を想像する。それが、父に対する私なりの復讐方法だと、考えたんです」
まっすぐこちらを見つめるエリーチカの瞳に耐えられず、琴美は視線を逸らした。呪詛にも似た自身の醜い言葉で、彼女を汚すべきではないと、本能的に感じたからだ。
「本当に、最低な娘だと思います。父親がどんな悲劇的な最期を迎えたのか。それを知って、死んだ後もなお、父親を甚振ろうとしているんですから」
「いえ」
エリーチカが、首を横に振る。
「それは違います」
「違うって、何が?」
「それは、貴方の本心ではないと言う事です」
自信が籠った、力強い口調だった。どうしてそんなことが言い切れるのか。そう尋ねるよりも先に、エリーチカが口を開いた。
「この街は、物理的にも精神的にも《外界》とは隔絶された都市。電波の周波数も異なりますし、日本国内のテレビやニュース番組は見れません。ですが、それでも時折《外界》の情報は入ってくるんです」
それはつまり、《外界》の人々が、幻幽都市に住む人々の暮らしや、都市に蔓延る風俗を、いかように感じ取っているのかを知るという事に繋がる。
「終焉の都市。屍が満ちる都市。人間の姿をした悪鬼魍魎が棲まう魔境。油断が即、死へ繋がるサイバイバル・ポリス……言い方は様々ありますが、どれもネガティブな表現であることに違いはありません。そして、残念なことに、私はそれを否定できない。確かに、この街は悪意に満ち溢れています。昔と比べて治安は良くなったとはいえ、今でも、目を覆いたくなるような残虐な犯罪や、怪物たちの強襲が勃発しますしね」
エリーチカが口にする内容は、琴美もここに来る前に聞いていた。事実、『虎ノ門』まで送ってくれた運転手も、似たような事を口にして、何度も琴美を説得していた。
それでも、琴美は幻幽都市へ赴くことを止めなかった。
「この都市は、他所から見れば魔界に過ぎない。そんな所に、十五歳の少女が、果たして父親への復讐心だけを心に抱えて、乗り込めるものなのでしょうか」
琴美は答えない。確かにその通りかもしれないと思う気持ちと、てんで的外れだと思う気持ち。二つの白と黒に満ちた感情が、せめぎ合っている。
「今から述べるのは私の推測です。不快に思われるのでしたら、先に謝っておきます」
申し訳ございませんと、エリーチカは頭を下げた。
「琴美さん、貴方の心には、お父様を憎む気持ちはありますが、しかしそれよりも、お父様を敬愛している気持ちの方が、強いのではないでしょうか。だから、お父様がどういう最期を迎えたかを知るのが、一人残された娘の使命であると感じ、貴方はこの街を訪れたのではありませんか?」
「でも仮にそうだとしても、私がお父さんを憎んでいる気持ちに、変わりはありません」
琴美は、呟くようにして言った。
「この感情を……憎しみの感情を捨て去る事が出来れば、そっちのほうがずっと、お父さんにとっても、私にとっても良いと思うんです」
「違いますよ、琴美さん」
エリーチカが、今度は囁くようにして言った。そっと優しく、琴美の左肩に自身の右手を乗せる。
「憎しみを捨てるのではなく、受け入れるのです」
「受け……入れる?」
「人は神様ではありません。さりとて、邪神でもない。正しい事だけをするのが人間ではないし、同時に、悪の道を突き進む事だけが、人間の生き方ではないと私は思っています。正しい事もする。間違った事もする。善き心も持てば、魔が差して悪心に囚われる事もある。だからこそ、人間は人間でいられるのです。憎しみの棄却。聞こえは良いかもしれません。ですが、そんなことをすれば、人生に意味はなくなる。人間を止める事に等しい行為です」
それに、とエリーチカは続ける。
「大事なのは、貴方が今でも、お父様の事を大切に想っているということです」
「え?」
「人間が、絶望の中で僅かに存在する希望に眩しい光を見出すように……一方ではお父様の事が嫌いでも、もう一方で、お父様を愛しく思う気持ちがあれば、それは貴方の心を暖かく照らす事でしょう。これからも、ずっと」
「……エリーチカさん」
「なんでしょうか」
沈痛な表情から一転、琴美の口角が僅かに緩んだ。
「エリーチカさんて、禅問答みたいなことも言うんだね」
それは、琴美なりの冗談だった。自分のような人間に優しく接してくれるアンドロイドへの、親愛の印とも言えよう。事実、琴美は感謝していた。暗く淀んだ心を照らすように励ましの言葉を贈るエリーチカ。感謝の気持ちしかない。だからこその冗談。
だが、エリーチカにはそうではなかったようだ。エリーチカは琴美の肩から手を離すと、今日で何度目になるか分からない『申し訳ございません』の科白を吐く。
「出しゃばりすぎました」
「え? あ、あの」
突然の態度の変わりように、琴美は困惑するしかない。
「どうも私は、人の感情に関する事になると、熱が入ってしまうんです」
私には、心というものが無いにもかかわらず。そう呟く。
「人工魂魄なんてものは、ただの飾りに過ぎないのかもしれません。所詮は、私という個体を動かす為だけの、ただの部品。人の感情を理解出来ても、私という個体に直接影響を及ぼすような、害悪とされる感情は全てお断りだという不完全すぎる魂。自分に都合良く構築された、人為的な心。それは、アンドロイドという存在の不完全性を指しています。その不完全性故、なのでしょう。私が人の感情に過敏になるのは、私に『本当の意味で』感情や心と呼べるものが、宿っていないから――」
「そんな事ない!」
悲痛な叫びをあげたのは、琴美だった。その声は通りにも思いの外響いたようで、目の前を通り過ぎる人々が、視線を二人へ向ける。だが、足は止めない。直ぐに手持ちのスマートフォンや、手の甲に移植した電子タトゥーが映すディスプレイに目を落とし、通り過ぎていく。
「そんなこと、そんな事ないよ、エリーチカさん……!」
琴美は、泣きそうな顔で、心優しいアンドロイドへ向けて想いを伝えた。
「そんな悲しい事、言わないでください……」
「琴美さん?」
「だって、エリーチカさん、こうして私の事を励ましてくれたじゃないですか! 落ち込んでる私を立ち直らせようと、色々話してくれたじゃないですか。それって……」
唾を飲み込み、琴美は座ったままの姿勢で、上半身を乗り出して言った。
「それって、エリーチカさんに感情がないと、出来ない事だと思うんです。誰かを想う気持ちが無いと、そんなことは出来ない筈なんです! だから、だから安心して下さい!」
嗄れた声が、もどかしい。普段の声なら、もっとちゃんと、彼女に伝わるのに。この、感謝の気持ちが。
「私には貴方の心が、ちゃんと届いてますから」
エリーチカは、黙って琴美の言葉に耳を傾ける。この、自分よりも遥かに非力な少女が、自分に投げかけている言葉。その言葉の意味を、しっかりと誤解無く、理解しようと努める。
不意に重なった。こちらを真剣に見つめて訴えかけてくる少女の姿が、思い出深い『彼女』の姿と。
思わず、エリーチカは目を擦った。ベンチに腰かけて目の前にいるのは、獅子原琴美。今回の依頼人の一人。父親への思いに苦しみ悩む、思春期の少女。
弱い。そして儚い。されども、それは上辺だけの姿だ。精神は強い。とても、十五の少女とは思えない程に。
今、エリーチカは見たのだ。琴美が必死に紡ぐ言葉から、彼女の精神性に満ちる優しさと力強さを。優しさと力強さから、嘗て戦場を共にした『彼女』の姿を。
『エリーチカ、もっと自分に自信を持って。貴方には、立派な心があるじゃない。その心、必ず相手に届くはずだから。ね?』
似通っている。琴美と涼子。生まれも育ちも違うのに、その心は、どこか重なる部分があった。
言わなければ。口にしなければ。こんな自分に暖かい言葉をくれた、この一人の少女に、感謝の気持ちを伝えなければ。エリーチカは、ずいと琴美に近づいた。二人の距離は、もう目と鼻の位置にしかない。
「琴美さん」
ありがとう――そう、口にしかけた。
まさに、その時だ。
遠くで、何かが爆裂する轟音がしたのは。
それだけで、少女とアンドロイドの空間に満ちていた穏やかな静寂は、木っ端微塵に吹き飛ぶッ!
「な、なに!?」
思わず立ち上がり、辺りを見回す琴美。遠くで、煌々と煌めく光が目に入る。
炎だ。
炎が町々を焼いている。
天に揺蕩う暗黒の群雲を赤々と照らす炎。
それに混じって立ち上り、もうもうとうねる黒煙。
降って湧いたかのような突然の出来事に、エリーチカも立ち上がったまでは良いが、言葉を失っていた。
「これは……一体……!」
「じ、事故かな……?」
心配そうな表情を浮かべて、エリーチカの腕を掴む琴美。道行く人々も、何が起こったのか分からないままに足を止め、遠くで赤く光る町を呆然と眺めている。
「なんだいなんだい? どっかで爆発事故でもあったのかい?」
騒ぎを聞きつけたのか、店の玄関を開けて、ミセス・ミストが顔――否、煙を覗かせる。一体どこに眼球があるのか分からないが、どうやら彼女の視界にも、燃える街の様子が映ったらしい。
「ありゃあ。これまた激しく燃えてるねぇ」
のんびりとした声だ。こんな事件や事故は、これまで沢山経験してきたのだとでも言いたそうな、そんな雰囲気。
しかし――
「……それにしても、随分な爆発だねぇ」
確かに、ミセス・ミストの言う通りだ。燃えているのは一か所だけではない。あちらこちらで轟音が唸り、遅れて火柱が上がる。断続的に、激しく燃え上がる。
「いや、これは……」
事故じゃない。
そう直感したエリーチカの隣で、ミセス・ミストが悲鳴にも似た声を上げた。
「なんだい!? 空間干渉測定器が……!?」
声に反応して振り返った琴美とエリーチカの視線の先には、細長いメーター型の計測器が、店の玄関にぶら下っていた。
半径一キロメートル以内の空間歪曲度を測定する、幻幽都市オリジナルの次元計測器・空間干渉測定器。そのメモリが、レッドゾーン……避難レベルを振り切って、警報音を鳴らし続けている。
「そんな……時空間に影響を及ぼすほどの空間破壊が?」
「こんなの、あたしゃ初めて見たよ……残念だけど、早めの店じまいさね」
状況は分からない。だが今、この都市で何か良からぬことが、確実に起こっている。さっきまでの感傷的な気分は吹き飛び、琴美は、背筋を駆ける不気味さを直感的に覚えた。
店の客たちも、最初は不安がる者もいたが、気にせず酒を飲む者がほとんどだった。しかし、窓越しに見えた炎の波を見た途端、店内は叫喚の最中に陥った。我先にへと、一斉に玄関から外へ溢れ出る。皆、表情に恐れと真剣さを含ませて。
「ミセス! あんたもすぐに非難しろ! おい! そこでぼーっと突っ立てるお嬢さんたちも、早く逃げろ! やばいぞ! 次元の穴に飲み込まれたら、バラバラに砕けちまうからなぁ!」
店内から飛び出してきた客のうちの一人が、去り際に忠告を残して明後日の方角へ駆けて行った。この都市に住む者達は皆、超自然現象の発生に敏感だ。さっきまで炎を眺めていた通行人たちも、まるで蜘蛛の子を散らしたかのように去っていく。
「あんたたちも早くお逃げ! あたしは店を畳んでから非難するから――」
それが、ミセス・ミストの最期の言葉だった。
突然、上空から何かが降ってくる予感を感じ、エリーチカは琴美を咄嗟に抱えると、その場を飛び退いた。
その何かは、ミセス・ミスト――煙の中心へ、地響きを立てて着地。
「ぎゃあ!」
断末魔。ミセス・ミストのものだ。
「ミセス!」
エリーチカが叫ぶ。だが声は無く、煙は力無く霧散して、跡形も無く消えていった。
続いて、あちらこちらで空間が、突如として歪曲を繰り返した。それはまるで、何もない空間に、水たまりが波紋と共に広がるかのような光景だった。
「あ……あ……」
琴美が、驚愕から瞳を力いっぱいに開く。エリーチカは警戒心を強め、眼前の標的――ついさっき、ミセス・ミストの命を奪った『獄卒』のような怪物に注意を払いつつも、目ざとく周辺へ視線を寄越した。
あちこちで聞こえる悲鳴。現出する異空間。顔を覗かせる、獄卒の怪物。あっという間に、エリーチカと琴美の周囲は、血と、悲鳴と、混沌へ包まれた。
その数。およそ三十。家屋の屋根に、辻という辻のあちこちに、逃げ道を塞ぐかのように立ち塞がる、異形の人型の怪物。
「まさか」
鉄仮面のエリーチカの感情が、激しく揺さぶられる。獄卒じみた怪物の額――醜悪過ぎるその顔面から漂う悪意に、慄いたからではない。
「ベヒイモス」
怪物の額に輝く紅い宝玉が、妖しい光を放ち続けていた。




