表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アナザポリス・オリジナル-怪力乱神幻瞑録-  作者: 浦切三語
第六幕 幻幽都市壊滅計画、始動
38/78

6-2 ミセス・ミストの城

 射撃訓練場『エスカルゴ』の店内は、硝煙の匂いではなく、熟成されたウイスキーの芳香で満たされていた。


 一歩店内に足を踏み入れば、そこはバーカウンターよろしく、理知的で物腰おだやかそうな男性がバーテン服に身を包み、華麗な手つきでシェイカーを操る姿が目に入る。


 カウンターには様々な年齢層の客が座り、雑談と喧噪に明け暮れていた。女性客はテーブル席にいる姿がまばらに散見されるだけで、琴美と同年代の少女となると、一人もいなかった。


 どことなく居心地の悪さを覚えながら、琴美は玄関口に立ったまま、店内のあちこちへ視線をやった。奥に長いカウンタースペース。店員の背後に酒瓶の収められた棚が置かれている。反対側の窓際の壁には往年の名銃のレプリカが所狭しと掛けられていた。


 そして、演出の一環なのだろうか。店内の床一面に、濃い白色の煙が、ゆらゆらと漂っている。


 訓練場の内装はウッド調で、シックな雰囲気を醸し出していた。敷地の割に広さと奥行きが感じられるのは、吹き抜けになっている高い天井の為だろう。


 店内に流れるのは豊かな音色のジャズ・クラシック。テーブルに置かれた、夜空に輝く星屑を思わせるランプシェードの灯す光と相まって、店内はどこか幻想的だ。


 幻想的で、非軍事的。どこからどうみても、洒落た酒場にしかみえない。


「ここは、地下に訓練場があるのです。一階は、昼間は喫茶店、夜になると御覧の通りバーになります。『エスカルゴ』は射撃訓練場の中でも珍しく、訓練場と食堂を兼ね備えている施設なんですよ」


 琴美の戸惑いを察したのか、隣のエリーチカが一言、そう口にした。


「お酒飲みながら射撃訓練するの……? それって、危なくないですか?」


 賑やかに談笑を続ける客たちの腰の辺りに視線をやりながら、琴美が声を震えがちにして言った。護身用の銃器を包んだホルスターが目に入ったのだろう。


 客同士が悪酔いした挙句に、発砲へ至らない保証はどこにもない。琴美が心配そうに眉間に皺を寄せるのも、当然の事と言えば当然だ。


 そんな琴美の心配を払拭するかのように、エリーチカがすかさず応える。


「ご心配なく。ここでの発砲は一切禁止されていますし、そもそも、拳銃を引き抜くことすら出来ません」


「なんでそう言い切れるの?」


 すると、エリーチカは実に珍妙な返答を寄越した。


「店全体に、マスターの意識が拡散しているからです」


「な、なにそれ」


 言葉の意味を直ぐには理解できず、琴美は首を傾げるしかなかった。


「エリーチカ、相変わらずだねぇ。小難しい事を小難しい言葉で話す。悪い癖だよ」


 不意に会話に割って入る形で琴美の耳に届いたのは、妙齢の女性の声である。


 思わず辺りを見回す琴美だったが、声の主と思しき女性はどこにもいない。ジーン・グラッセルのような喋る動物でもいるのだろうかと思ったが、店内には動物はおろか、カエル一匹さえいやしないようだった。


 幻聴だろうか。そう思ったがしかし、隣で佇んでいるエリーチカが、


「今聞こえた声の主が、この店のオーナーです」


 と、平然と言ったものだから、琴美は余計に混乱してしまう。現状を完全に飲み込みきれないまま、尚も視線をあちこちへ向ける。


「どこにもいないけど……」


「いるよお嬢さん。あんたの目の前にね」


 再び、女性の声。言われた通りに前を見る。


「違う違う、もうちょっと、視線を下に」


「下……煙しかないですけど」


 確かに、琴美の足元には、ドライアイスの煙のような、濃密な煙が充満しているだけだ。


 しかし琴美の予想に反して、あろうことか、その煙から『声』が聞こえた。


「そうだよ。それがあたし。射撃訓練場『エスカルゴ』のオーナーの、ミセス・ミストさ。見ての通りのガス人間。おかげで風呂に入る必要も、歯磨きする必要もなし。中々気楽でいいもんだよ」


 幻幽都市は、多彩な解釈と存在に満ち溢れている。まさか、煙などという不定形存在になっても、まだ人間としての意識を保つことが出来るなんて。


「オーナーって……あの、あちらでシェイカーを振るっている方ではないんですか?」


 戸惑いと困惑の入り混じった表情で、琴美は、先ほどのバーテン服で身を固めた男性を指さして言った。


「あいつかい? あいつは只の従業員さ。二度も言わせないでおくれよ。オーナーは、このあたしさ」


 煙の言葉を否定できる材料を、琴美は持ち合わせていない。『煙が喋る』という非現実的光景を前にしてしまっては、少女がこれまで培ってきた『常識』など、紙くず同然である。


 だが、思い当たる節がないわけではなかった。恐る恐る、尋ねてみる。


「もしかして、未生物って奴ですか?」


 琴美が直感で口にしたその内容を耳にして、ミセス・ミストと名乗った煙の塊が、静かに左右へ揺れた。


「それ以外に、何があるってのさ」


 眼も無ければ、当然口もない。いや、そもそも煙なのだから、人の姿をまず象っていない。


 それでも、琴美には当然のように、ミセス・ミストの声が聞こえてきたし、その声色に若干の不快感が込められているのも分かった。


 恐らくは、既に分かり切っている事を聞かれたことを嫌味に感じとったのだろう。ミセス・ミストの声には、若干の棘があった。


 すかさず、エリーチカが視線を煙へやり、助け舟を出す。


「ミセス・ミスト。そう機嫌を悪くしないでください。彼女は獅子原琴美さんと言って、《外界》から来た方なんです。事情を知らないのも無理ありません」


「え? そうなのかい?」


 はい、と琴美が静かに答える。


 煙の密度が先ほどよりも白さを増し、打って変わって穏やかな『態度』を見せる。


「なんだ、悪かったね。あたしはてっきり、また嫌味な客が来たのかとばかり思ってさ」


「いえ、こちらこそ……すみません」


 足元に揺蕩う煙の塊に向かって、琴美は申し訳なさそうに頭を下げた。我ながら、おかしな状況だと彼女は思った。


 人語を喋る煙に向かって謝罪する。今の光景を、父や母、クラスメイトが見たらどう思うだろう。ふと、そんな事を考える。


「いいってことさ」


 それにしてもと、ミセス・ミストがエリーチカに向けて言う。


「エリーチカ、あんたが再牙以外の人と来るなんて、随分と珍しいじゃないか。人付き合いの下手なあんたが、一体どういう風の吹き回しだい?」


「再牙に頼まれたんです。この子に射撃のやり方を教えてやれって」


「ははぁ。おもり役という訳かい。それならさっそく、紹介してあげようかね」





△▼△▼△▼△





「ウチ程でかい規模で射撃訓練場を構えている店なんて、幻幽都市広しと言えどもそうそうお目にかかれないよ」


 ミセス・ミストの言葉に誇張は含まれていなかった。確かにその通り、地下へと続く階段を下った先で琴美が目にしたのは、広々とした鉄の庭だった。


 敷地面積で言えば、一回のバーを軽く凌ぐのが見ただけで分かる。客入りは少なかった。琴美とエリーチカ、それに見知らぬ三人の男性客を合わせた計五人のみという具合だ。男性客三人は、既にブースへ入って試射をしていた。


「それじゃお二人とも、好きにおやり。あたしは上で客の相手をしてくるから。一時間したら、また覗きに来るよ」


 そう言い残して、ミセス・ミストはその真っ白で不定形な煙の体を揺らめかせ、扉の隙間に入って戻っていった。後に残された琴美が、エリーチカへ不安気に尋ねる。


「これ、料金はどれくらいかかるんですか?」


「無料です」


「無料っ!?」


「はい。朝の九時から夜の十時まで、何時間でも利用し放題です。この店では、銃器パーツを購入して、自分の銃を改造する事も出来るのですが、それにかかる費用もタダです。もっとも、それは私と再牙の二人にだけ限られた特例中の特例なのですが」


 何か事情があるのだろうか。琴美が理由を尋ねると、エリーチカは即答した。


「昔、再牙がまだ駆け出しの万屋だった頃、このお店で立てこもり事件がありまして」


 休憩用にあつらえられた椅子に腰掛けて、エリーチカは続けた。


「その時、たまたまその場にいた再牙と私の二人で、事件を解決したんです。蒼天機関(ガルディアン)の出る幕すらありませんでした。その時の恩があって、こうして良くして頂いているという訳です。ああ見えて、結構気前が良いのですよ。ミセス・ミストは」


 ところでと、エリーチカは琴美の腰に提げられたホルスターを指さして、話題を変えた。


「ちょっと、見せていただけますか?」


「拳銃を、ですか?」


「はい」


 言われるがまま、琴美は慣れない手つきでホルスターから黒い銃身を引き抜き、銃把の方をエリーチカに向けて差し出した。彼女は何も言わずに拳銃を受け取ると、特にこれといって眺めもせずに口を開いた。


「ベレッタですか」


 銃のメーカーは分からなかったが、琴美はとりあえず頷いた。


「アルファ17さんから貰ったんです」


――貴方がこれを使う時が、来るかもしれません。


 アルファ17の言葉。あの時は、そんな日なんて来るはずもないと、琴美は高をくくっていた。だが、何故かどういう訳か。今は、そんな風には思えない。どうしてと問われれば答えられない。しかし、無性にそんな気がしてならなかった。


「琴美さん」


 考え込んでいると、エリーチカの冷たき声に肩を叩かれた。


「これ、ちょっと改造してもいいですか?」


「改造って……え、でもちょっと」


「ダメですか?」


「ダメとかそういう話じゃなくて、その、勝手に改造して大丈夫ですか? 怒られたりしないですか?」


「怒られるって、誰にですか?」


「えっと、アルファ17さん、とか?」


「言っておきますが、琴美さん、別にこれを改造したところで誰に怒られるわけでもないんですよ。あのドラム缶型ロボットは少々頭が悪いせいか、言葉の足りないところはありますが、この拳銃が貴方の手に渡った時点で、これは『貴方のもの』です。幻幽都市(ここ)を出るときに返却することになりますが、別に改造をやったからといって、どうこう問題になりはしません」


 それにと、エリーチカは付け加える。


「改造した方が、絶対、貴方の為になります。ちょっと、手を差し出して下さい」


「こう?」


 琴美は右手の平を上向きにして、おずおずと差し出した。その上に、エリーチカが拳銃の銃把を乗せてくる。


「握って下さい」


 言われるがままに握ってみる。ずっしりとした、冷たい感触。自分が異界へ踏み込んだことを、嫌でも刷り込ませようとする脅迫的な重みだ。


「持ち心地はどうですか?」


「持ちにくい、かな」


 その言葉通り、琴美の細くて短い五指では、ベレッタの銃把を完全に包み込めてはいない。かろうじて、人差し指が引っ掛かっているだけだった。


「ですから、持ちやすいように改造します。一般的に女性が扱う拳銃となると、デリンジャーが挙げられますが、あれでは威力不足が否めません。故に、デリンジャーのような持ちやすさを意識し、護身に必要最低限とされる火力を持たせるように改造します。任せて下さい」


 エリーチカは立ち上がると、訓練場の脇に置いてあった工具とパーツの入っている棚へ向かった。棚にはそれぞれ、パーツ類毎にラベルが貼られていた。


「ものの五分で、やってみせます」


 テキパキと必要な工具とパーツ類を棚から取り出して、抱える様に取り出すと、脇に置いてあった大き目の作業台の上にばら撒くエリーチカ。


 そうして、本当に五分以内で改造は完了した。既製品のパーツを使って即興で組んだにしては、中々の出来栄えであった。フレームは高強度樹脂製に変えた為に重量が軽く済み、銃身はややロングレンジになっている。反動を緩やかにするためだ。口径はやや小さめだが、殺傷力は十分ある。


「一応、感触を確かめてみて下さい」


 琴美はおずおずと、カスタマイズされた拳銃を手に取った。銃把を握った時点で、持ちやすさが感覚された。改造前とは比べ物にならない程、握りやすい。銃身が伸びた為に、重心がやや前方へ偏っているような気もするが、そんなに気にするほどではない。ただ、拳銃特有の冷たい重みは、依然として気にはなった。


「それじゃあ早速、試し撃ちといきますか」


 エリーチカは琴美を連れて、訓練場の一番右端、一階へと続く階段に最も近いところのブースへ入った。ブースの左右は金属の壁で遮られていた。他の客へ配慮してのことだ。


 的は紙標的。ごくごく一般的な、人間の上半身が黒く描かれた紙製のペーパーターゲットである。客が射程距離を自由に調節できるように、天井に設置されたレールから吊り下げられている紙標的の位置は、手元のボタンで操作出来る仕様になっていた。


「まず、私がお手本を見せましょう」


 エリーチカの動きは、実に小慣れていた。近くに置かれていたヘッドホン型保護具を取り付け、自前の意匠が施された自動拳銃をホルスターから引き抜く。


「慣れないうちは、両手撃ちをお勧めします。それでは、試しに撃ってみますね。琴美さん」


「はい」


「ヘッドホン型保護具を装着して、良く見ていてください」


 琴美は言われた通り、手元に置かれていたもう一つのヘッドホン型保護具を耳に取り付けた。それを確認し終えると、エリーチカは深呼吸を一回。躊躇う事なく、引き金を引いた。


 乾き、くぐもった銃声音が琴美の耳に届く。表情を全く変えず、エリーチカは冷静さを身に纏い、落ち着いて引き金を引いていく。反動による射線のズレを修正しながら、一発ごとに発射される弾丸の悉くが的確に的を撃ちぬいていく。琴美は唖然とした表情で見守るしかなかった。


 四発目。五発目――弾倉にまだ弾は残っているが、エリーチカはそこで撃ち方を止めた。


「凄い……」


 溜息にも似た驚嘆の言葉。人形の頭部。その中心に二発、首に一発、心臓に二発、弾痕が穿たれている。拳銃から、ほぼ間断なく放たれた五連発。その全てが、人間の急所を確実に撃ちぬいている。


 エリーチカが、手元のボタンを押す。打ち抜かれ、襤褸雑巾と化した紙標的がレールに乗って奥へ流れていく。そうして、まるでベルトコンベアの様に、真新しい紙標的が宙づりになって、二人の前に現れた。


「では、琴美さん。今度は貴方の番です。まずは拳銃の上半分……スライド部分を思い切り引っ張って、放してください。それで、初弾が薬室へ送られます。そうしたら、さっき私がやって見せたように、両手の平全体でグリップを握り締めて、撃ってみて下さい」


「分かりました」


 変な緊張感に心を責めたてられつつも、琴美はエリーチカと入れ替わるようにして、紙標的の前に立った。肩から下げていたショルダーバッグを脇に置いて、深く息を吐き、緊張感を和らげようとする。


 エリーチカに言われた通りに、拳銃を構える琴美。両手でグリップを包み込むように握り、照星をじっと見据えて狙いを定め――引き金に指を掛けた。


「(――!?)」


 手首に伝わる、鈍い衝撃と痛み。ヘッドホン型保護具をつけている為に射撃音は軽減されているから、発砲音は聞こえにくい。当然ながら、発射された弾丸の軌道は見えやしない。


 がしかし、琴美はこの痛みだけで十分理解出来た。自分がたった今、生まれて初めて実弾を発射したのだという事実を、これでもかというほど自覚出来た。


 観光ツアーの体験でやっているのではない。ましてや、遊びではない。これは、生き残るための訓練。幻幽都市で過ごす間に身に付けなければならない、自分を守るための技術習得。


 不思議と、額に汗が滲み出てくる。


 琴美は、まるで何かに怯えるような表情で、五十メートル程先にぶら下る紙標的の姿を見た。どこにも穴がない。それこそ、掠ったと思しき後すらない。


 見るに見かねたのか。傍で見ていたエリーチカがアドバイスを寄越す。


「変に上手くやろうと思わない方が良いです。肩の力を抜いて、肘を固定して下げないで下さい」


「はい」


「少し、気負いすぎですね。拳銃は確かに凶悪な武器ですが、構造まで凶悪なわけではありません。引き金を引けば、それでよいのです。大事なのは、『引き金を引けば必ず発射される』という信頼性。つまり、銃を信頼するのです」


 確かに、拳銃において最も重要な要素は『信頼性』であるが、しかしそんなことを言われても、琴美には唐突過ぎて理解できなかった。


 生返事をして、琴美は構えを整えてもう一度撃ってみる。しかし、弾は紙標的の何処かに命中するどころか、全然見当違いな方向へ逸れるばかり。


 照星に傷は無い。ちゃんと言われた通りの握り方で、狙いを定めて撃っている。


 それなのに、当たらない。原因は、琴美にも何となく分かっていた。引き金を引ききる寸前で、どうしても指の力が抜けてしまうのだ。その為に、最後の最後で僅かに銃身が上方へブレてしまい、結果としてミスショットに繋がっている。


 失中の原因は、こうして簡単に予想出来た。

 しかし、『原因の原因』までは、判別としない。


 どうして引き金をしっかりと最後まで引き絞れないのだろうか。不思議と、撃っている当人にさえ、その理由が分からないときた。


 弾倉内の弾を半分程消費したところで、琴美はヘッドホン型保護具を外して振り返った。良く見るまでもなく、少女の小さな顔には、申し訳ない気持ちが滲み出ている。


「ごめんなさい。折角色々アドバイスしてくれているのに、こんな出来で……」


 小さく、か細い謝罪。だがしかし、エリーチカは『気にしなくても良いですよ』とは口にしなかった。


 というか、何も口にしようとしない。ただ、じーっと琴美の瞳を覗き込んでいる。その、人間が完全に理解することの出来ない、紺碧色の瞳で。


 暫しの沈黙の後、エリーチカが口を開いた。


「もしかしたら、琴美さん。弾が命中しないのは、貴方の気持ちの問題なのかもしれません」


「気持ちの問題?」


「言うまでもないかもしれませんが、ミスショットなんてものは、初心者にはよく見られる傾向なんです。拳銃と無縁な生活を送っていた人が、いきなり銃を手にしてもすぐには当たらない。当然と言えば当然の話です。五歳児が、いきなり補助輪無しで自転車を巧みに乗りこなすくらい、難しい。ただ、貴方はそれ以前の問題です、琴美さん」


 まるで、学校の先生が口にする言葉のように聞こえて、琴美は思わず眉間に皺を寄せた。しかし、それでもエリーチカは指摘を止めない。


「先ほどから伺っていると、貴方は拳銃を構える際、必ずと言っていいほど、悲しげな表情を浮かべています」


 そんなの、気づかなかった。


「緊張して、顔が強張るのならわかります。しかし、貴方はそうではありません。どこか郷愁じみた雰囲気を匂わせるというか……的が目の前にあるにも関わらず、何処か遠くに置き去りにしてきた、別の大切な『何か』について考えているような顔をしています。恐らくは無意識下での感情が、非日常的なこの状況と相互作用を起こし、表に出てきてしまっているのでしょう」


 エリーチカは旧式のアンドロイドであるが、かといって、人の感情に疎い訳ではない。感情を表に出せないだけで、人の心の機微はちゃんと理解できる。再牙はそう言っていたが、あの言葉に嘘は無かったのだという事をを、琴美はこの時、改めて感じた。


 現に、この旧式アンドロイドは、出会って間もない琴美の心を理解し始めている。それは何より、琴美自身が感じていた。


 陽に照らされた湖面が、時の移ろいと共に、刻々と色や形を変えていくのと同じように、人の心もまた、不定形極まる。特に、思春期真っ盛りの少女の心ともなれば、その複雑さたるや、心理学者でさえも一言では説明しきれない。


 しかしながらエリーチカは、既に理解しかけている。

 複雑な波紋を描く、水面という名の少女の心を。


 いや、理解して言っているのか?

 私の――私のこの、心の奥に潜む『どす黒い感情』を。


「ちょっとだけ裏技になりますが、いい方法を教えましょう」


 エリーチカが言う。


「涼子先生が冗談交じりで言っていたんですが、撃ち殺したいほど憎い相手を想像して撃つと、意外と良く当たるんだそうです」


 予想外な方法に、琴美は思わず言葉を失った。


「これ、初めて耳にする方は皆、琴美さんと同じような反応をするんですけど、結構効果的みたいなんですよね。私や再牙はやったことがないので何とも言えませんが、しかし、拳銃を手にした時の心構えとしては、ある種正しいのかもしれません。もっとも、琴美さんに『殺したい程憎い』相手がいなかったら、全く意味はないんですけど」


 改造された自動拳銃に暫し視線を落とし、琴美はおもむろにヘッドホン型保護具を装着し直した。


 銃把を固く握り締める。エリーチカが先ほどからアドバイスしている通りに、肘を固定して、肩の力を抜く。


 両手を伸ばし、照星を覗く。

 後は、イメージするだけだった。

 殺したいほど、憎い相手の姿を。


 ブース内は、不気味なほどの静寂に満ちている。何時の間にか、先に入っていた三人の男性客は既に訓練場を後にしたらしかった。


 琴美は、照星越しに紙標的を睨めつけたまま、微動だにしない。そうして十秒、二十秒と経過した、その時であった。


 乾いた銃声。


 弾丸が、抵抗力の薄い紙を打ち抜く。


「おお」


 抑揚のない驚きの声を上げたのは、エリーチカだった。ぱちぱちと、小さく拍手を送る。


「いいですね。その調子です」


 しかし、琴美は黙ったままだ。その表情には、怯えも緊張感も寂しげな気配すらない。


 黒の中の黒。暗黒の中の暗黒。

 琴美の顔に浮き出ている感情は、塗り替えることの出来ない色味に満ちていた。


 続けてもう一発。今度は心臓付近に命中した。相手が生身の人間なら、この時点で絶命している。


 最初は素直に賛辞を送っていたエリーチカも、異変を感じ取ったのだろう。二発目の弾が心臓にヒットした時には、拍手の代わりに怪訝な表情を琴美へ向けた。


「う……うぅ……!」


 不意に漏れる小さな嗚咽。まるで小石の投げ込まれた水面が如く、波紋となって訓練場へ広がっていく。


 琴美は鼻を啜りながら、ゆっくりと拳銃を下した。彼女の潤やかな瞳から、滂沱の如く涙が溢れるのに、それほど長い時間は要しなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ